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第一五一話 「試練/其の四」

 昭和16年6月27日。


 第一、第二、第六、第一航空の四個艦隊におよぶ連合艦隊の大部隊は、有明湾の海面より錨を揚げた。年度最大に及ぶ訓練航海に出動する為で、それは四日間に渡ってどこにも寄港せず東京湾を目指して進むという大訓練。夜も昼もぶっ通しで各種演練に打ち込み、参加艦船におけるあらゆる戦技の練度向上を図るという物である。

 駆逐艦や巡洋艦は隊伍を組んで駆け回り、その身に備えた幾重もの巨砲から一斉に黒煙と衝撃波を放つ戦艦等が海面を占め、その空にて雲の合間を編隊を組んで舞うのは空母艦載機の群れ。帝国海軍生え抜き、最新最強の水上戦力による勇姿が一面に花咲いて、その姿は実に勇壮壮大である。

 特に4隻に及ぶ空母が連なって航行する様は、乗組員は元より艦の命達にしてもこの度初めて目にした者も多く、荒波に揺られつつも各艦より次々に艦載機を宙に舞いあがらせる光景には、戦艦とまた違った力強さを覚える者も決して少なくは無かった。一番最初に機が発艦するとものの20分程で艦隊上空は旋回しながら集結する艦載機の大群に覆われてしまい、さながらトンビの巨大な群れによって頭上を占領されたみたいな錯覚に陥る。


『ひょえー。一航艦の連中、すっごいな。艦隊上空で集まってる分、去年の観艦式の時よりも機数が上に見えるよ。』

『ああ。でもそう悠長にも言ってられないよ、高雄。接近を許したらこれだけの数で全方位からの飽和攻撃を受けるって事だ。戦隊全艦の高角砲が百発百中だったとしても、これを全部やっつけるのには相当の時間が掛かるし、撃ち漏らしもかなりの数になる。これは対空戦闘の成績を少しでも上げないと、敵艦を見る前にボカチンになるな。』

『お、さっすが愛宕。長門さんも同じ事言ってたよ。まあ、もう訓練航海始まっちゃってるからアレだけど、横須賀着いたらちょっとみんなで考えてみよっかぁ。』


 愛宕艦の羅針艦橋真上は改装で新設された防空指揮所。

 胸くらいの高さの壁に囲われ、その壁沿いに高角双眼鏡がずらりと並んだ屋根の無い露天の場で、航空機の轟音と影にちょっとオドオドしながら双眼鏡を磨く水兵さんが数名ほど居る。例によって彼等には見えない高雄と愛宕もそこには居て、二人並んで上空を見上げてそんな声を上げながら、海上航空戦力の隆盛とそれに比例する脅威を看破している。近い将来、海の主役たる艦船にしてその命である自分達もまた、その餌食なるのではと一抹の憂いを抱くのだった。





 その後、彼女ら連合艦隊主力は八丈島沖合を通過して東京湾に入り、隻数が極めて多い事から横須賀軍港と横浜港に分かれて錨を降ろす事になった。片や帝国海軍草創期からある大軍港、片や帝都のお膝元にして世界屈指の国際港であり、有明湾出発以来の猛訓練に心身とも疲れ切った乗組員達は大喜びである。毎度の事ながら訓練を行いながらの巡航をした末に港湾へと錨を降ろすのは、艦隊各艦の整備と乗組員の休養の為の停泊であり、それを知る下っ端の水兵さん達は上陸の命令がまだ出ていないにも関わらず早くもはしゃぎ始めていた。


『何日貰えるかな? 3日くらいか?』

『オレ、入湯上陸でも良いよ。とにかくゆっくり風呂入りたい。』

『やべーな。佐藤分隊士んトコ行って、早いとこ上陸札返してもらわんと。』


 佐世保や呉に比べたら横須賀、横浜近辺は群を抜いた大都会だ。

 山奥の寒村出身者も決して少なくない帝国海軍下士官兵の皆々様には、帝都方面を指す東京湾巡航を年に一度のお祭りくらいに待ちわびる者もいたりして、上陸後には華やかな街並みを存分に散策するべく予定を組む人も多い。高いビルに路面電車、信号機も付いた幅広の道路を自動車が行き交い、和洋入り混じった最新流行の服で着飾る人々でごった返す華の都、という帝都圏へのイメージがまだまだ地方出身者には根強い。現実には「贅沢は敵だ!」等の有名なスローガンの下であらゆる消費には統制が敷かれ、ネオン等で煌びやかだった街中の一角なんかは昔と比べたら随分と色褪せてしまっているのだが、殆どを海の上で過ごす事が多い艦隊勤務の彼等の目にはその差はすぐには解らなかった。


 ともかくこうして横須賀軍港、および横浜港に錨を降ろした各艦の乗組員達にはやがて正式に休養の令が言い渡され、停泊準備を完了した艦からは次から次へと乗組員を乗せた短艇、内火艇が海面に放たれて行く。





 同時に艦魂達にとっても連日続いた猛訓練は一旦終了となる。

 彼女達の中にも有明湾を発った後、今日までお風呂にも入らず睡眠もきわめて短い物とせねばならなかった者達は結構多い。人間達の様に陸地の銭湯や温泉に行くなんて事もできないので、大多数は艦長さんがいなくなった頃合いを見計らって艦長室備え付けの浴室を使い、垢落としと身体のお清めに精を出す。

 特にそれは横須賀軍港に停泊となった艦の命達にとっては尚更で、その理由は横須賀軍港にはいわゆる師匠格、長老格の艦魂が多くいる事から、到着してなるべくすぐに彼女達の下へ挨拶しに赴かねばならない、転じてまず到着したら最初に身だしなみを整えなければならないという、艦魂独自の習慣が有るからだ。


 その頂点はやはり、現帝国海軍在籍艦艇の中でも最古参である富士艦の艦魂であるが、当の富士にとっても実は今回の連合艦隊主力の寄港には願っても無い機会に恵まれていた。数十名を超える後輩や教え子達の元気な顔と確かな成長を見るのに合わせ、彼女が現役の一線に立っていた際の仲間、それも同じ戦艦を分身とし、同じ旧第一戦隊に属していたという友と数年ぶりに再会できたのである。


『富士先輩、お久しぶりです。』

『ああ、朝日・・・。まだ生きてる内に、貴女には一目会いたかったわ。よく来てくれたわねぇ。』


 車椅子に腰かけた富士は、いつも身に纏っている傷病衣に、すっかり地の金色が抜けてしまった白髪は元より、白人女性故に持つ肌も含めて外見にはかなり白の色合いが目立つ。もっともその白には雪が持つ様な静寂の中の美しさみたいな感は全く無く、まるで曇天の下の荒涼とした大地にてただ一本立ち枯れした木を思わせる様な寂寥感、哀愁、衰えといった物を連想させる方が強い。かつては世界屈指の大戦艦にして、帝国海軍戦艦部隊の最年長者と皆から崇められた経歴の持ち主ながら、両脚が不自由で車椅子生活となっている点も加わって、富士という艦魂の姿は誰が見ても「病気がちな身体の弱い老婆」以外の何物でもなかった。

 そしてその弱さが、かつての彼女の勇姿を知るが故、相対した朝日の碧眼には極めて色濃く映る。天に召されるのも既に時間の問題と捉えれるくらいで、手を握り合う中でも指のか細さとざらついた触感、ほとんど圧を感じない富士の握力がそれに拍車をかけていた。銀縁眼鏡の奥にて薄い緑を帯びる富士の瞳には温かさと優しさが満ち満ちていたが、なにぶんにも容姿全体の雰囲気に比べたら余りにもそれは小さい。さながら闇夜にぽつんと灯るロウソクの如しで、その在り方もまた朝日の中では富士の余命のイメージとしてなんとなく結びついてしまう。


 だから朝日はほぼ無意識の内に車椅子の前で膝をつき、顔を見上げる形を作ってから抱擁を交わし、次いで両頬へ唇を重ねていく。この人に対するあらゆる格好において目上に接する事など在ってはならないと、富士に対する敬愛を改めて深く心に刻んだ。

 一方、富士も朝日の気持ちと思考はよく理解している様で、朝日の持つやや心配性な人柄が自身への接し方にかなり影響しているのもとうにお見通しだ。お互いに頬を合わせながら富士は朝日の琥珀色の髪をそっと撫で、再会を喜ぶよりも憂いを膨らませるばかりで泣き出しそうな勢いも見せる朝日を落ち着かせていく。

 今も昔も師匠格として名高い現代の朝日をこの様に扱えるのは、実の姉の敷島を除けば富士だけであった。


『富士先輩・・・。すっかり御髪(おぐし)も真っ白に・・・。長門や陸奥からは元気だと伺っておりましたのに・・・。』

『ふふふ、老いたでしょう? でも良いのよ、朝日。私はこれで良いの。今では嵐の日にズブ濡れになって甲板を走り回る事もないし、遠くへ叫んで誰かを呼んだりする事すらも無いんだから、これでとっても楽な生活を私はしてるのよ。春日や間宮には頻繁に豪勢なお料理を振る舞って貰ってるし、艦隊隷下の頃に良く食べてたおにぎりとか麺包だけの簡素な食事なんて、もう何年も食べずに済んでるのよ。日の出と共に起きて、消灯時間にはもう床に入ってるなんて、現役の頃は考えられなかったじゃない? ふふふ、仕事だって若い子達に好き勝手に物を言うだけなのよ。ちょっと身体が言う事を聞かなくなってるのは不満だけど、それでもバチが当たりそうなくらい良い暮らしをしてるわ。もっと羨ましがって欲しいくらいよ、朝日。』


 非力な感じの声色でも、饒舌なくらいの語りと微笑みでつとめて明るく応じる富士。朝日の心配を他所に本人は結構横須賀での隠遁生活を楽しんでいるらしい。静かにそれを諭されてようやく朝日も普段通りの落ち着きを取り戻し始め、ソファに腰かけて改めて相対した後、ある面では姉以上に尊敬している富士との間に設ける、数年ぶりの語らいの時間を楽しむ事とする。胸の内の端っこでこれが最後かもしれないと憂いと悲しみを燻らせつつも、艦隊訓練随伴の形で励む傍らに得たせっかくの機会を、暗い空気の漂うだけの思い出には朝日はしたくなかった。


 それにこの時、偶然にも彼女はその眼前にて、老いに浸った現代の富士にあって往年と変わっていない所もまた発見してしまい、ちょっと朝日自身もその富士のとある特徴に若い頃苦労した手前もあって、思わず小さな笑いを覚えてしまった。

 富士は顔の左横の辺りに両手を掲げると、カスタネットでも叩く様に2回ほど打ち鳴らして部屋の向こうに声を上げたのである。


『ティーを淹れるわ。間宮の所にマフィンを取りに行って。それから私の魔法瓶で赤の帯の入った物を持ってきてちょうだい。あと給仕が欲しいわ。』

『・・・あ、はーい! ただいまー!』


 横鎮籍の艦魂達の間では軍港にいる先輩諸氏の世話役に、駆逐艦や潜水艦も含めた若手、水兵格の艦魂達が持ち回りで当たる事が慣例となっている。通常一人か二人くらいと少数だが、特に富士や春日といった重鎮立ち位置の艦魂にあっては就寝時以外は必ずその分身のどこかに控えており、それこそいつぞやの朝潮の様に甲板掃除をするのから食事、入浴の用意にお洗濯の代行、手紙とか伝言の類の手配と取次等と、さながら従兵や執事の如く下働きに励む事が半ば伝統的と言えるほどに義務付けられていた。もっとも艦魂社会に人間で言う所の王族とか貴族みたいな生まれながらの身分の差という物は無く、階級が有りつつも本来は分身の違いが意外と大きな意味を持っていなかったりする点もあったりするので、実情としては結構和気藹々と友達付き合いの延長でお世話をしてもらっている事が多い。事実、春日辺りは逆にお菓子なんかを与えてのんびり休めと休日状態にしてやる事が殆どなのだが、富士だけは違った。




 今ではすっかり帝国海軍艦魂社会の好々爺ならぬ好々婆になっているも、若い頃の富士は容姿端麗で朝日以上に貴婦人の気品が漂う美しさを持つ反面、物凄く言動が高飛車でわがままを平然と口に出す所があった。どこから出したのかお香を焚き込めたファー付きの西洋扇子をいつも片手に持ち、気が向くままにやりたい放題言いたい放題に毎日を過ごすという今では想像もつかない姿が、この富士の往年だったりするのである。


『打ち合わせ? アフタヌーンティーの時間に重ねるなんてどうかしてるわよ。敷島、貴女出てきてちょうだい。どうせ決まった事に従うしかないんだから。あ、それと朝日。給仕が欲しいわ。テーブルの用意は良いから、誰か駆逐艦の子、探してきてくれない? 朝潮辺りが良いんだけど。』


 それはおよそ船の命とは思えない、どこぞの王族の子女みたいな言動と態度が際立つ姿で、同年代の仲間である出雲なんかはよく不満を口にしていた物である。これもまた現代とはちょっと違って出雲は英国渡来の白人女性という容姿を持ちながら、障りも無く箸を使いこなして納豆や沢庵なんかをバリバリと頬張り、椅子の上でも平気で胡坐をかいて耳をほじりながら話を聞くなど、まるで港湾労働者や百姓みたいな下流階級の者の如き言動が目立つ人物であったのだ。


『なんでい、お高くとまりやがって。たかが戦艦が分身てだけでよ。アホくさ。』




 当時はまだまだ皆若かった為か、一触即発の状態も紙一重であった日常を過ごした末に、出雲も富士も人柄はすっかり変わってしまったと常々思っていた朝日。逆に当時からこういう人物関係に気を揉んで上手く立ち回る事に苦心していた彼女であるから、気苦労が続く毎日を未だに送る自分だけが昔に取り残されたままなのかと思ったりもしていたのだが、往時と変わらない所という物が尊敬する富士にも垣間見れた事はなんだか嬉しい。そう思うと瞳以外の色が褪せた富士に抱く憂いもだいぶ薄くなり、その表情にはだんだんと持ち前の柔らかな笑みが戻ってくる。対する富士も笑みに答える様に小さく頷くと姿勢を楽にするよう促し、ようやく二人は憂いの共有から旧友の談笑へとそこに設けた時間を変える。

 そも40余年の付き合いの果てに再会を果たすのは海軍艦艇の世界にあっては極めて希少な機会であるので、お互いに自身の老いを笑いながらその日は日が暮れても尚、ティーを何杯もおかわりしながら談笑を続けるのであった。


『まあ、敷島と会ったのね。お互い海兵団の練習艦なんて面白い縁よねえ。あの子は元気?』

『ええ、それはもう。ふふ、金剛がまだ昔と同じように愚痴ってるくらいでしたわ。見た目もとっても若くて、私もびっくりしました。』





 さてその頃。

 同じ横須賀軍港にてブイに繋がれて停泊する数多くの艦艇の中には、連合艦隊司令部を宿す長門艦と陸奥艦ももちろん含まれている。各艦のマストや檣楼、煙突なんかが林立する海上にあって一際大きく鎮座する両艦の前檣楼は、さながら山上に構えられた城郭の本丸の如し。ただ半舷上陸でもされているのか世界屈指の大戦艦の甲板には人影はそれほど多くは無く、繋船桁の繋がれた装載艇の数も短艇と内火艇がそれぞれ一隻程度とかなり少なめである。


 おかげで艦魂達にとっては幽霊騒ぎの起きにくい活動しやすい状況となり、毎度の事ながらいつもは人間達が使っている物品を思う存分に使いまくる絶好の機会になっていた。艦長さんや司令部職員愛用の折り畳み椅子を甲板に広げて転寝(うたたね)するも良し、姉妹や仲間と一緒になって輪投げ道具を出して遊ぶも良し、はたまた艦内に収蔵される各種機材の取扱説明書から士官室に置かれる雑誌の類までも含んだ書物を読んで教養を深めたりなど、遊びと憩いとついでにお勉強に対しても極めて選択肢が広がる一時が停泊中には得られるのである。

 故に誰しも辛い思いをする機会はこの時は殆ど無く、明るさや楽しさが同居する有意義な時間を各々が過ごしていた。




 先日の衝突事故以来、久々に見せたお怒りですっかり部下達を縮み上がらせた神通も、今日は珍しく休暇を満喫している。

 ただ入港初日に姉である川内(せんだい)から将棋の勝負を挑まれ、背を見せるは武人の恥だと那珂が止めるのも聞かずに対局したらものの見事に大負けして、「じんちゃん」なる不名誉な事この上無いあだ名でよばれてしまった彼女。今にも頭から湯気が昇りそうなほどにカンカンだったその癇癪は凄まじく、従兵の(あられ)も恐れをなして今日はあんまり姿を見せていない。思い出すだけでもすぐさまこの人の短過ぎる導火線に火が灯ってしまうのを警戒しての事なのだが、そんな彼女をちっとも怖がらない師匠が昨日来た事によって、神通は実の所、今日は朝から微塵も勘気など覚えずに黙々と読書に耽っていた。


 なにせその際に師匠の金剛が渡してくれた末に、いま神通の手が添えられているというその本には、神通の数ある趣味において最も大きく比重を占める物の事が書かれていたのだ。


『横須賀に着いてすぐに、常盤の姉さんの使いから貰ったんや。姉さん、あれで南洋方面管轄の第四艦隊配属で大変な筈なんやけど、どこでどうやってか知らんが手に入れてワシ宛てに送ってくれたようやな。南洋の本屋か学校にでも卸されるモンやったんとちゃうか?』

『うお、こ、これは・・・! 信長公の近代研究、だと・・・!?』


 金剛の手から本を取るや否や、珍しく動揺しつつ普段の眼光とは違う色合いで瞳を輝かせた神通。戦国時代一の異端児にして、おそらくその存在が無ければ現在の日本は成立していなかったと言っても過言では無い程の大英傑たる織田信長公は、彼女がその生涯に置いて掛け値なしに三度の飯より大好きな人物の一人である。人間の如く学び舎で専門に研究したりなんてできない身の上を持つ神通にとっては、こうして手に入る書物こそが憧れと尊崇の果てに見る信長公の足跡を追える唯一の道標だから、ここ最近の鬱憤が一発で払拭できる程に喜びの感情を得てしまうのも無理は無かった。


 そしてその高揚する気持ちは今この瞬間も変わっておらず、じっと書中に目を這わせっぱなしの神通の顔は、いつもの不機嫌そうな様子に変わって微笑が滲んでいる。

 神通にとってはそれだけ信長公を知る事が面白くてならず、やがて無意識の内に思考を独り言という形で垂れ流し始める始末だ。


『むう・・・。やはり信長公の凄い所は、戦力や財力を含んだ織田家としての総合力の運用と発揮にこそ尽力した点だ。勇名を馳せた桶狭間の合戦など、博打の要素がどうしても強すぎる。きっと信長公にとってはその生涯で最も不本意な形での戦だったに違いない。越前攻めでも甲斐攻めでも、どう転んでも勝てて当然という力関係にした後に事に当たっている。さながら崩れ落ちる積み木への最後の一押しに、戦をあてがっているだけに過ぎん・・・。』


 それは確かに歴史のお勉強と言えなくもないものの、お船の命である彼女にとっては殆ど無駄な知識以外の何物でもない、人間達の歴史。

 戦を生業としたという点では軍艦の命である神通と共通点が有るも、弓や刀を振り回す戦い方は全く参考にはならないし、彼女が戦国大名たる地位に居る訳ではないのは言わずもがなである。もとより神通は信長公を見た事も無ければ、そも陸地に足を付けた事すらも無いのだから、興味を抱いたという点だけをとっても艦魂社会からすると結構異端な方でもあった。

 ただ当人は師匠格である金剛やそのまた師である敷島からの教えの次に、信長公の足跡から己の生きる道における大切な教訓をちゃんと得ているつもりで、自室で一人ぶつぶつと呟くという色んな意味でアブない格好となっている本日もまた、その例には漏れていない。


 むしろ若りし頃に敷島より受けた薫陶の一節と信長公の事績とに共通点を見出して、これまで信じてきた教えはやっぱり正しかったのだと再確認。大きく何度も頷いて一人納得している始末だ。


『戦に負けぬ為の最善の策は、戦をせぬ事。敵味方どちらも含めて、もう戦をするまでも無いなと認識させれる程の状況を、如何にして作り出せるか否かだ。干戈を交えて勝敗を決めるなぞ、ポーカーやルーレットでベットを稼ごうとしているのと同じ。最も簡単で単純なやり方ではあるが、不確定な要素に頼んだ博打にすぎない。選択肢としての難易度は極めて低レベルで稚拙な物だ。戦に相対する時に第一に狙うのは決闘ではなく、絶対にこちらには勝てないとよく相手に理解させる事にある。敵に対して理を一つ一つ解き、次いでそれをあらゆる手段で説いてみせるのだよ。それは戦以上にとても難しい事ではあるが、その知恵を捻る為に私達には頭脳という物が有る。だから私は何度も言っているんだよ、神通。戦とはココでやる物なんだ、と。』


 まだまだ部下である雪風くらいの年頃だった頃、大親方の尊称で呼ぶ敷島から神通はそう言われていた。その語りを当時全て理解できた訳では無かったが、そこそこに経験を積んで歳を重ね、同じく実戦の場に立った偉人の歩む姿を調べる様になった今では、その(ことごと)くが合致している様に彼女には思えた。もちろん敷島は艦の命で明治の海に、信長公は天下布武を唱えて戦国の地にと、年代も戦った場所もまるで違うものの、戦という一つの事象に対して向き合った姿勢や取り組み方は不思議と似ている様な気がするのだ。


『ふむふむ、やはり敷島の大親方の教えは正しい・・・。』


 その本に目を通してからもう何度目になるか、ぼそりと呟くと同時に神通は小さく溜息を放ち、自分と同じ海軍艦艇の命ながら歴史上の偉人と同じ視点を持てていた敷島に改めて感心した。同時にそれは敷島から始まる教育の血筋の末席に位置する自分は間違っていないんだ、という事をなんだか示されたみたいでもあり、冷徹な強面の顔立ちの裏でとても暖かい感じの嬉しさが満ちてくる。大好きな信長公に関する新たな発見も得れた上なので尚更気分は良くなり、弾むような明るさも感じられる微笑を浮かべてその後もページをめくっていくのだった。





 おかげで彼女にとって今日は時間が過ぎるのがやけに早い。

 師匠達からの教えにまた一つ理解を及ぼして感心したのも束の間、神通の耳には部屋の扉を叩く音が聞こえてくる。本当は小一時間くらい経っているが彼女は全く気付いておらず、せっかくの趣味のお時間を遮られた事で早くも先程までの微笑は消えてしまった。入れ替わりにいつもの不機嫌そうな仏頂面へとその表情は変わりつつも、ノックに続いて扉の向こうより聞こえてくる声を受けて僅かに眉の角度は吊り上げ度合を緩くした。

 従兵として従う部下の霰の物だったからだ。


『戦隊長。一八駆の霰どす。』

『む・・・。よろしい、入れ。』

『は、はい。失礼しますぅ。』


 椅子に腰かけて机に向かい、授業中の生徒の様に行儀よく本を読んでいる神通は姿勢を変えずに入出許可を出し、その背後では霰が重い金属製の扉を足を踏ん張りながら開けて入ってくる。

 首を隠すくらいの長めのおかっぱ頭に水兵の軍帽を乗せ、140センチ台の細く小さな身体にこれまた水兵の軍装を通した彼女は、先日来の衝突事故と川内との将棋の件でここ最近機嫌が悪そうな上司の顔色を窺って動作が鈍く、切れ長の大きな目が特徴的な顔にも恐る恐るといった感じが強い。足音も静かにそろりそろりとした足取り神通の背後に近寄ってきたが、元来トロい思考回路の持ち主である霰は早速、上司のお部屋に入出した際にせねばならない事を忘れてしまっている。

 やがて机に向かう神通の真横までやってくるや、素早く机の脇に立てかけていた竹刀を手にした上司の一撃が霰の脳天に直撃した。


『あうっ・・・!』

『馬鹿者が、敬礼はどうした。昨日今日に来た新米みたいな真似をするな。』


 神通は本に向けた顔はそのままに手首を上下に動かすのみで竹刀を振るったので、それほど強い威力は無かった。お叱りの言葉にもいつもの雷鳴の如き怒号の調子は無く、慌てて揃えた右手を額の辺りにかざそうとする霰に再度、竹刀とお叱りを飛ばしてもそれは変わらなかった。


『この馬鹿が。室内礼で軍帽を被ったまま敬礼する奴がどこにいる。』

『あう・・・。す、すみませぇん・・・。』


 入出から早くも2回も怒られてしまい、いよいよ上司の機嫌が傾いたかと怖がる霰はちょっと涙目になりつつある。何度怒られても少し時間が経てばケロっとして不良娘ぶりを発揮する友人、雪風が羨ましく思えてしまう瞬間であったが、それに反して今の今まで神通は機嫌が良かったのでそれ以上のお叱りの時間は続けるつもりは毛頭ない。当人もそれを無意識の内に解っていたのか、その微笑を隠す様にして本に顔を向けたまま左隣にて脳天を押さえている霰に用件を尋ねた。


『で、何の用だ?』

『は、はいぃ。あの、艦隊旗艦から連絡どす。1300に陸奥艦公室に集合せよ、終わり。』


 霰の声は艦魂達による打ち合わせの為の召喚を意味していた。

 第二水雷戦隊旗艦を分身とする神通はこれでも帝国海軍艦魂社会では幹部格で、20代後半の女性像であってもこの道10年以上のベテランであり、大変な嫌われ者ながらも水雷戦隊と言えばいの一番で誰もがその名を上げるスペシャリスト。第二艦隊内でも打ち合わせに呼ばれるのは日常茶飯事だし、時にはその枠を超えた参集の場に召し出される事も時々有った。だから陸奥艦への呼集と伝えられても特段顔色は変わらず、特に疑問も湧いてくる事は無い。

 それどころか上機嫌の余韻が残る神通は、その原因である信長公の本を読んで得た知識をさっそく実践したいという誘惑に負けてしまい、その内に読みかけていたページにしおりを挟んで本を畳むと立ち上がり、持ち前の鋭く吊り上った目を光らせてなにやら妙に格好つけた様な表情を作りながら口を開く。

 どうやら信長公には口癖の様な物が有ったらしく、元々寡黙な彼女はこれ以降それを何かにつけて用いて行くのだった。


『・・・であるか。』

『は? あ、は、はいぃ・・・。』


 上司の短い応答に一瞬疑問符が頭の上に浮かんだ霰。

 なんて言ったのかと恐る恐る聞き返してみようかと考えるも、『決まった!』とさも言いたげな自信満々の神通の珍しい横顔に言うのをやめた。これでも2年近くこのおっかない上司のお傍に仕えてきた彼女だから、長い前髪に隠れがちなその表情に決してこの人が不機嫌では無い事を見抜けたのだ。

 ほっと一安心して先日来恐れていた神通の癇癪が回避された事を小さく喜びつつ、緊張が解けた霰はすぐに小さな身体を動かして部屋の隅に行き、そこに立てかけてあった明石お手製の軍刀へと両手を伸ばす。これは神通自らの手で鞘や柄に装飾を施し、手入れもまた毎日行っているという大切な物で、彼女が打ち合わせに行く時は必ず持っていくのを霰は知っている。同時に読書を止めて立ち上がった所を鑑みれば今しがた伝えた陸奥艦への召喚に応じようとしている事はすぐに解ったので、霰は大事そうに軍刀を抱きかかえると、軍装を整え、髪を結い直している神通の傍まで小走りで近寄る。

 そして身だしなみを整え終わった頃合いを見計らい、両手でそれを上司の手元に差し出した。


『どうぞ。』

『ん。』


 本来は刀なんて持ってる人は殆どいない艦魂でありながら、神通はまるで生まれた時から手にしていたかのような、それこそ本物の侍もかくやの流れる様な動作で軍刀を手にして部屋を出ていく。強面だけはどうしようも無いが、背筋は真っ直ぐで足の運びも流麗で、しわを消した軍装と小奇麗にまとめた後ろ髪は、侍なんて見た事も無い霰であってもなんだか日本古来の武人らしさを垣間見れたような感覚を抱かせてくれた。


 はわぁ・・・。戦隊長、かっこええなぁ・・・。


 眼前を横切ってもはや後ろ姿となりつつある上司の姿にそう思いながら、彼女は扉を開けて部屋を後にする神通を見送るのであった。




 上司の上機嫌に安堵し、その果てに淡い憧れも燻らせて霰はしばし部屋に立ち尽くす。やっぱりなんだかんだ言って神通という艦魂は凄いんだと感動を改める次第だったが、静かな神通の姿は戻ってくる頃にはすっかり様変わりする事になるのを、残念ながら彼女はまだ知らない。

 陸奥艦で神通を待っているのは他のお偉方の仲間達との単なる会合では無く、今日までの神通自身において最も大きな試練なのであった。

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