表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
154/171

第一五四話 「南方へ」

 昭和16年7月12日。

 艦隊訓練を終えた後より九州有明湾で待機の上、ふ号作戦の為の準備をしていた複数の艦艇は、この日をもって作戦地域に赴くべく全艦抜錨。降ろされた艦首旗に代わって艦尾旗竿の軍艦旗が潮風に舞い、しばしの逗留で幾分見慣れた感も湧く有明湾の緑の岸を後にしていった。


 この艦船群は空母2隻と一等巡洋艦4隻が主力で、そこに特務艦である明石(あかし)艦が混じって航行するという、ちょっと最近では希な光景になっている。しかしながら巡洋艦も空母も、そして明石艦もまた全て帝国海軍最新鋭の艦艇で、栄えある帝国海軍の艦隊が航行する姿としてはやや侘しい所もある反面、それぞれが最先端科学技術の結晶として晴天の海原に輝きを放つ。真新しいこもごもの艦体は、有明湾での待機準備中に各艦の乗組員らの手によって磨きに磨かれていたのでさらに具合が良く、行き交う民間船舶からの視線を釘付けにしての航海となった。




 一方、明石艦では演習以外では初めての作戦参加という事もあり、乗組みの水兵さんから士官に至るまで手空きの者は色々な準備作業や小講和などに勤しんでいる姿が見受けられる。また一端の作戦兵力に組み込まれたのが初めてなら実は南方方面に行くのすらも明石艦は初めてであり、せいぜい台湾辺りが関の山だったこれまでとは異なる気候がそこに待っているであろう事は明白である。


 だから暑さ対策という物が講じられるのは至極当然の事で、その初歩として士官から水兵さんにまで及んで取り組まれたのは被服類の準備であった。




『おおぉ〜。これが防暑服かぁ。』


 士官寝室が並ぶ中甲板の一角。

 正確には(ただし)が寝起きしている一室にてそんな声を上げたのは、白い半袖の上衣を目の前に掲げてまじまじと眺めている明石である。士官のお部屋と言えど下っ端である相方の部屋は狭い物で、2段ベッドと小さな机に椅子が有るのみにも関わらず足を運ぶ隙間は一人が通るのがやっとというくらいしかなく、椅子に座った明石のすぐ横にはベッドに腰掛けた忠の姿が有る始末。手を伸ばしたなら当たらない方が難しい程の窮屈さで、上体を動かして服を上下左右から観察する明石の仕草に部屋の主たる忠は少々遠慮気味になっている。

 もっとも彼は嫌ではない。

 いつもの優男の顔立ちに微笑を浮かべ、摩訶不思議な人外の存在である明石をほぼ彼だけが見えるという奇妙な特権には今更ながら悪い気はしないし、一方ならぬ想いを抱く彼女と間近で接する事が出来るのならば尚更に気分は良い。やや伸び始めた坊主頭を片手で掻いてほのかに湧く照れを紛らわしながら、丸い目を爛々と輝かせて興味津々の明石の横顔に積極的に声を掛けていく。


『ん〜。オレもあんまり着た事ないんだよね、それ。明石は持ってなかったの?』

『うん。初めて見た。飛龍(ひりゅう)に教えてもらうまで知らなかったよ。』


 どうやら彼女は防暑服について初見だったらしい。

 元々好奇心が強くて新しい物、珍しい物には常に興味津々となる人柄も加わり、明石は相方がすぐそこに居ても顔どころか視線すらも送らず、傾けたりひっくり返したりして防暑服をじっくり観察するばかりである。

 それには礼装のような煌びやかさは無く、平たく言えば半袖短パンの結構一般的というか庶民的な服で、もし海軍の襟章が付いていなければまるで雑誌なんかに載ってそうな南方秘境探検隊もかくやの服にも見えてしまう。とは言え、茹だる様な暑さに苛まれる南方、つまりは東南アジア方面では、こんな感じの服でないと健康にも害が出るのはほぼ間違いない。洋上と言えども気温が上がる日中に長袖の二種軍装なんか着てたら熱中症でぶっ倒れてしまうのは確実で、そも節水が極めて厳格に守られる海軍艦艇の中なら併せ技で脱水症状の危険もすぐ傍に有る。

 故に見てくれとしてちょっと軍人らしからぬ物でも極めて大事な服装であり、艦艇の行動する先で乗組員一人一人の命にも係わると言ってもこ過言では無い程の重要さを持っているのである。


 その意味を艦魂ながら一応は医者を目指している明石が解らぬ筈も無い。過剰なくらいに大きく何度も頷くとパッと笑みを咲かせ、忠の方にその顔を向けてくる。持ち前の突発的で、やや普通という枠から外れた物言いをするのもそれに続いた。


『森さん、これ欲しい!』

『ええ? だってオレ着る奴だよ?』

『だからだよ。背格好ちょうど同じじゃん、私と森さん。ちょーだい!』


 忠の部屋で忠のトランクから出てきた防暑服は、言うまでも無く忠が一乗組みの海軍中尉として袖を通す為に有る物だ。ましてや水兵さんや下士官みたいに、俸給を別にした形で海軍から支給された品ではない。

 彼も含めて栄えある帝国海軍の士官たる人々は軍装は勿論、軍帽や肌着の類は全部自弁であり、各々が集う士官室や士官次室の備品、果ては一日3度の飯にいたるまで全て自らのお給料から支出している。高給取りと世間からは思われ、実際に水兵さん達に比べたら額こそ多いのだが、それに比例して実は結構出費も多いので、特に忠みたいな若手の士官らの生活はとりたてて豪勢という程でも無い。事実、彼の同期で幸か不幸か司令部付きの立場になってしまった者は、佐官クラスのお偉方による会食や宴会に従う事もしばしばでより一層の出費に苛まれる事になっている。

 意外に知られぬ士官さんのお財布事情であり、翻って忠もまた全く金持ちな訳ではなかった。「軍人は質素を旨とすべし。」という軍人勅諭の一節を地で行く、もとい行かざるを得ない日々を過ごしているのであり、その意味でいくらなんでも明石にホイっと自身の軍装を渡す筈がなかった。


『ダメダメ。一着しかないんだし、一式欠だったらオレが怒られちゃうよ。』

『ぅんもぉ〜。酒保には売ってないだろうしなあ。』


 さも当然のように拝借するのが前提だったらしい明石に、やれやれと溜息をもらす忠だったがその表情からは笑みは消えていない。平気でくれと言いだす彼女のそういう所が、彼には懐かしくも有り、面白くも有り、見れて嬉しかったという感情が無言のままに湧いてくるからだ。

 その後も2、3度に及んで駄々をこねてくる明石を宥めるのには一苦労で、首の後ろにて束ねた髪を振り乱しながら『よこせぇ〜!』等とのたまう攻撃を抑える要も有った事から、彼の被服準備は随分と時間の掛かる物となってしまった。


 もっとも喧嘩の形で終わりはせず、忠が人知れず嬉々としながら笑みを向ける前で、やがて明石は艦魂の能力とやらを用いて忠の防暑服を基に複製を出現させてみせる。淡く白い光を使う奇妙奇天烈この上無い光景に改めて忠は色々と彼女達に疑問を持ちつつも、もはやそういうのに幾分の慣れも抱けているのと同時に自分の防暑服をやっと手に入れたと喜ぶ明石を見てると、そんな疑問なんかどうでもよくなった。


『靴下はこの長いやつで、靴は短靴で大丈夫。手袋はしないよ。』

『なるほどぉ。帽子は略帽で良いの? 日覆つけた軍帽も用意した方が良いのかな?』

『ど、どうだろ。明石達の事だとオレよく解んないなぁ。ま、持ってるに越した事ないんじゃないかな?』


 他愛も無い世間話みたいな形で終始した被服準備の時間は、この後もしばらく続く。

 忠に限っては特に何か有益な知識を得る時間になった訳でも何でも無かったが、自室という状況の中で「妖精さんと話す危険な男」と捉えられる可能性を気にする事無く、吐息まで聞こえるくらいに近い距離で明石と話すのは、ここ最近の彼が最も楽しみとする物であった。もちろんそこには、天真爛漫で無邪気な上に忠相手には殆ど遠慮してくれない、結構わがままな明石の言動が備わっていて困る事もしばしばである。

 おまけに夜にはさも当然のようにお菓子を大量に食わせろと言ってくるので、お財布もかなり寒い状態になってしまっている忠だったが、拒むつもりは更々無い。




 ・・・いっぱい食べる君が好き。




 やがて実際に夕食の時間になり、両手で交互にお菓子をその口へと次々に放り込んでゆく明石の横顔を愛でながら、そんな言葉を胸の奥底でそっと呟く忠だった。




 明石艦を含めたふ号作戦参加部隊は、この様に対南方行動準備をそれぞれが周到に実施しつつ、一路南を目指して航跡を海原に刻んでいく。最近はだいぶ鎮圧もできて静かである支那の海岸線を遥かに眺め、対になる舷側の向こうに霞むのは前期訓練で足を伸ばした、台湾は澎湖島の島影。周囲の海上にはかなりまばらであるが外国船舶も含めた貨客船の旅姿もあり、軍艦色とは名ばかりのねずみ色一色に染まった明石艦らとは違って極めて彩り豊かなその船体は、蒼い空に群青の海面で構成される褪せた世界に咲く一輪の花の如し。

 またその分身の乗員となる人間達の服装を真似れる為に、民間船舶、とくに客船の艦魂達は時に女性の乗客の物を模したのかドレスや着物なんかを着てたりする事も多く、この点でも男装のみしかできない帝国海軍の艦魂達にとっては羨望の眼差しが絶えない所もある。

 仲間達の例に漏れずに明石も甲板に立って双眼鏡片手にすれ違っていく貨客船をつぶさに観察し、中にはお化粧までしているという分身に違わぬ彩りを持つ民間船の艦魂達の姿を瞳に映す。改めて彼女達はなんて綺麗で品が有るんだと思い、遠目に認めたその落ち着きと謙虚さが滲む立ち振る舞いに、久しく会っていない宗谷(そうや)という名の友人をちょっと思い出したりもした。元々民間船舶の出身であるからイメージが重なったのか、良い意味で軍装なんて似合わない感じの女性像が、この時の明石の思考には際立って見えてくるのだ。


『んひひひ。確かに金剛(こんごう)さんとか神通(じんつう)があんな服着てたんじゃ似合わないね。でもあういうのもきっと、朝日(あさひ)さんが言ってた一流の淑女(レディ)って奴だよねぇ。ふぬぅ〜、どうやったらあんなに落ち着けるのかなぁ?』


 珍しくもあり、ちょっと羨ましくもあった民間貨客船の艦魂達に、明石はそんな考察を抱いた。




 もっとも決して足を止めてまじまじと観察する事は出来ない。

 なにせ彼女の分身たる明石艦は作戦行動中で、向かう海域はこれまでの本邦近海とは違って帝国の法治や影響力が極めて薄い場所である。情報として危険を予知させる様な物は明石は勿論、乗組みの人間達にすら入ってはいないが、その場で何が起きるかは誰も予想できない。鳴りを潜めている支那の海軍戦力が突如として襲ってくるかもしれないし、戦争が終わったばかりで未だ鼻息の荒い泰と仏印のとばっちりを受ける可能性も考えられる。大体が今回の行動の示威の矛先はその一方であるのだから、少なくとも仏印は絶対に良い顔はしてくれないだろう。


 油断なんてとんでもない状況に向っているのである。

 その事を明石もよく解っていたのでしばしの貨客船観察もその船影が霞む頃になると早々に切り上げ、再び艦内に入って色々な面での南方行動に関する各種準備を確認しに回ってみた。


 先日の防暑服の一件から続いている物で、そも初めて台湾以南まで進出する明石にはこれはこれで良いお勉強にもなっていたりする。特に健康に関する事であれば、艦魂ながら軍医さんとして励もうとする彼女にしたら尚更に興味を引いた。

 言わずもがなそれは被服だけで終わる話では無く、やがて主計科事務室へとやってくるや机上に置かれた紙に早速彼女は新たな発見を得る。


『ご飯〜、ご飯〜。・・・およ、豚肉の料理がなんか多いなぁ。』


 手慣れた手つきで紙面に目を通しつつも、目を丸くしてそう呟く明石。

 生来の食いしん坊で朝昼晩の三食が何よりの楽しみである彼女は、実は普段からこの主計科事務室へとやってきてここで作られる献立に目を通していた。天ぷらに肉じゃが、カレーライス、すき焼きの四品は明石の大好物で、献立内にいずれかの名が有るとその日一日は気分が有頂天になり、お勉強もお仕事も捗る事この上ないなんて時もあったりする。最近では視線を左右に二、三度流すだけで献立内の項目全て、すなわち一週間分のメニューを読み取れてしまう程になっているのだが、そのおかげで彼女は今週のご飯には随分と豚肉を使った品が多い事に気付いたのだ。


 と、同時に明石はこの時、以前に同じ特務艦の仲間にして先輩、そして帝国海軍艦魂社会において一番の人気者である間宮(まみや)という艦魂から、この豚肉における小講和を聞かせてもらった時の事をふと思い出す。




 それはいつぞやの呉の柔道大会が迫る中、身体をほぐしてくれと間宮に頼まれて朝日直伝の指圧術を実施してあげていた際の事。指圧に幸悦の声を上げながらも、間宮は新米の軍医である明石に対して栄養学という観点から医務の知識を与えてくれていた。

 やや小太りのどこか愛嬌のある間宮は服装においても軍装よりも作業着や前垂れをしている事が断然多く、他の艦魂達に比べたら容姿の上では少々優れない所もあるのが正直な所だが、帝国海軍艦魂社会での立ち位置としては、帝国海軍中ただ一隻の給糧艦としてこの道10年以上励んできた大ベテラン。菓子から洋食のフルコースまでなんでも作れるという人間の割烹さん顔負けの料理の腕前もさる事ながら、知識の上でもそこいらの栄養士を遥かに凌ぐ程に研鑽を積んでいた。

 とても陽気な口調で語られる間宮の言葉には、きっとその研鑽の土台として彼女なりに相当な努力をしたのだろうと思わせる所が節々に明石には感じられた。


『壊血病や脚気なんかもそうなんだけど、よく船乗りがかかる疾病の正体って大体は栄養不足、或いは摂取物の偏りが原因なんだよ。それから南洋とかの暑い所じゃ、長期行動中に(だる)さを訴える人も多いんだけど、これも同じなの。人間や私らって不思議なもんでね、生きてく為に必須な物を何故か体内で作れないんだ。犬や猫や鳥なんかは毎日同じ物食べてても平気らしいけどね。だからちゃ〜んと意識して各種の栄養素を摂る必要があるんだ。今度、機会が有ったら潜水艦の乗組員さんの食事とか調べてみると良いよ。長期航海中なんか副食よりも多くビタミン剤とかの錠剤飲んでるくらいなんだから。』

『へぇえええ〜。暑い所でも栄養学って必要なんですかぁ。』


『そうなのよ。だもんでアッチ方面行動の時は献立作るの結構大変なもんだよ。栄養学の本を何冊も片手にしながら作ってるくらいさ。豚肉とかも普段より多く使うから、食糧積込の計画とかも大きく変わるしね。・・・あ、そうだ。豚肉ってね、暑い所で食べると栄養の偏りをだいぶ防げるんだよ。牛肉と違って鉄分とかビタミンとか凄く多いから。消化も良いし、暑さにバテる様な事が有ったら食べると良いよ。みんなこういうの知らないし、明石は軍医だから、誰かが体調不良になったらきっとみんなに頼られると思うからさ。食事療法って奴も有るのを覚えておくと良いかもよ。』

『は、はぁい! 有難うございまぁす!』




 食の面から見る医務のお話は新鮮な発見であった物だが、よもやこんな時に参考になるとは意外や意外。献立を改めて見てみると他にもサラダ類の副食が目に付き、主計科員による生野菜でのビタミン摂取の企図が働いている事が明石には明瞭に推察できた。


『ふむふむ、なるほどぉ。もし南洋辺りでお仕事なら、この辺は私達も同じだよね。めもめもぉ〜・・・。』


 人並み以上の食への欲求に背を押されてきただけなのに、その先で医務に関わる事を学べるなんて運が良い。棚から牡丹餅の言葉を噛みしめて口元を緩ませながら、明石はすかさずいつも持ち歩いているノートと鉛筆を取り出して栄養学のくだりを書き記していくのだった。




 しかし今日の明石は運がまだまだ味方していた。

 やがて夕闇に空と海面が染まり、海原に認めれる僚艦の姿が影から舷灯のみへと移り変わって行く頃。忠の部屋では夕食をとって戻った二人の声が、またもや行き交っている。


 二種軍装の上衣に袖を通し、ホックを掛けぬままで略帽を荒く拭きながら、彼は椅子に座ってノートを再読している明石へと向き直って口を開いた。


『今日は士官次室で講話があるんだ、篠塚軍医中尉の。だからごめん。お菓子は無しだ。』

『うえ〜〜、つまん・・・。ん? 軍医中尉の講話?』

『うん。南支、南方方面行動に当たっての注意とかだよ。気候もだいぶ違うから、士官次室の全員に健康維持の為の話なんかをしてもらう事になってるんだ。』


 毎日欠かさぬ復習に没頭しつつ、ついでにこれまたいつもの様に相方にお菓子を買ってもらってたらふく食べようと思っていた明石。夕食から戻ってきてすぐさま着替えて出ていこうとする忠の声にその企図は砕かれてしまうも、一瞬だけ悪態をついた後に彼女の顔は興味に染まって、ノートの上から丸い目を覗かせてくる。忠の言う講話が自らと同じ軍医さんによってされるという事は、朝から学んでいる暑い気候下での医務に関するお話が聞ける事を意味するからである。

 師の朝日とのお勉強の時間以上に有意義であるのは論を待たず、明石よりも遥かに知識量の多い人間の軍医さんのお話を南方向けという括りで聞けるのも都合が良い。 すぐさま明石は忠についていく事にした。


『あ、私も行く! お話聞いてみたい!』

『あ、そ、そう? まあ、椅子が埋まるなんて事は無いと思うけど、あ、あんまり騒がない様にね?』

『大丈夫、大丈夫! ほら、歩く! 早くいこ!』

『だぁあ。わ、解った解った。』


 突然の随伴を耳にして戸惑いを隠せぬ忠の背を、明石は構う事無くぐいぐいと押して部屋を出ようとする。

 忠以外の人間に見えない彼女を連れて行くとなると、その場に集った者達との会話とかの合間に明石の相手もせねばならない。当然それは彼の仲間達から見れば目に見えぬ何かと話す姿となり、極めて奇怪な光景と映ってしまう。もちろんその中心に位置するであろう忠は精神疾患でも疑われ、港に着くと同時に内地送還の上、当人の否応なしに海軍病院のベッドの上に横たわる事になるだろう。

 それを危惧する忠が明石をつれていくのを渋るのも道理ではある。口には出せないが。


 ただ、大人しくしてるという明石の言もとれたし、一方ならぬ想いをほのかに寄せる彼女が相手なら、そりゃ忠としても長い時間一緒に居たいのが正直な所。加えて明石は普段の様に忠にちょっとした意地悪さでもって冷やかしを言うつもりは無いらしく、自身の姿が見えないのを良い事に会話中の相方の袖を引っ張ったりなんかの悪戯をして困らせる腹積もりも無い様で、純粋に艦魂社会における軍医である自分の実力を向上させたいだけっぽかった。

 どうしたものかと困惑が絶えぬままの忠が歩みを進み始めると同時にそっと振り向くと、明石は忠の背後に続きながらまたノートを読み始めて知識の探求に勤しんでいる。生来の頑張り屋で一生懸命なその姿勢は忠から見ても少し尊敬できるくらいで、精進に貪欲な所は誰しも見習うべき明石の良い所でもある。この様子なら何某か自分が世話を焼くのに苦労する事もないだろうと考えを改め、二人は明石艦中甲板の艦尾側にある士官次室へと歩みを進めていった。




 ほどなくして士官次室は忠と同じくらいの階級を持ち、これまた同じくらいの年頃の青年士官が10名近くも集まって、若さに伴う賑やかさもそこそこに湧き出る清涼な雰囲気へと変わり始めた。室内中央に鎮座する大きな机の外郭には椅子が並び、そこに腰かけた若い士官達は講話が始まるまでの間、隣同士になった者達と和気藹々と声を交えて談笑している。もちろん忠もその輪の中に入って煙草を片手に話を弾ませ、彼の傍にて文字通り人知れず椅子に座っている明石も参加こそできなかったが和やかな場の空気に口元も緩んでくる。

 やがて軍医中尉が士官次室へと姿を現すや皆一斉に静けさを取り戻していくが、若さ溢れる人間達の中でお勉強するのは明石にとっては極めて新鮮。

 軍医さんの講話によるお勉強も捗るという物だ。


『南方はこのように日本人にはなじみの薄い風土病が極めて多いです。コレラ、マラリア、デング熱の名は聞いてる方も多いでしょうが、赤痢やチフスなんかも馬鹿にはなりません。向こうでの上陸時は小さなものでも、密林や草地には近づかないのが一番です。』

『そう言えば、前の馬公での上陸の時はサソリに注意なんてのもありましたね。』

『ええ。他にも蛇やら蚊やらと危険な生き物は多いです。向こうに海軍病院なんてありませんから、十分な注意をお願いします。』


 長机の周囲に座る士官達から一斉に視線を送られる中、軍医中尉は自前の資料なんかも示したりしながら現地での行動に伴う危険を説いていく。とりわけ感染症の類なんかは閉鎖空間に等しい艦艇には鬼門の様な物で、多くの乗組員が次々に病床についたならいくら整備が完ぺきな軍艦と言えども、備砲の発砲どころか航行すらもままならない事態にもなる。実際、日清戦争も始まる前の明治15年から一年ほどかけて行われた初代の龍驤(りゅうじょう)艦による遠洋航海では、脚気によって乗組員が次々と倒れる事態が発生し、石炭を消費しない点から長期の洋上航行としては当時は主流だった帆走航行を人手の掛からない機関航行に切り替え、終いには機関科の要員も足りなくなって艦長さん以下の将校までもが十能を手にして釜焚きを手伝い、やっとの事で目的地まで到着したという航程も存在するくらいである。

 そしてこの場に居る忠達の様な士官は乗組員の指揮監督を行う側だから、特に現地での上陸の際にそれらを覚えておかないと大変な事になる。別に乗組みの中少尉一人欠けた所で艦の運行に支障はないが、指揮下の下士官や水兵さんが大人数で倒れたらまさに初代龍驤艦の如く、艦の機能その物が停止しかねないのだ。


 もっとも熱帯である作戦地域では気を付けねばならない事はまだまだある。


『熱中症も内地とは比較にならない程に出やすいです。我々日本人は南方の暑さはどうしても慣れませんからね。艦外での作業よりも、艦内の通風が悪い所で発症する方が多いんですよ。各部署での訓練、日課作業でも十分留意してください。それから乾きを覚えて現地の水や果物に手が伸びる事もあるでしょうが、こちらも要注意です。特に果物は、軍医長の許可無く艦内に持ち込まない様にお願いします。種子なんかが内地までいくと、法規上でも問題が出ますので。』


『ぬ〜! 缶詰じゃない本物のパイナップルとか食べたかったのにぃー!』

『・・・・・・。』


 一応は明石もこのお話を聞いてお勉強していた筈だが、突如としてこんな大声を上げてすぐ前の椅子にて腰掛ける忠を苦笑いさせた。どうやら南方に着いたなら機を見て忠に現地の果物を調達させる気だったらしく、軍医中尉の持ち込み禁止の言葉に僅かに眉を吊り上げている。仕方のない奴だなと忠は半分呆れつつも、声を掛けて宥めると室内の全員から白い目を向けられてしまうので表情以外は無反応を貫いた。

 しかし明石は相方の無反応も今しがたのちょっとした立腹もさして大きく意識してはいないのか、やや頬を膨らませつつもノートへの筆記の手を止める様子は無い。ちょっと脱線しつつも軍医中尉の講話に集中できている彼女は勉強の鬼と化しており、忠の手元にある資料をちょいと拝借してその内容を事細かに書き写して行く等、医務の面での南方対策に対する熱意はちっとも衰えていなかった。それどころか明石はやがて忠の肩を小さく叩き、そっと振り返る彼の耳元にてこんな事を言い始める。


『森さん、森さん。ねえ、このノートのここ。ここ聞いて。』

『な、なに・・・?』

『森さんから軍医中尉さんに聞くんだよ、私じゃ話せないんだもん。ほら早くぅー。』

『ええっ・・・?』


 ただ講話を聴くだけでは彼女の勉学への欲求を満たす事は出来なかったらしい。背後からノートの文面の一部を指さして、明石は忠に質問をするようにせがむ。

 まじめで熱心な所は大いに結構なのだが、声量を気にせず一方的に声をかけてくるのは忠にしては都合が悪い。知らなふりを決め込んで無視すると、講話が終わって部屋に戻るや否や明石のご機嫌が完全に斜めに向いてしまうであろう事は容易に予想されるし、かと言って至って普通に彼女と会話したら室内全員から送られる視線が非常に怖い物となってしまうのも明白である。ただでさえぼそっと一言呟く様にして返した彼の声は、速くも隣の席にて座る仲間より疑問を呈されているくらいだ。


『ん? 森中尉、今なにか言いましたか?』

『え!? あ、いや・・・。あはは・・・、つ、疲れるてるのかな。疲れると・・・、その、よく独り言口走っちゃうんだよね、オレ・・・。じ・・・、持病でして・・・。』

『は? は、はあ・・・。』


 苦しい言い訳をしながらなんとか彼は仲間の疑問を払拭しようとする。全員からそう思われるのは回避できたかもしれないが、少なくともこの隣の席の士官からは以降少し怪奇な目で見られるかもと思うと泣きたくなったが、その裏に明石の存在が有るなら我慢も必要と忠は自分に言い聞かせた。

 同時になんだか自分が物凄く情けない男の様に思えて軽い自己嫌悪も湧いてくる始末だったが、そんな彼の肩をお構いなしに叩いて『行け行け。』と言いたげな顔の明石をチラっと背後に認めると、観念と共に選択肢も一つに絞られた。

 刹那、恐る恐るといった感じで片手を上げながら、忠は長机の向こうにてお話に一区切りつけていた軍医中尉に対し声を上げる。


『あ、あの、篠塚軍医中尉。し、質問なんて、よろしいでしょうか・・・?』

『ええ、森中尉。構いませんよ。なんでしょう?』

『え〜〜と、そのマラリアやデング熱に関してなんですが、その、治療薬とかはあるモンなんですか、ね・・・?』


 元々それほど医学に精通している訳でも無い為に忠の問いはとてもたどたどしく、それに対して軍医中尉が返してきてくれた言葉の意味もイマイチ理解できなかったのが正直な所である。しかしながら篠塚軍医中尉は兵科将校である忠が医務の面で興味を示した事に随分と感心してくれたらしく、挙句の果てにはその姿勢を皆の前で褒めた物だから、気が引け気味の忠の本音を他所に話がなんだか大きくなってしまう。


『マラリアはキニーネという特効薬が有りますが、デング熱は今の所は無いんですよ。デング熱は安静にしてれば大概は治るんですが、高熱の他に関節痛や筋肉痛の症状が酷くて寝る事もできないくらいです。本当に気を付けないといけません。でも、さすが森中尉。この辺りを覚えておくと、現地での兵や下士官の行動にもだいぶ予防意識を持って取り組めますね。』


『ほお〜。森、お前中々考えてるな。こういう時でも指揮官の体面を気にしてるとは。おい、お前達もこういう所は几帳面なくらいに意識していけよ。このまま2年くらいも経ったら、海軍士官として、お前ら森には手も足も出ないようになるからな。』

『はい!』

『なるほど。いやあ、勉強になります。森中尉。』


『は、ははは・・・。どうも・・・。』


 いわゆる「やりたくない感」一杯で相方の質問を代読した末、室内全員から凄い奴だと思われた事は素直に喜べない。何故こんな気苦労を負わねばならんのだと恨めしさも覚えてくるが、背後の相方は今の忠の質問によってまた一つ賢くなれたとお喜びの様子。忠以外に聞こえないのを良い事にどこか無邪気な感じもする声を上げ、その手に握られた鉛筆を軽快にノートに走らせていく。


『ふぅむ、きにーね、かあ。これは大事だね。デング熱に関しては打つ手なしなのかぁ。でも症状を聞いた感じだと、風邪の物凄い版みたいな物かな? ふぬー、最上さん達辺りにも聞いて、もーちょっと調べてみるかー。』


 独り言なのか忠に敢えて聞こえる様に言っているのか定かではないが、忠の耳に届く幾分間延びした明石の口調は彼女の機嫌が上向きである事を示す物である。自分への周囲の目を突起の無い物とする為、上手く立ち回らねばならない苦労と引き換えに得られたと思えば、確かに忠は悪い気はしない。いつもの如く給与袋からお金を羽ばたかせる事も無いので、普段の生活を基準としたらむしろ上出来とも言えそうな展開だが、その裏で明石の知的欲求がこれ一回きりで満たされる筈がないとも予想できた忠。

 すると案の定、やけに肩身が狭く感じる彼の背中を再び明石の右手が小突き始める。やや引きつった表情のまま視線を流していくとその耳元辺りには既に明石の顔が近づけられており、次いで視界の中にはまたしても文面の一角に指が添えられた明石のノートが映り込んできた。


『森さん、森さん。これ! これも聞いて!』


 お勉強熱に駆られた明石が、忠の顔色を窺ってその状況を鑑みてくれる事は無い。そう言い終えるや忠の肩の上から腕を伸ばし、軍医中尉に人差し指を向けて彼による再度の質問代行を催促し始める。

 嫌だとも言えなければ、まともに明石に向き直って声を交える事すらできない忠に選択の余地は無く、恐る恐る右手を宙に掲げるのはこれ以降、3度も4度も続く事になった。




 おかげさまで忠にとっては心身ともに大きな疲労を覚える事になり、士官次室での講話が終わるとすぐさま寝室のベッドに直行。うつ伏せに倒れる様にして睡眠の谷へと滑落していく事になる。

 一方の明石は、正反対に作戦地域到着前に医務の面での大変参考になる知恵を得て大満足。力無く寝室の扉を開ける忠におやすみを言うと軽やかな歩みで自室に戻り、ベッドに腰掛けてノートを開くと先程までの講話も加味した対南方医務要領の復習に勤しむのであった。




 そしてそんな二人を乗せた明石艦は、月明かりで青く輝く夜空の下、いよいよ太平洋から南シナ海へとその艦影を進めていく。

 目指すは「ふ号作戦」参加部隊の集結予定地。海南島は三亜の港であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ