第一五六話 「礼は天に通ず」
昼飯と夕飯のちょうど真ん中ぐらいの時間帯に、足柄への挨拶を終えて明石は一度自身の分身に戻ってきた。
三亜到着に合わせて錨泊準備を完了し、25日の出港を見越して甲板のあちこちで諸作業を行う乗組員達の動きはきびきびとしており、各々が忙しさと南国特有の暑さに汗を流す姿には真剣さがとても色濃い。他の艦隊所属艦どころか、付近に錨を降ろす多くの徴傭船の船上から注ぐ陸軍の人々、そして現地民の方々の視線の中では緊張感も相応に有り、この間まで戦闘が起こっていた海域のすぐ近くと考えればそれは尚更である。
その気の引き締め具合は甲板を歩いていく明石にもある程度は伝播するのだが、いかんせん不得意中の不得意科目である英語の成績にご指摘を貰ってしまった彼女にあまり心の余裕はない。表情も少しばかり元気が薄く、ややハの字になった眉の下に伏せ目がちにしている所は、天真爛漫で無邪気な彼女の人柄には似合わない物だった。
決してふてくされたなんて事こそ無いのだが、どうにも上達しない自身の語学力にやや意気消沈。その後に先程足柄に挨拶に赴いた際の面々で再び集まり、陽気でひょうきんな足柄のお話に笑いながらの会食を迎えても、食後には足柄とマンツーマンでの英語のお勉強の時間が控えてるかと思うと気持ちが中々晴れなかった。
もっとも、そんな若人の心の底を足柄が見抜けぬ筈は無い。
お勉強の開始前にティーバッグを使って淹れた紅茶をまずは一杯と勧められ、明石は紅茶の温かさと足柄の笑顔にとりあえずほっと一息つく。その中で改めて足柄の部屋をよく見てみると、そこは舷窓も電灯も一つしかない倉庫にも関わらず結構内装に手が加えられている事に彼女は気付いた。
舷窓の両脇には白いカーテンが備え付けられ、小さな事務用机の一角には縦置きに並べられた何冊かの本と一緒に花瓶に活けたお花が一輪。丸めた布団が鎮座するベッドも元来倉庫に据えつけられてた筈は無いし、今更ながら足元には緑色の薄いカーペットまで敷かれている。さらにその下には筵が敷かれて足の感触は極めて柔らかく、隔壁と鉄材が剥き出しで普通なら極めて無機質な感じである艦内の倉庫がなんとも生活感あふれる空間となっているのだった。
もちろんそれらはこの部屋の主にして、艦魂である足柄が用意した物であろう。でなければ乗組員達によって不当に持ち込まれた物品と認識され、撤去されている。
明石の目はそんな室内のあちこちに配られて忙しく、まるで東京駅に降り立ったばかりの田舎娘の様に見えてしまっている足柄に失笑されても終わる事は無い。その内にティーカップを両手で抱きかかえたままキョロキョロする後輩に、足柄は己の趣味とそこに付随するとある信念を教えてあげる事にした。
『ワタシ、結構お裁縫とか大工仕事とか好きなんだ。なんだろ、物を作るっての楽しくてさ。そういう意味じゃ、工作艦である明石の所には今度遊びに行きたいな。もう少し調度品を華やかにしたくてさ。これで公室みたいなモンだから。』
『え? 公室・・・て、長官公室とかそういうのですか?』
『そうそう。』
手にしたカップをスプーンでゆっくり混ぜながら足柄はそう言った。初対面の時よりもだいぶ賑やかな人柄は鳴りを潜め、優しげな微笑を浮かべて明石の反応に頷くと、彼女はカップを口に運んで紅茶をほんの少し飲んだ後に話を続ける。
『国外派遣中の海軍艦艇ってね、これでよく他の国の海軍の人達が訪ねてくるもんなんだ。そりゃ表敬訪問だったり、現地での何某かの協議だったりが目的なんだけど、そういう場面では相手に対して引け目な所は見せないようにって、ワタシは出雲先生からよく言われたんだ。でもそれは見栄とかナメられるとか、そんな簡単な話じゃないよ。そもそも海軍ってのは国家の代表としての性格がとても強いからさ、ワタシら艦魂であっても人間であってもね。幕末に日本にやってきた黒船とペルリ提督だってアメリカ合衆国海軍だったんだから、海軍が国家の代表だってのは理解できるでしょ。そういう海軍の人同士が同席する場ってのは、単純な会合とか会議なんじゃなくて、自分も相手も国の存亡を肩に乗せてる一流の外交官同士の社交場なんだ。その一流の場に相応しい自分と場所は付け焼刃にあらず、日頃から丹念に磨いておけ・・・、てのが出雲先生からの教えなのよね。この部屋もその賜物かな。』
『おおぉ〜、な、なるほどぉ。』
今まで特に意識した事の無い自分の部屋への考え方に触れ、明石は目を見開いてその新鮮さに驚く。
今まで自身の部屋には寝るのと一人の時間を持つ事くらいしか必要性を見出してこなかったし、そも陸のお店で家具を買ったりなんてできない身の上なれば部屋の飾りつけなんてほぼ諦めてしまっていた。お布団と勉強や書類仕事に使う机に椅子、あとは艦内や交友関係より集めた書籍が幾らか有るくらいで、贅沢は無論の事、誰かをもてなす為という観点で捉えた事すらない。むしろそれ故に高雄や愛宕の元へ打ち合わせなんかで赴く際は、その分身にある長官公室の豪華さを堪能できると楽しみの一つに思っていたくらいだ。
しかしながら一流の外交官としての体面上、儀礼上で己の部屋に装飾を施すという点は明石にしたら新たな発見で、師より教えられて常日頃から目標に掲げる「一流の淑女」という言葉もそこに結びつく様な気がした。
おかげでそれまで大人しかった明石の気持ちは好奇心にすぐに支配され、カップの半分ほども紅茶を飲むとさっそくその視線を部屋の隅々にへと流し始める。するとすぐさま、明石の目には部屋の中でベッドに次ぐ大きさを持つ戸棚が映った。
高さは身の丈より少し低く、幅も両脚を開いたくらいのこの戸棚は、チーク材で出来ているのか黄色に近い明るい色をした全木製で、上段辺りには明石と足柄が手にするカップや、ティーバッグを纏めた手のひらサイズの入れ物なんかがガラス越しに見えている。
その下の段も細々とした小物がきちんと整頓されて収納されているも、その中で一番に目を引くのは3段程にも続いて横に並べられた写真立て。
あんまり自分達を写真で撮る事は無い艦魂達、ましてやカメラなんて持っている人は昔から非常に少ない環境下であるので、大事そうに写真立てに入れてまで保管されてあるのは明石にとっては物珍しい。一度だけ、横須賀にて富士が持っているのを見た事が有るだけである。
しかもまたその中身、すなわち写真に写っていた物に明石は再び目を丸くし、その内に口もまた大きな丸を描いて驚きの表情をつくった。
『おおぉ〜〜。これ、見た事もないお船ですぅ。それにこれ、写ってる外人さんの軍装も日本のじゃないや。あ、これ足柄さん?』
10枚近い写真の中には足柄艦と共にそれ以外の艦船も写っている物が有り、よく見れば艦尾旗竿に翻る軍艦旗も足柄艦以外は見慣れた十六条旭日旗ではない。また一部には軍装姿の女性が写っており、その中の一人は眼前に居る足柄であった。おまけに写真の中の足柄はよく見る濃紺の第一種軍装ではなく、黒の下地の中に煌びやかな金色の装飾が映える礼装姿で、以前の観艦式に参列した際に乗組みの士官達が着ているのは目にしていたが、艦魂が袖を通した姿としては明石はそれが初めて見た物であった。
『あれ、近くで見ても良いですか?』
『おう、よく言ってくれた! ま〜、ワタシとしてもこの時の事は自慢なのよね〜。あ、いいよ、座ったまんまで。持ってきてあげる。』
『わあぁ。あ、有難うございまぁす!』
強く惹きつけられた写真を間近で見たいと願い出た明石に対し、足柄は快諾と同時にその手に持って眺めさせてやろうと席を立つ。つい両手に拳を握って喜ぶ明石に振り向きながら応じつつ、彼女は戸棚まで歩いていくと慣れた手つきで戸を開き、飾られていた写真立てを両手に抱えて笑顔を再び明石の方に戻す。まるでありったけのおもちゃを持ち運ぶ子供の様で、容姿に見る年齢も階級も全然違う中にあって明石と遊ぼうとしているみたいにも見える。足柄はそんな無邪気さを隠す訳でも無く、やがて明石の下に戻ってきて対面する形で椅子に腰かけるや、一つずつ写真立てを手渡しながらその一枚一枚における説明と思い出を、得意の陽気な口調で語り始めていった。
言わずもがな、外国船籍の軍艦や帝国海軍以外の軍装に袖を通した艦魂が写るそれらは、彼女が昭和12年に英国国王の戴冠を記念して行われた大観艦式の時に撮影された物である。
『これね、全部イギリスの観艦式に出た時のなんだ。そうだなあ、まずはこれ。向こうに着いた時に艦首から人間達が撮ってた物だよ。カッコイイでしょ、私?』
『満艦飾だあ。あ、将旗が掲げられてる。足柄さん、戦隊旗艦だったんですか?』
『あ〜、この時は五戦隊旗艦だよ。ちゃんと人間の戦隊司令部も乗せて行ったんだ。長い旅路だったねえ。あ、そういえばマルタ島で帝国海軍の慰霊碑が有るってんで、手を合わせにみんな上陸してたな。あれって確か欧州大戦時の第二特務艦隊のだったから・・・。あら〜、今思ったら明石ちゃんの先代が率いてた艦隊のじゃん。』
『わああ! ほ、本当ですかあ!?』
『わ〜お、面白い縁だねえ。』
写真に関するお話を聞こうと思ってたら先代の名が出てきてびっくり。話だけは聞いていた初代明石艦による欧州派遣に関し、よもやその痕跡の近くへ眼前の足柄が行ったという事を知ると明石の心は躍った。足柄も一緒になって喜んでくれるのか、はしゃぐ明石に合わせて笑みを一層明るくし、装飾豊かな彼女の部屋は談笑に似合う爽やかで心地良い空気によって満たされていく。
それを楽しむ様に明石は写真立てを次々に明石に手渡し、決して分身と乗組んだ人間のみで彩られただけでは無い自慢の思い出を披露していった。
『うわぁ〜。この、綺麗な外人さん。ど、どこの海軍の方ですかぁ? この、足柄さんの隣に立ってる、ネクタイしてる艦魂。』
『ああ、べっぴんだよねえ。イカつい名前してるくせに。それはネルソンって艦魂で、まあ正確には違うけどイギリス海軍の親玉だよ。ウチらで言う長門さん辺りの艦魂で、まあその分身も長門さんに負けず劣らずの大戦艦でね。おまけに朝日軍医中将と敷島さんを足して2で割った様な性格でさ。絵に描いたみたいな英国淑女って感じで、凄いのなんの。』
『じゃあ、ここに写ってる艦魂って、軍装が違いますけど全部イギリス海軍なんですか?』
『いや、違うよ。軍装が違うのは、この時のワタシみたいに英国以外の国から招待された海軍の艦魂達だからだよ。ネルソンの逆側で帽子抱えてるのは、オランダ海軍巡洋艦のジャワ。その隣で横向いてる黒髪の子は、フランス海軍のダンケルク。こいつの分身もまたドでかい、そんでもってあの時の最新鋭の戦艦でさ。あはは、ネルソンやフッドと握手してた時は火花散らしてたなあ。』
おしゃべりで補足された写真を見るに、どうやら足柄は現地で相当数の異国の友人を得た様で、当然それは彼女の持つ豊富な知識と確かな語学力の成せる業だったのは疑い余地も無い。聞けば今しがた名の上がったジャワやダンケルクらも、母国語ではなく英語を使ってこの時は会話していたとの事で、ずっと前に朝日が口にした『母国語しか話せない海軍士官などいない。』という言葉が決して誇張ではない上に、人間達のみに関わる話でもなかった事を明石は理解。
まだまだ自身の英語の成績は良くないが、もし仮に優等へと到達してもそれは全く特別な事でもなんでもない。海軍艦艇の命として、できて当たり前なスキルなのであった。
師匠の卓見というか、先見性というか、ずっと以前に言ってた事が何某かを学ぶ際に悉く的中するのには毎度毎度驚かされる。実力の面で先は長いと思えたものの絶望感や徒労感は全く明石には湧かず、むしろ一段と増した師匠への尊敬の念が英語に対する苦手意識の払拭を後押してくれた。それに元々がひょうきんな人柄の足柄が語る異国の体験談はとても面白く、欧州にて奮闘した先代の気分を疑似的に明石も体験している様な気分にもなれる。
がぜん食い入る様にして手渡される写真に好奇心を注ぎ、足柄の声を受けてはしゃぐ姿を激しくしていく明石だったが、やがて彼女は足柄の分身とは別の、とある軍艦の写真がそこに何枚か存在している事に気付く。艦魂である足柄を捉えた写真にも、彼女とは別に同じ顔立ちの西洋人女性が写っている物が何点か有り、外国の軍艦ながらもなにやら随分と足柄とは縁が深かった艦艇であると推察。すぐに無邪気な表情と声でもって明石は足柄に尋ねてみた。
『あの、この方って、もしかしてこの艦の・・・?』
『ああ〜、その艦魂はドイツ海軍のアドミラル・グラーフ・シュペー。人間由来の長い名前で何個か単語を繋いだ物だけど、日本で言う名字の部分をとってシュペーって呼んでたんだ。艦のみてくれは戦艦みたいなナリしてるけど、ワタシらみたいな一等巡洋艦並みの航行性能も持っててね。実はワタシ、観艦式の後にドイツのキール軍港にも親善訪問したんだけど、そこでも一緒に停泊したんだ。いやー、あの時はたらふくビール飲んで朝までシュペーと話してたなぁ。はははは。』
明石の予想は当たっていた。
足柄はシュペーの思い出を語るや声も手振りも弾ませ始め、はしゃぐ姿はまるで明石の真似をするみたいですらある。カップの紅茶を勢いよく飲み干しても彼女は落ち着く気配は無く、椅子から身を乗り出して写真の中の友を指さしながら思い出語りを続け、面白おかしく話す話術も手伝ってそこにあったであろう愉快さが明石にも易々と伝わってきた。
それ故に必然的に明石はシュペーなる人物の事をより詳しく聞きたいという衝動に押され、大笑いを控えた面持ちで躊躇せずそれを声に変えるが、そんな明石の一言がよもや足柄の笑い声をピタリと止めてしまう。
『このシュペーさん、今でも連絡をとってるんですか? お手紙とかで。』
『・・・・・・。』
『あ、あれ・・・?』
それまで蒸気機関車の煙突の様に明るい声をまき散らしていた足柄は、突如として笑みを浮かべた表情や椅子から僅かに身を乗り出した姿勢を硬直させた。視線も宙に焦点を絞ったままで、困惑しながら明石が声を掛けてもしばしの間反応が無い。初対面以来、ずっと維持されていた賑やかさが瞬時に無くなった足柄の静止っぷりは意外と言うか衝撃と言うか、明石も慌て始めてつい掲げた両手をおろおろとさせるが、足柄は思い出したようにふと小さくため息を放った後、呟く様な声量で静かに、そして短く言った。
『・・・死んだんだよ、シュペーは。』
『え・・・!? な、亡くなられてるん・・・ですか?』
足柄の面白おかしく賑やかな話しぶりに加え、先代による欧州派遣の逸話を身近に感じていた明石は足柄の訪欧の記憶に夢中となり、深く思い入れを抱く事が出来た。さながらその場に自分も同行した様な気分にもなり、写真越しに交歓した相手を見てたので尚更にその傾向は強く、友情を育んだというシュペーも会ってこそいないがその存在は意識の中ではだいぶ近しい物となっていた。足柄がこうも語るならきっと良い人なんだろうなと期待感も膨らませていただけに、その当人が既にこの世を去った人物であると耳にした明石の動揺は小さくは無い。
しかもまた聞けばシュペーの分身たるシュペー艦は、艦齢をまっとうしての解体とか、御国への最後の奉公としての標的艦任務、或いは悪天候や難所海域での遭難といった類で命を散らしたのではなかった。彼女は海軍艦艇たる役目、大型戦闘艦としての使命に励んだ末に敵の刃の下に斬り伏せられてついには自決したのだと、足柄は教えてくれたのである。
『支那方面艦隊ってこれで結構いろんな情報が入って来てね。艦隊旗艦ともなれば尚の事だよ。・・・一昨年だった。シュペーは南米ウルグアイ沖合で作戦行動中、敵対するイギリス海軍の巡洋艦部隊と単艦で交戦してね。かなり奮戦したもののシュペーは満身創痍だったらしくて、たまらず手近な中立国の港に逃げ込んだんだけど逆に閉じ込められちゃってね。乗組員全員を退艦させた後、最後を悟って自沈したんだ。・・・ハハ。いやしくも装甲艦が民間船を相手にできるか、って若い癖にシュペーは張り切ってたんだけど、実際そう言った通りに敵国海軍艦艇と戦って死んだ時、果たしてどう思ったのか・・・。』
『しゅ、シュペーさん、可哀想・・・。』
『そうだね。キール運河の向こうで交歓した仲なら、正直、一度日本に呼んでもてなしてやりたかったよ。』
口を手で覆う明石が目を潤ませ、対する足柄はちょっとだけ歪めた笑みを明石との間に有るテーブルへと落す。足柄の視線の先には今はもう写真越しでしか会えないシュペーの姿が有り、今しがた語った戦死という最後とは似つかわしくない笑顔がそこには写されている。足柄の脳裏にはその際のシュペーの声や仕草がありありと蘇り、その思い出に触れた明石もシュペーの死に大きな悲しみを覚えた。
しかし、そんな中で足柄は微笑みを絶やしてはおらず、訪欧時に最も深く知己を得た友人の最後を偲んでも涙一つ浮かべていない。もちろん悲しいのは明石以上だし、その末期が幸福だっただろうなんて夢にも思ってないものの、友の死に対して足柄は一つの信念を抱いていた。次いでその想いを胸にした故に初対面に近い明石に、縁もゆかりも無い遠き欧州のドイツという国の海軍に属した、シュペーという名の艦魂がいた事を教えてあげたのであった。
鼻で笑うような音で息を整えた後、足柄は写真を手にして静かに口を開く。
『ふふ・・・。さっきキールに行った時に飲んだお話したよね? 朝までビール飲みまくたって。ほんとシュペーは歳の割に張り切った子でさ。お互いいつかこうなるよな、軍艦が分身だから、って二人で話してたんだ。あの子もワタシも大型の航洋戦闘艦だから、いずれは祖国を離れた所で討死だーってね。確かに、生まれて5年も経たない内にホントにそうなっちゃったシュペーの生涯は、可哀想で、理不尽で、儚いよね。でも、それってワタシから見た物だから。死ぬ時に何をどう思ってたかは、当人のシュペーにしか解らない。でもそれで良いと思う。』
足柄は手にした写真から視線を上げ、赤くなった両目の端に涙を湛える明石に顔を向けると、ちょっとだけ引きつった困った様な感じの微笑みを作ってみせる。報せを聞いた際は悲しさと辛さに押し潰されて明石と同じ顔になり、受け止めるのも決して簡単では無かったと訴えるような表情で、無言のままに明石も足柄の胸の内をなんとなく察する事が出来た。
次いでそれ故に足柄が吐露する決意の旨に、彼女はとても強い説得力を感じるのである。
『あんまり出雲先生や朝日軍医中将なんかの前じゃ言えないけどさ、きっとワタシらがそうなるのって早いか遅いかだけなんだよ。本当のトコは、もうちょっとだけお話したかったけど。・・・そして、先に逝ったシュペーに私ができる事は、彼女がいたという事実を伝える事。かつてドイツという国の海軍に、アドミラル・グラーフ・シュペーという名の軍艦がいた。後発の海軍生まれにあっても臆する事無く、大御所のイギリス海軍の観艦式でただ一隻で母国の旗を掲げ、最後は戦って死んだ。そういうのを50年先、100年先にも残るよう、あの観艦式で知己を得た私はする義務が有るのさ。』
だんだんと声に滲む寂しさを消しながら語る足柄。
言い終える頃にはもう陽気でひょうきんないつもの彼女に戻っており、幾つも有る物の中から自身がとっておきとしている写真を手にする姿には、既に友の死が生む負の気持ちは微塵も感じられない。
その写真は観艦式の際に招待国の艦と英国を代表した艦の命達が一堂に会して撮った記念の一枚で、高さを変えた3段の横列に並んだ顔ぶれの中には当の足柄は勿論、話題に上ったネルソンにジャワ、ダンケルク、それらにいずれも劣らぬその他の大勢の艦魂達共に、足柄と肩を組んで撮った一枚で既に明石は顔を見ていたシュペーの姿も有った。
思えばこの場に集った者同士でお互いの縁の結びつきを当時は喜んだものなのに、海軍艦艇という身の上と時流に流されてよもや敵同士として相対せねばならなかったのは、なんという皮肉であろう。第三者としてそれを感じる明石の気持ちは複雑な物で、一概にそこに写る各々の笑顔を肯定的、楽天的に捉えて良い物なのかどうかと僅かな迷いを得てしまう。
しかし足柄はそれでも尚、この英国の観艦式に参加し、そこにいた多くの同族らと親交を結べた事は心底良い思い出になったと心に捉えている様で、その内の一人が悲運の最期を辿ろうともそこは変わってはいないらしい。
おもむろに足柄はポッケからその証拠を取出し、明石の前で示してみせながら声を放つ。
『へへへ。明石ちゃん、ここ。どう、読める?』
『おぅ、英語・・・? こ、これは、えーと。な、ないんてぃーふぉーてぃ・・・。えーぷりーる・・・。あ、去年の4月の日付の手紙、ですかぁ? え? でも、シュペーさん一昨年亡くなってるんじゃぁ・・・?』
『その通り。実はこれね、さっき話したオランダ海軍のジャワって艦魂からの手紙なの。ジャワは今、オランダ海軍の極東艦隊配属艦として蘭印方面で頑張っててさ。世界地図の上でなら指で一跨ぎの距離だから、たまにこうして手紙のやり取りしてるんだ。ワタシらはあの英国国王ジョージ6世戴冠記念観艦式の時、同じ海面で一緒に錨を降ろした仲間。例えこの先敵味方に別れたりしてもさ、言うなれば同期の桜って奴なのよ。』
足柄を含めてあの晴れの日に集った者達を繋ぐ親交は、たった数日間の時間でしか築けていない物ながらも、なんと4年近く経った今でも続いているのだという。悲しい顔だった明石の表情はすぐに驚きへと変わり、解らない単語の方が断然多い文面ながらも足柄が培った社交の一部を垣間見たい一心で懸命に書かれている事を読み解こうとする。対する足柄は明石の好奇心が嬉しい様で、ポッケに忍ばせていた以外にもしまっていた手紙をとりだしてくれ、時折読み方が解らない所を質問する明石に答えてあげたりしながらその様子を見守った。
『ぬぅう〜、こ、これなんて読むんですか? きゅえーん・・・、えりざべつすぅ・・・?』
『クイーン・エリザベス。英国海軍の戦艦の艦魂なんだけど、前の欧州大戦で海戦にも参加してる古強者でさ。しかもすんごい美人なんだな、これが。おまけに女王陛下の敬称つきで名前を貰ってるから、ワタシら海軍艦艇の艦魂にしたら珍しい女の人の名前で呼ばれてるんだよ。エリザベスってさ。人柄も朝日軍医中将みたいに穏やかで皆に慕われててさ。欧州の海軍艦艇の中でもかなり有名な方なのよ。もちろん、ワタシとは戴冠記念観艦式での同窓の仲さ。』
驚いた事に文通を続ける観艦式以来の仲間には、まさにシュペーと刃を交えてその命を奪う側であったイギリス海軍の者もいるらしい。足柄は特にシュペーと親しい間柄だったのでその気持ちは複雑な物だろうと思う所だが、当の本人達にとっては国を超えた同期の間柄という意識が極めて強く、特別負の色合いが濃い感情を持つ事は無いようだ。事実、エリザベスなる英国海軍の艦魂を語る足柄の表情はとても明るく、手紙の内容を訳す口調にも恨みつらみの類は微塵も無かった。
無邪気なくらいに笑みを輝かせながら、足柄は手紙のアチコチに指を沿わせて引き続きあれやこれやと異国の地に見聞した事を明石に話していくのである。
シュペーという友人を失った後にもかかわらず、もしかしたら手紙をやり取りする相手と戦闘海域で砲火を交える間柄になるかもしれないのにもかかわらず、それでもこうして足柄が異国の海軍艦艇を楽しげに語れるのは、それだけ件の観艦式の影響が強かったからだろう。分身たる足柄艦はともかく、その命たる足柄にとっては、ただ単に英国海軍の艦列に混じっただけでも無ければ、度胸自慢や怖いもの見たさな気分で臨んだ訳でも無い。元来が戦うお船である彼女らだから、ややもすればその国籍で敵味方の構図に区別してしまい易い差異なのかもしれないが、これまでの足柄の言動に見る、艦魂達なりに礼式と社交で積み上げた友情を大事にするという所は、明石にとっては物凄く新鮮であり、また綺麗な物として映った。
すると明石の表情もようやく足柄に応えるように明るい物となり、その語りからくる楽しさ、賑やかさに笑みを覗かせると同時に、いつか自分もこの足柄の様に数多くの外国船舶の命達と深い友情で繋がってみたいという憧れが胸の内に湧いてくる。いつの間にか再び両手に拳を作ってお話に夢中になり、率直に自分もそうなってみたいと口に出す明石。
その言葉に大変喜んだ足柄の返答を聞くに、そういう国境を越えた友情というのは彼女の師匠が一番に弟子達に教えたかった事なのだという。
『知ってる、明石ちゃん? 出雲先生はね、かつての日露戦役時に蔚山沖で戦ったウラジオ艦隊の旗艦、ロシアさんをすっごく尊敬してるんだ。今でもね。でも直接話した事は無いし、手紙のやり取りだって一回しかした事ないんだよ。しかもあの戦争の後のロシアは国情が乱れてて、簡単に手紙が届く様な状況に無かったらしくてね。客船や漁船の手も伝ってようやく返ってきた返信は、ロシアさんがもう解体された後だったんだってさ。』
『え? そ、そんな一通の手紙だけで、ロシアさんを尊敬できたでんすかぁ?』
『ああ。そのロシアさんの手紙こそ、出雲先生が社交に物凄く拘る様になった大元なんだ。ワタシを教える時もそれを教科書みたいな扱いにしててさ。この写真と同じ様に額縁に入れて、出雲先生の執務机の上にいっつも飾ってあるんだよ。』
敬愛する師匠のお話をするのに得意げな足柄だが、明石だって朝日の話をしたらこうなるからお互い様と言った所で、ましてやその朝日が一番の旧友だと常々口にしていたのが他ならぬその出雲という艦魂である。これまでのお仕事上や交友関係の中でも稀代の天才という通り名を明石はよく耳にしたし、加えて朝日が心底親しみを覚えているという点も併せて、その出雲とはどういう人物なのか。また一つ興味を持つ対象を増やした明石はその一端に触れるべく、引き続きの足柄の言に耳を澄ます。
足柄は出雲先生から教えを受けるに当たって、その手紙を発起点とする社交の猛勉強が一番の思い出となり、やや古風な言い回しの英語で綴られた上に内容としても礼式溢れる物であったその文面を、すっかり暗記できる程までになったそうだ。その内に咳ばらいをした後、やや声のトーンを抑えながら足柄が翻訳した上で述べる手紙の一言一句に、明石は思わず息を呑むほどの感激を覚えるのだった。
・・・武運拙くリューリック屠られ、その後も母国に勝利の報伝えれなかったは、一に艦隊旗艦たる我の不徳に帰する所なり。いまや我が身、欧州の騒擾の終焉に乗じて解体の末期を得、幾許かの今生の名残と水面に浮かぶのみの中、貴殿による厚恩の文を目にしたはこの老艦の最後を彩る一片の華。
悔いと悲哀はあれども、昔日の戦に恥辱の情は微塵も無し。我、遠き東洋の果てに、世界最強の巡洋艦戦隊と戦えし事を誇りとし、先に眠りを得たる僚艦の下へ参らん。いつかまた相見えし時、剣と砲火の別に再び貴殿と戦える事を願い、独国キールの蒼海より別れを告げん。
かつての我が最強の敵にして、今は一通の文に心通わせた信愛なる友、出雲。
またの逢瀬を。さらば。
『か、感動しましたぁ〜・・・!』
『そ、そんなに泣かないでも。ああ〜、でも出雲先生もこの手紙を見て、時たま目を赤くしてたなあ。』
話に夢中になった故か、どうも今日は感情移入が激しくなった明石は、滂沱の涙に鼻水まで揃えての大泣き顔となった。思わず足柄も困ってしまう程の表情の崩壊は、かつてあった友人同士が迎えた最後の様子をありありと瞼の裏に描けたからで、国境どころか刃を突きつけあった敵味方の境界をも乗り越えての友情に、明石は感極まる程の儚さと、それを覆い尽くすが如き美しさを垣間見た。
そしてその全ては互いの礼式と社交によって成り立った事を、改めて明石は理解。未だ落涙を抑えきれず、下唇を噛んで鼻水を飲むという酷い顔の裏で、一概に外国の海軍艦艇を敵だとか味方だとか決めてかかるのは、悪いと言うよりもとても残念な考え方なんだと思った。なまじ以前に敷島より海軍艦艇の命としての役目を諭され、初の実務作戦参加とあって周囲から心構えを整えておくよう言われていた手前もあって、今日この日、足柄とこの様な話をせねば彼女は、この先幾度となく有るであろう幾多の逢瀬において敵味方を問うだけのつまらない場面とするばかりだっただろう。
転じて明石はこの時、今しがた聞いたばかりの出雲とロシア、英国の観艦式でその場を共にした者達と日本海軍の仲間達以上の絆を持つに至った足柄の様な出会いを逃したくは無いと強く意識。その為の手段である万国に通ずる礼式と社交の土台として、英語はしっかり学ばねばと決意を新たにするのだった。
『はははは。よーし、明石。そろそろ英語のお勉強、再開しよっか。』
『は、はいぃ〜・・・! 私、が、頑張りますぅ〜・・・!』
『は〜ん。ずいぶん派手に泣くもんだね、こりゃ。ま、でも為になったみたいで良かった良かった。』
もちろん決意如何で英語の成績がすぐに良くなるなんて事は無いものの、その日より英語を苦手科目と苦にする事は無くなった明石だった。