第一四六話 「リーダーへの階段」
昭和16年5月現在の大日本帝国における国際情勢は混迷を極めている。
春も半ばを過ぎる5月となってもその複雑怪奇な渦の暴風圏は留まる所を知らず、戦火の揺らぎは一日を追う毎にその輪郭を大きな物へと変化させていた。
まず時を僅かに遡っての先月、北の超大国ソビエト連邦と帝国の間に日ソ中立条約が成立。ソ連の前世国家たるロシア時代より地理的に近い事もあって、国防方針上でも長く彼の国を仮想敵国として捉えてきた日本だったが、一昨年より始まった二度目の欧州大戦とその混乱の余波、そしてこれまた一昨年に起きていたノモンハン事件等の事後処理も含めて、とりあえずお互いの立場は信頼できる味方でも無いが、干戈交える敵でも無いという状況に落ち着く事になった。
次いで5月初頭には昨年より燃え上がっていた泰と仏印での騒擾に終止符を打つべく、日本の取成しによって東京にて戦争終結の条約が正式に結ばれた。これを「東京条約」と言い、両国間に燃え盛った戦火はようやく鎮火した訳だが、条約の内容は戦争推移の上で優勢であった仏印が国境線も含めて泰に譲歩をするという、ちょっと変わった物になっていた。言うまでも無く国力と戦力の面で大いに劣り、陸海空の全戦線で敗北を味わっている状態の泰にこの様な譲歩を引き出せるはずの力は無い。それは当然ながらこの戦争の取成しを買って出ると同時に、この両国が位置する南方方面に色々と興味を抱いている大日本帝国の思惑が相当に働いた結果であった。
また日本の国際情勢とは違うが、帝国海軍にとっても非常に大きなニュースがこの5月の末頃になって舞い込んできた。
現在同盟を結んでおり、且つ欧州全土に及んで破竹の進撃を演じているドイツが有する一大巨艦にして、現状就役している中にあっては世界最大、最強、最新鋭と三拍子そろった戦艦、ビスマルク艦がいよいよ戦場を求めて本国を出撃したというのである。
『艦隊旗艦。戦闘詳報やその他の類の報告とかは無いのですか? 外電を傍受する程度では、どのような行動をとっているのか詳しく解らないのですが。』
『仕方ないよ、妙高。いくら日本が同盟国だっつっても、作戦行動中の最新鋭艦艇の情報をホイホイ教えやしないさ。』
『しかし気にはなるな。バルト海を出たならすぐそこにはイギリス海軍が待ち構えてるんだ。最新鋭ではないけどロドネーとネルソンは長門中将と同世代の有力な16インチ砲装備艦だし、ビスマルクと対を成す様に生まれた最新鋭戦艦も確か居ただろ?』
『その通りです、愛宕さん。CSF(※支那方面艦隊)所属の際に私も何度か耳にしました。キングジョージ5世という名の新鋭戦艦だそうで、何隻か姉妹艦も存在しているようです。イギリス特有の艦艇整備傾向から、おそらくは全部で5隻だと私は睨んでいます。全て就役しているかどうか不明ですが。』
第二艦隊の艦魂達におけるお偉方もこの話題に持ちきりとなり、愛宕艦の長官公室に集まった四戦隊の高雄と愛宕、五戦隊の妙高らは持ちえる情報を出し合ってビスマルク艦出撃の報に声を連ねている。それぞれ20代半ばの若い女性像を持ちながらも、軍装に身を包んで海軍用語を苦も無く言葉に変える辺りはさすがは経験もそれなりに積んだ中堅格の艦魂さんと言った所で、広げたヨーロッパの地図を指さして小難しいお話に没頭するのも決して遊び半分ではなかった。
『ドイツ海軍の巡洋艦と駆逐艦戦力はまだかなり残ってるのか? 帝国海軍の私達第二艦隊や、米海軍の偵察艦隊みたいな艦隊がドイツ海軍にいるとは聞いた事が無いが・・・。』
『愛宕の言う通りだね。去年から北海やノルウェー沖で派手にドンパチしてるし、駆逐艦のフロチラ一個群でも護衛につけれる余力はあるのかな? 妙高。どう思う?』
『はい。足柄が言う所ではポケット戦艦の例も考えて、小規模な艦隊で通商線破壊の任に就くのではとの事です。さすがにジュトランド沖の様な大艦隊同士での殴り合い、なんて事にはならないんじゃないかと。』
遠く離れた欧州であっても近代海軍艦艇の作戦行動となれば、世代もほぼ同じ彼女達には興味が湧かない筈がなかった。特にビスマルク艦は現状世界最強の戦艦と捉えても不足は無いし、対するイギリス海軍とて戦力面ではアメリカ海軍に次ぐ規模で、帝国海軍を軽く凌ぐほどの超強力な海軍である。これらが正面きって戦う事態に何か新たな発見が無いか、海軍艦艇の命として彼女たちなりに頭を捻っている訳だ。
無論、一等巡洋艦を分身とする高雄や愛宕、妙高よりも戦艦の身を持つ者達はもっと躍起になっており、後期艦隊訓練で長門に変わって一時連合艦隊旗艦を継承している陸奥辺りは、毎日午前と午後に自身の分身の中に有る連合艦隊司令部に入ってくる多くの報告に目を通して情報収集に余念が無かった。
そして数日経った、5月24日。
舷灯も灯される夕闇を迎えた頃、一部の人間達と同様に彼女達にも再び一大ニュースが舞い込んだ。
『デンマーク海峡!? どこだ、高雄!?』
『まあまあ落ち着こうよ、愛宕。デンマークって言っても場所はアイスランドだよ。ここ、グリーンランドとの間に有る海峡だよ。狭い所でも幅は300キロって所かな。』
『フッドは長門さんと同世代で15インチ砲装備の有力な巡洋戦艦です。さしずめ赤城さんが巡洋戦艦のまま生まれていたなら、それこそ東西横綱みたいな関係になっていたでしょうね。足柄もイギリスの観艦式派遣の時に目にしてて実力は折り紙つきだと言ってましたし、同じ英国、おまけに巡洋戦艦の出でもあるので金剛少将も気にかけていた艦です。なんでも朝日軍医中将と同じ造船所の出身なんだそうで。しかしいくら年代が20年違うとは言え、砲戦の末に轟沈とは・・・。それだけビスマルクの砲戦能力が強力だったという事でしょうか?』
それはドイツ海軍の戦艦と巡洋艦が英国の戦艦2隻を相手に戦い、1隻撃沈、1隻撃破の大金星を挙げた海戦。世に言うデンマーク海峡開戦の報である。
先日と同様にその仔細に関しては不明であったが、虎の子として建造したビスマルク艦の初出撃にして初戦果、そして第一次大戦のころからの因縁にあるイギリス海軍相手に勝利したという事実に、同盟国ドイツは有頂天になっているらしい。盛んに政府より宣伝されて新聞の記事になるくらいの情報は早くも帝国海軍に届き、英独の最新鋭戦艦同士が砲撃戦を演じるという情報に括目を禁じ得なかった。
加えて実はこの海戦、参加隻数の上で見ると実にこじんまりとした戦闘であるが、それに反して近代海軍戦艦兵力の中での頂上決戦であった側面も持っている。現在就役中の世界の戦艦の中で最大の物はもちろんビスマルク艦であるが、そのビスマルク艦が就役するまで実に20年近く王座を独占していたのはこの海戦で対峙した英国海軍の巡洋戦艦、フッド艦なのである。
堅牢で知られる欧州大戦時のドイツ海軍巡洋戦艦に対抗して建造されたフッド艦は新造時で既に排水量4万トンを超える超大型艦で、全長は呉にて鋭意製作中の大和艦にも匹敵する程。ところがそんな図体でいながらも30ノットを超える高速で海上を駆け、信頼性の有る15インチ砲を連装砲塔で4基8門装備するという強力な武装も兼ね備えるのがフッド艦の凄い所で、艦艇としての見た目の美しさも相まって世界の艦軍筋から一目置かれる存在であった。もちろん母国たるイギリスでは政府関係者から一般市民の子供達に至るまで絶大な人気と尊崇を集めており、その精強さと「マイティ・フッド」なる渾名は大洋を隔てたアメリカや日本にまで及んでいた。
しかしそんなフッド艦が挑んだこの海戦は、誇りと尊厳を極めし彼女の生涯に永遠の眠りという形で終止符を打った。不幸にも本海戦で対峙したビスマルク艦の放った主砲弾はその装甲を貫いて火薬庫に及び、先制して射撃を行っていたフッド艦は高さ数百メートルはあろうかという爆炎を昇らせて、20年近く誇ってきた威容の土台たるその大きな艦体は真っ二つに切断。生存者が僅かに片手で数えれるほど、すなわち殆ど脱出する暇も無かったくらいの、まさに一瞬で轟沈したのである。
この劇的な展開に艦魂も人間も含めた帝国海軍の者達は大いに興味を持ち、大戦艦同士での撃ち合いにそれぞれが考察や所見を練り始めるのだが、そんな遠き欧州の海から生まれた騒擾は僅か3日間の経過でまたしても劇的な局面を迎えた。
世界最大の戦艦の座に自らの手で決着をつけ、事実上世界最強の栄誉を手にしたと形容しても過言では無いビスマルク艦が、なんと5月27日に英国海軍の大部隊と単艦で交戦した果てに撃沈されたとの報が、今度はもたらされたからである。
『やっぱり戦艦戦隊の単独に近い形で作戦行動をするのは無理が有るんじゃない? 潜水艦の待ち伏せ海域に足を踏み入れでもしたら目も当てられないよ。』
『とは言っても艦艇の運用の仕方は各国海軍で違いますよ、艦隊旗艦。ドイツでは大型水上艦を通商破壊に投入して、従来の潜水艦による物に加えてより一層イギリスの補給路を脅かそうという魂胆だったんでしょう。前の欧州対大戦の時のエムデンや、シュペーの例も有ります。』
『確かに、その脅威度はイギリス海軍が割いた兵力で大体解る。突飛な様にも見えるが、日露戦役の時にウラジオ艦隊に出雲さん達がかかりきりだったのと似てるな。イギリスは空母まで投入してた様だし。ビスマルクに呼応して行動できる味方の艦隊が少しでもあれば、こうはならなかったんだろうが。』
こうして攻防激しい欧州での海戦事情に、高雄と愛宕、妙高らは数日ほど愛宕艦長官公室に詰めての考察会を催した。もっともそれは艦魂も人間もなく、いわゆるお偉方の帝国海軍軍人達もまた新世代戦艦が覇を争った一連の英独の海戦に様々な角度で分析をかけるのだが、奇しくもそこには兵器としての時代の寵児たる飛行機の影が見え隠れしている。
そしてそれはこの後、それ程の時を経ずして、他の誰でもない帝国海軍自身に襲い掛かってくるのであった。
さて、そんな世界の情勢や海戦事情も未だ帝国海軍の末端までを騒がす程には至っておらず、立派に軍艦旗を背負いながらもお役目の上でも物理的な上でも戦闘とは距離を置いた艦艇である明石艦にあっては尚の事だった。
まだ三河湾の静かな波間に錨を降ろしたままの明石艦であるが、数日来続いていた訓練弾頭魚雷の調整も最近になって一段落している。しばらくの間明石艦の上甲板に露天で並べられる事で生み出されていた、訓練弾頭魚雷頭部先端の赤と本体の白銀の色合いも、いつも通り下地たるリノリウムの茶色にとって変わられていた。おかげで第二艦隊の主力戦隊の皆々様は現在は湾を出て太平洋上で元気いっぱいに訓練に打ち込んでおり、湾内にて軍艦旗を掲げる艦艇は明石艦を含んでも片手で数えるほどにしか残っていない。全くの休業状態とまでこそいかないながら、連日の現地工作任務もこの頃にはだいぶ激しさも薄れていた。
するとそれに入れ替わって明石艦で熱を帯びるのは、帝国海軍艦艇の例に漏れず1隻の艦としての訓練になる。
工作資材と機器、人員で露天甲板の殆どを占領されている状態では、戦艦や巡洋艦、駆逐艦といったごく普通の艦艇が毎日こなす訓練をそのまま実施する訳にはいかない。特に機関科や砲術科が扱う機器や設備は爆発や炎上に結びつきやすい代物だから、工作部のそれらと何某かの干渉や接触なんかで大事故に発展する事も考えられるし、乗組員が各甲板を走り回るにしても工作艦の明石艦は艦中央部が上甲板から船倉甲板に至るまで全て工作部の工場で占められているから簡単ではない。多くの艦内工場は鋭意稼動中で機械の音もオーケストラ状態だし、艦上に林立する起重機も休みなく頭上を行き交う中、工作部以外の乗組員が訓練を行うのは怪我なんかを含めた保安上かなり危険になってしまう。
故に伊藤特務艦長始め、明石艦幹部の者達はしばしの間、各科における本格的な訓練を意図的に先送りにせねばならなかった訳だ。
だから今日は彼らにとって久々の訓練となり、荒っぽい下士官の怒号や号令が三河湾の波音を切り裂いていく。4月に乗組んだ新兵さん辺りには、海軍特有の厳しさを身に染みて教えられる第一歩となるか。冷や汗を流しながら上官、先輩にドヤされて駆ける彼らの姿が、本日の明石艦ではあちこちに見られた。
もちろん、忠が所属する砲術科も今日は科員全員参加の訓練に勤しんでいる。
『よおし、森。それじゃ主砲の方は頼むぞ。前の訓練から少し間が空いてるから、手順には特に気を付けてくれ。抜けや漏れも出やすいからな。村田特務少尉辺りともは話しておいてくれよ。』
『はい、解りました。何かありましたら行きますけど、砲術長は射撃指揮所の方で大丈夫ですよね?』
『うん。そこ居なくても必ず前檣楼には居るからな。』
『解りました。』
最上甲板から一段下がった中甲板の艦首寄りの区画は、士官寝室や公室で占められる乗組み士官の区画。ちょうど檣楼真下に位置する辺りに士官室が有り、小物類を入れるボードやクロス敷きのテーブル等の品の有る調度品で彩られる優雅な空間が広がっている。テーブルを囲う様に並べられたいくつもの椅子の他、部屋の壁は一周する様にソファーが設置される辺りはまるで客船のサロンそのままだ。
明石艦幹部のお偉方が、と言うより栄えある帝国海軍の士官が使うに相応しい大変豪華なこの部屋に、忠とその上官たる砲術長の姿が有る。
陽がまだ東寄りの空に有るこの時間から休んでいる訳ではないのは言わずもがな。士官室、正確には前部第一士官室は乗組み士官達のサロンであり、食堂であり、会議室でもある。蛇足なお話であるが戦時には臨時治療所にも早変わりするのだが、とにかくこのお部屋は普段からのお仕事でも使われる機会は割と多く、忠と砲術長が行う砲術科の訓練の話し合いにおいても同じであった。広い士官室の中で二人だけで話をするというのは幾分寂しいが、士官室中央に鎮座する大きな長机の周りには彼等と同様に話し込む複数人でグループを作った士官の姿がちらほらと有る。彼等以外の科も訓練における段取りや打ち合わせ等を確認しているのであり、手元に小難しい表や文が載った紙を何枚か置いて、時に頭を捻ったりしながらあれやこれやと真剣に話を詰めていた。
皆、久々の訓練に勇むのと同時に、事前に訓練計画や要領を十分に考慮して事故が発生しない様、それぞれが保安に注意を払おうとしているのだ。
『うむ。では始めるか。行くぞ、森。』
『はい。』
やがて訓練の事前確認を全て終えた砲術長と忠が、机の上に並べていた書類や冊子をまとめて士官室を後にする。砲術科の訓練の始まりであり、二人はこの後、真っ白な第二種軍装から事業服に着替えた後に各々の担当場所に向かった。
その途中、忠は自室を出た辺りで相方の明石とばったり遭遇。通路を往来する彼等以外の者に注意を払いつつ、短い会話を交わした。
ここ数日、艦魂としてのお勉強にご熱心だった彼女だが、どうやら少し息抜きを欲している様だ。
『ほほー。森さんが監督するんだあ? ふ〜ん。』
『何から何までって訳じゃないけどね。これでも一応、士官だから。』
『へっへーん! なら見にいくー!』
どこか挑発的な言い方をしながら忠の後に明石は続き、またなにやら悪ふざけの言葉を文字通り人知れず浴びせられるのかと忠は少し困った様な顔を浮かべる。これでも帝国海軍軍人としては忠の方が経験は上なのだが、スキップを踏むかのように後をついてくる明石を見るに、忠が何か初歩的なミスをしでかすんじゃないかと期待している様だ。
もっともこれでお勉強には真面目に取り組む彼女でもあったりするので、二言返事の勢いでついてくる裏には、実の所、忠の失態を嘲りに赴こうという気は無い。今日はお勉強を休もう、とたまたま思ってたのと同時に暇を得ていただけである。
なんとなく忠もそれに気付き、あえて口答えせずに困惑の微笑を浮かべたまま歩いていった。
さて、そんな忠と明石が向かい、且つ明石艦の主砲要員の一部が集合したのは、明石艦艦尾に有る装填演習砲である。
後部主砲と軍艦旗が翻る艦尾旗竿の間に設置されたこの装置は、その名の如く主砲弾の装填を演練できる物で、明石艦の主砲たる「四〇口径八九式十二糎七高角砲」の装填関連の機構が一部再現されている。名称に砲と付いているが砲身は無く実際に発砲する事もできない装置で、使用する弾薬包も専用の演習弾だ。実際の主砲で実弾を用いてやれば本当は一番良いのだろうが、機構上それをやると毎回発砲せねばならなくなるので砲身の寿命たる砲齢を消費してしまう上、弾薬もまたその都度消費するから、その分だけ海軍のお財布から貴重な国民の血税で収められたお金が文字通り飛んでいく事になる。これではあっという間に金欠になってしまうので、発砲まで及ばない砲の訓練にはこの様な練習装置が必要になってくる。装填の他に照準の為の演習機もまた別に存在するくらいなのだ。
多くの艦艇が所属する帝国海軍の中、大小それぞれの艦が各々で実弾射撃を綿密な年度計画上で実施し、その年度計画を艦隊司令長官や軍令部、海軍省が責任を持って毎年作成、決定するのもここに大きな理由が有る。なんでもかんでも実演という訳にはいかないのだ。
そんな事から明石艦でも例に漏れず実施される、本日の装填演習。
砲術科幹部たる砲術士を拝命し、砲術科の分隊の幹部でもある忠が監督するのは当然と言えば当然で、場合によっては砲術長自らが陣頭指揮をとってる場合も有るくらいである。
今日は砲術長より指示が有った為に忠が当たる事になり、装填演習砲の前で整列する者達に近づくや、彼はやや気を張った感の有る声を出して早速お仕事を始めた。
『よーし。みんな揃ってるか?』
『気を付け。二番主砲砲員、総員11名、事故欠員異常無し。演習砲も確認しましたが、異常有りません。』
『よし。だけど一応、俺も見るよ。砲に就け。』
『はい。砲員、砲に就け。』
忠に続く砲員長の号令に、10名の砲員達は走って装填演習砲の各々の場所に向かう。実際の主砲でも同じ位置に就く為に砲員達の動きは慣れた物で、忠がバインダーに挟んだ書類をパラパラとめくり、鉛筆や精密時計をポッケから取り出している間に早くも移動を終えていた。
大したものだと今更ながらに感心する反面、これを当然だとして彼等に遅れたままだと幹部格として足元を見られかねないとも思った忠。ただでさえ月初めに乗艦したばかりな上に、帝国海軍中尉とは言え年齢的にも24歳とまだまだ彼は若輩である。上官は勿論、水兵さんからの叩き上げでこの道10年以上のベテランである特務士官や一部の下士官なんかは、階級が下でも歳と経験は忠よりもうんと上であったりする。先程声を交えた砲員長もまた海軍一等兵曹と下士官ではあるも、海軍生活は忠よりずっと長い時間過ごしてきている。故に船乗りとして、人間として、海軍軍人として、実力の面で下だと内心見られてしまう可能性は高く、そうなっては士官のメンツは丸つぶれだ。
だから忠は顔色には出さないようにしつつも、なるたけ砲員達を待たせない様にと自身の手の動きや思考を素早くする事を意識。姿勢も縮こまらず胸を張る様にそれとなく正し、砲員達の合間を縫って装填演習砲の細部や砲員達の立ち位置なんかをチェックし始めるのだった。
そして異常が無い事を確認した後、彼等はすぐさま装填演習砲を用いた訓練を開始。主砲弾を一定の位置から手渡しで運んで装填架に乗せ、載弾した装填架を砲尾真後ろの位置に倒すまでの一連の流れを、砲員達はガチャコンガチャコンと小気味良い金属音を伴奏にして何度も何度も繰り返す。彼等が動作の度に放つ男らしい覇気の籠った声もまた、その訓練の様子に勇ましさの彩りを添えていた。
本日の指定回数100発分に向け、飛び交う号令にも気合が入る。
『関谷・・・! そらっ!』
『おっし! いいぞ!』
『おっしゃ! 右良し!』
『山田ー! 左まだかー!? はよせーい!』
『・・・ひ、左良し!』
『発射準備良し!』
バインダーの紙に記録を付け、毎回の経過時間を計測する忠の眼前で砲員達が汗を流す。一連の動きの中で手順は守られているか、手順に問題が無くても異常や不具合に繋がりそうな作業が発生していないかどうかなんかを常に確認する忠は、実際に砲弾を持ったりなどしないので体力の面で消耗は無い。しかしながら砲の扱いは技能習熟者、すなわちスペシャリストが一人居れば大丈夫な物ではないから、11名に及ぶ砲員の誰かに不備が無いかを少ない時間で探すのは結構大変でもある。
これでも明石艦の主砲である「四〇口径八九式十二糎七高角砲」は半自動装填で、時計信管の調定も装填中に機械が自動的に施してくれる等の優れた機構を有し、薬莢と弾体が一緒になった砲弾を使用する点も合わせて、手間暇や人手は少なくて済む部類に入るのだが、砲弾の準備から発砲まで一貫して機械がやる訳では無い。最新式の機械構造の作動の合間には必ず人の手で行われる作業が発生し、敵弾が飛び交う緊迫した状況下に行われるそれらには自ずと人間故の遅滞や過失が必ず伴われる物だ。今しがた左砲の装填が遅れたのも砲弾を砲台まで抱えて運ぶ運弾員が足をもつれさせて遅れたからで、この様な所を平時から是正しておかなければ実戦にてその結果を明石艦乗組員全員で被る事になる。
たった1基の砲台とはいえ、そこに重要なのはやはり砲員一人一人の習熟と所属全員のチームワーク。バケツリレーなんかによく見られる一糸乱れぬ連携力の発揮が重要だった。
砲術士官としての忠はそれに関わる点をより客観的な視線から見つけだし、彼等へ落しこんで術力向上へ繋げねばならないのである。これに怠慢や失敗を設けたなら、下手をすれば彼自身ではなく眼前で頑張る部下達、そして明石艦その物を有事の際に危機に陥れる事になるかもしれないのだ。
故に年齢、経験で上を行く者もその場に居る中にあっても、彼は心の隅っこにある遠慮とか物怖じを殺して積極的に砲員達に声を掛けていく。
『まて。山田三水、いま左一番に合わせようとして足を動かしながら渡したな? もう一度、受渡しの要領を思い出してみろ。』
『そうだ、山田。疲れて来た時こそ意識しろ。慣れてくるとそういうながらの動作になるんだ。姿勢を作ってみろ。』
『は、はい。足は、こう、肩幅と同じ・・・。真横に開く・・・。』
『そうだ。戦闘行動中となれば艦の動揺だってもっと有るんだ。足元をしっかりしてから受渡しする事を覚えろ。』
『は、はいっ・・・!』
『よし、再開だ。かかれ。』
小さい事から一つ一つ直していく事はとても地味ながら、この積み重ねこそが土壇場たる戦の局面で頼りとする練度の土台だ。如何に最新式の装備を持っていても十二分に扱える人間側の腕前が有って、初めて兵器とはその性能をカタログスペック通りに発揮できる。呉で鋭意製作中の帝国海軍最新兵器たる大和艦から遊戯の意味での兵器とも言える水鉄砲に至るまで、練度の維持向上とは日々の小さな事柄を向上へと繋げる事の積み重ねだった。楽な方法なんて無いのだ。
『おお。よーし、今のが一番早かったぞ。さあ、みんなで声掛け合って最後までしっかり。後38回。』
『『『 はい! 』』』
士官と兵下士官の差は有ってもこの根本原則は同じであり、先程しかられた水兵さんも含めてこの場に居る全員がそれを理解している。まだまだ若輩であっても忠は時に導き時に裏方となって、彼等の装填演習に最後の一弾を数えるまで付き添った。
その一方、ちょうど忠達が行う装填演習が残り5発くらいに迫った頃より、後楼の根元辺りから彼らの姿をこっそり窺う者達の姿が有った事を、忠達は全く気付いていなかった。
『ふむふむ。頑張っとるな。』
40代も超えた顔立ちに薄らと髭も垣間見える中肉中背の士官の軍装に袖を通した男は、この訓練の始まる前に忠と士官室にて注意事項とかを念入りに確認していた、あの砲術長。忠とは別な部署の訓練や点検に当たる事を申し合わせていたものの、やはり転勤してきたばかりの若輩士官の仕事ぶりが心配になってこっそり見に来たらしい。
20代半ばにして初級士官の登竜門である普通科学生を終えたばかりの忠くらいの時の士官は、指揮官たる立場とそれを教育段階から徹底的に仕込む古鷹山の学び舎の影響も有って、とかく勘違いを起こしやすい時期でもあったりする。変に張り切ってお仕事上での針路を斜めに切ってしまうもそれを誤りと意識できず、手痛い大目玉をくらうのは海軍と言わず世間一般の会社勤めなんかでも頻繁に見られる物で、この砲術長自身、当時は若気の至りとは言え大失敗をしてしまった記憶も有った。
もちろん一度はそれを敢えて経験する事で直に体得するやり方もあるのだろうが、当時の苦しみと何よりその際に振り回される事になる兵下士官や他の乗組員への迷惑を考えれば両手放しに放っておくのも良くないと言えば良くない。
なので砲術長は一抹の不安と心配を燻らせて若き忠の指揮ぶりや取り組み方を見守っていた訳だが、どうやらこのまま声を掛けずに去っても大丈夫そうだと彼は判断。後になって提出してくる訓練や点検の成績が掛かれた書類を手に、先輩士官としての経験で得たあれこれを教えてやるかと考えながら踵を返す。次いで『うんうん。』と今にも声に出しそうな勢いで何度も頷きながら、忠達を背にして足を踏み出した砲術長はその場を後にした。
するとこの時、彼の背にはすぐ傍で放たれたにも関わらずその耳に届く事は無い女性の声が木霊する。それは暇つぶしに文字通り人知れず相方のお仕事ぶりを遠目に観察しつつ、ちょうど同じ秘密の観察を企図した砲術長と一緒になって見守っていた明石の物だった。
『おおぉ・・・、森さん、ちゃんと指揮官してるぅ・・・。』
毎日目にしている相方の姿が今日はなんだか立派に見える。
困った様な笑みを浮かべてちょっとくらい嘲笑や誹謗を浴びせても強く言い返してこない忠は明石にしたらいつもの事で、一年の修行期間を経た後でも出会った頃より変わらぬ彼の人柄その物であると思っている。もちろん決して嫌いなんかではなかったが、今この瞬間、彼女の瞳に映る相方の姿は一昨年の頃には余り見れなかった光景である。今しがた砲術長が頷きながら満足そうに帰っていくのも彼女は見ていて、相方である忠の海軍士官としての成長はそれこそ目に見える様な具合であると思った。
『ぬぅう〜・・・。すげぇ〜・・・。』
正直な話、何某かの失敗で怒られる忠の姿を想像していた明石。
先輩上司からのお叱りを受けて落ち込んでしまう姿を心のどこかで期待したのは、お互いまだまだ若輩な士官だよなと確認し合い、中々遠い一人前に共に精進する仲として安堵したい気持ちが働いていた。普段から同期とはいえ利根艦や飛龍艦の艦魂達に戦闘艦艇の命たる体面や知識の差をそれとなく見せつけられ、工作艦などという得体の知れない海軍艦艇の身の上など話題にも殆ど登らないので、競い合う相手が実の所明石にはいない。帝国海軍艦艇としてこの道40余年の師匠、朝日には当たり前だが絶対に勝てないし、特務艦という類別で語るにしても彼女の分身は後発過ぎる。日々活躍する運送艦や油槽艦はその殆どが明石よりも先輩であった。
そんな境遇だったのも有り、明石は新米士官という身の上で忠には大きな親近感を抱いていた。人間と艦魂では全く同じという訳にはいかないし、そも兵科将校である忠と違い明石は軍医さんで将校相当官。役職に求められるスキルも全く違うのだが、いずれ部下を統べるという初歩的な立場だけは同じであり、その点では自分と相方は同じ立ち位置に有ると彼女は思っていた。
しかし今まさに目にした現実に、彼女はそれを改める。
忠は勝手に明石が思い込んでいた新人さんではなく、それなりに経験を積んだ士官らしさを少しずつだが身に着けてきていたのだ。
ショック、という程の物でも無かったがしばし目を点にして驚きの表情を作る明石。もっとも相方の小さな変化を目の当たりにして湧いてくるのは、自分を置いてけぼりにした事への嫉妬でも、いつの間にか変わってしまった事への落胆でも、立派になった姿への淡い憧れでも無かった。
むしろこれが彼女の良い所でもあるか。
明石の胸の奥には鋭利さの無い、それでいて激しいとでも形容する事の出来る不思議な在り方の闘争心が火勢を強くし始めていく。
元々、結構な頑張り屋で一点集中型の勉強熱を持つ彼女は、5分と経たぬ内に忠の居る甲板からは姿を消していた。入れ替わりに姿を現したのは、現在明石艦と一緒に三河湾に投錨中の愛宕艦。
『艦隊旗艦、愛宕さん! し、指揮官の心構えを教えてくださぁい!』
『うお。な、なんだぁ? どうしたの、明石?』
『指揮官って・・・。どうしたんだ、明石。どこかの戦隊旗艦にでもなるのかい?』
現在、二水戦や四水戦といった隷下部隊が太平洋で猛訓練中である第二艦隊で、三河湾に残っているのは戦闘を模した演習にそれほど参加せず、不意な事故や作業地での整備補修に待機する明石艦と、艦隊旗艦の高雄艦率いる基幹部隊の四戦隊のみ。なにやら欧州での急変する海戦事情の報がもたらされる最近は四戦隊も待機している機会が多ので、高雄と愛宕の姉妹は艦隊司令部の居ない愛宕の分身にある長官室を勝手に使って日中は過ごしている。明石の来訪は時間帯がちょうど休息の頃合いだったのだが、いきなりやって来て真剣な表情で指揮官の云々を教えてくれと言いだす明石に二人は率直に驚いた。
明石の第一声を受けて椅子に浅く腰かけて冊子を読んでいた高雄は椅子から滑り落ちそうになり、人間達の第二艦隊司令部より持ち出してきた書類を机に並べて何やら考え事の最中であった愛宕も、顔を明石に向けたまま姿勢をしばし硬直させてしまった。
ただ対する明石も相方を見た衝動だけでこの場に来た訳ではない。
彼女なりに指揮官という存在への第一歩を踏み出しておかないといけない理由はちゃんと有った。
『おー、なるほど。特設の工作艦の増勢ね。長門さんが言ってたなら間違いではないだろうね。そう言えば確か間宮さんも後釜が出来たとか言って張り切ってたモンね。ふむふむ。そうなると、いよいよ明石クンもそれなりの数の下を持つ、つまり先輩上官って奴になるんだね。』
『そうなんです、高雄さん。わ、私は看護とか医学とか薬学とかのお勉強はそれなりにしてきたつもりなんですけど、指揮とかそういうのってあんまり解んなくて・・・。』
以前に長門から聞いた特設艦船のお話を出し、明石は熱を帯びた勉学の志を必死にアピールする。容姿に見る年齢は3歳くらい年上ながら遥かに目上の立場である高雄、愛宕を前に話すのはちょっと勇気が要るものの、必死さが伝わりやすい話し方の明石に両者は時を経ずして彼女の言いたい事に理解を及ぼしてくれる。
二人共それぞれのお仕事の合間に設けた休憩時間の真っただ中にもかかわらず、早速明石に己の思う指揮官のイロハを教え始めてくれた。
『ナルホド。ではまず上に立つ者にはユーモアが大事だ。こういうのでは砲弾よりも冗談の方が飛距離も威力も大きいんだよ、明石。』
『ゆ、ゆうもあ?』
『ははは。真に受けないでくれ、明石。高雄のは師匠の出雲さんからの受け売りさ。豊かな教養が一番大事だと私は思うよ。』
共に人物として落ち着いた雰囲気を纏わせる高雄と愛宕は、理由を知るや明石の突然の申し出を快く受け入れてくれた様で、さっそく高雄は彼女の人柄で大変に目立つ陽気で冗談好きな所を垣間見せて笑いながら話を進める。よく外国人に見られる会話の最中に身振り手振りを大きく使う辺りも師匠の影響故か高雄には普段から備わっており、その言にあった通りのユーモア溢れる彼女の接し方は明石としても楽しい。全く間を置かずに上手く韻を踏んで「砲弾」と「冗談」の語句を絡めてみせるのもさすがといった所で、高雄が持つ極めて柔軟で回転の速い頭脳に早くも明石は舌を巻いた。
一方、微動だにしない微笑のまますぐに水を差した愛宕もまたその言葉通り教養は極めて高く、特徴的な男性じみた言葉遣いが加味する人柄は真面目その物。実の姉の高雄とは随分と両極端な性格っぽいが、愛宕の教養で十分浸した頭脳とその回転の速さは姉には負けておらず、以前に馬公へ赴いた際に松島艦爆沈事故と支那の言葉を混ぜて所属の艦魂達に保安への小講和を即興で授けてみせる等の芸当は、誰でもできる代物ではない。
両者共、それぞれのやり方と経験で得た指揮官らしさの片鱗であり、明石も口に出す事は無かったがこういうのが大事なんだなと納得。人間と艦魂では違いが有るかもしれないが、来るべき先輩上官になった日の自分の理想像を探しつつ、この日より高雄と愛宕から新たにリーダースキルの学科を得て学び始めるのであった。