第一七話 「変な艦長」
昭和14年12月18日、1433。
晴天の空の端に積乱雲が立ち込める中、明石艦は九州南部の大隈半島の東岸、有明湾(現・志布志湾)沖合いにあった。
雪降る青森からきた明石艦乗組員達には、九州の気候は暑く感じる。
忠と明石は発令所の外に出て服の袖を捲り上げ、沖合いで繰り広げられる第二艦隊の訓練風景を眺めていた。
風はそこそこあるのに艦は太陽に照らされて熱を帯びており、立っているだけでも暑い。
『ふぅ・・・。』
雪国体質である忠は寒さには強いが、暑さには弱い。手拭いで顔を拭きながら、ちょっと疲れた様に溜め息をする。
一方、明石は佐世保生まれだからか、少しこの気候には慣れているらしい。帽子を床に置いて涼しい顔をしている彼女は、胡坐をかいて横に置いた何か奇妙な機械のダイヤルをイジっている。それはいつもの白い光りで出現させた黒い箱状の機械で、その姿は艦隊連絡用の90式無線電話機に似ている。
そしてその機械からケーブルで繋がったヘッドフォンを耳に当てて、時折大声で笑う明石。
『なあなあ、それなんだよ?』
肩をつんつんと突付いてそう言うと、明石は得意気な顔をしてヘッドフォンを首に掛け、胸を張って答えた。
『ふふ〜ん。艦魂だってちゃあんと連絡は取り合うんだよ。もちろん私もね!』
『という事は、それ無線電話の機械なのか?』
『そうだよ。便利だけどもの凄〜く疲れるから滅多に使わないけどね。』
『ふぅ〜ん。』
『おっ・・・!』
会話の途中で微かにヘッドフォンから聞こえてきた雑音に、明石は無線機に身体を向けて再びダイアルを捻り始めた。小刻みに動かす彼女の手とダイヤルに合わせて、ダイヤルの右側にある目盛りの針が左右にフラフラと動いている。無線電話機なのに空中線やアンテナと繋がっていないのは不思議だが、それを言ってはそもそも彼女の存在その物が不思議以外の何者でもない。だがすっかり艦魂という存在に慣れた忠には、さして疑問は湧かなかった。艦魂だもんな、そう考えれば素直に理解できてしまうのだった。
『きゃはははは!』
ダイヤルの調整が終わったのか、身体を無線機から海の向こうの第二艦隊に向けて膝を抱える明石。何回か小さく声を漏らした後、再び大声で笑った。やがて腹を抱えて脚をバタバタと振る彼女を瞳に入れた忠は、一体ヘッドフォンからは何が聞こえているんだろうと明石の姿に興味を抱き始める。
『おい明石、オレにも─。』
『あ〜はっはっは!』
『・・・・・。』
彼女に無視されるのはいつもの事である。もっとも有無を言わせないように言葉を遮るのではなく、今は単純にヘッドフォンをしているから忠の声が聞こえていないだけだ。だが珍しい物を前にして大人しくしていられる程、忠は我慢強い性格ではない。ましてそれを楽しんでいるのがいつも一緒にいる相方であれば、遠慮という心遣いも薄らぐ物である。
忠は明石の頭の上にそ〜っと手を伸ばすと、ヘッドフォンの金具をつまんで上に引っこ抜いた。スルリと抜けるように頭から離れるヘッドフォンに、明石は眉を吊り上げて忠の腕を掴んで叫ぶ。
『あ!! かえせ〜!!』
突然ヘッドフォンを強奪された明石は、それを取り返そうと両腕を伸ばす。だが忠はおむろに伸ばした右手を彼女の顔にあてがった。虚しく空を切る明石の手を横目に、左手に持ち替えたヘッドフォンを忠は耳に当てた。
『こんの馬鹿があ!!!』
聞こえてきたのは甲高い声の怒号で、その勢いに思わず忠の首が傾く。ふと見た海の向こうの第二艦隊では、4本煙突の二等巡洋艦が指揮下の駆逐隊を率いて雷撃運動をしている。忠も一度聞いたことのある声にあの艦影、ヘッドフォンから聞こえてきた声の主が神通である事を彼は悟った。
『誰がそんな旋回を教えた、朝潮!! もっと鋭く曲がらんかぁ!!!!』
『ひぃ! は、はいぃ!』
朝潮とよばれた少女の声が聞こえると同時に、海の向こうでは神通艦に続く駆逐隊の先頭艦が急旋回しはじめた。艦中央の乾舷に記された艦名はちょっと遠くて見えづらいが、どうやらそれが朝潮艦らしい事を忠は察する。そしてふと今の光景に、彼は記憶の片隅にある艦魂という者の特徴を思い出した。
以前聞いた明石の話に寄ると、実際は艦魂の意思では船を動かす事は出来ないという。だが、舵の効き具合、砲の微細な角度の誤差等、微妙な加減は艦魂の身体や精神の具合に左右されるというのだ。。
目の前で繰り広げられる光景は、その話を忠に良く理解させた。
やれやれ、相当シゴかれてるな。
張り切る神通の声と怒鳴られる彼女の部下の悲鳴に、そんな言葉を脳裏に過ぎらせて忠は笑った。
『あはははは・・・、あ!』
つい隣にいた明石を忘れてしまった忠の隙を見逃さず、彼女はヘッドフォンを忠の頭から引っこ抜いた。
『かえせぇ!!』
両手でヘッドフォンを持ったまま、明石は怒った顔を向けてくる。ぷっくりと頬を膨らませて忠を睨みながら、明石は再びヘッドフォンを頭から被って耳に当てた。
『そんなに怒るなよ。ちょっとくらい、いいじゃん。』
『これ長く使えないの! 疲れるからダメ!!』
『はいはい。解った、解った。』
明石は頬を膨らませたまま、ヘッドフォンを両手で耳に押し付けて取られないように警戒している。楽しめる事を分かとうとしてくれないのは、明石にしては珍しい。
彼女の言葉通り、無線電話を使う事は余程体力のいる事なのだろう。
そう思う忠は納得しながらも、彼女の体力の回復に大きく貢献している自分を差し置く明石に、少し口を尖らせた。
暇そうに第二艦隊の訓練を眺める二人だが、別に仕事をサボっている訳ではない。艦隊訓練では泊地に入るのも順番や位置がちゃんと決まっている為、二人を乗せた明石艦は第二艦隊が訓練を終了して泊地に向かうのを待っているのである。午後の課業中という半端な時間に到着したのが原因だった。
同日、1832。
第二艦隊で埋め尽くされた有明湾に、月の光りが差し込む。所狭しと密集した所属艦はそれぞれの持てる錨を全て投錨して、肩を寄せ合う様に静かに波間に浮かんでいた。
30隻近い大艦隊の錨泊ともなれば、いつもの片方の錨を下ろしただけの単錨泊では潮に流れた艦体が他の艦と衝突する危険がある。また、軍港ではない有明湾には、艦位保持用の繋留ブイも無い。このような時は両方の錨を下ろした双錨泊とし、さらに艦尾の小錨をおろして艦の動きを完全に安定させる物である。
明石艦も例に漏れず艦首の両舷と艦尾から錨を下ろしている為、その日の明石艦の中は艦上である事を忘れる程に動揺が少なかった。
『砲術士、今日はまた多く買っていきますね?』
『ん?ああ、ちょっと腹減っててね。』
酒保番の主計兵からかけられた声に、忠は苦笑いして返事をする。主計兵の言葉通り忠の買い物はいつも以上にその量が多く、彼の紙袋に品物が入りきらないという事態になった。やむなく彼はお酒の瓶を紐で縛って、片手で吊るして持っていく事にする。手に余るほどの品物の量は彼の部屋に集う仲間達の笑顔の量に比例するが、同じくそれに比例して少ないであろう自身の月給を忠は憂いて溜め息をした。
仕方ないよな、久しぶりにみんなと会うんだし。今日は我慢するか。
「今日は」と言いつつ、毎度の様にそう自分に言い聞かせる忠。片手に吊るした酒の瓶が意外に重いのか、身体を傾けながら部屋に向かって彼は歩き始めるものの、その足取りはどこか軽やかだった。
そして予想通り、忠の部屋には勝手知ったる仲間達が押しかけていた。
忠の部屋は決して広い部屋ではない。入り口の両脇にはクローゼットと机、少し間を空けてベッドがあり、床に明石の布団を敷くと足の踏み場が無い程の狭さである。その狭さの中、定位置であるベッドの上には明石と、神通、那珂が陣取っており、下っ端の霞と霰は床に座布団を敷いて座っていた。
机の椅子だけが忠の定位置であるのだが、部屋の主が彼である事を考えると理不尽極まりない話である。
彼が経に戻った頃には女子5人は既に話に花を咲かせており、お互いの近況を伝え合っていた。忠が持ち帰ったお菓子やお酒などの飲み物が、みんなの話し声の音階と勢いを一段階あげる。
『森さん、見て見て!!』
机でスルメを口に挟み込んでいた忠に、霞が肘を突き出して声をあげた。ちょうど忠の足元の辺りで元気に笑う霞。そしてそんな姉につられる様に、霰も肘を突き出してきた。
『うん?』
よく見ると彼女達の臂章が目に入った。赤い刺繍で施された模様は、錨の上に星が一つ。その臂章の意味を瞬時に読み取った忠は、優しく微笑んで二人を祝福する。
『おお、二人とも一水になったのか。おめでとう。』
『へっへ〜ん。もう新米じゃないですよ!』
『森さん、似合っとるどすか?』
『あははは、よく似合ってるぞ。霰。』
忠は背を丸めて二人の肩に手を乗せた。麻色の肌に白い歯を見せて笑う霞と、細い糸目で人形のように笑う霰。少し見ない内に、二人の肩幅が少しだけ広くなった様に忠には見える。今日の昼間にも見られた様に、鬼の戦隊長である神通に毎日の様にシゴかれてきた二人。その苦労もようやく報われて来たのだろうと忠は納得し、二人に負けないくらいに明るい笑みを返してやる。
満面の笑みをそれぞれに向ける3人。しかしふとそこに神通の声が切り込んできた。
『ふん、馬鹿者が。私から見れば、一水も二水も変わらん。一水になったといって私の扱いは変わらんぞ。』
『『はい。』』
人間の世界でもこういう風に部下を素直に褒めてくれない上司というのはよく居る。もっとも不敵に笑いながら言葉を発した神通の心の内は霞と霰も含めて、ここにいる者全員がそれなりに理解している。神通は一言『気を抜くな。』と言いたいのだが、それを言えない不器用な人なのだ。それを解っている霞と霰は何食わぬ顔で返事をした後、舌を出して苦笑いしながらお互いの顔を見合っていた。
『森さん、大湊での任務は順調でしたか?』
ベッドの端でニコニコと笑みを浮かべながら、那珂が口を開いた。
姉の神通とは間逆の低くハスキーな声の那珂は、性格や物腰も姉とは間逆である。ベッドに腰掛けてふてぶてしく脚を組んで鋭い眼光を伴いながら酒を飲む神通の横で、那珂は自愛心溢れる笑顔に崩した正座で、草原に咲く一輪の花のように座っていた。相変わらず上品に甘納豆を一粒ずつ摘んでは口に運ぶ彼女。顔つきだけは神通と似ているが、歳相応に落ち着いたなんとも綺麗な女性である。
そんな那珂に対して忠は、女性像という点においては明石以上に好感を持っていた。自然に忠の表情は緩み、声も弾む。
『ああ、何事も無かったよ。お土産でも買ってくれば良かったね。』
『とんでもないですよ。あ、でも土産話はちょっと聞きたいですね。』
『土産話かあ、とりあえず明石が寒さに参って困ったかなぁ。あははは。』
『まあ、ふふふ。』
那珂の笑みに忠の口がつい軽くなる。笑い合う二人だったが、その会話を快く聞けない明石は口を尖らせる。那珂とは神通を挟んでベッドの反対側にうつ伏せで寝転がる明石は、頬杖をついて忠を一睨みしながら言った。
『なによ、話のネタにして・・・。』
『あはは、ごめん、ごめん。』
『・・・・・。』
不機嫌な事この上ないという態度の明石に忠はいつもの苦笑いで誤魔化そうとしたが、明石は目が合うとプイっとそっぽを向いて酒の入った碗を口につけた。
やれやれ、マズったな。
そう思って頭を掻く忠とそっぽを向いたままの明石に、神通が溜め息をして声を上げる。
『なんだ、つまらん。少しは距離が縮まったと思ったんだが・・・。』
『・・・・・。』
神通の声にも明石は無反応である。どうやら彼女は本格的にへそを曲げたらしい。
そんなに話のネタにされたのが嫌だったのだろうかと考えると、ちょっと暗くなった部屋の空気の責任が自分にあるように忠は思えてきた。心なしか今の彼には、自分に対して向けられてくる霞の視線が胸に刺さるように感じる。なんとかせねばと思うものの、普段から笑って誤魔化すクセを振りかざす忠には選択肢は一つしか思い浮かばなかった。
『あはは、距離って・・・。あはは─。』
『新婚旅行みたいなモノだろう。まったく。』
『お、おい! んな訳無いだろ!』
『冗談だ。顔を真っ赤にして怒鳴るとは、まだまだ子供だな。』
『う・・・。』
言葉を詰まらせる忠に、神通はニヤニヤしながら酒を一飲みした。足元では霞と霰が口に手を当てて笑い声を押し殺している。見た目の上でも年上の神通に上手く踊らされて子供扱いされた事に、忠は口をへの字にして机の上にある酒の入ったお碗に手を伸ばした。
クソ、からかいやがって。
そう思いながらも一人で慌てて、未だに赤さが残る自分の顔に気づく忠は肩を落とした。不甲斐ない自分とからかわれた怒りから来るもどかしさを振り切るように、忠はお碗を口につける。
『あ、そう言えば神通姉さん。』
『うん、なんだ?』
『新しい艦長さんはどんな感じなの?艦魂が見えるんでしょう?』
那珂の問いかけに、忠は驚いて神通を見た。
実は自分以外に艦魂が見える人間と、忠は関わった事が無い。そういう人種は珍しい部類とは彼女達の言葉だが、自分と同じ境遇を持った人間には興味が湧くという物だ。
むすっとしていた明石も興味が湧いたらしく、目を輝かせて神通の顔を覗きむ。
そして何より、神通は過去にも艦長を務めていた人に艦魂が見える人間がいた事がある。竣工間もない神通に優しく接してくれた良い人だったそうだが、美保ヶ関事件で余りにも悲劇的な別れをしてしまった事が彼女の心に深い傷をつけていた事は、ここにいる誰もが知っている事実である。
だが数少ない艦魂と触れ合う事が出来る人間をまたしても艦長に迎えられるというのは、彼女にとってはとても幸運であろう。
今度こそ仲睦まじく人間と一緒に生きていって欲しい。
そう思いながら忠は神通の顔を覗いたが、彼女は彼の予想とは反して片方の眉をピクピクと動かして顔をしかめている。
『あのジジイか・・・。』
神通の明らかに憎しみが篭った声に、霞と霰は気まずそうに引きつった笑みを浮かべている。何か一癖ある人物らしく、那珂に注がれた酒を神通はヤケを起したかのように勢い良く飲んだ。
同じ戦隊所属の彼女達なら知ってるかなと考えた忠は、足元に座る霞の方をつつくと背を丸めて彼女に顔を近づけ、そっと自分の口元に手を当てて静かな声で尋ねた。
『・・・霞、どうしたんだ?変な人なのか?』
霞は相変わらず口元を引きつらせながらも苦笑いすると、神通がこちらを見ていない事を確認して忠に静かに声を返した。
『・・・戦隊長、お尻触られたんですよぉ。もう毎日、後ろからデレデレと鼻の下伸ばして見て来るんですからぁ。』
『・・・え、ホントかよ?それ?』
ヒソヒソと話す二人の会話だったが、さして広くも無い忠の部屋では小声で話しても意味が無い。当然、その声は神通の耳にも届いていた。
『霞ぃ!!』
『ひうっ・・・!』
眉を吊り上げた神通の怒鳴り声に、霞はビクンと身体を震わせた後に硬直する。鬼の上司を怒らせてしまった事を察した霞は、顔を下に向けて両目を瞑って肩を震わせた。神通は上目遣いで日本刀の様に研ぎ澄まされた視線で睨んでくる。怯える霞を黙らせた後、話し相手であった忠にも神通は眼光を向けてきた。
今にも蛙に飛び掛ろうとする蛇のような彼女の目。
いや、怖えぇ。
一瞬にして神通の視線に突き刺され、忠は床に顔を向けた。この世には知らない方が身の為という事もある。そんな事を忠は身に染みて感じながら、霞と同じように顔を歪めて縮こまる。
『ねえねえ、神通〜。その人ってどういう人?私や森さんみたいに新人さんなの?』
そんな中、少し酒に酔って頬を赤くした明石は、わざとらしく無邪気な声をあげて神通の袖を引っ張った。神通は明石の顔に目を向けると、怒りを醒ますように溜め息をする。やがて再び酒を飲んで目を閉じる神通の顔からは、怒りの色がサーと引いていく。
『・・・・・ふん。』
お尻を触られたとは一言も発しない事に、忠は明石が助け舟を出してくれたという事を悟って安堵した。同時に神通も少し落ち着いたのか、脚を組みなおすと布団の上にあった紙包みからスルメを口に運んで話し始めた。
『まあ、どっちかと言えばベテランだな。駆逐艦や掃海艇の勤務で随分過ごして来たらしい。その証拠に指示や命令は現場主義で的確だった。判断も迅速だから、展開の速い水雷戦闘には向いてる方だな。』
『ふぅ〜ん。』
『まあ、良かったじゃない。神通姉さん。』
明石の声に続いた那珂は、機嫌が治った神通の肩に手を乗せて微笑む。だがそんな那珂の笑みにも、神通は呆れた表情を崩さぬままに俯くと頭を掻いた。サラサラと流れる長い前髪の奥に、神通の面白くなさそうな事この上ないといった顔がある。
それが先程の霞の言葉かと明石は察し、少し意地悪そうに笑う。
『ふん。だが霞の言った通りのスケベジジイでな。まったく、あれで帝国海軍軍人か・・・。』
愚痴り始めた神通は吐き捨てるように言った。だが酒が効き始めてきた明石は神通の脚に顔を乗せ、彼女の顔を覗きこみながら声を返す。
『にひひひ。神通の事が気に入ってるんじゃないのぉ?』
『馬鹿者が。』
ゴンッ!
『ぐえっ・・・!』
面白可笑しく神通をからかう明石の頭に、神通の軽いげんこつが振り落とされる。170センチを超える身長を持つ神通のげんこつは、軽いといっても調子に乗った明石を黙らせるのには充分だった。明石は両手で頭を抑えて、激痛に涙を浮かべている。痛そうな事この上ないが、明石のその姿を見て神通と明石以外の者達は笑った。明石とて怒って報復に出るような真似はせず、涙目で神通を見返す程度である。
彼女にとって心許せる友は神通だけなのだ。お互いに殴りあった彼女達は、その心の内を一点の曇りもなく読み取れる。明石にとってはずっと年上で艦型も違う神通だが、じゃれあうその姿はまるで本当の姉妹のようでもある。
そして笑い声が木霊する部屋の中、それまで静かに話を聞いて笑っていた霰が口を開いた。
『でも、あの木村さんて方は、誰にでもあういう風に声をかけるようどすなぁ。』
意味深な彼女の言葉に、隣で笑っていた霞が不思議に思って声を掛ける。
『え?霰、何か言われたの?』
霞は身体を曲げて霰の顔を覗きこみ、口に甘栗をヒョイッと投げ込んで霰の声に耳を傾ける。霰はちょっと困った様な顔をしながらも、歪んだ笑みを浮かべて口元を指先で撫でながら言った。
『あはは、「一緒にお風呂入ろう。」て言われたわぁ。』
『うわぁ、アンタも大変だねえ。』
神通の従兵として勤務する霰は神通艦への出入りが自分と比べると多いのは当たり前だが、おかげでそんな苦労も多いのかと思って霞は苦笑いを伴って同情の言葉を返す。二人の会話に忠もクスクスと笑っていたが、突如としてベッドから発せられる強烈な殺気に3人の表情が凍りついた。視線をベッドに向けようとした時、神通の不機嫌さがよく伝わる低い唸り声が響きだす。
『あんのジジイィィ〜〜〜・・・・!』
地鳴りが聞こえてきそうな神通の顔。強く噛んだ彼女の歯から、咥えていたスルメがブチっと音を響かせて床に落ちた。再び怒りの光りを帯びた瞳になった神通だったが、懲りない明石がまたしても彼女をからかった。先程のそれと同じ様に、神通の脚に顔を乗せて一言。
『にししし、大変だねぇ。神通が入ってあげれば?』
『明石ぃ!貴様、もう勘弁ならん!!!』
完全にキレた神通は脚の上にあった明石の顔に手を伸ばすと、両手でおもいっきり彼女の頬をつねって横に引っ張った。食い込んだ神通の爪と手加減無しで引っ張られる頬に、明石は激痛を走らせて大声で泣き始める。
『い、いだい、いだいぃぃ〜〜!!!!』
『もう一度言ってみろ、おらぁ!!!』
泣いて詫びる明石だが、怒らせる相手をどう考えても間違えている。『まあまあ。』と宥める那珂にも、神通は明石の頬から決して手を離そうとしない。その間もずっと両頬を広げられて大粒の涙を流す明石の顔。
なんとまあ醜いツラだ。
懲らしめられる相方の酷い顔に、忠は笑いながら酒を一口飲んだ。
那珂の必死の救助作業によりやっとの事で神通の攻撃から開放された明石だが、その頬には神通の爪によってつけられた赤い痕が真横に走っていた。幾重にも水平につめ痕が残った彼女の顔は、まるで猫のようだ。もちろんその顔は全員に笑われ、明石は那珂の胸に顔を埋めてすすり泣く。
やれやれ、馬鹿な奴だ。
相方に呆れながらも噂の神通艦艦長に興味が湧いた忠は、明石の顔を申し訳なさそうに笑う霰に向かって声を掛けた。
『なあ、霰。その人、名前は?』
『はい、木村昌福大佐どす。12月5日に転任してきはったんどす。』
『へぇ〜。』
この木村昌福大佐が忠や明石にとって数少ない人間の共通の知人となっていく事を、まだ二人は知らなかった。
そして後年、この木村大佐と忠の足元で大笑いする霞は、帝国海軍による水上戦闘での最後の勝利を飾るという数奇な運命を辿るのであった。