第一六四話 「調達開始」
昭和16年8月15日。
この日、艦船部隊や航空部隊は言うに及ばず、海兵団や工廠、果ては様々な物品の納入、製造、買い付けに携わる民間企業までも巻き込むほどになる、帝国海軍の命令が発令された。
それは「出師準備第二着作業」という物で、準備とか作業なんて語句が並んで何か海軍艦船の艦内で日常的に使われてる号令の一節みたいな印象も受ける。しかしその内容は海軍の部隊、及び諸機関の戦時体制移行に関わる超一級の重要さを持っており、帝国海軍の戦略と戦術を導き出す軍令部が毎年度、その詳細計画を作成しているという代物である。海軍大学校を出て帝国海軍軍人としてのエリートコースを歩み、晴れて参謀肩章を着けた佐官や将官達の超優秀な頭脳でもって作られているのであり、誤解を恐れず言えば軍令部という部署は、戦時における海軍戦力の適した編制を作る事と、この出師準備関連の計画を毎年作る為だけに存在している、と言っても過言ではない。
第二着という言葉からも解るとおり、支那事変やドイツ軍による欧州での戦争状態といった国際情勢を鑑みて第一着は既に発動されており、大規模な艦船部隊の移動が有った昨年の11月15日がその発令日である。言うなれば組織としての戦争準備の第一段階で、毎年度定められた戦時編制においてその中核となる部隊や艦船の整備と必要な改装工事をさせて臨戦態勢を整え、戦争計画の初動における活動をする為の軍需物資の調達を開始し、その為に関係各機関との調整、指導等の措置を行う事が、非常に大まかであるが要旨となる。
対して第二着作業とは帝国海軍全体に至る戦時編成の完全なる実現を目指して、全ての部隊と機関、部門を対象にした整備作業が実施され、建造中の艦船はすべて急速工事となり、併せてこれまた事前に計画されている通りの戦時建造用艦船の建造工事も本格的に開始。籍を置く軍港で最低限の乗組員と共に波間に浮かんでいた予備艦も、必須工事を施していつ部隊に編入されても大丈夫な状態へと移行し、特設艦船もまた所要の全てに召集、徴傭が言い渡されて海軍の船としての工事が開始される。もちろんその為の人員や物資も一から十に至るまで全部調達が始まる訳で、いわゆる「ヒトとモノとカネ」が戦争に向けて極めて大規模かつ具体的に動き出す事を命じた物であった。
たった一つの艦船だけに限ってもこの準備作業の為にやる事は膨大な物で、予算の関係で後日装備とされていた艤装はすぐに工事で装備される事となり、場合によっては機関や砲雷兵装、無線兵装、装甲にまでも及んだ改装工事を実施してでも最大能力発揮を求める事になる。乗組員も戦時用の計画に則って充当されて大所帯になり、艦固有の備品や物資も殆ど全てが10割充足。弾庫の砲弾だって見慣れた先端が黄色く塗装された演習弾の数は減らされ、入れ替わりに白や茶色の塗装が施された実用弾頭の砲弾が庫内を占めていく。
いつ何時戦に赴けと言われても即応できる状態を目指すのだ。
よって本邦近海で第二艦隊が続けてきた訓練は即刻中止。
所属全艦は各々が籍を置く軍港へと帰り、すぐにそれぞれの第二着作業を実施する運びとなった。
艦魂達の中でもこの件は即時通達。
愛宕艦公室に集まった10数名に及ぶ幹部級の艦魂達の列を前に、艦隊旗艦の高雄がいつもより張った感じも有る声を放っている。
『9月1日付で、今年度の戦時編成が布達になる。私達第二艦隊に大きな移動は無いけど、北方海域担当の第五艦隊が新設。一航艦には五航戦が新設だね。新鋭の空母が配備されるんだって。楽しみだね。それから知ってる艦魂もいると思うんだけど、一戦隊は正式に第一艦隊から独立するんだ。あ、でも長門中将と陸奥さんが交代でやってるGF旗艦の任は変わらないよ。第一戦隊はそのまま連合艦隊司令長官の直属戦隊になる訳だ。第一艦隊は二戦隊が主軸で、たぶん艦隊旗艦は伊勢さん辺りかな。』
20代半ばくらいの女性に見合う砕けた物言いはいつも通りだが、戦時に向けた最終準備に等しい命令が発せられたとあってどこか高雄の表情は硬い。いつもなら冗談の一つでも飛ばす所を今日は終始強ばった感もある雰囲気が消えず、正対する列に並んだ明石もそこはかとなく高雄が胸の内に秘めている緊張感を垣間見る事が出来る。艦隊編制が変わるだけのお話ではないんだと認識を改めつつ、周囲に並ぶ第二艦隊の仲間達に後れを取らぬよう続けて高雄の語りに耳を傾けた。
『各自、所属軍港に戻っての工事とかに入ると思うけど、訓練中止による練度低下は避けなきゃなんない。それに新しい艤装も増えて習熟度は尚の事落ちるとも考えられるから、工事明けの訓練や学習には手抜かりの無い様にね。じゃ、これで一旦解散。またこの第二艦隊のメンバーで会えるのを楽しみにしてるよ。』
その声を合図に第二艦隊の艦魂達は宿毛湾に一時の別れを迎え、一斉に敬礼をして各自の分身へと戻り始める。人間の海軍軍人らと同じく、命を受けたら即実行という行動規範に彼女達も則ってる故の光景だが、姉妹や仲の良い者、神通と明石みたいに同じ鎮守府籍で戻る軍港も同じという間柄の者達らは、その帰路で色々と話に花を咲かせていたりもした。
鎮守府を抱える軍港は言わば彼女たちの実家みたいな物で、お師匠様や姉妹が集う場なんかも結構多いし、訓練ばかりの作業地とは違って錨を降ろしたままゆっくりとする事もできる。だから決して高雄から言い渡された練度維持に限った話題が交わされてる訳でもなく、久々に再会する者らとの会合を心待ちにする声もそこそこあった。
鬼と仲間内から忌諱される嫌われ者の神通もその例には漏れないご様子だ。
『事故以来だからな。朝潮達の八駆が横須賀に帰ってしまうから全員とはならないが、まあ夏潮や黒潮と会うのを皆も待っているだろう。だから戻った初日にそうがみがみと言うつもりは私も無い。まあ、病み上がりだから参加はできないまでも、軍港内での二水戦の教練に顔を出せるならあの二人も気が紛れるだろう。』
『私も一応診断してみるよ。神通の話した所だと、そう重篤って訳でもなさそうだけど。でも神通の口からそういうの聞くとは思わなかったなぁ。てっきりあのバカモノドモが〜、とか言うと思ってたのに。』
『二水戦は生きるも死ぬも全員同じ。戦隊旗艦の私であろうがドンジリの四番隊四番艦であろうが、一蓮托生だ。誰が欠けるのも許さん。むしろ面子が揃ってる方が何かと都合が良いだけだ。』
『また、ゆるさーんか。そんなに怖い言い方しなくて・・・、あいて! ぶ、ぶった〜・・・!』
『ふん。』
普段は口出し無用を貫く二水戦の話を珍しく披露した神通。
隣を歩いている事で間近に見れるその横顔には相も変わらずおっかなさが纏われているが、時に饒舌になる辺りは彼女の機嫌が良い証拠でもある。友達の明石もそれは知っているので気兼ねなく思考を吐露できるのだが、どうにもこの人の憤怒の導火線は短すぎるのが問題だ。ちょっと注意するような言い方をしただけの明石の脳天にはすぐにげんこつが急降下してきて、思わず両手で押さえた彼女の頭には早くもたんこぶが出来始めている。
まともにお話するのも大変な友人を久々に認識しつつ、これでは那珂や朝潮の話を口にはできないなと思った。
どうも現在、神通は那珂をすこぶる嫌っているらしく、高雄の訓示を前にしてた時でも妹とは目も合わせようとしない有様で、話しかけてきても思いっきり睨み返して文字通り否応なしに会話を拒否。例の意見の相違なる状態が尾を引いているのか、今にも殴りかかりそうな神通を明石が必死に制止しながらの清聴を続けていたのだ。次いで朝潮の相談の件は下手な形で神通の耳に入れると、明石ではなく相談にきた朝潮の方が、戦隊内の事情を勝手に外部に漏らしたなんて理由で、怖い怖いこの人のお叱りにおける標的にされかねない。詰問や説教程度の懲罰で済むはずも無いのは明石には容易く想像でき、相談の果てに怒られる姿も可哀想なのでこちらもあえて神通には言わないことにした。
『ぬぅ〜・・・。機嫌悪いのかどうか解んないぃ・・・。』
『あ? 何か言ったか?』
『な、なんでもない!』
乱暴者この上無い友人にほとほと困りながら、こうして明石の分身はしばらく留まっていた宿毛湾の波間から錨を揚げ、母港呉軍港への帰途についた。豊後水道を抜けて狭い瀬戸内海に入る頃には第二艦隊以外の艦隊に属していた呉鎮所属の艦艇も頻繁に見かけ、隷下の3個駆逐隊を連れて旅路を共にする神通艦も含めて海軍艦艇の往来が非常に多い。民間船の姿を見る方が珍しいくらいで、軍港に近づけば近づくほど付近の海上は渋滞の様相も呈し始めている。
まだ江田島も見えていない辺りから、明石艦の羅針艦橋でも錨地の割り当てやら港内雑役船の手配やらの話で特務艦長さん以下忙しくなっており、10ノットに満たない船足で進んでいるにも関わらず乗組員達の声は騒がしい。これも件の第二着作業を命じられた故の事なのか、のんびりとした帰路ではなかった。
事実、呉軍港に着いてみると桟橋や船渠には全く空きが無い有様で、工廠の工場区画にある高い煙突からはもくもくと黒い煙が上がり、けたたましい重機の音は夏特有の蝉しぐれを完全に掻き消してしまっている。特に各兵器類の製造を行う工場はハチの巣をつついたような大騒ぎも垣間見え、中でも魚雷の生産を行う工程では工場内の設備、資材を洗いざらいひっくり返すくらいの規模での作業が行われていた。
これは新式の航空魚雷の生産体制を整える為で、搬入する資材、原材料の種類から部品、工作機械に治具類等の状態を根本から変更するという大作業の一コマ。軍艦に例えたらキールへの鋲打ち段階からやり直すのと同レベルの内容と言っても過言ではない。この時期の帝国海軍の中でも大和艦建造以上の一大事業であったが、多数の戦艦を持てないお財布事情故に強力な戦艦を少数保持して主敵に備えようという大和艦の構想と同様に、ここにもまた貧乏島国なりの事情が関係してこのような大がかりな施設改修がなされているのであった。
元来、帝国海軍という大層な名前に反して、この組織が存在する国家は欧州列強に比べたらまだまだ国力の低い島国の日本。お船がいっぱい有ったって平時より軍需品の備蓄は有事状態のそれと比べたら極小も良い所で、生産能力なんて面ではアメリカ辺りとは大企業の本社工場と個人経営の町工場くらいの開きが有る。その証拠にこの時期における海軍軍需品に対する充足率の中でも新鋭の航空関係は、航空機搭載用の大型爆弾や魚雷はもちろん、20mm機銃の弾薬包を含めても10%から30%が関の山というとんでもない状態で、いざ開戦なんて事になったら数ヶ月で備蓄の数字が0になるという有様であった。
この是正措置も第二着作業に含まれている訳で、艦船攻撃用として威力の有る航空魚雷の急速増産の為に海軍が成した決断は、現在艦船部隊を主に配備を進めている九三式魚雷の生産工程を、航空機搭載用である九一式魚雷の生産工程として完全転換してしまえという物であった。同じ魚雷とは言え大きさから構造まで全然違う物を作る工程にするのだからその準備作業は膨大な物で、しかもまた九三式魚雷が製造できなくなるのは当然として、稼働に向けて工程を準備する最中は本命の九一式魚雷の生産も停止するという事になる。臨戦準備を整えろという命令が出たばかりのタイミングで、一時的にではあるが魚雷の急速増産は艦艇用も航空機用も完全にストップしてしまっているという訳だ。
戦時体制移行の為とは言えなんだか本末転倒みたいな印象も受けるが、貧乏故に平時よりこういう動員量産体制を整える事が出来なかった帝国海軍によるこの大決断は、後の戦争において補給線が寸断されない限り魚雷の需要と供給にはほぼ障害を得なかったという一つの結果に結びついていく事になる。これより足かけ数ヶ月を費やして生産工程を整備していく中に有った関係者の努力、そしてそれを決定した帝国海軍上層部の意思と予測、描いた展望は、是正措置としては決して間違ってはいなかったのであった。
さて、閑話休題。
そんな超忙しい呉軍港に戻ってきた明石の分身は、当然その工作力を買われて第二着作業の実施に投入される事になる。艦隊訓練も終えて休息かと思ってた乗組員さん達にはちょっと気の毒な話でも、逆に言えばこれこそ工作艦である明石艦の本領を発揮できる戦場。この面では尊大で横柄な命が宿る神通艦、港内にて巨砲を構えて浮かべる城の姿を体現する伊勢艦や山城艦ですらも全くの無力なのであって、潜水艦桟橋にほど近い工場区域の桟橋へ優先的に係留されるのもその貢献を期待されての事である。桟橋とは反対側のすぐ横ではいよいよ来月の海上での公試を控えてほぼ完成形となっている最新鋭戦艦、大和艦の威容も拝む事ができ、舷側には登舷礼でもするかの様な乗組員達の横列も早速できていた。
そしてこの時、海軍軍人の職域として艦砲の世界に生きようとしている彼は、その24年の生涯で初めて得たくらいの衝撃に打ち震えて仰天。思わず仰け反ってぶっ倒れそうになるのを力の入りにくい足腰で懸命に支えながら、大きく見開いた両目と口で後の世に人類史上最大と謳われる事になる大戦艦の全貌に驚愕した。
『こ、これが・・・!? これが海軍の最新鋭戦艦・・・!?』
『あ〜、そっか。森さん、砲術学校に行ってて見たの初めてだったっけ。大和って言うんだよ、おっきいよねぇ。』
『や、大和・・・!?』
無意識に生唾も飲み込みながらたどたどしく話す忠に、その横からもう見慣れた明石が軽く微笑を浮かべて艦名を教えてやる。
縦も横も高さも明石艦の倍以上は有ろうかと言う巨大な艦体には、西洋の城郭に見られる塔の如き前檣楼が配され、頂部に鎮座する測距儀は今まで彼が見たり勉強したりしたどんな測距儀よりも大きい。主砲塔に関しても三連装型式なのは戦艦では初めて目にしたし、煙突や後檣も含んだ上部構造部の前後左右に配された副砲も、よく見ればつい数年前まで新鋭の二等巡洋艦の主砲として使われていた代物。おまけに煙突付近に林立する高角砲の類いはなんとなんと明石艦の主砲と同型の物で、2基を据え付けてお腹一杯の明石艦をあざ笑うかのように片舷だけで3基も装備しているなど、砲術士官の彼としては常軌を逸してると思えるほどの重武装ぶりであった。特に極めて大きい主砲塔は忠の視線を釘付けにしてしまい、間近で見ている事で威圧感も感じた為か長門艦の主砲より口径が大きい様にも見える。
『ん〜、型式はどうだったかなぁ。ナントカ式四〇糎砲って名前だったと思うけど。』
忠の驚きぶりが可笑しいのか、ちょっと得意げな感じで明石が教えてくれた所では、主砲の口径自体は既存の長門型戦艦の物と変わっていないらしい。と言っても20年越しに海軍が作った戦艦であるからその主兵装に一砲塔辺りの門数以外、全く手が加えられていない筈は無いと睨み、きっと装填や可動、保安の面での機構は既存の物とは一線を画す内容になっているだろうとおぼろげながらに推測。腰が抜けそうな身体と硬直した表情はまだ治まりそうにないものの、荘厳勇壮な大和艦の姿に湧き出る興奮を抑える事が出来なかった。
その後しばらく、冷静さを保つのも難しい胸に息を吸い込む事すらも忘れそうな彼だったが、それでもそんな中で当初抱いた主砲への感覚は、実は正解であった。明石が告げようとした大和艦の主砲の名称は正式には「四五口径九四式四〇糎砲」と言うのだが、これはそもそもその存在自体が極秘扱いである大和艦の機密性を保つべく付けられた名前であり、「正式」ではあっても実物に対して「正確」ではない。具体的にはその砲身の内径は艦載砲としてはいまだかつて実現された事が無かった、460mmという値。極めて強力な事で世界的に名を知られ、帝国海軍が仮想敵の筆頭として位置づける米国海軍における戦艦、しかも今年就役したばかりの最新鋭戦艦のそれですらも、実に2インチ以上も上回っていたという文字通りの規格外ぶりで、まさに化け物じみた艦砲なのであった。
無論、その日の忠の意識は常に大和艦へと傾けられる事になり、手空きの時間でも得ようものなら明石艦のアチコチに移動して色んな角度から見物している有様。よく飽きもしないものだと少々呆れも覚えた明石だったが、これで呉軍港に帰ってから彼女もまた結構忙しい身だった。第二着作業に直接彼女の手が関わる訳ではないものの、臨戦準備を成す仲間達の健康具合を診てあげるのは艦魂社会において一応は軍医さんである明石の立派なお仕事で、呉鎮籍のほぼ全ての艦の命達を診察するのを実は宿毛湾にて高雄から言い渡されていた。
よって大和艦に心を完全に奪われて構ってくれない相方も、この際ちょうど良いかと思ってしばし放置する事に決定。青年士官という外見以外、完全に軍艦好きな少年に戻っちゃってる忠に背を向け、多数の診察をどのような段取りで行うか考えたりしながら彼女はお仕事へと足を進めていった。
その想像通り診察は多忙を極め、とりあえず作った彼女の診断計画は5分刻みで予定が組まれる過密スケジュールぶり。特に期限が決められた訳でもなく、やるなら早い方が良いだろうと幾分甘い考えで組んだ計画に少々苦労するハメになるも、普段そんなに多くなくて何よりな患者さんが今回はたくさん待っている事自体には悪い気はしない。頼りにされてるのも実感できるし、不足を日常で思い知りがちな自分の知識に先輩も含めて首肯してくれる等、一端の海軍艦魂になれた様な気分が存分に堪能できるからだ。
『久々の艦隊復帰なんでね。最近は夕食後はほぼ新しい艤装関連の勉強になってるんだけど。』
『あ〜、でも扶桑さん。睡眠は十分に摂ってくださいね。体力の回復や新陳代謝の正常化には、ご飯食べるよりも睡眠の方が役割は大きいんですよ。それに例えば着座の姿勢で寝るのも血行なんかに関わっちゃうので、お布団入って眠る事ってとっても大事なんです。』
『あれま、そうなのか。解った。今夜からはしっかり寝るのも心がけようかな。ありがとう、軍医少尉。』
『はい。それではこれで、失礼しますぅ。』
女性一人が腰掛けても大丈夫そうな薬箱を持ち、お師匠様より頂いた赤十字の腕章を左腕に付けた明石は、軍港内の仲間達の分身を一隻ずつ訪ね歩いていく。その腕に抱えたバインダーには訪問を企図した仲間達の名前が記される一覧表が張り付けられ、次の訪問先へと向かう合間に問診等の結果とかを書き込んでいく。軍装姿を除外すれば院内を回診するお医者さんの姿その物で、当人の耳には届かずとも明石の働きぶりには仲間達からの感心と信頼が積み上げられていく。少しずつではあるし呉軍港においてもまだまだ彼女の知名度は低いが、日々の精進とコツコツ頑張る姿勢は人間、艦魂を問わずに確かな結果へと結びついていく重要な要素。先代譲りの性格も功を奏してか当人にとって苦にはなっておらず、また意識する訳でもなくこなせるそうした地道な努力に関しては、それを垣間見れた者達からの評判も上がる。
そして努力の価値と重みを十分に知る年長者なんかは、特にこういうのを見ている物である。
実際、真夏の炎天下に十数人も一挙に回診して少々疲労と汗が見て取れる頃、明石の下には港内の曳船の艦魂がやってきて意外な人物からの召喚を伝えてきた。
『ああ、明石。よく来てきれたわね。みんなの診察ご苦労様。でも休憩も無しに一気にやると、何より明石が患者さんになっちゃうわよ。朝日の様に上手ではないけどティーを用意したから、少し休んでいきなさい。』
『あ、有難うございます、浅間さん。じゃあ、ご馳走になっていきますぅ。』
明石を呼んだのは、師匠と同年代の重鎮艦魂、40代初めくらいの西洋人女性の容姿を持つ浅間だった。
少しだけ白い筋も見える金髪と茶色い瞳が特徴的で、目じりや口元のしわと生来の穏やかな性格が合わさって外人さんながら明石達にとってはとても話しやすい大先輩である。頭ごなしに誰かを怒鳴るのも見た事は無いし、自身の戦歴や経験をひけらかして長話に付き合わせる所も無い。絶対に口には出せないが説教癖が無い分、実の所では明石も含めた後輩達にしたら朝日よりもお話しする上では彼女の方が取っつき易い側面も有る。加えて戦艦よりも広範な任務を負い、実際に南米の大西洋沖にまで進出した経歴も持っている巡洋艦の命であるから、国際感覚や儀礼、教養の点でも決して朝日や敷島、富士にも引けは取らない等、その人柄とは裏腹にこれで結構すごい艦魂さんであった。惜しむらくはその分身たる浅間艦は日露戦役以来、幾多の損傷や事故に苛まれて艦体の強度はほぼ限界に達しており、数年ほど前からもう岸壁から解き放たれる事は無い、恐らくは解体の際に工事現場に曳船で曳かれる時以外ではもう二度と海上を駆ける機会は無い停泊練習艦として、ここ呉軍港で余生を過ごしている。
もっとも同様の境遇にある敷島然り、富士然り、お船としての引退状態を彼女は口惜しいとは微塵も思っていない。立派に成長して働きに行く愛娘達を送り出して後、日がな一日家でのんびり過ごすお母さん像をそのまま浅間は楽しんでる始末で、穏やかに呉鎮所属の娘達を見守るのが彼女の一番の楽しみでもあり、役目とすらも捉えている次第。神通みたいなヘソ曲りがいても尚、呉軍港に本拠を定める艦魂達が相応に平穏を保ってこれまで過ごしてきたのは、常に軍港内にその身を浮かべるこの浅間の存在と、誰とでも穏やかに話のできる人柄の影響力が極めて大であるからだった。
『あら。その腕章、ちょっとほつれてきてるわね。それは朝日が工作艦になる前から大事に使ってた物よ。昔から朝日は医療術や介護術の勉強を独学でしてて、その手ほどきをしてあげた子も何人かいるんだけど、その腕章だけは朝日は誰にもあげなかったの。私にもくれなかったわ。責任と自覚を持つ上で、しっかり自分のお役目だと捉えてる身じゃないとダメだってね。そんな朝日が認めたのが明石、貴女なのよ。これはその証拠だから、大切につかってちょうだいね。』
『おうふ・・・! そ、そうだったんだぁ・・・。あ、後でちゃんと直しておかないとぉ。』
カーペットやカーテン付きの舷窓など、調度品に相応の気品も漂う浅間の自室にて、二人は小さな卓を挟んでソファに腰かけながら正対している。その中で得た憩いのお茶の合間に、ふと授かった小さな教えや知識も明石には実に為になる。
ただ単に師匠からもらった程度の認識だった腕章にそんな意味と背景があったのかと、今更ながらに知って明石は緩んでいた心を律する。なまじ軍医さんとして軍港内の回診の途中というタイミングだったのもあり、大先輩から秘められた思いを明かされたというよりも、なんだか師匠から改めて医術に精通する者の心構えを諭された様な気分だった。
同時に決して叱る訳でも説教する訳でもない柔らかな浅間の語りにただただ明石は感謝するばかりで、単なる紅茶による一服という簡素な有り方以上に有意義な一時を得た物だと一人喜ぶ。この際だし恩師の他にもこの一年で知己を得た常盤や敷島、そして眼前の浅間なんかの若りし頃、今の自分と同じ様に勉学と実務に汗を流していた先輩方の体験談も聞いてみたいと俄然思うようになり、ティーカップを持つ手に力を込めて食い入るように彼女はその後も浅間の語りに耳を傾けた。
だがその内、明石と浅間が香ばしい紅茶の香りに浮かぶようにして会話を弾ませていた室内には、重い金属でできた扉を叩く音が何度か木霊する。どうやら浅間の下を訪ねた来訪者の様で、二人はどちらと言うでもなく声を止めて扉の方にふと視線を送った。それをきっかけにせっかくの浅間の体験談公聴の機会が一時中断してしまうのだが、ノックに続いて扉の向こうから流れてきた声色に明石はますます嬉々の感情を燃焼させる事になる。
あどけない高めの音色ながらも、人並みよりは少し遅いさざ波の如くゆったりとした旋律も合わさって、声尻にまるで弦楽器みたいに印象的な余韻を残す声。丁寧も度を越して幾分古風な言い回しで言葉を紡ぎ、姿を見る前から思わず頭を下げたくなってしまう程のしゃべり方は、つい最近知り合って明石も一番に可愛がっている、朝日一族の末姫の者に間違いは無かった。
『浅間さん。大和で御座います。八雲さんのご教授の時間が終わりましたので、ご報告に参上致しました。僭越ながら、入室しても宜しいでしょうか?』
『ああ、大和。どうぞ、入りなさい。』
『有難う御座います。失礼致します。』
言い終えるや否や重苦しい金属音を響かせ、扉の向こうから大和が入ってくる。
艶とサラサラとした流れで背を負う真っ黒な髪は、ちょっと袖や裾の余る純白の二種軍装に映えて美しさを纏わせ、腰まで届く長さが有っても前髪や後ろ髪の先端は全て綺麗に直線で切り揃えられている。150センチにも満たぬ身長に細身な体躯は舷窓の向こうで建造中の分身とは似ても似つかぬか弱さで、ようやく10代半ばに入れたくらいの少女像が傍目からでもよく解る。長いまつ毛と毛筆を思わせる切れ長の目も顔に比して大きく、唇の桜色は垂れる黒髪に垣間見れる頬にも少し滲んでいて、色彩豊かに作られた細い市松人形が海軍の軍装に袖を通してそのまま動いているようだ。
そんな大和が浅間の前まで歩いてきて、これまた頭のサイズに余ってブカブカ、気を抜くと目線まで庇が下りてきて顔の上半分を覆ってしまう軍帽を取り、そのまま小脇に抱えて深々と腰を折る。室内で用いる敬礼の動作であり、それも天皇陛下に接する時の最敬礼にも等しい角度で頭を下げていた。
その動きと雰囲気は子供の容姿からは想像もできないほどの厳かさがどこか備わっており、海軍最年長格の浅間をも一瞬だけ凌駕する荘厳で神々しい風格が感じられる。誰に教えられたわけでもない、この大和という新米艦魂が生まれながらにもつ不思議な所であり、可愛さに誘われて大きな声で名を呼んであげたいという今しがたまでの明石の衝動をも、しばし封じ込めていたくらいだ。
故に浅間への挨拶を終えた後、同門の先輩後輩という間柄で先に声を上げたのは大和の方であった。
『ああ、これはこれは。明石さん、お久しぶりで御座います。艦隊訓練の合間、遠く南支、仏印方面に派遣されてのご活躍、未だ呉にいるばかりのわたくしの耳にも届いておりました。改めて感服と尊敬の念を高めている所で御座います。よくぞお戻りになられました。』
『あ、う、うん。大和、久しぶりぃ。な、なんか大人びた、かな・・・? あ、あはは。』
長門のお弟子さんに当たる大和は、明石から見ると姪御とか妹みたいな感覚がある。背も小さくて身体つきも華奢で、軍装に袖を通したお人形さんみたいな容姿も手伝って可愛がりたい感情が大いに沸くのだが、若干年寄りじみた言葉使いと少しずつ纏い始めてきた独特な風格は早くも明石を気圧し始めている。話しかけ辛いという訳ではない。ご機嫌斜めの時の親友みたいに威圧してくる感じも無いし、顔立ち自体は違いながらもどこか朝日を思わせる薄らとした微笑を浮かべているのみの表情には、敵意や害意なんてのも微塵も感じられない。強いて言うなら厳かさと言った所か。
初対面の頃にはあまり気にならなかった何かが、大和の小さな身体に纏われていた。
ちょっとだけ成長したのかなとやや動揺しながら思う明石だったが、当の本人にはそれを鼻にかける様子は無い。深々とお辞儀をすると明石の傍まで近寄ってきて、明石の座るソファに滑り込むようにして自身も腰を下ろす。横鎮籍で一緒にいれない事が多い長門に代わってここ最近ずっと面倒を見てくれている浅間よりも、年齢が近くて師匠筋の直系に当たる明石の方に親しみを感じてくれているらしい。
部屋の主である浅間への挨拶や報告も、明石を積極的に会話に誘いながら行おうとした。
『本日は八雲さんより、天測を主にした航海術の教授を頂いて参りました。成績と所見はこちらの紙に。恐縮ですが明石さんも是非一緒にご覧頂き、忌憚無いご意見をばお聞かせ下さいませ。』
『ご、ご意見って言われてもなぁ・・・。まだ私もぺーぺーなほうだしぃ・・・。』
その一方、重鎮艦魂の浅間はそういう大和の心境は見抜いてしまっているご様子。
年端もいかない少女の容姿に反して落ち着きや静けさを強く印象付ける言動が特徴な筈なのに、いとも簡単に看破してしまうのはさすがに長老格たる者の成せる業で、人並み以上に実に畏まっていて、己の願望をほとんど日頃から口にしないという大和の性格も、浅間はすでに把握済みだった。
同時にそういうのを年長者の自分が敏感に汲み取って代弁し、ある程度の自由さも与えて健やかに育ってくれればという彼女なりの願いも重なったので、浅間は大和が手渡してきた成績表を手にして僅かに視線を這わせると、すぐにスプーンやお皿が鎮座する卓上へと伏せてみせる。鋭意取り組んでいる大和の英才教育も、今この瞬間は一旦置いておこうという意思表示だった。
『ふふふ。これは後でゆっくりと目を通しておくわ、大和。そんな事よりも貴女は今、普通に明石とお話ししたいんじゃなくて? 顔に書いてあるわよ。』
『・・・恐れ入る次第で御座います。』
大和にしても意識して覆い隠していた本心なのだが、いとも簡単に読まれた事に彼女は小さく驚き、少しだけ視線を左右に泳がせた後に浅間に対して深々とお辞儀。すっかり引退した老艦魂という在り方に反して、業物の日本刀を思わせる程の鋭さを持つ浅間の洞察力に、改めて畏まりながら感服を示す。礼式や義理を重んじたからとは言え、稚拙な遠慮をした事がなんだか申し訳なくもあったが、忌憚を排して素直に明石と会話できるきっかけを与えてもらえた点は非常に有難かった。
なぜなら大和はここ最近ずっと、この明石という先輩艦魂にお願いしたい話があったからである。いわゆる朝日一家における同門の姉弟子にして、極めて珍しい工作艦という分身を持つ所に、その理由が有った。
やがて大和はその長いまつ毛に瞳を隠すようにして伏せ目がちになり、少し困ったような感じで歪めた微笑をすぐ隣に座る明石の顔に向ける。次いで唇に触れる勢いで両手を合わせ、浅間の方に時折チラチラと視線を送ったりしながらたどたどしく言葉を紡ぎ始めた。
『うん? なに、大和。お話しって?』
『あの、・・・大変、恐縮の極みなので御座います、が・・・。じ、実は、工作艦の命であらせられる明石さんに、・・・是非とも作って頂けないかと、お、思っている物が御座いまして・・・。』
『およ? つくるぅ?』
教官役である浅間の前であるからか、それとも相当な無理難題を明石に吹っかけるつもりなのか、どうも大和は相当にこの話を口に出すのが億劫になっているらしい。ついさっき意図せず明石を気圧していた構図はすっかり真逆になっており、もともと明石の方が10センチ以上も身長が高い事もあって大和の身体の小ささと細さが傍目からだとやけに目立つ様相となっている。頬の一角には薄らと冷や汗の形で緊張も現れ、合掌の向こうに垣間見るその唇も微細な震えを得ていた。
一体何事なのだろうと持ち前の好奇心を燃やし、明石は目を大きくして大和の顔を覗き込む。対する顔を近づけられた大和は一瞬だけ肩をすくめると、上目使いになりながら呟くようにして言う。
幼いながらも一家の年長たる朝日に共通した、大人しくて気品が備わり、落ち着きと真面目さを強く印象付ける人柄の彼女が、蛇に睨まれた蛙みたいに縮こまってなんとか明石に作って欲しいと申し出た物。驚く事にそれは以前にちょっとだけ明石も触れた事のある、大和の知的な嗜好に関係する品物であった。
『て、天体望遠鏡を、な、なんとかお作りできませんでしょうか・・・?』
『てんたいぼーえんきょー? な、なにかな、ソレ?』
『ふふふふふ。星を観測する為に使う単眼鏡の事よ、明石。朝日から聞いてたんだけど、どうも大和は宇宙に興味が有るみたい。まあ、おかげで天測とか六分儀の使い方は、もう満点を付けても良いくらいに覚えちゃってるんだけど。』
上機嫌に笑いながら語る浅間の言葉を受け、いつぞや大和が嬉々として雑誌に載った土星の写真を見せてくれたのを明石は思い出す。月と太陽くらいしか想像できなかった明石に対し、既に太陽系の全惑星や天体関連の英語論文にも食指を伸ばしていたという大和の変わった趣味。色んな事に興味を持つ反面、その実は食う事以外ほぼ無趣味な明石にとってはなんと不思議というか、若いくせに玄人受けしそうな嗜好だなどと思ったりもしたが、天体望遠鏡という耳にするのも初めてな器具を明石にせがんでくる辺り、大和なりに結構本気で取り組もうとしているらしい。これまた凝りに凝った明石の師匠、朝日の紅茶道になんとそっくりだと改めて感じつつ、可愛い姪御、もしくは妹分のお願いになんとか応えてあげたいという衝動が自然と明石には湧いてくる。
ただそうは言っても、相手は帝国海軍の次代を中心位置で担う事間違いなしの、軍艦大和の艦魂。可愛いからという短絡的な理由と明石の勝手な一存で何かを与えるのはちょっとマズイかもと一瞬思った。なにしろ舷窓の向こうで外観としてはほぼ完成に近い状態にまでなっている大和艦は、それに伴って各種機器や設備面での公試がそろそろ始まる予定に有り、いよいよ軍艦旗を掲げて実際に海上を駆ける公試運転も10月中旬頃へと迫っている。あと二か月ほどしか時間は無いのであり、大和は立派な大戦艦の艦魂としての知識や教養をそれまでに一通り身に付けねばならない。その為にこそ彼女は長門と陸奥の両名によって取り上げられ、半ば強制的とも言える方法で艦魂としての実体を得たのだ。
故に最近の大和の教育を司っている浅間には、一応は断っておかねばならないと考えた明石。誰かを擁護できる程に度胸も自信も無い上、師匠と同じ世代の長老格が相手とあって、彼女は少々困惑が滲んだ声を放つ。
『あ、あの、浅間さん。その、どうでしょうか? 作れるかどうかは解んないですけど、私、相談できる人間の乗組員もいるので。少し試してみたりとか、しても、いいです、か・・・?』
『う〜ん、・・・この時期に大丈夫かしら。夜更かしして勉強に支障が出てはいけないのだけれど・・・。』
予想はしていたが浅間はちょっと趣味への没頭には否定的な態度を取った。頬に手をかざして眉の端を少し下げ、無言ながらも懇願の視線を送ってくる大和から視線を逸らす。別にその遊びや趣味を禁じるつもりはないのだが、やはりこの大和という艦魂における教育時間は大切だ。
就役したならすぐに連合艦隊旗艦になるのは明白だし、その性能も艦隊決戦用艦船としては世界最高の実力であるのは、何度か建造中の大和艦を見学している中に有って彼女は確信している。30数年前の敷島型戦艦の如く、真正面から戦ってこの大和の分身に勝てる艦は今後10年くらいは間違い無く出現しないだろう。ならばその艦の命もそれに劣らぬ心技体を備えなければならない。
それを一瞬でも遮りはしないかと浅間は心配しているのである。なによりそういう一瞬の間に生死が分かれてしまうという海軍艦艇の在り方を、それこそ浅間は日露戦役での己の経験から肌身を通してよく知っていた。
おかげで3人もいるにも関わらず、浅間の部屋にはしばし沈黙が流れる。
卓上のカップから立ち上る湯気の音すらも聞こえてきそうな静寂に、明石は思わず自分の発言が問題だったのではと怖くなり始め、あからさまに動揺した表情には冷や汗も浮かべた。
だがその二人の思考の硬直を解いたのは、恐々としながらも精一杯の勇気を出してあどけない声を漏らした大和。師匠筋譲りの血筋に混じった凝り性と、どう理性で押さえつけても不思議と消える事の無い宇宙への探求心が、その華奢な背中を押すのだった。
『浅間さん、どうかお願いします・・・。自分でも上手く言えません。戦艦の命として不要なのも解っております。でも、どうしてもわたくしは、あの宇宙に手を伸ばしたいので御座います。そうしなければならない様な気がするのです。ほんの少しでも・・・!』
どこか必死さも垣間見れる懇願の裏は、当の本人である大和ですらも説明できないらしい。理屈としても破綻した理由には浅間どころか、明石としても説得力も必要性も感じられなかった。
しかしそんな拙さと懸命な姿勢が二人の心を的確に射抜く。将来の艦砲射撃の成績もかくやの正確な照準は両名の思考の中で否定の部分のみを鮮やかに打ち砕いて均衡を崩し、首肯するという方向へ即座に転覆を開始する。轟沈と例えても良いくらいの破壊力で、老練な浅間も抗う事は出来なかった。
『ふふふ、解ったわ・・・。ただし、これをもって日頃の修行を軽減する事は認めません。貴女自身が望んだのならその責を胆に銘じ、その可能、不可能に関わらず必ず両立する事。良いわね、大和。』
『よおし! 私もさっそく調べてみるよ、天体ぼーえんきょー。森さん辺りに聞けばなんとかなるでしょ。』
こうして明石は大和の願いを叶えるべく、天体望遠鏡なる物の調達を決める。
砲術士官として専門の道を歩み、照準器や測距儀といった光学兵器にも精通する相方に協力してもらえば目処も立ちそうだし、例え一から作るにしても資材に関しては大抵の物は工作艦である自身の分身で揃えられる目算も有る。しばらくは呉に停泊しているので、これまた相方に頼めば市井の物を手に入れる事だってできる筈だ。
実物こそよく知らないが展望は明るく、さっそく彼女は浅間艦の色褪せた甲板から、工作作業で機材が散らかっている自身の分身へと帰還。相変わらず呆けた顔で大和艦を眺めている忠を見つけるや後頭部に軽く手刀を打ち込んでやり、弾む声を上げながら天体望遠鏡調達の協力を求めるのだった。
『えーい。』
『あいてっ・・・!』
『森さーん、ちょっと相談乗って。てんたいぼーえんきょー、って解る?』
『ええ・・・? ま、また唐突だなぁ。とりあえず最初からちょっと説明してよ、明石。』