第一六〇話 「相談」
朝潮の述べる所によると、神通は最近ずいぶんとご機嫌の差が激しいらしい。
『う〜ん、朝潮ぉ。こう言っちゃなんだけど、神通が怒鳴るのっていつもの事じゃないかな?』
『言えてるな。神通はいつもあんな感じじゃないか?』
『それが・・・。こないだも戦隊長のトコの甲板で武技教練してる時に艦隊旗艦が来られたんですけど、いきなり邪魔だ出ていけー、って。那珂中尉なんかには特に御立腹でした。戦隊長は確かに怒るとああですけど、でも理由も無く会った瞬間に怒鳴るなんて事はそうそうない・・・、と思うです・・・はい。』
『はーん。でもそういやその時、艦隊旗艦を追い返した後は別に普通だったよな。いつもだったらとばっちりがアタイらに来んのに。』
どうやら周知のご乱心ぶりの中にもいつもと違う感じが有るらしい。なまじ明石以上に神通と身近に接する朝潮らだからこそ、その違いは分かったのかもしれない。その証拠に雪風や霞らも思い出してみるとその言動の節々に思い当るところがそこそこ有る様で、明石と忠以外の者達は一様にお菓子を口に運ぶ手を止めて、何事かを思い起こして首を捻っていた。
特にわざわざ相談にやってきた朝潮のそれは顕著で、せんべいを半分も食べぬ内にまた一つ神通のおかしな点を記憶の棚より検索。一瞬だけ天井に視線を向けて小さく手を鳴らした後、せんべいを手にした右手を前後させながら明石に振り替える。
『ん〜、そうだ。そう言えば、旗艦代理を申し渡された時の最後にも、なんかおかしな事言ってたんですよ。』
『およ、なんて?』
『余所の隊や艦隊旗艦から妙な話が来ても、全部蹴れって。教練に関係ない話は、私が帰ってきてから裁可する。四水戦の那珂中尉にも気を許すな。私の名を出して断固として断れ・・・、と。』
昨年の観艦式等でもそうだった様に、神通は部下達が自分の指示が届かぬ範囲まで出かけていく際は、必ず自身の代わりに現地で頼れる者の名を告げている。第二艦隊でなら実の妹の那珂がそれだし、昨月まで続いていた艦隊合同での演練なんかでは師匠の金剛の名を上げる事が多い。それは普段から言っている二水戦への口出しを許すのではなく、解らない事が有ったら誰かに聞けるというある種の救済策を神通が用意しているからで、いつ何時でも部下達をほったらかしにはしない、または励む段取りに万全を期すという教育者としての彼女の姿勢が滲んだ一面でもある。
それをずっと貫いてきたのを明石も含めて誰もが知っている為に、今しがた朝潮が口にした事は明石らにはとても引っ掛かった。
『ふ〜む、どうしたんだろ。』
『明石さんなら何か知ってるかと思って来たんですけど。でも、よくよく考えてみれば明石さんはずっと南部仏印派遣でしたもんね。ご存知ないですよね?』
『うん、ごめーん。ちょっと私にも解んないや。でも那珂まで邪険にするなんて、ちょっと変だねぇ・・・。』
『それじゃどうだろ、明石。当人がいないんじゃ聞きようも無いから、とりあえず那珂辺りに聞いてみたら?』
『ぬぅ〜。そうすっかぁ。』
腑に落ちない点に考え込んでしまう明石に対し、ちょっとだらしなく浅く椅子に座る忠がとりあえずの助言を行う。彼女ら艦魂の話に必要以上に首を突っ込む気も無いが、相方も関わってる上に話題に登場する人物の全てに知己を得ている中では知らんぷりもできない。疑問符が並ぶばかりの室内でその言葉以外に前進する術は出ず、件の神通よりはよっぽどお話ができる那珂なら何か聞けるだろうという全員の目論見もあったので、翌日に明石は彼女の下を訪ねる事に決めたのだった。
『ねえねえ、那珂。神通と喧嘩とかした?』
『え・・・?』
その日の宿毛湾は曇り空の下、生暖かい潮風がゆったりと流れ、じめじめとした空気に嫌な汗を掻く様なお天気であった。おでかけするのは億劫になる反面、家でじっとしていても蒸し暑さに苦しむのみという欝な気候に気分を高揚させる人はいないであろうが、猛訓練の語句でつとに有名な帝国海軍の日常にその様なお天気事情が勘案される事は無い。今日も第二艦隊では所属の戦隊が沖合に軍艦旗を進めて訓練に精を出す予定が組まれており、明石が訪ねた那珂が率いる四水戦にあってもこの時、出港直前。その分身の甲板上は出港用意で乗組員達の賑やかさが相応に溢れ、姿格好がほとんど同じ者達の多い中で明石が彼女を見つけれたのは全くの偶然であった。
上部構造物の隔壁のすぐ傍まで那珂を連れて寄った後、明石は開口一番で質問を投げかけて今の光景となっている訳である。
さてそんな明石に対し、那珂は質問を受けた一瞬だけ表情と四肢を硬直させ、つい顰めてしまった眉にあまり良い物ではない記憶が裏にある事を示してしまう。気心知れた上に最初から様子を探る事を目論んでいた明石がそれを見逃す筈も無く、丸い目を大きくした顔を那珂へとさらに近づけてきた。那珂は頬にかかる髪に目の辺りを隠してその視線から逃れようとするも、屈託と遠慮の無い明石の視線には抗えないと思ったのか、やがて苦笑しながら口を開く。
『ふふ・・・、解るんだ?』
『昨日、朝潮とかから聞いたの。なんか神通の様子変だったって。それで思ったんだよ。また喧嘩したのかなって。』
『喧嘩って訳でもないわ。・・・まあ、意見の相違、って奴かな・・・。』
那珂は困ったような笑みに小さな冷や汗を這わせ、言葉を選びながらのそう述べた。決して嘘をついているとは明石は思ってもいない反面、その真相は率直に言うには色々と思う所があるのだろうと察する。姉とは大違いの気配りができて謙虚なその人柄を考えれば、姉の困った所、悪い所を明石に対してベラベラとしゃべるとも思えないから、意見の相違なる短い返答の裏はある程度想像するしかない。だがそもあの荒くれ者の神通と那珂の間で意見が違う状態になったとして、神通が『ふ〜ん、そうか。』くらいで終わらせたりはしないであろう事は明石には明確に推察できた。むしろ己の考え方が正しいと一歩も譲らず、那珂なりの考えにはまたぞろ大声で怒鳴り散らして矯正を迫ったりする可能性は大いに考えられる。
終始歪めた微笑で応じる那珂の姿を見て、明石はきっとそういう感じの出来事が有ったのだろうと思い、あえて口にしようとしない那珂に先駆けて自ら声へと変えてみた。
『あ、そっか。きっとどうせまた神通が癇癪起こしちゃったんでしょ? も〜、なんでああ怒るかなぁ。』
腕を組んで半ば呆れながら明石は言う。
親友としての友情や恩義はそこそこ大きく感じている神通だが、持ち前の短すぎる導火線や対象を選ばず憤怒をぶつけるあの性格はお世辞にも褒められた物ではない。おまけに躊躇なくげんこつは振り回すし、嫌いな先輩相手には平気で『ババア!』と叫んで憚らないし、所も相手も構わず面前で馬鹿等と罵倒するのも日常茶飯事である。これでは好きになれという方が無理であり、彼女が帝国海軍艦魂社会でも随一の嫌われ者であるのも道理という物だ。
その困った人柄に実の妹として身近に接せねばならない那珂はいつも振り回される状態で、そりゃ嫌気のさす時もあるだろう。
だがそういう周知の事実を飲み込み、明石の言わんとする姉の困った所を一緒になって愚痴ったりしない所は、実にお淑やかで知的な那珂らしい。伏せ目がちに小さく溜息を一度した後、那珂は再び薄く苦笑を作って答えた。
『ふふふ、明石・・・。神通姉さんは何時だって何でも本気で、そしてあれでとても親身になって考えてるの。普段から仕事だからとか役目だからとか、そういうので簡単に線を引いたりしてない。でもそうやって一生懸命に考えたからこそ、自分の意見を簡単に譲ったりはしないの。艦隊旗艦でも朝潮達でも頭ごなしに怒鳴っちゃうの、明石も何回も見た事あると思うけど、神通姉さんの怒りってああ見えてとても公平であったりもするのよ。それに理屈も難しい物じゃないわ。・・・嫌なものは嫌だと言ってるだけなの。』
『・・・でもぉ、那珂はそれで困ってるんじゃないの?』
『ま、まあ、そうなんだけど・・・。』
決して姉の言う事が理解できない訳ではないらしい那珂だが、明石の感じたままの言葉を受けるといとも簡単に悩みの中心を打ち抜かれて声を濁らせた。同意した反面、姉が生粋の悪者なんかではない事を信じ、明石は知らないが事の発端となった際の神通の言動を間違いだとは言い切れないと胸中に秘めていた手前もあり、那珂はだんだんと明石に対する応答に余裕がなくなってくる。
その一方、明石はいつも落ち着いている那珂が困惑している様子を目にして放ってはおけない気持ちになり、言葉少ない那珂に対して再び顔を近づけるや協力を申し出た。
『私から神通に話してみようか? 那珂だと言い難い事とかもあるでしょ。何があったのか教えてくれる?』
『あ、ううん。一応、この件はまだ秘密扱いなの。長門さんや艦隊旗艦も絡んでる、大切な戦策とかの話だから。』
『あう。そ、そう・・・?』
色々と事情も絡んでやんわりと断られた明石だが、どうも何某か小難しい議題で打ち合わせをした際、神通の大爆発があったらしい事を今の那珂の言葉に察する。機嫌が傾くと階級や年齢の上下なぞ屁とも思わず怒り狂う友人の問題児っぷりは容易に想像でき、言葉は悪いが尻拭いの役になっている那珂に大きな同情の心を向けた。
もっともそれと同時に、明石には昨晩聞いたばかりの朝潮達のお話がちょっと引っ掛かる。神通の御立腹は甚だ迷惑な事にご乱心状態になる事もしばしばで、荒れ狂う怒りの大波が平静を取り戻すのはかなり時間がかかる。龍の如く長い尾を引いたそれは、日常を送る中で最も顔を合わせる機会の多い朝潮達を恰好の餌食とし、いわゆる八つ当たりという極めて厄介な衝動へと直結してしまうのだ。もちろん表だって部下達をぶん殴るなんて暴挙にこそ出ないが、日頃の物よりも更に一層厳しい訓練を怒号と一緒に押し付けられるのが毎度の事となってしまっている訳で、朝潮達が一様にして神通のおかんむりを一番に恐れる所以でもある。
ところが昨晩のお話ではとりたてて部下達に対する神通の態度にその様な点は殆ど見当たらず、逆に皆の前で朝潮の日頃の姿勢を評して昇進を許し、あれほど大事にしていたお手製の短刀を与えたりもしている。第二艦隊の幹部クラスの艦魂や明石との会話の中では常に部下の未熟ぶりを口にしていた筈だし、ましてや那珂とも諍いを起こして立腹していた状況の後に神通がそんな事をするなど、友人である明石にはちょっと合点がいかなかった。
なんだかますます神通への疑問が膨らんでしまい、もっと詳しく那珂に聞こうとするも軍機、次いで四水戦旗艦として訓練に出港するのが差し迫っているとの事で、明石は話をはぐらかされてしまうのだった。
『ぬぅ〜〜。神通、何があったんだろ?』
やがて自身の分身に戻った後、上甲板から水平線の向こうへと艦影を霞ませていく那珂艦率いる四水戦の隊伍を眺めつつ、思わず首をひねってそう溢す明石だった。
ところで、宿毛湾で明石が頭の上に疑問符を浮かべるのと日付を変えたとある日、日本地図の上ではそこより指で一跨ぎの距離である佐世保にて、彼女と同じ線上に位置する議題に悩める者がもう一人いた。
黎明から僅かに時を得た佐世保の水平線は、その向こうより昇り始める太陽の光を受け、ゆっくりと輪郭を朱色で浮かび上がらせていく。いく筋かの雲の狭間に覗く空はまだ星々の輝きが余韻を残し、鳥達すらもまだ木々の寝床で翼を畳んでいる、朝靄の中の佐世保軍港。残業明けの睡魔によって早くも半開きの瞼をこすりながら、帰宅の途に就く工員さん達の列が並ぶ中、いくつもの岸壁の一角に誰も見向きもしない様な古ぼけた戦艦が日の出に染められていた。
天高く真っ直ぐに聳えた前後2本のマストと、その間にてこれまた真っ直ぐに伸びる煙突。かつては威容を誇った主砲も木造の建物に代わり、武装と見て取れる物は、甲板と舷側の境目が一見すると解らない形のケースメイトに小さ目の砲が顔を覗かせるのみ。木甲板の木目と色合いもだいぶ褪せ、鉄でできた構造物の至る所に汚れや大小の凹凸も見て取れる様は、まさに今のこの瞬間の如く、その艦体が日の出の朱光を浴びる度に老いと朽ちに蝕まれてきた事を如実に物語っていた。
そしてそんな老艦の上甲板を、今日も白い煙管服を着て走っているのがその命である。
『ハア・・・、ハア・・・。』
機関科の乗組員が着る煙管服は上下のつなぎで、艦艇奥底でボイラーや機械類特有の危険な熱や油なんかから身を守る為にとても分厚い服である。日の出の頃とは言え真夏に着るのは熱中症の危険も考えられる程に身体が熱くなるのを誘発するが、この人にとってはそれが狙いで元々の使い方をするつもりはハナから無い。ご丁寧にフードまで被った完全武装で、僅かに覗く顎や黒めの金髪からは汗が滴り落ちる。
刹那、彼女は突如艦尾付近の甲板で立ち止まり、肩を上下させながら両手を腰に当てて仁王立ちとなる。次いでやや背を丸めて顔を足元辺りに向け、激しくなった吐息をそのままに己の体力がまた一層老いに蝕まれた事を悟った。
『ハア、ハア・・・。おのれ。・・・40周で、これか。ハアハア・・・。』
そう溢すと己の不甲斐なさと煙管服の蒸し暑さを払い捨てる様に、荒い手つきで頭を覆うフードを取る。円曲線の強く効いた顎に届くくらいの黒めの金髪と、奥まった目に高い鼻。頬や顎の、そしてその青い瞳を持つ目の輪郭には少し鋭利さが目立つも、明石の尊敬する師匠に極めてよく似た彼女の顔立ちが露わになった。
その名を敷島という。朝日の実の姉にして、この佐世保にて余生を過ごす老艦の命。もはや明石らの様に帝国海軍艦魂社会で用いられる階級も持たず、本当なら軍装だって身につけなくてもよい立場の艦魂である。
もっとも歴戦の士である当人にはそのようなつもりはなく、生誕40余年を迎えて尚意気軒昂な事この上なく、身体の鍛練は雨の日でも風の日でも欠かしてはいない。まだ総員起こしの号令がかかる前からこうして持久走を行うのも、日露戦役を筆頭とする現役時代以来未だに毎日続けていた。全長約130メートルという自身の分身の上甲板を左右の乾舷に沿う形で何周も走り込む訳だが、今しがたまで続けていた軽く10キロメートル以上の距離に相当する周回数が不満らしい。
なぜなら若い頃はこの倍以上の周回数を平気で走ってたからだ。
『ハアハア・・・。ふぅー・・・。年は・・・、とりたくない、物だな・・・。』
姿勢をそのままにそう言う敷島は往年の体力が失われた事よりも、荒行ともとれる独自の努力の方法がまた一つ消去せざるを得なくなった事の方が口惜しい。どんな日も、どんな事も、何かを成す時も克服する時も、彼女の生涯で波を一つ乗り越える度に支えたのはまさにその努力だったからに他ならない。
これは朝日や出雲といったごく親しい者の間だけでしか知られていないが、常に不敵に構える戦上手な艦魂という風評に反し、敷島はその実力の一つ一つを見てみると実はその年代の仲間達の中では二番手、三番手くらいの物が結構多い艦魂だった。戦史や海軍艦艇として備わる軍事的知識は八島という先輩に劣り、女性としても艦の命としても求められる気品や風格は若りし頃の富士とでは月とスッポン。社交術や語学力では七か国語を操って世界各地を駆けた出雲の右に出れる訳も無く、得意と思われる武技ですら柔道では次女の朝日に負け、剣道にあっても末妹の三笠の方が腕は良かった。おまけに趣味の一つである将棋ですらも、無敗と思われがちなその戦績上、初瀬には最後まで黒星をつける事が出来ずじまいであったりもする。
上には上がいるという言葉をもって項目別に抜きんでた実力の持ち主を挙げていくのなら、この敷島の名は間違いなく出てくる事は無いであろう。しかし彼女の他には無い大きな特徴だったのは、そういう自分に真摯に向き合うと同時に鬼となって努力の枷を嵌め、能書きを垂れる事も他人に見せる事も無く、寡黙を貫きながらただひたすらに修練に打ち込むという、戦艦の分厚い装甲さながらの堅牢な精神力があった点だ。あまりしゃべらないが、座右の銘は「有言実行という言葉は嫌い。後ろの二文字さえ有れば良い。」である。加減も容赦もない努力を、他の誰でもない自分に強いるという点だけは、妹達も仲間達も最後まで勝てない所だった。
ちなみに喧嘩の腕も超絶で他の追随を許さないのは衆目の一致する所である。上述の如く武技は確かにそこそこの実力だが、形式や規則を排した上で求められる応用力や総合力と、その強い精神を土台とする度胸と胆の据わり様が一緒になった敷島の腕っぷしは凄い物で、かつて三笠と大立回りを演じた時は木刀一本で戦おうとする妹に、瓶を投げるわ椅子を振り回して応じるわと無法ぶりも甚だしい戦い方を見せ、煙草盆の残り灰を顔めがけて投げつけて目つぶしまでもする始末。珍しく本気で怒った朝日が得意の柔道を生かして止める為に取っ組み合っても、髪と襟を掴むや凄絶な頭突きを打ち込んで返り討ちにしてしまう等、実戦に極めて近い格闘技術、敷島や三笠の言葉で言う「喧嘩術」の腕前は当代随一だった。世界の海軍艦艇のみならず、民間船も含めた全ての地球上の船の命達の中、三本の指に入るくらいの喧嘩の達人と誰もが信じるくらいの強さは現代の艦魂達の間でも非常に有名で、敷島より10センチ以上も背の高いあの金剛ですら、持ち前の豪快で無礼な言動が災いして初対面の際は敷島にボコボコにされたくらいなのだ。
誰よりも努力し、誰よりも強い。
皆からそう信じられている敷島にあって、その大事な努力の選択肢を削られるのは辛い。年齢を重ねたのだからという理由ですんなり受け入れる事はできない、しかし同時にそんな彼女ですらも逃れられない現実であった。
『ハァー・・・。』
そんな事を意識した敷島は深呼吸とも溜息とも取れる長い吐息を吐く。水平線の彼方から注ぐ旭日の陽光で汗が輝く中にあっても、その表情は明るい物ではなかった。
もっとも暗さが満々とたちこめる前に、ふと背後よりかけられた声で敷島の顔は即座に微笑へと変わる。
自身の老いや弱さを意識して気持ちが下降する最中であってもいとも簡単に笑みへと誘うその声の主は、敷島をして生涯の友だと言わせる程の存在。ここ数年程久しく会えてなかった、40年来の付き合いを持つ親友だった。
『おわ。早いなぁ、敷島ちゃ〜ん。もうそんな汗だくになっちゃってさ。でも水が滴っても良い女とは言えないよ、そのトシじゃ。』
『フ。お前も同い年だろうが、・・・出雲。』
『や〜、お互い老けましたなぁ。ま、オバハン同士仲良くしましょうねー。』
足元に顔を向けたまま振り返る事も無く口元を綻ばせた敷島の背後に、彼女と同じく西洋人女性の顔立ちを持つ艦魂が軽い体操をしながら歩み寄ってくる。長いブルネットを前髪も含めて後ろ髪方向に長し、広めのおでこがはっきりと見える髪型。青い瞳と40代くらいの年齢の顔立ちは同じながらも目や口、輪郭には敷島のような尖った所は無く、年齢の割に子供っぽい人の良さそうな笑みに若人同然の言葉使いを備え、本来は水兵さんが着る白い短袖と長ズボンの体操着を身に着けて登場した彼女は出雲。日露戦役以前に英国より嫁いできた出雲型装甲巡洋艦一番艦の艦魂で、敷島と同世代の大ベテラン。弟子の数も非常に多く、師匠格として名高い立ち位置にいながらも、敷島や富士の様な引退した艦ではなく支那方面艦隊旗艦として未だに現役で第一線に立っているという輝かしい経歴の持ち主である。
人柄はその言葉使い、わざと臭さも相当にある子供っぽい笑みと仕草に見て取れる通りだ。
しかしながら敷島はそんな出雲が今日も見れて嬉しい。
出雲は支那事変以来ずっと上海に赴いており、一向に支那の騒擾は解決を見ない為にかの地から殆ど離れられない状況が続いていた。共に同じ佐世保鎮守府所属ながらもおかげで中々会えない日々を過ごしてきた中、出雲の分身は貯まっていた整備補修をこの度実施する事になり、先月末頃より佐世保の桟橋に係留されているのである。敷島にしたらいつぞや朝日が来訪した際に会いたいと希望していた機会が巡ってきた訳で、旧友との再会に抱擁を交わしながら滅多に見せぬ大喜びする姿を人目も気にせず示していた。
『いよーう、敷島! 今戻ったよぉ。』
『おお、出雲! この憎たらしい顔をまた見れるとはな! フハハハ!』
それからの二人は毎晩のようにティーやブランデーを片手に夜遅くまで積もる話に花を咲かせ、朝の日課として人気の少ない敷島艦の上甲板で運動するのもいつも一緒である。あまり人柄からは想像もできないがこの出雲も身体の鍛練は昔から結構大事にしてきた人物で、その世代の仲間内でも武技の腕前は常に上位に入っていたりと、文武両道という物を高い次元で備えている。敷島自身が彼女を「天才」と評してやまないのもここに理由があった。
これでもこの二人。その昔は今の霞や雪風ら以上に犬猿の仲で、お互いに言動が無遠慮な所も手伝って殴る蹴るの大喧嘩を何度も何度も起こしてた過去があるのだが、いまでは弟子や後輩達が羨ましがるくらいの大の仲良し。
やがて出雲が敷島の隣まで来て何やら緩慢な動きで体操を始めると、敷島は目を僅かに輝かせながら身体全体で円を描くようにゆったりと運動する出雲に嬉しそうに声をかけるのだ。
『ほっほ〜う。旅順を閉塞している頃に一度見たな。太極拳、という奴だったか、出雲?』
『おお、正解。上海の現地の子達がやってんの教えてもらったんだ。これ年とっても結構やれんだよねぇ。あっちじゃ人間たちも朝は必ずやってんだ。健康目的みたいで、公園辺りは同じ時間のそこらの魚市場よりも大賑わいなくらいさ。』
『健康か。しかしそれでも、支那に数ある立派な拳術の一派と聞くぞ。重心を滑らかに動かすのも、柔軟性を重んじる支那系拳法の特徴だろうな。ふむふむ。』
多趣味な敷島には妹の三笠と共に格闘オタクな所が有る。
神通の戦国時代オタクに似た、と言うよりもそもそも子弟の間柄において一門の長老たる敷島からこういう所は始まってる訳で、狭い中に深すぎる形で物好きを発揮するのは全く同じ。並々ならぬ努力家という性格も手伝って敷島は多様な格闘術に食指を伸ばし、妹の三笠と二人して暇な時間によく乱取り稽古を行っては、多種多様な格闘術の技を身に着けていった次第である。果ては大正年間の終わり頃、その集大成として独自の流派を自称するまでに至り、変な所ですっかり意気投合してしまった長女と末妹の頭文字を取って「敷三式喧嘩術」などという大層な名前を掲げ、さしもの朝日や出雲も苦笑の裏で呆れる始末だった。
現代でもそこは変わっておらず、旋律の長い吐息を伴って行う出雲のゆったりした太極拳の動きを興味深そうに眺めている。次いで己も負けてはいられないと久しぶりに闘争心にそっと火を灯し、二、三歩ほど歩いて息を整えるややや前傾姿勢に身構えて素早く左右の拳を宙に連打し始めた。
『お、相変わらずのデトロイトスタイル。あんまし人気ないぞ、上海でも。』
『フン、見た目や派手さに拘って負けるのはただのバカタレだ。許される範囲を縦横無尽に使い、貪欲に勝ちに行くのは卑怯でもなんでもない。戦には打算と合理性だ。大体、クインズベリー侯爵は足を止めて正面で殴り合えとは言っておらん。』
二人はお互いほくそ笑む様な微笑を浮かべながら話す。
それぞれの運動はそのままで、顔色を窺う事も発言に遠慮する事も無く気ままに声を交えるこの時間は、現代の両者にとってとても大事な楽しみの一つである。三文の得を地で行く早朝に心身とも清らかで、40余年の付き合いで積み上げた親しさが最も意識できる瞬間。どちらも日常において後輩達によって崇められ続ける環境にある中、彼女らなりのちょっとした息抜きにも近い感覚が得られた。
そうなると当然、敷島の表情からはさっきまでの暗い部分は全く消え失せる事になるのだが、相手が相手だけに同時にそれを見抜かれてしまう側面も有ったりする。
この出雲は常にひょうきんで陽気。笑顔が絶えた所はその生涯でも数えるくらいしかなく、ちょっとした悪戯やからかうのが好きなどの子供っぽい性向も手伝って若人の様に賑やかさをいつも身にまとわせている艦魂ながら、その裏で朝日や富士のような知的で大人びた者達相手でも諭してみせたり、相談を受けては良策を授けてあげるなんて芸当を何度も披露している実績があった。元々頭の回転が極めて速い上に物の見方が柔軟かつ的確で、大した思考をする事も無く物事の本質を看破してしまう所があり、朝日をして『最もウソをつけない相手。』と密かに印象付けているくらいである。
ちょうど大きく両腕を開いて腰を落とした姿勢であった出雲はちょっと息苦しそうな声色で語りかけ、そんな人柄の及ぶ先が敷島であっても除外しない事を早速示す。
もとより敷島は器用な方ではなかったので、彼女の看破における難易度はむしろ簡単な部類に入っていたかもしれない。
『ふぅ〜〜とと、とぉ・・・。なんかあったの、敷島? あんな溜息ついちゃってさ。あたしゃあんな年寄りくさい敷島ちゃん、見たかなかったよ〜。悲しいな〜。』
『ハア、ハア・・・。お前も含めて年寄りだ、バカタレが。』
『そう言うなよお、敷島。長い付き合いだろ? 一人でムスっと下向いてる時は、大体なんかに悩んでる時ってのが敷島の癖だよ。解んないとでも思ってた?』
『フン・・・。』
ふざけた様な口ぶりの出雲に、敷島は手を止めて押し黙る。かつてはそんな所が鼻にかかり、彼女とは幾度も取っ組み合いの大喧嘩をした敷島であるが、態度はともかく言わんとする事にはその実では正鵠を得ていて共感できる部分が数多かった。本日只今のそれもその例外ではなく、敷島は最近において一つの悩みの種を抱えており、いつもよりやや早起きして一人黙々と走り込みを行っていたのも、懸念を払拭する解決策を全く閃けない事から得た鬱憤を吹き飛ばそうとしていた為だった。
出雲はそれをまさに一発で見抜いた事になる。老練さや表情をあえて少なくするのだけでは隠し通せないその洞察力に、内心で敷島は舌を巻きつつも抗うのは無駄かと諦めに似た気持ちを抱く。決して偶然では無い上に若い頃からちっとも変らぬ声の調子には、本人にその気があるのかは知らないが何事にもブレない芯の通った姿勢も垣間見れて感心してしまうくらいだ。
故に邪険にも導火線に火をつけもせず、ちょっとだけ悔しそうに歪めた微笑を敷島はゆっくりと出雲に向けて呟く。
『・・・かなわんな。お前には。』
『なんだよ。一応はちょびーっとだけどあたしの方が若いぞ。』
『トシの話じゃない、バカタレが。』
冗談めかした出雲に刺々しい言い方で応じる敷島だが、彼女は決して怒ってはいない。小馬鹿にさえするような口ぶりの出雲がそれを40余年来ずっと変えていないのと、相談があるならいつでも受けるという優しい気構えが、今となっては多くの弟子や後輩達に囲まれている中でそう簡単に苦悩を表面に出せなくなった立場の敷島には嬉しかった。
やがて敷島は大きく深呼吸をして乱れた呼吸に平静を取り戻していき、落ち着いた頃合いを待った後に腰のポッケに忍ばせていた一通の封筒を取り出す。出雲もそれに気付くや太極拳の動きを止め、乱れた長い黒髪を撫でながら敷島の傍まで歩み寄る。次いで隣に寄り添うようにして立つと、敷島の手中に有る封筒の表と裏に書かれた文字に目を這わせた。
『おお、赤城? 金剛の弟子じゃないか。広報だと確か、4月から新設の第一航空艦隊の旗艦やってたろ?』
『うむ。まあ、私にとってみれば孫のような奴だ。』
『ふーん、これが悩みの種ってわけか。敷島ママも大変だねえ。あ、敷島おばあちゃんかな?』
『茶化すな。』
封筒の裏表にあった文字は宛名と差出人。もちろん表には「佐世保鎮守府気付 特務艦 敷島様」とあり、裏にはいわゆる敷島一家の末席に連なる赤城の名が書かれていた。子弟一門の末からこうして手紙来ること自体はそう珍しい訳でもなく、今となっては佐世保の湾の中にばかりいる敷島にとって、外界ならぬ外海の様子を窺い知る事の出来る貴重な機会。弟子達の健在ぶりと成長の度合いも見て取れるから結構楽しみにしている物なのだが、手にした封筒の中身がそういう類の内容ではないのを出雲も敏感に察した。
敷島も事ここに至って秘するつもりは無くなり、早速封筒から折りたたまれた便箋を取り出して広げる。彼女の肩に顔を乗せる様にして出雲も顔を近づけ、長老格で堅牢な精神力が売りの敷島すらも苦悩に陥らせた手紙の文面へと目を通し始めるのだった。