表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/171

第一六話 「出動命令下る/其の五」

 昭和14年12月9日。


 曇り空と降雪というなんとも雪国らしい二択の天気の中、明石(あかし)艦の発令所では連日腹に流し込むおでんとお酒に、少し二日酔い気味の(ただし)が机に向かっていた。

 軽い頭痛に彼の仕事は捗らない。まだ午前の課業中だと言うのに、彼のそれは今日何度目になるだろうか。机の上に鉛筆を放り投げ、椅子に浅く座り直ると背を大きく反って忠は天井を眺めた。

 いつもは心地良い波音が今はうるさく、いつもは揺り(かご)の様な艦の動揺が今日は邪魔だ。うつろな目で天井を見上げるが、視点を合わすのも今の彼には面倒くさい。


『大丈夫〜?』

『・・・・・。』


 そして何故、この人はあれだけ酒をかっくらってケロっとしているのだ?


 視界に広がった顔を覗きこんでくる明石の顔に、忠は小さく溜め息をして素朴な疑問を抱いく。だが思考回路が停滞気味な忠はすぐに疑問を忘れ、今度はすっかり酒では明石に勝てなくなった自分に不甲斐なさを感じた。見習い士官時代の鳥海(ちょうかい)艦では所属が酒豪ばかりで毎日のように酒を飲んでいたので、彼は自分の事をそこそこ酒に強い男だと思っていた。ところが彼の小さな自信をいとも簡単に打ち砕いた明石は、いつもの綺麗な笑顔で顔を覗きこんでくる。忠には心なしかその笑顔が、自分を小馬鹿にしてあざ笑っているように見える。

 だがそれもすぐにどうでも良くなった。顔を向けながらも無言で視点を合わせてこない忠に、明石は腰に両手を当てて胸を張って威張るような声をかける。


『飲み過ぎだよ。自分の限界はちゃんと知っておかないとダメよ。』

『・・・・・。』


 アンタに言われとうないわい。


 そう思いながらもまたすぐにどうでも良くなった忠は、うっすらと口と目を開けて天井を眺め続ける。すっかり腑抜(ふぬ)けとなった相方の姿に、明石は優しく笑ってこれからの彼の飲酒に関しては自分が管理しようと心に決めるのだった。いつもの事ながら、彼女は相方の心の内をちっとも解っていない






 曇り空から雪がひらひらとまた降り始めた昼過ぎ。

 『食欲が無い・・・。』と今日は数える程しか発せられない忠の声を受け、彼の分の昼飯を心置きなく平らげてやった明石は機嫌が良かった。少し(ふく)れたお腹を撫でて、彼女は発令所で忠の机にある書類を読み漁っている。その手に握る砲術科の各種記録簿は、彼女にとっては自分の身体の一部の状態を知る事が出来る重要な情報源だ。めくるページに記される項目は、ほとんどが「異常無し」。時折、その中に「要修理」、「要交換」という文字を見つけては備考の欄に目を落とすが、さすがに明石艦。日数を置かずして、「対応済み」の文字が記載されている。

 自らの身体の健康と治癒能力の高さに、明石は小さく笑って頷きながらページをめくっていった。



『明石さん、こんにちは。』


 そんな中、明るい声で挨拶しながら発令所に入ってきたのは沼風(ぬまかぜ)だった。艦の外を少し歩いてきたのか、彼女は外套(がいとう)の肩や頭巾を手で払って積もった雪を振り落としている。慣れた物で沼風は寒さや雪に対してすらも笑みを浮かべている。童顔の沼風のその笑顔は、野辺のお地蔵様のようだ。


『あ、沼風。こんにちは。』


明石は椅子に腰掛けたまま、彼女に顔を向ける。少し寒さに慣れてきた明石にとっても、視界に入るお互いに吐く白い息や沼風の身体から落ちる雪は既に苦ではなかった。

 笑って自分を迎えてくれる明石に沼風は歩み寄ったが、ふといつも隣にいる彼女の相方の姿が見えない事に気づいた。発令所の中をキョロキョロと見回しながら、沼風はその事を声に乗せる。


『あら?森さんはお仕事ですか?』

『森さんはお風呂。二日酔い覚ますのにはちょうどいいよ。』


 明石の言葉に沼風は、昨日の記憶を辿ってクスクスと笑った。


『ふふふ、機嫌が良さそうでしたね。昨日の森さんは。』

『あははは、そうだねぇ。』


 明石も沼風の言葉に、昨夜の彼の姿を思い出して笑い出す。





 昨日の夜、最近では珍しく忠が酒保からお酒を買ってきた。

 いつもは甘いお菓子ばかりの明石の食事も、青森に着いてからは毎日おでんになっていた。寒さに耐える日々では、連日のように味の濃いおでんを食っても飽きない。その日の夜も忠の部屋では当然のように(はし)と酒が進む明石、沼風の姿があったが、その日は忠も機嫌が良かった。彼の弟のマサが帰省を終えて、明石艦に帰ってきたのである。やっと両親と会わせてやることが出来たという達成感と弟の幸せに、彼もその日は明石に負けないくらいの勢いで酒を進めた。また、マサが実家から持ち帰った忠の思い出の品に、忠は喜びを抑えられなかったのであった。

 その品とは、彼が子供の頃に良く吹いていたというハモニカだった。もちろんそれを知ったこの人は騒ぎたてる。


『ねえ、吹いて!吹いてみてよ!』


 明石は椅子に腰掛けた忠の腕にを掴み、まるでそれを邪魔するように忠の身体を揺さぶる。間近で彼女のその口から発せられる酒臭い息に忠は顔をしかめるものの、上機嫌で酔った忠はそれを特には気に留めず、赤みを帯びた顔で笑って明石に言った。


『ははは。よおし、いいぞ。』


 そう言って忠はハモニカの端を両手で持って口に当てると、息を吹きかけたハモニカを左右にゆっくり動かして曲を奏で始めた。滅多に聞ける事の無い楽器の音に目を輝かせる明石と、目を閉じて静かに聞き入る沼風。和音ハモニカの綺麗で重複する音に感動する二人だったが、忠は突然吹くのを止めた。


『う〜〜〜ん・・・。』


 少し口を曲げて首を捻る忠に、明石が不思議に思って顔を覗きこむ。忠は酒の入ったお碗を口につけ、クイっと一飲みした所で明石と目を合わせた。彼は彼女の顔に何かが閃いたらしい。表情をまた明るくさせて、間近にあった明石の肩に手を乗せて言った。


『そうだ、明石。鉄道唱歌、覚えたか?』


 沼風はその声に、自分の隣に無造作に横たわっていた本に視線を移す。この宴が始まるまで明石が読んでいたその本は、つい先日に忠が上陸した先の本屋で買ってきた物である。本の題名は「鉄道唱歌・第一集 東海道編」。


『と〜う!』


 いくら歌手であっても、第一集だけで66番まである鉄道唱歌を覚える事は至難の業である。故に明石は忠の言葉を聞くやベッドに一跳びで飛び乗ると、本をめくって忠に笑みを向けた。彼女の行動に微笑んで、再び口にハモニカを近づけながら忠は口を開く。


『先に歌ってよ。合わせるから。5番くらいまでやってみようか。』


 どんな音が奏でられるんだろう。

 そんな言葉が脳裏をかすめる沼風が期待の色を表情に浮かべて見守る中、明石は鈴を転がしたような綺麗な声で歌い始めた。


『汽〜笛一斉、新橋を〜。はや我が汽車は〜・・・。』


 明石の歌声が響いて少し経ってから、忠はハモニカでの伴奏をしはじめる。軽快なリズムで奏でられる和音が、明石の綺麗な歌声に花を添える。ついさっき忠がハモニカだけで奏でた曲とは違い、部屋に響きだした今の音は暖かささえ伝わってくる程だ。沼風は心地良く耳に入ってくる明石の歌声と忠のハモニカに、目を閉じて少し身体を揺らして聞き入った。


『窓よりち〜かく品川の〜。』


 明石の歌声も弾む。初めて伴奏を伴って歌う事が、彼女の心を湧きかえらせた。まして数ヶ月近く一緒に暮らしてきた二人の息が合わない訳が無い。時折、本の歌詞から忠に視線を流すと、お互いの視線が合った。思ったより上手くいっている事を喜んでいるのか、忠はハモニカを吹きながらも笑みで口元を揺るめる。思わず明石も笑みを溢し、歌う声の音階が一段上がる。何よりも初めて相方と一つの事を成し遂げる事が、明石には嬉しかった。


『み〜なと見〜れば百船の〜、煙はそ〜らを焦がすまで〜。』


 5番目の歌詞を明石が歌い終わると同時に、忠は即興で高い音を出して束の間の演奏に幕を引いた。


『素晴らしいです。良い物が聞けましたぁ。』


 そう言いながら沼風が胸の前で両手を合わせて拍手する。忠と明石もお互いの頑張りに拍手した。


『ひぃ、ひぃ。酔ったのかな、息苦しいや。』


 忠は肩で息をして滲み出てきた疲労に片目を閉じ、僅かに歪めた笑みを浮かべる。彼はかなり顔が赤くなっているにも関わらず、乾いた喉を潤すために再び酒を勢い良く流し込んだ。


『はぁ〜、今日は酒がうまいな。』


 いつも以上のハイペースな飲酒をする忠を明石は心配して見ていたが、酒を飲み終えると気持ち良さそうな笑みを見せる彼に安堵する。彼女は自分の歌声が何倍も輝く事と人間である忠と一緒になって演奏する事が楽しくて仕方なく、少しだけ彼の身体を心配しながらも無理を承知でお願いをした。


『森さん!私、もうちょっと歌いたい!』


 本を持ったまま、両手を顔の前で合わせる明石。手の横から片目を覗かせて微笑む彼女に、すっかり酒が回った忠は大きく頷いてハモニカを持ち直して楽しそうに声を上げる。


『よおし、横須賀までいくぞぉ!』

『やた〜!』


 拳を握って喜ぶ明石が本を開くと同時に、忠はまた音を響かせた。


『横須賀行きは乗り換えと〜、呼ばれて降るる大船の〜。』





『あははは。結局、岡崎まで行っちゃったんだよねぇ。』


 昨夜の宴会を思い出し、口に手を当てて明石は笑った。目を回して忠が椅子から転げ落ちなければしばらく続いていたであろう、昨日の二人の演奏。もう少し続けていたかった一時だったが、ちょっと相方に無理をさせてしまった事に明石は少し罪悪感を感じた。ほんの少し眉をしかめた笑みで頭を掻く明石に、敏感な沼風はすぐに彼女の心の内を悟り、優しい言葉をかける。


『とっても楽しかったですよ。森さんも本当に楽しそうでしたね。』

『あはは、そうだよね!』


 沼風の言葉に、明石の顔には再び明るい笑みが戻った。寒いながらも穏やかな風が吹き抜ける中、二人は笑い合った。


 その時、どこからか汽笛の音が響いてきた。

 青森港は民間船の往来が激しいので珍しい事ではないが、音は随分近いところから聞こえてきた。ふと明石が音の聞こえたほうに顔を向けるが、そこに有るのは壁だけだ。しかし明石に反して沼風には驚く様子は無く、汽笛にニッコリと笑うと明石の手を取った。


『明石さん、見てみますか?』

『え?な、なにを?』


 唐突に言い出した沼風の言葉に、明石は状況を飲み込めずに呆けた顔をする。だが沼風は優しく明石の腕を引いて彼女を立ち上がらせ、微笑んだ顔を少し傾けて言った。


『ふふふ。私達の護る物ですよ。』


 沼風のその言葉に、明石は大湊で抱いた疑問が脳裏に浮かんだ。まだ答えが掴めない沼風の言葉によって浮かんだその疑問は、「帝国海軍の艦艇は何の為にあるのか?」という物であった。

 歩き出す沼風に引かれ始める明石だが、彼女は抵抗する事無く沼風に従って歩き出した。


 所々に氷が張った艦首に出た沼風と明石。雪が止んだ銀色の雲を背景にしてウミネコが空を飛んでいく中、明石艦の艦首の向こうには自分よりも大きな漁船を曳航(えいこう)して往き足をとめる沼風艦と良く似た駆逐艦の姿が在った。距離は明石艦から100mも無く、向こうの艦の機関の音がここまで聞こえてくる。


『あれって─。』

ボオオオオオォォォォ!

『うあっ!』


 口を開きかけた明石を遮るように、目の前の駆逐艦から汽笛が発せられた。あまりの音の大きさに思わず明石は身をかがめる。しかし沼風は驚いた様子も無く、縮こまる明石の腕にそっと手を触れて彼女を立ち上がらせた。


『あ、ここにいたのか。』


 その刹那、艦首を向いていた二人は背後から聞こえてきた声に振り向いた。二人の後ろから声を掛けたのは風呂上りの忠だった。


『あ、森さん。』


 耳鳴りがまだ残る明石だったが、少しだけ元気が戻った忠の姿にその表情を明るくする。風呂で汗を掻いて酒が少し抜けたのか、青白かった忠の顔色に少し赤みが戻っている。まだ湿った髪の毛に湯気が漂う肌の忠に、沼風は小さく笑ってお辞儀をした。


『こんにちは、森さん。』

『やあ、沼風。あの艦はなんだい?』

『ふふふ。』


 沼風は忠の質問に小さく笑って、明石艦の艦首舳先に顔を向けた。沼風が見つめる艦首に明石と忠も視線を送る。


 するとそこには白く淡い光りを集まり始め、やがて光の中からは沼風と顔つきも格好も良く似た少女が現れた。ハネたクセ毛が水兵帽の両脇から逆立っており、鼻の上に絆創膏を張っている彼女。大人しそうな沼風とは逆に悪戯(いたずら)好きの少年のような印象があるが、背が小さくて沼風と良く似た童顔の顔つきであった。彼女は長旅をしてきたのか、その外套や帽子のあちこちには氷がこびり付いている。

 その内に少し疲れたような溜め息をしながらも、彼女は沼風に元気良く声を掛けた。


『ふいぃ。いよぅ、沼風。』

野風(のかぜ)姉さん、ご苦労様。』


 沼風の言葉を聞く前に、忠も明石も彼女の正体を探り当てていた。彼女は沼風と同じ第一駆逐隊所属にして、その実の姉に当たる野風艦の艦魂である。野風は歯を見せてニカっと笑うと、呆ける明石と忠に歩み寄って敬礼した。


『どんも。第一駆逐隊の野風です。お二人の事は波風から聞いております。沼風の修理、有難うございました。姉として礼を言います。』


 スパっと手を額に当てて敬礼する野風。きびきびとした彼女の敬礼に、外套の付いた氷がパリパリと音を立てて崩れ落ちた。白い息が顔を隠すように舞い上がるが、彼女はそれを意にも返さずにハキハキと口を開く。寒いという言葉を知らない様な元気な野風に、明石は被っていた頭巾(ずきん)を下げてサッと腕を上げて答礼した。


『いいえ、とんでもない。』


 快活で好感が持てる野風に、明石は微笑んだ。忠も小さく敬礼してやると、野風は腕を下ろして沼風に身体を向けなおし両手で沼風の身体のあちこちをを触りながら話し始める。


『大丈夫みたいだね。神風(かみかぜ)も心配してたよ。』

『明石さんのおかげでね。それより野風姉さんは大丈夫だった?』


 沼風の言葉を聞くや、野風は胸を張って腕を組む。自信満々に少し顎を上げて答えた。


『当然。露助(ロスケ)の砲艦がいやがったけど、主砲を二、三発ぶっ放して追い払ってやったさ。』

『鼻の絆創膏はどうしたの?』

『ああ、曳航する時にワイヤーやロープを引っ掛ける場所がなくてね。4番砲に引っ掛けたらもげちゃったんだよ。』


 そう言って野風が指差した野風艦の艦尾を、明石や沼風と供に忠も眺めた。

 沼風艦の艦型を察するに、野風艦の艦尾にも付いていたであろう主砲が一基無くなっている。良く見ると曳航の為のロープやワイヤーが引っ掛けられているのは、艦後部の最上甲板にある構造物や魚雷発射管である。魚雷発射艦はまだ付いているがつけ根からグニャっと曲がっており、中に詰まった魚雷は空を向いてしまっている。艦尾旗竿もロープやワイヤーに当たって根元からボッキリと折れてしまったのであろう、帝国海軍艦艇の証たる軍艦旗が野風艦には無かった。

 そしてそんな野風艦が曳航してきた漁船は大型の工船の様で、ゆうに2000トンはありそうな大きな船だった。小さな身体の野風だが、その身体の中には38500馬力の機関を装備している。自分の倍程の重さの艦を引っ張ることが出来る底力と、自らの身体を傷つけてまで任務を遂行した野風に忠と明石は感心した。

ちなみに彼女達の姉妹の一人である島風(しまかぜ)艦は、全力航試で40ノット以上の速度を記録した帝国海軍一の韋駄天(いだてん)艦であった。


 やがてその場には響いた幾分音階が高いその汽笛は、明石艦の艦尾から聞こえた。

野風艦に比べて弱々しい汽笛を響かせ、港の交通船が明石艦の横を通って野風艦の後ろの漁船に近寄って行く。どうやら漁船を引き渡すらしい、野風艦の甲板ではワイヤーやロープを取り外す乗組員達の姿が見える。それを確認した野風は両手を天に向かって伸ばした。


『くぁああ〜〜〜・・・!終わったぁ〜〜〜。』

『ご苦労様。大変だったね。』

『うん、超腹減った!』


 沼風の労いの言葉に、野風は腕を高々と伸ばしたまま答える。元気な野風は喪失した自分の主砲や艦尾旗竿をなんとも思っていないらしい。無邪気に会話する野風と沼風だったが、忠はその事に思う所が有り、それを確かめるべく静かに話しかけた。


『なあ、野風。』

『うい?なんですか?』

『あ、その、なんていうか、残念な気持ちとかないのかい?』

『はい?』

『しゅ、主砲がもげちゃったんでしょ?その、戦闘艦には辛い事じゃないのかい?』


 忠は砲術科である事もあって、主砲の喪失というのは一大事である事を感じていた。工作艦である明石艦ならまだしも、野風艦は古い型とは言えれっきとした駆逐艦である。艦隊の槍先である彼女達にとって主砲と魚雷の兵装は、その主命を果たす上において必須の物なのではないのか?

 だが忠のそんな疑問にも野風は首を傾げ、空を見上げて頬を掻いている。


『う〜〜ん、特に気にしてませんねぇ。目的も達成できたですしぃ。』

『いや、でも露助の砲艦とイザコザがあったんだろ?そんな時に主砲がないと交戦できないんじゃないのかい?』

『う〜〜ん。その時は体当たりでもするしかないかなぁ。あははは!』


 頭の後ろで手を組んで無垢な笑顔を見せる野風。

 だがその言葉に明石は仰天して声を上げた。もしそんな事をしたら旧式な艦体の野風艦がどうなるか。想像するに難くない結果を脳裏に過ぎらせた明石には、その軍医としての立場も手伝って聞き逃せない言葉だった。


『そ、それじゃ野風が死んじゃうかもしれないじゃない!』

『ま、まあやりたくはないですけど・・・。』


 語気を強めた明石の声に、野風は苦笑いして答えた。


『ならもっと自分を大切に─!』

『う〜ん、でも、その為に身体張れるのって私達だけじゃないですか?』


 明石の声を遮った野風の言葉に、明石と忠は言葉を失った。そして沈黙する二人の姿を沼風はただニコニコと笑って眺めていた。

 野風の無邪気な笑い声と、野風艦の後ろから聞こえてくる汽笛がその場を流れていく。


 野風は特に何か考え込んだ訳でも、特に何か(かざ)った言葉を発したわけではない。恐らくは頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしたであろう、野風のその言葉。

 だがそれは明石と忠が抱いていた疑問を風の前の塵のように吹き飛ばした。氷がこびり付いた外套に身を包む野風と、数日前まで苦痛に顔を歪めていた沼風。彼女達のその姿こそが国を護るという事の代償を良く現していた。

 「国を護る」、それは聞こえの良さから誰もが安易に口にする。だが決してそれは念仏のように唱えていれば実行できる様な生易しい物ではない。極寒の海で繰り広げられる漁船の救助も、国民の生命と財産を護るという意味では立派なお仕事であるが、戦闘艦として建造された野風や沼風の本来の運用方法とはかけ離れた仕事であり、華々しく戦場を駆ける事に比べればとても地味な姿である。だがその為に自らの身を切る事が出来る艦は駆逐艦だの戦艦だのといった区別無く、帝国海軍の艦艇をおいて他にいないではないか。国の為、国民の為にある砲であり、魚雷であり、艦体なのだ。決して海軍の体裁(ていさい)や、自分の安全を保障する為の物ではない。

 それを胸の秘めて日夜励み、体当たりという言葉を平然と口にしながら白い歯を見せて笑う野風と、その隣で黙って微笑んでいる沼風。

 この二人とその姉妹達で構成される第一駆逐隊は既に20年近くこの大湊にあって、文字通り国を護る事に命を懸けてきたのだ。自らに強いる犠牲を覚悟の上で、ずっと生きてきた彼女達。それを知る人々とはどれだけいるだろう。呉の艦魂達ですら彼女達のことを知っている者は少ない。



 汽笛をあげた交通船にゆっくりと曳航されていく漁船に、その場にいる4人は一斉にその視線を流す。所々に錆びが目立ち、傷だらけの甲板の上に船員達が並んで大きく手を振ってくれている。


『ありがとう〜〜!!』

『海軍さん、ありがとう〜〜〜!!』

『おかげで生きて帰れた〜!ありがとよ〜〜〜!』


 そこにあった笑顔。たかが一隻の漁船の船員達の顔だが、野風が助けに行かなければ凍りつくような寒さの海に消えていたであろう。漁船一隻の為に連合艦隊を出撃させると聞けば、誰もが首を傾げるに違いない。だが野風は傷だらけになりながらも国防に努める者たる強い意志を曲げず、あの笑顔を両手から溢さずにここまで持ち帰った。

 その事実と脳裏に蘇る市街地での少女の笑みが、忠の心に答えを打ちつけた。

 世界最強を自負する帝国海軍、だが自分達は忘れてはいけない事がある。帝国海軍はあの笑顔の為に存在するのであり、その為にどんな代償をも覚悟して生きなければならない。命すら掛ける覚悟を持って励む事はその当然の使命、そしてそれが帝国海軍じゃないか。


 そう思った忠は、野風に向き直って踵を揃えて敬礼した。自分よりも階級の高い忠が先に敬礼した事に、野風は驚いて少し仰け反る。


『わ!な、なんですか!?』

『・・・目が覚めたんだ、野風。』

『うい?』


 さっぱり状況がわからない野風はどうすればいいのか解らず、明石や沼風にキョロキョロと視線を送った。沼風はそんな姉の視線にも、ただクスクスと笑うばかり。

 そして焦る野風に忠が口を開こうとした時、明石が一歩前に進み出た。彼女は笑顔で沼風に小さく頷くと、キリっと表情を整えて敬礼する。


『手段の一つって言ってたね・・・。』


 明石の声に沼風はゆっくりと答礼しながら答える。野風と違い、滑らかで静かな物言いの沼風の言葉は、再び辺りに響きだした波の音のようだ。


『はい。あれもその使い方の内の一つですよ。』

『帝国海軍だもんね・・・。』

『ふふふ。はい。』


 外套に水兵帽、そしてニコニコと大人しく笑う沼風には凄みという物が無い。背も低く童顔である彼女の敬礼は、子供が兵隊の真似事をしている様な感じさえする。まるで覇気が無い沼風だが、その表情の向こうには自分の生きる道の何たるかを悟った皇軍兵士の覚悟が在った。

 お互いに笑みを浮かべて敬礼する沼風と明石に、すっかり状況の把握が不可能になってしまった野風が声を掛ける。


『え、えっと、なんかあったの?』


 忠はなんとなくだが、明石と沼風の会話に見当がついていた。恐らく明石も自分と似た疑問を抱いていたに違いない。そして彼女もまた、野風と沼風と彼女達が救った物をその目で見て、こもごもの答えを得たのではないだろうか。

 新米と言えば明石も忠も同じあり、帝国海軍の本分を先輩から教えられた事に、二人は少しだけ大人びた顔つきになった。



 一際大きく明石艦の横から聞こえてきた汽笛が、その4人の意識を一点に集める。見ればそこには降り積もる雪に溶け込むかのように、沼風艦がゆっくりと航行していた。桟橋に接岸していた沼風艦がその場に居ることに、明石と忠はある事を思い当てて沼風に顔を向ける。

 沼風は二人の心の内が読めたのか、少し寂しそうな笑みを向けて口を開いた。


『これより私達は大湊(おおみなと)に戻ります。明石さん、森さん、ここでお別れです。』


 沼風はそう言うと、明石に歩み寄ってその手を取った。緩く握ってくれる沼風の手を、明石も両手で握り返す。


『うん、そっか。』


 明石はそう言った後の言葉が続かなかった。別れを惜しんで泣いた訳ではないが、色んな事を教えてくれた沼風に感謝の念が絶えない。もっと色々な事を話したかったし、もっとお礼を言いたい。そう思う明石だったが、手を伝わるお互いの肌の温もりが全てを伝えていた。同じ帝国海軍の艦魂同士、二人には言葉なぞいらなかった。


『そうか。野風、沼風、また会おうな。』


 忠の声に沼風は明石から彼の顔に視線を流した。この雪のように淡くて綺麗な笑顔ともしばらくのお別れか、そう思うと忠も少し寂しかった。


『はい。きっとまた会えます。』

『あ、は、はい!』


 静かな声で返事する沼風と、何が何だか解らないがとりあえず返事をした野風。だが自然とそこにいる4人の顔には笑みがこぼれる。そして沼風の言葉を、明石と忠は大きく頷いて信じた。


 いつかきっとまた会える、その時はまた手を取り合って笑おう。


 雪がふわふわと舞い落ちる明石艦の艦首で、4人は再会を約束して別れた。





 昭和14年12月10日、0530。


いつもの起床ラッパに忠の部屋では、床の布団ですやすやと眠っていた明石が飛び起きた。寝巻き姿のまま、彼女の毎朝の日課である相方起こしがはじまる。


『あ〜さ〜だ、夜明け〜だ〜!!』


 大声で歌いながらベッドの布団をむんずと掴んで剥ぎ取る明石。時には布団ごとベッドから転げ落ちる相方の顔は、いつも朝から何故か浮かない顔である。少しは感謝して欲しいなぁ、と全く自分の責任を感じていない明石は、その日も勢い良く布団を剥ぎ取った。常日頃から叩き起こされる忠にしたら迷惑極まりない話である。だが、布団をどかしたそこには忠の姿は無かった。


『あれえ?』


 初めての状況に明石は掛け布団を確認した。布団の裏にも彼の姿は無く、手にした掛け布団に残った温もりは少し消えかけている。どうやら先に起きて部屋を出て行ったらしい。

 珍しい事もあるものだ、と明石は小さく溜め息して肩から力を抜いた。だが自分の心遣いを無視して行動した相方に、明石はなんだか無性に腹が立ってきた。不機嫌に口をへの字にすると、大急ぎで着替え始める明石。文句の一つでも言ってやろうと心に決めた明石は、着替えの終わりにギュッと後ろ髪を首の後ろで縛ると部屋を飛び出して行った。

 乗組員達の往来が始まった艦内通路には、彼等には聞こえない明石の叫びが木霊する。


『悪い子はいねが〜〜〜!!』





 快晴で迎えた旅立ちの日の朝、忠は前部マストの上にある探照灯台で両手に持った双眼鏡を覗き込んでいた。そこは艦橋の上の測距儀の天井よりも遥かに高いところで、明石艦の中で最も見晴らしのいい所だった。

 双眼鏡の向こうにうっすらと見える光景。それを一目見たかった忠の口元が緩む。だがすぐに彼は溜め息をして双眼鏡を下ろすと、その眉をしかめた。白く吐き出された忠の息が、ふわふわと舞い上がって空気に溶けていく。


 その脳裏に浮かんだのは、終わりが見えない支那事変の事。

 上陸した市街地のあちこちで忠は疲弊した国内の状況を目の当たりにしていた。汽車もバスも昔はもっと頻繁に行き来していたし、店に並べられる商品も昔はもっと品揃えが豊富にあった。彼が市街地で見たものは、明らかに減った人々の生活の跡と、変わらぬ降り積もった雪と、明らかに増えた陸軍省や海軍省のポスターだった。軍事の色合いが強くなってきた国内と供に、最近はもう一つ気がかりな事がある。

 那珂(なか)が言っていた満蒙(まんもう)でのソ連との国境紛争、そして7月にアメリカより通告された貿易条約の破棄。支那事変、いやそれ以前の満州国成立時から日本の対中政策に反対していたアメリカは、去る7月26日に日米通商航海条約の破棄を言い渡してきたのだ。それはアメリカが日本との貿易において輸出禁止にできる品目を自由に決定できるという内容で、貿易が完全停止しないまでも立派な経済制裁であった。

 加えて昭和11年の防共協定より促進されてきたドイツとの友好関係は、欧州での時勢とあいまってアメリカやイギリスとの対決姿勢を鮮明にし始めていた。


 勝つか負けるか、どっちが正義でどっちが悪なのか忠には解らない。だが支那事変の上にこれらの国と戦う事になれば、日本はどうなるのだろう?そしてそこにある、あの自分の故郷はどうなってしまうのだろう?

 少し赤みを残した青空に照らされる故郷の光景に、忠は考えるのを止めた。考える事が出来ない、それに考えたくも無かったからだ。再び双眼鏡で覗く霞がかった故郷に、忠はしばらくは見ることが出来ないであろうという事だけを思って、心の中で静かに別れを告げた。


 さらば(うさぎ)追いし岩木山(いわきさん)の緑よ。

 さらば小鮒(こぶな)釣りし|岩木川の清流よ。

 親父、お袋、あの景色のどこにいるんだ?


 そんな言葉を心の中で呟いた刹那、忠の頬に一筋の涙がながれた。仕事での立場を理由に帰郷しなかった事を、この時彼は深く後悔したのだった。


『も、森さん・・・?』


 一人感傷に浸る忠の後ろで声をかけたのは明石だった。やっと見つけた相方を後ろから引っ叩こうしていた明石だったが、その相方の頬に涙が滴っていた事に気づいて咄嗟に声を掛けたのである。

 しかし忠は明石の声に気づいてすぐに、既に見られているその涙を袖で拭った。


『なんだ、明石。起きたのか?』


 忠は明石に顔を向けずに言った。だが僅かに泣き声が混じった忠の声に、明石は忠の腕を掴んで顔を覗きこむ。


『どうしたの?どこか痛いの?』

『いや・・・。そんなんじゃないよ。』

『ちゃんと言ってよ。変な病気だったら─。』

 

 言い掛ける明石に、忠は首にかけた双眼鏡を差し出した。心配してくれる明石の顔に忠は自分の心の内を読まれていない事を悟って安堵しながら、いつもと変わらない彼女の顔に忠は微笑んで声を発した。


『見てみるか?オレの生まれた所。』

『お、どこどこ!?』


 明石は奪い取るように忠の手から双眼鏡を取って辺りを見回した。キョロキョロと双眼鏡を振り回す明石に、忠は彼女の後ろに立って両肩に手を乗せて身体の向きを変えてやる。


『山が見えるか?』

『あ、富士山!?富士山がある!!』

『あははは、岩木山だよ。富士山に似てるから別名は津軽富士(つがるふじ)って言ってな。オレの実家はあの山の麓にあるんだよ。』

『へえぇ〜、あの山なんだぁ。』


 明石は双眼鏡越しにその山を見ながら、先程の忠の涙の理由を理解した。

 誰しも故郷という物は愛しい物である、それは忠とて例外では無かったのだ。青森港にて過ごした5日間、連日の様におでんやお酒を飲んで一緒にいてくれた事に明石は少し罪悪感が込み上げてくる。


 謝った方が良いかな?


 そう思って双眼鏡を下ろそうとした時、後ろから忠の歌声が聞こえてきた。僅かに咽び泣く様な声が混じった歌声は、忠の無言のお願いを明石に伝えてくる。

 彼は案外と意地っ張りなのである。泣いている顔を明石には見て欲しくないのだ。

 その心情を理解しながらも全てを(さら)け出してくれない相方に、明石は少しだけ苦笑いしながら彼の生まれ故郷を眺め続けてあげた。


汽車乗り換えて弘前(ひろさき)

遊ぶも旅の楽しみよ

店に並ぶは津軽塗(つがるぬり)

空に立てるは津軽富士


 寂しそうに鉄道唱歌を歌う忠とその歌声を聴きながら景色を眺める明石は、こうして青森に別れを告げた。





 同日、0900。

 明石艦は抜錨(ばっびょう)、津軽海峡を太平洋に抜けた。目指すは第二艦隊集結地である九州の有明(ありあけ)湾。寒空に軍艦旗を靡かせて、快晴の空の下の波間を明石艦は駆ける。

 初の出動命令を終えて、明石艦の乗組員達は錬度を高めた。そして忠と明石も大きく成長したもだった。

 微かな陸地を右舷に望み、南の海に突き進んでいく明石艦のシルエットは少しだけ大きくなっていた。

北方海域編は今回で終わりです。

正確な明石艦の行動歴とは少し横道にズレた話になりましたが、お読みになってくれた皆様有難うございました。


次回より、再び正確な明石艦の行動記録に基づいたお話を展開していきます。


これからも明石艦物語をどうかよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ