第一六三話 「お手紙は楽し」
昭和16年8月16日。
お日様も程よく水平線から距離を置き、それを追うように宿毛湾在泊の艦艇の旗竿に国歌を伴奏にして軍艦旗がスルスルと昇る頃、そこには湾内の投錨地点に向かって微速で進む神通艦の姿が有った。
呉での工事を終えて塗粧も真新しい神通艦は、その4本煙突を始めとする幾分古めかしい軍艦のシルエットに輝きも与えられており、巡洋艦らしい流麗な艦体と武骨な上部構造物の影が織り成す独特の艦影を凪いだ波間に映す。第二艦隊でも一番に旧式で高雄型や最上型に比べると砲塔も艦橋も時代感が全然違うのが一目瞭然であり、浜辺に集まる軍艦大好きな現地の少年らの目からはちょっと敬遠すらされている次第。
実際、彼女たちを含めた一連の巡洋艦群、いわゆる5500トン型二等巡洋艦は相次ぐ近代化改装で向上した一部の性能と引き換えに重量が増加の一途を辿っており、それに帯同して二等巡洋艦の一番の特徴かもしれない速力もまた竣工時から見ればだいぶ低くなっている。神通艦とて駆逐艦を追い越す勢いで海上を駆けたのも今は昔で、フルパワーで波を蹴立ててもその数値は30ノットを少し上回るくらいが実は関の山。世界の海軍を見ても巡洋艦としては、艦の見てくれから性能に至るまで完全な旧型へと部類されてしまうのが、神通艦の実情だった。
もっとも、艦の経歴と共に積んだ艦魂の経験という面ではそれは良い方向に働いてもいる。
自分より年下の上司上官、先輩を持つ事は人間の世界でも往々にして見られる構図で、若年故の頼りなさや知識の欠如によって部署としての方向性を見失ったり、はたまた統制をとれずに各自が勝手に判断して躓いてしまう辺りは、艦魂も人間も発生率はそれほど変わらない。その立ち位置に収まる力量の持ち主はやはり組織におけるベテラン格の人物であり、時に部下や後輩達の意見や腹の底を代弁し、自ら矢面に立って余所の部署の長と戦う勇敢さも求められる物だ。
女性しかいない艦魂社会では基本的に怒鳴り合いなんて事こそ滅多に無いのだが、その意味ではこの神通という艦魂は稀有な存在である。雷撃能力を重視される帝国海軍の二等巡洋艦にあって、水雷戦隊旗艦という体面を歩んでこの道十数年のベテラン艦魂さんだし、あれで数学や物理の学力は人間の海軍士官と匹敵するだけの超優秀な頭脳も持っている。その辺の予備校の試験問題なんかスラスラと解いてしまうくらいだ。その上、敷島、金剛といった気性の激しい師匠達より譲られた度胸と腹の据わり様は、障害や難題を前にしてもビクともしない上司としての姿勢に直結しており、彼女を知る者がその名から連想するイメージは一様にして、腕組みをして仁王立ちしながら真正面よりその鋭い眼光を投げつけてくる姿。まあ、怖いという雰囲気まで備わって大いに忌諱されている風評の根本もそこに有る訳だが、部下達からすればそれは頼りがいと芯の強さ、天変地異を前にしても変わらない不動の決意の権化みたいな物として捉えられている。
どんな時でも、神通は神通。
そんな人物としての在り方は、まだまだ幼さも残る二水戦隷下の駆逐艦の艦魂達にとって、意識の上で指標や中心核に据えやすい物であった。だからこそ、怒りんぼで直情的で粗暴な所が有っても、皆一様に一定の尊敬、畏敬が払えるのだ。
『お? あ、きたきたきたー・・・!』
『おう、並べ! 早く!』
『気を付けー! 戦隊長に敬礼ー!』
神通艦の艦尾甲板には、久々に少女達の元気な声が木霊する。
歳も近い間柄の仲間が集まればおしゃべりに華も咲き、勉強よりも遊びについつい気が入るのも結構多い彼女達だが、それをその場に登場するだけで規律や統制を意識させて纏める事の出来るのが、皆が頂く唯一絶対の上司、神通である。
170センチも超えた細く長身な体躯のおかげで部下達から文字通り頭一つ飛び出た身体と、長い前髪の奥で鋭く吊り上った目が放つ眼光を認めると、それまで緩くなっていた気持ちにピンと鉄棒を入れたかのように芯が出来上がり、全員が直立不動の姿勢で駆逐隊毎に列を作るのもほぼその気持ちに従ったかのような感覚さえある。
怖い怖い上司、神通のなせる業と言った所だ。
『ご苦労様です!』
『うむ。今日からは私がまた戦隊旗艦だ。八駆朝潮、前へ。』
『はい!』
『旗艦代理、ご苦労。訓練進捗と備考を報告しろ。』
やがて歓声にも似た挨拶が沸き起こると神通は軽く手を挙げながら応え、旗艦代理をこれまで任せていた朝潮を列外に呼び出して、不在だった間の二水戦の事を報告するよう求めた。どんな訓練をどんな想定の下で行ったか、その成績はどうで所見はどういった物が挙げられているか等、口頭で行う物としては些か時間を要する内容であったが、神通が密かに見抜いてた通りこういう所での朝潮に手抜かりや漏れは無い。既に報告事項は全て紙に書いていた朝潮は声を詰まらせずスラスラとそれを読み上げていき、上司の来着早々のカミナリを難なく回避してみせた。
むしろ朝潮の背後にて一様に直立不動の姿勢を作る他の部下達の方が、おもむろに神通から仕掛けられる問答によって苦しめられている。
『猿、お前なんだこれは。教練射撃の成績が一向に上がらんな。一八駆最年長がそれでどうする。下の3人も含めてこれで良いとでも思ってんのか、ああ?』
『う・・・! す、すみません・・・!』
その厳しさとおっかなさを前にしては誰も文句も言い訳も口にできない。戦隊長復帰に合わせてのっけから彼女達は私立神通学校の日々に引きずり戻された形だが、その中核に位置する神通は決して部下をいじめて終わりにしようなどとは微塵も思っていない。粗方朝潮からの報告も終わると、入れ替わりに今度は神通から皆への報告が行われる。
それは先日、訓練中の大事故にあって大怪我を負い、呉にてその治療、および分身の修理を行う為に一時部隊から離れている者らの近況であった。
『おお、黒潮も夏潮も大丈夫だったんですね。』
『良かったぁ。特に夏潮は大怪我だったんで、私達も心配してましたあ。』
『うむ。黒潮は怪我の程度もだいぶ浅かったからな。私が工事を受けている間にもう修理は完了して、今は佐伯湾で三航戦と訓練を行っている。ま、修理後の試験訓練みたいな物だ。その内にこっちに合流する事になっている。それから夏潮はまだ呉だ。少し修理は長引いてるが、奴も元気だ。皆に心配するなと言っていたぞ。応急手当をしてくれた金剛の親方にも、改めて礼を言わねばなるまい。』
神通の声に少女達は一斉に緊張を少し緩めて、口々に安堵の溜息を混ぜながら声を上げる。
全員が目にした大事故と大量の出血はそれぞれの記憶に強く残り、みんな一応は事故後も訓練を続行しつつも両名をずっと気に掛けてきた。雪風や陽炎にしたら実の妹であるからそれは尚更だった。
一方、神通もまた作業地展開の上での訓練の最中に戦隊を離れる事に最初は苛立ちつつも、他ならぬ自身の部下が治療にあたっている地が呉工廠であったので、今回の自身の分身の修理は声には出さなかったが良い機会であったと捉えている。
一人、大体の修理も完了しつつある分身の中で床に伏していた夏潮は、怖い怖い上司がついでとは言えわざわざ自分を訪ね、その上でほんの僅かな間だけだが食事や水、洗濯物などのちょっとした世話を戦隊長自らの手でしてくれた事がとても嬉しかったらしく、それほど活発ではない大人しい性格の夏潮が『早く怪我を治して必ず合流します!』と声を張っていたのは、上司上官、そして師匠格という立場の神通にとっても嬉しい記憶であった。
次いで遠くない内に戻ってきて姉妹や先輩らと声を弾ませる夏潮、黒潮の顔を思うと、今日から再び始まる二水戦の日々に向けた心持にも気合が乗る。やがて手を二、三度打ち鳴らして神通は些か騒がしくなっていた部下達を瞬時に静め、再帰を願う者らに未熟な場を用意するなと喝を入れながら、私立神通学校の授業を始めるのであった。
『そら、騒ぐな。あの二人を浮かれ気分で迎える気か。予定、武技訓練。武技用具用意、かかれ。』
『はい!』
この二水戦所属の艦魂達の中で、神通の声は神の声に等しい。
号令一下、少女達は蜘蛛の子を散らす勢いで一斉に甲板を駆け出し、銃剣術の防具や木銃、柔道の胴着やマットなんかの準備に取り掛かった。10数名を超える中で誰が何をやるかを瞬時に察し、一人で持てないような物品なら何人の仲間に声をかけてこなすか、なんてのも極めて素早い判断で行う部下達のテキパキとした様子は、当然ながら普段から統率、相互理解を厳しく躾けている神通の努力の賜物で、一糸乱れぬ流動的な総員の働きはまさに強襲雷撃を敢行する水雷戦隊の姿勢として一番大事な物。少しはサマになって来たかなと一瞬だけ神通はほくそ笑んだが、すぐに何事かを思い出して表情を律する。
するとふいに神通は部下の内の一人を静かな声色で呼び止めて、彼女が振り向くと甲を向けた右手の上に人差し指を前後させて近寄るように促した。
『・・・朝潮。』
『え。あ、はーい!』
『お前は用意はいい。ちょっとこっちへ。』
既に走り出していた朝潮だがその足を止めずにくるりと向きを変え、神通の指に招かれるままにその傍まで走り寄っていく。ちょっと低い声色と自分だけが名指しで呼び止められた事を勘ぐり、もしかしてお叱りでも受けるんじゃないかとついつい幾分の恐怖も覚えてしまう彼女だったが、神通は肩でも組む様にその真横に寄り添うと小さい仕草で辺りを見回しながら語りかけてきた。
『・・・不在の間、誰かおかしな話を持ってきた奴はいたか?』
呉に戻る以前からこういう話をそれとなくしていた神通。
朝潮はその様子を不思議に思って先日、この人と極めて親しい仲に有る明石にも相談に行っている。もっともそれをそのまま口にしたら、外部からの口出しを極めて嫌っている上司のお怒りに火をつけかねない。それにいくら怖い上司と言えど嘘を報告するのも気が引けるので、とりあえず朝潮は気かれた事のみに率直に答えて余計な事は口にしない方針で応じる事にした。
『いえ、特には。訓練での打ち合わせで少し那珂中尉とお話ししたくらいです。』
復帰初日に波を立てる事も無い様にと、明石と同じくらいの20代に届きそうな若さを備えながらも、比較的面倒見の良い人柄を駆使して緩衝材の如き役目に徹する朝潮の目立たぬ働きで、それを見抜いた上で唯一の昇進と小刀を授けた神通自身もまた、知らず知らずの内にその効力に身を委ねている。
憂慮と安堵が入れ替わって心に幾分のゆとりも生まれたのか、神通は最近頻繁に使うようになった短い言い方で了解の意を示すのだった。
『・・・ふむ。で、あるか。』
一方その頃、同じく宿毛湾の一角で錨を降ろしている明石艦では、艦の命たる明石が自室の机上にて会心の出来を成し得て声を張り上げている次第であった。
『えへへー! できたー!』
机に向かったまま突如として右手を高々と挙げ、握られた便箋が軍艦旗のごとく翻る。昨日より作成を進めていた松栄丸への返書がようやく完成したのであり、机の上に開きかけて置かれた辞書も使って足かけ数時間を費やし、書きたい事を漏れなく盛り込んで紙数はなんと18枚にも及んだ超大作ぶり。初めてのお手紙作成にも関わらず中々筆の走りは良く、ペンを当てがってタコになりつつある右手人差し指の痛覚も、眠気も、明石には気にならないくらいである。
次いで明石はすぐさま封筒に便箋を折った後に入れ、糊を使って封をすると駆け足で自室を出ていく。ありったけの想いを込めた後輩へのお手紙を早く出さねばと使命感に燃えてるからで、一度も会った事も無いながらも受け取った先でどんな反応をしてくれるのかを想像すると、尚の事彼女はもたもたしてなんていられない衝動に駆られた。
もっとも、その衝動に背を押されて前檣楼の辺りまで走ってきた所で、明石の足と思考を一瞬にして制止する出来事が起こってしまう。
階段を駆け上がってちょうど羅針艦橋への入り口を通り抜けた彼女の前には、青年海軍士官らしく今日も意気軒昂、でも幾分頼りない優男ぶりがどうしても消えない顔立ちを持つ、お仕事中の相方の姿が有った。
『お! 森さーん、頑張ってるかねー!』
『ん? お、ああ、明石。おはよう。』
明石艦の頭脳中枢に等しい羅針艦橋は、彼みたいな士官然り下士官兵然り、航海停泊の別なく常に相応の人員が詰めている場所で、突如として独り言を発するアブないお人と捉えられない様、忠は付近を小さく見回してから明石に応じてくる。根が無邪気で天真爛漫な上に機嫌も良い今の明石にはその素振りが面白可笑しく、わざとらしく大声を浴びせてやった事で些か応答に困っている相方をちょっと笑ってから会話を始めた。
なんでも、明石艦砲術士である彼は掌砲長から借り受けた砲術科の帳簿図書の類に目を通しているそうで、艦長宛てに月一度の提出が義務付けられた物も有ったりするのでその記注具合や内容の精査に、今日は朝から取り組んでいるとの事。砲術要誌、弾火薬庫日誌といった厳つい名前を付けられ、軍機書類である事を示す赤い装丁が施された物ばかりが彼に手には握られている。これに加えて報告書の作成なんかも時に行うなど、鉄砲や大砲を取り扱う科の人間にあっても、その普段の業務の中では結構ペンを握る機会も多いらしい事を、彼との会話で明石は改めて感じた。
『へぇ〜〜、書き物って結構あるんだぁ。いがい〜。』
『取扱い注意なのも多いし、員数もよく変わるモンだからね。こういう記録や日誌類の管理は、まあどの科でもだけど重要視されてるんだよ。内容と現物現場もちゃんと頭に入れておく事になってるんだ。航海士や掌砲長が担当してるのが殆どでもね。もちろん、報告書とかはそういうの基にして作るんだし。どっちかって言うと机に向かってる方が多いんだよ、オレ。』
『そうなんだぁ〜。じゃ、文章とか漢字とか、森さんに聞いても良かったなぁ。』
『え? それ何の話だい、明石?』
夜通し返書をしたためていた明石は、昨夜は忠の所にいつもの如くお菓子をせびりに行ってはいない。当然話もしていないから彼女の独り言の意味が解らず、忠は思わず首を捻る。
そこですかさず明石は自分宛てにはるばる南洋からお手紙が届いた事、相手は特設艦船とは言え自分と同じ工作艦の艦魂さんで、立場上でも初めての直接の後輩に当たる者だという事、そしてそんな彼女に一晩かけてお返事の手紙を作ったのだという事を、起伏が緩やかな胸を張って自慢でもするかのように教えてあげた。
が、その直後にもたらされた相方の質問に明石の笑い声は止まった。
『へぇえ〜。手紙でやり取りしてるんだ。でも、郵便受けも集配の部署も無いのに、どうやって出してるの? オレらの方は、軍事郵便とかは鎮守府で担当してたりするけど・・・?』
『う? ど、どうやって・・・? ど、どうやるんだろう・・・??』
手紙を用意して有頂天になって駆けていた思考に、今更ながらな疑問が投げかけられる。初めて手紙を書いたのなら投函なんてした事も無い明石が、一体どのような手順で艦魂社会でのお手紙が運ばれるのかなんて知ってる筈も無い。転じて今まさに彼女の右手に握られた封筒をこの後どうすれば良いのか、この二人には全くもって不明なのであった。
なんてこったい。
『ええー! ど、どーすれば南洋にまで届くの!?』
『お、オレに言われても・・・! わ、こら! 引っ張るなよ、明石・・・!』
まだまだ尻の青い新米艦魂の彼女である。
困った事に手紙を配送してくれた霰は既に昨日、宿毛湾を離れて洋上の二水戦に合流しており訊く事はできない。特務艦の艦魂が持ってきたらしい事を言ってたのは覚えてるが、運悪く現在湾に在泊している特務艦は当人の明石の分身だけである。むしろ在泊の船影なんて言ったらこの日は艦隊各艦の姿よりも、明石艦の繋船桁に繋がれている内微艇やカッターの方が多いくらいだった。
それでも湾内に錨を降ろす数少ない第二艦隊の仲間になんとか聞いてみようと彼女は思い、艦隊司令部の打ち合わせが有って湾に残っていた第四戦隊第一小隊、すなわち艦隊旗艦の高雄艦、及び愛宕艦へと手紙を携えて赴く事にする。
焦りも相当に積もっていたので、普段から艦隊司令部の人間達に長官公室を占領される高雄艦にその艦魂が不在がちな事を忘れてやってきてしまい、艦内を走り回って高雄の姿を必死に探して大きくタイムロス。ようやく『あ〜! いつもは愛宕さんとこいるんだった〜!』と絶叫して愛宕艦へと今度は向かい、ノックもせずにその長官公室へと飛び込んだ所でドアに足を引っ掛けて大転倒。野球のヘッドスライディングの要領での入室をかましてしまい、白いクロスも敷かれた長机の脇でぼーっと喫煙していた高雄を思わず椅子からちょっと飛び上がらせる始末だった。
『し、失礼しま、ぶべえっ・・・!』
『うわお!? な、なんだよ、明石・・・!? うわ、ビックリしたあ〜・・・。』
『なんだい、騒々し・・・。あれ、明石じゃないか。何やってるんだい?』
チリチリと高雄の口に挟まれた煙草の焼けていく音も聞こえてきそうな静かな公室は、明石の登場で爆発したみたいに喧騒が一挙に渦巻く。ちょうどトイレから戻ってきたのか、ハンカチで両手を拭きながら明石に続いてやってきた愛宕も加わって、床に顔から突っ伏しているそそっかしい事この上ない後輩を奇妙そうに眺めながら驚きの声を上げた。
それは明石が鼻の痛みを堪えながら立ち上がり、とりあえず席を進められて3人で腰を下ろしてもまだ尾を引いている。
『なんか、毎度毎度明石クンはずいぶんとまあ派手に訪ねてくるよねえ。あたし、一応これでも艦隊旗艦だから、もうちょっとスマートに来て欲しいなあ。』
『す、すみません、艦隊旗艦・・・。』
『ははは。なあに、高雄は怒ってる訳じゃないよ、明石。賑やかなのが好きなのは、明石も仲の良い長門中将と同じだよ。それで、今日はどうしたんだい? 私達のトコまで来てくれたのは、また何か聞きたい事があったからなんじゃないのかな?』
『あ、はい。そうです、愛宕さん。実はお手紙の事で・・・。』
羞恥心に塗れて顔を上げるのも億劫になる明石。
椅子に腰かけても両膝の上に拳を乗せ、終始俯いたままで涙目と赤面を備えた顔に勢いも覇気も自信も皆無であり、声にも持ち前の元気さは感じられない。ただ幸運だったのは高雄と愛宕の両上司、両先輩が実に気の良い艦魂さんだった事で、容姿に見る年齢の面でも明石より少し年上くらいのお姉さんという辺りは、友人の神通なんかよりも明石に近しい上に人柄でもよっぽど親しみが抱ける。
陽気で気さく。冗談やユーモアを大事にして常に誰かを笑わせ、緩く波打った背にかかるくらいの長い髪を片方の肩口から垂らすといったお洒落さも兼ね備えた高雄は、第二艦隊旗艦という大層な役柄に似つかわしくない性格。上司と部下という関係よりも面白いお姉さんという印象の方が明石の意識の中では強いくらいだ。人間で言えば艦隊司令長官に値する立場なのも会話してると時に忘れるほどで、「明石クン」とふざけ気味に呼んでくれるのも懐き易さに一役買ってくれている。第二艦隊に初めて帯同する事になった時も、挨拶した後で存分にお話しできたのは神通以外では彼女が初めてだったくらいだ。
対して愛宕は随分と落ち着いた見てくれと雰囲気を持っており、高雄と良く似た顔立ちは同世代よりも幾分年上なくらいにも見える。高雄と違って癖の無い真っ直ぐに流れ落ちる黒髪を頬横で、後ろ髪もまた首もハッキリと見える短さで、さらにさらに前髪もまた眉を隠す辺りで一様に切り揃えた髪型を備え、それはお洒落よりも如何に軍帽を障りなく被れるか、洋上で荒れ狂う潮風や砲門から放たれる爆風によってどれだけ乱れを少なくできるか、に重点を置いた機能性の追求が行き着いた物である。男言葉を普段から使ってる上に高雄と違って陽気さやお気楽さも薄く、お堅い仕事真面目な女性として皆からは捉えられているが、社交性や人当たりは決して悪くは無い。新参で艦隊幹部クラスの艦魂としては最年少扱いの明石のお話にだっていつも静かに耳を傾けてくれ、文系理系を問わず極めて豊かに湛えた教養を基に色んな助言を与えてくれる所は実に頼りがいが有った。
年上も多い第二艦隊の仲間内の中、一番に人の出来た方々がこの両名であると言っても過言ではなく、疑問符を頻繁に頭上に掲げている明石の行先がこの二人に自然となってしまうのも道理である。生来の高雄らの気の良さも手を引いてくれるかのようで、しだいに恥ずかしい登場の記憶とその影響を消しながら、明石は艦魂社会におけるお手紙の出し方を質問し始めるのだった。
そしてそんな明石は、実に運が良かった。
なぜなら明石の知りたがったお手紙の出し方は、まさにこの二人の下で手続きの重要な一歩を踏むのだと知らされたからだ。
『な、なるほどぉ、艦隊発の特務艦の人伝で運ぶんですかぁ。』
『正確には、艦隊在泊の作業地発、だよ。明石クンの所に工作資材持ってくる運送艦もいれば、訓練や演習で消費した燃料とか弾薬を運んでくる給油艦、給兵艦ってかならずいるでしょ。その特務艦達はだいたい鎮守府のある軍港と往復してるから、まずは作業地から軍港へ。その後は軍港から別の作業地へ、ってな具合で運んでもらうんだ。人間達は便利で良いねえ、住所書いて係りに渡すだけで終わるんだから。』
『鎮守府経由であちこちに配られる形だけは人間達と同じなんだよ、明石。でも第二艦隊のいる作業地に出入りしてる特務艦って言っても、何時どの艦がどういう目的で来るか何て、常日頃からじゃ誰も把握できてないだろ? 私らみたいな演習と訓練で作業地不在も多い戦隊隷下の艦じゃ、尚の事ね。だから人間達の艦隊司令部で扱ってる資料とか、あとは海軍の令達類から特務艦の出入り予定を調べるのが一番最初なんだ。この間も妙高大尉と那珂中尉が調べに来てたんだよ。』
明石を挟んで椅子に座った高雄と愛宕の教えは、左右から交互に声が放たれる忙しそうな形に反して、実に懇切丁寧。今しがたの話に出た資料類だってすぐに取ってきて明石の前に開示してみせ、一緒になってお手紙を運んでくれそうな特務艦の名を探してくれた。手取り足取りの教授に感謝と喜びの絶えない明石もようやく笑みを取り戻すも、またまたここで明石のお手紙には障害が立ち塞がる。
松栄丸宛てのお手紙の行先は当然その任地、すなわち日本を遠く離れた南洋のヤルートになる訳だが、書類上でその地に行先予定を組んでる特務艦はいなかったのである。ましてや高雄も愛宕も、ヤルートなる地名はこの時初めて耳にしたのだった。
『パラオやトラック辺りは知ってるけど、ヤルート? 愛宕、知ってる?』
『いや、大演習の時でも聞かなかったな。まあ、南洋はずいぶんと広いからね。』
『ぬ〜〜、私は南洋には行った事も無いですぅ・・・。』
どうも艦隊旗艦を交互に務める二人ですら知らないご様子。
焦り始めた明石は動揺を隠せず、顎の下辺りで手紙を握りしめたままちょっと泣きそうな顔にもなっている。人一倍の熱意と集中力を発揮できる反面、その苦労の前途が暗いようだと意外に豆腐みたいなメンタル面にも陥りやすいという、彼女の人柄の一面が滲み始めている訳だが、それはまだまだ新米で無知な故に解決策をすぐに見出す事ができないからでもある。
事実、愛宕も高雄も不明な地と解るやすぐに公室内のサイドボードに足を進め、その中に丸めた状態で何本も保管してある大きな海図へと手を伸ばした。解らなければ調べるまで。つい最近手に入れた多くの海図に、南洋の物があった事も幸いであった。
さっそく明石も食い入るようにして二人が広げてくれた南洋の海図に目を這わせる。人間達の作成した物を複製した上で艦魂達が独自に持つ海図が存在する事、次いでそれは大体は艦隊旗艦を務める者が保管している事を明石はこの時初めて知ったのだが、なんとなんとここで意外な発見がもう一つ有った。
『え?? さ、作成者、・・・宗谷!?』
『ああ〜、そうだったそうだった。この間この南洋の海図類が送られて来た時、な〜んか見た事ある名前だと思ったんだよね。この宗谷って子、明石クンが診察してあげてた子じゃん。確か、横須賀巡航してた時。』
『ははは、面白い縁だ。この宗谷って子、第四艦隊がわざわざ指名して、今は南洋方面の測量任務に従事してるらしいよ。南洋の兵要地誌調査はここ最近になって活発になってるんだけど、彼女はその中でも功績比類無しの活躍ぶりだそうだ。あっち方面の最新の海図類は、例え人間達の側であっても宗谷抜きじゃ今年度中に揃えられなかった、なんて話もあるくらいだよ。凄く有能な子を診てあげた訳だね、明石は。』
たまげた事に高雄らが最近手に入れた複数枚に及ぶ南洋の海図類の作成者は、偶にしか会えないものの、その治療をきっかけとして以前より親交を得ていた特務艦の艦魂、宗谷だった。
民間から買い上げられた上で正式に海軍に就役後、彼女の分身である宗谷艦は横須賀に本拠を置きつつ、元来が耐氷構造を備えた貨物船という特殊な出自をフルに生かして主に北海道から千島列島付近の北方海域で活動しており、濃霧や極寒、暴風雨といった北の海特有の厳しい環境下で新米だてら頑張っているのは、以前の観艦式の際に当人と第一駆逐隊の面々から明石は教えてもらっている。てっきり今もそうして励んでいるのかと思っていたが、高雄らによるとその分身の性能を買われてここ最近は気候も方角もまるっきり真逆の南洋に舳先を進めているらしい。特務艦として八面六臂の働きぶりは軍艦の者達すらも舌を巻くくらいで、非常に広大な南洋を西へ東へと走り回ってたくさんの島や環礁の測量任務を次々にこなていく姿に、第四艦隊隷下の二等巡洋艦である天龍艦の艦魂は思わず、『ありゃロシア生まれの先代よりも多く航海してる。巡洋艦宗谷の復活だ。』と感心しながら漏らしていたとの事だ。
『宗谷、頑張ってるんだねぇ。さっすがぁ。』
高雄と愛宕より聞かされたその話に、思わず明石の口元が綻んだ。
軍医さんとして診断に当たった仲間が元気に働いているという事だけでも嬉しい物なのに、宗谷は同じ特務艦の仲間にして会った機会こそ多くは無いものの、知己を得てそこそこ年月も重ねた友人の一人。海軍艦艇として生きる意志とはどういう物なのかを考えさせてくれたきっかけも貰えたし、あの嫌われ者の神通とも親交を持ってくれているなど、そこそこ多くなってきた知人達の中にあってもちょっと特別な思い入れのある人物であった。
良かったと心底感じてその活躍ぶりを祝福してあげたい反面、同じ特務艦でお船としての経歴がほとんど同じ彼女には負けられないと、対抗心も少し湧いてくる。明石も頑張ってこそいるが活動する先は先月ようやく南部仏印に及んだくらいであるのに対し、宗谷は既にオホーツクの極寒の波から、南十字星を映す南洋の海面へと縦横無尽に駆けており、その結果も良好であるのはまさに今、明石の眼前に広げられている海図にて証明されていた。
お手紙如きで気を落としてなんていられない。
出し方が解らないだけですぐに滅入った自分に心の中で喝を入れ、こういう時はどうすれば良いのかを高雄と愛宕に尋ねる声にもつい力がこもった。
対する高雄と愛宕も微笑の表情は全く変わっておらず、返答をせずして明石に解決策がちゃんとあるんだという事を示してくれている。陽気で砕けた高雄と真面目そうで堅めな愛宕による、硬軟はっきり別れつつもどこか愉快な語りによって、明石はその詳細を早速学んでいった。
『実はね、明石クン。運送艦とか給油艦が良い例なんだけど、そういう特務艦艇って任地別に担当が有ったりするんだよ。この子は主に第一艦隊とか第二艦隊に重油を運ぶとか、あの子は主に支那方面展開中の艦隊に向けて運ぶ、ってな具合でさ。まあ、全部が全部って訳でもないけど。』
『お? と、言う事は、もしかして南洋方面とか、第四艦隊向けの特務艦っていうのも・・・?』
『そうだよ、明石。第四艦隊向けの特務艦ってあるのさ。そしてもう一つ、そういうのは特務艦の船籍で大体は決まってる物なんだ。支那方面向けは主に佐鎮所属、第一艦隊や第二艦隊みたいな内地で行動する艦隊は主に呉鎮所属が多いんだよ。北方海域や本題の南洋は、横鎮所属が主に担当してるんだ。つまりまずは横須賀を中継して南洋に運んで、そこからまた第四艦隊の誰かにヤルートまで運んでもらう寸法さ。それに仮に宗谷がヤルートを既に発っちゃってても、同じ第四艦隊の手にあればどこかで渡す機会もあるだろ? ちょっと時間はかかるかも知れないけど、遠隔地への手紙の運送はそういう感じですれば良いのさ。』
『おおー、なるほど! それなら、最初は横須賀に向かう艦魂に渡して、向こうで南洋に運んでもらえるように手配すれば良いんですね!?』
『うむ。そういう事だ。』
両名の懇切丁寧な教え方に感謝すると同時に、意外に知らなかった特務艦らの励んでいる形も知れて、明石はまた一つ賢さの値を挙げれた。
状況一片して気持ちも嬉々とした事で笑顔も戻り、高雄らがさきほど用意してくれた資料の中から第二艦隊絡みの特務艦で横須賀行きの者がいないか探し始める姿にも、舷窓から漏れる真夏の陽光にも負けない明るさが纏われ始めていく。良き先輩方二人もそれを手伝ってくれ、ついでに宛名書きの書き方も手解きしてくれるなど、明石の後輩に向けたお手紙にはようやく発送の目処が立つ事になった。
明るい展望を手の届く所まで手繰り寄せたようで、明石は安堵と嬉しさの両方を得る事が出来た上に、意外に知らなかった特務艦達の担当なんてのも覚えた事で尚更に気分が良くなる。高雄らに教えられて封筒に宛名を書いていく際も終始笑顔で、跳ねる様な動きでペンを走らせた後は自慢のハンコを高らかに取り出して押印を行った。
するとなんとここでまたまた意外な事に、今度は良き先輩方であるこの両名のちょっとした嗜好を知る事になった。
『おお!? あ、明石、それはハンコか? 一体どうやって手に入れたんだ?』
『ほえ? こ、これですかぁ? あの、わ、私の分身の木具工場で作ったんですけど・・・?』
『おお、工作艦の木具工場! その手が有ったか! カッコイイじゃないか!』
『は、はい?』
普段は落ち着いて物腰柔らか、男言葉に生真面目な姿勢で皆から一定の尊敬を持たれてるはずの愛宕が、突如として明石の隣で席から立ち上がった。声を張り上げて表情もやや興奮気味で、明石の手に握られたハンコへ集中させた目は僅かに見開きながらも微動だにしない。これまで一度も見た事の無い姿にやや唖然としながら、驚いた明石は呆けた様な声で応じるばかりであったが、明石を挟んで愛宕とは逆側に座っていた高雄は頬杖をつくと同時に呆れた声でつぶやく。
『あ〜あ、ま〜た愛宕のそれが始まっちゃった。別にサインで構わないじゃん。』
『何を言うんだ、高雄。押印は楽な上に字体も崩れない。いちいちペンを取り出して書くなんて、一分一秒を争う時には死活問題じゃないか。それにカッコイイから、上海なんかで外国艦と交歓する時もビシっと決まる。』
『紙に確認の印つけるのに一分一秒争う時っていつだっつーのよ。砲戦中にサイン求めてくる奴がいる訳でもなし。それにさあ、外国艦の連中がハンコ見て、オ〜、スゴ〜イ、カッコイ〜なんて言ってくれるとでも思う? なんだありゃ、で終わりだよ。それこそサインの方が理解されるだろ。』
ぼやきにも似た高雄の言に愛宕は明石の頭に覆いかぶさるようにして身体を伸ばし、片手に拳を作ってハンコの重要性を熱弁し始めた。対する高雄は真面目に取り合う気も失せてるのか、頬杖をそのままに席上で身体を流して天井辺りに半開きの目を向け、わざとらしく高めの声を用いて外人の発音を真似てみたりもしながらの、ふざけ気味な口調で返事をしてみせた。
間に挟まれた明石は驚きと動揺に染まって左右にキョロキョロと顔を向ける。長年交代で四戦隊旗艦を務め、いつも一緒にいる仲の良い姉妹であるこの二人が諍いを起こすのも珍しいし、そのきっかけである愛宕の突然の言動も、日常の在り方と比べたら実に奇妙な物だ。一体どうしたんだと思う明石を置いて二人の舌戦、と言うよりも正確には愛宕の弁論が次第に熱を帯びていくが、口を挟まずしばし耳を傾けてみたらその要旨が段々と明石にも解ってくる。
どうも愛宕は彼女自身の言葉で言う「カッコイイ」物に生来とても執着があるらしく、いま現在その対象になってるのは明石がおもむろに取り出したハンコだったようだ。立ち上がった上に拳まで作って高雄への弁に一層の力を込めている辺りは必死さも垣間見れるほどだが、呆れきった高雄は唸るような声色で応じており、目も合わせないで頬杖をしっぱなしな姿は小馬鹿にするみたいな感じさえもある。顔立ちも似て仲の良い姉妹ではあっても、意外に物事の考え方や捉え方でこの二人の価値観には真逆にも等しい形で差異が有る様で、高雄は柔軟性に富んでいて新旧や見栄えに拘らない自由派。愛宕は逆に礼式や儀礼の面での体面を重んじ、ひと手間かけた精巧さに魅力や価値を見出すこだわり派であった。
愛宕の熱弁は未だ頭上で白熱してるが、年上相手でもそういうのが見れるようになってきた明石。そこそこ成長も積んできた故か、動揺こそ覚えているものの彼女は先輩方両名の喧騒にそれほど慌てふためく思考は持たなかった。特に意識した訳でもないのに自然とどうやってこの場を収めようかと考え始め、回転数を上げてヒートアップしつつある両脇の二人に反してものすごく冷静さを保っている。
まあ、それでもいまいち良い方策がまとまらず、その内に突如として愛宕が言い出した勢いについつい飲まれて首を縦に振ってしまう辺りは、まだまだ未熟者、或いは要修行と言った所か。
『よし、明石。今日は木具工場は忙しいのかな? 是非、私達も自分のハンコを手に入れたいんだ。案内だけしてくれれば、私が自分の手で作るよ。もちろん、迷惑はかけない事は約束しよう。』
『お、おい、愛宕。私達って、それあたしのも入ってんの? いいってば、もぉ〜。』
『第二艦隊旗艦がそれでどうするんだ、高雄。安心しろ、高雄の分も私が作ってくる。格好良くなれるさ。さあ明石、頼むよ。』
『ほええ・・・!? あう・・・、あ、は、はいぃ〜。』
間髪入れず愛宕にまくしたてられて、それまで些か一人の世界に入っていた明石はまともに返事を返す事もできない。本当ならちゃんと事前に木具工場の稼働予定とか、材料になる木片の有無とかを調べた上で了解の意を示したかったのに、普段大真面目でお堅い人柄の愛宕に一気に迫られたのでそんな考えも瞬間的に凍結してしまった。仰天したのちに苦笑いで首肯するのが精いっぱいである。
果てはだいぶご熱心なのか今すぐ行こうと言い出しちゃった愛宕に半ば拉致同前に強制連行され、とりあえず宛名も含めて完成してあとは目星を付けた特務艦の人に手渡すだけとなったお手紙を手にし、溜息交じりに煙草に火を灯した高雄の後ろ姿に敬礼しながら愛宕艦長官公室を後にするのだった。
ぬ〜、な、なんかやる事が増えちゃった・・・。
ただ手紙を出したかっただけの行動が、愛宕によるハンコ作成大作戦に発展してしまった。
その当人を背後に連れて歩きつつ、明石はちょっと本日の事態の流れに幾分の疲労感を覚えてしまう。別に愛宕が嫌いな訳ではない。へそ曲がりの神通に比べたらずっとお話しできる艦魂だし、むしろ普段そんなに深い付き合いも無かった彼女と二人で時間を過ごすのは新鮮ですらある。ましてや工作艦たる自分の下へ訪ねたいと申し出てくれたのはとても嬉しいし、これまで何某かの頼みを何度も聞いてくれた愛宕が逆にお願いしてきたという格好も、なんだか自分がたよりにされてるんだなぁと思えてきて悪い気はしない。
事実、明石艦の甲板へと転移してきて歩みを進めていく最中の会話も、明石も含めて結構弾んでいた。
『そうかあ、木材にもいろいろ有るんだね。ま、人間達みたいに象牙の高級品なんてのは私としても期待はしてなかったけど、加工に向く向かないが有る材料ってまでは考えが回らなかった。明石はよくそんなの知ってたね?』
『一応、工員さんの働いてる所はなるべく見学するようにしてるんです。朝日さんからもよく言われてましたから。あ、でも、私も最初、樫の木でやって失敗したんですよ。彫刻刀じゃなかなか削れなくて。しかもハンコって、字を逆に掘らないとダメなんですよね。えへへ、これも最初に間違っちゃって。』
『ははは。いやあ、試した後の是正処置がちゃんとできてるって事じゃないか。やり方としてはもっと自信を持っても良い物だよ、明石。まさに軍医中将が私らにも教えてくれてた事だ。大切なのは試行錯誤の過程と結果だってね。』
徹夜明けで疲れてこそいるが、せっかくの機会なので愛宕と色んなお話しをしてみようと気持ちを改め、ハンコ作成の監修と補助をすべくその日は彼女に付き合う事に決めた。あくびも連発して眠気や怠さと戦いながらの時間であったものの、普段の人柄からは想像できない程にものすごく楽しそうに工作に励む愛宕という先輩の人柄に目を細め、その合間や休憩の都度に話してくれる持ち前の極めて豊かな一般教養にまだまだ乾き気味の知恵袋を満たしてもらうなど、お手紙作成から始まった一連の流れの果てに、実に新鮮で有意義な一日を得る事に成功した明石であった。