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第一六五話 「興味に通じ、達者なれ」

 盆も過ぎた8月半ばという時期は、この国では夏という季節の色が極めて濃くなる頃である。

 照りつける太陽はうっとうしさも覚えてしまうくらいに熱気を浴びせ、地方によっては40度にも迫る勢いで気温を上げさせる。四方の空のどこかには積乱雲が聳え立ってるのに不思議と陽光を遮る位置にはやって来ず、野外でのお仕事に精を出す人々の中には熱中症でぶっ倒れる者も出てくるようになる。普段は元気に吠えたててる犬ですら軒下の影に涼を求め、舌を出しながら荒い息遣いで倒れ込んでる始末。喜んでるのはせいぜい虫達くらいの物であろう。

 その代表格にして季語の一つにもなる程に存在感を発揮しているのは、数年越しに地中から出てきて求愛の大合唱をしている蝉の皆様方。全国津々浦々、カラスと彼らの声を耳にせぬ所は無いのがこの日本の夏の相場と言った所であるが、本年は軍港を構える地にあっては例外となった。

 戦備促進の一大工事作業が実施されているからだ。


 おかげさまで呉軍港も工員さん達は交代勤務制を敷かれて昼夜分かたぬお勤めとなっており、無機質この上ない工場が職場なら、そこにある重機や工作機械の音も24時間鳴りっぱなしの労働環境である。季節感なんてまるで有ったもんじゃない。

 先ごろ終わったばかりの盆休みが早くも恋しくなりつつの、多忙な一日を送っていた。




 同時に工作艦たる明石(あかし)艦も工場区画は賑やかな事になっており、各甲板では艦の運用に携わる乗組員よりも工員さん達の働く姿がだいぶ目立つ。伊藤特務艦長さん以下、ちょっと肩身が狭いくらいの感じも覚えており、科長級の幹部らも揃って羅針艦橋に居場所を得ているのも業務上の理由よりは、工作部の邪魔をしないようにという配慮、遠慮も少し有ったのかもしれない。

 夕暮れを過ぎて夜になっても工場の稼働は続いており、機関の排煙を担当する後部の煙突よりも明石艦の真ん中程にある工場区画用の煙突の方が元気良くもくもくと煙を上げている次第だ。


 その一方、決して業務上の理由でこそなかったが、同じ明石艦の艦内にはせっせと一人机に向かうとある乗組員の姿が有った。

 日中の服務を終えて士官次室での食事を済まし、自分の部屋に戻って上着や軍帽もハンガーに掛けた後、彼はまるで宮本武蔵みたいに煙草と鉛筆を左右の手に握った状態で何事かをノートに書き綴っては頭を捻っている。時折鉛筆の逆側でやや伸びた坊主頭を掻いたりもして実に忙しそうな様子だが、特に何某かの期限に迫られている訳でもないのでその優男の顔立ちは特段歪んだりはしていない。むしろ背後からノートを覗き込んで声をかけてくる相方との会話を楽しみつつの、気楽ながらもちょっと頭を使うという今の時間を面白がっているくらいだ。


『像を拡大・・・? 倒立像・・・? な、なんじゃこりゃ?』

『そう難しい事じゃないよ。焦点を虫眼鏡とかルーペで拡大して見るって事だよ。でもレンズによって焦点の距離は違うから、この焦点距離を正確に測った上で拡大鏡を配置しないとダメなんだ。ピンボケした写真が良い・・・、あ〜いや、悪い例かな。見張りで使う双眼鏡とか、照準器とか測距儀も原理は変わんないよ。まあ、このままだと上下左右真逆に見えるけどね。』


『・・・森さん、でも双眼鏡って真逆に見えた事無いよ?』

『それはプリズムが入ってるから。あー、つまり鏡で反射させた像を見せる構造になってるからさ。ほら、洗面所の鏡でもそうだけど、歯磨きしてる時とか、右手で歯ブラシ持ってるのに鏡に映ってる自分は左手で持ってるだろ? ちょっと乱暴な言い方だけど、それを応用してるんだよ。う〜ん。明石、今ので解る?』

『ぬ〜〜〜、解ったような、そうでもないような・・・。』


 (ただし)の肩に乗せるようにしながら明石は難しい顔を作り、同時に首を捻っている。忠の語りは割と初歩的な物理の知識を言っているに過ぎないが、生来学校なんて行った事が無い艦魂の明石にとってすぐにはピンと来ないのも無理は無い。逆に忠はこれでも中学を優等で卒業した後、国内でも有数の理数学の学び舎たる海軍兵学校を出ているのであって、得意という訳でもないが数学や物理の基礎知識は平均的な日本人の枠で比べれば元々高いのだ。双眼鏡なんかの原理も勿論ちゃんと理解していて、その応用として明石が突如として調達を相談してきた天体望遠鏡の製作に取り掛かっている所であった。


 なんでもかの大和(やまと)艦の艦魂さんが御所望なのだそうで、同じ子弟一門の者として明石はその願いをどうにか叶えてあげたいとの事。曰く、大和はとても可愛らしい少女の出で立ちで明石にはよく懐いてくれ、妹分みたいな感覚が強いのでそのささやかな夢をどうしても実現してあげたいのだという。


 なるほど、元々姉妹がいない明石にとってはとても大切で愛おしい存在なのだろうと忠も思うのだが、ここ最近頻繁に昼間に甲板から目にするあの大戦艦の命が、あろう事か線の細そうな少女の姿をしているというのは意外というか不釣り合いというか、ちょっと彼にはしっくりこない所が有る。まあその辺をツッコんだら何か面倒な感じもするし、逆に「なぜ森忠という男は、そういう顔と体躯をしてるんだ?」とでも言われたら忠としてもそれこそ返す言葉も無い。明石と付き合う中ではいつも通りの、そういう物なんだという認識で良しとして彼は件の天体望遠鏡の製造に力を貸す事にし、その一番最初として原理図や設計図を作っているのが今なのである。

 あくまでも勤務の終わった余暇に顧みも求めずやってる物だったが、煙草片手に片手間でやる気楽さも心地良いし、口には出さなかったが相方と過ごす時間が得られるのも彼にとっては心の面で貴重であった。だから決して忠は不機嫌でもないし、特段面倒だとも嫌だとも感じていない。人外の存在たる艦魂達の中でのお話しであっても、明石が自分を頼ってくれたのは嬉しかったし、なにより一緒になって何かをするのが心の底から楽しかった。


『ふ〜む、焦点距離がどのくらいかによっちゃうけど、大体こんな感じになるかな。木具工場で出た廃材辺りを使えば、外枠だけは作れるんじゃない?』

『老眼鏡とか虫眼鏡をレンズにする、かあ。・・・森さん、こんなんでホントにお星さま見れるの?』

『ははは。まあ、良いレンズが手に入るのに越したことは無いね。』




 こうして天体望遠鏡の調達は始まった。

 呉在泊はしばらく続く艦の予定も好都合で、忠は非番の日を利用して呉の町に足を運ぶ。レンズになる市井の老眼鏡や虫眼鏡を買う為だ。

 呉は大阪や帝都東京に比べるとずっと小さな街だが、明治中期から呉鎮守府、及び海軍工廠のお膝元として発展してきた軍都。市内の会社や工場なんかには海軍へ製品を納入する物も多いし、飲食店や居酒屋、料亭に旅館も観光客よりも海軍関係のお客さんが殆どだ。おかげで老眼鏡や虫眼鏡を買うのは人生初めてであった忠の買い物も、明石艦の舷梯を降りていく際に抱いていた多少の憂いが嘘のように順調に進む。眼鏡屋の場所が解らずとも、街の人々は純白の二種軍装に身を包んだ青年士官に親切に接して教えてくれたし、元々兵学校にて汗を流していた頃にこの街に足を延ばした経験も有ったので文房具屋とかならすぐに見つける事が出来た。


『おやまあ、海軍さん。何かお探しですか?』

『ああ、どうも。ちょっと虫眼鏡か拡大鏡を探してまして。』


 海軍の街だからどこに行っても邪険にされない。文房具店に入ってすぐに店の親父が傍にやってきて、店内を見回して品物を探している忠の手伝いを買って出てくれる。たまたま店内にいる親子連れも忠に気づくや笑みと敬意の視線を送ってくれ、肩越しに背後から聞こえてくる小声の会話も彼にとっては心地よかった。


『おー、トモ。見んさい、海軍さんじゃけん。』

『お。とと、ありゃ士官さんじゃ。かっけぇのう。』


 呉の街を歩く中にあって、絶えず彼の足が赴く先にはこんな雰囲気がつくられていた。決して自分の為の買い物ではなかったが悪い気も湧かず、少年時代に淡い憧れを抱いた海軍士官の姿に自分もいよいよ重なって来たかと今更ながらに思うと、なんだかもう少し街を散策しても良いような気がしてくる。無論、相方は目的の物が手に入ったならさっさと帰って来いと言うに決まってるのは聞かずとも解っているも、ようやく一端の士官になった姿をもっと見てもらえないかという衝動が出てくるのは、彼なりの自信と成長の現れと言った所か。少しだけ立ち振る舞いや姿勢を意識しながら、忠は久々である足元の揺れない陸での散歩を楽しむのであった。




 さてその一方、明石は忠が起草した概略図や数点の図面を基に、天体望遠鏡の外枠の製作に取り掛かっていた。まあ、製作と言ってもそう大層な作業を行う訳ではない。明石艦の木具工場辺りにちょいとお邪魔して工作任務で出た廃材の中から適当な板とか角材を漁り、鋸で図面の寸法通りに切ってみたり、釘を打ち付けて固定したみたりと、日曜大工さながらの工作をする程度だ。

 この明石艦の命とは言え本業は医者で特に力持ちでも器用な訳でもない明石だが、その手の道具や作業を人間達が行っているのはこれで結構彼女は見学してきたので、精通とは言えないまでも工作行為自体にはそこそこの慣れはある。女性がお仕事をしてる姿としてはなかなか想像しにくい物かもしれないが、旋盤やドリル、グラインダーの使い方だって知ってるし、甲高い金属の摩擦音や豪快に飛び散る火花とかにも臆するような事は無い。小さな木片や切れカスに塗れながら鋸を引いたりヤスリをかけたりするのも手慣れたもので、弾ける笑みをそのままに元気良く金槌を振り下ろして釘打ちまで自らの手でやってしまう。

 しかも結構余裕そうだ。


『おいしょー! おいしょー! おいっ・・・、お、危ない。指に落とすとこだったー。もひとつ、おいしょー!』


 まるで呉工廠に勤務する女性工員さんもかくやのお仕事ぶりである。工作艦である自身の分身の中で日夜繰り広げられてきた生活環境の一部として、こういう工作に彼女は文字通り身近に接してきたのだからもはや簡単とすら捉えているくらいで、時折相方が作ってくれた何点かの図面を見たりしながら迷いも得ずに加工作業は進んでいく。最新鋭工作艦の木具工場なれば工具にも困る事は無く、釘だってたくさんのサイズの中から適当そうな物を選んで使う事も出来た。

 おかげで可愛い妹分の大和御所望の品の製造はすこぶる順調で、彼女の笑顔を思い浮かべると木クズに塗れながらのお仕事にも力がこもるし、気持ちも高ぶってくる。自然と笑みを浮かべながらの作業となり、持ち前の無邪気な所を滲みだしての楽しい工作時間となった。




 こうして明石と忠による天体望遠鏡づくりはそれぞれ協力し合ったおかげもあり、その進捗は順風満帆。その後、幸運な事に明石は艦内を物色している中にあって片方が壊れた高角双眼鏡の廃品を発見し、壊れてない方を分解して市井品とは比べ物にならないほど高価なレンズまで調達できた。ちょうど艦に戻ってきた相方は一応勤務中なので、先日教えてもらった通りに上甲板にてレンズの焦点距離を彼女は測り、そこから望遠鏡のレンズの位置を決めて仕上げの工作へと移行。木工用ペンキも使って外観の色を真っ白にして雰囲気を出し、ねじ切り加工を施した金属部品で工夫して焦点を手動で合わせれる構造までも盛り込んだ。まめに見学していた明石艦工作部で得た知識は極めて効果的に発揮され、終始上機嫌な彼女はいっそ軍医科士官から艦魂社会初の造兵科士官にでもなろうか、とふざけ気味にちょっと考えてみちゃう始末。

 塗装を乾かして就寝時間も迫った頃に忠の部屋に運び込み、その意外なほどの見てくれの良さと達成感に二人で笑った。


『どうどう? 結構良くないかな?』

『おー。良いじゃん、明石。円筒じゃなくて四角柱なのはしょうがないけど、でもなんかすごくそれっぽい。それに脚も作ったんだね。あれ、これ折り畳めるの?』

『へっへーん! 備品のイーゼル見て思いついたんだぁ。蝶番使って作ったんだよ。』

『ははは、すごいなあ。普通にこれ売れんじゃないか?』


 頼まれて作った物な割に、その過程はお互いにとって結構面白かった。忠は久々に明石と一緒になって何かをするのが素直に楽しかったし、明石としても自らの手でやる物としてはこれ以上ないくらい本格的な工作作業であったので、その分身に乗艦してここ最近は大忙しである多くの工員達と一緒になれたみたいな感覚も湧く。

 おまけにその性能も明石が手に入れた高級レンズと、晴れた夜空の下に上甲板で何度か行ったテストと微調整によって十分な物となり、月の表面に無数の盆地の様な物が点在しているのを明石は初めて肉眼で観察できた次第だ。




 そして最後の微調整が終わった翌日、彼女は満を持してお手製の天体望遠鏡を浅間(あさま)艦に運び込んだ。

 ちょうど大和は浅間から英語のお勉強を授かっていたところで、明石がなにやら自分の背丈ほどもある白い角柱みたいな物を背負ってきた事に二人とも目を丸くする。


『おはよーございまぁす!』

『あ、明石さん・・・? ど、どうされたので御座いますか・・・?』

『まあ、明石。その背中の物はなに? まさか十字架、じゃないわよね・・・?』


 当人は気付いていないがやや行動や発想に突発的な面がある明石。

 先日の高雄(たかお)愛宕(あたご)の下を訪ねた際もその登場の仕方をやんわり注意されたばかりだが、上機嫌が背を押す衝動はいとも簡単に彼女のそういう記憶を流し去ってしまう。ましてや可愛くて仕方ない妹分がその衝動の中心にあるのでは止めようもなく、元気と無邪気さいっぱいで浅間艦へとやってきた。

 少しの間向けられた自身の格好を訝しむ様な大先輩の視線も、正直知ったこっちゃなかった。

 即座に明石は満面の笑みを呆けた大和に向けて言い放つ。


『できたよ、大和。てんたいぼーえんきょー!』




 なんとか妹分に、自分に託されたその小さな希望に答えてあげたい。

 とてもささやかでまったく海軍に寄与する面も無い物だったが、そんな明石の願いはこうしてようやく形となって大和の手に渡る事になった。


 もちろん大和は大喜びで、浅間の許しも得ぬまま咄嗟に立ち上がって明石の下に駆け寄り、背中から降ろして組み立て始める彼女の手元に目を爛々と輝かせる。常に感情の起伏は平坦で落ち着き、言葉使いやお辞儀なんかは古風な所も目立つので、容姿の割にやけに大人びた印象の強い大和にあっては珍しい程のはしゃぎぶりであり、しばらくの間面倒を見てきた浅間も大和のこんな一面はこの時初めて目にしたくらいだった。


 もっともそれ故に、浅間は大和の中座をとがめる気は微塵も湧かず、今にも小躍りしそうな勢いで明石と声を弾ませながら望遠鏡の組み立てを手伝うその姿を見守る事にする。勉強漬けの普段の日々では決して見せない、心の底から楽しそうな表情は、浅間自身が口にした勉学と趣味の両立という厳しい在り方に動揺を与えた。もとより、浅間は自分達、海軍艦艇の艦魂を戦士だとか軍人などと割り切って捉えている節が無い。自分がそういう性分な訳でもないし、同世代の仲間、友人らにも朝日(あさひ)出雲(いずも)みたいな良い意味で軍人らしさが欠落した人物は多い。

 嗜好から勘案するにどちらかと言えば大和は学者肌なのかもと思えば、それならそれで興味の傾く所に達者な面を持てても良いのではないか。大体がそういう在り方は、その道を極めたと誰もが頷き、自分も楽しみにしている朝日の紅茶道になんと似た事だろうか。


『まあ、三脚も装備されているので御座いますか。椅子に座っての長時間の観察も可能で御座いますね。』

『えへへー! そう言うと思ったんだ。結構頑張って作ったんだよぉ。』

『勝手ながら想像させて頂いた以上に、立派な望遠鏡で御座います。とても、とても夜を待ち遠しく思います。』


 完全に部屋の主である浅間を無視してワイワイと騒ぐ明石と大和。

 ささやかで暖かな二人のその姿に浅間は苦笑し、テーブルの上にて開きかけとなっていた本とノートを閉じる。それらは大和への教授につい今しがたまで用いていた教材に他ならず、彼女は無言のままに先日この天体望遠鏡の入手が企図された際に己が口にした厳しさを一時緩める事に決めた。進水から40余年を迎えても尚、こういう所で鬼になれない自分はやはり朝日らには及ばないのだなと自己嫌悪も多少は抱くも、若人両名がのびのびと過ごすのを瞳に映すのは無性に心地良い。

 せっかくなのでその若さ溢れる賑やかな空気に自分も混ぜてもらい、一緒になって楽しもうと考えを改め、ソファから立ち上がるとゆっくりと二人の傍に近寄って積極的に声を上げていくのだった。




 一方、大和は決して叫んだりはしないものの、念願の天体望遠鏡が手に出来たとあって、明石も浅間も初めて目にした程に稀有な嬉々とした様子がそれ以降消える事は無かった。組み立てが終わった望遠鏡にまるで子犬の様にかじりつき、何周もするくらいに位置を変えながらまじまじと眺めては、細部を触ったりしながら細かく観察。時々明石に構造の質問をしては困らせたりもし、やがて粗方見終わったかと思いきや今度は私物である例の科学雑誌を取り出して、掲載されている多くの天体の写真や想像図を見ては宇宙への熱い想いを一層燃え上がらせていた。

 おかげで彼女の時間軸の中ではあっという間に夕暮れ時を迎え、まだ西方の空に朱色の余韻が残る中にも関わらず3人は浅間艦の上甲板へ天体望遠鏡を設置。テストも既に経験した明石が手近な天体である月に焦点を合わせると、すぐに大和にレンズ越しに見える世界を堪能させてあげるのだが、もうこの時点になると大和はだいぶ機関の燃焼具合がよろしくなっている。


『わぁあ、あ、アレが月・・・!? うわぁあ・・・!』


 声を張り上げて夢中になってる大和は、望遠鏡越しと自分の目で月を観察するのを小刻みに繰り返し、華奢な身体に纏われるいつもの落ち着きも厳かさも完全に失っていた。すぐ後ろで喜び半分、でも印象的な人物像が崩れて些か衝撃を受けたのが半分の浅間と明石が、掛ける声を失って棒立ち状態になっているのももはや眼中に無い。望遠鏡の向こうに広がる狭い視界には、普通に夜空を眺めるだけでは捉えきれない月の表面の特徴が細かに映っている。それは科学雑誌で眺めていた写真以上に鮮明で、抱いていた淡い憧れに十分に応えてくれる映像がそこにはあった。

 刹那、浅間艦の甲板には誰に向けた訳でもない大和のあどけない声が響く。


『どうして色の違う地表が有るので御座いましょうか。それとやはりクレーターが多いようですが、どうして月にはあんなに無数に有って地球には無いのか。極めて不思議で御座いますね。・・・ふふ、かぐや姫のお住まいはどちらにあらせられますか。』


 ぶつぶつと独り言を漏らして集中している様子を見るに、とりあえず彼女はこの天体望遠鏡に大満足と言った所か。長いまつ毛をしきりに上下させてレンズの向こう側に思いを馳せてる大和は、傍から見てもそれはそれは楽しそうであった。浅間と明石は笑みを合わせて幾分声の掛け辛い若人の状況に双方頷き、次代の連合艦隊旗艦として期待される彼女が小さな自由を存分に堪能するのをしばし見守る。


 戦う事だけに精通する訳ではない。

 こういう所も有っての艦魂で良いじゃないか。


 声には出さなかったがそんな一言をお互い微笑みの裏で過らせ、今後の成長とその将来が素晴らしい物となってくれるよう、星空の下に願うのだった。






 もっとも、こういう一面をちょうど同じ頃、別の場所で発揮している人物がもう一人いた。

 それもうら若い大和の新鮮さで彩られたのとは全く逆の、甚だ迷惑な形でだ。




『おーす、敷島(しきしま)。なんだよ、まーた将棋の本か。そんなに面白いかぁ、それ?』

『ム? おお、出雲。ハハハ。まだ金剛(こんごう)の奴が艦隊から帰ってこないから、将棋くらいしか娯楽が無くてな。ま、歯ごたえの有る対局相手もおらんのだが。おお、お前どうだ?』


『あたしはそんなチマチマしたのやんね。座りっぱなしで尻が痛くなるってモンだ。出雲ちゃんはね、どうせやるならもっと大空に羽ばたく様な、優ぅ〜雅な娯楽がしたいんだ!』

『なにが出雲ちゃんだ。やれやれ、つまらんなぁ。』


 そこは佐世保軍港の玄関口。繋船池もほど近く、海兵団の施設と佐世保川がすぐ傍に位置する桟橋の一角に、もう10年以上も繋留されたままの老艦である敷島艦が佇んでいる。

 地の色も褪せて美しさの欠片も無いその上甲板だが、海兵団の実習教育が無い限り人影もまばらな環境は艦の命達が使用するに当たっては何かと都合が良い。ましてやその敷島艦の命たる敷島にとっては、海軍艦艇としての隠居生活を謳歌できる絶好の場所だ。誰に遠慮する事無く広々と使って存分に運動をするのも良いし、机や椅子を何個も並べた上で多くの後輩や友人らとお茶会や小さなパーティーをする事だってできる。乗組員の邪魔にならぬよう結構気を使わねばならないのが一般的な帝国海軍艦魂社会の実情であるので、自由気ままに使えるのは引退した老朽艦なりの特典みたいな物だ。

 今日は朝からお天気も良く、8月半ばの蒸し暑さに支配された艦内で過ごすのも嫌だったので、敷島は艦尾側上甲板に折り畳みの椅子を持ち出し、一人分の頭上を覆うくらいの大きさでケンバスを張ってその下で読書に勤しんでいた次第。読書と言っても勉学ではなくもっぱら趣味に打ち込んでるような物で、今まさに来訪してきたばかりの友人からもその点を話題に挙げられた所だ。

 もっとも、そんな敷島に対して出雲は興味がないとキッパリとお断りのご様子。お互い40代半ばの西洋人女性という容姿を持っているにもかかわらず、年齢に相応しい落ち着いた敷島の趣味に対して、裏声を織り込んだりもする出雲の言動はなんだか子供じみた様な所が目立っている。わざとらしさも相当に有って敷島は眉を顰めているが、同時に陽気な友人の人柄が40余年の時間を経ても変わっていないのを改めて垣間見てしまい、もはや怒る気にもなれない。大の仲良しである間柄だから彼女に敵意や害意が毛ほども無いのは知っているし、将棋に興味は無くとも武技や運動なんかで嗜好に共通点もそこそこある。ある意味では実の妹の朝日以上に、敷島の良き理解者であるのが彼女なのだ。


 よって特に機嫌を傾けもせず、敷島は再び将棋の参考書に視線を戻して静かな時間を続けようとする。気心知れた長い付き合いの出雲が相手だからこそ、あえて敷島は気を使う事も無く思う通りの言行を披露できるという物で、おかげで彼女はその出雲の背後にもう一人の客人が控えていた事に全く気付かなかった。

 読みかけていた箇所の一文を読み切る間もなく、敷島の耳には出雲の声に続く形で女性の割に随分と野太く、どもった様な感じが色濃い特徴的な声が滑り込んできた。


『こらこら、敷島。あたしだけじゃないんだよ、来たのは。ひでえ先輩だよな、加賀(かが)。』

『・・・・・・敷島さん、どうもこんにちは。』

『お? なんだ、加賀ではないか。』


 振り返ってそう呟いた敷島の碧眼には、細く長身な体躯に紐で一本にまとめた黒髪が映える女性が捉えられる。

 敷島や出雲より10センチ以上も背が高く、長い前髪は鼻頭に届きそうな勢いで眉を完全に隠し、顔の輪郭も半分程しか露呈しない髪型。次いで黒髪とその前髪の影にあって、ちょっと不気味そうに尖った目を光らせる顔と、抑揚が無く腹に力が入っていない感じのボソボソとした声色は、良い意味でも悪い意味でも極めて印象的な人物像をその女性に与えている。おまけにしゃべる速さも、波の打ち寄せる間隔よりもさらに遅いくらいのゆっくり具合であった。

 もっともそんな彼女は出雲と敷島にとっては知らぬ仲ではない。

 同年代の大先輩である富士(ふじ)の教え子にして、二人とは同じ佐世保鎮守府に籍を置く立派な帝国海軍艦船の艦魂。ましてや世界最大級の航空母艦を分身とするのが、この加賀である。容姿と声に相当暗さが目立つ人柄だが可愛い後輩に違いは無く、本来なら長門艦すらをも圧倒する大戦艦として就役するはずだったという出自なれば、彼女は同じ戦艦として生を与えられた敷島にとっては親近感もだいぶ湧く方であった。


 当然、敷島の強面はすぐに崩れて入れ替わりに笑みが滲む。

 出雲も釣られる様にして笑みを浮かべ、中々次の言葉が出てこない加賀を小突きながら場を盛り上げようと持ち前の陽気な声を張り上げた。


『まーったく暗い奴だねえ、あんたも。それとも遠慮してんの? そんな大した奴じゃないって。長い付き合いのあたしにしたらとんでもねー奴だぞ、こいつ。バシっと言っちゃえ、かっちゃん!』

『・・・・・・あ、いや。・・・その・・・。』

『お前は黙ってろ、出雲。いつまで経っても加賀が話を出せんだろうが。さて加賀よ、どうしたのかな?』


 無邪気でふざけ気味な出雲は元々敷島を重鎮だとも偉い人だとも思っておらず、当人を前にしてもちっとも人当たりを変えるつもりは無いらしい。あまりの無遠慮ぶりに加賀の方が驚き、鬼と恐れられる敷島の憤怒に火が点くんじゃないかと思って視線を泳がせている。ただでさえ無口なのに応答に窮した状態では加賀の舌が働くはずもなく、それを危惧した敷島が少しだけ声を荒げて出雲をたしなめた。しかめた眉に始まって一瞬だけ強面が蘇るも加賀に向き直るとすぐにそれは消え、再び微笑を作り出して柔らかな声色で来訪の要件を尋ねる。

 普段から怖い怖いと噂される彼女にこう諭されると安心感も段違いという物で、加賀は無言のままに胸を撫で下ろすと深々と頭を下げ、同時に今まで片手にしていたらしい一冊の冊子を敷島に差し出しながらとあるお願いを申し出てきた。


『・・・これは、今度新しく私の分身に配備される、戦闘機の取扱い説明書の一部でして、・・・最近は私もこれを頭に入れるべく、穴を通す勢いで熟読している所です。』

『ほう、新型機とな。うむ。正確な知識は確固たる勇気と自信の源だ、とは富士先輩の言葉であったな。私も若い頃はよく言われた物だ、ハハハ。それで?』


『・・・は。・・・ちょうど母港に戻っている時でしたし、・・・敷島さんのご趣味の事も思い出しましたので、・・・この説明書に是非とも、敷島さんの手による揮毫(きごう)をお願いできないかと・・・。』


 まるで敷島に手を取られて誘われるかのように加賀は言葉を紡いでいき、途中で会話が止まってしまう事も日常茶飯事な彼女の語りぶりが、最後までほぼ障害を得なかった点は極めて珍しい。あの金剛ですら頭が上がらない程の大御所が耳を傾けてくれるのはそれだけ加賀にとっても嬉しいし、敷島の嗜好を上手く利用して逸品を手にする事が出来るなら当人も喜ぶんじゃないかと思っていた手前、声を出すにあたってかなり気は楽であった。

 特に敷島の趣味である書道に対する腕前は帝国海軍艦魂社会では結構有名で、彼女の自室に昔からある「堅忍不抜」の4文字を大書した額縁は、加賀も幼少期から頻繁に目にしてきた。人間達が使う士官室や艦長室に飾っても違和感が無いくらいに立派な出来栄えで、これを一生目にする事の出来ない乗組員達はなんと不幸なんだろうと軽く可哀想にすらも思えてくるほどだ。

 そしてそんな敷島に筆を取ってもらえるのなら、艦魂達が手に入れる事の出来る揮毫としてはこれ以上無いくらいの素晴らしい物となるだろうと考え、本日加賀は敷島艦の甲板に足を運んだのである。出雲とはその来艦の際に偶然出会ったのだ。


 その内に自然と加賀の口元は綻び、これまた極めて珍しい彼女の笑みが垣間見れるかと思われたのだが、その刹那、加賀の視界には突如として絶叫し始めた出雲の顔が飛び込んできた。


『わぁああーー!! 待て! 待て、加賀・・・!』

『・・・・・・は?』


 一体どうした事か、さっきまで小馬鹿にしたような発言をケラケラと笑いながら連発していた出雲なのだが、敷島との間を遮るようにして加賀に対した彼女の表情は目を大きく見開いた驚愕模様へと変わっており、顔色もどこか青褪めてすらもいる。片手を加賀の口元辺りにかざしてきて発声を抑えようとし、いきなり上げた悲鳴じみた大声も加賀の語りを掻き消そうとして出したみたいだ。

 加賀は丸くして目で何度も瞬きをしながら突然の出雲の行動に驚きを示し、せっかく順調に声に変えれた敷島への申し出も中断してしまう。

 しかも出雲は冷や汗を浮かべて焦りながらわめく様な声で加賀に語りかけ、さきほどの彼女の申し出を湾曲しようとしてきた。


『押印! 押印って言ったんだよな・・・!? や〜、困っちゃったねぇ。あたしらホラ、英国生まれだろ? ハンコなんて持ってないのよねえ。困ったオバハン達だろ、あたしら! あははは・・・!』


 極めてあからさまに、しかもまたかなり強引な形で出雲は加賀のお願い事を偏向してしまう。勝手に話をハンコ云々という方向に持っていき、自虐という方法まで用いて話題を打ち切ろうとしてくるのだ。

 加賀は驚きのあまり一時思考も停止して声を失ってしまっているが、もちろん彼女の言いたかった内容は出雲の言ってる事とはまるで違う。押印ではなく──、


『揮毫、だ。バカタレが。』

『ゲ・・・!』


 どうやら敷島の耳には加賀の言がちゃんと一言一句耳に届いていたらしい。その瞬間、出雲はこれまでよりも一層に冷や汗を掻いてダラダラと頬を伝わせ、調子の悪い扇風機みたいに震えと一瞬の停滞を兼ねた動きで背後の敷島へと振り返った。

 すると敷島はいつの間にか視線を正面へと戻しており、背後の出雲や加賀とは真逆の方向に広がる海原に顔を向けていた。出雲らからは横顔、もっと言えば頬のラインが少しだけ見えている程度だったが、やがて敷島がいつもとは旋律の違う笑い声を発し始めるのを認めてしまう。

 それは出雲が加賀の申し出を耳にした途端、すぐに察する事の出来た最悪の事態の始まりを告げる物で、この敷島という艦魂が極めて困った形で嗜好に没頭する際に現れる一つの癖だという事を、40年来の付き合いで嫌というほど出雲は知っていた。


『クックック・・・。ンフフ、フハハハ・・・!』

『や、やべ・・・! 加賀、不甲斐ない出雲オバチャンを許しておくれ・・・!』

『・・・はぁ?』


 顔を向けぬままにまるで悪魔みたいな音色の独特な笑い声を敷島が上げた刹那、出雲はその面前で両手を合わせて何事かを謝るのと同時に一目散に甲板を走り去っていく。さも取って食われる状況に陥って戦慄も極まれりとでも言わんばかりの退散ぶりで、『ひえぇえ〜!』などと幾分わざと過ぎないかと訝しむくらいの悲鳴を残して遁走。先ほどから前髪の狭間に目を丸くしっぱなしの加賀はそれを一瞬たりとも止める事は出ず、大先輩の奇行を呆然としながら目にするばかりだった。

 一方、そんな加賀をして聞いた事も無い、奇妙と言うか不気味と言うか、形容に困る笑い声を上げた敷島だが、こちらはその後の応答は別段変ではなかった。


『よし、ではすぐにでも始めよう。知ってはいると思うが、書道は必ず自室でするのでな。来るが良い、加賀。』

『・・・は、はい・・・。』


 しばしの間、本を預けて仕上げてもらおうかと考えていたのに反し、嬉しい事に敷島は今すぐにでも揮毫のお願いを引き受けてくれるのだという。つい今しがたの先輩方の妙な様子はどうにも気がかりであるも、ささやかな願いが思った以上に早く実現しそうであるのは嬉しい事だし、元々が物凄く口下手で無口なのも手伝って加賀はその辺りの事を勘ぐる事はせずに敷島の背に続く事にする。古めかしい敷島艦の通路を歩く間際も敷島はどんな言葉を書こうかと声を弾ませており、帝国海軍艦魂社会で最上級の強面艦魂という風評に反して表情も柔らか。機嫌の良さとそこから来る饒舌さは根が暗い加賀とは対照的なくらいで、快く揮毫に応じてくれるその真心に加賀は胸の中で深々と感謝した。




 だがしかし、やがて二人が敷島の部屋へと入った所で辺りから、加賀は出雲が尻尾を巻いて逃げ出した理由に迫っていく事になる。




『・・・・・・?』


 敷島の自室の中で正座した加賀は、その頭上に疑問符を浮かべている。

 もう30分もこうして勧められた座布団に鎮座しているのも疑問だし、眼前にて背を向けた格好で目を閉じ、吐息も聞こえぬほどの静寂を保って同じく正座している敷島の様子も疑問。ましてその敷島の眼前には既に和紙と一緒に硯や大小の筆、今では珍しい固形の墨まで整然と揃えられているのに一向に始まる気配が無いのも疑問な上、なにより彼女が頼んだのは本への揮毫である筈なのに、なぜにその最初がこんな儀式めいた事から始まるのかも、それはそれは大いに疑問であった。

 室内の空気も静寂と共に重い感じが漂い、中々声を発しづらい雰囲気が充満していて率直にそれらの疑問をぶつける事を加賀は戸惑っている。ほんの僅かに艦を揺らす佐世保湾のさざ波だけが、こうしている間にも時が過ぎていくのを教えてくれるばかりだ。


 実の所、だいぶ足も痺れ始めてきてた加賀は事ここに至って舌に力を込め、同時に勇気を振り絞って静かに正座を続ける敷島の背に問いかけてみる事にした。もっとも予想とは斜め上くらいの方向差の有る返答をされて、彼女は再び声を失うのだが。


『・・・・・・あの、敷島さん・・・。・・・まだ筆は、とらないので・・・?』

『加賀よ。この書道という物はな、実に奥が深い。筆を伝わって紙面に表れるのは、知識や感覚だけで成り立つ物なんかではない。普段感じる事も無いような心の波紋すらも表れるのだ。生半可な気持ちや、均衡の取れていない心で向き合っても紙と墨を無駄に浪費するだけなのだ。故にこうして瞑想に浸り、もう一人の己と真正面から向き合わねばならん。・・・この一枚の和紙の上に、己の心技体の全てが浮かび上がる。そのタイミングは、己と向き合った一瞬を捉える他ない。それにはもっと邪念を捨てねば。』


『・・・・・・。』


 なんだか畏敬する大先輩は独り、独自の世界に入っちゃってるらしい。

 その邪魔をしては悪いと思うのが半分、ぱっぱと始めてくれないかと思うのが半分という胸中をそのままに、普段の自分を棚に上げて眼前の相手に会話が成立しそうにないと初めて感じた加賀。もちろんそれをそのまま口に出す事はできず、なんと言って進捗を促そうかと考えてみるが良い案なんか出る訳がない。姉妹同前に育った赤城(あかぎ)鳳翔(ほうしょう)相手ならいざ知らず、本日のお相手は師匠と同格の重鎮艦魂さんである敷島。自分から揮毫をお願いした手前もあるし、無礼に直結する言動は戒めねばという考えを基本にした時点で、選択肢は殆ど無いも同然であった。


 おかげで加賀はその後一時間も正座を続けることになる。

 だが痺れが極まって顔を引き攣らせながらも、やがて彼女は敷島の右腕が前触れなく並べられた筆へと伸ばされたのを認めた。ようやっと字を書くという段階に進んでくれたのかと内心安堵したが、残念ながらそれも一瞬の内に消える事になる。なぜなら敷島の手に握られたのは筆の隣に置かれていた固形の墨で、またぞろ漏らし始めたあっち側の世界から紡がれる敷島の声によると、なんと墨汁作りから既に書道は始まっているのだそうだ。


『フ・・・。墨という物も、濃淡だけではない。伸びや紙への染み入り具合は、気温や湿度によっても千差万別でな。トメやハネにいくら気を使って筆を流しても思い通りにいかない物だ。もっと美しく、もっと雅にと求めてきたのだが、このトシになっても一向に終わりは見えん。40年以上生きてきた中で、会心の出来の墨汁ができたのはこれまでに3回くらいしかないのだ。是非ともお前の揮毫は4回目にしてやりたい物だが・・・。』


 冷や汗も出てきた加賀からは見えていないが、敷島の顔には薄らと笑みが滲んでいる。墨と硯が擦り合う事で放たれる小気味の良い音が室内に木霊し、相も変わらずよくしゃべる楽しそうな大先輩の様子を視界の端に置きながら、加賀はこの時ようやく、さっき出雲が逃げ出したのはまさに今みたいな時間を過ごさねばならないのを知っていたからだと悟る。

 そして諦めにも似た気持ちが支配的となった上で、短く脳裏に呟くのであった。


 ・・・いかん、機雷だ・・・。

 ・・・・・・しかもおもいっきり触雷した・・・。


 既に分身は廃艦処分間近の老艦で、その命もまた40代の顔立ちを持つ熟年女性の敷島だが、度を過ぎたこだわりをその嗜好において全力発揮してしまう所は、どうやら姉妹揃って同じだったらしい。敷島は加賀の頼んだ揮毫に本気になって取り組んでいるようで、大先輩のご厚意として極めて貴重ではある。

 しかしその為に翌日の朝まで正座してこの大書道劇に付き合うハメになり、連日続けていた新型艦載機のお勉強もほぼ一日まるっと中断せざるを得なかった加賀にとっては、ハッキリ言って有難迷惑以外の何物でもなかった。


『うーむ。これは・・・。』

『・・・よ、よろしいのではないでしょうか・・・。』

『いや、気に入らん。長門以上の巨艦であるお前に、こんなか細い字体は不釣り合いだ。もっと力強さを与えねばな。えーい、次だ。』

『・・・・・・。』


 そんな台詞を吐いて下書きとして筆を走らせた和紙を投げるのは、もう何度目になるか。

 抑揚の薄い声と同様に表情も普段から変化が乏しい加賀も、その内にまたしても敷島によって投げられる丸めた和紙がコツンと頭に当たったのと同時にさすがに泣きたくなってしまった。

 クシャクシャに握りつぶされた和紙で既に足の踏み場もない部屋の中、すっかり火が点いてる敷島はいつの間にかブランデーを湛えたグラスを片手にしており、背後で汗びっしょりになっている加賀を放置して一枚書ききる度にグイグイと一人で酒を進める始末。

 今更ながらに加賀は大先輩の嗜好にあやかろうとした己の考えを深く後悔し、次いでこの敷島艦に来艦した際に出雲が口にしてた人物評をこれ以上ないくらい深く肯定するのである。



 

 敷島型一等戦艦一番艦の命にして、正しくは初代敷島艦艦魂という人物。


 それはまったくもって、とんでもねー奴であった。

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