第一六六話 「可笑しき日々」
昭和16年8月25日。
呉軍港は各艦隊から帰ってきた艦船群で埋め尽くされ、各艦とも大なり小なりの工事を請けて戦備作業に取り組んでいる。船渠や桟橋に位置していない艦であっても工廠から工員や機械を持ち込んでの工事が実施され、それらを運ぶ為に軍港所属の曳船やら運貨船やらが右へ左へとせわしなく港内を駆け回っていた。
同時にこの時期、帝国海軍では大規模な人事異動を行う事になり、各艦にあっては工事作業によって甲板が賑やかなら乗組員名簿の新旧改定も結構忙しい事になっていた。これは人の面での戦備促進作業と言える物であるものの、とりわけ実施部隊方面で一昨年よりしばし人員の異動が「意図」して抑えられてきた事の更新期が重なってしまったのは、運が悪かったと言うべきか。
現職の山本連合艦隊司令長官が着任初期頃に発案したとされるこの異動抑制策。各部隊の練度向上、研究促進を主眼に、通例一年程で実施される帝国海軍の人員の入れ替えを海軍省に頼み込んで繰り延べとしてきたのだが、数えて二年とした期限がちょうど今の時期に重なったという訳である。ましてや大きい所では大和艦や新鋭空母、小さい所では徴傭した特設艦船なんかに新たな乗組員を配さなければならない事情もあるし、戦時移行に伴う増員補充も合わされば、これがいかに大規模な人事異動になったかに説明を要さないだろう。
明石艦に限っても今月初めに副長と機関長が替わったのに続いて、本日付で森脇義治海軍予備中尉が第一艦隊司令部付として退艦する事になった。入れ替わりに舷門を潜ったのは関口禄朗予備中尉で、竣工間もない帝国海軍最新鋭空母である翔鶴艦からの転属。
以前、忠が横須賀に居た際に目にしたと明石に話した事のある新型空母とはこの翔鶴艦の事で、顔合わせと同時に関口中尉による翔鶴艦のお話に忠を含めた明石艦の若手士官達は耳を傾けるのだった。
また、兵はともかく下士官や准士官の間でもだいぶ異動は予定されている。特殊で専門的な技術を身に着け、現場のスペシャリストとして経験豊富な彼らは、階級としてはもちろん下側に位置するも実務の面での重要度は士官以上と言っても過言ではなく、特務士官くらいにもなれば海軍内においてその道を究めた神様だと誰もが認める実力の持ち主達である。それ故に昨日の明日で育てる事ができない人材である訳で、海軍内でやりくりするには一から育てるよりも他の部署からの異動で賄う必要がどうしても有るのだ。
しかしこれに付随して部署における習熟度、練度は当然の事ながら低下する事になり、訓練計画の見直しや練り直しにお偉方は頭を捻る事になる。ましてや喫緊の出港は工事の為にしばらく先になるし、全ての部署の異動が完了するのも即座にという訳には行かないので、各艦とも艦長さん以下の幹部達の思案はそこそこに大変な物になっていた。
もっとも人間達のそんな一面に反し、艦の命達はしばらくぶりの休暇に等しい時間を得て結構のんびりとした日々を送っている。
それはあの癇癪持ちの神通が率いる二水戦も例外ではない。
鬼教官らしく今日も柔道の教練だと部下達は駆り出されて神通艦の艦尾甲板に集合しているも、神通の片手に握られる竹刀にいつもの様に慄く様子は無い。柔道着に身を包んで横列を成した前には神通と共に、先日の多重衝突事故で戦隊を一時離れていた黒潮、夏潮の両名の姿が有ったからだ。
『おお、夏潮! アンタもう大丈夫なの?』
『早潮姉さん。うん、まだちょっと動けないけど。でも、戦隊長が見るだけでも良いって。』
『戦隊長、夏潮はともかく、私もう大丈夫ですよ。佐伯湾でも洋上訓練できてますし。みんながやるなら、私も柔道・・・。』
『ならん。治りかけは危ないと明石も言ってただろうが。夏潮と一緒に今日は見学するだけにしておけ、黒潮。』
『黒潮、戦隊長の言うてはる通りや。大事とって休まな。無理はあかんで。』
比較的軽傷だった黒潮はその身体に包帯や絆創膏の類は全く無く、顔色も良く声も張りがあって極めて元気そうだ。洗濯と繕いも終わらせた綺麗な二種軍装に袖を通し、柔道着を着た仲間達を目にして身体がうずうずしてきたのか、屈伸運動をしながら神通に自身の参加を懇願してみせる。彼女としても久々に二水戦の空気を据えてやる気を漲らせた次第なのだが、神通はすぐにそれを却下。白い着物状の傷病衣という衣服を着用して椅子に座り、襟元からはまだ包帯も覗く格好の夏潮と一緒に、皆の武技教練を見学するよう命じられている。同時に先輩の霰からも同様に促され、黒潮はちょっと口を尖らせて渋々といった表情で談笑している夏潮の隣に座った。
10代後半の少女の顔立ちに作られたへの字に曲がった口はいかにも不満そうで、もともと活発な性格をしている黒潮の様子に神通は当然の事ながら気付いている。もちろん、流し目を送るその横顔に憤怒は滲んではいない。むしろ部下のやる気がこれ以上なく燃焼し、自分が用意した場に参加できないのを残念に思ってくれてる所は彼女にしたら嬉しい物だし、なにより訓練中の衝突事故という神通がもっとも恐れている厄災に遭って極めて元気そうな様子を垣間見せる点には、口には出さないが内心胸を撫で下ろしたいくらいの安堵の念を覚えていた。未だ傷病衣姿で運動は厳禁とされている夏潮も、仲間達、姉妹達との久方ぶりの会話でその顔には笑みが咲いており、その内に仲間達によって胸元辺りに覗く包帯に我先にと墨汁をつけた筆を伸ばされている。
その光景を横目に映し、神通は一人静かに口元を綻ばせていた。
『あんだけの事故だったかんな。やっぱ全快祈願だろ。』
『なに言ってんだよ。二水戦魂が一番しっくりくるじゃん。』
『霰先輩、それ霞先輩の時も書いてたじゃないですかぁ。せっかく怪我治りかけてるのに、がんばれじゃちょっと月並みですよ〜。』
少女達の間で誰が言い出した訳でもないのに慣例化した、怪我の患部に巻かれる包帯に一言を書き込むという儀式。以前の柔道大会で霞が捻挫をした際にも行われた伝統行事みたいな物で、患者たる当人の気をよそに好き勝手な事を墨汁で書いてやるのが彼女達の慣わしだった。
神通はそれに加わった事は無く、するつもりもまた微塵も無いが、傍目からそっと見ているのは嫌いではない。あどけない少女達の微笑ましい光景に目を細めるのは、自他共に認める鬼であっても逃れられない心の動きの道理のような物で、かつて美保ヶ関の闇夜に自らの手でそれを断ち切ってしまった当事者たる彼女なれば、強面の裏でどうしても意識せずにはいられない物だった。
・・・良かった。
腕組みをしてやや俯きながら脳裏につぶやくその短い言葉には、傍目からでは解らない、彼女の人柄と記憶の全てが織り込まれた重さが有る。
それを二度と手放さず、何人たりとも触れさせぬという信念を、少女達の騒々しい声から一歩離れて独り、今日この場で改めて堅くした神通。
やがて手を打ち鳴らして彼女らの喧騒を抑えると、炎の勢いが一層増した情熱をさっそくその教育に注ぎ込んでいくのだった。
また、二水戦の武技の中で最も熱を入れている柔道の教練は、生来の嗜好が合わさって神通にとってはもはや娯楽にも等しい。戦う術を部下達に直接手取り足取りで教えてやるのも面倒とは思わないし、教えをくみ取って早速実践に移行する姿を間近で見れるのも面白い。その上で呉鎮籍の駆逐艦で一番強い柔道の腕前を持つ雪風と、他ならぬ神通自身の戦い方を身に着けて時にはその雪風に黒星をつけたりもする霞が揃って場を同じくしているのだから、傍目には強面しかなくとも神通にとってこの柔道の教練は極めて楽しい稀有な時間でもあった。
その一方、神通の配下の少女達の中でも、例えば天津風や時津風といった二水戦に加わって日も浅い新米辺りはオドオドした目で神通の横顔を瞳に入れ、下手な柔道をして上司の顔色が変わったらどうしようと終始おっかなびっくりしながらの柔道をしている。やんちゃ娘の雪風にしろ最年長の朝潮にしろその気持ちは大なり小なりで抱いていたが、従兵として仕えて久しい霰だけは同じ横顔に対して、上司がそんな事に目くじらを立てる気もすっかり失せてるのを感じ取って微笑んでいる。普段から何事もトロくてすぐ物忘れをするし、甲高くて濃い京訛りの声は脱力極まれりといった所で、すぐ上の姉の霞はもちろん、後輩の雪風らからも多少呆れられてる始末の彼女だが、上司と接する時間が最も長い故か胸の内が多少は読み取れるのだ。
ましてやちょうどこれから二水戦名物、猿の犬の大合戦が眼前で始まる所だったので、神通の鬼瓦の中にも僅かに口元が綻ぶであろう事を霰は確信している。それは上司にとってただの柔道の試合などではなく、心躍る催し物にも等しい物であったからだ。
『おっしゃーー!! どっからでもかかってきやがれ、エテ公め!』
『言ったな、ワン公め! 今日こそコテンパンにしてやる!』
波打った茶色い髪を歌舞伎役者みたいに振り乱し、特徴的な大きな釣り目を鋭くして大股で構える雪風が吠える。その逆側では、生まれつきの日焼けしたような麻色の肌を柔道着の袖や胸元から覗かせて、色の陰影が明確な出で立ちとなった霞が指を立てて絶叫。互いへの礼もしないという柔道の初歩すらも無視しての舌戦を行いはじめた。
この光景は二水戦の面々ではすっかり見慣れちゃった物で、これに続いて間髪入れずこの二人が怒られる事を全員が知っている。もう一連の流れだと割り切ってるくらいで、一同に呆れの表情を浮かべながら彼女らは両手で耳を塞いだ。
刹那、予想通りのカミナリが甲板に轟くのである。
『この馬鹿が! ギャーギャーわめいとらんでさっさと始めんか!』
『ぐひ・・・!』
『ぅぐ・・・!』
二水戦でも最も個性が強く、負けん気の強さも人一倍のこの両名でも、怖い怖い神通のお叱りに抗う選択肢は無い。これまで二水戦所属の駆逐艦の艦魂として生きてきた中、もう何度この怒号の下にげんこつの降下爆撃を食らい、竹刀で尻を引っ叩かれてきた事か。お互いに嫌悪する中にあってもこうなってはすごすごと指示に従うばかりで、早くも冷や汗を浮かべながら本格的な折檻をされる前にさっさと行動すべく柔道の試合に臨む事にした。
普段から何事においても犬猿の仲で競い合うこの二人。
柔道のスタイルは正反対だが実力は拮抗しており、結構手に汗握る展開で経過していく試合は多い。白星黒星を交互につけ合って推移した戦績も勝敗数は常に同等で、神通も含めて見る側にとっては中々面白い物となっているのだが、今日はちょっとその流れが変わった。
『おるぁあーー!!』
『ぐあ・・・!』
『一本! 雪風の勝ち!』
『うっしゃぁあ! 連勝だい!』
持ち前の強靭な足腰で豪快な払い腰を放ち、艦が動揺するんじゃないかと思えるほどの強烈さで霞をマットに叩き付けた雪風。苦痛に悶える天敵を足元に両手を宙に掲げ、雄叫びにも似た大声を上げて勝利を示してみせた。霞との間では極めて珍しい白星二つを連取したから喜びもひとしおと言った所か、霞を見下ろしてこれ見よがしに拳を突き出している。対して霞は雪風の挑発的な姿にイラっと来て背を抑えながらも即座に立ち上がり、鋭い目つきで睨み返しながら悔しさに打ち震えた。
『ハアハア・・・! こ、この野郎ぉ・・・!』
『ケ! んな目で見ても負けは負けだ、バーカ! あー、よえーよえー!』
『ぐ、ぐぎぎぎ・・・!』
物凄く横っ面を引っ叩いてやりたい衝動に駆られて今にも右手が動き出しそうなのを、柔道の結果という枠でなんとか抑え込む霞。強く噛んだ歯はギリギリと音も聞こえてきそうで、我慢を示す握った拳は爪が手のひらに食い込みそうな勢い。なんとか柔道でこのバカを黙らせねばと何度も胸の内で叫び、普段は人懐っこい丸い目を炎の形にして再選を申し込む。いつもは人懐っこくて後輩思いな所もある彼女だが、根は物凄く熱血で負けず嫌いなのだ。
『まだまだー! もう一回勝負しろー!』
だがそういう人柄と、今しがたの試合で内心では一抹の憂慮を抱いてすらもいるという霞の事は、当人以上に実は神通の方が見抜いていた。折り畳みのデッキチェアに長い脚を組んで斜めに体を流す感じで座り、薄っすらと口元を緩ませている神通は試合が始まってからというもの、一言も発せずに黙って見ていたのだが、憤怒と勢いだけで燃え上がる霞を瞳に入れるやふいにゆっくりとした口調で口を開くのだった。
『ふん・・・。待て、猿。』
『う・・・! は、はい・・・!』
『ちょっと来い。』
負けた直後に上司から直々の呼び出しを受けて霞は気まずそうな顔をする。
お叱りを受けるんじゃないかと経験上で予測が立つし、ましてや他ならぬこの艦魂が相手なれば『いやー、よくやった! エラい!』なんて言ってくれる姿なんか夢にも描けない。デッキチェアの傍らに立て掛けられてる竹刀がこの時ばかりはやけに目立って見え、カミナリの一つも覚悟せねばと戸惑いながらも腹を括る。一度道着の袖で頬の汗を拭った後、霞は小走りで席上の神通の正面にやってきて直立不動の姿勢をとった。
すると語り口調こそさっきと同じで静かなものの、案の定、霞には手厳しいお言葉が与えられるのだった。
『お前は犬と比べて応用が下手だな。型に嵌った戦にしようとする。間違いではないが、それが安直に勝ちに結び付く訳ではない。関ケ原の西軍みたいな物だ。』
『関ケ原の西軍、ですか・・・? あの、裏切りで負けちゃった方・・・?』
『で、ある。西軍統帥部が企図した通りに運んだのなら、三方を取り囲んだ西軍が間違いなく勝ってた戦だ。これは健軍当初の陸軍で教鞭を振るった、ドイツ軍の現役将校でも見抜けた話でな。思い描いた意図が実現するかどうかは、あの戦慣れした戦国武将達でもそれだけ難しい事だったんだ。』
またぞろ歴女っぷりを活かした知識を織り交ぜて、神通は霞の戦い方における不備を指摘した。元々そんなに歴史の学問に興味を持っていない霞はいまいちその真意が解らず首を捻るが、続けて放たれる神通の声に彼女は思わずたじろぐ。
なぜならここ最近の雪風との試合において苦戦する主たる原因を、いとも簡単に神通に見透かされたからだ。
『お前、袖の取り合いで負けてそのまま引手にされてるのが目立つな。』
『うっ・・・!』
『図星か。ま、対抗する為に取り合いになるのも解らんではないが、これだけ試合をしてれば犬がお前より筋力で優れてるのは十分に解ってるはずだ。当たり前に組み手争いに付き合ってるお前が悪い。』
その言葉通り霞はここ最近の試合で非力な面を逆手に取られて負けていた。背丈は同じくらいでも四肢も胴体も細めで身軽な自分に反し、雪風はいくらか身体の部位がそれぞれ太く、肩幅もやや広めで寸胴な体格をしている。しかしおかげで馬力の良さは群を抜いている雪風は、140センチ台と小柄ながらも取っ組み合いがとにかく強い。先般の柔道大会でも20センチ以上も身長差が有る先輩を豪快に投げ飛ばしており、二水戦の仲間内でも随一の力自慢であった。
そんな相手に剛をもって挑んだのが間違いだと指摘された訳だが、柔道における組み合った形とは一番基本的な部分に当たる上、そうしなければ当の霞の方でも技をかけれない。おかげでどこに活路を見出せば良いのか霞には見当がつかず、神通の手厳しい言葉と強面に圧されたのも手伝ってちょっと意気消沈。何も言い返せぬまま小さく俯き、肩をすくめて押し黙ってしまう。
もっとも、こんな部下の様子にこそ光を与えてやるのが、上司として接する神通にとってはすこぶる面白い物であった。彼女はしばし霞の落ち込んだ立ち姿を眺めた後、先ほどの試合中に見せていた口元の綻びを一瞬だけ浮かべると、やがて組んでいた足を組み替える。ふと霞の背後を見れば、こちらの様子を見て天敵が怒られてるんだと思い込んだ雪風がそれを吹聴し、大きく開けた口から八重歯を覗かせてゲラゲラと笑っている。
それを認めた神通は少し前のめりになりながら霞に顔を近づけ、耳打ちをするように静かな声色で語りかけた。
『猿。いっそ自分から袖を差し出してやれ。』
『え・・・?』
『犬はいささか調子に乗っている。ありゃ袖を取れば自分の勝ちだと思い込んでるツラだ。欲しけりゃくれてやれ。要は引手にされなければ良いだけの話だ。そら、私の袖を取ってみろ。』
まさにその引手こそ苦戦の原因だと言うのに、なんと神通はむしろこちらから取らせてやれと言い出す。どうやら袖を取られただけなら引手とはならず、そうしない為の対抗策も有るらしい。不敵な表情でズイっと霞の眼前に己の右腕を突き出してきた。神通は日頃の二種軍装姿のままで柔道着は着ておらず、荒っぽい柔道の動きで掴んで大丈夫なのかと霞はためらうも、微動だにしない神通の強面には憂いも心配も浮かんでいない。まるで今の自身の意気消沈ぶりが偽りだとでも言いたげなその表情に、霞は意を決してその袖口を下から捻るようにして掴んでみた。
鷲掴みに近い動作で霞としても結構指に力を入れたのだが、次の瞬間、神通は取られた袖口より出た己の手首を素早く折り曲げ、まるで蛇が獲物に巻き付くようにして霞の手首に絡めて横に一閃。薙ぎ払う。するとどうだ、力の限り袖を掴んでいた筈の霞の手はいとも簡単に払われてしまったのである。
『え!? ウソ、なんで!?』
『これは関節を極める技術の基礎だが、柔道では教えてないから知らんのも無理も無い。敷島の大親方がかつて三笠さんと編み出した格闘武技の技の一つでな。昔、私も直々に手ほどきを受けたんだ。大親方は敷三式喧嘩術と呼んでいたが。』
『し、しきさんしき、けんかじゅつ・・・?』
組み手争いで詰みかけていた霞の思考に、昔しこたま叩き込まれたという神通の技術が一石を投じた。袖を取られてからだって攻防は続いてるし、非力な自分でも相応の選択肢をまだ持っているんだと考えてみると、雪風との再戦につけて抱いていた憂いもだいぶ晴れる。もともと熱血な性格なので消えかけていた闘志はすぐに火勢を強くし、何度か神通に手捌きの手本を見せてもらった後に、再び袖を貸してもらって己の技術にすべく練習し始めた。
『おいおい、いつまで戦隊長に泣きついてんだよ! かー、これだから猿は嫌ぇーなんだよ、臆病でよ!』
相変わらずその背後ではうるさい遠吠えが投げかけられているが、真っ当に柔道を極めるだけでは身につかない技を覚えれるとあって霞は意識を全く誘われる事は無かった。それに口にこそ出さなかったが、戦隊長直々に勝つ為の重要な一手を教授されるのも嬉しい物である。霞をして言わせれば、間違ってなんかいないと証明せねばならない物がまた一つ増えようとしている訳だ。
『馬鹿者が、それじゃお前の手首が極まるだろうが。上から押さえつけろ。体重を使え。非力なお前でも40キロは有るんだ。いかに犬でも両足で踏ん張って身構えねば、そうそう返せる重量じゃない。身体全体を武器にしろ。腕や脚だけに頼るな。跳んで上から覆いかぶさるくらいでも構わん。飛び跳ねるのはお前の方が得意だろうが。』
『は、はい!』
こうして霞の打倒雪風を掲げた再戦に一陣の風が吹き込み、やがて感覚を掴んだ彼女は神通から踵を返すと改めて天敵に再試合を挑んだ。霰辺りはまた姉が負けてしまうんじゃないかと早くも心配し出しているが、送り出した後に寡黙を貫いて席上から眺める神通は決して心配なぞしていない。元来、理詰めで物を考える彼女は勝てるかどうか解らないという状況で行動する事を嫌う向きが有り、どう転んでも勝てて当然という状況を作り出せとは日々彼女自身が部下に教えてきた、戦に相対する為の姿勢その物である。今しがた霞とやりとりしていたのも、落ち込んだ部下を元気づけよう程度の気持ちで行ったのではない。引手を切るというたった一つの手段を教えてやれば、非力を逆手に取られて連敗中の霞は絶対に勝てると踏んだからだった。その相手が例え呉鎮最強の柔道の腕前を持つ雪風であってもだ。
瞬間、神通は思わず不敵な笑みを作って口を開き、さっきからいささか気に食わない感じになってる雪風に脅しをかけた。
『ふん。犬。』
『む。な、なんスか、戦隊長。猿に何教えたのか知らないッスけど、アタイはそー簡単に負けるつもりはねッスよ?』
『フッフッフ・・・。であるか。既に罠に落ちてるぞ、お前は。ま、精々油断せん事だな。』
『んぐ・・・!? う、うーッス・・・!』
だいぶ含みを持った言い回しをされた雪風は、持ち前の反骨精神に背を押されて不機嫌そうな感じで返事をする。上司相手でも食って掛かる神通の性格を不思議と色濃く受け継いでるのか、顔に比して大きな釣り目と尖った口先はすぐに不満気な胸の内を示してみせ、その鬱憤の矛先を己の前に進み出てきた霞へと向けた。いい加減白黒ついただろと思ってた勝負にまたしても挑んでこられたのも癪に障ったし、上司の後押しが効いたのか自信満々な顔で霞が正対してくるのも大いに気に入らない。
おかげで生来の気短な性格も手伝って雪風もまた闘志を露わにし、再戦に応じる事を荒げた声で示した。
『上等だ、コラァ!! やってやろうじゃねーかよォ!』
鼻っ柱の強さに火が点いて怒鳴り散らす雪風は、もう道理も勝ち負けも知ったこっちゃない。天敵をやっつける事のただ一点に限って湧き上がる憤怒は火山の如く吹き出し、右腕を肩からぐるぐると回して試合が行われるマットへと大股で歩いていく。その間もややもすればすぐに飛び掛かりそうな勢いの獰猛な顔で霞を睨み付け、マット中央にて相対するや鼻息と同じ荒さの手つきで道着の裾や袖を直した。
一方の霞も釣り上げた眉と固く結んだ唇に、三度目の正直、必勝の決意を新たにした面持が浮かび上がる。
そしてその他の仲間や姉妹達に至っても、これから始まる両名の試合が白熱の一戦となると一様に認め、時を経ずしてそこには堰を切ったように声援が飛び交いだした。
神通も皆の視線が霞と雪風に集中したのを見計らってそっと笑みを浮かべ、頬杖を突きながら試合の開始を促す。神通艦甲板上の誰もがこの一戦に熱中していた。
『よし、試合を始めろ。初風、お前が審判だ。副審代わりに私も見てやるから、際どくて判定が難しかったら言え。』
『あ、はい! それではー! 試合はじめまーす!』
さながら龍虎、もとい犬猿相打つ決戦だ。
雪風と霞の両名の集中力も観衆の盛り上がりも最高潮で、その中心にて審判として掛け声を発せねばならない初風は緊張が一層高まる。誰よりも早く冷や汗を頬に滲ませて一度唾を飲み込んだ後、初風はお互いと正面に礼をさせ、次いで両腕を交差させながら高らかに始めの声を放った。
瞬間、霞と雪風はほぼ同時に地を蹴って間合いを詰め、早速互いの襟や袖を取り合いを始める。前傾姿勢を取りながらできるだけ有利な体勢、及び掴み方をしようと組み手の応酬がされる中、全般的な動作の素早さでは霞の方が上回っている。だがパワーの面で優る雪風は先制されてもいとも簡単に霞のそれを振りほどいてしまい、お返しとばかりに掴み返すとそれこそ闘犬の如く食らい付く。大方の、神通の、そして当の霞の予想通り、雪風に続く形で霞は袖と襟を掴み返し、二人はお互いにやや腰を落とした組んず解れずの形態となった。
『うっしゃ!』
『ぐう・・・!』
雪風も当初から狙っていたらしい展開がここに成り、すぐさま彼女は相手の重心を崩すべく襟や袖を力任せに引っ張ったり押し付けたりしながら攻勢に出た。四肢は勿論、腰も使って繰り出す雪風の力は結構なもので、特に井戸の手押しポンプみたいな動きで上下に揺さぶるのが彼女の得意技。軽量な霞は堪えるので精いっぱいなのだが、何度も何度も地面に突っ伏そうとする勢いで振り動かされると次第に片足がマットから離れそうになってくる。転覆よろしく、霞の重心が崩れかけているのだ。
『ふんが! ふんが! ふんがぁー!』
『うあ・・・! く、くそ!』
組んだ状態で全く自由がない霞は雪風の力になすがままで、足を大きく開いてなんとか踏ん張ろうとする以外にできる選択肢が無かった。おまけに力比べで体力の消耗も一段と激しく、試合は始まったばかりだというのに浅黒い褐色の顔に汗がダラダラと流れている。掴み返した雪風の袖や襟を離さないようにするのが精々で、形成が不利な試合の展開となっているのは一目瞭然だ。
『雪風ねーちゃん、いけー!』
『ひえぇえ。毎度の事だけど、すげー足腰してるなぁ。雪風のやつ。』
『あ、あかん・・・! 霞姉さん、頑張って耐えるんや・・・!』
観戦する仲間達もこの状況では雪風が有利と見ているようで、まだ柔道にそう経験が無い最年少の天津風や時津風も姉の勝利を予想している始末。心配性の霰は霞が負けると思い、皆に先駆けて悲鳴じみた声を上げている。
ただ、席上にて不敵な笑みに頬杖という恰好のままの神通だけは、戦況不利と見てもそれがそのまま霞の敗北に結び付くとは考えていなかった。攻防は駆け引きという流れの中に比率を変えながら常在する、という考え方を堅持して部下達にも常々教えてきたし、こういう不利な状況を打破すべく自ら霞に策を与えてやったのもついさっきの事。加えて熱血に押されて多少無理をする所は有るものの、最後の瞬間まで戦意を燃やして絶対に諦めず、あの柔道大会の時の様に終始上司の教えを貫こうとする霞の性格から考えれば、こんな事で勝敗が決まるなどとは全然思っていない。
『おらおらー! オラァッ!』
『く・・・! こんのぉ・・・!』
力任せな柔道に苦戦がさらに色濃くなった霞は上体も崩れ、雪風の腕により前後左右に大きく揺さぶられている。
どんどんと状況は悪くなっていて敗色濃厚な霞だったが、それを瞳に映す神通の顔から薄ら笑いは消えていない。渾身の力を振り絞って片目を瞑り、強く噛んだ白い歯を歯茎もろとも口から大きく覗かせた、霞の必死の形相。少し心配もしてしまうし直視するのに抵抗もやや生ずるのだが、神通は不思議とそんな霞のしかめっ面が好きでもあった。
・・・諦めるな。
まだだ。まだ、終わっていないぞ。
最後まで戦うんだ、霞。最後の瞬間まで・・・。
16人の部下を抱える立場から中立でなければいけないと常々意識して来た筈の神通が、微笑の裏でついつい応援の言葉を脳裏に過らせる。自分と同じ機動力重視の柔道を身に着けて戦う霞の戦ぶりが、神通の意識における針路をどうしても誘った。ただの贔屓だと言われれば何も返せなくなる理屈なのも、己の信念を曲げたような考え方なのも解ってはいたが、彼女の理性は胸の内で大きく応援の声を上げるのを止める事はできない。決して一言半句も口に出さない中で、この時の神通は心の底から霞という教え子の勝利を願っていた。
しかしそんな彼女の目前で、事態は予想通りの展開へと移行した。
動揺激しく不安定さを増した霞の体勢を見計らい、雪風が大きく足を開いて彼女の身体を真横に思いっきり引っ張り回す。その動きは上から見ると綺麗な円を描くような軌道で、ありったけの腕力と遠心力を霞の身体に与えた刹那、相手の腰を自らの腰に乗せるような格好とした雪風は同時に右足を蹴り上げるようにして払った。
するとこれまで踏ん張ってきた霞の両足はついにマットから完全に離れ、雪風の腰の周りを旋回するようにして宙を泳ぎ始める。
内股と並んで雪風が得意とする払い腰を、これ以上ないくらいの絶好の姿勢でかけられてしまったのだ。
『うらぁあーー!!』
『うわあ・・・!?』
苦手な力比べでだいぶ体力も消耗してた霞は抗う間もない。気付いた時には袖と襟を一杯に引っ張られ、身体も完全に浮き上がってマットに急降下し始めようかという所であった。もっと思考、体力共に余裕があったのなら持ち前の身軽さを武器に宙返りや側転なんかで躱す事もできたであろうが、そうはさせなかった雪風の力を主とした支配力にまたも引き摺り込まれてしまった。周囲でひときわ大きな歓声と悲鳴が一斉に上がり、目前にぐんぐんと迫りくるマットはまさに敗北の奥底以外の何物でもなかった。
くそ! も、持ってかれる!
ただ、何事にも素早さをもって挑める身軽な霞は思考の巡りも結構早く、一瞬の内での攻防は頭も身体も雪風よりは上である。非力さばかりが目立った試合の流れの中で瞬間的にだが彼女は先手を取り、自身の身体を誘因する力の殆どがほぼ袖口辺りである事に気付く。いわゆる引手という奴で、強引に袖を引っ張っての払い腰を受けているのだと再確認した上で、彼女は先ほど上司に教えてもらった引手切りの秘策を繰り出す事にした。身体全体を使っての動作はもはや不可能であったが、手首から先を使って袖を取る雪風の手に外側から巻き付ける。次いで上から強く押さえつけてやると、さっきまであれほど力を込めても逃れられない程に鷲掴みされていた霞の袖は、神通の教えた通りに雪風の指や掌からスルリと抜けたのだった。
『お!? あ、ぁんだぁ!?』
『くぅおお・・・!』
袖が離れて雪風の投げは完全に崩された。一応もう片方の手で襟は未だに掴んでるのだが、さしもに片手のみで自分と同じ体躯の霞を投げ飛ばす事はできず、動きはみるみる失速していく。俊敏な霞には十分な余裕となり、持ち前のバランス感覚を発揮しだしながら声無く胸中に叫んだ。
よし! 引手さえ切れば!
未だ宙を泳ぐ中でようやく自由を得た霞は瞬時に身を捻って着地の姿勢を整え、仰向けで反るような格好となりながらも一本判定に結び付く背中からではなく、まず両足を先にマットにつける事に成功する。するとすぐさま彼女は雪風の腰に両腕を回して顔を埋め込む勢いで深く力一杯に抱きつき、そのままさらに脇下へ潜るようにして雪風の真横、次いで背面と素早く回り込んだ。その動きは霞らしいあっという間の早業で、雪風は崩れた払い腰の姿勢を立て直した頃にはもう背後から腰に抱き着かれている有様だった。
『ふが!? くそ、この猿め・・・! は、離せぇ!』
『この野郎! ぬおお!』
とっさに腰を落として重心を低くした雪風は、ちょうどへその辺りにきていた霞の袖を再度掴んで自由を奪う。しかし両袖を掴んでも相手は背後の為に投げ飛ばす事は至難の業で、霞が与えてくる揺さぶりに対抗するのが関の山。荒い仕草で身体を振り、力任せに袖を引き離そうとするも、頬を圧するくらいに霞の抱きつきは深くて中々動かない。攻守は見事に逆転しており、焦りの色合いを顔に浮かべながら背後からの猛攻に耐えている。時折足を引っ掛けてくるのも重心を低くしたおかげでなんとか耐えれていたが、ほぼ攻め手が無い状態だった。
ところがもともと取っ組み合いその物に強い訳ではない霞も状況はほぼ似たようなもので、得意の一瞬で懐に潜り込む飛び掛かるような突進力も、いくら背面を取ったとは言え密着状態では発揮できないでいた。それに片方の頬を押し付けて組み合っては、何より相手の姿も見えない。手探りしようにも今手を雪風の道着より離したなら、両袖を既に掴まれているので間違いなく投げ返される。暴れ狂うような雪風をなんとか抑え込みながら、彼女は必死にこの状態を打破する策を練るべく思考を巡らせていた。
ちくしょー! 今更だけどこいつ、なんて腰が重いんだ!
まるでマストにでも抱きついてるみたいだ!
う、動かない・・・!
横に薙ごうとしても、足をかけて引き倒そうとしても相手は動じない。力任せに押してみても当然結果は同じで、このまま続けたら無駄に体力を消耗するだけだと認識。また雪風を離したら反撃をくらう公算も大きく、なんとかこの背面を取った状態で決着をつけねばと思うのだが、それを可能とする良い決め手が彼女の知る柔道技には殆どなかった。いくつか有ったとしても非力な霞には到底不可能そうな物ばかりで、霞の長所である俊敏さと身体の柔軟さは役立ちそうにはない。
傍から見れる攻勢としては有利に見えても、実は雪風以上に八方塞がりな状況なのであった。
だがその時、霞の頭の中にはふと試合直前に受けた上司の酷評が浮かぶ。
大嫌いな天敵より下手で劣っていると面と向かって言われたのはちょっとショックでもあったが、神通が口にしたのは非常に単純明快な道理であり、理屈であり、客観的な事実。飾った世辞でも企図した称賛でもないまっすぐな言葉は、ありのまま受け止めればこれ以上ないくらいの助言である。刺々しい表が有っても卑しい裏は無い。大体がこの神通という艦魂は、相手がどうあれ言動に遠慮をしないのは周知の事だ。
応用・・・! 変に拘んないで、習った事を上手く組み合わせるんだ・・・!
そう唱えながら懸命に考える霞は、数ある柔道技のどれを使って倒せば良いのかというそれまでの考え方をまずやめてみた。確かに絵に描いたような投げっぷりで一本を取れれば見栄えは良いし、普段からいがみ合う雪風が相手ならぐうの音も出ないだけの勝ち方ができれば気持ちも爽快だ。だがそうは行くかと相手も対抗してくるのだから、いつも綺麗な勝利を望むなんてのは少々厳しい。泥臭く、僅差で相手を上回るというのも立派な勝利だ。
故に霞はあえて思考の中に投げ技の名を出さず、時折雪風が暴れるのを必死に抑え込みながら、どうすればここから彼女をマットに沈めれるかという観点で色々と頭を捻る。
い、一本て、背中がつけば一本だよな・・・!?
要は足掛けようが押し倒そうが、地面に背中つけさせれば良いんだ・・・!
そ、その為には・・・、えーい、暴れんな! クソ!
慌てるのも焦りも有る中では考えもたどたどしくなる。霞自身がこれまで持ってきた概念も捨てての考慮は大波の様に動揺していたが、その芯に有るのは神通の教え。あたら言いたい事を言っただけが先ほどの呼びつけではない筈だと思った瞬間、霞は雪風の背に顔を埋めたまま目を小さく見開く。記憶から検索した上司の言葉に、天啓を得た気がしたからだ。
『体重を使え。非力なお前でも40キロは有るんだ。いかに犬でも両足で踏ん張って身構えねば、そうそう返せる重量じゃない。身体全体を武器にしろ。腕や脚だけに頼るな。』
引手切りの秘策を教えてもらった際に受けたこの言葉。
霞はこれを少し捻った見方で考えてみた。軽量とは言え実際に霞の体重は40キロちょっとくらいで、雪風はもう少し有るといった所。それを難なく持ち上げれる雪風の剛力さに苦戦している最中で、非力な霞は数秒ほどちょっと浮かせるくらいが関の山なのだが、では彼女の身体にそれだけの力は絶対に宿っていないのかと言えばそうではない。霞の両脚や腰は40キロ有る彼女自身の身体を常日頃から支えていて、よっぽど激しい運動でもしなければ制御不能になった事なんかない。あの柔道大会の時などは、重度の捻挫を起こしながらでも自身の身体を支えてくれていた。
つまり上半身では発揮できなくても、下半身も含めればそれだけのパワーは霞にも潜在している筈なのだ。
手や脚だけじゃない・・・! 腰や膝も、指から背筋まで全部使って、それでなるべく重心の下を抱えさえすれば・・・!
よし!
作戦は瞬時にまとまった。
すぐさま霞は力を振りぼって何度か雪風の身体を左右に力任せに振り、激しく揺さぶろうとした。もっともこの攻勢は背後を取って後、もう何度目になるか解らない上に一度も雪風の身体を左右どちらかに倒す事に成功していない。案の定、大きく開いた両足で雪風に踏ん張られてしまう。
『この! この! このぉー!』
『ふがが! そんなん食らうか、バカめ!』
雪風はへその辺りにある霞の両袖を強く抑え込み、背に密着する霞の顔を支点にする様にして抗ってきた。四肢にありったけの力を込めて背を反らせて霞の動きを抑えようとするが、実はこれこそが短時間の内に天啓を得て閃いた霞の作戦だった事を彼女は知らない。
次の瞬間、霞は膝を軽く折って僅かにしゃがみ込むと同時に、自分の胸板に雪風の尻を乗せるような体勢となるや否や、渾身の力を込めて今度は膝を伸ばし始めた。
『ぬうりゃああ!』
『うお!?』
両脚で踏ん張った事によって雪風の重心は横方向にぶれずに中央で維持され、上半身を反らした事で後方への傾きが強くなっていた。背後からの圧力に抗うのなら有効だったが、足元をすくう勢いで下から突き上げると身体は後方に流れやすい。身軽さを武器に常日頃から披露しているバク転や側転で、霞はこれをよく知っていた。後は上司の教えと己の体重を支えてきた身体全体を信じるのみ。
本日一番の咆哮を伴いながら足の指をマットに食い込ませ、膝を伸ばし、腰で重心を操りつつ自分もまた背中を後方へと大きく反らせる。この一連の力の流れを持ち前の俊敏さで一瞬の内に行った末の光景に、神通も含めた周囲の仲間達は度肝を抜かれて目を大きく見開いた。
拳一つ入るか入らないかの高さではあったが、なんと雪風の両足はマットから浮き上がってしまっていたからだ。
『む!?』
『な、なにいー!?』
『か、霞先輩が・・・!』
『雪風ねーちゃんを担ぎ上げた・・・!?』
この二人を知る者が見慣れた試合の姿において、今日のそれぞれの立場は正反対であった。戦隊内でも力自慢なら下から数えた方が早い霞が、曲がりなりにも呉鎮最強の座を馬鹿力で勝ち取った雪風を持ち上げるなんて、皆この時初めて目にした。
神通も思わず口を開けたまま椅子から身を乗り出し、自分が予想していた以上の展開になった事に仰天。特徴的な日本刀の刃先を思わせる目も周囲の少女達と全く同じになっており、背後を取ってさらに真後ろへと円軌道を描いて引き倒そうとする霞の技に目を見張る。同時にこの時彼女は、それこそまだ自分が眼前の雪風と瓜二つな顔をしていた頃、師匠格の艦魂から一度だけその存在のみ聞かされていた、奥義と呼ぶにも等しい強力な投げ技のお話しを脳裏に蘇らせていた。
こ、これは・・・、まさか!?
かつて三笠さんが編み出し、敷島の大親方をも破った時に使ったという、あの伝説の・・・!?
括目極まる神通がそう頭の中で叫んだのに続き、彼女のおぼろげな予見はすぐに現実となってそこに現れた。気力と全身の筋肉の全てを使おうという意識の下、足首から下までも動員して霞は雪風を抱え上げたまま爪先立ちとなる。身体の反り返しも一杯になって雪風の身体は半円軌道の頂点を過ぎ、背中を下にしてマットに向かってついに降下し始めた。
『うわああ・・・!』
後ろ向きに投げられるなんて初めてだった雪風は足を宙にバタバタさせるばかりで全く対応できず、辺りの景色が見た事も無い角度で流れていくのに頭も真っ白になった。唯一解ってるのはがっしり深く腰に組み付いた霞によって自分の背中がマットに向かっている事だけで、どういう格好で投げられているのかすらも理解できていない。今更ながらに天敵の十八番は一瞬の早業だったと思い起こすも、既に雪風には抗う為の具体的な選択肢が何一つ残ってはいなかった。
担ぎ上げても尚、霞は雪風の背中や腰に密着したままで、身体の自由は奪われたままであったからだ。また、当の霞もそれを狙っていた。
離しちゃダメだ! 少しでも緩めて身体の向きが変わったら、足を絡められる! 返し技がこいつ上手いからな!
このまま抱き着いた状態で背中を叩き付けるんだ!
力の限りを使っての投げ技に強く噛んだ歯が口から覗き、眉間にしわを寄せてつぶった目はもう霞に光を与えていない。でも見えなくても十分だった。猿とあだ名されて体操運動が大の得意の彼女には、上司の神通ですら舌を巻くバランス感覚、空中感覚が備わっている。背を目一杯反らして雪風の身体がマットに向かった時から、霞は慣れ親しんだバク転をする様に全身を使えば良いだけだった。もちろん、両腕は雪風の腰をむんず掴んでいるので着地に使う事はできないが、既にこれに対応する手段も思考の中で構築済みである。
武技教練の科目の一つ、体操の運動でこれまた彼女が得意だった物をやれば良いだけなのだ。力では負けても身体面での霞の主武装は俊敏さと、そして柔軟性。彼女は足の裏に手のひらをつけたままで屈伸もできるし、開脚なんかは前後左右180度まで開く事もできる。生来、とにかく身体が柔らかい少女だった。
そのおかげで二水戦の仲間内でもただ一人、彼女だけができた柔軟体操のブリッジを、この投げ技の最後の仕上げとして霞は敢行。急に雪風の身体が流れる速度が速くなったと思いきや、事ここに至ってようやく本日の猿犬合戦は終局を迎える。
雪風の断末魔に続いて神通艦全体を揺らすほどの衝撃を伴いながら、雪風の背はマットに激しく叩きつけられたのだった。
『でえりゃあ!』
『ぐっへぇ・・・!!』
爪先と脳天の三点で反り返った身体を支え、ついでにマットに叩き付けた雪風の背も使って霞は着地した。爪先から首まで曲線で結んだ如く綺麗に反らし、柔らかい身体をこれ以上無く発揮した見事なブリッジとなっていた。
一方抱えられままの雪風は大の字の上半身に両脚を裏返しで被せて、尻を天に向けている。尻もちをついた姿をちょうど上下逆さまにしたような格好で、その背中は肩や首も含めて完全にマットの上に敷かれていた。
だがそのあまりに柔道からかけ離れた光景に歓声は湧かず、仲間達はしばし唖然として口と目を開けたまま吐息も漏らさない。審判の初風も驚愕の表情のまま硬直してしまっていて、そも霞が繰り出した技は投げ技だったのかどうかもイマイチよく理解できていなかった。
そんなみんなの視線が集中するど真ん中で、やがて雪風から絡めていた腕を外した霞がおもむろに立ち上がる。大激戦と力比べの消耗で相当疲弊しているようで、前髪から雨露の如くボタボタと汗がしたたり落ちている。大きく肩を上下させて荒い息を吐き、フラフラとした足取りで彼女は初風の方にゆっくりと近づいてきた。
『う、うわぁ・・・!』
『ゼハ、ゼハ・・・! は、初風ぇ・・・! は、判定〜・・・!』
腹に力の入った低い声色も手伝って、なんだか墓場から蘇ったお化けみたいな感じもある風体の霞に、思わず初風も先輩だということも忘れてドン引き。もともと肌が褐色なので怖さは一層引き立ち、激戦の余韻として残る血走った目にはつい後ずさりまでしちゃう始末だった。
もっとも殺気立った霞の言動に他意は無い。研ぎ澄ませた集中力と闘争心の炎がまだ勢いを保っているだけで、その証拠に初風が怖がった直後に木霊した上司の言葉を耳にするや、霞は嘘のように顔を一瞬で明るくして右腕で天を衝くのだった。
『・・・一本! 猿の勝ち!』
『うっしゃああーー!!』
怒鳴る以外で大声をそうあげない神通が、叫ぶように霞の勝ちを宣言した。
霞は飛び跳ねるようにして勝利を喜び、未だ口を開きっぱなしの仲間達の内、同じ一八駆の霰や陽炎、不知火らの所に駆け寄って肩を叩き合う。周囲の仰天模様も静寂も全く気にならないようで、ほぼ彼女一人で気勢を上げて勝利に酔いしれている。
『やっとあの犬っころ退治してやった! 見た!? 見たっしょ!? よっしゃー!』
『か、霞さん、すげー・・・!』
『よ、よく担ぎ上げましたねえ・・・。霞さんがあんな上から相手投げるの、わたし初めて見たですよぉ・・・。』
『な、なんやったん、あの技? 抱き別れ、ともちゃうやんなぁ・・・? 裏投げでもないし・・・。』
『こまけー事ぁ良いんだよ! ちゃんと戦隊長も一本って言ったんだし、みんなもっと喜べよー!』
興奮おさまらぬ霞は両手を頭上に挙げて片足を交互に使いながら飛び跳ね、いつになくはしゃいで騒いでいる様は本当に猿みたいである。まだ若干呆然とした感じの同僚らに囲まれて一人笑顔を弾けさせている姿もちょっと異様な感じであったが、再び微笑を取り戻した神通はその様子を小さく頭を掻きながら静かに眺めている。
連敗を止めてやろうと道標になるような助言を与え、それを即座に物にして独自性溢れる形で結果に結び付けたのは教育者冥利に尽きる光景だった上、あろう事か伝説扱いにまでなっている大技として見れたのも良い意味で意外であった。なにより自分を一番に慕ってくれてる霞がこうしてライバルに勝てた事が、神通にはなんだか自分の事の様に嬉しい。誰に見られてる訳でも気付かれてる訳でもないのに、ちょっと照れくさく思えて無意識の内に彼女の右手は頭を掻いていたのだった。
ふっ。やれやれ。
しかし面白い物が見れたな・・・。
あれは私や金剛の親方でも習得できず、敷島の大親方ですら稽古中でしかできなかった程の技だぞ。
これは・・・、今度親方に会ったら教えねばなるまい。
まだ修行してた頃の昔の自分をちょっとだけ思い出し、口元のしわを深くした神通。胸の内から来るおかしさに僅かに目を閉じて耐えた後、そういえばそんなあの頃の自分と顔立ちが瓜二つな奴が霞の相手だったんだなと思い出して口を開く。
『おい、初風。』
『あ。は、はい・・・!』
『犬は? さっきからその不格好な姿勢のまま動かんが?』
見ればマットの中央では、雪風が未だに上下逆さまの尻もち状態のままで鎮座している。負けた事がショックだったのか、それとも打ち所が悪くて動けないのか。仰向けなのに尻を青空に向けたままという何とも奇妙な姿で横たわっていた。どうした事だと同じ一六駆所属で一番下の妹に当たる天津風、時津風らも心配しながら駆け寄ってきて、初風と一緒に恐る恐る雪風のすぐ傍でしゃがみ込むと顔を上から覗き込んでみる。
『雪風ねーちゃん、大丈夫?』
『お〜い、雪風姉さ〜ん・・・。』
すると雪風はあの特徴的な大きな釣り目はどこへやら。その瞳はまるで鳴門の渦潮もかくやと言わんばかりにグルグルと回っており、全く力のこもっていない間延びした呻き声を漏らすのも併せて、その容体を妹達に無言のまま伝えてくれた。
初風はそれを確認するやしゃがんだままで神通の方へと振り向き、短く返答する。
『ふぎぃいぃ〜・・・。』
『・・・ノ、ノビてます・・・。』
初風の声が静かに甲板上に響いたその瞬間、神通は突然顔を下に向けて口元を覆う様にして手をかざした。
愛弟子が自身の教えをすぐさま実践して結果を出した嬉しさに加え、師匠格も含めて体得できなかった高難度の大技をその目で見れた事への喜び。そしてあれだけ調子に乗って煽っていたにもかかわらず、こうもまた無様に負けた昔の自分とそっくりなもう一人の愛弟子。目を回して気を失ったというその見事なまでのやられっぷり。
それら全てを通して心の中に噛みしめた時、神通の強面と理性は込み上げてくる可笑しさによってついに崩壊した。
刹那、小刻みに肩を律動させて圧搾空気みたいな息を噴出したのを鏑矢とし、神通はもはや顔面が崩れたと形容しても差し支えない程の満面の笑みを頭上に向けて大笑いするのだった。
『フハハ・・・! ハァーハッハッハ!』
とにかく可笑しくてならず、終いには腹を抱えてけたたましく笑い声を打ち上げる。いつも不愛想で横柄尊大、命令口調が至極当たり前で他人の気持ちなんか屁とも思わない人柄の中、こうも大笑いするのは極めて珍しい出来事であるも、この稀有さこそがその場にいる部下達の心身における硬直を一斉に解く。なんだか解らないけど今はとにかく笑っても良いんだと思うと、少女達の瞳に映るもので最も可笑しかったのはやはり奇妙な姿勢で目を回してノビてる雪風。荒っぽい言動と持ち前の鼻っ柱の強さでうるさいほどに霞を子馬鹿にしてたアレは、一体何だったのか。誰もが一様にその言葉を脳裏に浮かべるや否や、誰というでもなく彼女らもどっと笑い出す。やがて勝ちの宣言を受けて以来ご機嫌な霞と一緒な程に皆の笑い声は音量を上げていき、決して人には聞けぬ物ながらも神通艦の甲板は大いに騒がしくなった。
それは時に厳しく、時に面白おかしい二水戦の日々が詰め込まれたような時間で、指揮官も含めたほぼ全員が腹の底から笑った。神通にとってもここ最近鬱憤を募らせていた子隊供出の懸案も一時忘れ、大事故から復帰も目前に迫った部下の元気な姿に安堵し、そして見る側としても教育者としても実に楽しく、嬉しい思いのできた、本当に久しぶりの良い一日となったのであった。
ちなみにこの日霞が披露し、神通が知る限りそれまで史上一人しか使い手がいなかった上に、悪ガキ極まる雪風をも一撃でノックアウトしてしまった程の超強力な、あの投げ技。後年、あるドイツ人格闘家によってこの国では知られる事になり、その名を「ジャーマンスープレックス」と呼ばれる事になる。
間違いなく拙作中では書かないでしょうが、ニコニコ見てて閃いた( ゜д゜ )
in レイテの帰り道
長門『なんでや! なんでワシかばったんねん、金剛!』
金剛『ワレ何段や~・・・! ワレ何段や~・・・!』
長門『級だい!』
金剛『その言葉が聞きたかったんやぁ・・・、おおきに・・・!』
パリーン
金剛『あの世に渡る、餞別や~・・・!』 ガク
心ならずもたがえた絆、いまさ・・・(ry
こんなんどうでしょう?w