第一六七話 「鬼を被る」
八月も終わりに近づいた、とある日。
今日も暑い一日で皆勤賞のお日様が照り付け、最高気温は29度。たまに気まぐれな雨雲が通り過ぎて小雨をばらまいて行くもコンクリートと鋼鉄製の施設が群れなす呉軍港にあっては焼け石に水で、民家の庭先に飼われる犬ですら外来者に吠える元気は無い。舌をべろんと垂らして木陰にて荒い吐息を連発しっぱなし。もはや番犬の使命なんてそっちのけ状態だ。
そして艦の命達の間で犬とあだ名される彼女もまた、今日は甲板に張られたケンバスの下で力無くあぐらを掻いている。軍帽で顔を扇いで温い風に求めた涼の心地悪さに口をへの字に曲げ、頬杖をついてだるそうに狭い軍港内の海上へと視線を流していた。
『あち〜・・・。』
本日はその分身でも軽い作業が予定されてるだけの休日みたいな物なら、艦の命たる雪風にあってもまた二水戦で集まっての訓練や講話の無いお休みの日。怖い怖い上司の竹刀と怒号に怯える心配も無くて何よりだが、二水戦の仲間達の中で当番制で行う役目がちょうど今日の彼女に重なってしまったのは不運だ。
その役目とは以前に上司から全員がガミガミと怒られた、周辺船舶における体勢把握。いつ、どの船が、どの方角、及び距離に見えて、それはどのくらいの速度でどういう針路で航行しているのか。これを全て数値として観測し、数分おきに用紙に記載して行くという作業をこなすのだが、これが結構大変だ。艦橋周辺を走り回って測距儀や羅針儀、六分儀なんかを人目を憚りながら活用し、難解な計算をして導き出した数値を漏れなく記載していくのも含めて全部一人でやらなければならないし、複数の艦船が動いてたらそれら一つ一つの作業に要する時間にも余裕は無い。
黒潮、夏潮の事故の一件以来、神通から言いつけられて二水戦の駆逐艦の艦魂達が取り組んでいる日課の様な物であるも、その作業量と質は極めて大変な内容となっている。既に当番の時間は終わってほっと一息ついている中、暑さと疲労で少々元気、またはやんちゃぶりが影を潜めてるのが今の雪風だった。
それに腹立たしい事がつい先日怒ったばかりだから、もともとそのご機嫌もかなり転覆気味である。上司の神通も含めて戦隊のみんなが見てる前で行った柔道の試合において、雪風は犬猿の間柄である霞にぐうの音も出ないだけの負けっぷりを披露しちゃったのだ。
それも失神してのノックアウトという、とんでもねー負け方だった。
『せ、戦隊長・・・! あんなの有りッスか!? あんな投げ方柔道にねーッスよ!』
ようやく意識を回復して雪風が立ち上がったのは、上司も天敵も含めて大笑いされてる渦中であった。まだ頭がぐわんぐわんと大きな動揺に支配されて、足取りもフラフラ。犬よろしく四つん這いになったりしながら神通の下へやってきて、一体さっきの勝負はどうなったのだと尋ねた彼女。見た事も聞いた事も無い投げ技で失神KOされたという事を聞かされるや、持ち前の激情ぶりに火をつけて上司に今の勝負に関する違法性を訴えてみる。
言うまでも無くそれは却下になった。
『この馬鹿が。決まった技で投げなければならないと教本にでも書いてるか? 許される範囲を縦横無尽に使うなら反則ではないし、それも含めて貪欲に勝ちに行くのは卑怯でも何でもない。むしろ連勝してた事、引手をとった事くらいで浮かれてたお前が悪い。』
『ぐひっ・・・!!』
『勝つ為の工夫を最後の瞬間までしてた猿が勝って当然だ。型遅れだなんだ言う前に少しは見習えと前にも言っただろうが、この歴史的バカモンが。』
案の定、大目玉を食らった雪風である。
すこぶる機嫌の良い神通は竹刀を振り下ろす事も怒鳴る事も無く、いつもはそれに続いて腕立てなんかを課せられる罰直も幸いにして無かったのだが、天敵にコテンパンにされて勝ち星もまた同数になってしまったので、雪風にとっては極めて面白くない結末になった。思い出すだけでもはらわたが煮えくり返ってくる始末で、本日の暑さによって溜まった鬱憤も重なってついつい雪風は甲板を蹴とばしながら悔しさを爆発させてしまう。
『ふんがー! ちっきしょうーっ!!』
鼻っ柱の強さも加わった雪風のこういう所は、気短な上司と瓜二つだ。大声で叫ぶし行動も荒っぽくなるしで、同じ一六駆に所属する妹達はおっかながって近寄る事もできなくなる。そのせいで本日は朝から誰の姿も見ていない雪風である。
ただ一応、軍港内という事も有ってその分身は同じ駆逐艦同士で横に数珠繋ぎにされており、各艦とも隣の艦の上甲板へと通行するための板も渡されているので、人間にしても艦魂にしても往来自体はちゃんと有った。
ただ単にフグもかくやな雪風のふくれっ面を見て、誰も声を掛けて行かないだけなのだ。
『お?』
だがその時、ちょうど雪風艦の甲板を歩いていたとある人物が、艦首甲板でふてくされている彼女の姿を目にして声を上げている。極めて機嫌が出やすい雪風の顔にご立腹の様子をすぐに察知するも、自分に比べればまだまだ子供である立ち位置でしかないので一切の遠慮も億劫も得ず、軽やかな足取りで彼女は後輩の下へと近づいて行った。
対して雪風もプンスカとした面持のまま、やがて歩み寄ってくる足音に気づいて顔を向ける。それは実に久々に目にした顔にして、同じ駆逐艦の艦魂としても最上級格の先輩にあたるお方であった。
『ありゃ? 吹雪上曹じゃねースか。あ、ど、ども・・・!』
『おー、久しぶり。二水戦の雪風だったよね。なんだい、面白くなさそうな顔してるねぇ〜。あはは。』
なんとビックリ。昨年の柔道大会の時に知己を得た吹雪が雪風の目の前に居た。
吹雪は世界的にその名を知られる特型駆逐艦の一番艦を分身とするベテラン格の艦魂さんで、容姿に見る年齢も10代後半の雪風よりはその上司である神通の方に断然近い。20代後半くらいの大人の女性で身長も雪風よりは高く、袖を通した軍装も雪風のような水兵さんの物ではなく、縦に並んだ金ボタンが眩しい下士官の物。これで柔道の腕前も呉鎮でトップクラスの実力の持ち主なので、雪風はすぐさまそれまでのだらけた姿勢を直して立ち上がり、うちわ代わりにしていた軍帽を被りなおして敬礼した。
結構古参な先輩でもあるので怒られるんじゃないかと少しハラハラしたが、気の良い吹雪は特段先輩風を吹かす事も無く涼しげな顔で軽い敬礼を返してくる。害意も敵意も無い軽やかな人柄に、最近転覆気味だった雪風の機嫌も少しは角度を戻したといった所か。
自然と笑みもこぼれた雪風は素直にご機嫌斜めの原因たる、先日の霞との試合の事を吹雪に話してみた。
『あーいや、へへ・・・。実はこの間、猿の野郎に柔道の試合で負けちって・・・。』
後頭部を掻いてちょっと気まずそうにそういった雪風だが、柔道の話題における相談相手としてなら吹雪は申し分無い。呉鎮最強の座を射止めたとは言え、柔と剛の力量を高次元で両立させた吹雪の柔道は力任せ一辺倒の雪風にとっては参考になる面も多く、実際に大会が終わってしばらくした後に稽古で胸を貸してもらった際には、雪風どころか大会では勝てた筈の霞であっても吹雪には何度か負けているのである。
『ん〜、お互い筋力か俊敏さに特化してる訳だからね。むしろ対策しやすいかな、君ら二人は。あはは。』
色んな角度、やり方で硬軟使い分けての器用な柔道をする吹雪に二人揃って舌を巻き、そんな言葉を貰ったすぐ後に軽くその手解きを受けた霞と雪風。さすがは古参だと改めて信頼と尊敬を深くした相手だったので、再会を喜ぶのもそこそこに早速猿退治の作戦を雪風が相談したのも自然の流れであった。
もちろん吹雪はニコニコとしながら親身になって声を返してくれる。
『ふむふむ、霞一水かぁ。すばしっこいのもそうだけど、あれで結構持久力もあるからなあ。長期戦に持ち込んだら不利かもしれないぞ、雪風。私もそれで大会負けたし。』
『むぐ・・・。そういや、こないだの試合もどっちかってーと長引いた方だったな・・・。つっても中々捕まんねースよ、あの猿。』
『ん〜、頭の捻りがいが有るねえ。ま、良い意味でお猿さんな訳だ。なんとか取っ組み合いに持ち込みたい所だねぇ。』
軍帽の下に小さく覗いた前髪を掻き上げながら明るい声で応じてくれる先輩は、雪風にとっては話し易い人柄である上に貴重な存在だ。二水戦では問題児として年上の朝潮らからは勿論、陽炎を始めとした姉たちや妹達からも困らせ屋と見られているし、唯一の上司からも先日ダメ出しを受けたばかり。なんとなくまともに取り合ってくれない感じがしてたので、かえって戦隊部外者である吹雪の方がよほど自分の話に親身になってくれてるような気がした。
故に遠慮も無くなった雪風は吹雪とのしばしの柔道談議に花を咲かせ、暑さもイライラも忘れてやがて他愛無い世間話、身の上話にまで話題を及ばせる。
聞けば吹雪の属する第一一駆逐隊は、昨年の柔道大会の頃とでは所属先が違うらしい。当時は航空戦隊配属の駆逐隊として空母の直衛役として頑張っていたそうだが、今はなんと第一艦隊の第三水雷戦隊に配属されているとの事。雪風と同じ水雷戦隊所属な上に、戦隊旗艦の川内は神通の実の姉に当たる艦魂だ。
主力部隊の水雷戦隊構成艦として配属されるのは名誉だと吹雪は上機嫌なご様子で、久々に荒波を艦首で切り裂きながら派手に海上を駆けるのも大いに楽しく、また戦隊を組むのも気心知れた姉妹達という事もあって実にやりがいのある配属だと嬉しそうに言った。雪風も含めて駆逐艦という艦種は同型艦が多い物だが、殊に吹雪の姉妹は24人ととても多く、柔道の腕前が良い者もこの中にはだいぶ含まれている。雪風と霞が簡単には勝ち星を得れない吹雪が筆頭なら、横鎮最強と噂される六駆の雷艦の艦魂もまたその姉妹の一員である。
普段は霞を自分に比べて旧型だとかボロの分身と馬鹿にして憚らない雪風だが、改めて考えてみるとこの吹雪の姉妹、すなわち特型駆逐艦の皆々様は中々どうしてすごいのばかりいるもんだと一人納得。せっかくなので訓練状況とか水雷戦術のアレコレも聞いてみようかと話題を振ってみた。
ところがその刹那、何気ない雪風の声に答える前に吹雪は何かを思い出したようで、僅かに首を傾げてこれまでとは逆に彼女が後輩である雪風へと質問をしてくるのであった。
『あ、そうだ。なあ、雪風。知ってたらで構わないんだけど、二水戦で何か特殊戦務みたいな話って聞いたことある?』
『うぇ? な、なんスか、それ?』
突然にして何やら普通ではない任務のお話を耳にし、雪風はその大きな釣り目を思わず丸くする。特殊戦務なんて単語を耳にしたのも初めてなら、水雷戦隊所属の駆逐艦としても自分よりずっと経験を積んでる吹雪ですら知らないほどの役目なんて、雪風にはちょっとうまく想像できないお話である。姉妹や友人らからももちろん聞いた事は無いし、上司たる神通の口からも最近頂いているのは極めて辛口のお説教とお小言ばかり。身の回りの環境は何一つ変化が無いと思われる裏で何事か企図されているというのかと気になり、雪風はすぐさま吹雪にその疑問の詳細な所を尋ねてみた。
それによると、なんでも吹雪は同じ第一艦隊配属のとある部隊の編成にどうにも引っ掛かる所が有るのだと言う。
『・・・一水戦てーと、確か阿武隈中尉が戦隊旗艦やってるとこッスよね? アタイの妹になる一七駆の連中もいる筈ッスけど。』
『うん、そうそう。いや、私もいまその一七駆の谷風の所に行ってきた帰りなんだよ。実は気になってるのは、この一七駆が一水戦にいる事なんだ。一水戦は一応は第一艦隊配属の水雷戦隊ではあるけど、前の編成じゃ私らの姉妹と初春んとこの姉妹で組んでたんだ。ここに雪風の妹達が今年から混じったってのは、な〜んか妙なんだよな。型式だって三種混同だし、船籍も横鎮、佐鎮に呉鎮で全部バラバラだ。普通はなるべく一緒にするもんなんだよね。整備とか補給関係で色々と都合が良いから。』
『は〜ん。そう言われれば、ウチも戦隊長も含めて殆ど呉鎮籍だもんな。あ、四水戦も那珂中尉含めて殆ど横鎮籍じゃねーか。へぇええ〜、なるほど。』
さすがに古参の駆逐艦の命だけあって、吹雪の語る水雷戦隊事情は雪風には改めて頷けるお話であった。そう言えば一緒の艦隊に属する那珂率いる四水戦もまた戦隊旗艦を含めて横須賀鎮守府籍ばかりだなと思い出し、なるべく同じ船籍で戦隊を構成しようとする編制の企図の一部を難なく理解する。
同時にそれ故に変なのだと吹雪が訝しむ点にも完全に同意で、その裏は何なのだろうと茶髪の頭を傾げる。無論、まだまだ10代後半の小柄な少女の姿を持つ彼女は艦魂社会でも青二才も良い所で、この道10年からのベテランである吹雪の疑問に答えを見出せる訳もない。ましてや自分達の分身が大いに関わる事とは言え、艦隊や戦隊の編成は軍令部や海軍省といった人間達による海軍上層部で決定されるものなのだから、末端の水兵さんに過ぎない雪風には全く見当もつかないお話であった。
『ん〜〜・・・。ダメだ、アタイには全然わかんねッス。』
しばし考え込んだ後、開き直るような気持ちでこう声を返すのが精々であった。
対して吹雪も決して満足な解答を雪風から得られるとは思っていなかった様で、やや眉を下げて困ったような笑みを浮かべてみせる。以前の柔道大会での成果により、華の二水戦の生え抜き、神通の秘蔵っ子として駆逐艦の艦魂の界隈では評判も上がりつつある雪風であっても、経験と知識の二つはそうそう易々と身についたりはしない。その点ではまだ自分の様なベテラン格の方が立ち位置は上なんだなと改めて認識しつつ、吹雪は後輩の肩を叩いて軽く叩いて妙な疑問を投げかけた事を柔らかく謝った。
もっともその最中、吹雪は自ら口に出した言葉に、ふと何事かを再び思い出して目を点にする。
『あはは。いや、悪かったね、雪風。陽炎型のみんなはまだ若いから、解んないのもしょうがないさ。あたしらだって解んないだからね、・・・ん? 陽炎型・・・?』
『んあ? あの、合ってるッスよ、吹雪上曹。アタイらのキョーダイで一番上は陽炎姉さんスから。』
陽炎型の言葉を力無く繰り返して呆ける吹雪。てっきり雪風は名称としてそれが合ってるかどうかに吹雪が自信を持ててないんだと思ったが、その返答に小さく対して首を振ってくる辺りを見るにどうも違うらしい。大きな釣り目をぱちくりとさせている雪風に、腕組みをした吹雪はつい最近ごく一部の仲間内で耳したというとある噂と、それがどうも先ほど訊いた一水戦の件に関わるんじゃないかという推察を述べるのだった。
『たぶん七駆の潮辺りから聞いた話だったと思うんだけど、最近、駆逐隊が何個か軍隊区分で抽出されるかもって噂を聞いた事が有るんだ。支那や仏印とは別の任務とかなんとか言っててさ。もしかして、一七駆が一水戦にいるのは、その前段取りか何かなのかな? ホラ、一航艦ができる前も、一航戦や二航戦はしばらく第二艦隊にいたろ? それと同じなのかも・・・。でも、これまた変だな。巡洋艦や戦艦の戦隊ならともかく、一個駆逐隊だけで作戦兵力になる訳も無いし。少なくとも他にもう一個くらい駆逐隊を連れてくと思うんだけど・・・。』
『てーことは、あれッスか、吹雪上曹? 一七駆と組む駆逐隊がいる筈って事ッスよね?』
『まあ、私の勝手な推測でしかないけどね。でももしそうなら、さっきも話した通り一七駆と組むとすると同じ船籍で同じ陽炎型で組むのが一番良い筈だ。となると、んー、・・・二水戦の駆逐隊になるんじゃないのかなぁ、って思ってさ。』
予想もしていない意外な話を耳にした雪風だった。
その夜、神通艦艦内にあるそのお部屋には、部屋の主である神通と本日もその身の回りのお世話に励む霰、そして客人として遊びに来ていた明石の姿があった。小さな机を挟んで向き合う形で明石と神通が椅子に座り、卓上に上げられた蓋を開けたいくつかの缶詰と一升瓶はこの両名がよく行っている小宴会の証拠。
湯呑でちびちびと飲みながら色んなお話をするのがお互いに楽しみの一つとなっており、特にその性格のせいで交友関係が極めて狭い神通にとってはほっと一息つける貴重な時間でもある。大勢の部下らの前では憚られる愚痴や不満の類も明石相手なら話せるし、長く従兵を務めてる霰も仲間達にベラベラと話すようなところは無いから安心できる。最近はアレコレと言わなくても霰は神通の身の回りの世話は流れるようにこなしてくれるようになり、今も上司と部外者の明石がほろ酔い加減になってても素知らぬふりで、部屋の隅にて洗濯済みの衣類を一枚一枚丁寧に畳んでくれている。
普段は強面でぶっきらぼう、横柄で尊大にして、気に食わないことが有るとすぐに怒鳴り散らすなど、お世辞にも褒められた人柄ではない神通だが、お酒が回ると彼女は結構機嫌が良くなる方だ。それ故か流し目で認めた霰の働きぶりに感謝する気持ちもすぐに言動へと現れ、日本刀の刃先みたいな釣り目もいつになく弓なりにしながら滑らかな口調で言う。
『ふむ。使えるようになったな、霰。これでこういう気配りは二水戦でもこいつが一番でな。ちょっと抜けてる所は相変わらずだが。』
『なにそれ。いっつも神通がしないことやらせてるだけじゃん。夜までこき使っといてよく言うよ。ね〜、霰。』
『あのなぁ、明石。こうやって細かい所に目が届くようになると、おのずと航海中とかでも色んな物に気付くようになるもんだ。人間どもがなんでああ普段から掃除ばかりしてると思ってるんだ。日常からの当たり前として、そういう姿勢と意識を躾けておくって意味なんだぞ。それにあまり言いたくはないが、私自身がそうやって金剛の親方から叩き込まれてきたんだよ。そしてそれは正しかった。他の巡洋艦の連中を見ればわかるだろ。青瓢箪と馬鹿ばかりが雁首並べおって。』
何時になく饒舌でいて口の悪さが際立ち、さも自分が一番であるかのような傲慢な言葉が出てくるのも、酔った時の神通の癖である。当人に悪気が有るのかどうか解らないが、明石がまあまあと宥めても棘のある物言いは勢いを増すばかり。元々嫌いな物をトコトンまで嫌う性格なのも手伝って攻撃的なほどの口ぶりになってしまい、いつぞやもお酒を飲みながら歴史好きの知識をひけらかしたのを皮切りに、伝記にもなるほどの偉人たる徳川家康公の悪口を小一時間近く吐いていた事もある。
300年の太平の世を作った日本史上の大人物という事くらいは明石も知っていたが、なんでも神通のご高説によると彼女の大好きな信長公の天下を彼は棚から牡丹餅で横取りしたのだそうで、老練で狡猾な一面を現した「狸親父」、最後の子供は齢70代にも至って設けたという所を皮肉った「好色爺」、信長公存命中は常にその命に従っていた点を誇張して「腰巾着」とまで呼び、挙句の果てには三方ヶ原の合戦なる戦いにてものの見事に大負けして敗走した際の惨めな姿から「三河の脱糞狸」とまでこき下ろす始末。毒舌も毒舌で、言いたい放題に悪口を言わせたら蔑称の辞典が一冊作れそうな勢いである。
これじゃ友達も出来ない訳だと、10歳近く年下ながら明石もほとほと呆れるほどだった。
まったくもってへそ曲がりな彼女だが、霰に対する擁護も漏らす辺りの表情は極めて朗らかで柔らかい。お褒めの言葉なんて普段は滅多に出さないのを明石も知っているので、この点でもほろ酔い加減のなせる業なのかと改めて認識。それならせっかくなので、この神通による部下らの評はどんな物なのかと尋ねてみる事にした。
場を一緒にする霰はもちろん、問題児の霞や雪風、つい最近二水戦で唯一の下士官になれた最年長の朝潮も含めて皆よく知った人物ばかりだし、特設工作艦の艦魂と手紙のやり取りもしだして上司の立場も目前に迫りつつある明石だから、ベテラン指揮官の神通の講評は大いに参考になると考えたのだ。
すると酔った神通は、一応霰にこれより始まる話はここだけの秘密だと釘を刺した後、歌でも歌うかのように軽やかな調子で部下達の評価を語り始める。
意外にも神通は16人の部下達それぞれの特徴と長短を事細かに把握していた。二水戦きっての悪ガキにして、不良水兵さんである雪風も、あれで中々目を見張る所が有るのだそうだ。
『雪風はなんかどんどん悪い子になってない? 言葉遣いも荒っぽいし、いっつも霞と喧嘩してるって言うし。』
『ふふん。犬はあれでいてな、よく私の所に来て質問とか案を出してくる事が有る。これがどういう事か解るか、明石?』
『ん〜、何でもハキハキしゃべる、我が強い性格ってこと?』
『いや、あれで犬は普段から自分なりに物事に対して頭を使っているって事だ。もちろん私から見れば稚拙だし、採点するに足らない程度でしかない。実際、却下する方が多い。しかしそういう姿勢だけは間違ってはおらん。あの馬鹿げた色の髪にした時も、奴が聞いたのは過酸化水素水の効果と実用例だけだ。その後の事は全部自分で考えたのさ。』
てっきり頭ごなしにこき下ろすのだと思っていた明石はちょっと面食らいつつも、見方一つでこうも行動の裏側にあった物を読めるのかと関心。またその他にも雪風の長所を神通は認めているらしく、手酌にて得た一杯を半分ほども飲んでから続ける神通の語りに再び耳を傾けた。
『あとは、そうだな。犬は声がでかくて確かに言葉遣いも汚いが、まあ度胸が有るのも手伝ってか、あいつの一声は皆の士気を鼓舞するのがよく見られるな。あういうのも誰でもできる物じゃない。』
『う? どういう意味?』
雪風も神通も気心知れた仲である明石だが、二水戦に常日頃からいる訳ではないので神通の言葉を理解するのにちょっと躓く。士気を高めるというのもいまいちピンと来ないし、そこに繋がる一言とはどんな物なのかも全然想像がつかない。単純に『行くぞー!』とでも叫ぶのかなと思ったりもしたが、それだけなら別に雪風でなくとも誰でもできる芸当だ。後輩から慕われる霞や、彼女達の中では一番に年長で神通による恩賜の短刀まで持つ朝潮ですらできない物とは、一体何なのであろうか。
神通は得意げに述べる自身の言葉に明石がまじまじと聞き入るのにさらに機嫌を良くしたのか、小さく笑みを浮かべるとまたも手酌酒で一杯を作って飲み干す。黙ってれば切れ長な目が凛々しい綺麗なお姉さんで通る彼女だが、女だてら中々酒豪な一面があるようで、この小宴会前に手つかずだった一升瓶はその中身が既に半分を切っている。向かい合って飲んできた明石も、神通のその手に握られるのがもう何杯目になるか数えていない。
まあ楽しそうで何よりだと思って明石もサバの缶詰に箸をつけ、ついでにちびっとだけお酒を口に含みながら神通の声を待った。
案の定、催促せずとも神通は先ほどの言葉の詳しい部分を話してくれた。
それによると雪風の士気に関わるという言動は、特に二水戦の教練の際に顕著に見られるのだという。部屋の隅に居る霰もその話を耳に入れてうんうんと黙って頷いており、どうやら二水戦の者にとっては雪風のそういう言動は周知の事らしい。
『・・・よし! 第二水雷戦隊、突撃いぃー! 前へー!』
遥かに陸地を離れた荒波狂う太平洋上に、神通の咆哮が木霊する。
第二水雷戦隊の強襲雷撃訓練なんかでは必ずかかるその号令に続き、神通艦を先頭に4個駆逐隊16隻の駆逐艦が連なって敵部隊めがけて真一文字に高速で向かっていく光景は圧巻だ。うねる大波を切り裂いた末に艦首両脇へそびえさせ、後檣斜桁に掲げられた軍艦旗が豪風に踊る。砲や魚雷発射管の周りには配置に就いた乗組員達それぞれの精悍な顔立ちが浮かび、波飛沫の合間を縫うのは矢継ぎ早に放たれる彼らの猛々しい声。
そしてその最中には当然ながら、艦の命達の声も紛れている。神通を除けば年端もいかぬ少女達のあどけない声色が殆どなのでどうしても勇壮さはだいぶ薄い感じになっているが、当人達は至って大真面目。各駆逐隊の長に当たる司令駆逐艦の者らは、即座に神通の下令を自隊のメンバーに伝えていく。
『一六駆突撃ー! 突撃ー!』
『一八駆突撃! 前へー!』
この際に神通が見所として捉えた雪風の一声が上がるのだ。
『おっしゃ! 天津風、時津風、開距離に気を付けて遅れんじゃねーぞ! 突撃だー!』
ちょうど二水戦最年少の二人が同じ駆逐隊にいるからか、雪風がこんな感じで怒号を放つ機会が最近の演習ではチラホラと見受けられる。ただ単に二水戦最年少である妹二人を気遣うだけでなく、強引に手を引いてくような感じの荒い言葉で彼女らを引っ張り、緊張感の漂う演習の空気を豪快さで企図せずとも和らげてみせた。新米の天津風らにとっては結構有り難い声かけであり、普段から荒くれた気性と粗野な言動が目立つ雪風であっても彼女らからそこそこ慕われる大きな要因ともなっている。事実、いまだ上司のカミナリに事の外ビクビクしており、緊張に対しての免疫も隊で一番低い天津風、時津風が、雪風の怒号を受け取るやその表情は一瞬でキッと結ばれた物となり、続くようにしてあどけないながらも覇気を纏わせた叫びをそれぞれ上げるのだった。
『おらあー! 戦隊長に続けー!』
『おおーっ!』
たぶん当人の雪風は気の向くままに好き勝手に叫んでるだけなのだろうが、それもまた無意識の内にできるという事の裏返しなのか。なんか明石にとってはいっつも神通に怒られてばっかりの姿しか見てないので、雪風のやんちゃぶりにもそんな一面が有ると知って意外だった。驚く明石に神通はまたも少し口元を綻ばせて声を紡ぎ始めるが、その内容を疑うつもりは今度は無い。あんな怒号とげんこつで騒がしい事この上ない二水戦の日々の中、神通は16名を数える部下達一人一人を極めて詳細に観察し、各自の特徴をよく把握しているのである。それはまだまだ上司という立ち位置についてお勉強の途上の段階にしかない明石にとっては、ある面では理想像にとても近い姿として見えたのだった。
ぬ〜・・・。神通もこれで、結構色んな所見てるんだなぁ。
雪風も雪風なら神通も神通で、日ごろよく見るのはとにかく相手構わずプンスカと怒っている様子ばかり。面と向かって罵詈雑言を大声でぶつけてやるのも日常茶飯事で、雪風以上に直情的で言いたい放題な生き方してるとばかり思っていたが、教え子らへ向ける観察と分析は冷静にして正鵠を得た頷ける内容だった。特徴的な釣り目に始まる強面と怒鳴るのも日常的である短気な人柄の裏には、明石も見習うに十分とも思えるほどの教育者としての一面が控えており、今更ながらにこの友人はこれはこれで結構優秀な人物なんだなぁと再確認。
それをそのまま口にしたらまたぞろげんこつでもされそうだったので何度か頷くくらいで感心を示し、お酒で饒舌になってる所も調度良いと捉えてこの際16人全員分の人物評価を聞いてみる事にした。お勉強になるのも勿論だし、上官や先輩ばかりな艦魂仲間の中でこういうのを気楽に聞ける間柄がいるという事自体、極めて稀有だ。この道10年以上のベテランな神通に感謝しつつ、明石はお酒を注いであげながら他の者の名も上げてどういう所見を持ってるのかに耳を澄ました。
だがちょうどその直後、明石の耳には眼前の神通による上機嫌な声ではなく、背後に位置した扉が叩かれて鳴る音が先に届く。来客のノックだとすぐに気づいて室内の3人が一斉に扉の方に視線をやると、その向こうからはちょうど今しがた話題に上らせていた雪風の元気な声が聞こえてきた。
『戦隊長。 一六駆、雪風ッス。あの、お願いがあって来たんスけど。』
噂をすればなんとやら。明石と同じ第二艦隊の仲間内でも、こうやって私的な時間に神通の下を尋ねる奴は極めて珍しい。後輩はみんなおっかながってるのも有るし、同年代や先輩らからは大いに嫌われてるしで、お酒やお菓子を食べて話を弾ませるのは明石を除けば、妹の那珂か師匠の金剛くらいしかいない。二水戦という括りでもめったに起きない事であるが、だからと言って帰れと言うつもりは神通には微塵もなかった。お酒が回って機嫌が良いのもそうだし、直属の部下が単身でわざわざ訪ねてき事に悪い気なぞしない。もちろん明石も小宴会を邪魔されるなんて考えは抱かず、むしろあの大問題児の雪風をどう神通が扱うか後学の為に拝見してみたいと欲求が出てくる。
おかげで雪風は二つ返事で神通の部屋に入る事ができ、扉を閉めるやまずは軍帽を取って僅かに腰を折りまげる。室内での敬礼だ。
『ご苦労さまです。・・・ありゃ? 明石さんも一緒だったんスか?』
『へへーん。そうだよー。』
『お前らじゃ酒は付き合えんからな。それより用は何だ、犬。』
椅子にふんぞり返って雪風に声を発した神通は、いつの間にか先ほどまでの柔らかな表情からいつものどこか不機嫌そうな強面へと変わっていた。やや頬の辺りが赤い感じがする程度の色合いこそあるものの、真正面から見れば思わず肩をすくめたくなる鋭い釣り目はいつも通りであり、声を掛けられた雪風はもとい、お酒を楽しんでいた明石や部屋の隅っこで衣類を畳んでいた霰までもが一瞬だけつい身体と心に芯を通してしまう。ふざけた言動やお気に召さない事由があれば躊躇なく怒号がぶつけられ、右の拳が飛んでくるという日頃の姿が容易に想像できる顔がそこにある。
この切り替えもまた上司像の一つなんだなと早速お勉強になってる明石を横に、雪風もまた上司に促されるままにすぐさま来訪の理由を伝える事にした。大きな釣り目を少し鋭くし、眉もやや吊って覇気をその顔に滲ませながら、彼女は大きな声で言う。
『戦隊長! 二水戦で特殊戦務とかで他所に駆逐隊出すなら、是非アタイの一六駆にやらせて欲しいッス!』
本日の日中に吹雪から聞いたお話に、雪風は一念発起した。
ここ最近の二水戦の中で醜態を晒す事が多い自分にその理由はあるようで、先ごろ行われた柔道の教練で天敵に大負けしたのも大きなきっかけになってるらしい。掲げた両手に握り拳を作って神通の傍に歩み寄り、さながら犬が腕に食いつくような雰囲気をその小さな体に纏わせながら声に力を込める。わざわざ神通の部屋を訪ねてくる点も併せ、その必死な懇願には彼女なりによほどの真剣さが有るのだと明石も霰も感じ取れていたが、おかげで彼女らは全く気付いていなかった。
雪風の発した言葉を耳にした途端、特徴的な神通の目がこれ以上なく鋭くなっていた事に。
『・・・犬、今なんと言った・・・?』
『朝潮さんは短刀貰ってるし、猿の野郎にも最近柔道で負けてるんスよ! アタイ、歳は下の方でも負けたくねッス! だから二水戦で駆逐隊出す話でも有るんなら、絶対アタイら一六駆を選んで欲しーんスよ!』
反骨精神旺盛な人柄の雪風は、それが手伝って誰よりも負けず嫌いだ。年齢の上下をそのまま優劣の基準とするのは納得できないし、先輩後輩という間柄もそれ自体に実力の上下が直接結びつくとは全く考えていない。結果として示してこそ誰にも文句をつけさせずに認めさせる事ができるんだし、不良水兵の道に走りながらも勉学と運動の成績は戦隊内でも高い方に実際位置していた彼女にはその自信も有った。先ほど甲板で耳にした吹雪のお話は、そんな中で得た千載一遇の好機だと考えたのである。
それは決して、朝潮や霞に対する安い嫉妬心ではない。周囲の艦魂達が一様に鬼と敬遠し、畏怖する神通の薫陶を受けた者として皆から認められたいという自尊心を燃え上がらせた故であり、唯一人の師匠である神通にこそ認めてもらいたいという気持ちもそこに拍車をかけた。先日朝潮が短刀を授与されたのを見て自分にくれと言い出したのも、物珍しさとか自慢したいとかそんな単純な考えからでた行動ではない。
雪風はとにかくこの神通という己の師匠に、他の誰でもない自分を認めてもらいたかった。頭を撫でてもらおうとか、他の仲間に比べて優しい言葉をかけてもらおうとか、そんなのはハナっから期待してはいない。例に漏れずおっかない声色で二言三言のお小言をもらいつつも、『よし、やってみろ。』と背中を叩かれるくらいの光景に、いつ頃からか雪風は異常に飢えるようになっていた。
だからこそ必死さも垣間見える懇願となったのだが、雪風はその果てに恐ろしい物を見て一瞬して顔から血の気を引かせた。
浅く顎を引いて毛先も不揃いな長い前髪が揺れる狭間に、鈍く光る吊り上がった眼光。やたらと大きく、鋭く見える犬歯が唇から覗き、蒸気機関の如く荒い息遣いが段々と聞こえてき始めたのに雪風が気付いた刹那、凄絶な咆哮が真正面から襲い掛かってきたのだ。
『犬ゥ、キサマアアー!! 誰にその話を聞いたぁあ!!』
これ以上の物はこれまで見た事が無いというくらいの勢いで、神通は突如として烈火の如く激怒。立ち上がる際に蹴とばされた椅子は部屋の隔壁に激しく打ち付けられ、拳を叩き込んだ卓上からは皿やコップが崩れ落ち、床に砕け散ってけたたましい音をたてる。怒髪天を衝く迫力にさしもの不良娘たる雪風も顔色は青褪め、力任せに襟を鷲掴みにされて締め上げられる中にあってただの一瞬も抗う事は出来ない。怒鳴られて息をする間もなく、雪風の足は床から離れて襟だけで宙に吊るされる状態になっていた。
『特殊戦務とはなんだ!? 駆逐隊を出すとか言ったな、キサマ! 誰がそんな話をした!? 言え、犬ーッ!!』
『ふがが・・・!! く、苦し・・・!!』
有らん限りの腕力で神通に締め上げられて、呼吸も途絶えがちになってる雪風がもがく。間近に迫った神通の獣を思わせる憤怒の表情には凶暴さ、獰猛さが際立ち、下手な応答でもしようものならそのまま首を食いちぎられるかの如き雰囲気がひしひしと伝わってきた。立腹と言うより乱心と言った方が近いお怒り具合で、普段とは毛色の違う怖さに霰も雪風も頭が瞬間的に真っ白になってしまう。
明石もまた神通の突然の変異にさっきまでのほろ酔い加減はどこに行ったのかと仰天しっぱなしで、ようやく椅子から腰を上げて神通の腕を掴んだのは雪風が締め上げられて数秒ほど経った頃であった。
『ちょ、ちょっと神通・・・! なにしてるのよ!』
怒声や雰囲気だけでなく、横顔を見ても尋常ではない憤激を神通に現れているのが一目瞭然な中だが、その理由が全く理解できない明石はとっさに抱き着くようにして腕に絡みついた。別に雪風が何か反抗的な態度をとった訳でもないし、面と向かって上司を侮蔑するような言葉を口にした訳でもない。戦隊内で役目があるのなら自分にやらせてくれと頼んだみたいだが、むしろ積極的に二水戦に貢献しようとする姿勢は神通にとっては嬉しい物の筈。それが何故こんな狂乱極まる怒り方をするのか、明石には全然納得できなかった。
『雪風なんにもしてないじゃん! は、離してあげなよ、苦しんでる・・・!』
『黙れぇえ、明石! このガキが、お前こそ離れろ! クソ!』
正面から取っ組み合いをしたらもちろん敵う相手ではないものの、身の丈だけなら160センチ後半はある明石は女性にしては体格は良い方で、そこそこ力も有る。神通より少しだけ背が低いくらいで、霰や雪風らよりはよっぽど暴れるのを抑えられた。
対して神通もさしもに明石の抑止を受けてはそれ以上雪風を締め上げる事を続けられなくなり、かなりしぶしぶと言った感じでようやく雪風を解放。眼光鋭く明石を睨み付けて今にも殴りかかって来そうな勢いで、僅かに憤怒に押し流されていない理性がそれを寸での所で留めてくれているようだ。とりあえずは落ち着かせようと明石は元の椅子のあった方向に神通を抑えたまま押し込んでいき、なんとかこれ以上の暴力が出ぬ内に彼女を再び着座させることに成功する。
また神通も激しく燃え上がった気性が多少落ち着いたのか、荒い息遣いはそのままに椅子に腰を下ろすと彼女は雪風を睨みながら霰に向かって右手をふいに掲げてみせる。霰は終始びっくりした表情のまま部屋の隅で固まっていたが、上司のこの右手が何を示すのかは従兵として長く励んできた経験則ですぐに察することができた。水を一杯くれと彼女は言ってるのだ。
『あう・・・。ど、どぞぅ・・・。』
『・・・ぅむ・・・!』
すぐに霰は机に駆け寄って卓上のやかんに手をかけ、もう片方の手でまだ落ちていないコップを持つと七分目まで注いでから神通の右手に添えた。すると神通はそれを荒々しく大口で飲み始め、飲み終えたコップを卓上に打ち付けるようにして置く。まだ決して鎮まってはいない憤怒と興奮を垣間見せており、明石は雪風との間を自身の身体で遮るようにして神通の前に立った。こういう時の神通はなるべく逆撫でするような言葉を出さず、とにかく落ち着くまで宥め尽くすのが有効な対処法だ。派手に拳を振り回して大立ち回りをしなかった分、神通の立腹が爆発した光景としてはこれでもだいぶマシな状況ですらあった。
『ハア・・・、ハア・・・!』
『と、とにかく落ち着いてよ、神通。雪風は神通のれっきとした教え子でしょ。その雪風が神通怒らせる話を知ってて、普通に持ってくる訳ないじゃん。雪風怒る道理なんてないよ。』
『そんな事は解ってる! だからさっきから聞いとるだろうが! 誰にその話を聞いたと!!』
『そ、そんな叫ばないでって・・・!』
ややもすれば立ち上がろうとする神通の肩に手を置き、とにかく落ち着かせようと必死な明石。こういう時の神通は少しでも相手が声を荒げるとそれに倍返しするように己の言動を荒くするので、平静と沈着を保った態度と柔らかい物言いで接するのが第一。この辺はこれまでの付き合いの中で何度も見てきた、神通の実の妹の那珂のやり方を参考にしていた。
一方、同じ気持ちの霰も床に散らばった皿やコップを誰に言われるでもなく拾い集め、まだ箸をつけれそうな物が残った皿や、新たに水を注いだコップを卓上に用意している。さっきまで続いていた楽しい小宴会を再現しようと、彼女なりに気と頭を使っての演出であった。
『ゲホっ! げほ! ぷはぁー・・・!』
そしてようやく襟締めの窒息から解放されて息を整えた雪風は、いきなり上司が激怒した事に改めて驚きを覚えている所だ。
な、なんだってんだよ・・・!?
雪風にとっては使命感や責任感も兼ね合わせた心持で懇願しただけの話なのに、誰から聞いたと叫んでご乱心になってしまう上司の考えが全くもって理解できない。そんなに自分が口にした特殊戦務の話の出所が大事なのかと一瞬思うが、逆にこれだけ怒るという事は吹雪がさっき教えてくれたと口にしたならきっとその矛先は彼女に向くであろうと、雪風には容易に想像がついた。その剣幕に恐れ戦く気持ちは確かに強いが、しかしだからと言って吹雪の名を簡単に出すのは後々マズイ展開になる。だから雪風はしばし上司が落ち着くのを待つついでに、この場はとりあえず先輩の名を出さないようにしようと心に決める。
でも彼女自身、先ほどの懇願に対する答えとしては納得はしていない。
願い出た事もその内容も、雪風は彼女なりに真剣に捉えて考えた末での結論だったからだ。
故に雪風は未だ明石に宥められて鼻息を整える最中の神通の前に歩み出て、深く頭を下げながら再び腹に力を込めて声を振り絞る。
『戦隊長、アタイだって、アタイだって二水戦の一人ッスよ・・・!』
『なにい・・・!?』
『いや、アタイだけじゃねー! 二水戦の連中は全員、どこの駆逐隊にだって太刀打ちできないモンになってみせるっていつも思ってんスよ! 未熟だっつーのも勉強不足だっつーのも解ってるっス! でも挑戦する機会があんならやってみてーんスよ! そう思ってるからこそ、アタイら戦隊長についてけるんだ!! あんだけげんこつやケツバットもらっても!』
雪風の言は、彼女を含めた二水戦の駆逐艦の艦魂達の総意を代弁するような口ぶりとなった。決して方便でそう言ったのではなく、雪風は日ごろからその一員として過ごす中で全員が今言ったような気持ちを持って励んでいる事を確信していた。
もちろん一人一人の性格こそ違うし、好きな奴もいれば嫌いな奴もいる。天津風や時津風みたいにまだまだ二水戦に入ったばかりで、他の駆逐隊に負けないとは口に出すのもおこがましい程度の実力しかもっていない者もいる。
だがそんな中で全員が到達すべきと位置付けた意識はしっかり一本にまとまっており、それを養い構築してきた張本人は他の誰でもない、彼女達が唯一人の上司と崇める神通であった。容赦のない怒号と叱責。青い痣ができるくらいに尻に叩き落される竹刀。何事においても『許さん。』の語尾で括られる厳格な規則と、『私が掟だ。』と独裁者の如く個人を中心に据えた規範。
それらを全て受け入れて己が糧とし、厳しい訓練や勉強に精を出してきた意義と意味を、暗に雪風は神通に問いただしてきたのだ。
『駆逐隊を分遣するくれーの特殊戦務ってんなら、二水戦が参加すんのは当然じゃねースか! アタイらは、アタイら二水戦は、帝国海軍最強の部隊だったんじゃないんスか!? 戦隊長はそうやって教えてくれたんじゃなかったんスか!?』
声を大にしてそう述べた雪風に、席上の神通が瞬間的に少し目を見開く。鎮まりつつあった怒りが再燃焼し、再び立ち上がって腕を伸ばしてくるかと雪風は肩を一瞬震わせ、明石もとっさに覆いかぶさるようにして神通の身体を抑え込もうとした。霰も息をのんでハラハラとしながら上司の横顔を覗き込んでいる。
だが、神通は僅かに歯を噛んだのみで四肢を動かす事は無かった。なぜなら今しがたの雪風の言葉に、神通は唯の一言の文句すらつける事が出来なかったからだ。
二水戦の部下らを鍛え抜いてきた先に神通自身が置いたのは、他の追随を許さぬ戦闘力を発揮する精鋭部隊という在り方。常々それを口にしてきたし、半ば部下達に強いる形で与えてきた物でもある。それに反抗する事は言うまでもなく、僅かに逸れる事すらも絶対に許さなかった。その果てに戦隊全員一人一人が雪風が述べたような意識をもってくれているのなら、長たる立場を頂く者として、教育者としてこれ以上嬉しい事は無い。結果として神通の教え方、導き方は間違ってはいなかった事の証左でもある。口にこそ出さなかった、彼女自身が望んだ部下達の精神面での理想像に他ならなかった。
もとよりその成長と進歩を頭ごなしに否定する気は彼女にはない。
強烈な剣幕で雪風に入れ知恵した者を暴こうとした今の乱心は、実は雪風が言葉に変えたたった一句の言葉にのみ矛先を向けていた。
駆逐隊の分派。
二水戦の、もっと言えば神通の指揮下を一時的にとは言え離れて任務に当たるという役目。
それは彼女以外いまこの場に居る誰も知らないが、現連合艦隊旗艦の長門、同門の先輩にして新鋭の第一航空艦隊旗艦を務める赤城、そして実の妹の那珂までもを文字通りブッ飛ばし、冗談抜きに一戦交えるのも辞さずと大声一喝して拒否してきた案件と間違いなく結びついたお話であるからだった。
『分遣などない!』
即座にそう言えばだいぶ気も楽になるのだが、この時、神通はそれよりもせっかく雪風が示した二水戦としての意地を否定する事に大きな憂いを抱いた。彼女をして哀れだと、不憫だと思えてならない日常を過ごさせてきた中、一生懸命になって信じてきた物が他ならぬ神通の言葉によって木端微塵に砕かれてしまう。怒りが収まりきらない状態であっても、その残酷さは神通に大きな脅威として胸に刺さってくる。
今の雪風くらいの年頃だった自分が、もし敷島や金剛により『今まで教えてきた事は嘘だ。』とでも言われていたら、どんな気持ちになるかなんて考えるまでもない。青たんや痣で塗れた顔で金剛の鉄拳に耐え、その夜には自室で泣いたりもしながら過ごしていた修業時代が脳裏に過った。
なぜ自分だけ、こうも辛い思いをするのだろう・・・。
当時の駆逐艦の艦魂達から「仲間殺し」と忌避され、何度も美保ヶ関の悪夢に魘されて眠れない夜を味わい、師に当たる者達から受けるのは鉄拳と怒号ばかり。悔しさ、辛さ、悲しさで彩られたあの頃を支えたのは、『必ずその先に強さが待っている。』というどこかで聞いた一言を最後まで信じていたからだと、彼女は思っている。
だからこそ、神通は雪風に言葉を返せないでいた。激しく締め上げれても尚、勇気を出して意地を示した雪風の言動が、とても崇高だと思えたから。それを他ならぬ教育者として普段ふんぞり返る自分が壊すのは、先日の赤城や那珂らと何ら変わらない、忌むべき残酷な行為だと感じたから。
なにより、僅かに震えて唇を強く噛みしめながらも、その大きな釣り目に精いっぱい力を込めてくる雪風の顔が、あまりにも昔の自分に似ていたから。
『・・・雪風・・・。』
しばしの沈黙を破ってぼそっとした感じで放った神通の声。
瞬間、明石と霰は僅かに瞳を見開いて泥期の表情を浮かべる。普段から犬、犬とあだ名で呼んで憚らないあの神通が、この時初めてその名をちゃんと呼んでやったからだ。
雪風もそれに気づいて一瞬眉を動かしたが、たじろぐ間もなく懇願への返答が神通からは返されてくる。可とも否とも取れぬ物言いであった。
『・・・話は解った。戦隊長預かりにして、私が精査する。だがその件は他の連中には口外するな。同じ駆逐隊の初風達にもだ。』
率直に言って実に中途半端な答えだった。肯定して何がしか進捗させると約束する訳でもなければ、大間違いだと指摘して却下をくれる訳でもない。おまけに口外を禁ずるという制約だけが与えられた格好で、ますます雪風には納得できない気持ちが強くなる。初めて名をその口から呼ばれた事も、諭すと言うより自分の意見を抑える為の方便として用いた様にしか感じなかった。
反骨精神はもとより、理屈を語る際に他人に遠慮しない雪風の性格はいよいよ燃え始め、神通に食って掛かるようにして声を放つ。
さながら日頃より上司上官に噛みつく、神通の様に。
『せ、戦隊長! なんでスか!? アタイは怖いもん見たさとか、そんなんで言ってんじゃねッス! 猿や朝潮さんだけじゃねー! アタイだって立派に戦隊に貢献できるんだって、証明したいんスよ!』
『・・・であるから解ったと言っている。雪風、この話はここまでにしろ。命令だ。』
命令という語句まで出し、言う事もならんと声を鋭くしながら応じる神通。
しかし彼女は雪風から顔と視線の向きを僅かに逸らし、態度の上でも真正面から応じるという姿勢をとろうとしない事を示す。これまで散々怒られてきた茶髪の件に然り、つい先日の柔道の試合が終わった後のお叱りも然り、常に正対して断固とした態度で物を言う神通の姿としてはそれは意外なほどにどこか弱い感じが纏われている。自信に満ち溢れて芯が通り、己の歩む姿には一遍の間違いもやましい所も無いと言わんばかりの剛毅さは影も無く、明石や霰もそんな神通の不思議な姿に声を失う。ましてや目下も目下、日ごろからげんこつと怒号で黙らせる雪風相手にそうなるなんて、これまで付き合ってきた中では考えられない様な光景であった。
そしてこの時、明石はふとそんな神通の胸の内をぼんやりと垣間見たような感覚を抱いた。
神通・・・。
何か言いたくない、都合の悪い事でもあるのかな・・・。
雪風だけじゃなくて、二水戦のみんなに・・・?
数少ない友人の一人だからこそ、そう思えたかもしれない。仏頂面の強面と横柄尊大極まる人柄を前面に出し、喧嘩や諍いなんか屁とも思っていない言動が目立つ彼女だが、そのスラリと長身な体躯を背後から見ると、なんて力強さのない華奢な身体つきをしてるんだろうと明石は時々思う事があった。脆くて弱い、まさに脆弱の一言しか連想できない物悲しそうな雰囲気がやけに印象に残る時があり、それはきっと例の美保ヶ関での惨劇を当事者として記憶に留めているからだろうと今までは思っていた。
だがなんだか今しがたの雪風とのやりとりを見ていると、本当はこの神通という艦魂は今まで自分が見てきた仲間達の中で誰よりも弱さを持っている人物なのでは、という気がしてくる。荒れ狂う豪風の如く咆哮するのも、嵐の海面に聳える大波の如く暴力に訴えるのも、この弱さを覆い隠す為に彼女自身が敢えて演じているだけなように明石は感じた。
それ故に、その後も引き下がろうとしない雪風に再び顔を戻すや、またも鬼の形相を浮かべながら今日一番の凄絶な怒号を放っても、霰や雪風の様に明石は肩を震わせたりしなかった。神通はどこか哀れにも思えるほどに、必死になって鬼を振る舞おうとしている様にしか瞳に映らなかった。
『で、でも、戦隊長・・・!』
『私の言う事が聞けんのかああー!!』
『ぐっ・・・!』
耳をつんざく絶叫に室内の空気まで震える。
聞こえ方も見え方も少し変化している明石と臆病気味な霰は別として、事ここに至って雪風もついに拳を握りながら口をつぐむしかなくなった。金切り声とも形容できる旋律に肝を鷲掴みされたような感覚を覚え、猛獣が口を開けたような面相に気圧されて思考も行動も全てが硬直する。そして最も雪風の胸の奥に響いたのは、たまに愚痴をこぼしたりもしながらも一時たりとも畏怖の念を消した事は無い上司の口から出た言葉に尽きる。
二水戦の艦魂達にとって、神通という艦魂の教えを受けた者の中にあって、いつ何時たりとも、どんな状況であろうともその言葉には従わねばならない。抗う事は絶対に許されない。
雪風自身が上司に訴えようとした二水戦の有るべき姿は、神通のその一言に全て集約されていた。腑に落ちない、納得できない、不満だなんて気持ちは理由にも口実にもならない。神通がダメと言ったらダメなのだ。神通が許さないのなら許されないのだ。17名を数える第二水雷戦隊の艦魂達の中にあって、神通の言葉こそが唯一絶対なのだ。
神通こそが、二水戦の掟その物なのだ。
『ぐ・・・、ぐぐぅ・・・!』
雪風は奥歯を強く噛み、爪が食い込むまで拳を握り込む。抗ってはならないのだと脳裏で呟いてみたがほとばしる悔しさは全身の筋肉を震わせ、意図せずその大きな釣り目の横に薄っすらと涙が滲む。言いたい事も有る。理不尽だとも感じる。何故の一言を今すぐにでも口から出したかった。
『・・・ぅ、うス・・・!』
だが彼女は我慢した。これ以上なく苦い薬を飲み込むように、我慢した。
悔しさに打ち震え、つい何かを蹴りたくなる衝動を押し殺し、大声を上げて泣き出したくなる気持ちを必死に押さえつけながら。
雪風と神通の呻くような吐息だけが、室内の沈黙をしばし揺らす。
全員が声を出す選択肢を一斉に失って静寂が保たれ、机の上で横倒しになったコップから滴る水が、長めの間隔で床に落ちて弾ける音すらも聞こえてくる。
やがてそれに終止符を打ったのは部屋の主である神通であったが、声ではなく静かに椅子から腰を上げる事でそれは行われた。他の三人は一斉に視線を送るが彼女は立ち上がった直後、誰に目を配る事もせずに部屋に一つしかない舷窓の方へと足を運び、窓の向こうに広がる暗闇を眺め始める。明石や霰を含めた全員を背後にする形となって、誰からもその表情は窺い知る事ができない。
明石はふとそれは意図的に神通がそうしたのではないかと感じ取ったのだが、それを確かめる間もなく部屋には独特の張り詰めた感のある声が木霊した。
『・・・みんな帰れ。今日はこれで終わりだ。』
右手を舷窓の縁に添え、上半身をやや折ってもたれ掛かる様な姿勢になった神通が、皆に背を向けたままで呟くように言う。多少言い方は柔らかくなったがまだ腹の底では炎が燻っているようで、声色にはまだ鋭さが濃く滲んでいる。
こんな状況下で刺激するのは得策ではないのは彼女を知る者達における共通の認識で、明石はすぐに霰へと目を配って部屋を後にしようと無言で合図を送った。姿勢を小さくしながら卓上をひっそり片づけていた霰は、上司の背中と今しがたの声に既に危険を察知していようで、明石と目が合うや促される内容を即座に理解。まず明石に、ついで神通の背中に腰を折って敬礼をすると、悲しげな表情を浮かべながら何も言わずに部屋の扉を開けて室外へと出て行った。
一方、拳を握って歯を強く噛んだしかめっ面を作る雪風は、霰が退室する間じっと神通の背を睨んだままであったが、その内に傍に歩み寄った明石に袖をそっと引っ張られた。明石は何か言いたげな顔で静かに首を横に振り、無言を貫きながら雪風にも霰同様に退室を促す。雪風はしぶしぶと言った感じを表情に色濃く浮かび上がらせながらもそれに従う事に決め、再度流し目で上司の後ろ姿を目に映した後、霰の後を追うように足早に部屋を去っていった。
そして最後の退室者は明石。
先ほどから神通の様子に妙に引っ掛かる所を感じていて、部下に当たる者らがいなくなったのを見計らって直接当人に尋ねてみようと思っていたのだが、問いかけの言葉を一句も述べない内に神通によって制止される事になる。振り向く素振りも見せぬまま、神通は短く言い放った。
『・・・明石、悪いが出ていってくれ。』
高圧的な命令口調ではなかった半面、その言葉は拒絶する雰囲気がとても強く感じられた。雪風を黙らせた直後から全員に背を向けたままなのも、これ以上追求しないでくれという逃避の気持ちの表れにも見える。歯向かう物には全力で真正面からぶち当たるいつもの姿勢は影も無く、神通の様子に垣間見た奇妙さが明石の中では一層大きくなった。
もっともこの場でそれを明確化する事はできない。下手な問答の果てにまたぞろ神通を核に据えた暴力沙汰といった騒擾を誘発してもマズイし、仮にそうなったら明石一人で収拾をつけれるとも思えない。実の妹の那珂ですら簡単に止めれないのを、明石はその目で何度も見てきたからだ。
とりあえずは神通は大人しくしてるようなので、ここはひとまず退室しておく方が得策と彼女は判断。明るい声で応じるなんて事こそできなかったが一応短く別れの挨拶を告げ、困った顔をしながら扉へと向かっていく。
『じゃ、じゃあ、私行くね・・・。』
『・・・・・・。』
予想はしていたが神通の反応は無く、ゆっくり扉を閉めながら神通の後ろ姿をしばし見つめた。毛先も不揃いな髪を首の後ろで小さく纏め、肩幅も腰つきも細めな長身の背中は、やっぱりなんだかやけに弱々しく、次いで寂しげな感じが漂っている。今までも何度か垣間見た事があったその姿を締め切ったドアで瞳から消した明石は、力無い足取りで通路を歩く中で今夜の出来事の原因をこの神通に認める。別に確たる理由は無く、二水戦の事情なんて普段から口出しするなと言われてた手前、全然解らない彼女であるが、きっかけにはなったにしても雪風の懇願はあくまで原因ではないと直感的に思った。むしろそれに応じれない何かが、神通の側にあったのではないか。
もしかして・・・、この間、朝潮が言ってた事と関係あるのかな?
そう言えば那珂も同じ頃に言ってたよね。意見の相違がどう、とか・・・。
ここ最近の記憶から符合する点をなんとなく見つけて勘繰る明石。
確証が皆無な中でのそれはまさに文字通りの下衆の勘繰りに過ぎないのかもしれないが、解らないからとほっとく気には勿論なれなかった。神通も雪風も、霰も那珂も明石にとっては大事な友達。就役以来なにかにつけて一緒になって頑張ってきた間柄だし、立場や歳の差を口実に距離を置くような薄情な真似なんか絶対にしたくない。
なにぶんにもあの神通が相手なのでいらぬ騒ぎにして混乱を招くのは最悪の事態と捉えつつ、秘密裏に自分なりにちょっと彼女らの周りを調べてみようと心に決めるのだった。
そしてこれより約2年後にまで至るこの顛末の果てに、明石は、否、帝国海軍に属する全ての艦魂達は、鬼を、真の鬼を見る事になるのだ。