第一五七話 「民間船の人々」
昭和16年7月24日。
日の丸を掲げた船が100隻以上も集まっている海南島は三亜付近の湾の一角で、この度の作戦に参加する帝国海軍の艦魂達は、作戦部隊旗艦である足柄艦へと集合していた。いよいよ明日に迫った「ふ号作戦」の開始に先立って足柄より訓示を受ける為で、足柄の部屋とは別の一室にて列に並ぶ中には当然明石の顔もあった。
首の後ろで一本にまとめた髪はそのままにきちんと軍帽を被り、アイロン掛けもしてしわを消した白い二種軍装に袖を通して、表情も真面目一辺倒とする所はその場に並んだ他の者達と同様で、先日の足柄との英語のお勉強の際に見せていた楽しそうな色合いはそこには無い。指先も揃えた直立不動の姿勢も居並ぶ仲間達とまったく同じで、駆逐艦の艦魂らの下士官や水兵の軍装の他に差異を見出すとすれば、彼女の左腕に巻かれた赤十字の腕章のみと言った所である。
そして彼女らの面前で相対し、イーゼルにて掲げた仏印方面の地図や書面を指さしながら弁を振るう足柄にもまた、今日は持ち前の賑やかさ陽気さは皆無であった。
『今回、南仏総督府の対応は殊更強硬では無いけど、フィリピンのキャビテ軍港を根拠地とする米アジア艦隊が行動している情報も有る。それに付随して蘭印のオランダ海軍の艦隊、それからジャワ方面のイギリス艦隊の遊弋も考えられるので、各自行動期間中は警戒と注意を厳とするように。また肝心のフランス海軍極東艦隊も、先の泰仏戦争では既に実戦を経験している。旗艦である巡洋艦のラモット・ピケ艦以下、スループと航洋砲艦が数隻いる程度の小勢だし、今の所は沈黙を保ってる状態だけど、油断は禁物。むしろ戦の実力は、私達よりも上だと認識しておくように。』
張りの良い声で諸注意を述べる足柄は、人柄と同等に容姿の上でも特に怖いとか厳ついなんて印象は持っていない。背丈は女性としては平均的な150センチ台だし、顔で一番に印象付けられるその目にも鋭さはないので、神通や金剛みたいな強面艦魂の面影なんてどこにも無い。しかしその仕草や言葉遣い、そして人物としての雰囲気は不思議とどこか威厳が漂い、上官、上司と捉える上での安心感みたいな物を明石も含めた室内の全員に与えてくれる。
さすがは艦隊旗艦だと一人胸の中で感心する明石の前で、足柄は全員の気を引き締めるべく語気をやや強くしてさらに述べる。
『ただし気を付けて欲しいんだけど、今回の進駐はあくまでも平和進駐だから。陸軍さんの勝手な動きだったとは言え、前回の北部仏印進駐の時みたいに武力進駐なんて事態はもう御免だ。あのおかげで米国や英国辺りの警戒心を不必要に上げちゃったからね。上海なんかじゃ向こうの艦艇もよくいるもんで、しばらく私は随分肩身の狭い思いをしたよ。各自、軍艦旗を艦尾からマストに掲げる事の無い様、事前の警戒と備え、覚悟をもって置くように。』
陸海軍共同の大規模な軍事行動とは言え、決して実際に戦闘を行う状態にならない様にとの注意喚起だった。艦の命故に彼女達には馴染み深い物である軍艦旗の件も、戦闘時には艦尾旗竿よりマストの斜桁へと掲揚箇所が変更されるという帝国海軍の規定を指しており、つまりは実戦の回避をより徹底せよという意味合いの一言である。最上や飛龍と言った一端の戦闘艦艇の者は元より、海軍艦艇ながら戦闘行動は二の次とされる明石みたいな特務艦の者達でも理解できるように足柄が工夫した語りに他ならず、話術においても抜きん出た実力を持つ事を明石は察した。
そこには経験者とか年上というよりも、上司上官としての凄さが強く意識できる。容姿に見る年齢にあっては姉と慕う長門や親友の神通から見るとずっと下だし、背丈は自分よりも低いのに、頭脳明晰で考え方も柔軟。言動は礼節を極めて愉快さも時折垣間見えるも、旗艦という立場として皆の前に出ると人間の士官もかくやの立ち振る舞いをしてみせる辺りは、明石が心の内でぼんやりと見てきた理想の上司像にかなり近い。
足柄の言に気を引き締めてこれまで以上の注意を払っての行動を肝に銘じつつ、彼女は良き上役の姿の具体例を間近で目にした事で精進の念をまた一段と燃やすのだった。
次いで翌日のは7月25日。
南国特有の透き通るような色合いの蒼海に、西の方角へ傾き始めた陽光も眩しい、現地時間1400。足柄艦が指揮するふ号作戦部隊は三亜の海面より錨を揚げ、ここにいよいよ作戦開始を迎える。第五水雷戦隊が一番先に出港して前駆掃海と先端警戒に当たり、一等巡洋艦や空母の戦隊がそれに続く。明石の仲間である最上や飛龍らもこの中に含まれ、さっそく艦載機を上空に放っては艦隊の上空直掩や航空偵察の任務へと投じている。
続いて港を後にするのは陸軍第25軍を乗せた徴傭船舶を主とする大船団で、大小含めた船の数は39隻にもなる。これに直接の護衛を担当する海軍第二根拠地隊の掃海隊や砲艦隊が帯同し、明石艦を含めた海軍の補給部隊も加わった事で観艦式もかくやの特大船団が南支那海に姿を現すのだった。
ただ、足の速い海軍の艦隊は護衛の任務上、陸軍の船団部隊より先だって行動しており、なおかつ明石艦を含む大船団は船足が10ノットにも達しない程に緩やかな事もあって、行動自体は海軍部隊よりおよそ一日程遅れていく事になる。目的地であるナトラン湾へは3日かけての航海となり、軍事作戦従事中とは思えない程にゆったりとした旅路であった。
もっともこの様な大規模な兵力移動は当然ながら極めて目立ち、いくら広大な海上の事とは言え周辺国の耳目に捉えられるのは自明の理である。特に足柄が口にしていた欧米列強の勢力がこれを見過す筈は無く、「日本軍大部隊、海南島を出港。南下を開始。」の報は寸分違わずにそれぞれの情報機関の察知する所となる。
そしてその情報に接して最も早く、明確な意思の下でのアクションを起こしたのは、この30数年の間、日本が最も警戒し、恐れ、その反面で資源の輸入相手として頼らざるを得なかった最大の貿易国たる、アメリカ合衆国であった。
まさに明石達が出港したその日、アメリカ政府は自国内における「日本資産凍結令」を発令。世界の政治経済に多大な影響力を持つアメリカにて、日本の資本はまったくの無力となった。言うまでも無くアメリカ国内に既に有る多くの日本資産に関してもその移動、および移管は制限され、帝国にとっては昨年のくず鉄等の禁輸を凌ぐ非常に強力な経済制裁となる。日本政府がこれをどう捉えていたかは作戦中の将兵、ましてや艦の命達にとっては知る由も無い事であるも、旗艦足柄艦の無電室に作戦中止の電文が来ない辺りは、その答えの一端であったのかも知れない。
明くる7月26日。
船団はまだ南支那海の海原を航海中であり、各艦とも警戒は厳。逆巻く怒涛や波を叩く強風なんて微塵も無い静かな海を進んでいる。今の所は特にどこぞで戦闘になったという報告ももたらされていない。その中で民間船の艦魂さんも含めると明石の周りにはかなりの数の仲間の姿が有り、なまじ初めての南支那海行動という事も手伝って、口には出さないながらも彼女にとってはなんだか団体旅行に来たみたいであった。
『森さん、森さん。あれ。あの船はどこのかな? あんな商船旗見た事ないよ。』
『確か・・・、あれはデンマークの船だね。へへ、オレこれでも船舶旗はちゃんと勉強してるんだよ、明石。士官なんだからさ。』
『なによー、鼻にかけて! 解んない物は解んないって言ってるだけじゃん!』
『あいて・・・! そ、そう意味で言った訳でも・・・!』
おかげで明石艦でもこんなちょっと緊張感の無い一コマを過ごせる暇もあり、彼女は狙い通り大いに相方を困らせてやった。
しかし同日、昨日の米国に続いて英国もまた日本資産凍結令を発令。当然ながらカリブ海から中東、インド洋沿岸にまで存在する英国領であってもそれは適用され、帝国の経済は世界地図の上で見ると至る所で分断され始めていった。
次の日、7月27日。
一昨年来より交渉を続けていた蘭印までもが便乗して日本資産凍結を決め、東南アジアの地図ではその殆どが日本資産を行使できない状態へと陥る。言わずもがな、それはこれから行われる日本の外交施策に関して各々が脅威を抱き、思い留まらせる為に対処しているからで、南部仏印から手を引けという国家としての強いメッセージであった。僅か3日の間に米国、英国、蘭印と矢継ぎ早に経済制裁をされたのだから、国旗は違えどもその関連性は疑うべくも無かった。
しかしそれでも明石らの下に引き返せという命令は一向に届かなかった。
この日、巡洋艦や空母、水雷戦隊等が主軸の海軍部隊は一足先にナトラン湾へ到着。ヤシの木陰とエメラルドグリーンの小波が綺麗なナトラン湾では本格的な大舞台での上陸はせず仮泊するだけだが、その風光明媚な絶景は仏印政府高官の避暑地として整備されている手前もあり、軍艦旗と浮かべる城たる艦影をハッキリと見せつけて間接的にだが威嚇をする意味合いもある。だから到着と同時に『さあ、休憩だ。』なんて軽い気持ちでの行動は勿論帝国海軍側には有ろう筈も無く、手を出す気も失せるほどの大艦隊の威容を構築すべく各艦とも気を付けている。
当然、艦魂達もだ。
『2CF旗艦。あれは教会でしょうか? あの高地の上、十字架が見えますよ。仏印は仏教国かと思ってたんですけど・・・。日本と同じで干支も有るって・・・。』
『飛龍、日本にだって寺もあれば聖堂もあるだろ。あの国はこう、ってな具合で割り切って捉えちゃダメだよ。今あそこに見えてる通り、この仏印ではカトリックの信仰も少なくは無いんだ。他にもインドのヒンドゥー系の宗教も古くから信仰の対象になってるんだよ。シヴァ神の像が、たしかこのナトランの近くの遺跡に有るくらいなんだ。世界は太平洋よりもずっとずっと広い。絶対に安易に見ず、そして安易に見られない自分でいようと努力するんだよ。そら見ろ、もう浜にはだいぶ人も集まって来たぞ。どういう姿勢でいたらあの人達に自分を、それこそ今の飛龍が言ったみたいに安易に見られないか、って考えてみてね。脅かすつもりは無いけど、もう作戦海域に来た以上、誰もそれを待ってはくれないからね?』
『は、はいぃ・・・!』
到着したばかりでも気を抜いていない上官に部下が気持ちと姿勢を律するのも、こと作戦中なれば当たり前である光景とも言える。ましてや明日にはいよいよ陸軍部隊の上陸が決行される予定であるから尚の事であった。
そして7月28日。
足柄艦率いる海軍部隊が待ち受けていたナトラン湾に、陸軍の船団と明石艦が属する補給隊が到着。陸軍の船団からは一部の部隊がここで揚陸され、人だかりで埋め尽くされる海岸の一角でどうやら南部仏印総督府側の人間と部隊長が色々と折衝しているらしい。足柄艦の司令部よりも参謀らしき人員が陸地へと派遣されているようで、陸海軍一致協力しての行動が初手より垣間見えて何よりであるが、前回の北部仏印進駐みたいな事態に陥らない様に両者慎重になっているという裏もあったりする。
いつも陽気で笑みの絶えない足柄もこの点が手伝い、陸軍部隊の揚陸する様を厳しい顔つきで眺めていたが、自分達より遅れてナトランへとやってきた明石ら後続の海軍部隊の艦魂達が報告に来ると、その表情も少しだけ柔和になる。
『艦隊旗艦。佐多主計中尉以下、補給隊、ただいま到着しました。』
『おっと、ご苦労様。慣れない海で疲れてるかもしれないけど、事前の打ち合わせ通り2030には湾を発ちます。明日、明後日の本隊上陸にも追従する事になるから、半日くらいだけど身体を休めておいて下さいね。何かあればすぐに報告する様に。』
しばしの間離れていた仲間達の顔を見て嬉しそうな足柄。
指揮官の立場を意識した際、部下相手でも敬語で接する所は、礼式と社交に通じた人物として名を知られる彼女の大きな特徴でもある。佐多と名乗った艦魂の後ろにて列に並んでいた明石には新鮮な発見で、変に威張ったり口調に角を立てたりしない所は今まで目にしてきた人間の士官を含めても結構珍しい。つくづくこの足柄という艦魂には勉強する事が多いなあと一人感心し、その後も佐多との間で続いた足柄の話しぶりを注意深く見学するのだった。
その後、足柄へ到着の報告を終えた明石は、一旦自身の分身へと戻って到着と同時に早速工作任務に励む乗組員の様子を目にする。
お船の修理が主なお仕事だと思われる事も多い工作艦だが、以前の小松島での飛行場造成の補助なんかにも見られた様に陸上施設の整備に手を貸す事はかなり多い。艦隊訓練において頻繁に使われる連合艦隊最大の作業地、有明湾や宿毛湾でも行く度に現地の桟橋や波止場の改修を行っており、時として艦船修理よりもその比率は高いくらいである。
ナトラン湾にても上陸した陸軍部隊の物資の搬出入等で既存の物よりも規模の大きい港湾設備が必要であり、工作艦たる明石艦は作戦従事中の艦船の整備補修は元より、こういうのも見越して作戦参加が決まったのだ。
『木具工場の方はだいぶ忙しくなるみたいです。工作部長、何か伝えておきましょうか?』
『おう。じゃあ、工作資材の消費と在庫は、くれぐれも帳簿に抜けが無い様にとな。もう内地じゃないし、最寄と言っても馬公の要港部からもかなり離れてるから、足りなくなっても簡単に補充なんかできんぞ、って。』
『はい。解りました。』
決して大砲や機銃をぶっ放す訳でもない上に、これまでの艦隊訓練で何度も行って来たような内容の工作であったが、作戦従事中の明石艦、次いでその工作部にとっては今日からの工作任務は正真正銘の実戦である。何某かの間違いが有って仏印駐屯軍の銃弾が飛んでくる事態だって否定はできないし、実際に彼等はついこの間の泰との戦争で陸戦も海戦も経験済みであるから、仮に停泊中の明石艦に攻撃が企図されていよう物ならきっとそれは生半可な代物にはならない。可能性という物で今の状態を見るならば、南国風情を極めたナトランの海岸には紙一重ですぐそこに血が流れても不思議ではない現実が待ち構えている。工作部、そして艦の乗組員達はそうした空気を大いに感じている様で、賑やかさが出てくる反面、これまでにない緊張感もまた明石艦の甲板には顔を覗かせ始めていた。
ところがその緊張感が明石にも波及して間もなくの事、彼女の背後より肩を叩く手が伸びてくる。軽く二度触れられて思わず明石が振り向くと、そこには先程まで足柄艦で一緒であった人物の顔があった。
『いよ、軍医少尉。さっそく乗組の人間達の様子を観察してるんだね。感心感心。』
『あ、佐多さん。』
明石の肩を叩いたのはさっき足柄に到着の報告をしていた佐多という艦魂で、20代後半のややふくよかな顔にアヒルのそれを連想される特徴的な形の口を持った女性だった。身体つきは明石よりもちょっと小さいくらいで、特に太っている訳でも無ければ痩せている訳でも無いと平凡な体格である。明石と同じ士官の軍装を身につているが、襟に輝く階級章は明石が軍医科を示す赤線に桜なのに対して、佐多は主計科を示す白線に桜と違いが有った。
もっとも佐多は決して明石の親友の神通や那珂みたいな軍艦が分身では無く、実の所は明石と同じ特務艦の仲間であった。その分身は大正年間に建造された給油艦と呼ばれる特務艦艇で、明石艦と比べるとサイズは一回り小さいが重さは15000トン以上と5割増し。艦内の大部分を占める油槽によって、外見は民間の油槽船、欧米風に言う所のタンカーと殆ど変らないので、旗竿に軍艦旗が翻っていなければ普通の人ならだれも彼女をれっきとした海軍艦艇だとは思わないであろう。
しかし八八艦隊構想というかつての一大兵力整備計画で生まれた彼女は、長門や神通、間宮と同世代という事からも解る様に現在の帝国海軍艦魂社会では一線に立つベテラン勢の内の一人で、英語もロクにできずまだまだ尻の青い明石とは経験の差がまるで違う。その名の通り給油艦という事だからせっせこせっせこと油ばかり運んでたんだろうと最初は明石も思っていたが、世間話の合間に本人の口から聞いた所によると断じてそんな事は無い。確かに佐多艦はこれまでの任務で石油の輸送を主な物としてきたのだが、そもその輸送航路は本邦近海は当然の事、南洋にだって何十回も行ってるし、果ては石油の買い付けで太平洋を横断してアメリカ本国まで向ったのも一度や二度の話では無い。おまけに一時期は航空機搭載設備を備えて水上機母艦の役割で演習に参加した過去もあり、現在ではかつての朝日艦に装備されていた様な潜水艦救難装置を与えられて緊急時に備えている等、特務艦艇、もっと言えば後方支援艦艇としての経歴と実力は現役の特務艦の中では一、二位を争う程にハイレベルな物なのである。
そういう意味で佐多は明石にとっては親近感と尊敬の念が極めて強く湧く先輩艦魂だった。何度も外国への遠洋航海を繰り返してきた故に、その英語と海洋学の知識はそこいらの戦闘艦艇の艦魂よりも遥かに上で、自分と同じ帝国海軍特務艦なんだと思うと鼻が高くなるような気分にすらもなれる。その上で彼女の人柄は快活で皮肉や堅苦しい物言いが微塵も無く、出会って間もない間柄なのに気兼ねなくおしゃべりの出来る仲になれた。
また、明石とは何か色々とどうも縁が有るようで、佐多の分身にある潜水艦救難設備の事を話題に出した所、予期せぬ形で明石と佐多には繋がる部分が出てきた。
『あれ? あのさ、軍医少尉。わたし、佐鎮所属なんだけど、ちょっと前に佐鎮所属の潜水艦の子、助けなかった? 沖縄辺りで。』
『あ、そ、それ宮古島の! はい、座礁してた潜水艦の子を救難しに行きましたぁ!』
『おおー、やっぱり。工作艦が来たんだ〜、それも最新鋭の〜、ってあの子手振り回して自慢しててさあ。そっかそっか、やっぱ軍医少尉だったのか。じゃあ、そこそこ経験もちゃんと積んでるね。大したもんだ。一応、わたしからもお礼言っとこかな。ありがとうね、軍医少尉。』
『はぁい!』
いつぞやの明石にとっての初めての救難、艦魂達にしてみたら初めての救命にあたった際のお話である。経験不足から無我夢中での治療は明石としてはちょっと反省すべき点で、佐世保から派遣された由良艦がいなければ現場から抱き起す事もままならなかったのが本当の所だったのに、自分の知らぬ所で元気になった患者さんが良く言ってくれていたのは素直に嬉しい。幼子みたいな間延びした感のある明石のしゃべり方は気分が高揚した時の癖で、本来が純真無垢で無邪気なその性格にいよいよエンジンがかかってきた。
この際なので特務艦仲間として色々と教えてもらおうと考え、その後しばらく30分程も佐多とお話するのであった。
ちなみに後年、明石はその死のすぐ直前にも佐多と同じ場で過ごし、また良き先輩である彼女の最後を看取る事になる等、実に縁の深い関係となるのだが、今の二人はそれを知る由も無かった。
さて、佐多と存分に話が出来た明石。
企図した通り経験豊富で顔の広い佐多に色々と教えてもらった彼女は、その中で今回の作戦に参加している後方支援艦艇に、これまた初めて目にする民間の徴傭船舶が混じっている事を知った。一応、ナトランまで来る間、船団の中に見慣れぬ船舶旗を掲げた船舶が居るのは目にしてこそいたが、てっきり三都澳とかでも見た「陸軍」の徴傭船だと明石は勝手に思っていた。だが明石と同じ補給隊に属する佐多によれば、正真正銘の海軍生まれの特務艦艇は補給隊全8隻中、なんとなんと明石と佐多だけらしい。残りの6隻は帝国海軍と契約を交わして籍を入れ、相応の改装や人員を得た上で運行される特設艦船や軍用船なのだという。
それを聞いて早速挨拶してみようと思い立ち、佐多に教えてもらった民間船の者達が集まっているという、補給隊の船舶の内のとある一隻へとやってきた明石。なるほど、よくよく考えれば補給隊のメンツは佐多艦を筆頭に明石艦と来て、それ以降は東園丸、笠置山丸、六甲山丸、箕面丸、葛城丸、興亜丸と最後に必ず「丸」が付く船名ばかりで、独自の命名基準を持つ帝国海軍生まれの艦にその様な名を持つ者はいない。
そう言えば別れて久しい宗谷という名の特務艦の友人もまた、民間船時代は地領丸という名だったなと改めて思いだしつつ、中々軍艦では見られないサイドデッキの辺りより船内へと入って行く。民間船は上部構造物にお偉いさんの居住区が有るらしく、最初に入った通路沿いに並んだドアの上には「船長室」や「機関長室」等と銘が打たれたプレートが付いていた。もっともこういう部屋は個室で大人数で集まるのには都合が悪いし、停泊中となれば部屋の主が居る事も多いので幽霊騒ぎを起こしたくないのなら尚更に船の命が使用する事は無い。
きっと船員さんがいない相部屋の居室とか、使われていない倉庫とかだろうと考え、明石は歩みを船内のさらに奥へと進めていった。
するとやがて通路には賑やかな女性たちの声が漏れ始め、声のする方を探してみると予想通り通路の一角にあった小さな物品倉庫のドアよりその声は聞こえていた。随分とはしゃいでいるのか笑い声の合間に飛び交う声は、確かに黄色い物ながらも時に怒号にも似た叫びとなったりもしており、何か楽しいゲームでもやっているのかとドアの前で明石は推察。一息ついて身なりを正し、左腕の肘に巻いた朝日御手製の赤十字の腕章のしわを伸ばして格好を良くした後、強めにドアをノックしながら元気よく声を張り上げて挨拶の第一歩を踏み出した。
『あの、軍医少尉の明石ですぅ! 遅ればせながら、挨拶に来ましたぁ!』
『ありゃ、軍医少尉さんだってよ。』
『おい、興亜丸。ここはアンタの分身だろ。相手も海軍さんだし、返事しなよ。』
『おっと。は〜い! どーぞー!』
一瞬賑やかさが止んで聞こえてくる声を耳にし、明石は勢い良くドアを開けた。
そこは舷窓も無く電灯の光のみで無機質な隔壁が照らされた殺風景な所で、賑やかさが無くなると天井の隅にある小さな換気口の回る低い音が木霊するだけの一室であった。足柄の部屋で見た壁掛けレリーフやデッキといった小物類は皆無で、木目の色合いも褪せた四角いテーブルと椅子が5、6個あるのみ。
おかげで机の周りで椅子に座る6名の女性達の姿を、ドアを開けたばかりの明石はすぐに捉える事が出来た。
顔立ちを見るに皆明石よりちょっと年上の様で、服装は軍装では無く民生品の作業着の上下や煙管服に似たつなぎに袖を通している、生地の色合いや縫い付けられた何かのマークがそれぞれで違う辺りも鑑みて、彼女らこそお目当ての海軍に雇われた民間船の艦魂達であるなと明石は確信した。
『あ、ども。今回はお世話になりますぅ。改めまして、私、軍医少尉の明石です。よろしくお願いしまぁす。』
一応は自分の方が偉いのかな等と考えつつも、初対面という事でちゃんと敬語を使っての接し方に明石は気を付ける。元々自分の未熟さは身に染みて知っているし、感銘を受けた足柄の社交ぶりも記憶に新しいから、出会いをもっともっと大切にしようという気概もだいぶ働いていたからだ。
すると相手方も偉ぶらない若人の明石に気を許してくれた様で、わざわざの来訪と挨拶をありがとうと和気藹々とした雰囲気で迎え入れてくれた。何やら彼女達は部屋の中央に置かれた机に向き合って忙しく手を動かし、その手元より大量の小銭を鳴らすような音が連続的に木霊するという、明石にはよく解らない儀式めいた事を揃ってやっているが、言動自体には軍艦の艦魂達にときたま見られる堅苦しさや角ばった物言いも無くなんとも話がし易い方々であった。
『あ〜、これはこれは。日本水産の箕面丸です。よろしく。』
『わたしは三井物産の笠置山丸。よろしくお願いします、軍医少尉。』
『お、こうきたら次はウチやな。ウチは興亜ま・・・。』
『ひょあああー! キター!』
明石への応答もそこそこに彼女らの内の一人が突如として嬉々とした絶叫を上げる。次いで一斉に机の周りにいたそれ以外の者達が悲鳴じみた声を連ね、室内には廊下にまで漏れていたあの黄色い音色の騒々しさが舞い戻るのであった。
『ロォーン! 大三元、字一色の役満とドラ乗りじゃー!』
『どああー! アガられたー!』
『くそお・・・。立直一発なんて狙うんじゃなかった・・・。』
『おいおい、何点だよ〜!? ちきしょ〜・・・。』
いきなり喜ぶ側と落胆する側にハッキリと別れ、訳の解らぬ状態の明石を他所に騒ぎ始める民間船の艦魂達。その中心にある机の上をよく見ると、親指より少し大きいくらいの白く四角い物が並べられていた。一番手近な所に居た箕面丸に明石は尋ねてみるが、いま眼前で繰り広げられている一連の光景はトランプや花札と同じ卓上遊戯の一つで、大昔に支那で発祥した麻雀という物らしい。花札と同じくいわゆる役を揃え、役固有の点数の大小で勝敗を決めるのだそうで、余りの面白さに白熱して本日既に小一時間近くも皆でこうして卓を囲んでいたそうだ。
本当にたまにであるが、一応は明石も仲間内とトランプで遊んだ事は有る。だが暇つぶし以外に目的の無かった遊戯にここまで熱中できる姿は初めてで、頭を抱えて天を仰ぎさえしている者も出る事態に驚きを隠せない。
そんなに面白い物なのかな?
僅かに首を捻って丸くした目を上に向けながら脳裏にそう唱えた明石。
お勉強に励むのが多い日常の中、息抜き程度のお遊びが必要なのは彼女も同じで、そのレパートリーが増えるのに越した事も無いし、挨拶したばかりの民間船の者達との話題にもちょうど良かったので、この麻雀を教えてもらおうと積極的に声を掛けていこうと考える。
もっともその刹那、明石は民間船の者達との文化的とも言える面での違いを知る事になった。
『くっそー。この缶詰、買うと高いらしいのに・・・。』
『ああ・・・。せっかく手に入れたジャマイカコーヒーが・・・。』
『舶来のソーセージ・・・。これ本物のドイツの奴なんだぞぉ?』
『へへへー! 毎度ありー!』
落胆から立ち直りつつあった者達が口惜しそうな台詞を呟くと同時に、なんとポッケや部屋の隅に置いてあった箱から食料品を手に取ると、一人嬉々としている者に一斉に手渡したのである。
いわゆる賭け麻雀で、通貨なんて物が無い艦魂達にとっては完全な賭博行為だ。娯楽が無い船の命においてはその歴史は決して浅くは無く、麻雀こそまだ確立していなかったものの、ウソかホントか賭け事関連は紀元前のサラミスの海戦が行われたりしてた頃より、人間達がやっていたのを覚えて始めたとかという俗説も有ったり無かったり。ただし、人間の世でも賭博に現をぬかし過ぎて人生を誤る人が結構多いのと同じく、あんまり派手にのめり込んでしまうと船内から次々に物品が消える事態が生じる船舶が現れてしまうという点で、艦魂達界隈でもまた賭博行為は基本的に相応の範疇で自重すべき悪いお遊びとして捉えられている。ましてや他のどこでも無い国家の旗を高らかに掲げる帝国海軍の艦魂社会ならそれは当たり前で、理由と手段を問わず明治の創設時以来、賭博行為はご法度であった。
明石が驚くのも無理のない事である。
一応は民間船といっても徴傭契約時に帝国海軍に籍を入れ、尊い国民の血税から来ている資金で高い高い傭船料を払っての作戦行動中だから止めるように促すべきかと一瞬考えたが、よくよく考えれば元々の出自が根本的に違う彼女達であるし、それぞれの分身に掲げてる旗も実は明石と佐多以外の者は軍艦旗では無い。
この6名の分身の旗竿に掲げられてるのは白地に青抜きで山が3つ連なる横線が2本描かれている独特な旗で、正式な名を軍用船旗という。もちろん意味合いとしては海軍に一時的にチャーターされてるお船を示す物で、あくまで民間のお雇いですという体面が強調されているようにも思え、果たして帝国海軍艦魂社会のルールや価値観を頭ごなしに押しつけて良いのかどうか、明石はちょっと迷ってしまった。
ぬぅう〜・・・。足柄さんならこういう時、どう返すんだろう・・・?
騒々しさから一人置いてけぼり状態の明石は、眉をハの字にして困った様な感じの笑みを浮かべ、頬を指先で軽く掻きながら声無くそう呟く。友達の神通みたいに即座に一喝できたらどれほど楽だろうと感じたりしながら、そうとは知らずに屈託と遠慮の無い賑やかさに更に拍車をかけた民間船の艦魂達の声が、牌がぶつかり合う子気味の良い音を伴奏にして次々と舞い上げられていった。
『はあ〜、なんでもいいからさっさと戦は終わってくれんかねぇ。支那沿岸はもとい、なんか最近は米国ともきなくさいらしいぞ。新聞に書いてた。』
『ホントだよねえ。台湾のヒノキも最近じゃ渋ってる。きっと船舶業界、てか新船建造自体も統制されてるからじゃね? 甲板に良く使うからな、アレ。』
『そん代わり、南洋は増えたんとちゃう? こないだも食糧品運送の仕事が入ったぁて、同じ船籍地の奴が言うてたで。』
『でもさあ、帰りの積み荷がサトウキビばっかで飽きたよ、あたし。台風で航海計画変わる事も多いし、暑いし。』
『軍医少尉〜、いっそ屋根付きの港でも作ってくださいよ。日焼けはするし、暑さでバテるし、フカも出るし。散々だよなあ。』
なんかもう好き勝手に言ってる彼女らに明石は上手く応答できない。
元気さは人一倍で相方をいつも圧倒するだけの勢いを持つ自分以上に、民間船の艦魂らは元気いっぱいだった。会話の内容もさすが世界の海を股にかける連中と言った所か、運送業界、流通業界にとても知識が豊富で、初めて南支那海に足を踏み入れたばかりの明石とは違い、太平洋の東側やインド洋、内南洋は勿論、アセアニア方面の外南洋の海も知っている様だ。階級も低いし、御国の守りだという使命感もちょっと感じられない方々みたいだが、その反面、麻雀も含めて明石の知らない事を山ほど知っていそうな雰囲気だけは、大いに賭博を楽しむ中であっても節々に見る事が出来る。
とりあえずは帝国海軍艦魂社会の規範とか体面とかそういうのは置いておき、せっかくお知り合いになれたこの機に彼女らから色んな事を教えてもらおうと考えを改め、明石はその輪の中に入って行く事にした。
『あ、あの、南洋ってパラオとか行ったんですか? え〜と・・・。』
『あ、一気にじゃ名前覚えられないですよね。ウチは興亜丸いいます。南洋でっか? おう、箕面丸。』
『ああ。軍医少尉、私は7、8年ほど前にウルシーって所に行きまして。大きな環礁が有って、上手く整備したら良い停泊地になりそうですね。あそこは。ま、台風がかなり多いようですが。』
気の良い彼女達は明石の疑問に快く答えてくれ、海軍なのにそんな事も知らんのかと邪険にしたり、皮肉を言ってくる事も無い。その上で特設工作艦の増勢を以前に伝えられ、否が応でもその上官、上司として励む自身の将来の為に、民間船の者達との意識の違いや知識体系の差を今の内に把握しておこうと、その日は2030の出港の時間までずっと明石は彼女達の下でお話をするのであった。