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第一五話 「出動命令下る/其の四」

 昭和14年12月5日、1400。

 雪と民間船の賑やかな汽笛が響く中、明石艦と沼風艦は青森港に到着した。


 日露戦争後の明治39年に開港された青森港は、明治41年から北海道の函館とを結ぶ青函(せいかん)連絡船の出発港として栄えてきた日本国内でも重要な港である。鉄道の面においても福島県から日本海側を走る奥羽(おうう)本線、東京駅から太平洋側を走る東北本線の終着駅でもあり、この鉄道貨車をそのまま船に載せて函館まで運送する青函連絡船は本州と北海道を結ぶ大日本帝国交通網の大動脈であった。

 また最近になって青森市郊外の油川(あぶらかわ)には民間の飛行場も作られ、人と物資の流通の面においては東北随一の大都市である仙台市をも凌ぐ地が、この青森港を有する青森市なのである。さらに市内には八甲田(はっこうだ)山雪中行軍で有名な陸軍歩兵第5連隊も駐屯しており、軍人向けの商業と流通も青森市の発展には一役買っている。典型的な農業第一を主とした田舎である青森県だが、青森港と周辺の市街地だけはこうした立地条件から商業が著しく発展した所だった。




 季節を通して人の賑わいが溢れる青森港だが、明石艦は残念ながら沼風艦のように桟橋への接岸ではなく沖合いでの錨泊(びょうはく)となった。港の水深が充分ではないからである。

 数年前には港内で民間船の座礁が相次いだ事もあって、宮里(みやざと)特務艦長も大事を取って沖合いでの停泊としたのだ。

 上陸が大変な沖合いでの停泊だが、工作艦である明石艦の設備がまたもここで生きる事になった。資材輸送用の運貨艇(うんかてい)が上陸用舟艇へと早代わりしたのである。もちろんちゃんとした内火艇(うちびてい)も明石艦にはあるが、それは艦長や艦内幹部用である。そもそも内火艇は何十人も人を乗せれる様には作られていないから、乗組員の大半を占める水兵や下士官はちょっとした上陸でも手漕ぎのカッターで上陸するのが艦隊勤務においては常なのである。だがそんな艦隊勤務にあって身体を張ってボート漕ぎをせずに上陸できる事は、水兵達にとって嬉しい事だった。





 ここで物資の搬入と5日間の休養を取る事になった明石艦の最上甲板では、上陸を楽しもうとする多くの乗組員達が上陸用舟艇を待っていた。基本的に暇な部署である砲術科の乗組員達の顔ぶれが目立つ中、そこには忠とマサの姿もあった。


弘前(ひろさき)までの汽車、あるかな?』

『まあ、大丈夫だろう。夜行までまだ時間はあるし。』


 艦側の手摺に捕まって、忠と弟のマサは港から戻ってくる運貨艇を眺めていた。タンタンと子気味良く響く運貨艇のエンジン音が、次第に二人の胸の内に生まれ育った地へ再びその足を着けれる喜びを湧かせ、彼等はその表情を明るくする。特にマサにとっては久しぶりの帰郷であった。


『兄貴、ホントに帰らないのか?』

『しょうがねえよ。これでも砲術士少尉だからな。』

『ふ〜ん、偉くなるのも辛いモンだな。』


 忠はまだ若いがれっきとした明石艦幹部であり、乗組んでいる15名の士官の内の一人である。いくら休養停泊でも長く艦を離れる事は出来ないのだ。そんな兄の境遇にマサは少し口を尖らせて同情したが、忠は表情を変えずに近づいてくる運貨艇を見つめている。やっと帰郷が叶う弟に、それを斡旋できた忠は兄としてそれを喜んでいたのだ。

 というのも、水兵であるマサは海軍に入ってからずっと実家に帰っていない。その上で実はマサは海軍志願兵となる少し前に、この青森県にある実家から岡山県にある同じ森姓の親戚の家へと養子に行っている身であった。故に実の父と母の顔を既に5年以上も見ていない弟をなんとかこの機会に実家に帰してやりたいと忠は思い、巡航先での帰省が認て貰えるか砲術長の青木大尉に相談してみた。青木大尉は日頃から真面目に働く忠の願いを聞き入れてくれ、特務艦長の許可も得て巡航先でのマサの単身帰省を許可してくれた。

 故に快く忠のお願いを二言返事で許可してくれた青木大尉の笑みに、忠は感謝の念が絶えなかった。




 やがて上司への感謝の念を募らせる忠の耳に響くエンジン音が大きくなってくると供に、降ろされた舷門の下から声が飛ぶ。


『乗船よ〜し。』


 その声を受けて甲板に集まっていた乗組員達はラッタルに向かって一列に並び始め、忠とマサもそれに習った。甲板将校の前に一人一人並んで、上陸許可証と持ち物を確認されてから運貨艇へと続くラッタルを駆け下りていく。士官の身分の者は特に細かく見られないが、水兵の特に新入りの部類はここであれやこれやと文句をつけられる。しかし薄暗くなり始めて気温もどんどん低くなってくる中、進まない行列に痺れを切らした機関長附の柴田(しばた)機関中尉はその事に怒号を発した。


『さっさと進めろ、バカヤロー! 寒さでゴム兜が凍っちまうじゃねえか!!』


 豪快な性格と荒い言葉遣いで恐れられる柴田機関中尉の怒号に甲板将校が気まずそうな顔で小さく頭を下げるが、その場にいた彼以外の乗組員達は柴田の放った言葉に声を上げて大笑いした。

 同じ様に抱腹して笑うマサと忠だったが、忠は突如としてその腕をグイグイと引っ張られる。笑いが治まらない忠の腕を引っ張るのは明石だった。忠達が大笑いする元凶にして初めて聞くその言葉を知識として覚えようと、明石は目を大きく見開いて声を上げる。


『森さん、森さん。ごむかぶとってなあに?』


 すっかり彼女の存在を忘れて笑っていた忠だったが、彼女と目が合った瞬間、引きつった笑みとなった。慌てながらも咳払いを一度して表情を正し、顔を正面に向けると小さな声で言葉を返す。


『げふんっ・・・! こ、子供は知らんでいいの・・・。』

『なによ!? ケチ〜!!』


 子供扱いされて怒った明石は頬を膨らませて忠を睨みつけると、プイっとそっぽを向いて艦橋の壁に寄りかかっていた沼風の元へ戻っていった。彼女は首の後ろで結った髪をブンブンと揺らして、肩をいからせて歩いていく。明らかにご立腹である明石の背中に、忠は小さく溜め息をして指先で頬を掻いた。


『なんか言ったか? 兄貴?』

『ん? あ、いや、なんでもない。』


 一人で呟いた忠を不審に思って、マサは忠の顔を覗きこんできた。


 艦魂が見えるってのは辛いなぁ。


 そう思いながらも忠はマサに返事をすると、進みだした行列に従って進んだ。


『ねえねえ、沼風。ごむかぶとって何かな?』

『ふふふ。さあ、なんでしょうねぇ。』


 その背後から響いてくる忠にしか聞こえない会話。気味が悪いくらい綺麗な声で返事をした沼風は、どうやらその正体を知っているらしい。そう思うと忠は少し沼風と目が合わせ辛くなった。


 やれやれ、なんでこんな気苦労をせねばならんのだ。


 艦魂が見る事が出来る自分の境遇を忠は少し呪って、僅かに重くなった足取りで運貨艇に乗り込んだ。

 やがて再びエンジン音のテンポを早くして、忠達を乗せた運貨艇は動き出す。

 遠くなっていく運貨艇の中では、これから始まるシャバの一時を楽しみに語り合う乗組員の会話が響く。風呂に行く者、食い物屋をはしごする者、下宿先を手配して知り合いとあう者。そして柴田機関中尉が行こうとしている色町に行く者。やっと娯楽にありつける彼らの声は嬉しそうでマサもその空気に微笑んでいたが、忠は離れていく明石艦から聞こえてくる彼にしか聞こえない声に目を閉じて頭を抱える。


 夕飯時になってさっきの言葉を聞いてこなければいいが・・・。


 そう思いながら、忠は大きく溜め息をした。


『おで〜〜ん! 忘れないでね〜〜〜!』

『はあぁぁ〜・・・。』


 ちなみに忠が憂うその言葉、「ゴム兜」とは許可証と供に上陸時に必ず確認される物の一つで、海軍で支給される避妊具(ひにんぐ)の商品名である。徴兵検査ですらイチモツを握って病気の有無を確認したという皇軍の、隠れた病気対策だった。





 やがて上陸した忠とマサは久しぶりの故郷の大地を踏みしめながら歩き、バス乗り場の前で止まって向き合った。

 道端の人々が放つ方言で(なま)った声での会話が、二人の心に懐かしさを込み上げさせる。


『へば、わぁこれで。親父とお袋さ、よろしぐな。』

『おう、悪いな兄貴。へば。』

『おう、へばな。』


 かつては当たり前の様に話していた言葉、津軽弁(つがるべん)。田舎者と思われたくない事と日常での会話で困る事から封印していた方言だったが、故郷の空気がそれを忠とマサの意識から完全に忘れさせた。分厚く積もった雪の上、ズブズブと雪が潰れる音を響かせて向かってくるバスを横目に二人は別れる。背後から聞こえる遠くなっていくバスのエンジン音に、忠は名残惜しい気持ちを少し抱きながらも振り返らずに歩いていく。ふわふわと舞い落ちる雪の向こうの海にポツリと浮かぶ今の自分の居場所が、ふと顔を上げた忠の目に映った。


 仕方が無い、オレは帝国海軍少尉なんだ。


 そう言い聞かせて、忠は桟橋の近くの市街地に向かった。





 赤い提灯(ちょうちん)が既に点き始めた小さな通り、そこには寒さが強まる夕暮れ時にも関わらず、人々の笑い声と歌声が静かに響き渡っていた。そこかしこから響く暖かい声と美味しそうな匂いが、歩く忠の表情を自然と明るくさせる。それは通りを歩く人々も同じであった。忠と同じように食い物屋、酒屋を物色する人々は地元民らしい、地味な服を着た人から、旅の途中らしいお洒落な帽子にコート姿の人等、よりどりみどりである。

 忠はそんな中、お店の看板や提灯に視線を配って歩いていた。とある文字を探す彼だったが、しばらく歩いてその文字が書いてある提灯をかけた屋台をみつけて歩み寄って行く。


「おでん 持ち帰り可」


 そう書かれた小さな提灯を下げる屋台は、リヤカーを改造した小さな屋台であった。


『こんばんわ。』

『あら、海軍さんでねが。いらっしゃいませ〜。』


 屋台の奥で鍋の具を箸で突付いていたのは年老いたお爺さん。白く長い眉毛と人の良さそうな笑顔、そして自分と同じ訛りで語尾を伸ばす独特の物言いが忠の顔を緩ませる。


『持ち帰り、4人前で。』


 そう言って店内の具の名と値段が書かれた札を一通り見回すと、忠は数回小さく頷いて続けた。


『そうだなぁ、具は八つぐらい適当に見繕(みつくろ)ってください。あ、大根と卵は必須で。』

『はい、解りました〜。』


 店主のお爺さんが鍋をかき混ぜると同時に、昆布ダシの効いたつゆの良い匂いが忠の鼻をくすぐった。


 うまそうだな、はやく食べたい物だ。


 忠の口の中に唾液が溢れてくる。寒い寒い北国は地元民の一人でもあった忠であってもその身体を容赦無く襲い、外套の上からでもお構い無しに彼の身体から体温を強奪して行く。縮こまる様に肩を震わせて立つ忠は眼前で湯気と汁の香りをもくもくと吹き上げる鍋をただひたすらにじっと眺め、客人だろうと地元民だろうと見境無く襲う故郷の寒さに耐えた。

 だがこの時、カタカタと僅かに震える忠の背中には、甲高く澄んだ色合いの女の子の声が掛けられて来た。


『かいぐんさん、たすけてくれてありがとう。』

『うん?』


 突然聞こえてきた声に、忠は声がした足元へと顔を向ける。

 見れば足元には6歳くらいのおかっぱ頭の女の子がニッコリと笑って、忠を見上げている。寒さから頬を真っ赤にしながらも、元気に笑ってお辞儀するその子に忠はしゃがみこんで目線を合わせた。


『お嬢ちゃん、ありがとうって─。』

『あ、こら千代(ちよ)! 海軍さん、すいません・・・。お仕事中に・・・。』


 忠が言い終える前に、奥で食事をしていたその子の母親らしき女性が走り寄ってきた。咄嗟に我が子を抱き寄せて彼女は謝るが、忠は優しく笑みを浮かべて声を返す。


『いいえ、ただおでんを買いに来ただけですから。大丈夫ですよ。』

『いえ、ほんと申し訳ない・・・。』

『あははは・・・。』


 母親は何度も頭を下げているが、その少女は相変わらずニッコリと笑って忠を見つめてくる。忠はそんな彼女の表情と先程放った言葉に疑問を持っていたので、それを聞いてみることにした。


『お嬢ちゃん、どうしてお礼を言ってくれたの?』

『かいぐんさんが、たすけてくれたから。』

『助けてくれた?』


 首を傾げる忠に、少女の母親がまたまた頭を下げて声を発する。


『すいません。私達は先日、函館からくる連絡船に乗っていたんですが、出航から2時間くらいして船の機関が故障したそうで止まってしまったんです。』

『そ、それは大変でしたね・・・。』

『はい、電気は消えて、船はグラグラと揺られて本当に怖い思いをしました。この子も泣いて泣いて─。』

『でもかいぐんさんがたすけてくれたよ。』


 そう言って母親の言葉を遮った少女の頭を、その母親は優しく撫でて笑みを浮かべた。


『ふふ。この子の言う通りです。そんな私達の船を助ける為に海軍さんのお船が来てくれたんです。まるで谷のようにうねる波の中、海軍さんのお船の乗組員の方達はわざわざ甲板にでてロープを渡して、私達のお船を青森まで引っ張って行ってくださりました。』

『そうだったんですか・・・。いや、ご無事で良かったですね。』

『いいえ、本当に有難うございました。』

『かいぐんさんたすけてくれてありがとう。』


 親子は深々と頭を下げて、再度お礼を言った。忠は母親に小さく会釈をすると、今度は少女に顔を向けて声をかける。


『無事でよかったね。お礼言ってくれてありがとね。お嬢ちゃん、偉いよ。』


 忠の言葉に少女は白い歯を見せてニッコリと笑った。もちろん明石艦がこの親子を守った訳ではなく、恐らく第一駆逐隊の活躍であろう事を忠は悟る。だが長々とそれを話して、せっかくお礼を言ってくれたこの少女の気持ちを無碍にするのも可愛そうだと忠は思い、敢えてそのお礼を受け取ったのだった。


『海軍さん、お待ちどうさまです〜。』


 店主のお爺さんの声に屋台に目を戻すと、おでんが入っているであろう湯気を上げた小さな(おけ)が4つ積んであった。ご丁寧に新聞紙で包み、(ひも)で縛って持ち運べるようにしてくれたお爺さんの好意に感謝しつつ、お代を忠は支払う。


『ありがとう、ご主人。桶は明日、持ってきますよ。』

『ありがとうございます〜。』


 二個づつ縛られた桶を両手に持った忠は、横にいる親子に視線を流してお辞儀をした。


『では、自分はこれで。』

『はい、有難うございました。』

『かいぐんさんありがとう。さようなら。』

『はい、さようなら。』


 そう言って別れを告げた忠は、明石艦に戻る道を歩き始めた。

 だがその道中、忠は不思議な気持ちだった。

 呉での海軍生活で忠は『助けてくれて有難う。』と一般人から言われた事はなかった。呉の人々はいつも万歳を連呼して小さな日章旗を振ってくれる。上陸した先でも当地の人々より掛けられてくる言葉は『いつもごくろうさま。』だった。もちろんそれが忠には嬉しくない物な訳ではないし、彼らが感謝していないとも彼は思っていない。だが、忠の脳裏からはあの少女の笑みが離れなかった。そして胸を張って彼女に『どういたしまして。』と言えなかった自分を、この時彼は少し恨めしく思っていた。


 日本の為、そう言って頑張る人達は沢山いるし、自分もその一人である。だがあの笑みを護る為だ、と言う人とはいるのだろうか?

 オレ達、帝国海軍が守らなければいけないのは、あの少女の笑みなのではないのか?

 それとも国を護るという事は、あの笑みを忘れてただ眼前の理想を追い求めて励むという事なのか?


 忠はふと立ち止まって、暗い銀色となった空を見上げた。


 相も変わらずに宙を舞い落ちてくる雪。その一つ一つがあの笑みだとしたら、帝国海軍はそれを全て地に着けずに受け止める事が出来るだろうか?


 そう思って見上げる空は、ただ雪を宙に放つばかりで何も答えてくれなかった。







『遅いな〜、森さん。』

『もうすぐ帰ってきますよ。』


 明石は部屋のベッドの上で舷窓から、降りしきる雪とそれを吸い込んでいく海を眺めていた。まるで食事の合図であるラッパの様に鳴る明石のお腹の音に、ベッドに腰掛けた沼風がクスクスと笑う。ただでさえ寒い上に空腹である明石は全身から力を抜き、パタッとベッドに倒れた。活力が抜けた表情で彼女は口を開く。


『お腹減った〜・・・。』

『森さんはご出身は青森なんですよね?もしかしたらお知り合いとお会いになってお話なさってるんじゃないんですか?』


 あくまでも可能性を挙げた沼風の言葉だったが、明石はベッドに横になったまま眉をしかめて口を僅かに尖らせる。


 それって私よりも優先しなきゃいけない事なの?


 そんな言葉が脳裏を過ぎり、明石はベッドの布団を緩く握った。そして沼風はその明石の行動に気づき、気まずそうに苦笑いして声を発する。


『あ、でも、きっともうすぐですよ・・・。』

『うん・・・─。』



 その時、明石の声を遮るように扉を開ける音がした。沼風はその音に安堵して笑みを浮かべ、明石は布団を握ったまま扉に視線を移す。


『や〜、ごめん、ごめん。見つからない様にここまで来るのが大変でさ。ごめんな、お腹減っただろ?』


 そう言って部屋に入ってきたのは忠だった。忠の言葉に明石も沼風も遅れた理由を悟った。 

帝国海軍では艦内への物の持ち込みは基本的に禁止なのである。もちろんお目溢しをしてくれる上官がいたりする物なのだが、全員が全員そうと言う訳ではない。ましてある程度階級が高い忠が水兵や下士官に見つかって注意されたとなれば、所属の砲術科は艦内でお笑い物となる。だから彼は見つからない様に来る必要があったのだ。


『予備弾代わりに4つ買っといて良かったよ、舷門のトコで番兵してる奴に捕まっちゃってさ。一個あげて見逃してもらったんだ。』


 忠は苦労話をしながらも、優しく微笑んで縛った紐や新聞紙を解き始める。中からでてきた小さな桶を一つずつ取り出して机に並べていく忠はベッドで横になる明石に向かって、時折『ごめん。』と言って小さく頭をさげてくる。

 相方が自分の為に危ない橋を渡ってここまで来てくれた事に明石は表情を緩めたが、何故だか同時にヘコヘコと頭を下げて笑う忠を無性に困らせたくなった。故に明石はベッドに横になったまま、布団をバンバンと叩いて嬉しそうな声で無理難題を叫ぶ。


『寒いぞ〜!腹減ったぞ〜!一歩も動けないぞ〜!』

『無茶言うなよ。その代わりちゃんと買ってきたぞ、おでん。』


 苦笑いする忠が小さな桶の蓋を開けると、まるで全速航行時の排煙のように桶から湯気が上がった。そして部屋の中を支配していく香ばしい匂いに、明石は飛び起きて忠のもとに駆け寄っていく。


『お〜、(くし)に刺さってるんだぁ。早く箸とってよ〜!』

『一歩も動けないんじゃなかったのかよ。お、あった。箸だ、ほら。』


 暖かなおでんが詰め込まれた桶と箸を受け取った明石は両手で大事そうにそれを抱えると、ベッドに腰掛けて膝の上に桶を置き、箸を進めた。味の染み込んだこげ茶色の大根を頬張ってニッコリ微笑む明石に、沼風は口に手を当てて静かに笑みを作る。


 まだ色気より食い気か。


 まだまだ若い艦魂である明石の姿をよく理解しながら、沼風は心の中で頑張れと呟いた。

 やがて沼風にも忠は桶を渡したが、その横で一足先に舌鼓を打つ明石は桶の中に発見した奇妙な物体を指して忠にそれを問う。


『森さん、この黄色いのはなに?』

『生姜味噌だよ、珍しいだろ?連絡船を待つ間に食って暖をとれるように、生姜味噌をつけて食べるんだよ。』

『へぇぇ、面白いなぁ。あ、貝も入ってる。』

『つぶ貝だよ。オレはこれが好きで─。』


 暖かいおでんと忠の解説に、3人は箸を進めた。濃い味付けのおでんだが身体が温まった事もあって、3人は机の下にあったお酒を取り出して飲み始めた。呉を発ってから忠と明石は寒さでとても酒を飲もうと思えなかったので、今日は久しぶりのお酒である。

 舌に残る濃い後味と心に残る答えが見つけられていない疑問を、忠の目に映る二人の笑顔と酒がスッと流していく。その日の酒の味わいは格別だった。

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