第一六九話 「釣りと天体観測」
昭和16年9月中旬。
秋の足跡もそろそろ聞こえてきそうな時期ながらも、夏の暑さが余韻を引き摺って気温はまだまだ高めなこの時期だが、あんなに騒々しかったセミ達は既に余韻も残さず消え、入れ替わりに風に舞うのはトンボの群れである。
しかし呉軍港の波間は相も変わらずで、多数の艦船を浮かべて陸の緑を映す面は無く、戦備促進工事によってっここ最近は止む事のない重機の合唱が波音すらも打ち消している。
工員達の多忙は推して余りある物であったが、その反面で工事の順番を待ったりする艦の乗組員達にとってはちょっと手持無沙汰な日々になってきている。工事が終わるまでしばらくは呉に待機してるので訓練や演習の類は殆どなく、機器の点検なんかもこの頃には既に大体終わってしまっていた。かといって一日ずっと甲板で遊ばせとく訳にもいかないので、多くの艦では特に下士官や兵を対象にして墓参休暇を出す事になる。
ほんの一時ながら艦としてのお休みに入った訳で、この点では乗組員達も艦魂達も変わらない日常になった。
さて、そんな呉軍港の一角、詳しく言えば沖合の艦からカッターで呉軍港に上陸する際に玄関となる、堺川河口すぐ横の上陸場。この辺りから潜水学校に至るまでの海岸沿いに、呉鎮籍の駆逐艦達は数珠繋ぎに横列を組んだ形で繋留されている。隣り合う艦の上甲板同士は板を渡されて通行も可能で、端から端の駆逐艦まで歩くと艦上生活をしながらそこそこの散歩も楽しめる次第だ。
そしてその駆逐艦群の中の一隻である雪風艦の艦首甲板には、本艦も含めた一六駆所属の駆逐艦の艦魂4名の姿が有った。
『・・・天津風さあ、ずっと海見てて飽きない? 水平線だって見えないのに。』
『う〜ん、別に。でも結構落ち着くよ、時津風。』
『あ〜、お腹減ったな〜。雪風姉さん、まだ釣れないのぉ?』
『おい、バカ。海覗き込むなよ、初風。魚逃げちまうだろ。』
本日午前から行っていた駆逐隊全員での連合体勢把握訓練を終えたばかりの彼女らも、今日この後はお休みとなっているので各々の表情は決して堅い物になってはいない。疲労こそ少し滲んでいるが、怖い怖い上司に怒鳴られたり尻をぶっ叩かれたりするよりは百倍楽だったし、夏潮、黒潮両名が絡んだ多重衝突事故以来、重点的に取り組んできた体勢把握にはそれぞれだいぶ慣れてきたので、精神的にも余裕を持てている。
艦首旗竿もすぐそこの乾舷付近であぐらを掻いたり膝を抱えたりして甲板の上に腰を下ろし、呑気そうに声を上げているのは初風と、二水戦最年少の天津風、時津風。
気温が高いここ最近は艦内温度抑制の為に艦首甲板には大きくケンバスが張られており、横に並んだこの3人はおかげで直射日光を浴びずに時折吹く潮風に涼を求める事も出来る。緩い雰囲気に満ちて天津風辺りはやがて口を大きく開き、目尻に涙を少し溜めながら猫の様な大あくびをする始末。眼前に短気で粗暴な雪風が背を向けてても、今日はその言動におっかなびっくりするような様子は見られない。
なぜなら今日の雪風は趣味に打ち込んでいてこれでも機嫌が良い上に、あわよくばその釣果によって皆で美味しい思いもできる可能性があったからだ。
荒っぽい言動で二水戦きっての悪ガキたる雪風だが、意外にも彼女の趣味は釣りである。人間の水兵さん達が制裁を食らう際に用いられる樫の棒をチョロまかして釣り竿にし、細い帳簿紐を繋げて作った物が釣り糸。釣り針に至っては缶詰の空き缶を工具でちぎって加工したという、雪風お手製の釣り道具は結構本格的で、最近では念入りに乾燥させた木片を使って浮きまで揃えるというお熱の入れ様だ。
腕前の方はまあそこそこと言った所か。必ず何がしかの獲物を釣り上げるという事は無く、むしろボウズが続く方が多い。三回に一回釣れたらラッキーと言った感じだった。
最近のんびり呉に錨を下ろしてばかりで、人間達の様に陸に繰り出して遊ぶなんて事もできないので、初風達は3人はそのラッキーに乗っかろうとしている次第。
雪風も邪険にして追い返すつもりは無く、時折軍帽で顔を仰ぎながら海面に穿たれた糸に意識を集中している。先日上司から口外厳禁を命じられて提案を封殺された事への苛立ちも、趣味への没頭で少し忘れる事が出来たので気もだいぶ楽であった。
そんな訳で、目に見える物でリノリウムみたいな色合いの茶髪を除けば、今日は結構お利口さんに大人しくしている雪風であったが、もしかしたらそれを神様が愛でてくれたのか。
それまでふわりふわりと呉のさざ波に揺られていた浮きが、突如として不規則な間隔で小刻みに動き始めた。
『ぬお?』
『あ。雪風ねーちゃん、来た?』
『ほんと!?』
『バカ、オメーら騒ぐな。まだつついてるだけだ。』
一番最初に気付いた雪風の思わず上げた声に、その背後のキャンバスの影の下で涼んでいた妹達3人が色めき立って、一斉に雪風のすぐ横へと近寄ってきた。ただ、経験から雪風はまだ獲物は針に食いついてないと判断し、片腕を宙に掲げてそんな初風らの騒ぎを抑えつつも舌なめずりをする。上手い具合に針に食いつけば即座に引き上げてやると意気込んであぐらを直し、顔に比して大きな釣り目を鋭くして浮きの動きに目を見張った。
初風達はやきもきしてるが彼女だけは冷静という、第一六駆逐隊の物としてはちょっと珍しい光景だ。
『・・・まだかな?』
『時津風、雪風姉さんの邪魔にならないようにもうちょっと離れなきゃ。』
『このアタリだと小さい奴なのかな? それとも大物?』
『あーもー、だーってろよ・・・。』
10台後半のあどけない少女の顔立ちが横一列に並ぶ前で、浮きはしばしちょんちょんと小さな動きを続けた。誰となく息を潜めて目を見開き、頭上の陽光が注ぐ熱気を一時忘れて注視していた最中、前触れなく浮きがこれまでで一番の大きさで左右に動いた後、まるで投げ入れた石の様に一瞬の内に海中へと消え去っていく。
待ち焦がれていた針への食いつきに至った事の証左で、瞬間雪風は大声を上げながら上体を目いっぱいに反らした。
『うっしゃ! 食った!』
『おお、やった!』
雪風はすぐさま両腕に思いっきり力を込めて竿を立て、さらにピンと張った糸を引っ張るべく手に絡めようとするが、片手にした瞬間いきなり竿は激しく暴れてその先を海面へと向ける。樫の棒なのでしなりが無く、彼女は前のめり転びそうになるのを慌てて堪えた。
『うお! あんだぁ!?』
『す、すごい引きだ!』
『大物なんじゃない!?』
『す、すげー! 浮きが魚雷みたいに走り回ってる!』
雪風にとっても大いに意外だった引きの強さに全員が驚いたが、これほどまでに暴れるのならその姿は見ずとも獲物の大きさは保証されたも同然。
皆一気に沸き立って一斉に立ち上がり、渾身の力を込めて竿を立てる雪風をみんなで手伝い始めた。4人がかりでの釣りなんて聞いた事も無いが、そこは実の姉妹にして日頃から寝食を共にしている一六駆の面々なので連携に不備は無い。初風がすぐさま雪風の傍に寄り添って竿に手を伸ばし、勢いに負けそうな竿の操作に協力し始めると、時津風は乾舷から首と腕だけ出す形で甲板上にうつ伏せに寝そべり、姉達が竿を立てるタイミングに合わせて海中に伸びる糸を手繰り寄せ、天津風はそれをすかさずすぐそこに有った繋船時に太いロープを括るボラードへと巻き付けていく。
誰が何を言う訳でもなくそれぞれの役割を瞬時に判断して行動するのは慣れた物で、怖い怖い上司に尻をぶっ叩かれてきた修行の成果と言えるかもしれない。
『おっしゃ! 初風、行くぞ! せーの!』
『くお! 天津風、時津風、今だ!』
『てーい! ぬおー!』
『そのままね、時津風! おし、巻き付けた! 一旦、手離しても良いよ!』
チームワークなら巡洋艦や戦艦のお偉方、先輩方に劣らない駆逐艦の艦魂達である。
背丈もみんな140センチ台と小柄ながら抜群の連携でボラードをリール代わりとし、勢いと重さに優れる海中の獲物を徐々に甲板へと引き摺り上げていく作戦に一致協力して邁進。やがて一周だけだが糸を巻き付けるのに成功した天津風が手を上げて姉達に合図を送ると、竿を操る要の無くなった初風と雪風が時津風の傍まで走り寄って糸の引き上げに手を貸し始めた。まさに流れるような協同具合で、一個駆逐隊の艦魂達の面目躍如といった所か。
暑さで生まれがちな倦怠感も忘れ、各々がここぞとばかりに元気な声を張り上げる。
『いくぞ! せーのっ!』
『そーれ! そーれ!』
『天津風、一周ずつで良いから巻き付けて! 3人がかりでも相当重い・・・!』
『待って! ・・・いよっし、巻き付けた! 引っ張って良いよ!』
『おし! せーのっ!』
雪風艦の艦首甲板はにわかに騒がしくなり、たまたま近くにいて歓声にも近いその声を耳にした駆逐艦の仲間達の視線も集まり始めた。
やがて『なんだ、なんだ?』とわざわざ様子を見に来る艦魂達の姿も甲板上に散見されてくるようになる中、乾舷から下を覗き込んで糸を引っ張る役目の時津風の目には、海中で時折鈍い銀色に腹を輝かせるとても大きな魚影が映る。待ちに待った釣果の対象で、4人がかりで相手したというだけある中々の大物だった。目測ながら彼女らの分身に装備される九三式魚雷の直系よりも全長は大きく、ちょっとしたら時津風の身長の半分くらいにも届きそうな勢い。釣り針に食いついているのは本当に魚なのかと一瞬疑ってしまう程だ。
『うあ! で、でかい!』
『へへ! そりゃ大物だーな、こりゃよ! オメーら、もうちょっとだ! 気ぃ抜くんじゃねーぞ!』
『ほいさー!』
持ち前の姐御肌な性分で雪風が荒っぽい声を放ち、続いて妹達が一層の覇気を纏って糸を引く手に力を込める。一六駆全員で一糸乱れぬ連携作業を堅持し、最後の瞬間まで誰一人として手を抜かない姿勢を皆で貫いたのは、もちろんここ最近では希に見るご馳走にありつけそうだとという物欲も無い訳ではなかったが、げんこつや怒号と隣り合わせで日々ずっと鍛えに鍛えてきた二水戦の駆逐隊における艦魂達の理想的な在り方を発露した物であった。おしむらくはお仕事にではなく釣りなどという物にでてしまったのは、この際無粋な指摘かもしれない。
その内にとうとう観念したのか、全員で引っ張り上げた糸の先でぐったりとした獲物が甲板上に転がり上がって来た。引き上げの勢いが強すぎて4人全員が一斉に尻もちをついてしまうが、70センチ近くに及ぶ全長と肉厚な身を持ち、黒と鈍い銀色が混ざり合う色合いの魚体が甲板上で跳ね回るのを目にするや、彼女らの目は満天の星々の如く爛々と輝く。
お尻の鈍痛も、暑さも疲労もすっかり忘れて思わずみんなで叫んだ。
『なんだ!? 見た事ないけどすっごく大きい魚だよ!?』
『あ! 赤くないけどタイじゃない、これ!?』
『タイ!? お刺身いける!?』
『うは! これ、クロダイじゃねーか! 刺身行けるぜ!』
『やったー!』
なんとなんとお正月にしか食べれないような魚の大物と解り、雪風達は笑みを弾けさせて大喜び。暴れるクロダイにみんな覆いかぶさるようにして縄で締め上げ、高揚した気分に押される余り両腕で頭上に獲物を掲げた雪風を中心に据えて万歳を三唱。4人揃って有頂天になり様子を見に集まっていた周りの仲間達に応えもせず、『わー!』と声を上げて、まるで夜店の連なる前でお小遣いを貰った直後の子供たちの様に一目散に駆けだした。
さっそく獲物をさばく為である。お料理なんて普段からほとんどせず、それだけの人生経験も無い彼女達であるが、三枚おろしからのお刺身への切り分けなんて朝飯前にこなせる人物の分身が同じ呉軍港に、それも駆逐艦らが連なって繋留される地点のすぐ傍に在泊しているのを皆が知っていた。
誰あろう帝国海軍艦魂社会で一番の料理人さんである、給糧艦の間宮艦の艦魂である。
『ひょえー、こりゃずいぶん立派なクロダイだ。まさか工廠前でこんなん釣れるとはねぇ。』
『うッス! それでお刺身をお願いしたいッス! もちろん、いつも通り3分の1は差し上げるッスから。』
『いやー、こんだけの大きさなら4分の1で良いよ。しっかし、さばきがいが有るね〜。はは、燃えてきた。』
雪風らの来訪、次いで魚の調理のお願いを間宮は快諾してくれた。
彼女は一応主計科士官という立場を艦魂社会では頂いてる筈なのだが、小太りなその身体に袖を通しているのは半袖シャツと作業衣の下袴、次いで前垂と呼ばれる烹炊所で実際に作業する乗組員さんが着ている白いエプロンと相場が決まっており、軍装姿の方が珍しい。下っ端の雪風らからしてもあんまり海軍軍人に見えないのが本音だが、その反面人懐っこい笑みと全体的に丸いシルエット、分け隔てなく誰にでも気さくに接する人柄を慕われて彼女は結構な人気者であり、手製の美味しいお菓子をあげたりする事でも評判を良くしている。あの神通ですら、お菓子が貰えなくなるのを危惧して間宮からのお小言には我慢を示すほどだ。
そして釣りを趣味にしている雪風はそんな間宮に、釣果が有った際はお魚の調理をいつもお願いしている。報酬として釣れたてのお魚のおよそ3分の1を間宮にあげているのだが、なんでも彼女は呉在泊時に限って現在鋭意建造工事中の大和艦の艦魂の食事を専属で担当しているのだそうで、新鮮なお魚はその食材とするらしい。
もっとも、そんな事はこの際どうでも良い雪風達、一六駆の面々。
大はしゃぎしながら間宮の後に続いて艦内へと足を進め、烹炊所にてお魚が切り分けられるのをみんなで見学する。一般的な物とは違う台状に設置されたまな板に間宮が正対し、実に華麗なる包丁さばきを披露するやあれよあれよという間に大きなクロダイは解体されていった。
『はえー、やっぱ間宮さんすごいや。さっきウロコ落としてたばかりなのに。』
『もう頭も落ちちゃったね。あれ、頭使うんですか、間宮さん?』
『ああ、いわゆるガラだよ。これでダシ取るとおいしいお吸い物できるんだよ。』
『それに結構旨い肉も付いてるッスよね? 顎とか目の裏の辺りとか。』
『はっはっは。雪風、これまた通な所知ってるね〜。』
『雪風ねーちゃん、魚好きだからなぁ。』
気さくな間宮も加わってわいわいと騒がしい烹水所には極めて明るい空気が満ち、お魚の生臭さに不満を述べる者なんか誰一人として現れない。時折、切り落とされた尻尾や背びれを掲げて悪ふざけしたりもしながら解体を見守り、5人前程もあろうかというお刺身の盛り合わせが眼前に並ぶ頃になると皆一同に垂涎。コロコロと表情を変えて喜ぶ雪風らに思わず間宮も目を細めた。
やがて刺身を詰め込んだ飯缶を肩に下げて上甲板に並び、深々とお辞儀をして礼を述べる雪風らに、間宮は軽く手を上げて応えながら是非次の機会も遠慮くなく訪ねてくれと口にする。雪風みたいに自らの手で食材を調達してくれるなら、大和の食事を用意するに当たってわざわざ人間達の糧秣に手を付ける手間も省けるし、新鮮この上ない釣れたてのお魚が手に入るなら尚更だ。
なぜなら大和はその分身が帝国海軍最新鋭の戦艦にして、間違いなくいずれ連合艦隊旗艦の立場に君臨する将来が有る。そうなればたとえ戦が無いとしても、外国海軍艦艇との交歓や仲間達との交流の面で何事も一流を求められる事になる。軍人とは言え、偉いお方が安いビールに缶詰でも肴にして晩酌してるなんて絵にならないし、逆の意味で分相応も甚だしい。その双肩に海軍と国家の威信が掛かっている者として、そんな品格では困るのだ。故に心技体の全てにおいて一流でなければならないというのが、世話役の中心に位置する浅間や間宮、長門に陸奥なんかの大和に対する期待と希望の根本とされている。ましてや彼女は、「一流の淑女」という言葉が大事な教育目標とされる、朝日一家の末姫に当たるのだから是非もない。
食事当番の間宮にできる事として舌の面でも一流を身に着けてもらおうと考え、その為に彼女は釣りに興じる雪風らの背を押してあげるのであった。
『また頼むね、雪風二水。なんなら夜釣りして、次の日の朝早くとかでも良いよ。仕込みもあるから、私いつも総員起こしの一時間前には起きてるんだ。』
『うッス! そん時は絶対来るっスよ! んじゃ、とりあえずアタイら、これで。』
『ほいよ。みんなで仲良く食うんだよ〜。』
『有難うございましたー!』
小さく手を振る間宮に横一列に並んで大きくお辞儀すると、少女達は我先にと再び雪風艦の甲板に向かう。待ちに待ったお刺身による夕餉にようやくありつけるとあってみんな有頂天で、着いたら着いたでこれまた我先にと片手と声を大きく上げ始めた。
『私、味噌汁銀バイしてくるー!』
『んー。じゃあねぇ、時津風は漬物なにか持ってこれる? 私はご飯をみんなの分持ってくるよ。』
『蕪とか大根とかで良いかな? 烹炊所行けばすぐ見つけられそうだし。』
『うーし、じゃアタイは食器揃えとくか。オメーら、早く持って来いよ!』
『ほいさー!』
打ち合わせも何も無しで夕飯準備に即座に取り掛かり、各々の役目を極めるのも超高速。実の姉妹にして普段から組む一六駆の連携力をここでもまた全力発揮し、30分と掛からず4人分の食卓が雪風艦の一室に用意される。
お刺身一皿に麦飯一椀、油揚げのお味噌汁、一般的なおしんこが並ぶだけの食卓は質素と言えなくもないが、衛生上の問題で生のお魚が艦内の食卓に並ぶ事なんて滅多にない機会である。正月とか紀元節とかの祝日にどこかで錨泊してればあるかもと言った所で、ましてやちゃんとしたお料理を烹水所で用意してもらえる訳も無い艦魂達にしたら、お刺身とは一生に数えるほどしか食べれない高級料理に等しい物であった。
そしてそんなお刺身が山の様に盛られたお皿を見たら最後、一六駆の少女達の心は食欲のみによって染まってしまうのも無理も無い。席に着くやみんなで等分するのも忘れてめいめいがお刺身に箸を伸ばし、若さが生む腹ペコ具合を如何無く発揮して皆むさぼるように食べるのだった。
『うおー! クロダイうんめー!』
『・・・こんな美味しい物、この世に有るんだなぁ。うまい〜。』
『お刺身食べたの初めてだぁ。ん〜、美味しい。ねえ、時津風は食べた事あった?』
『ううん、私も今が初めて。ホント美味しい。大物釣った雪風ねーちゃんに感謝だね。』
『バカ、オメーらも手伝ったろーがよ。だから遠慮すんな。生ものだから残して腐らせてももったいねーからな。』
みんなで仲良く舌鼓を打ち、この中で一番の年長格である雪風にあっても釣りにおける誰それの手柄で分配量を決めたりなんかもしなかった。みんな実の妹達であるし名前も同じ風を冠しているし、怖い怖い上司の前で怒られるのも褒められるのもいつも一緒。まだまだそれぞれの顔立ちにあどけなさがあるも、彼女らは文字通り一蓮托生の仲で、食べ物を分け隔てなくシェアするのはむしろ当たり前の行為だった。
姐御肌な雪風も例に漏れずにどんどん食べろと妹達に勧め、この後一時間程もかけて皆腹いっぱいにクロダイのお刺身を堪能する事が出来た。
その極上な食感と味にいうまでも無く全員ご満悦で、食後のお茶を飲む頃には膨れた腹でしばし動くのも苦しく感じる程だ。
『お。気が利くじゃねーか、初風。よく湯が手に入ったな。』
『私の所の烹炊所でたまたま食器の消毒用にお湯沸かしててさ。お茶の葉も士官室の備品からちょいっとね。』
『ぷはぁ〜。落ち着くぅ〜。後は扇風機でもあれば極楽なんだけどなぁ〜。』
『刺身の後のお茶、結構いけるね。初風姉さん、もう一杯ちょうだい。』
何気ない暇つぶしの一時から始まった一日だったが、柔道で天敵に失神KOされるわ上司には意見を封殺されるわでここ最近面白くない思いをしていた雪風にとっては、久々に良い思いで過ごせた一日となった。
その上機嫌ぶりは楽しい夕餉を終えても留まる所を知らず、みんなで食器を洗い終えた後、また明日と解散しても彼女は一向にまぶたが重くならない。こんな軍艦でひしめいてる上に工事の騒音も騒がしい軍港内において、あんな立派なお魚が釣れた幸運が未だに嬉しい雪風。一人部屋にいてもなんだか黙っていられず、煙草に火をつけて一服し始めながらもどうにも落ち着かない。
そしてそわそわとしながら部屋を見回した彼女の大きな釣り目は、部屋の隅に立て掛けられていた手製の釣り竿に止まる。瞬間、雪風は閃いた。
『フヒヒ・・・。おっしゃ、もいっちょ狙うか。』
そういう訳でさっき味わった感動をもう一度と一念発起し、烹炊所から餌代わりにハムをひとかけら調達してから月下の上甲板に雪風は姿を現した。針と糸を巻き付けた竿に肩に掛け、堅い甲板に長時間腰を下ろしても座り心地を確保できる長めのタオルを片手にしたその出で立ちは、雪風の釣りに赴く際の定番スタイル。腰に掛けた陸戦隊用の備品である水筒には麦茶も詰めており、長丁場にも十分に対処できる念の入れようである。蚊取り線香まで持ってきた次第だ。
『は〜ん、さすがに誰も起きてねーな。戦隊長も・・・、うし、いねーな。』
闇夜の軍港内を一瞥してそう呟く。
ご苦労な事に工廠区画の建物には未だ窓の灯りも見て取れ、機械群の唸りも途絶える事無く遠くに聞こえるという事は、工廠の人間達は未だにお仕事に汗を流しているらしい。自分も含めた艦の命達が心置きなく休む裏での苦労を少し察しつつも、おかげで軍港内の一帯には全く人目の無い事を容易に確認できた。連なり合う駆逐艦群の甲板にも仲間の姿は見えず、少し離れた海上でブイに繋がれている神通艦の艦橋にもどうやら今日は上司のお姿は無い様であった。
今日はというのは理由があって、実は神通は夜ともなると一人艦橋に上がってよく体勢観測の練習を実施しているのだ。巡洋艦や駆逐艦といった艦の水雷長に当たる人間が自主的に行っている自己練磨と同じ物で、条件の悪い夜戦を想定して迅速に的速的針を把握する為の訓練である。諸外国の海軍と比べても雷撃兵装には特に注力している帝国海軍、ましてや昭和に入ってからは第二艦隊による夜間雷撃強襲が漸減要撃構想の中核に位置付けられてきた手前もあり、人の面でも艦魂さんの面でもこの認識に変わりはない。第二水雷戦隊旗艦の立場に当たる神通にとっては必須の技術とも言え、日頃から周囲に確認できるなら例え何十隻といようともその一隻ずつに体勢観測を実施している。だからこそ彼女は、黒潮や夏潮が衝突事故に見舞われた直後、部下達の体勢観測とその把握の不十分さを喝破してみせる事が出来たのだ。
転じてそんな上司の目の前では、例え自由時間と言えども呑気に釣りなんてしてられないという訳である。それに先日の納得できぬまま申し出を封殺された記憶も新しい為、雪風にとって月下の甲板に上司の姿を見つけれなかった事は幸いでもあった。
憂いなく夜釣りを楽しめると胸を撫で下ろし、次いで眉の辺りに手をかざしながら再び軍港内を一瞥して今度は獲物の居そうな地点を探し始める。
『ん〜〜、上陸場の近くはスズキとかいそうだけどなぁ。でもやっぱクロダイ釣りてーな。ちっとはえーけど、ブリとかこねーかな〜。アレも刺身旨いっつーし。う〜〜ん・・・。』
記憶に新しいお刺身になりそうな獲物に狙いを絞り、手近な駆逐艦の艦影に視線を配った。巡洋艦とか戦艦だとお偉いさんの膝元なのでどうしても遠慮しながらの釣りになってしまうし、わざわざ夜中に部屋を訪ねてお百度を踏む様に夜釣りの許可を貰うのも面倒くさい。甲板から海面までの距離が極めて近い潜水艦の甲板が本当なら良いのだが、残念ながら雪風に潜水艦の艦魂の知り合いはいない。故に気心知れた駆逐艦の仲間達の分身が手っ取り早いのだが、あいにくと獲物が居そうなポイントに繋留されていないのは不幸と言うべきか。同じ場所で昼間にクロダイを釣ったばかりだが、あんな幸運がもう一度再現される気が今の雪風には全然しなかった。だって普段はクロダイどころか、手のひらサイズのアジ一匹すらも釣れるのが希であるからだ。
『ちっきしょ〜。どっかねーのかよ〜。』
ややふてくされた顔でそう呟く。工廠から木霊してくる雑多な機械の稼働音が、早く寝ろとでも言ってるような気がして多少腹立たしさも湧いてきた。
しかしその刹那、雪風はちょうど自身の分身の真正面、軍港のど真ん中に位置する海上に巨大な艦影が鎮座しているのを瞳に入れる。それはもう一年以上もその場を独占していて、艦魂達の間では半ば呉軍港名物にもなりつつある建造中の大型艦。次代の帝国海軍を担う次世代戦艦の大和艦である。
その流麗にして独立峰の如き立派な上部構造物のシルエットが月夜に照らされて浮かび上がり、富士山を思わせる荘厳な雰囲気に雪風も思わず息を飲んでしばし見入った。
そしてこの為に彼女は、まだ工事の為の資材や機械が数多く散在している大和艦の上甲板、正確には右舷の中央部に有る副砲のすぐ横に、人間の乗組員ではない同族の姿を偶然にも発見したのだった。
『お? あれって・・・?』
巨大な艦影の中に一人ポツンと椅子に座り込んだ、自分と同じくらいの年頃の少女を遠目に確認した。背丈もほとんど雪風と変わらず、腰まで届く長い黒髪と対照的に白い軍装を身に着けたその姿格好に、最初はお化けか幽霊でも見てるのかと一瞬たじろぐも、その少女は何やら大きな照準器みたいな物で夜空を覗き込んではしきりに手元のノートに鉛筆を走らせている。体勢観測か何かの練習でもしてるのかと思いつつも、雪風はすぐさまそんな少女の正体に察しがついた。
未だ人間達の間でも極秘中の極秘である大和艦の甲板に居るなら、その命にあっては艦魂達の中でも面会はごく少数にのみ限られている実情とも合致する。
昨年の進水から浅間や八雲と言った重鎮立ち位置の長老艦魂が付きっ切りで英才教育を施し、体調管理や健康維持には名うての軍医さんである明石が指名され、食事の面でも帝国海軍一の割烹さんである間宮が担当しているなど、呉軍港所属の艦魂達の中ですら秘匿されながらもそれはそれは大事に育てられているという期待の新米艦魂さんが、雪風の大きな釣り目に映ったあの少女なのだ。
『は〜ん、なるほどな。オメーが大和ってんだな?』
そう言葉を発した雪風は、既に大和艦の甲板に足を付けていた。
さながら空母の飛行甲板の様に広く、そして新品のヒノキの木目と香りも漂う木甲板は彼女にしても初めて足を踏み入れた代物だったが、それ以上に興味を引く存在を到着前から既に発見していた為か意識を誘われる事は微塵も無かった。見た事も無いほどの巨大な主砲塔が並ぶ艦首最上甲板に転移してきた後、艦橋や煙突が集まる艦中央の右舷へとまっすぐ歩いてきた雪風は、艦外から見た際と変わりなく大きな筒のような物を天に向けて覗き込んでいる少女の真後ろまでやって来て声を掛けたのである。
黒く真下に流れた長い髪と細い肩幅が華奢な身体つきを教え、次いでゆっくりと振り向いてくる際に垣間見れる顔の輪郭は青白い月明かりで浮かび上がる。細さと未成熟な雰囲気がどこにもかしこにも見て取れ、それは雪風の妹にして二水戦最年少の時津風よりも色濃い。完成間近の船を分身とするなら辻褄は合うので、どうやらこの少女は雪風の睨んだ通りらしい。
長いまつ毛を備えて大きな切れ長の目、あどけないながらも鼻筋が通り、尖った様な顎の細いラインは、月光の色彩も手伝ってなんだかガラス細工の人形の顔の様に見える。無機質な表情が一層それに拍車を掛け、話しかけた方の雪風が一瞬目を丸くしてしまう。応答が無ければ本当に人形に話しかけちゃったのかと、雪風は自分で自分を疑う所であった。
『・・・左様で御座いますが。・・・恐れ多いのですが、どちら様で御座いましょうか?』
高めの音域ながらも、抑揚を抑えた滑らかな調べの声で大和は答えた。
独特の丁寧が極まった口調はぶっきらぼうな雪風のそれと正反対で、初対面の相手を警戒してか表情もやや硬い。顎を少し出して見下す様な釣り目に、尖らせた唇で構成される高圧的な顔になってる雪風と、これまた差異が激しい物になっている。
まあもっとも、雪風のこういう喧嘩腰気味な接し方は敵意から来てる訳ではない。確かに大和は帝国海軍艦魂社会にて将来を嘱望される存在ではあるが、分身が進水してから数えた年月を勘案すれば自分よりもまだ年下で、未だ就役すらしていない艦魂という事は階級だってまだ与えられていない。つまりはどの面においても現状の雪風にとって大和はただの後輩艦魂でしかなく、畏まって相対する理由がないのである。大体が立場の上下だけで仕分けた他人にかしづくなぞ、誰かさんと同じで大嫌いであるからして、この時の雪風は遠慮も配慮もしない素の自分を曝け出しているに過ぎない。
考えもまた至って単純。
下っ端である水兵さんの自分とは言え、こんなガキんちょに初っ端からナメられてたまるか。
そんな程度でしかない。
荒っぽいしゃべり方も言葉の選び方も、彼女を知る者から見ればいつも通りである。なにやらお嬢様気取りな大和の言動にイラつき、憚りもせずそれを声に変えるのもその枠から外れた物ではなかった。
『ケっ。なーんか鼻詰まりそうなしゃべり方だな。アタイは二水戦の雪風ってモンだ。それよりオメー、その馬鹿デカイ照準器はなんだ? 就役どころかまだ海上公試もしてねーってのに、もう対空戦技の勉強でもしてんのか?』
大股で大和の隣まで歩み寄った雪風が、大和の正面にて上空に向けて設置された巨大な角型の筒をジロジロと見回す。ペンキで真っ白に塗られているがどうも地肌から見るに木製の様で、確かにレンズが筒の両端に装着されてこそいるが照準器と呼ぶにはなんか変だと感じる雪風。僅かに頭を傾げてこの奇妙な装置を訝しむが、その直後に放たれた大和の言葉に傾げる角度をさらに深くする事になった。
『ああ、これはお恥ずかしい限りで御座います。これは天体望遠鏡でして、照準器では御座いません。憚りながら戦技訓練でもなんでも無く、ただ単に天体の観測をしていただけで御座います。海王星や天王星が見える時間帯で御座いましたので。』
『ああ? てんたい? なんだ、星見てたってのか。』
まだどこの艦隊にも所属していないのに夜もお勉強に励む真面目な奴かと思いきや、大和はどうやら雪風の釣りと同じ、趣味の時間を過ごしていたらしい。晴れた夜空さえ有れば常にたくさん見る事の出来る星を観察とは、十人十色とは言えなんと妙ちくりんな趣味だと雪風は内心で一笑に付す。おまけにその和人形の如き容姿と、どこぞの良家のお嬢様みたいな語り口調には覇気みたいな物も感じられず、年下の階級も持たぬという身の上では畏敬する要素も皆無で、こんなのが将来、艦隊旗艦か何かとして自分の指揮を執るのかと考えたら頭が重くなった。
『ハァ〜・・・。変なヤツだなぁ、オメー。』
二水戦きっての問題児である自分を棚に上げて大和の人物評に変の烙印を押した後、雪風は溜息混じりに舷側に近づいて行くと肩に乗せていた竿を舷外に向けて一投。新たな夜釣りポイントをこの大和艦の艦上と定め、どっかとその場に腰を下ろして本日二度目の釣りを開始した。
ただ、大和の人柄に感じた雪風の落胆はしばらく尾を引いている。自分にあれこれ指示を出す立場の者が心服できない点は、将来の大和以前に自分の身の回りの現状にも繋がるからで、もちろんその対象は己の唯一人の上司、神通であった。
『・・・雪風、この話はここまでにしろ。命令だ。』
『で、でも戦隊長・・・!』
『私の言う事が聞けんのかぁあー!!』
数日前に言われた言葉が脳裏に過る。
雪風なりに志を改め、懸命に考えて出した答えを必死に懇願したのに、神通はそれを明確に封じてきた。その理由は皆目解らず説明すらもされなかったのが大いに不満で、二水戦旗艦のお言葉だからと黙って飲み込むしかない自分の立場には強い悔しさと苛立ちを覚える。何より雪風のみへ信任を与えようとしない上司の胸の内は、意地の悪さが色濃く感じられて憎悪も禁じ得ない程だった。
『・・・ちっきしょう。』
尖らせた唇を殆ど動かさずにボソっとそう漏らした後、雪風は胡坐に頬杖を着いて頬を膨らませる。次いで僅かに首を捻って背後を覗き、天体望遠鏡を飽きもせず眺めている大和のあどけない横顔を視界の端にて捉えた。何が楽しいのか大和は望遠鏡をしばし覗くと手元のノートに観察結果か何かを書き込む事を繰り返しており、軍装に袖を通していなければ軍人というよりもどこぞの高位な学問機関の研究員か学者みたいな姿である。
現状も将来も自分の上役には理解不能な奴ばかりが居並ぶのかと雪風は悲観し、憂鬱に背を押れる愚痴がその口から無意識の内に漏れた。
『・・・どいつもこいつも。そんなに下の言う事聞くのがつまんねーかよ。』
その言葉は誰に向ける事も出来ぬ憤怒で、気性の荒い雪風の抑えきれぬ怒りが染み出していた。自分よりも分身の大きさ以外は全てが格下で世間知らずのお嬢様みたいな艦魂、大和しかその場にいない事で、緊張など微塵も抱かなくて良い状況もまたその背を押していた。
そしてもちろん、雪風の短い愚痴は大和の耳にも届いている。ふと大和はノートに走らせていた鉛筆を止めてゆっくりと雪風に顔を向け、長いまつ毛に覆われた切れ長の目を少し細くする。薄っすらと開いたの口が何事かの感情を大和が持った事を示しているが、彼女は少しの間黙ったまま雪風の背を眺めるばかりであった。
その内に小さく頭を傾げて自分の長い黒髪を二度ほどやさしく撫でると、鉛筆をノートの上に置いて椅子に腰かけたまま身体の向きを変え、雪風に正対。背筋を伸ばして量の手をお腹の辺りで重ねる。どうやら雪風とお話ししようとしているみたいだが、奇しくもその姿勢は彼女の師匠格の頂点に座する朝日と全く同じ物であった。
『・・・雪風さん。』
『あん? んだよ?』
『僭越ながら、何かしら慨嘆する事がお有りになったご様子とお見受け致します。』
『あ? がいたん?』
『雪風さんをしてご不満、もしくは不同意な事柄が有ったのでは御座いませんか?』
自分よりも年下の大和の静かで、そして鬱憤の核を射貫くような声を受けて雪風は驚く。普段、身近に接する妹達は不機嫌な雪風を目にすると、その激しい気性を知る為に触らぬ神に祟り無しと声を掛けず、仲の良い霰すらどうしたんだと聞いてくる事も無い。それを自分よりも若輩な大和が、不満や不同意と正確に捉えた上で声を掛けてきたのだ。
雪風は動揺と驚きの入り混じった顔で振り返り、姿勢よく着座してこちらに微笑を向けた大和にちょっと腰が引けた感じで応じた。
『な、なんだよ・・・? それがどーした?』
『宜しければ、この大和、わたくしにお話しして頂けませんでしょうか? お力になれるかは自信の無い所で御座いますが。』
実の所では外見上でそんなに年の差が無いこの二人なので、こういうやり取りをするとなんだか雪風の方が言う事を聞かない妹に見えてしまう。当の雪風ですらそう感じてしまい、一瞬の内に立場が入れ替わった事にしばし声を失った。
だが自分と大違いで品行方正極まれる大和が相手だった故に、ここで雪風特有の反骨精神に火が点いた。一気にその大きな釣り目が鋭くなったのを始めとして不機嫌に顔を染め、荒い動作で再び大和に背を向けると吐き捨てるように言った。
『ケッ! どうせオメーみてえなお姫様に言っても、仕方ねえ事だよ。』
『信頼を頂けませぬのは重々承知で御座います。ただ、燻る様な物で御座いましたら、いっそいつも通りに砲口から出した方が宜しいかと。ずっと砲搭の中で燻ってしまっては、恐れ多いのですが必ず暴発事故に繋がると存じますが。』
小馬鹿にした物言いで否の意を示してみせた雪風に対し、大和は涼しい顔をそのままに冗談めいた言葉で吐露を促した。またしてもこれではどっちが年上なのか分からず、大和にあしらわれてる様で雪風はますます面白くない。お偉方や優しい長老様方にお嬢様同然で育てられ、言動の端々に品の良さを見せつける姫様気取りのこんなガキんちょに、どうせマトモに解決する事なんかできるかと見下す心もより明確になり、雪風は多少自棄になりながらお望みどおりに鬱憤の根本を、最近起きた直属の上司との一件を荒れた口調で大和に話してやるのだった。
対する大和は表情も姿勢も微塵の変化を与えず、雪風の目を真っすぐ眺めてその語りに静かに聞き入る。そしておよそ5分程清聴を続けた頃か、大和は澄んだ声色でゆっくりと雪風に尋ね始めた。
『・・・それでは、そのお方は雪風さんの意気や志を手にしてくれず、機会すらも奪ってしまわれたと。しかし、どうしてその様な扱いをなされるので御座いましょうか?』
『知らねえよ。ケ、聞きたくもねー。』
雪風は唾でも吐く勢いでそっぽを向く。
舷側から糸を垂らした竿はピクリとも動いておらず、魚まで自分を嘲っている様で腹立たしさは倍増。思わず竿に手を伸ばすや、怒りに任せて海面へ叩き付けてやろうと大きく振りかぶった。
だがそこで雪風の四肢はピタッと止まる。なぜなら突如として背後から大和が声を放ち、しかもまたこれまでの会話にあった物とは全然違う話題を振ってきたからだ。
『・・・雪風さん。確か駆逐隊とは、四隻で一隊の編制でしたでしょうか?』
『あ? な、なんだって?』
『駆逐隊で御座います。わたくしはまだ教えてもらった程度でしか知りませんが、現役の雪風さんならこれ以上なくご存知かと思いまして。』
前触れなく大和が訊いてきたのは駆逐隊の編制だった。
当の雪風が現役バリバリの駆逐艦を分身とするのを見越した上で教えてほしいとの事で、申し出がいきなりなら雪風が意識の上で感じていた先輩後輩の位置も瞬時に逆転。微笑みを浮かべて教授を待つ大和に腹立たしさも少し消え、雪風は荒くなっていた語気を整えてからそれに答えた。
『ま・・・、まぁな。ああ、アタイらみてーな水雷戦隊所属の隊は大体は四隻編制だ。他は三隻編制なのもあるけどよ。それがどーした?』
『左様で御座いますか。それでは雪風さんの所属する隊も、四隻編制なので御座いましょうか?』
『おお、そーだよ。』
そこまで訊いた大和は一度大きく頷くと、訝しんで振り向いてくる雪風を待つ。やがてその通りに雪風が顔を向けてきて互いの目が合い、一秒にも満たない静寂が二人を包む中、大和は雪風にとある考え方を明示してみせた。
『それではその上役の方の真意、雪風さんの駆逐隊で考えてみてはどうで御座いましょう?』
『あぁん?』
『雪風さんが所属する駆逐隊の長、すなわち司令駆逐艦となったと仮定して頂きたいので御座います。これまでの想定と大幅に違う特殊な戦務、実行するのに憂慮の類は全く有りませんでしょうか? いかなる事態にも不慮にも、雪風さんだけでなく、隷下の皆は対応できる確信は御座いますか?』
やんちゃな不良娘と自他共に認められ、二水戦でも一番に上司のげんこつと竹刀の被弾数が多い雪風は、まだまだ進水から二年くらいしか経ってないのもあって、艦魂社会の下っ端街道まっしぐらなのが現状である。姐御肌な性分が転じて一六駆の旗振り役になる形こそこれまでも往々にしてあった物だが、それぞれの能力や習熟を分析、比較した上で物事に当たれるかどうかなんて考えた事も無かった。
大和の問いかけを受けて今更ながらに雪風はそんな己を知り、急いで糸を海面から巻き上げて竿をその場に置くと胡坐のままで大和に向き直る。次いで深く腕組みをして大和の言に従い、同じ一六駆所属のメンバーにして実の妹達である初風らの事を考え始めた。
『ア、アイツらを特殊戦務に、就けるか・・・。』
自らの口で一六駆を神通に勧めたのはつい先日の事であったが、今その選択肢を改めて考えてみると思う所が無い訳では無い。ついさっきまでクロダイのお刺身を一緒につついた初風、天津風、時津風の妹達は、どれもこれも雪風よりも経験が下で二水戦の中に限っても一番の新米。特に天津風と時津風は配属からまだ一年も経っておらず、上司の怒号に耐性は無いのは勿論、お勉強も運動も成績は戦隊内で最も低い。同じ第二艦隊の仲間や上官の顔と名前すら、まだ完全に一致していないぐらいなのだ。
水雷戦隊配属の駆逐艦としてもまだまだなのに、聞いた事も無ければ内容の想像もつかない特殊な戦務に従事するなんて論外である。第一六駆逐隊を投入して雪風一人が生きて帰ってくるなんて、今更ながら到底雪風にとっては承服できない物だった。
刹那、ふと雪風の脳裏には、二水戦の日々の中で神通がよく自分達に言い聞かせてきた言葉が蘇ってくる。
『二水戦では、誰が欠ける事も許さん。』
耳垢ができそうになるくらいに聞かされ、内心聞き飽きたと思いながら耳に入れていたものだが、その意図が今の彼女にはなんとなく理解できた。憂いなくと言うには実力が不足しているのだ。
四隻一隊の駆逐隊とは言え雪風一人で他の三人は守り切れないし、時には小隊に分けて別々の任務に当たる事も有るので、雪風の目の届かぬ所で行動するという事態も往々にして発生する。その上で妹達は大丈夫だ、危険にも対処できると自信を持つ事がどうしてもできない。今まさに雪風の頭の中でそれぞれの名から連想される妹達の姿は、任務や役目を難なく解決して前に進む物ではなく、ついさっき皆でクロダイのお刺身を食べていた時のあどけない笑顔ばかりであった。
だからなのか、雪風は反射的に自分達の駆逐隊を特殊戦務から除外するのが当然だと声に変えるのだが、まさにその発言を引き出したのが大和の狙いであったらしい。言葉に詰まりながらも正直な胸中を吐露した雪風に、大和は寄り添うように静かに笑って言った。
『ま、まあ確かに厳しいかもしんねーな。まだウチの隊は新参が多いからよ。他に駆逐隊なんて一杯いるし、そいつらから選んだ方が良い・・・、のかもな。』
『きっとそういうお気持ちなのでは御座いませんか? 雪風さんのその、上役に当たられてるお方も。』
結局の所は未だ神通の中では実力不足、青二才と捉えられているという事だが、決してそれは雪風のみをその対象としている訳ではない。でなければ分派の申し出をした際に他の候補の駆逐隊の名を出す筈だし、あれ程までに怒って口外を厳禁としたのも戦隊全員に知られるのは困るという真意の動かぬ証拠とも言える。神通には部下に当たる者達を目の届かぬ他所に出すつもりは無いし、それに見合う実力なんか皆揃って10年早いと断じている訳だ。別に雪風個人を狙って意地悪をしたりとか、落第者の烙印を押そうとしているのではない。ただ単に駆逐艦の艦魂としてまだまだ未熟者だから、まだしばらく自分の下に置いておくと言っているだけに過ぎず、今しがた妹達は出せないと答えた自分ときっと同じ考えに至ったのだと、雪風は思った。
『ふぅ・・・。まあ、アタイだけ除け者にしようって訳じゃねーみてえだな。』
なんとなく釈然としない所も有り、ああもまた怒鳴って黙らせ様としなくても良いじゃないかと恨めしく思いつつも、嫌悪や邪険の一辺倒で神通が自身に接したのではなかった事にちょっと安堵。鋭利で激しい形にしか発露しなかった上司の胸中を悟り、それまで抱えていた鬱憤が少しずつ解け始めていく。尖りっぱなしだったその大きな釣り目にもだんだんと円曲線が纏われていく中、雪風の様子に口元を緩くした大和はゆっくりと夜空に顔を上げて呟く。
旗艦たる立場の神通とその部下になる雪風。心や想いの面におけるその関係を彼女もまた感じ取って紡ぐ言葉は、またしても突拍子の無い話題であった。
『・・・未だ浅学非才の身でこう言うのは恐れ多いのですが、なんだか太陽と惑星の関係に似ておられますね。』
『あ? た、太陽と惑星?』
スッキリしかけていた雪風の顔に再び驚きの表情が浮かぶ。呆けた声の片言で応じるのが精いっぱいな彼女は、月明かりに照らされる大和の上を向いた横顔をまじまじと眺めた。対する大和は今度は一体なんの話だと怪しむ雪風に目もくれず、変わらぬゆっくりとした口調でその真意を述べ始める。
『太陽というのは、わたくし達の住む地球も含め、太陽系の惑星全てに等しく光や熱を送っておるので御座います。距離が遠い近いの差はあれども、それ以外の隔ては御座いません。昼と夜でその姿を見せない時こそ有っても、それは皆それぞれの惑星の動き方や都合でそうなってるのであって、太陽は意図的に特定の惑星へ意地悪をしている訳では御座いません。大変に平等なので御座います。地球と太陽との距離よりもはるかに遠い位置の惑星ですら、その重力で一定の距離に留めてくれております。』
大人しそうな外見ながらもどこか喜々として饒舌な語りで、初対面の際に天体観測に興じていた点も勘案するに、どうもこの大和という艦魂は宇宙に関する造詣が深い様である。
一方、雪風は宇宙なんて全然わからないのでますます大和の言いたい事に理解が滞り、何がどう雪風の話した事と似ているのかてんで解らなかった。坊主のお経を聞いて翻訳しろとでも言われたかの如きでチンプンカンプンも良い所だったが、やがて大和は頭上の夜空から雪風へと顔を向けなおすや笑みを深くし、雪風の疑問に答えてあげた。
『みんな一緒の太陽系という星系は、太陽の存在なしに有り得ないので御座います。言うなれば、太陽系という艦隊の旗艦で御座います。同じ星系の惑星達を重力という腕で抱き、恩恵を平等に与え、それぞれと手を繋ぐかのようにして宇宙の中を旅しておるのですから。きっと雪風さんの上役の方も、そのような旗艦の任を果たそうとしておられるのではと思うので御座います。』
説法じみたお話に最初はつい鼻を鳴らす雪風だったが、旗艦の在り方と神通の心情を重ね合わせると大和の語りには納得できた。
竹刀を振り回して怒号を飛ばし、げんこつやケツバットでの折檻を日常茶飯事としながらも、神通がこれまで部下達を二水戦という枠で引っ張ってきたのは、人柄に備わる恐怖や役職として示す規範に縛りつけた故ではない。あの強面の裏で常に分け隔てなく一人一人を気遣い、規則や掟に厳しいながらも全員脱落させる事無く二水戦を率いてきたのであり、雪風自身がそれをずっと見てきた。
きっと今回の一件も自分の受け取り方が違っていただけで、神通の本心、すなわち部下である自分達への心配や憂い、真心や熱意は少しも変わっていないのだと改めて雪風は気付く。言を封じられた翌日の教練でもいつも通りの態度で接し、前の晩のお話を引っ張って叱りつける事もしなかったのだから、尚の事その考えには得心が行った。
そしてそれを諭した大和も、雪風の胸の内で鬱憤が晴れ行くのと同時にその上司の気持ちに感じ入ったらしく、雪風の口元が綻ぶのを見て大きく頷きながら声を放つ。
『憚りながらこの大きな艦がわたくしの分身です。就役の暁には連合艦隊旗艦も含めて、わたくしもいずれかの部隊の旗艦となるので御座いましょうが、是非ともそういう旗艦になりたいと存じます。その為の重力や光に代わるものとは、一体何なので御座いましょうか。お声に変えるのは難しい様ですが、雪風さんは既にそれを知っておられるご様子。羨ましい限りで御座います。』
『ヘ、まぁな・・・。それにしても、オメーもおかしな事考える奴だな。』
柔らかくなった表情で雪風は大和と笑みを合わせた。
自分より年下のクセに小難しい事を言うなんだか不思議なお姫様という認識は相変わらずだが、妙に落ち着いて言動の節々に余裕が備わる大和は相談相手には良かったのかもしれない。懇切丁寧な言葉遣いには卑下する様な気配は微塵も無く、行儀の悪い雪風でも対話してる限りではあてつけがましい感じは受けない。二水戦での問題児扱いにも少々辟易していた手前、胸襟を開き腹の底を晒し合って話している様で雪風にしても楽しい会話ができた。
よって気分も機嫌も上々となった雪風。
跳び上がる勢いでその場に立ち上がり、甲板上に転がっていた竿を持ち上げるや糸を海中より引き上げ始める。
『あら? 雪風さん、まだ釣れていない様で御座いますが?』
『あー、もう今日は止めだ。帰って寝るよ。明日も訓練だからよ。』
上司の胸中を察した雪風にとって、憂さ晴らしの趣味の没頭なんてもう必要無い。明日より始まる二水戦の日々に備える為、夜更かしなんかしないでさっさと休む事に決めたのだ。糸を巻き付けた竿を肩に乗せてズボンを払い、何やら嬉しそうな顔で大和に背を向けると足早にその場を後にしようとする。
『うっしゃ。ほんじゃな。邪魔したな。』
その際に肩口辺りに軽く手を掲げて別れの言葉を口にする雪風だったが、やや張った声で大和がそれを呼び止めた。
『あ、雪風さん。』
『んぁ?』
何事かと足を止めて振り返った雪風の前で、大和はそれまでずっと座っていた椅子から立ち上がると深々と腰を折って美しいお辞儀を披露。まるで天皇陛下にでも接する時の最敬礼もかくやの格好で、受けた側の雪風が思わずたじろぐ程の頭の垂れようであった。
『クロダイ、美味しゅう御座いました。我儘にして不躾なお願いで恐れ多いのですが、宜しければまたのご馳走にあやからせて頂きますれば、嬉しゅう御座います。』
なるほど、どうやら日中に雪風らが釣り上げ、間宮に差し上げたあの大きなクロダイの一部は、夕食という形で既に大和の胃袋に納まっていたらしい。そのついでに豪華なお刺身の食材に関するお話を間宮と交わしていたのだろう。美味を楽しめたひと時のお礼を雪風に対して述べたのだった。
畏まって面前から言われるとなんだかお尻がムズ痒くなるような感覚に陥る雪風だったが、柔らかでどこか荘厳な雰囲気を纏う大和がこうも自分如きに礼節を尽くしてくれる姿には悪い気はしない。
小さく笑むと手を上げてそれに応え、短い時間の中ながらも気心通わせた大和に親しみを改める。年も下だし分身の艦種も違うし、将来的には艦魂としての立場の上下もそれこそ天と地ほどに離れるのであろう。丁寧を過ぎて他人行儀な話し方もこりゃ一生治らないだろうと察しつつも、この瞬間、大和は雪風にとって新たな友人の一人になったのだった。
『へへっ。ああ、そん時ゃ持ってってやるよ。オメーもあんまり夜更かししねーで早く寝ろよ。勉強もあるんだろうしよ。』
『ふふ。ご親切、痛み入ります。艦隊に属した際はよしなに。』
『おう。じゃあな。』
そんな会話を交えた後、月下の下にお互いあどけない顔を持つ二人は別れた。
天体望遠鏡や椅子を片付け始めた大和の背後で、釣り道具を肩に乗せた雪風が大股で歩いて去っていく。お互いに朗らかな表情を浮かべられているのは、共に友人を得た喜びを噛み締めているからで、事実、この両名はこの後にたくさんの知己を得ていく中にあっても互いの親交を最も大事な物と位置付けていき、垣根を一切設けない、一切の遠慮も必要無い友情へと醸成していく事になる。
そして後年、全ての、この国における全ての果てにおいて、その終焉の幕として雪風は大和の最後を看取る事になるという、数奇な運命を辿る事になるのだった。