第一五〇話 「試練/其の三」
連合艦隊が訓練中の事故に苛まれた時より僅かに時を遡った、昭和16年6月17日。この日、帝国の趨勢を決めかねないとある外交政策が一つの局面を迎えていた。
その相手は現在宗主国がドイツによって占領状態にあるオランダ領東印度で、蘭印総督府と大日本帝国の間で行われた商業と安全保障に重きを置く会商は昨年来より進められて来た物だ。
ただ、豊富な鉱物や石油資源を持つ蘭印に比し、米と綿と缶詰、火山国故に銅鉱物が少々採れる程度の貧乏島国の日本では、双方釣り合いのとれたギブアンドテイクの関係には元よりなれる余地は無い。米国への依存度が高い資源の供給体制をなんとか是正し、その影響による外交上での選択肢の幅を広げるべく仕入れ先を新たに増やそうという意図が日本には有ったが、祖国を踏みにじるドイツと同盟関係にあるこの国に蘭印が前向きな姿勢を示す事は無かった。勿論、蘭印は会議の席上いきなりペンを投げつけて交渉などしないという極めて無礼な振る舞いこそする事は無かったものの、日本の声に対してはのらりくらりと承諾の意を表す事の無いその態度はまさに暖簾に腕押し状態で、引き続き協議を行ってまいりましょうとの合意で先延ばしにするばかり。支那事変や流動極まる国際情勢に次々に対応せねばならない日本にとって、時間が過ぎるばかりの交渉は大きな焦りを生んでいった。
得た物は日本の要求には遠く及ばない規模の石油採掘権と、お決まりの次回協議の意思確認のみだからだ。
そしてこの事態に頭を抱えた日本政府は蘭印との外交交渉を暗礁に乗り上げたと判断し、軍部も交えての状況打開策を検討。6月25日、大本営政府連絡懇談会にてその方策である「南方施策促進ニ関スル件」を決定した。
その内容は日本の要求を実現する為、蘭印に対して圧力をかけるべく南部仏印への進駐を実施するという代物。すなわち自身の目的を達成する為、紙上におけるサインを勧めるのでは無く、戦略的な意味で剣を突きつける事にしたのであった。
さて、その一方。
6月25日の別府湾では第一艦隊と第二艦隊、次いで4月に編制されたばかりの第一航空艦隊が集結し、僅かな休養をとっていた。
夜を徹して行った一大演習の直後という事も有り、疲れ切った各艦乗組員の多くは上陸を許されるやこぞって市街に散らばって行き、多くの短艇や内火艇を繋いだ上陸場近辺は海軍軍人だけで銀座の大通りを再現したかの如き光景となっている。近辺の旅館や銭湯、飯屋なんかは大繁盛で、街中に見る真っ白な軍装の水兵さんは浜辺に茂るソテツの木の数よりも遥かに多い。
なにせ海軍一線部隊における三個艦隊分の人員が一斉に集まっている。誤解を恐れずに言えば日本で一番大きな団体旅行なのだから無理も無かった。
転じて先日の事故の影響は一部の人間達に限られた物となっていたが、原因究明や事後処理が尾を引いて艦内にて缶詰め状態になっている者もいたりする。艦は沈まずとも損壊した物品は多く、直すにしても新品を調達するにしても銀座の一等地にビルを建てれるくらいの金額が動くお話だし、不幸にも死人まで出ているのだから担当の方々はのんびり休養なんてできる訳も無い。二水戦、四水戦司令部は元より長門艦上の連合艦隊司令部でもまた参謀の面々が事故調査に協力し、是正策の検討を進めているのだった。
対して旅行どころか甲板から足を離せない事情を持つ艦魂達はと言うと、別府湾の波間に錨を降ろして久々に会合した仲間達、姉妹達の間で憩いの場を設け、特に4月に編制されたばかりの第一航空艦隊の面々の周りは賑やかだ。明石とは利根と共に同期の間柄として親しい飛龍もその中には含まれ、久方ぶりの再会に手を取り合いながら喜んだ。
ただそんな喜びの陰で最も親しい友人が笑顔になれていない事が気がかりな彼女は、飛龍艦最上甲板での再会にて大はしゃぎするような素振りは意図的に出さないようにし、先日来部屋に閉じこもってあまり姿を見せないその友人への心配を積もらせていた。
もちろんそれは神通だ。
ふてぶてしい、と言えば悪い言葉であるが立ってても座っててもいつもそんな感じで言動もまたそれに似合う物を身に着け、迷いや戸惑いには皆目無縁な雰囲気を持つ彼女を知る故に、明石は合流後に知った先日の大事故とそれに伴う神通の様子の変化がとても気になる。試しに何度か神通艦を訪ねて部屋の前で呼んでみるも、『ちょっと忙しい。』の一言を返されるばかりで顔を見せる事さえしてくれなかった。ましてや神通の過去も知る故に、今回の事故で相当の衝撃を受けてしまって変節してしまったんじゃないかとも思えてしまい、昨日には自分以上に神通を良く知るであろう金剛の下へと訪れて相談してみたくらいだった。
その際の金剛は大丈夫だと言って笑っていたが、やはり顔もしばし見せずにいる神通には不安がどうしても湧いてきてしまう。
そしてそれは神通の部下達にあっても同じだったらしい。
『そースかぁ。明石さんでもそう言ってたッスかぁ。』
『霞姉さんにもそう言われはったんや。どないしたんやろか、戦隊長・・・。』
『声はでも普通だったんだよなぁ。夏潮や黒潮はもう呉に着いてるだろうから、てっきり怒られる頃合いかなって思ってたんだけど・・・。あ、雪風! そのキャラメル取るなよ!』
『うるせーな! 良いじゃねーかよ、1個ぐらい!』
『あーもー、喧嘩するなー!』
久々に明石の下に夜訪ねてきた霰と霞、雪風の3名に、忠と明石を混ぜてお菓子とお茶を振る舞った時に出たのがそんな会話だった。彼女ら3人を含めて二水戦の駆逐艦の艦魂達は事故以来、超弩級の短気である神通の大癇癪を覚悟していたらしく、負傷者である夏潮と黒潮が自力での呉回航となった直後からビクビクしていた様だ。だが事故発生以来、予期していた神通のカミナリは一向に落ちず、それどころか部下である自分達の前にすら殆ど顔も出さない上司に、みんな疑問を呈せずにいられないらしい。
結局その日は理由は解らず、とりあえず具合が悪いとかそういう兆候も見られないという事からそれ以上の神通の話は出ることなく、夏潮と黒潮の心配をしながらも雪風達にとっては久々となる忠との会話を楽しむだけであった。
もっとも、怖い怖い上司の沈黙は翌日になって破られる事になる。
6月26日。第一艦隊、第二艦隊、次いで第一航空艦隊の諸艦は順次出港して有明湾へと移動し、27日より始まる第19回応用教練に向けて準備をする事になった。さながら豊後水道から日向灘の沿岸一帯は帝国海軍艦船による大名行列が進む旅路と化し、行き交う漁船や沿岸の子供たちは手を振って歓迎してくれている。距離の上でも遠くは無いのでのんびりとした物だったが、神通艦だけはそうはなっていなかった。
『司令駆逐艦だけじゃなくて、全員大部屋に召集かよ。珍しいな。』
『ずっと顔出してなかったのに、どうしたんだろね。霰、なんか聞いてないの?』
『ウチも招集て言われただけなんや。たぶんこれからお話するんやと思うでぇ。』
『う〜〜ん、やっぱ事故の事かな?』
神通艦の中にある大きめの倉庫には、二水戦隷下の駆逐艦の艦魂達が集められていた。事故以来しばし音沙汰無しだった上司が霰を通していきなり招集をかけた物で、日頃の訓練も別府湾では珍しく無かったので、少女達にとっては寝耳に水に近い状況であった。まあそれでもあれほど大きな事故だったのだからきっとそれに関するお話なのではとおぼろげながらも想像する彼女達であったが、ほどなくして大部屋の鋼鉄製の扉を開けて室内に入ってくる人物に気付くや皆がその声を止めた。
鋼鉄の重苦しく軋む音を後に残して入室してきたのは、小柄な少女達とはうって変わって170センチを超える女性にしては大きな体躯に、細身ながらも歩き方と強面のせいか力強い雰囲気が満ちた特徴的な物腰で、それをほぼ毎日目にしてきた少女達が彼女を見間違えることは無い。目深に被っていた軍帽を小脇に挟み、露わになる長い前髪とその狭間より除く鋭い眼光はまごう事なき神通の物。
すぐさま少女達はその場で直立不動の体勢を作り、霰の号令に続いて一斉に腰を曲げて礼をする。
『気を付けー! 戦隊長に敬礼!』
『ご苦労様です!』
『ご苦労様でーす!』
『ん。』
非常に短い返事と共に浅く彼女も礼を返すと、神通は何やら片手に持った10数枚近い紙切れを手近な所に有った木箱の上に置いて、少女達の集団と正対する様に顔を向けてみせた。
すると少女達はすぐに神通の目の下にクマが出来ている事に気付き、それはきっとここ数日顔を出さなかった事に起因する物だろうと推察。今しがた木箱の上に置いた紙とこれから放つであろう彼女の言葉は、きっとその結果なのだろうと理解して全員が声を喉に押しとどめる。
故に些か発言に遠慮の無い性格の雪風すらも、他の者達と同じ様に神通の声に従うのだった。
『今日は先日の衝突事故の話をする。あれは今この瞬間、この場に居る誰かの分身に起きても不思議じゃない事故だ。全員必ず肝に銘じろ、いいな。』
『はい!』
『よし。まずは全員、その場に座れ。』
人の目から見れば大きめの倉庫の中であっても、神通の指示に従って続々と腰を下ろし始める少女達の姿は、艦魂達にとっては立派な修練の場であり教育の場。立派な行動は勿論の事、黒板も教壇も無ければ生徒である者達の分の椅子や机だって無い。雪風達が腰を下ろすやすぐさま各自で鉛筆とメモ帳代わりを用意するも、指くらいの短さしかない鉛筆や、既に過ぎた日付の日めくりカレンダーを束ねて帳簿紐を通したノート等、質素と倹約が随分目立つ艦魂達のお勉強環境だが、これでも本人達は大真面目な上に怖い怖い上司が先生でもあるから不平不満を抱く者はその場に誰一人としていなかった。
そしてこんな質素な面と同時に存在する物凄く怖い所が、彼女ら「私立神通学校」の面々に備わる日常でもある。
目の下にクマが出来た事で律した神通のお顔はいつもよりもなんだか怖さが増しており、ほんの僅かに尖った感じの声色で言葉を紡ぎだすと少女達の顔色はみるみる内に青くなり始めていく。
『・・・お前達は、以前に台湾海峡で各駆逐隊毎に海域警戒の戦務に就いた筈だ。その時に私が全員に与えた課題を、お前達覚えているか? 朝潮、言ってみろ。』
『あ、はい・・・! え、えと、近辺に確認した船舶の航行状態の把握、です・・・。』
『それを少しでもあの事故の時に気を付けていたか? 犬、事故発生時のお前の状況を言ってみろ。』
『う、うッス・・・! あ、あん時はアタイは一六駆二番艦で、一五駆の後方に居たッス。右舷側には一八駆で、ちょうど猿が居た・・・。』
『馬鹿者がぁ! 方位は、針路は!? 速力はいくつで回転指示はいくらだった!? お前の周りでどいつがどこでどう動いていたと聞いてるんだ!!』
『ぐひっ・・・!』
『誰でも良い! あの時の自分の状況を言ってみろ!』
この人の唇から凄絶な怒号が飛び出すのは、鼻っ柱の強い雪風をもってしても一向に慣れない。ましてや雪風以外の少女達も今しがたの神通の質問に明確に答えれる者はおらず、全員が小さな身体をわなわなと震わせて上司の顔を見れずに視線を泳がせ始める。もっともそんな慄いた末の反応で許してもらえる筈も無く、居並ぶ全ての部下達が解答を持たぬ事を見抜いた神通の怒号は、すぐに雪風一人からその場に居る全員へと矛先を向けるのであった。
『夜間航行の原則として相対運動を必ず把握しろと何度も言って来た筈だ! 私が少し調べて纏めれた程度のこの事を、何故貴様ら誰一人として答えられんのだ!』
相当の剣幕で怒鳴りつけながら、神通は持参した数枚の紙を置く木箱何度か叩いた。その衝撃で紙は僅かに宙に浮かび上がるとヒラリと木箱の上から滑り落ち、紙面に描かれた図柄の様な物が少女達の視界に収まる位置で床に止まる。次いで皆がふと見たその紙面の内容をすぐさま理解し、神通がこの数日全く顔を見せず、しかもまた目の下にクマまで作りながらこうして眼前で怒鳴り散らしている理由を察した。
その紙には各自の分身を中心としてどこにどの艦が位置していたかが分刻みで記され、各々の速力や発していた各種信号の詳細までもが一枚一枚に書かれており、雪風達は一挙に驚愕の表情を浮かべる。事故以来ずっと部屋に閉じこもってた故に神通はその分身以外の情報を持っている訳がないので、人間達が作成している事故発生時の雪風らの分身の行動詳細は見ていない筈。現場海域に居た者を訪ねて聞き取り調査したとも考えられず、何ゆえに自分達の行動をここまで克明に把握できているのかと全員が言葉を失ってしまう。
やがて雪風が恐る恐る質問をしてみたが、一蹴するかの如き物言いで返されて彼女は再び身体を大きく震わせた。
『・・・せ、戦隊長。こ、これどうやって作ったんスか? あ、アタイらの所に乗組んでる人間の航海科の連中とか、そういう類で持ってた記録簿とかなんかに書いてたんスか・・・? 台湾じゃ1隻航過するのを記録するだけでもかなり時間かかってたのに、こんな10隻以上もの航行状態なんて・・・。しょ、正直、時間かかり過ぎて複雑な戦闘運動に追いつかないんじゃぁ・・・?』
『この馬鹿が! 前の台湾海峡での一件、私が自分にできない事をお前達にやれと言ったとでも思ってるのか! これは全部私が個別に記録していたのを纏めた物だ! 教練開始直後からのな!』
『うへっ・・・! ま、マジっすか・・・!?』
以前に雪風も含めて皆が大いに苦戦した事を、あろう事か神通は一人で16隻分、しかも薄暮時で視界も良いとは言えない中でずっと実施していたらしい。無論、事故の事を予知していた故では無い。艦魂とは言え夜戦部隊を率いる身として、花の二水戦旗艦を分身とする者として日頃より人並み外れた努力で己を虐め鍛える神通にあっては、部下達が苦悶に染まった荒行なんか10年以上、ほぼ毎日こなしてきた日課、もっと言えば艦の命として生きる上での習慣にも等しい代物だった。
事故当時もその例に漏れず隊列からやや離れた位置であっても怠ってはいなかった様で、ビクビクをしながら紙を覗き込む少女達は当事者であるにも関わらず解らなかった事が極めて詳細に書かれている事に半ば唖然としてしまう。同時に雪風の様な疑問は元よりいかなる言い訳も通用しないと悟り、いよいよ戦々恐々。一部の者はガチガチと歯を噛みならす程に震えたりもする中、雷鳴の如き神通の怒号が轟いて皆一斉にげんこつを頂いた様に首をすぼめた。
『貴様ら全員の認識の無さが何よりの証拠だ! 空間としての船位や体勢の把握が揃いも揃っていい加減だから、事態の流動に対処できんのだ!!』
神通はそう叫ぶや横にあった木箱を蹴りつけて怒号と同じくらいの衝撃を放ち、胆を完全に潰された雪風らはすっかり涙目で全員俯いてしまっている。数日に渡って音沙汰なしだった上司を少し心配すると同時に、そんなに怒ってないのかなと一部には思われたりもしていたが、少女達は腹の底からおっかない今という瞬間を迎えてそれらは全くの杞憂だった事を理解する。人間達の手による人為的なミスでは無く、あの事故で無事だった己らにこそ欠落する部分が有るのだとこれ以上ないくらいにハッキリ、そして厳しく指摘を頂きつつも、それらを決して欠かしておらず自分達の前に明示してみせた神通に皆が涙を浮かべながらも畏敬の念を深くした。
恐怖を一層際立たせる神通の目の下のクマも、自分達への教えを見つける為に複数回の徹夜もこなしてくれた証。声を張り上げ、音を立てるのも恐喝や恫喝の類をする為では無く、彼女独特の教鞭の音色その物である。皆まだまだ震えの止まらない身体であったが、確固たる教訓を先日の衝突事故から得るのであった。
そしてもちろんそれは、いつもの如き鬼教官として己が役目を果たそうと夜通し努力していた、神通の秘めた狙いと合致した結果になった。
おかげさまでお叱り劇に続き、戦慄の余韻も残る中で少女達に伝えられたのは、その日の夜から始まる自艦周囲に視認できる全ての艦の位置と体勢把握。当日の予定として航行中だろうが停泊中だろうがお構いなしにして、日没後から3時間もかけて闇夜の海とにらめっこし、翌日の朝にその一隻ずつの記録と全ての艦がどう動いたのかの纏めを一緒にして提出するという荒行だ。
その苦を知っているのに加えて怖い怖い上司のご立腹を垣間見た手前、少女達はにべも無くそれをやるしかない自身の境遇に、皆一様に七難八苦を前にしたような感を覚えて涙を浮かべた。
もっとも後年、この夜間における船位と体勢の把握は、神通も含めた二水戦各艦の戦ぶりに極めて大なる利を与える事になるのだった。
さてその頃、心配した友人は極めて元気で、且つその鬼っぷりに部下達が完全に凍りついてしまっている事など知りもしない明石は、その分身が有明湾に到着するとすぐに第二艦隊四戦隊所属の愛宕艦へと足を運んでいた。
決して将旗を翻す艦ではないが艦魂達にとっては艦隊司令部に呼ばれた事と同義で、きっと艦内の長官室に居るであろう高雄と愛宕を予想するのは明石も例には漏れなかった。なぜならこの二人、神通が生涯を通して二水戦旗艦を拝命する事が多いのと同じく第二艦隊旗艦に充てられる事が多い艦魂だからで、一等巡洋艦と言えどもそこいらの戦艦や空母の者達より断然に階級は上で顔も広い。
そんな彼女らに召喚されては明石もやや緊張気味な面持ちで長官公室前へとやってきた。ノックをしようと掲げた手を一旦下げた彼女は、細く長身な身体のアチコチを撫でつけて服のしわを払い、首後ろで一本に束ねた黒髪や前髪なんかを整える。ついでに軍帽の汚れも無いようにチェックして被りなおすと小さく深呼吸し、再び掲げた手でドアを鳴らした。
『あの、明石です。御用命と伺い参りました。』
『ああ、入っていいよ。明石。』
室内からは特徴的な男っぽい口調の愛宕の声が返された。
長門に似た陽気な人柄の姉、高雄とは打って変って知的で冷静沈着。豊かな教養を随所に垣間見せる事の多い愛宕の声はとても緩やかで柔らかく、幾分お堅い所が有るにもかかわらず明石の耳への触りは師匠の朝日と同じくらいに心地良い代物でもある。荒げる事なんか有るのだろうかと疑問に思えるくらいの安心感が常に備わり、第二艦隊の仲間達の間でも彼女の人気はとても高い。明石より少し年上な20代半ばの容姿とその分身の艦齢も含めて愛宕は若い部類に入るが、上司上官先輩の風格が艦隊随一で満ちた艦魂が愛宕だった。
おかげで明石は入室前より緊張もほぐれて笑みも浮かび、至って自然な動きでドアを開ける。そこには正真正銘、人間達が使う本物の長官公室が広がり、木目も美しい調度品や絨毯の色彩による煌びやかな部屋が広がっていたのだが、明石はそんな室内に予想済みであった愛宕と高雄以外の人物を見つけ、後ろ手にドアを閉めるのと同時に小さく驚いて足を止めた。
『あれ、飛龍!?』
『あ、明石ー。』
『おおい、明石。私だっているぞぉ。』
『そーだ、そーだ。蒼龍の言う通り。』
『おうふ・・・! も、最上さん達も?』
艦魂としてだが第二艦隊の長的立場にある高雄と愛宕が上座の位置に座る中、室内中央に鎮座する長机の脇にはなんと二航戦の飛龍と蒼龍、七戦隊の最上らの姿が有った。片方の肩口から纏めて垂らす長い黒髪を撫でながら飛龍はきょとんとする明石をクスクスと笑い、明石とは同期の様な間柄を共に認める仲なだけにその笑いには遠慮が無い。すぐ隣でふてた様な表情を浮かべて頬杖をつく姉の蒼龍、次いで机を挟んだ反対側に列をなして座る七戦隊の先輩達を宥める事もせずにしばし面白おかしく右往左往する友人を笑うばかり。対する明石は自分だけが呼ばれたのかと思っていたし、揃っている顔ぶれも第二艦隊と第一航空艦隊の混成だっただけにますます現在の召喚された状況がよく解らなくなってしまった。
愛宕がニコニコと笑いながらも着席を勧めねば、しばし首を捻ったまま皆の前で立ち尽くしていただろう。
『ははは。まあまあ、とにかく掛けてくれないか、明石。ほら軍帽もとって。』
『あっ、と。は、はい。ご苦労様ですぅ。』
その落ち着いた口調に背を押される様にして、明石は軍帽を小脇に抱えながら飛龍の隣の椅子に着座。ちょっときょろきょろしつつ上座の愛宕や高雄が何か話すだろうと思い、大いに笑った飛龍をふざけ気味にちょっと小突いてからその方向を注視する。
するとそれを待っていたかのように高雄が声を上げ始め、同時に室内の雰囲気は若い女性の集まる事による賑やかさ、華やかさから真剣さも帯びた小会議の物へと変わって行った。
それによるとどうも高雄と愛宕を抜いた現在集まっている面々に対して、新たな命令が下って艦隊から分派される事が予定されているらしい。
『二航戦の二人は一度経験してる事だけど、仏印方面に対してまた相応の水上部隊を派遣するんだってさ。ここに居るみんなはその派遣部隊に選ばれたんだよ。鳥海のトコの艦隊司令部にも正式に命令書が届いて、一航艦の赤城さんからも連絡が有った。〝ふ号作戦〟という名で行動するみたいだね。作戦部隊としては第二遣支艦隊を基幹に据えて、指揮系統としても向こうの足柄さんの下に入ってもらうから。私ら第二艦隊はこのまま27日に有明湾を発った後、演習と訓練をしながら東京湾方面に巡航する事になるけど、みんなはもう少し残ってからの有明湾発でそのまま仏印派遣って事になる。集結地は、海南島の三亜だってさ。』
『あ、あの、それって私もですかぁ?』
『そのと〜り。明石クンにとっては初の海域、初の南方派遣になるね。頑張ってちょだいよ。』
特務艦艇として日々頑張る明石には思わぬ事だった。新鋭の戦闘艦艇の仲間達はそれこそ飛龍然り利根然り、人間達による国際情勢の流れで艦隊とは別行動をとる機会は結構有り、仲良しの神通や那珂だって数年程前には支那沿岸での上陸や海上封鎖なんかに参加したのは一度や二度ではない。明石も支那には行った事だけは有るが別段たいそれた任務をこなした事も無く、第二艦隊の皆について行って支那の港湾巡りをしていたと言った方が正しいくらいだった。
そんな中での仏印派遣は以前に高雄に教えてもらった工作艦としての自身のお役目には極めて近い内容で、戦闘による被害は無くとも遠く祖国を離れた海域で仲間達の能力を存分に発揮させる為の整備や小修理なんかはきっと有る筈。まともなデリックすら備わっているかも解らないただの泊地にて、貧相な陸上設備の規模を感じさせぬほどに貢献できるのは、帝国海軍広しと言えど明石の分身たる明石艦以外には考えられないのである。ましてや尊敬する先代もまた、地球の反対側まで赴いて勲章を頂く程に結果を出した事を何度も耳にしてきた彼女にとっては、今回の仏印派遣のお話は自身のステップアップに大きく作用するチャンスだと思えてならなかった。
俄然、明石には気合が入り、高雄に続く愛宕からの語りかけに大きな返事で応えてみせる。もちろんその表情にも笑みがこぼれる。
『ここにいる他に南支那方面を管轄する一五戦隊と五水戦、三四駆逐隊も合流する事になる。その全員における全力発揮可否は、本当に明石の頑張り如何だよ。プレッシャーをかけるつもりは無いけど、経験を積む意味でも頼むよ。明石。』
『はぁい! が、頑張りまぁす!』
或いは小松島の飛行場に、或いは宮古島の潜水艦救難にと彼女なりに頑張ってきた中で、これまで分身の真価を問われたそれらの機会は全て単独での行動ばかりだったが、今回は違う。多くの仲間達によって作られる一つの部隊に対して参画し、呉や横須賀みたいな立派な工廠どころか曳船すらも居るかどうかも解らない海域に進出し、そこで工作艦としての実力を発揮して仲間達のケアを行うという任務は、これまで明石が頑張ってきた修練の中でも一番実践的な代物だ。
いよいよ自身の大舞台が来たかと興奮すらも覚える感覚にとらわれて両手に拳を作っている彼女のすぐ傍で、共に仏印行きとなった飛龍が小さく掛けてくれた言葉もまた、明石の燃える心に上手い具合に油を注いでくれた。
『明石。あの方面の一番最寄は広州か海南島の港だけど、そこだって普通の商業港だから修理とかに使えそうな造船施設なんてそんなに無いの。おまけにすごく暑い海域だから、通風関係の設備の故障は艦の運行にも影響が大きいよ。前に行った時は八戦隊の筑摩が体調崩しちゃった時も有ったし。その分、明石の所にはお世話になると思うから、準備は万全にお願いね。』
『私だってこれでも毎日お勉強してるもん! 工作は乗組員の人達がやるけど絶対大丈夫だし、みんなの医務なら任せなさぁい! よーし、やるぞー!』
ちょっとうるさいくらいの声量で気持ちを改めた明石。
勉強漬けで仲間達の艦隊訓練に随伴するばかりの日々から離れる事に不安が無い訳ではないが、師匠や愛宕辺りより諭されてきたお役目の場にようやく第一歩を到達させたという達成感と、一体どの様な所でどのような試練が待ち受けるのかと考えて得る期待感の方が彼女の胸の内では大きかった。不思議と億劫にはならなかった。好奇心だったのかどうかは明石自身にも解らないし、はしゃぐような自分を諌めるつもりも無い。同期の者達が別行動で成果を上げ、目下の霞や雪風らが呉最強の座を争う程に成長し、一年ぶりの再会を経た相方が一端の士官としてそれらしさを彼女のすぐ傍で確実に発揮しだす周囲の状況で、明石はいよいよ自分が成長を実感できる場が与えられたのだと思えてそれが嬉しくてならなかった。少し前に敷島という大先輩より、「師匠や先代以上の存在を目指せ」との教えを受けていた事も大きい。
もっとも明石としても仏印の海域で待つ試練は楽な物だと捉えてはおらず、工作艦としてたった独りで孤軍奮闘せねばならぬ苦労は覚悟の上。もしかしたら先日の神通の様にその人なりの大きな修羅場に陥る可能性も否定できないが、恐れは明石には湧いてこなかった。
『神通ー! 私、仏印に行ってくるー!』
『あ? 仏印? ・・・おい、那珂。こいつは何を言ってるんだ?』
『え、第二艦隊は横須賀方面巡航だったと思ったけど・・・。あ、もしかして高雄さん達が明石を呼んだのって、その事だったの?』
愛宕艦より帰り、事故の事後処理から解放された直後の友人二人に会っていきなり明石は声を掛けた。使命感に燃えたその言は余りにも要点を絞った物だった手前、神通と那珂は全く理解を示してくれず訝っていたが、それすらも明石には気にならなかった。
工作艦として、艦魂社会における軍医として、ついに迎えた試練の時。自身の周りに居る誰しもが潜ってきた門を前にして湧き出る感情は、女をしても不思議だと思えるほどに明るい物で、それこそ先日の二水戦の事故の様に死傷者を生む事態になるかもしれないと想像してみても灯りが消える事は無い。楽しみだとかそういうのではなく、どの様な艱難辛苦を前にしようとも何としても良い結果を出さねばと心を燃やすばかり。宮古島での不甲斐ない初陣に始まる己の未熟さを一挙に挽回する機にするべく、明石は事故の事をあまり聞く事も無く足早に神通らと別れ、すぐに泊地を同じくしている朝日の下へと直行。
来るべき試練への想いと、各種お勉強の追い込みに精を出すのであった。
もっとも、彼女が色濃く闘志を燃やす、この仏印行動。もちろん人間達が明石の為に用意してくれた試練などでは決してない。
海軍部内では「ふ号作戦」と呼ばれるその施策は、日本という国家が企図したとある一大国家事業の一角をなしている物なのだが、あろう事かこの一挙こそが後の大惨劇への文字通りの引き金となってしまう事を、無邪気なまでにやる気を漲らせた明石はこの時知る由も無かった。
後世に言う「南部仏印進駐」の始まりである。