第一五五話 「三亜着」
明石艦が海南島の岸を目指して波間を掛ける頃より、ちょっと時を遡った7月3日。
帝都東京の霞ヶ関は、恐れ多くも天皇陛下の御稜威輝く宮城のお膝元にして、古くは各藩大名の御屋敷が立ち並び、明治の頃には省庁施設も設置されて栄えた官庁街。信号や街頭が小奇麗に整備された広い道路には煉瓦造りの絢爛な建物が軒を連ね、背広に袖を通した男達が馬車や自動車に乗って往来する光景が広がる高貴な街である。
その中には天下の帝国海軍の本家屋敷、海軍省の赤煉瓦の壁が独特な朱色を輝かせて佇んでいた。
転じてこの日、そんな赤煉瓦の壁の内側では、二種軍装を纏った多くの海軍士官達がとある会議室へとドアを開けて入って行く姿が有る。彼等の顔ぶれには中年、壮年の顔立ちが目立ち、佐官以上の襟章ばかりがそれぞれに付された辺りを見ても、それが帝国海軍のお偉方である事は明白である。各々の険しい顔立ちは海軍軍人として皆これ以上ないくらいに厳しさを味わい、その道を極めてきた経歴を持っているからに他ならず、己が双肩と職務に帝国の将来が掛かっている事を普段から肝に銘じている面々でもある。
やがて男達の姿が完全に室内へと消え、小さく音を立ててドアが閉まると廊下は早くも静寂で満たされ始めていく。木目の色合いもだいぶ年季が入り、黒くくすんだ箇所も見受けられる黄金色のドアノブが備えられた両開きのドアもその静寂を守り、只今より室内で海軍の幹部による会議が行われるという事をその場で教えてくれるのは、ドアの横に張られた会議室の使用予定表だけであった。
「省部臨時局部長会報」
軍事組織における重役会議というだけあって、その名前はとても厳めしい。
ただこの会議。一応はこれまでに何度も実施されてきた事の有る物で、実際に本日参加している面々で未経験だという人物は皆無である。それに内容としては海軍の戦策や軍備等の詳細を詰めたりする様な物は殆どなく、国策と国政が関わった上での海軍の方針を主要幹部達に周知させるという側面がだいぶ強い。陛下ご臨席の上での御前会議で決まった事なんかもよくこの場で知らされるもので、本日の会議もまたその例に漏れず、先日7月1日の御前会議で決定となった事項が幹部達に言い渡される予定だった。
恐れ多くも畏き大元帥陛下のご決断だと皆平伏する勢いで黙ってその話を聞き入り、ましてやその御前会議に海軍の代表格、海軍大臣として出席した及川海軍大臣までもが同席しているので、参加者全員が基本的に清聴の姿勢を示すのは当然と言えば当然だった。
だがその日は違った。
先日の御前会議で決まった、いわゆる「南部仏印進駐」の話が伝達された直後、宙を切り裂く矢の如き音色の怒声が突然会議室には轟いたのである。
『そのような対米戦争に直結する一大事に、海軍が簡単に同意したのはどういう事か!? 私の所管する航空戦備は全く出来ていない! なぜ、事前に我々の意見を聞かないのか!? 大臣、次官、答えて頂きたい!!』
一瞬にして凍りついた会議室の中、中央に鎮座する長机の周りからは席に着いた男達全員の視線が一点のみへと放たれている。
次いでその一点たる長机の端辺りでは見開いた瞳を鋭い目に据え、額には青筋を浮かび上がらせて憤怒の表情を作る初老の海軍軍人がおり、細めの身体つきながらも巨大な水柱を思わせるその怒声の迫力は生半可な物では無かった。彼の肌もあらわな坊主頭と鼻の下に蓄えられた髭等の特徴は、場を同じくする者達の中にも多いものの怖い上司像そのままで、その怒声と眼光の矛先は長机の反対側の端、この室内で一番偉い人物が座る上座へと向けられていた。
まさに燃える様な怒りが顔色にも姿にも声にも如実に表れたこの初老の海軍軍人の名は、井上成美。この海軍省の外局たる航空本部という部署でその長たる立場を務めている男で、以前に横須賀で失意を味わいつつあった忠を諭してくれた人物でもある。その際にも漏らしていた一方ならぬ海軍への想いと考えに衰えは無く、階級もキャリアも上の及川海軍大臣、澤本海軍次官を相手にしてもそこは変わらなかった。
対して及川大臣は井上の咆哮を受けるや、恰幅の良い身体を僅かに捩じって隣の席にいる澤本次官と顔を合わせると、苦い物を噛んだような表情を浮かべてみせる。実は井上のこういう所はその世代の海軍軍人らの間では結構有名で、己が得心のできない物事に対しては今の様に断固として、そして激しく抗ってみせるという行動を過去に何度もとってきた。立場の上下や職域もお構いなしで、辞表を叩きつけて反対意見を唱えるという強硬策を用いるのも、その経歴上では一度や二度の話では無かった。
またうるさいのが騒ぎ始めたナァ・・・。
及川大臣も澤本次官も、そんな言葉を瞬間脳裏に過らせる。
だがその刹那、井上の声に続いてまたしても二人を責める怒号が室内には木霊する。声を発したのは井上のすぐ横の席に座り、中肉中背の身体つきに切れ長の目を鋭くしている豊田副武艦政本部長で、机を叩きながら吐くその物言いは井上のそれよりもだいぶ強い勢いとなっていた。
『井上君の後でなんだが、私もはっきり言わせてもらう! 私は御前会議当日は出張中だったが、そんな重大事項が決まったというのになんで出先に電報をよこさないんだ!? もし事前に耳にできてたら引き返してでも反対するつもりだった! 航本部長と同じく、艦政本部としても艦艇関連の戦備は全くもって整っていないんだぞ!? こう決まったから後はよろしくとか、ふざけてるにも程が有る! 艦本部長は海軍の番頭か何かだと思ってんのか!?』
頭ごなしに怒鳴りつける様な格好の豊田の言葉は実に厳しく、その迫力に周囲の席の者達は青ざめた表情で凍りついてしまう。及川大臣と澤本次官は相次ぐ激しい批判に、いよいよ場の空気が張り詰めてしまった事を察して狼狽えを覚えるが、それは井上と豊田の激昂にたじろいだとか、その怒号の迫力に戦慄したからという様な簡単な理由で起きた物ではない。
実の所、御前会議に出席したこの二人も意見の根本は両部下と同じであり、陛下の前で思った事をそのまま口にして良いのなら似た様な内容で奏上したかったのも山々であった。大臣、次官共に種々の事情を勘案して已むに已まれぬ上での決断の末にこういう次第となったのであって、その責任も十二分に自覚している故に彼等は大いに憤慨する井上と豊田に釈明の言を述べる事にする。
『う、うむ・・・。確かに、やり方を間違えると大事になる可能性は高い。それは私も承知しているよ。独ソ戦線の生起と支那事変の趨勢といった国際情勢とその中にある日本の事を考えれば、本方策は妥当との見通しが陸軍から出されているが、なにせそれが北にも南にもという具合でね。とにかく際限を明確化し、仏印進駐という程度で線を引かねば、とても抑えきれないと考えたんだよ。それに海軍としての意思統一に時間をかけると国策上の意味で陸軍に下駄を預ける口実を与えかねないから、早急に応じる必要もあったんだ。次官からも話は行っていると思うんだが、この・・・。』
諭すようにそう言っていた及川大臣だが、刹那、彼の発言は長机が放つ衝撃音によって遮られる。振り上げた拳を激しく打ち付け、まるで子供を頭ごなしに叱り飛ばす様な勢いで声を荒げたのは、より一層眉を吊り上げた井上であった。
『そんな事で大臣が務まりますか! 今回の一件、とりわけ南部仏印進駐の如きに文句を言ったのは手続き上の問題ではありません! 事柄が重大過ぎるんですよ!』
上司相手でも己の信念を通し、憤怒に駆られた歯に衣着せぬ物言いで迫る姿勢の持ち主として、文字通り人知れずの帝国海軍艦魂社会に神通在りならば、海軍軍人の中にはこの井上在りと言った所か。なんとか宥めて落ち着かせようと及び腰の上司に対する井上の言は熾烈を極め、そこに同調する豊田を始めとする一部の参加者達の声も加わって、この日の会議は終始怒号がドアの隙間より廊下まで漏れる次第となった。
しかし、井上らの非難の矢面に立つ及川大臣、澤本次官の存在、そして及川大臣が釈明の言に混ぜた陸軍の一派を別としても、事態がこうまで紛糾したその裏の要因には、井上が危惧する対米戦争への突入を肯定的に捉える輩の存在が有った。ましてやその輩は他のどこでも無い、彼らが集うこの霞ヶ関の赤煉瓦、すなわち海軍省の中に居て、各々の立場の範囲で海軍の針路を操ろうと動いていたのが実情である。
決して及川大臣、澤本次官が独断的に勝手に決めた事でこそなかったが、同時に帝国海軍がその総意として「それは米国との緊張を戦争状態まで持っていく事になる。ダメ、絶対ダメ。」と胸を張って主張するのをも封じる形となってしまっていた。
転じてそのツケは、300万以上の同胞の犠牲を要求する大惨劇として具現化する。日本という国家が船出を始めて以来、最大級の規模を持つ渦と遭遇し、飲み込まれる危険性がいよいよ眼前に展開されんとする場面において、世界屈指の実力を持つ栄えある帝国海軍は、組織としての抗うという選択肢をついに発揮する事は無かったのだった。
さて再び時計を進めて、時は7月22日。
明石艦を含めた連合艦隊仏印派出部隊は、しばらくの航海を経てようやく海南島の三亜に到着。白い砂浜に緑の波間、風と戯れ揺れるヤシの木陰もよく映える絵に描いた様な南国の風景がそこには広がり、世間一般の日本人の目から見れば中国というよりももっと南の南洋の島々辺りに抱くイメージが色濃い場所であった。もっとも地理的にここはちょうど太平洋方面と南支那海の関所に位置し、バシー海峡もほど近い上に東洋のジブラルタルとも呼ばれるシンガポールも南には有るので、風光明媚な景色とは裏腹に古来より交通と流通と軍事の関係も深い。支那海岸線の封鎖を企図する帝国にあって一昨年に海軍の強い要望でここを占領したのもその為であり、現に明石艦がここを目指してはるばる内地からやってきたのは、ここが南部仏印派遣の陸海軍部隊の集結地と設定されているからである。
その証拠に三亜付近のとある湾では、本作戦は勿論、この南支一帯を管轄地域とする支那方面艦隊の隷下艦隊に属する海軍艦艇と、陸軍の装備や人員を乗せた数十隻に及ぶ徴用船舶でごった返し、足の踏み場、もとい錨鎖を穿つ海面を見つけるのも一苦労と言っても過言ではないくらいの大賑わい状態。当地を管轄する支那方面艦隊隷下、第二遣支艦隊司令部からの案内が無ければ、明石艦は到着初日を泊地探しだけで一日費やす事、間違いなしであった。
二航戦と七戦隊、次いで明石艦の7隻は多くの停泊艦船の合間を縫う様にして湾の奥へと進んでいき、やがてそこに周囲と同じく錨を降ろしている第二遣支艦隊旗艦の足柄艦の近くまできて投錨。ここに至ってようやく現地到着となった。
するとすぐに始まるのは、艦長さんや戦隊司令官らのお偉方を足柄艦長官公室に呼んでの打ち合わせや顔合わせである。足柄艦、正確には艦内に居を構える第二遣支艦隊司令部は本作戦行動の全てを指揮する部署であり、挨拶と顔合わせ程度に留まらず今後の事について整合をとるという面が主だ。
明石艦でも投錨が終わると早速内火艇が降ろされ、伊藤特務艦長が乗って艦を離れていく姿が有る。工作艦なんていう極めて特殊な役割を持つ海軍艦艇なので、他の立派な戦闘艦艇らとは当然色々と違いが出てくるし、戦地にも等しい海域における行動となれば尚更に諸々の事情の事前整合は大事になってくる。三亜の水面に揺られる内火艇の中、敷物が敷かれた所定の席に腰かける伊藤特務艦長の表情が至って真面目なのも、その双肩に掛かる物がとても大事である事をよく理解しているからだった。
一方、艦の命達もこの辺りは人間達と同様で、明石は七戦隊の最上姉妹、二航戦の蒼龍姉妹らと一緒になって足柄艦の甲板へと出向いた。
足柄艦は第二艦隊第五戦隊所属の妙高艦と同型の艦型で、細部の違いはあれども傍目からでは明石らにとっては随分と見慣れた感も有る見てくれを持っている。だが日夜実戦の場で活動する艦隊の旗艦というだけあって、彼女らが来る前から甲板では隷下部隊の者らしき下士官の軍装に袖を通した艦魂が一名控えており、その内に明石らの姿を見つけると近寄ってきて慣れた手つきの敬礼をしながら案内を申し出てきた。
第二艦隊の艦魂達の間ではこういうのは無かったので、初めての明石にはとても新鮮である。
『皆様、ご苦労様です。三四駆の太刀風一曹です。南支方面へようこそ。艦隊旗艦、足柄少将の下までご案内いたします。』
『あー、どうも。二艦七戦、戦隊旗艦の熊野大尉です。願いますよ。』
『一航艦二航戦の蒼龍です。よろしく。』
『あ、連合艦隊付属の明石軍医少尉ですぅ。こんにちは。』
こうして明石ら御一行は三亜の混雑に迷う事無く足柄艦の命にして、今回の一連の作戦では艦魂社会という枠ながらもその全てを統べる事になる足柄を訪ねる。
姉妹艦四隻の中でも足柄艦と妙高艦のみが持つ長官公室は、本物の艦隊司令部、すなわち第二遣支艦隊司令部の男達が実際に使っているので、案内された先がいかにも使われていなさそうな倉庫へと続く扉の前だったのは言わずもがな。ちょっと貧乏くさいと言うか、安っぽいと言うか、艦魂さん達の泣ける一面であるのだが、もう殆ど慣れてしまった明石らにしたら大した問題では無い。きっと人間達には見えないだろうが、その分厚い金属の扉の横には、どこから調達したのか使い古した木甲板の板が一枚掲げられ、中々達筆な筆さばきで「2CF艦隊旗艦室」と大書されていた。
その光景に見る物々しさと、荒々しさみたいな感じは幾度もの戦地を潜り抜けてきた足柄艦の歴戦ぶりをよく表現しており、明石らは入出する前に一様に表情と心を律する。恐らくは足柄は第二艦隊で一緒に励む妙高や那智の様に20代前半から半ばくらいの顔立ちながらも、艦魂として質実剛健に違いなく、戦に慣れた点ではあの神通すらも凌ぐだろうと考え、お互いに見合って覚悟を確認した後、明石ら7人は意を決してそのドアをノックする。
もっともそんな彼女達の予想は大ハズレであった。
『Hi! Welcome. Thanks for coming. I'm flag ship,Asigara. Nice to meet you.』
ドアを開けた瞬間、部屋の奥にある机から立ち上がって歩み寄り、随分と流暢な英語で話しかけてくる女性に全員が目を点にした。
明石らと同じ純白に金ボタンが映える士官用の第二種軍装に袖を通し、20代半ばくらいの女性の顔立ちは予想の範疇で、ヘアーピンを使って頭の輪郭に沿う様に小奇麗にまとめた短めの黒髪は雪風や金剛と比べたら印象は薄いし、150センチ台という身の丈も比較的大柄な女性が多い艦魂社会にしたら際立つという代物でも無い。まだまだ未熟な新米艦魂の明石ですら160センチ後半の身長を持っている。
どうも予想していた「戦慣れ」とか「歴戦の士」という感じが微塵も感じられない出で立ちで、子供の様な明るい笑顔は眩しい程である。その口より放たれた英語の中に一応は名を名乗っていて、ドが付く程に英語が下手な明石もそこだけは捉えている。
彼女こそこの足柄艦の命である、足柄その人であるのだ。
おかげで明石らは一様に面食らってしまい、予想とのギャップと次から次へと英語で話しかけられるという事に思考は一時停止状態。唖然とした表情もそのままにたどたどしい声で応じる。
『あ、あの・・・、足柄少将、ですよね・・・?』
『私達、えと・・・、連合艦隊から派遣されてきたのですが・・・。』
『I know,I know. How was your voyage? you're tired,Huh?』
『最上、英語じゃないとダメなんじゃないかな・・・?』
『えーと。アィ・・・じゃなかった。ウィアー、ケイムフロム、グランドフリートゥ。あ〜、アイム最上。ビロングトゥ、ツーエフセベネス。』
一応は明石達御一行の中で最年長だった最上は、姉妹らから背を押される形となりながら英語での応答を試みた。確かに明石なんかと比べたら英語のお勉強はずっと先を行っている彼女であるが、内地で第二艦隊所属の精鋭巡洋艦戦隊の一翼として訓練漬けだった上に外国人、もとい外国船籍のお船の命と会話した経験も貧しかった為、その返答はお世辞にも発音の良い英語とはなっていない。当の最上ですら心臓の鼓動をやけに意識してしまう状態で必死に言葉を繋いでみたのだが、おかげさまで足柄はようやく今の今まで?わざと?続けていた英語による語りかけをやめる事が出来た。
小さく涙を目じりに蓄えて抱腹しながらの姿でだ。
『・・・ぷっ!! わーはっはははは!! どひゃー、こりゃ参った! 楽しい英語だねえ、最上のは! ぷぎゃーはははっ!!』
『うう・・・。わ、笑われた・・・。』
『も、最上さ〜ん・・・。』
聞き慣れた日本語で今度は話しかけてくれた足柄だが、その内に指をさしての大笑いで最上の表情を雨模様の方向へと誘っていってしまう。年長らしい所を意識して健気に、次いで必死に頑張った苦労が先輩からの嘲笑の対象では無理も無く、赤っ恥の言葉そのままに顔を赤くして今にも泣きそうな顔の最上は気の毒と言うより他ない。 もっとも、足柄はただ笑い上戸なだけで最上の不出来を殊更に悪く言う企図は無いし、第一線たるこの地で艦隊旗艦を務める程の人物なら後輩を嘲るなんてつもりは微塵も無かった。ましてや帝国海軍艦魂社会の生き字引にして、その歴史上で稀代の天才と皆が認める出雲が是非とも、自身が旗艦を務める支那方面艦隊配属としてくれと方々に手を尽くしたほどの逸材が彼女である。最上を良い様にからかって終わりにする訳は無く、むしろ今しがたのやりとりで認めた物を早速全員への教訓としてみせる言を、ようやく笑いが治まってきた頃合いに口にするのである。
『いや〜、ごめんごめん。ちょっと皆の英語の実力を見るために一芝居打ったんだ。七戦隊の最上ちゃんだよね。大丈夫、今の発音でも名前と意味はちゃーんと通じたから。でも、内地の気分じゃだめだよ。ここはもう外国なんだ。すぐ近くの香港やマカオは横浜や神戸以上の大都会なんだし、外国船舶の多さは本邦近海とじゃ比べ物にならないよ。特に300年以上も歴史を積んでるフランスやオランダ、イギリスの海軍艦艇の艦魂達なんてね、二ヶ国語、三ヶ国語なんて当たり前なんだから。ワタシ以上に大笑いされたくなきゃ、英語くらいはしっかり覚えておくようにね。』
足柄はとても気さくな話し方で笑みを皆に向け、泣く一歩手前の最上の肩に手を置いて歓迎と労りの心を伝えた。その接し方は上司とか先輩とかというよりも友達に近い感覚さえも有り、初対面の筈の明石達でもなんだか親近感が湧いてくる。
笑い上戸な面も含めて人柄としての魅力なのだろうか、整った若い女性の顔立ちに笑顔がよく似合い、軽やかでどこかふざけた様な感じもする話し方は、明石達が常日頃よりお世話になっている第二艦隊旗艦の高雄に共通する物であるが、それもその筈。なぜなら足柄は高雄とは同門の出で、姉弟子の関係に当たる。
言わずもがな、そのお師匠様は何事にもユーモアのセンスを第一としつつ、その経歴にて海軍艦艇としての実戦、そして社交の面で超一流を披露し続ける出雲であった。
しかもこの足柄は特にお師匠様の社交の面を、その多くの弟子達の中でも一番に色濃く身に着けた者で、知識だけではなく実践の場においても既に生涯の白眉と例える事の出来る経歴を得ている。
時は昭和12年。英国国王の戴冠式に伴って英国で催される特別観艦式に、足柄の分身である足柄艦はなんと日本海軍代表としてただ一隻参加した事が有るのだ。伝統有る英国海軍主催のこの観艦式は世界最強を争える実力を持つ英海軍の主力艦ほぼ全てが集い、その他の西洋列強諸国の海軍艦艇も漏れなく参加艦艇を繰り出すという代物で、軍艦による国際連合会議もかくやの様相を呈す大舞台。誤解を恐れず言えば世界最大で最も格式が高い観艦式であり、その参加は艦にとっても乗組員達にとっても非常に名誉ある任務となる。
そしてこの参加が決まった頃より、足柄は出雲から英語は当然の事、英国の文化や風俗、交歓の場での作法や礼儀、立ち振る舞い等々の知識を、深夜にまで及ぶ連日の個人授業でみっちりと叩き込まれ、晴れの舞台である英国への旅路とついたのである。前の欧州大戦時に西は地中海、東は南米の東海岸へと縦横無尽に駆け、その場に有ったであろう艦の命としての社交の場を、持ち前の7ヶ国語を操るという頭脳でもって乗り越えてきたという出雲の薫陶は見事に花咲き、戴冠記念観艦式での足柄は各国海軍の艦魂達から極めて高い評価を受ける事に成功。当時世界でも最優良の条約型巡洋艦という出自も手伝って足柄の周りには艦魂達の人だかりが出来たほどで、栄えある大英帝国海軍の戦艦の艦魂相手に渡り合う語学力とその姿は相手の艦魂達が舌を巻くくらいであった。
『ミスアシガラ、ブリテンの地にようこそ。ジェーン年鑑で改装前の御姿だけは拝見させてもらっていたが、実に豊富な武装をお持ちですね。さながら海を行く、強く獰猛な狼の様だ。長い旅路はつらかったでしょうに。』
『ミスネルソン、偉大な提督の名を受け継がれた貴女に会えるのは光栄です。仰る通りで私の分身の中は少々手狭ですが、我々日本人は体格が小さいのでそれほどでも。貴女の分身も独創性に溢れ素晴らしく、そして美しいですね。我が海軍でも注目の的でして、長門や陸奥からも是非によろしく伝えてくれと言われております。一昔前でしたら、間違いなく御姉妹か御親戚を我が日本海軍にお迎えしていた所です。』
これは当時、観艦式の式場海域たるスピッドヘッド沖にて、足柄が英海軍最新鋭戦艦のネルソン艦の艦魂と握手を交えた際の会話である。一見すると言葉遣いに品も備わり、お互いに交歓を楽しんでいるかの様に見えるが、ネルソンの背後に付き従ってきた他の英海軍の艦魂達はその裏に隠された応酬を察する。
『ほっ。よお、カーディフ。あの日本のアシガラって奴、笑いながらネルソンさんの皮肉をその場で返しやがった。中々日本人もやるもんだな。』
『コヴェントリー、口を慎みなさい。・・・それに応じるどころか、皮肉その物まで返してきてるわ。日本海軍にお迎えしたかった、と。』
『あん? 別に先代や先々代の王様の時から、あの国にゃおれっちのトコから何隻も嫁に行ってるじゃねーか。ロシアの連中やっつけたのもそいつらだろ?』
『〝一昔前なら〟って付け加えてね。・・・今ならその必要はない。もっと言えば、より強い艦を自分の国で誕生させれると言ってるのよ。ビッグ7の一人であるネルソンさんを相手に、大した物だわ・・・。』
本音と建て前を巧みな話術と態度で表しつつも、険悪な空気を微塵も注がない様に応じる足柄の姿勢は、英国海軍の艦魂達が日々求める英国淑女の理想像に極めて近い物であった。もちろんそれは英国の出身である師より特に念入りに教えられていた故の事で、ネルソンを始めとした英国海軍艦魂社会における日本海軍へと向ける目をたった一人で改めさせたのである。
人間の世界でも海軍士官たる身分の者は、一流の軍人であると同時に外交官でもあると言われる事もあるが、その意味で足柄は一流の外交官、社交人として申し分は無い。次いでそんな彼女に諭されたと考えれば、この地は既に外国で英語は極めて重要であるという先程の話にも随分と説得力が感じられる。
大笑いされた最上も早速勉強になったと大きく頷く飛龍も、そして英語の実力には物凄く自信が無い明石も、ひょうきんそうに見える足柄がある面ではとてつもない修羅場を潜り抜けて来たんだなと今更ながらに感服し、入室以来続くその笑みに今日からの行動における意気込みを各々が新たにした。
やがて明石達は改めて挨拶がてら足柄に対して自己紹介をし始めるのだが、いよいよ明石の番となった所で予想だにしない言葉が彼女に返って来る。
『おおー。軍医少尉ってのは君かあ、明石ちゃん。軍医中将がこっちにいる時に一度お話を聞いてたんだ。ワタシ、今日はこの後の予定が無くてね。夕飯までまだ時間も有るし、さっそく始めよっか。英語のお勉強。』
『うえ!? え、英語ですか・・・?』
『はい。Repeat after me! English!』
『い、いんぐりゅっしゅ・・・。』
『・・・わ〜お、なんてこったい。上海で売ってる九官鳥の方がそれっぽいぞ、こりゃ。明石ちゃんがこの中で一番下手じゃ〜ん。』
『が〜ん・・・。』
終始、拳銃でも持つようにして親指と人指し指を立てた両手と満面の笑みを向けて、喜劇役者もさながらの楽しそうな声で話す足柄。長門がよく使う感じの緩いしゃべり方はとても上官が部下に対して用いる物とは思えず、指摘をする割に悪気とかはまったくもって感じられなかったが、作戦部隊合流初日に弱点の英語の実力を看破されて明石の心は急転直下。すぐさま足柄が『大丈夫。よく使いそうな所を見繕ってワタシが教えてあげるから。』と肩を叩いて言ってくれなければ、声を上げて泣きたい所だった。
これも住み慣れた日本を離れて外国地に来た故かと一応は腹をくくり、背伸びしないでこの機会にもっと英語を学ぼうと崩れそうな気持ちを縛りつつも、久々に己の未熟さを痛感する機会を得た明石であった。