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第一六一話 「喧嘩と果て」

 もう引退したと言っても差し支えない身分の敷島(しきしま)の下に送られてきた赤城(あかぎ)からの手紙を、出雲(いずも)は両手に持って顔に近づけ、その上に覗く小じわも控えた青い目を縦に往復させながら数枚に及ぶ便箋を捲っていく。おふざけが絶えない言動もちょっとだけ鳴りを潜め、すぐ傍で呆ける様に海を眺めている親友にもちょっかいを出す気配はない。至って真面目な顔で赤城からの手紙を拝読している。

 むしろ先に声を上げたのは寡黙な人柄である敷島の方であった。


『やれやれ、バカタレ揃いで困る。それも戦策に関わるような重要な話をしてる時に起こったらしい。まったく。』

神通(じんつう)・・・。この子も金剛(こんごう)が面倒見てたね。』

『上官反抗、命令不服従、暴行傷害。・・・ハァ〜。人間どもの世界なら軍籍剥奪物だな。』

長門(ながと)陸奥(むつ)までぶっ飛ばした、か。こりゃ言い訳もできないねぇ。』


 手紙に綴られていたのは先月頃の神通の一件。陸奥艦にて長門や赤城らを前に咆哮し、軍刀の鯉口を切って傷を負わせた上、その命令に公然と拒否の意を大喝した事の詳細が、その場に居た赤城の手によって記されていた。

 当時、切り付けられた当人である赤城もだいぶ興奮していたようで、神通が去ると同時に彼女もまた軍刀を片手に斬り捨ててやると鼻息を荒くし、騒ぎをこれ以上大きくしない為にと長門や陸奥、那珂(なか)等から羽交い絞めにされる形でそれを止められたらしい。その後、落ち着きを取り戻してひとまずはそれぞれ以降の艦隊訓練に精力を注ごうと話を纏めたものの、どう対処すべきか敷島に知恵を貸して欲しいという内容である。師匠譲り、一家譲りの激昂を見せた赤城もあたら神通を悪者として捉えるつもりはないみたいだが、その返信に敷島は大きな迷いと戸惑いを生んでしまった。

 なぜなら赤城の対処せねばならぬ相手が、他ならぬ神通という艦魂だったからだ。






『親方ぁ〜。ガキが好きなん解っとりまっけど、甘やかす様な真似は堪忍やでぇ。』

『ハハハハ。金剛よ。コイツはな、私に似たんだ。』


『なに言うてんか。顔つきが全然ちゃうやないですか。ワシも親方もこの国やったら外人ちゅう奴やで。』

『ハハハ、そうかそうか。だがな、顔や容姿を言ってるんじゃない。不思議な物だ。自分でもこれほどの奴は他にいないくらい、似てると思うんだ。どこがどうとは上手く言えんが。さあ、神通。菓子をやろう。』


 これは敷島が初めて神通と会った際の会話である。

 美保ヶ関事件から数か月が経って年も変わった頃、艦隊訓練に従う形で佐世保にやってきた金剛が、師匠への挨拶をしに来た際に連れてきたのが神通だった。

 夜間演習中の大事故の事はそれより前に敷島も金剛から手紙で知らされており、艦首甲板の下半分を殆どもぎ取られる重症の身がようやく治って復帰したばかりの当時の神通は、現代の雪風(ゆきかぜ)に極めてよく似た、顔に比しても大きな釣り目を持つ10代半ばの容姿を持つ少女だったが、心の傷が癒えていないのかそのあどけない顔立ちに明るい色を持ってはいなかった。聞けば事故の際に己の分身の艦首で部下に当たる駆逐艦を真っ二つに切り裂いてしまったらしく、そのせいで早くも同じ二等巡洋艦の仲間内では「仲間殺し」なる風評で忌諱され始めているとの事。来訪と同時に金剛から早速その小さな尻を蹴飛ばされて挨拶するよう督促されていたものの、俯きがちに震えも感じられる高めの声を紡ぐその姿には弱々しさが濃く絡み付いている有様だった。

 金剛を始めとした敷島のこれまでの弟子達の中でこういうタイプの者はいなかった、もといそんな輩には己が与える修練は務まらないと敷島自身が手をかけてこなかったのだが、不思議とこの時、敷島は戦々恐々が極まる神通という若人が自分に似ているような気がして仕方なかった。その言葉通り、何がどうという訳ではない。英国生まれの敷島と日本生まれの神通では顔は言わずもがな。艦魂としての経歴上でも接点はまるでないし、分身の上でも戦艦と二等巡洋艦では繋がりなんて皆無である。大体が既にこの時、敷島は現代と同じく佐世保に隠居していた身であるから、そも同じ海を駆けた間柄ですら無かった。

 当の敷島にしても不思議の言葉以外そこには見つからなかったが、元々若人を鍛練してその成長の過程を眺めていくのが好きだった性分と、似ていると意識した途端に胸の奥底から溢れ出てくる可愛さ、愛おしさに彼女はいとも簡単に押し流されてしまう。金剛から言われたように修練に伴う厳しさは、まさにその金剛を鍛え上げた敷島が一番に必要だと解ってはいるのだが、その考えも当時の神通を碧眼に映すや走錨状態。

 自ら神通を呼んで自分の隣に座らせ、近すぎて些か困っている彼女の心境を余所に肩を抱き寄せて頬ずりをしながら可愛がるくらいだった。


『金剛は厳しいし、確かに粗暴で扱いは難しいだろうが、この私が半生を捧げて育てた一級の艦魂だ。最高傑作と言っても良い。毎日コイツに怒鳴られ、殴られてるのは言わずとも私も知っている。だがその先にこそ、軍艦の命として最も必要な強さが必ず待っている。私が保障しよう。そして私もまた、お前の強さへの道を手伝ってやるぞ。今の辛さに挫けそうな時、金剛が厳し過ぎて欝な時、何かに迷いを得た時は、いつでもこの佐世保を訪ねると良い。この敷島が、必ずお前の味方をしてやろう。』

『は、はいぃ・・・。い、いたいです・・・、敷島の大親方・・・。』


『なんや、親方。ワシん時と違て甘やかし過ぎや。年寄りの暇潰しに若い小娘の教え子が欲しかっただけやないかい。ワシなんていらんかったんや、・・・イテッ!』





 この様な子弟仲で現代まで続いているのが敷島一家である。

 感覚や意識、印象の面で似ていると思った神通は敷島としても特に目をかけてきたし、どのような人柄なのかも金剛と同等に熟知していた為、彼女は赤城の手紙にある神通の言動を否定的な面だけで捉えてはいなかった。


『一時の怒りだけだったのでもあるまい。神通は金剛とは少し違う。もっともっと繊細な奴だ。』

『金剛はともかく、神通とはあんまり話した事は無いけど。うん、確かに。誰かさんにソックリに見えるね、あたしには。』

『ム・・・。』


 心配と憂慮が混ざった複雑な心境の中、それでも教え子一人一人に備わる個性をもって神通なりの道理が何か有ったのではと考えを巡らせる敷島に対し、出雲は緩慢な太極拳の動き再び行い始め、顔も友へと向けないままちょっと嫌味っぽい言い方をしてくる。他人が困ってる時になんと気楽な奴だと一瞬だけ敷島も煩わしさを覚えたが、合いの手でも入れる様な短い出雲の言葉が、赤城からの手紙を読んで意識していた神通と自分の類似性に及んでいる所に気付いて眉を下げる。もちろん出雲の言う「誰かさん」とは自分以外にいない。神通と敷島の両方に極めて親しい金剛ですら、それは理解できないと以前から口にしていたのに、久しぶりに日本へと帰って来た旧友の声でそれを耳にできるとは思ってもみなかった。


『・・・ほう。お前もそう思うのか、出雲?』


 直接の教え子でもない神通への独特の親近感を見透かされた訳だが、少しだけ口元を綻ばせてそう言った敷島は悪い気を抱かなかった。単純に自分と似た若人がいるというのを第三者の立場からも認められて喜びが湧いたからで、人間達の社会で言う母親の心境を人知れず持てていたのも拍車をかけた。

 ただ、ほのかに嬉々とする表情で返答を待つ敷島に対し、出雲が返してきた言葉はこれまた思いがけない内容であった。足を前後に大きく開いて余韻も残すほどに長い呼吸をした後、ちょっとだけ声を尖らせて彼女は言う。


『あのさあ。なんか自分の事、棚に上げてないか? あの旅順での閉塞作戦の時、どんだけみんなとドンパチしたと思ってんだい。明石辺りとは特にさ。ま、正直なトコ、言おうとしてた事も、色々と考えてそうしてた事も、な〜んとなく察してたけどさあ。あたしは。』

『ムム・・・。』


 漠然とした類似性の意識ばかりが昔からあった敷島だが、出雲が口に出した似ている部分とは、敷島としては大きな失敗の思い出として秘めていた記憶。かつて無愛想と粗暴さを武器に仲間達と衝突していた己の姿は、その当人である敷島の脳裏にありありと蘇ってくる。同時に赤城の手紙にある神通の様子がそこに容易く重なった。

 今更ながらにかつての自分と同じ様な境遇にあるのかと気付き、敷島は少なくない衝撃を受けて俯いたまましばし呆然としてしまう。雰囲気や人柄の面以外にまさか行動まで類似するとは、ましてや良い面ではなく悪い面でそうなるとは夢にも思っていなかった。

 ここに至って敷島の顔色は曇り模様となり、唇を強く結んで押し黙った事でその場に流れるのは、未だ続行中の出雲の太極拳に伴う長くゆったりとした呼吸音のみである。ちょっとつつく様な一言で友人を黙らせてしまった格好の割に、出雲は平然としてその流れる様な動作をやめる気配は無く、顔を面と向かってすぐ隣にいる敷島に向けもしない。

 もっとも知らないふりをしている訳ではなく、そも大の仲良しの敷島を責める様なつもりも彼女は微塵も湧かせてはいない。その証拠に出雲の青い瞳だけは気付かれないように横を向いて俯く敷島を捉え続けており、困惑とも動揺ともとれる面持ちで沈黙する友人の様子をしばし観察。次いで見たままを見た通り、思った事を思うがままに口に出すという、昔と変わらぬしゃべり方で友人に声をかける。それは語りというにはなんとも短い、極めて端的な言葉であった。


『・・・迷ってたんだろ。あの頃の、敷島はさ。』


 どこか突き刺すような感じも備わる出雲の声色は、敷島の胸中奥深くに秘した物を的確に射抜く。すぐ傍で客観的に見れる姉妹にはおろか、当の本人ですらもそれが何なのかよく解らない(もや)みたいな感覚で、長く生きてきた生涯の中で生来の不器用さも手伝ってこれまでずっと明確な見方をできずにいた敷島だが、昔から人柄に似合わず物事の本質を即座に見通す感覚が鋭かった出雲の前では何の障害ともならなかった。

 そしてそんな友人の言葉だったからこそ、敷島は抗う事も疑う事も無く受け入れるのである。一度真横にて太極拳に勤しむ出雲に視線を流した後、片手をそっと顎に添えて呟くように応じる。


『そうだった、のだろうか・・・。』


 往時を思い出しながら吐く敷島の言葉は重い。




 敷島が苦虫を噛むような表情をして甦らせている記憶は、日露戦役初期に行われた旅順港閉塞作戦に際しての物である。

開戦初頭に撃破に達せず健在であったロシア海軍太平洋第一艦隊、いわゆる旅順艦隊を、その根拠地たる旅順港に封じ込めようと発案された本作戦。それ以前に行われた米西戦争にて、アメリカ海軍が実施したサンチャゴ湾閉塞作戦に範をとった物で、決して奇天烈な発想でも前代未聞の理論を基にした物でもなかったのだが、沈没を前提とするという部分では船の命達にとって重大な覚悟を持たねばならない側面があった。

 いくらその対象が民間船だから、或いはもう役に立たない老船だから、という枠で選抜されたとは言え、『死んで来い。』の一言で同じ船の命を戦場に送るなんて事は帝国海軍の艦魂社会でも簡単には受け入れられず、一部の者達は三笠艦に宿される連合艦隊司令部へと侵入して作戦中止の書類を偽装しようとする動きもあったくらいである。閉塞隊に編入された民間船への同情もかなり色濃く、今では名だたる長老格の艦魂達も代替案を考えるか、それとも自分達でとりゆるあらゆる手段を用いて中止に持っていくかで真っ二つに割れていた中、敷島だけは平然といつもの無愛想ぶりを見せつけた後に実施推進を口にしたのだった。


『ふざけるな! 何が勝つ為の最善の手段だ! どういう事かも何にも解ってないクセに!』

『このガキが、上等だ! 仁川沖での報告書と言い、その口の利き方と言い、前から気に食わんかった! イワンの先にキサマを八つ裂きにしてやる! かかってこい!』


『うわあ! ふ、二人を止めろーッ!』

『おい、敷島、やめろってんだ! 何してんだよ!』

『や、やめなさい、明石! 同じ日本海軍同士で喧嘩してる場合じゃないでしょ!』




 こんな調子で大喧嘩をするのも日常茶飯事だったあの頃を、敷島自身は少し恥じている。それよりしばらくして実の妹を含んだ多くの仲間を失った経験が少なくない影響を与えたからで、血の気が多くて無駄に張り切っていた己の姿を見るに堪えない物として心の奥底に封印してきたのであった。真正面から見る事も受け止めもせずにいた過去の自分を、当然ながら客観的に捉えて考えた事なんて無く、出雲の言葉を受けてそれを見抜かれたとあってもいまいちピンとはきていない。

 ただぼんやりとだが、それは正解であったろうと今更ながらに敷島は一人思う。冷酷だ無情だと陰口も叩かれたりしながら戦ったあの戦争の中、彼女はその実で多くの懸案に頭を抱え、難しい選択を何度も迫られたりしながら己の言動の仔細を常に決めていた。決して死んで当然とか、犠牲は付き物なんて超越者じみた思想を持ってた訳ではない。心配性の妹の朝日(あさひ)以上に、敷島は迷いと干戈を交えながらあの日露戦役の海を駆けてきたのが、当人ですら気付かなかった真実なのである。

 出雲が見抜き、次いで現代の教え子の神通にも見出した敷島との共通点は、まさにそこであった。


 数十年越しにかつての自分を認識した敷島は、再び少なくない衝撃を受けて押し黙る。伏せ目がちにするその表情に普段の強面艦魂ぶりは窺えないが、ずっと畏敬されてきた豪胆と超絶な腕っぷしだけは今も昔も健在。出雲は口の端に指を引っ掛けて開けながら、幾分滑舌の悪い声で語りかけてそれを示す。


『そーいやさ、よくあの頃やりあったよな? おかげであたし、今でも奥歯一本無いんだけど。』


 出雲はようやく敷島に振り返って、歳に似合わず悪戯小僧の如き笑みを作って見せる。指で開けて見せた口の中には一本だけ奥歯が無くなっているが、恥ずかしがる様子も無い。眼前の敷島がそれを知っているのを解っているからだ。

 それもそのはず。

 前髪も含めてすべて後ろに長し、背を覆うくらいに伸びたブルネットの髪が、まだまだ後頭部を覆うくらいでしかなかった頃の出雲。短髪で若々しい顔に、配慮も遠慮も一切無い物言いをし、しゃべり方や考え方に品や礼式なんか挟んだりしなかった当時の彼女は活発な女性その物で、寡黙で堅苦しく強面の敷島とは水と油の関係。諍いや争いは日常茶飯事で、奥歯はその際の一幕において敷島の鉄拳によりへし折られた物である。

 40年近く経った現代では良い思い出の一つで、かつての姿をその瞼の裏に甦らせてやったのと同時に自身もまたこの場でちょっとだけ昔へと戻ったのを、口をこじ開けながら作る笑みにて敷島に対して示してみせた。


 一方、敷島はそんな出雲の気遣いとおどけた顔を目に入れ、固く真一文字に閉ざしていた口元を反射的ともとれる速さでついつい緩めてしまう。殴り合ったのが出雲にとっての良い思い出なら敷島にとってもまた同じで、今も身体に残る影響という面においても違いは無い。無意識の内に彼女はその高い鼻を覆う様に右手を被せると、指で軽く摩りながら幾分苦々しそうな声で言う。


『・・・フン、そいつはこっちもだ。あれから鼻の調子が悪いのが治っておらんのだぞ。ちゃんと朝日に接いでもらった筈なのだが。』


 お互い一歩も引かなかった殴り合いを懐かしんで二人は笑う。

 40余年目に久々の再開を得て思い出したのがかつて仲が悪い頃の喧嘩の思い出とは妙な話で、一門の末弟子の不祥事にどう対応すべきかと相談した末の光景としてもそれは尚更だった。決して大きな声で高笑いをする訳でもなく、それぞれ浮かべた微笑を相手に向けて見合わせようともしていない。僅かに肩を震わせて短く小さな笑い声を漏らしているだけなのだが、両者、殊に悩みを人知れず抱えていた敷島にとっては心の底から笑えた一瞬であった。それと同時にその沈みがちだった気持ちが楽になるのも出雲の企図した通りで、苦悩で停滞気味だった敷島の思考はようやく歯車を回し始める事になる。

 静かな笑い声を一巡りさせると敷島は顔を上げて腕組みをし、片手に握った手紙をヒラヒラとさせながらどこか嬉しそうな声色で言った。


『さて、それではこいつはどうした物か。昔の私に似たなら、そう簡単に話は聞かんぞぉ。』

『偉そうに言うなよ。その度にぶっ飛ばされてたこっちの身にもなれってんだ。せっかくの若くて美人だったこの顔、毎度毎度台無しにしやがって。』

『フハハ。老けたのは私の仕業じゃない。それに今でも私が羨むくらいの顔立ちだぞ、お前は。まあでも、お前が神通の傍に居れたのなら、こうはならなかったかもな。出雲。』


 まるで先ほどまでの立場は逆転。

 敷島はからかうようにそう言い、出雲は太極拳の動きを止めてすぐ隣に立つ友人に声を荒げている。今更に顔立ちの良さを褒められたのも逆に癪に障ったらしく、目と口先を尖らせた顔を向けてきた。もっとも敷島に悪びれた様子は無く、今にも鼻歌を歌いだしそうな朗らかな顔つきで笑いながら出雲に片手をあげ、立場逆転の立腹に勘弁を乞う。出雲はすぐには勘気が収まらないようで些か不機嫌そうに睨んでくるが、その眼光に刺されながらもやがて小さな溜息をついた敷島には、ここ最近悩んでいた神通の一件において見え方も少し変わった様に感じた。

 呟くように彼女は言う。


『・・・チビ達を手放さぬつもりか。』


 その時、ふと敷島は神通の考えがなんとなく読み取れた。赤城の手紙にその様な事を書いた件は無かったのでいきなりの暴力沙汰という姿をそこに重ねていたのだが、思えば愛弟子の金剛とは違って神通は短慮を働く人柄ではない。大胆にして慎重、豪快ながらも緻密な思考を第一と教える敷島一門の中、金剛が歴代最優秀と評した程の神通はそれをよく吸収した艦魂。気性の激しさと癇癪持ちはやや困り者だが、あれで激情ぶりを無軌道に発揮する事は無く、魂胆や理由を必ず持って行動へと移るのを、それこそ敷島は彼女が幼少期の頃から見守ってきたのである。

 ではその裏にある物とは、神通が鉄拳で隠していた胸の内とはなんだったのかを考えた時、そう深く思考せず直感的に察したのが今しがた敷島が短く述べた一言であった。


 そして同時に敷島は、そんな神通が今またどうしているかも悟ってみせる。

 金剛みたいな単純な奴ではないから、抗うという形ながらもその姿勢の維持を一門の末弟として色濃く受け継いでいるから、何よりもかつての自分と同じと言っても差し支えないほどに似ていたから、会いもせずとも論を成さずとも敷島の考察は確信へと変わった。

 対してまだ眉を吊り上げている出雲も、友人の何某か答えを見つけた様な口ぶりに怒るのを一旦止め、敷島なりに導き出した結論を素直に耳へと入れる。


『・・・苦しんでいるのだな、きっと。』

『ん〜、なんかよく解らんけど、そうなのかい?』


 本日顔を会せてからという物、出雲が諭す場面ばかりが続いてきたが、今は彼女が敷島の一人合点にも似た確信に些かついていけなくなっている状態だ。加えてくどくどと説明する気も無いのか、敷島は佐世保の湾の景色に顔を向けて不敵に笑ばかりで、しばしの間友人とは会話が成り立たなくなる。苦悩の枷から足を抜き、ようやく懸案とそこにまつわる過去の己に向き直った彼女は、そのまま出雲を無視する形で思案を続行。腕組みをして幾分鋭利にした碧眼に静かな海面を映す。

 憂う神通や赤城らへ与えたい解決策はそう簡単には浮かんでこないが、やがてその最も近くにいる存在にぼんやりとだが一縷の可能性を見出した。なぜならその存在とは40余年の敷島の生涯の中で、今にして思えば最大の救いを与えてくれた者の後継者に等しい人物だったからだ。


『・・・明石よ、お前ならどうする? 30数年前に私を諭し、今また神通を説き伏せれるか・・・?』






 さて、昭和16年8月11日。

 明石艦を含めた第二艦隊は相変わらず宿毛湾で訓練を続行中である。ただここ最近はどの艦でも人事の面で移動が多く、それは艦長を含めた乗組員のお偉いさんから一番下っ端の水兵さんに及ぶまでと幅の広い代物となっている。ましてやこの人事異動劇は第二艦隊どころか帝国海軍全体にも及んでおり、各部隊、各艦では前任者からの引き継ぎや送別歓迎の場を設けたりとで色々と忙しい事になっていた。


 明石艦でもそれは同じで、本日付けをもって退艦、及び乗艦を命じられた人々は結構多い。

 その中でも特に大きな物として、まずは副長の北村富美雄中佐が海防艦国後(くなしり)艦長として栄転する事になり、後任は戦艦の榛名(はるな)艦運用長から転出してきた山内堤象中佐。鬼の金剛とか地獄の山城(やましろ)とかと噂されて恐れられる戦艦の空気を吸ってきた山内中佐であるから、その彼が艦内の風紀なんかに目を光らせる責任者みたいな立場の副長を頂いたとあって、さっそく下っ端の水兵さんは慄く気持ちを湧かせ始める始末。経験が少ない少尉や中尉さん辺りなら時にはちょっと威張ったりもしてみせる下士官の者達も、海軍士官としてベテラン格となる佐官さん相手では手も足もでない。忠みたいな新米士官にはまさに直接の上司にして海軍士官としても先輩に当たるのだから、着任早々怒号の雷を頂く事のないよう、登舷礼で乗艦を迎える辺りから乗組み総員は己を律する気持ちを改めたのであった。

 次いで明石艦の機関部署を総括する機関長も同日付で交代となり、反保慶文機関中佐は呉鎮附きという立場で明石艦の舷門を降りていく事になる。ちなみにこの後すぐ、彼は帝国海軍航空母艦の最古参にして最精鋭、そして第一航空艦隊旗艦の栄誉を現状独占している赤城艦の機関長を拝命する事になり、かの歴史的大奇襲作戦に立ち会うのである。後任は水元秋義機関中佐だが、彼はその前職がなんとなんとあの朝日艦機関長との事で、随分とまた工作艦に縁の有る機関科士官だ。石炭炊きの古い機関を持つ朝日艦から、ドイツのMAN社式ディーゼル機関という最新鋭の機関を持つ明石艦へとやってきたので引き継ぎ事項には少々苦労も有ったが、40年近く型落ちの工作艦から最新鋭工作艦へと配属になったのはやっぱり嬉しいらしい。着任早々のお仕事を一通り終えるやさっそく艦内へと足を進め、見る物全てが最新式という艦内艤装に感心の吐息を連発する次第であった。


 士官の枠の中とは言え幹部だけでも2人も交代したのであり、その下に位置する下士官さんや水兵さんではその倍以上の数の交代が行われた。

 (ただし)の近い所では砲術科に属する班長格の下士官さんが一名交代となったのだが、同じ海軍の組織内の事とは言っても勝手の知らない場所に行くというのは誰に有っても色々な出来事を生んでくれるという物である。仕事に関わる部分でとっても参考になる良き上司に巡り会う事もあれば、嫁さんを世話してもらったりなどして人生の師匠となるべきお方と縁を持ったりするなど、人間が関わっている以上そういう部分での分岐点なんかが出現するのは別に海軍だけに限った事ではない。また言うまでも無く、時にはその逆なんかもあったりする訳であるが、残念ながらこの時の明石艦ではとある一人の大馬鹿者のせいでそれが起こってしまった。

 しかも具合が悪い事にそいつは職場での立場以外において、忠と極めて近い関係にある者だった。




『オレぁ、今度新しく来た石垣(いしがき)ってモンだ。前は日向(ひゅうが)乗組みだった。特務艦ってのはちょっと緩んだ所もあるみてーだけどよ、オレぁ日向ん時の厳しさでいくから覚悟しとけ。特に水兵連中! ボートクルーも役員も、オレぁ関係ねえからな!』


 場所は明石艦の顔ともいえる艦橋真下。上甲板より一段高いセルター甲板右舷側に位置する一番機銃の前で、無精髭と顔も身体も角ばった輪郭を持つ下士官が、純白に金ボタンの二種軍装に見合わぬ荒々しさで吠えている。彼の面前には横一列に並んだ数名の水兵さん達がおり、彼らは皆その一番機銃の配置を受け持つ人員である。石垣はその機銃員達の長としてこの度明石艦に配属されて来た訳で、新たな部署へとやってきたのに際しての初顔合わせと挨拶の場を設けているのだが、男の世界である軍事組織、ましてや鉄拳と怒号と恐怖が入り混じるその末端部分の一場面ともなれば、握手を交えてよろしくの一言で終わるような光景なんか珍しい。

 列の端っこに並ぶマサこと森正志二水にとってもまた、こういうのは幾分慣れた感もある海軍独自の日常の一コマであった。もっとも、極めて鼻っ柱の強い彼は当然ながら反骨精神に火を灯し始めている。


 ・・・ケッ。そのトシと言い方で善行マーク1本かよ。大方、士官連中にゃお利口さんしてたクチかぁ?


 これでも忠の実弟である彼。顔立ちは忠とそこそこ似ながらも優男の兄とは違って次男気質をそのまま人柄にした様な男で、ここ最近の猛訓練ですっかり日焼けした麻色の肌がよく似合う、向こうっ気の強い悪戯小僧がそのまま大人になったみたいな奴だ。事実、幼少時のマサは近所でも屈指の超が付くほどの悪ガキで、実家の近隣で悪い事が有ると決まって彼がやった事にされていたし、喧嘩っ早い所もほぼこの頃から人柄に備わっていた。勿論、成長してそれはそれは厳しい帝国海軍の門を潜った事でかなり理性は働く様にはなったが、その激しい衝動は日頃から今の様に胸の中で燻っている。

 そしてその矛先に偉いとか年上なんて識別は無い。加えて立場や腕力を駆使して他人を従えようとする奴は、彼は腹の底から大嫌いであった。


『なんだ、テメー。オレにもう一回聞き返せってのか、ああ!? 挨拶ぐれーってナメてんのか!?』


 ・・・ああ、クソ。むかつく。


 マサのすぐ近くの新米水兵が石垣に詰め寄られ、怒号に怯えて今にも泣きそうな顔をしている。声が小さいだのなんだのと難癖をつけられ、いちいち怒鳴り声を頭から浴びせる態度は海軍の下っ端ではそれほど珍しくは無いが、相手が人間である以上良い印象を与えてくれる物ではない。特に短気なマサにとっては傍から見ていても嫌気がさしてきて、握り拳を作りながら喉まで出かかっている物をグッと堪えて飲み込むんでいるのが正直な所である。ただ、喧嘩沙汰を何度も起こしては艦に迷惑をかけてきた反省もあるので致し方ないと自分でも思っており、戸籍上は関係は無いが同じ艦に乗組む実の兄に風評の面で害が及ぶのも良い気がしない。

 だからここは我慢だと己に言い聞かせながら、彼はいよいよ面前へと来た石垣の鬼瓦を前にして自制を強く意識する。とにかくただの挨拶なんだと脳裏に呟きながら、耳をつんざく怒号に少々大きめの声で、しかしめんどくさそうな声色で管姓名を述べた。


 ところがどっこい、具合が悪い事にここで石垣は自身に負けず劣らずの荒くれ者ぶりをマサの悪童顔に察してしまう。20歳をやや超えたくらいの青年の顔立ちにもやんちゃぶりはどこか現れているらしく、頬や顎にいくつか見て取れる薄らとした傷跡も何度となく喧嘩を繰り返してきた痕跡だとすぐに気付いた。

 おかげで整列する水兵さん達の中、一番に向こうっ気の強い輩だと勝手に識別された後、そんなマサを黙らせておけば他の兵員もそれに倣うだろうとの考えを持つ。俄然石垣はその語気が荒くなり、不満気な内心が表情に浮かびつつあるマサの襟を掴んだ所で、列に並んだマサをよく知る他の水兵達が顔を見合わせて冷や汗を流し始めた。


『おーおー、なんか言いてぇ事でもあんのか? ああ!? 特務艦如きでイキがってるガキが、なんだそのツラァ!?』


 石垣はここ一番の怒鳴り声を浴びせ、襟を掴んだまま腕を振ってマサの身体を手荒く揺さぶる。辺りにいる水兵たちは表情を一瞬にして凍りつかせてしまったが、彼らの視線は石垣の方を向いてはいない。大多数の者はこれから始まる修羅場を予想して波乱の大波に戦慄し、一部の者は『やれやれー!』と胸の中で密かに喝采と応援の声を上げているという内訳で彼らが見ているのは、700余名を数える明石艦乗組員の中でも周知の大問題児であったマサである。とにかく短気で度胸が有って喧嘩なんか屁とも思っていない彼の顔は、軋みを生じて覗かせる歯以外は完全に真っ赤になっていた。

 刹那、マサの頭の中でカチンという音が鳴るや否や、もうこの馬鹿者に道理は通用しなくなる。突如としてマサは石垣の襟を掴み返すや、僅かに身長が高く身体つきも良いという相手の体格も意に介さず、その鼻を目がけて思いっきり頭突きをぶっ放したのだった。


『おるあぁああ!』

『ぐおっ・・・!?』


『ああ! や、やっちまった!』

『わー! や、やめろ、森二水!』


 怒り心頭、怒髪天を衝くといった形容でも足りないくらいの憤怒に、マサの咆哮と鉄拳の勢いは艦砲射撃もかくやの勢い。慌てて列を成していた同僚達が絡み付くように彼を止め、騒ぎを聞きつけて他の部署の兵員や士官が集まってきてもその炎はしばらくは消えない。羽交い絞めにされる僅かな間に怒れるマサの鉄拳は頭突きも合わせると4発にまで及び、石垣も含めて一番機銃の配置の面々には散々な顔合わせとなった。


 もちろんそれはすぐに機銃分隊を統括する砲術科の、次いでその砲術科の幹部である兄の耳にも入ってしまう。


『ブッ・・・!』

『おわ、きたねーな、森。』

『す、すいません、砲術長・・・! ゲホッ、ケホッ・・・!!』


 ちょうど士官室で砲術長や特務士官の人達らと訓練等の打ち合わせを行っており、議論の最中の一息としてお茶の入った湯呑を唇につけていた所で忠は一報を耳に入れた。盛大に含んでいたお茶を噴き出し、咳き込みながら机を同じくしていた人達に頭を下げる忠は、またぞろ実弟の起こした不祥事にビックリ仰天。喉を摩るのと同時に唇の端を拭いながら、もう何度目かもわからないマサの喧嘩沙汰の報に脳裏で叫んだ。


 またやった!? あのバカ!!


 困った部下にして、養子に出たとは言え知らんぷりもできない間柄である忠とマサ。まだ実家で一緒に住んでた幼少の時分からマサの悪ガキぶりには手を焼いた物で、カラスの鳴き声とマサによる騒動が聞こえてこない日は無いくらいだった。近所のガキ大将から海軍の上司上役までも含んでその矛先に例外が無い事に今更ながらに忠は呆れ、海軍士官になっても未だにその騒動に関わるハメになる自分を少しだけ呪う。

 しかし士官室の中で溜息をつくばかりにも立場上はいかず、同席していた砲術長らに忙しく頭を下げるや泣き出しそうにも見える困り顔で部屋を飛び出していった。


 それはお世辞にもカッコイイ姿ではなく、相方の冷やかし半分、お仕事の見学半分で文字通り人知れず同席した明石の目からもそう見えている。如何にも都合の悪そうな表情で慌てふためき、彼女がいるのも忘れて部屋から走り出していった忠の背中には感心も畏敬も微塵も湧いてこなかったが、その核にある喧嘩沙汰という言葉だけは彼女の身近でも最近耳にしたので頭の中で引っ掛かる。加えて兄弟という面でも共通点が有ったので、不思議な偶然がある物だなあと一人物思いにふける次第であった。


『ふんぬ〜。神通といいマサ君といい、みんな喧嘩しすぎ〜。』


 艦隊訓練は未だ続行中。彼女も含めた一部の艦艇は南部仏印等に赴いて実戦と紙一重の任務にも励んでいるというのに、どうも最近多い仲間割れも辞せずの騒擾を巻き起こす身近な人物達に、ちょっと頬を膨らませる明石だった。


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