第一四八話 「試練/其の一」
昭和16年6月22日。
午前9時をもって宿毛湾に停泊していた第一艦隊、および第二艦隊は、第8回基本演習を行う為に揃って出港。世間は日曜日という事で梅雨時のお天気も重なりほとんどの人々が休息を謳歌しているであろう日であるが、日増しに熾烈さと混迷を極める欧州大戦と、支那や米国が主となる国際情勢の荒波に揉まれる帝国の海軍にはお休みなぞ無い。「月月火水木金金」の語句そのままの猛訓練が続いている。
山本連合艦隊司令長官直卒の第一艦隊も例外では無く、戦艦部隊は勿論の事、隷下の旧式艦で構成された巡洋艦戦隊、水雷戦隊も、最新鋭の艦船で構成された第二艦隊に劣らぬ勢いで海上を勇躍。鉄の地肌ながら潮気が染み込んだ老練ぶりを鈍く輝かせて、快晴の空の下を沖合へと駆け出していく。
艦の命達にしても、山本長官の将旗を翻す長門艦を含む戦艦の者達は階級も年齢も相応に高いので、お偉方の前で行う演練という体裁からそれなりの緊張感も漂っていた。割とおふざけじみた言動が多い第二艦隊の長である高雄も朝からその表情は律したままで、演習内容の確認を行う姿にはお堅い人柄の愛宕にも劣らぬ真面目な雰囲気を纏わせていた。
同時に、その緊張感と訓練の重要さにより姉の様に慕う長門とは結局会えずじまいだった明石にはちょっぴり残念であったが、あのぐーたら姉さんである長門がそこまで打ち込んでいる程に重要なのが今回の訓練なんだろう、と心に言い聞かせて一人納得。昨年は不在だった相方も居るのだし贅沢は言うまいと考えたりもしていた。
ところがどっこい昨日、すなわち6月21日になって宿毛湾には意外な人物、もとい意外な艦艇の軍艦旗が姿を現していた。
古風な衝角艦首とスタンウォーク付の艦尾を持ち、艦中央に聳え立つ真っ直ぐな一本煙突とその前後にて天を衝く支柱無しの単檣が寸胴な艦体に一際映える。艦橋に当たる部分が近代軍艦の如き檣楼となっておらず、真横から見るとどちらが艦首でどちらが艦尾なのか一見解らない形で、見るからに古めかしい海軍艦艇である。15000トンを数えそうな大きさは有るも目を引く様な巨砲は備え付けられておらず、宿毛湾の海岸にて輝く瞳で軍艦を眺める少年達もこの艦艇に興味を持つ事は無い。力強い大戦艦やスマートな巡洋艦に比べたら格好悪いとすら感じる程だった。
もっとも艦の命達にしたらそれはとんでもないお話である。
この老艦の名は朝日艦。その命たる朝日は帝国海軍艦魂社会では誰もがその名を知る長老格の者にして、往時は世界最強と目された大戦艦の分身を持つ。敬いと尊崇の念は皆一様に桁違いの差で注がねばならない相手と目されており、人間達が行う乗組総員による登舷礼に近い姿で宿毛湾在泊の艦魂達が彼女の入港を迎える光景を作っていたとしても、決して行き過ぎた対応ではない。
既に戦闘艦艇としてはリタイアした身であっても尚、それこそ人間達の言う所の艦隊司令長官クラス、最上級の目上の人物と位置づけられるのが、朝日という艦魂であった。
『軍医中将に敬礼。』
『ご苦労さまです!』
『はい、みんなご苦労様。艦隊訓練で忙しい所なのに、こんな出迎えまでしてもらってなんだか悪いわね。』
長門艦上に勢揃いした宿毛湾在泊の第一艦隊、第二艦隊の艦魂達の列の前にて、朝日は持ち前の実に慈しみが満ちた様な笑みで答礼しながらそう答える。
西洋人独特の彫の深い顔立ちに白い肌、晴天と海を連想される碧眼、陽光に照らされて琥珀色に輝く肩を覆うくらいの髪など、その西洋人女性特有の出で立ちは40代半ばの年齢の容姿も含めて、対面の形で並んだ宿毛湾在泊の艦魂達とは大きな差が有る。もっと顔立ちや人物としての雰囲気に精悍さが有れば、それこそ金剛の様に男物の第二種軍装も似合う格好良い女性となるのだろうが、この点でもどこぞの西洋貴族の婦人の如き優しげで品の有る女性像を持つ彼女は、パッと見た感じでは軍人の一張羅たる軍装と軍帽が極めて様にならない女性でもあった。それがまたしても長門を始めとする宿毛湾在泊の艦魂達との間に一線を設けてしまうものの、むしろそんな所に各々にとって辿り着けない同じ艦魂としての美しさを垣間見た様な気がしてならない彼女達には、軍人姿の似合わない朝日に疑問を呈するなんて選択肢は毛頭湧いてこなかった。
その40代半ば頃の顔立ちを若いと感じる者は正直居ないものの、それだけ朝日は美しい艦魂であった。
まして朝日の分け隔てのない優しい人柄と気品溢れる物腰、そして忘れてはならない一流の紅茶を用意する腕前は帝国海軍艦魂社会で超が付く程に有名だから、世代が違う中にあっても朝日は大変な人気者である。
格式ばった挨拶を終えるや朝日の周りにはすぐさま仲間達が集まり、立場の上でも偉い戦隊旗艦、艦隊旗艦クラスの艦魂達なんかは誰一人欠落する事無くその中に顔を並べている。普段は大人しい者、無口な者であっても我先にと声を掛けている有様だった。
おかげで敬愛する師匠を目の前に中々お話しできない明石だったが、心優しき師は40名近い者達の中であっても教え子の事を忘れてはいなかった。金剛や長門、陸奥といったお偉方に一通りの声を掛けた後、わざわざ笑みを明石に向けて久々に朝日一家の面々で憩いの場を設けようと提案してくれたのである。
『さあ、みんなそろそろ解散しましょう。大事な艦隊訓練の最中なのだから。私も到着したばかりで少し疲れたわ。長門、明石。一緒にティーにしましょう。』
『お、叔母御〜! ワ、ワシはぁ・・・?』
『貴女は後で。先月ごちそうしたじゃない。』
親子付き合いに等しい間柄で20年以上過ごしてきた金剛の願いすらも却下してのお誘いだった。
もちろんそうでなくても元より明石に断るつもりは無く、思わず両手に拳を握って朝日の誘いにはしゃぐように承諾の意思を示す。すぐその後に嫉妬心を隠しもしない金剛が強引に肩を組んできて、持ち前の姉御肌、親分肌全開の物言いで明石を困らせる事を言ってきたのでちょっと怖かったが、明石の冷や汗物の困惑を取り払ってくれたのもまた、心優しく頼りがいのある師匠であった。
『おいコラ、明石。ワレ、ワシとティーの順番代わりいや。ワシにとったら敷島の親方はオトンで、叔母御はオカンみたいなモンやねん。25年からの付き合いなんや。な、ええやろ?』
『へう・・・!? で、でも、あのぉ・・・。あ、あはは・・・。』
『なんやあ、イヤや言うんちゃうやろな?』
『金剛、後でと言ったでしょう? それに長門も明石も私の直接の教え子。これは師としての私の大切な教育時間でもあるわ。そういうのを邪魔するのは許さないと断じて赤城や神通を教えたのは、どこの誰だったかしら? この中で一番よく知ってると思うけど、私は理屈と信念をその時々や環境で都合良く変える人は嫌いよ。』
『むぐ・・・!? か、堪忍してぇな、叔母御〜・・・。怒らんといてぇやぁ・・・。』
まだ今の神通くらいの若さだった頃からの朝日を知る金剛であるから、微笑を変えずともやや尖らせた感じの声を放つ朝日の言動に早くもそのご立腹の心を察したらしい。すぐさま明石の肩に纏わりつかせていた両腕を離すと手のひらを向けて宙に掲げ、まるで銃でも突きつけられたかの様な姿勢で冷や汗の流れる歪んだ笑みを金剛は浮かべた。
誰もがその親分肌を知る中にあって、僅か一言の下に金剛を抑える辺りはさすがと言った所か。決して優しいだけではない、それこそ姉譲りの強面の一面も備わっている師の人柄を目の当たりにし、改めて朝日の老練さを思い知った様に明石は感じるのだった。
そしてそれは師の分身に赴き、長門と共にティータイムを迎えても尚、まだまだ尻の青い新米艦魂の明石に色々な助言を与えてくれる形でもまた垣間見る事になる。
赤い絨毯が敷かれ、白いシーツで覆われたソファや椅子に腰かけて木目の美しい卓を囲んだ中、朝日と長門、明石の嬉々とした声が紅茶の香りと混ざりながらその場に流れていた。
『あはははは! 高雄もそう言ってたの!? やー、アタシも出雲さんに同じ事言われたなー。』
『まったく、出雲の困った所よ。なんでも冗談が中心にあるんだから。まあ、指揮官、というよりも上の立場にある者としては、確かに出雲は優秀よ。あれで細かい所まで見るのも聞くのも届かせているし、ひょうきんに振る舞ってても重要な事はちゃんと覚えてたり、昔から集団の中で指示の形で声を出すのに億劫にならなかったりする辺りはね。あういうのは誰でもできる事では無いわ。真似をしなさいとは言わないけど、参考にしてみるのも良いかもね、明石。』
『う〜ん、指揮官て難しぃ〜。』
つい先日より始めたリーダーシップのお勉強の事を話題にした明石達。
その際に出てきた出雲という艦魂の名に彼女を知る長門と朝日は大笑いしつつ、朝日だけはその中に見出せる指揮官像の要点を掻い摘んで明石に教えてくれた。言われてみればその要点はなるほど、発端の高雄の普段の言動によく見られる所ばかりだなと思え、傍から見る愉快で面白おかしい人柄の中にこのような特徴があるのかと理解。師の有難いお声に深く何度も頷きながら、特定のスキルが一つでも有れば務まる様な安易さが無いという、指揮官の素地をまた一つ学ぶのであった。
同時にやっぱり朝日と一緒に過ごす時間は勉強になるなと改めて感謝しつつ、今日はそこに件の出雲の薫陶を少々受けて育ってしまった長門もいるのであるから、悩んだり難しかったりする方が多いお勉強の時間も今日は極めて明石には楽しい。
『アタシも正直、上司なんてガラじゃないんだよねえ。出雲さんが艦隊旗艦でアタシがその下なら、こんなメンドイ日々を過ごさなくてもいいのにさぁ。ああ〜、きっと毎日が楽しいだろうなあ〜。』
『なに他人事みたいに言ってるのよ、貴女は。今の責務を背負えない人が理想を支える責務に耐えられる訳がないでしょう。連合艦隊旗艦と同格なのよ、今の出雲は。出雲は出雲の、長門には長門のやらなきゃいけない事があるの。それに日露戦役の前から、出雲は第二艦隊の旗艦として試行錯誤をたくさん積み重ねて土台を作ったのよ。敷島姉さんと一番喧嘩したのは出雲だけど、それもその試行錯誤の過程の一つなの。楽しそうなんて評価だけで何事も欲してはいけないわ。試行錯誤の過程と結果が一番大事。評価は二の次っていつも言ってるでしょ? 解ってる?』
『え〜ん、朝日さん怒っちゃいや〜ん・・・。』
相も変わらずメンドイの一言を言葉に織り込んで自身の立場を嫌がる長門に、やんわりとお説教口調で朝日がお叱りを与えるという光景は久しぶりに見た。お気楽でマイペースな長門の物言いは傍から聞くだけなら楽しくて面白いものの、そのせいで早速お師匠様特有のお説教をくらって冷や汗を流す長門。
その隣に座る明石はクスクスと笑い声を漏らし、母と長女による漫才の如き眼前の絵図を楽しむ。特に朝日以上に久しぶりに会った長門の言動はおかしくてたまらず、神通より年上の三十路前の顔立ちの女性ながらもすっかり朝日に子ども扱いされている姿が滑稽とも言えた。
『あははは!』
『なによぉ、明石。アタシだってねえ、色々と苦労してるのよ。こうなったら早く大和を一人前にしてデビューしてもらんないとぉ・・・。』
『師匠格が楽を求めて弟子を送り出すんじゃありません。常に目標にされるくらいに振る舞う様にしなさい。送り出してはい終わり、なんて言って済む訳ないでしょ。』
『えええ〜。アタシもう第二戦隊でいいよぉ。10年以上もやったら連合艦隊旗艦なんて飽きた!』
『貴女ねぇ・・・。』
明石以上に自由奔放な長門の声によって、さしもの朝日も額に手をかざしながら呆れかえった表情を見せている。決して怒らせようとはしない長門の事は明石も朝日も解ってはいるが、容姿に見る年齢に不相応のその言動は、ある意味では金剛や雪風以上の問題児っぷりに思える。師の朝日はその事によって徒労とも落胆とも取れる気持ちが湧き、一方の明石には滑稽さばかりが目立って腹の底からその姿を笑う事が出来た。
ただ、そんな明石にとっての面白おかしい時間は、やがて朝日が呆れ顔で苦言を呈し始め、それによって長門が後頭部を掻きながら困った様な笑みを浮かべて緩いお叱りを受ける頃になって、突如として途切れる事になる。
その最初のきっかけは3人が過ごす朝日の部屋の扉をノックする音。小気味の良い木のドアが奏でる3拍子に続き、3人の内で長門にとっては朝日と同じくらいに聞き慣れた声が室内に木霊してくる。
『軍医中将、一戦隊の陸奥です。すみません、こちらにGF旗艦が来ていると思うのですが?』
『ゲ。 ・・・いないよー!』
『何言ってるのよ、貴女は。陸奥、長門ならいるわ。入って。』
訪ねてきたのは長門の妹の陸奥。
姉と大違いで大人しくて聡明で物腰も落ち着いたその雰囲気が扉越しにでも伝わってきて、3人の中で最もそれを敏感に感じ取った長門はもう反射的とも言えるほどの速さでお仕事の使者がやってきたのだと考察。咄嗟に居留守を使わねばと思って声を返すというおバカな行動に出てしまい、それに対して教え子を睨んだと同時に朝日は陸奥をむしろ招き入れる。
何事も逃げてばっかりの自分の教え子と、朝日もこの国に初めてやって来た時より知る富士艦の艦魂の教え子である、陸奥。朝日をしても帝国海軍一の気品を誇ると思わせる先生の下、大戦艦の命としての知識と品格を叩きこまれた故か、容姿は西洋人とは行かなくとも中身は富士の人柄の特徴をよく受け継いでおり、ドアを開けて室内に入った後の室内礼に至るまでの一連の仕草、歩き方、雰囲気なんかは、女王と皆から形容されていた往年の富士とよく重なって朝日には見える。艦魂という人外の存在ながら、まるで本物の英国王室の一員なのではないかと意識させるほどで、その姿は純粋の英国人たる朝日にとっては生涯追い求め、「一流の淑女」なる言葉で明石にも常々教えてきた、艦魂としての理想像の権化に極めて近い物だった。
他人の教え子であるのがもったいないと正直思えるくらいで、そういう側面では愛弟子の長門以上に幼少から愛情を注いできたのが陸奥である。
だから朝日は邪険にする事無く陸奥の来訪を歓迎し、ソファの上で大きく体勢を崩して渋い顔をしている長門を無視して空いている席に座るよう勧めた。
ところが陸奥は朝日の勧めに対し、その巻き癖の強い前髪を片手で掻き揚げた後に今度は手のひらを見せ、否の意を示す。
『陸奥、いらっしゃい。用を聞く前に、せっかくだから一緒にティーにしない?』
『あ、申し訳ありません、軍医中将。緊急の用でして。さあ、GF旗艦・・・、ちょっと姉さん!』
『わー! そんなヒトいないー!』
『往生際の悪い。長門、早く陸奥の話を聞いてあげなさいな。』
引く手数多である朝日のお茶のお誘いを断った陸奥は、朝日に返事を返すやすぐにソファの上で耳をふさいで蹲っている長門の腕を引っ張って声を張り上げる。別に取って食う訳でも無いのに彼女の姉ときたらいつもこの調子でお仕事を嫌い、前檣楼の高い所に拘束してても時にはロープを垂らして脱走してたりするのだから始末が悪い。故に今もまた長門に第一声を放つ前から掴みかかったのだが、今にも泣きだしそうな勢いの顔で必死にソファにしがみついて離さない長門には、毎度の事ながら呆れてしまう。その内に今度は隣に座る明石に抱き着いて助けを求め始め、三十路前の女性の容姿も顧みず駄々をこねる子供の如き行動をとり始める。
『明石〜。みんながアタシをいじめる〜。』
『あ、あはは・・・。お、お話だけでも聞いた方が良いと思うけどなぁ・・・。』
困惑を隠しきれない笑みを浮かべた明石は、抱き着く長門をやんわりと押し返しつつ陸奥に応じる様に促した。
中々に長門も強情で年下の明石の言う事をすぐには聞かなかったが、その正面にて口に添えたカップと琥珀色の前髪の狭間に僅かにだが師のご立腹の表情を垣間見た事でいよいよ観念。大きく溜息を吐きながら脱力しきった四肢でようやくソファから立ち上がり、腰まで伸びる長い黒髪を荒く撫でつけて部屋の隅の方に陸奥と一緒に歩いていく。
二人にとっては朝日も明石も見知った間柄ではあるも、連合艦隊司令部と同等の情報を扱う長門と陸奥。艦魂とは言え人間の世界でも軍機中の軍機扱いである情報である事は勿論で、師や昵懇の仲の者であってもそう易々とその耳に入れる事は出来ない。故に誰からも聞こえない所にて耳打ちの形で陸奥は急用を長門に伝え、明石と朝日も敢えて彼女達の方を見ない様にしながら楽しい紅茶の憩いの時間を再び
過ごし始めた。
ところがこの時、室内には長門の驚愕に塗れる悲鳴にも似た声が響き渡った。
『な、なんだって・・・!? ソビエト!?』
ひそひそ話を邪魔していけないと談笑していた明石と朝日も思わず振り向いた先には、上体を仰け反らせた姿勢で大きく見開いた目と開いた口で作られた、これまで見た事も無い程の驚愕を現す長門の姿が有る。そのすぐ傍にて腕を組んで直立する陸奥の表情にも苦々しさが際立っており、よほど彼女達にとって都合の悪いお話がそこに出たであろうことは疑う余地も無かった。
そしてそれは、どうやら海の向こうより伝えられてきた国際情勢における凶報だったらしい。さきほどまでのやる気無し極まる態度がもはや完全に消えた長門と、緊迫感がひしひしと伝わる眼差しで対する陸奥の声は、小さいながらも朝日と明石の耳にはさっきよりもずっと鮮明に聞き取れていた。
『ヒトラーとか言ったっけ・・・? き、気は確かか・・・!?』
『まだ本当かどうかわからない。司令部参謀の中で出てた話よ。陸さんや政府の反応も入って来ていないけど、国境線に西部戦線から抽出した兵力を移動したらしいわ。下手したら一昨年の満蒙での紛争が再燃する可能性もあるかもしれない。先月に中立条約結んだばかりなのに・・・。』
『も〜、ただでさえ欧州全土でドンパチなのに、なんでこんなメンドイ事にしちゃうかなぁ。はぁ・・・、もし陸軍の動きがあるなら支那方面に真っ先にお触れが出るか。陸奥、すぐにCSFの出雲さんと連絡をつけよう。・・・こりゃエラい事になるかもぉ。』
あまりの大事だった故か朝日や明石がハッキリと自分達の会話を耳にしてしまっている事も無視して長門と陸奥は話を進め、それに気付く事も無くやがて向き直って朝日らに短い挨拶を残すと、二人は足早に朝日の部屋を出て行く。陸奥が来た時と同じく、嫌がる長門が妹によって強制連行されていくという光景が日常なので、極めて真剣な面持ちの長門が陸奥を従えて部屋を後にしていく姿は、特に明石にとっては極めて印象に残る物である。
姉と慕う仲にあってどうしたのだとその変化を尋ねる余裕も無く、どこか鋭利な感じも漂う笑みで一度明石の肩を叩いて横切っていく長門を、明石はただただ呆けた顔で眺めるばかりであった。
『朝日さん、すみません。ちょっと用が出来たんで失礼します。明石も。また後でねん。』
『ほよぉ・・・。お、お疲れ様ですぅ・・・。』
独特のしゃべり方こそ変わらないだけで、表情は陸奥と同じく張り詰めた感じもあった長門。腰まで隠す長い黒髪を揺らしてドアの向こうに去って行くのをしばらく明石は見つめ、口元に運んだティーカップで碧眼だけを露わにする格好の朝日もそれは同じだった。おかげで室内は長門と陸奥による喧噪が嘘だったかのように静まり返り、朝日艦の艦体を撫でる波音が微かに木霊するのみの静寂に支配される。
その内に明石はたどたどしい口ぶりで長門の急激な変化に疑問の声を上げるが、朝日は微笑を浮かべてそれに応じながらも、以前より彼女が危惧している国際情勢の変化にて極めて大きな事象が欧州に起こった事を悟る。
そして朝日が勘付いたその事象は、その翌日の午後になって人間も含めた帝国海軍という組織全体、果ては大日本帝国の全土に波及し始めるのである。
時あたかも、昭和16年6月22日。
先月日本と中立条約を締結したばかりなのは元より、欧州大戦の開始前より不可侵条約を結んでいた筈のソビエト連邦に対し、日本と同盟を組むドイツはその国境線を軍靴の伴奏と銃剣の白刃による指揮でもって突如として切り裂き、人類の戦史上でも最上位に位置する程の広大な戦線でもって侵攻を開始したのである。
後世に言う「独ソ戦」の始まりであった。
おかげでこの日の朝から宿毛湾沖の太平洋上で行われた第八回基本演習は、演習終了を迎える午後20時に近づくにつれ、一時第二艦隊旗艦を受け持っている鳥海艦にて艦隊司令部幕僚らを中心に俄かに騒がしくなり、それによって洋上にて独ソ開戦の報を知った鳥海と副官の様な役割をしている愛宕も演習ばかりに集中する訳にも行かない環境となった。
同時に、それは演習における艦の運動が生む急激な動揺と、怒号にも似た号令がアチコチに飛び交う愛宕艦の甲板の下、公室に集った第二艦隊の各戦隊長級の艦魂達にも伝えられた。
『すみませんね、みなさん。一応だけど、演習はこのまま続行します。0200からの十六次応用教練もそのまま実施です。ただソビエトが絡んでる事は、この場で艦隊幹部の皆には伝えさせて頂きます。帝国海軍として対ソ警戒態勢に入るという可能性もありますので、各自、連絡がすぐにつく様に努めてください。』
『艦隊旗艦。艦隊司令部の参謀の話を高雄が拾ってきたみたいです。こちらへ。』
人間達も艦魂達も揃っての大変に緊迫した空気が、こうして宿毛湾沖で演習中の連合艦隊に注がれた。
末端の指揮官らはそんな緊迫した情勢の下だからこそ、この度の演習には一層の注意と真剣さを持って取り組む様にと諭して部下達の不安を払拭させようと取り組むも、やはり現在進行形で同盟国や近隣国が有事の状態に突入したと耳にしては誰しも不安が完全に消すのは不可能である。神妙な面持ちで『はい!』と叫ぶように返事をしても、その場に居る命達の心は、さながら永遠に止む事の無い船舶特有の動揺の如く、右に左にフラフラとして中々一点に定まるという所まではいかなかった。
その一方、宿毛湾沖の演習は艦隊司令長官から乗組員達まで含んだ人々がそれぞれ抱く相当の緊迫感が功を奏してか、それとも各々が不安に反して身体精神共に調子が良いのか、傍から見るだけなら帝国海軍戦闘部隊の威容と勇躍ぶりが極めて顕著に表れた様相を呈していた。
一昨年には潜水戦隊が引き抜かれ、先々月には航空戦隊も引き抜かれた第二艦隊は隻数こそ減ってはいるが、最新鋭の巡洋艦と駆逐艦を主軸に編制されているだけあって海上を運動する様はとても豪快。艦首に高々と波しぶきを巻き上げながら全ての艦が30ノット以上の高速で疾走し、まるで一本の操り糸で引いたかのように数隻の艦艇でもって一糸乱れぬ旋回運動を行う辺りは、鈍重な戦艦戦隊の演練ではまずお目にかかれない稀有にして実に見栄えのする光景でもある。付近を遊弋する赤城艦以下の第一航空艦隊も艦載機の大編隊でもってその上空を覆ってみせているが、流麗なシルエットを持つ第二艦隊の各艦が発揮した勇壮壮大な海上疾走には迫力の面で及ばない。少年時代真っただ中の男の子が見たら大多数が文字通りの一目惚れ間違いなしの情景その物で、上司の声よりもむしろそんな演習風景の方が時勢に揺れる兵員達の心を安らかにしてくれていると言っても過言では無かった。
ましてや第一艦隊と共同である今回の演習では、なんと比叡艦率いる第三戦隊が第二艦隊隷下に一時所属する事になり、356ミリの特大艦砲の射撃音をバックに進撃する光景には一部の人間達、次いで艦魂達もちょっとした感動を覚えたくらいである。
もちろん軽快な第二艦隊がその総力を挙げて襲う仮想敵は長門艦率いる第一艦隊の戦艦群、次いでそれを守る巡洋艦と駆逐艦の部隊で、今回の演習では同一の海域に戦艦10隻、巡洋艦16隻に及ぶ一大勢力が敵味方に分かれて存在する事になった。これは近代化改装なんかで歯抜け状態が殆どであったここ十数年の間の艦隊編制では見る事が出来なかった、まさに帝国海軍連合艦隊の現有の全戦力を結集した姿。
それらが縦横無尽に海上を駆け、実際に艦砲を発射したり様々な隊列運動をこなす辺りは、昨年の観艦式ですらもお目にかかれなかった極めて貴重な光景だった。
それは掛け値なしに少年達が目を爛々と輝かせて夢中になる絵で、転じて工作艦という身の上から宿毛湾に在泊のままの明石艦乗組員達は、第二艦隊付随の任に当たっているにも関わらず残念ながら干渉する事ができない状態となる。
栄えある海軍士官と鉄砲屋という帝国海軍軍人としての王道を進みつつ、まだ純真な少年心も僅かに残る忠にとっては、残酷な程に口惜しい事であった。
こうして帝国海軍の第一線部隊が激しい演習を開始。
流動する国際情勢の足音に聞き耳を立てながらの物ではあるも大幅な予定の変更は無く、夜もまた夜戦の演習という事で艦隊はそのまま洋上に行動。日付が変わった午前二時には第16次応用教練に移り、終了時刻である午前4時までの間にこれまた濃密な演習をこなす。文字通り昼夜兼行の作業となり、薄暮の水平線に疲労に浸ったまなざしを向けるのは艦長さんから水兵さん、果ては長門から駆逐艦までを含む艦魂達もまた同じであった。
誰が口ずさんだのか、太平洋を吹きすさぶ潮風に混じって大艦隊が航跡を引く黎明の波間に、このような帝国海軍の激しい日常を歌ったあの一節が木霊する。
海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
土日なぞ糞食らえ。眠気まなこを擦り、窮乏の音を上げる腹に唾を飲み込み、衣服に染みた汗の感触がもたらす肌触りに耐え、次々に来る指示や号令に唯一の応答をするのみ。厳しい厳しい大日本帝国海軍の、その本質たる時間がここに紡がれていた。
だがしかし、そんな厳しさ、激しさ故に帝国海軍の歴史上必ず付随してきたのは、不幸にも死者まで伴った上での幾度もの事故。明石に近い所でそれを最も知るのは神通であったが、あろう事か彼女も参加するこの演習の中でそれは起こってしまった。
刹那、朱色と紺色の闇が混ざり合う空の下、折り重なり合う宿毛湾沖の荒波を、艦の命と人間達双方、そして各々が足を付ける艦そのものが鳴り響かせる絶叫が切り裂いた。
『う、うわあああ・・・!』
『うあ! くそ! こ、後進イッパーイ・・・!!』
『舵そのまま! リョーゲンコーシンイッパイ! 急げーっ!』
『わあああーーっ!』
昭和16年6月23日午前5時54分。
日向灘にて演習中の第二艦隊において、黒潮艦、夏潮艦、峯雲艦による多重衝突事故が発生。奇しくも事故に遭った艦は全て、十数年前の美保ヶ関事件にて中心に居た神通艦、那珂艦の指揮下に入る艦船であった。