第一四五話 「鬼と親」
昭和16年5月12日。
明石属する第二艦隊は佐伯湾を抜錨し、三河湾の豊橋沖へと移動した。
艦隊としての集結は既に佐伯湾で終わっているので、着いた先の三河湾では隷下の戦隊が入れ替わる様に泊地を出発し、伊勢湾の南に広がる太平洋という名の大海原で思う存分に訓練に励んでいる訳だが、それを差し引いても泊地の第二艦隊の姿は先々月くらいの物と比べると実は非常にさびしい姿となっていたりもする。
まず何と言っても4月の艦隊編制改定によって蒼龍艦、飛龍艦を中核とする第二航空戦隊が第一航空艦隊に引き抜かれた事が大きく、少しの間お世話になっていた加賀の第一航空戦隊もまた、同じく第一航空艦隊に正式に移っていた。この3艦は第二艦隊中最大の大きさを誇った艦艇でもあったから外観の意味でも抜けた穴は大きく、艦隊と言う割に小粒揃いの感があってなんだか迫力が薄くなってしまった。
さらにおまけがついて改装や整備補修が終わっていない艦艇が隷下にそこそこいて、七戦隊では最上と鈴谷が現在まだ母港で待機中で、五戦隊に至ってはなんと四月の艦隊編制で支那方面艦隊より転属してきた妙高艦のただ一隻のみ。
これでは一等巡洋艦戦隊の援護の下に水雷戦隊を押し出すという第二艦隊特有の戦術が演練できず、おのずから第二、第四の両水雷戦隊をメーンに据えた水雷戦隊単独訓練に重きを置く事になる。よって両戦隊の指揮官は人間の方も艦魂の方も実施計画の熟読やその修正なんかに余念がない状態で、古賀長官率いる第二艦隊司令部も含めてそのサポートに当たる。艦隊旗艦たる高雄艦までも希に標的艦役として演習の支援を行うくらいで、当然の様に明石艦にあってもそんな第二、第四両水雷戦隊に対する各種工作任務で大忙しであった。
特に最も明石艦工作部が力を入れているのは、何某かの物品の修理や補修ではなく、訓練弾頭魚雷の調整である。
小型ながら発動機を備え、針路を維持する為のジャイロも持ち、海中を駆ける際の深度を調定する機構までも装備した魚雷は、最先端科学技術の結晶でありその取扱いは決して簡単な物ではない。極端な言い方をすればあとは人を乗せる設備さえ有ればそのまま潜水艇にもなるくらいの代物で、円錐状の鉄の塊の如き砲弾の類よりもむしろ乗り物がそのまま兵器になったような見方だってできる程である。
それ故に魚雷は普段からのメンテナンスと機器類の調整の量が砲弾に比べて抜群に多く、魚雷を撃つ為の装置である発射管も含めて平時より人手と手間を随分とかけなばならない側面がある。しかしながらそんな手間暇に完全対応できる設備や治工具、人員を、前線で戦うお船たる巡洋艦や駆逐艦に搭載するだけの余裕は無い。
魚雷を槍や刀に例えるなら、巡洋艦や駆逐艦は得物としてもっぱら振り回す事を専門とする兵士。本格的に刃先を研いだり刀身に油を塗ったり柄糸の手入れをしたりするのは、別な方々に任せている訳である。
そしてこの別な方々の中に、明石艦がいた。
魚雷を運用する上でこんな事も有ろうかとよく考察した上に建造された明石艦は、艦橋真後ろの艙口、すなわち艦内への物資の搬入口のすぐ後方の所に魚雷浮力試験装置という縦長の水槽の様な設備を装備するのに始まり、艦内の兵器工場と呼ばれる区画には水雷兵器対応の設備や工具、工員を新造時より抱えていたのだ。
さすがに呉や横須賀の海軍工廠に匹敵するまでの実力でこそないが、その反面明石艦はお船としての機動力をもって魚雷のメンテンナンスサービスを海面が続く限りどこへでも提供できる。海軍工廠は防御上の観点から地勢的に奥まった湾の最奥部に位置するので、いざ訓練といっても海軍艦艇が思う存分に走り回れる広い海域は往々にして工廠から離れた位置に有る物だから、この点では明石艦の支援能力は帝国海軍にとっては非常に有難い物であった。
そのおかげで水雷戦隊の皆様は艦の命も人間達も、これまで以上に高いレベルでの訓練が行えると一様に喜び、ましてや第二水雷戦隊なんかは4月より全艦に最新式の魚雷運用能力を付与された事も有って、各々の訓練に対する準備、お勉強は随分と熱の入った物になっている。
ただ、とある艦魂達に有っては、本日のお勉強は熱の入り様がそのまま厳しい教育と必ずなってしまう日常を幸運にも回避できた事により、至って楽な気持ちと表情で机に向かう事が出来ていた。
4本煙突という幾分古めかしいスタイルを持つ那珂艦の一角が、そんなお勉強の場所である。艦の主たる那珂の優しげながら、ちょっと女性にしては野太くてハスキーな声が木霊している。
『つまり第二空気はこれまでの注気と同じ、使用直前の段階で取り扱われるわ。でも注気圧はさっき言ったようにとても高いから、気蓄関連の部品の異常は日頃から気を付けてね。何年か前にも呉の魚雷試験場で注気関連の部品や作業が原因で爆発事故が起きてるの。解らないからいいや、って考えて人間任せにしちゃダメよ。』
首の付け根辺りで横一線に切り揃えられた真っ直ぐな黒髪に挟まれる、吊り上った目を持ちながらもとても温和そうな表情を湛える那珂。
20代後半の顔立ちに痩せ形でスラっと長身な身体つき、そして顔にある目や鼻、口等のパーツも含めて姉の神通とは容姿が非常にそっくりであるのだが、面白い事に物言いや仕草、考え方に人物としての雰囲気なんかはそれとは全くの正反対。帝国海軍艦魂社会随一の嫌われ者となっている姉に対し、彼女は本当に物腰が柔らかく知的な女性像を一時だって崩したりはしない。当然ながら人望も厚いし頭脳も明晰で、その昔第一艦隊配属であった際は別戦隊であったにも関わらず当時より連合艦隊旗艦であった陸奥や長門の副官役も務める等、経歴としてもその能力と人柄をたくさんの仲間達から認められた艦魂である。
そしてそんな那珂が先生となる時間は、彼女とは大違いにして時に八つ当たりも辞さない困った上官に仕えるという二水戦の艦魂達から見れば天国の様な時間である。覇気も薄れた幾分間延びするような返事をしても怒号とげんこつは飛んでこないし、ちょっとした失態が有っても先日の様にベッチンベッチンと尻を叩かれる心配も無い。
古参の朝潮や霞らにあっては幾分の慣れなんかも有るには有るが、それ故に本日の那珂先生の授業は大いに少女達にとっては新鮮にして気が楽だった。
『やっぱ那珂中尉は良いなあ。落ち着いてて静かだし。』
『そういう事あんまり大きい声で言うたらあかんで、初風。戦隊長の耳に入りはったら大変や。』
『ま、気持ちは解らなくはないけどねえ。』
小声でそんな会話を楽しむ余裕すらも有った少女達には笑みもこぼれ、那珂率いる四水戦のメンバーと一緒になってのお勉強に励んでいる。質問するのに併せて手を上げるのも、心優しき那珂先生が相手なれば自然と遠慮は薄れ、声も無意識の内に弾む。「私立神通学校」の怖い怖い日常から解放された衝動には抗えず、四水戦にて繰り広げられる新鮮な空気の授業を存分に楽しんだ。
終いにはついつい口も軽くなり、本日上司が用事を得て自分達の目の前にいない事を喜ぶ声も上げてしまうのだった。
『戦隊長がいないのもたまには良いね。』
『怒鳴られる事も無いしね〜。』
『明石さんのトコ行く言うてはったけど、きっと戦隊長も何かお勉強してはるんや。ウチ達もちゃんとお勉強せなあかんで。』
『こらこら。あともう少しで休憩をとるから、今は騒がないように。』
『『『 は〜い。 』』』
まことに平和な一時であった。
一方その頃、部下達を妹に預けた神通は、明石艦にやってきて魚雷調整作業の見学を行っていた。
場所は艦中央の上甲板で、魚雷浮力試験水槽の前。油汚れも所々に染みて色褪せた白の作業衣を身に纏い、暖かいよりも暑いという言葉の方が意識され始める三河湾の潮風に汗を流す工員さん達に紛れた彼女は、隔壁に背を預けて持ち前の吊り上った目を鈍く光らせ、いつものどこか不機嫌そうな表情を今日も絶やす事が無い。腕組みをしてムスっとしたその外見は20代後半の女性像、次いで海軍士官という立場の両面から見てもお世辞にも褒められた代物ではなかったが、その反面、十数年通してきた人柄としての彼女の我が最もよく体現されている姿でもある。誰しもがそれを見ると、無口で怖そうでとっつきにくい、或いは実際に言動も態度も尊大で横柄な所が有るから嫌悪感を抱いてしまうのも無理は無い。
しかしながらそんな彼女の裏に有る心を知る友人は少数ながらも存在はしており、本日訪れた明石艦の艦魂もその一人である。容姿の上での年齢も艦としての経歴も10年以上の差が有りつつ、明石は神通にとって気心知れた親友であり、事前に断わりもせずこうして勝手に友人の分身の上にやってくるのは最近では日常茶飯事になっている。
もっとも今日は明石とおしゃべりという訳では無い。なぜなら今彼女の眼前に並べられて一本ずつ起重機にて持ち上げられ、ちょうどそれがすっぽり入る水槽に似た浮力試験装置に掛けられていく複数の魚雷は、何を隠そう近日中に二水戦の訓練に使われる魚雷なのである。
周りからも鬼と渾名を頂く程の彼女は、その全てが水雷戦隊旗艦たる自身の分身に関する情熱から生じている。多くの駆逐艦を闇夜の海中に導き、自身の何倍も有る大型で強力な艦艇に被弾覚悟で肉薄強襲するという、極めて危険な戦術を至上命題と捉えてきた上、その最中に死者行方不明者を多数出した事故も経験した神通。水雷戦隊の主兵装たる魚雷に関する全てにおいて、彼女は手抜かり無き事に常日頃から注意しており、例え調整済みの魚雷が支給される水雷戦隊事情においても例に漏れない。明石艦で魚雷の調整が行われる予定を耳にするや、彼女は部下の教育を妹に預けて直に自身の目でその作業を確かめる事にしたのだった。
『ふーむ・・・。』
やがて呻く様にそんな声を上げて、神通は腕組みにて隠れていた小さな冊子上の物を眼前に掲げる。それはやや色褪せて随分紙もくたびれた感じのあるノートであったが、角ばった神通の字にて上段から下段まで隙間なく綴られる文面の一部には「九三式魚雷」の文字が読み取れる。それは自身の分身の水雷科が所有する魚雷の書類を写し書きした物で、ここ最近夜遅くまで時間を使って成した神通なりの苦労でったが、そんな苦労に起因する慢心や達成感をおくびにも出さないのが彼女の強さである。少し凝った肩に首を軽く捻って負担を和らげる仕草に僅かに苦労の跡が垣間見えるのみで、その内に一人ぶつぶつと眼前に並べられる魚雷を観察しながら呟き始めた。
『ふむ、これが発動梃だな。となるとこれが装気弁か。ふむふむ、大体はこれまでと同じか。』
艦魂社会での事とは言え第二水雷戦隊の長である神通。
魚雷のお勉強で手抜かりが発生する事はない。この道10数年のベテランであっても決して疎かにしなかった雷撃へのお勉強であり、その中核である魚雷であれば尚更だ。加えてこの魚雷は神通自身の分身にも新たに4連装発射管と共に先月装備されたばかり。部下達への教育に併せて戦闘艦艇としての彼女自らが佩く新たな太刀という意味合いでもまた、おざなりにできない理由が有った。
するとこの時、甲板上にて作業に汗を輝かせる多くの明石艦乗組員の中でただ一人だけ神通の姿を視界にとらえた者が、ちょっと辺りを見回しながらコソコソとした感じで傍に寄ってくる。
何かの作業中であったのか珍しく作業衣を身に着け、帽子も日覆を被せた軍帽では無く野球帽に似た物を被って近づいてきた青年は、先日帰ったばかりの忠であった。
『よ。神通。』
『これは、舵機調整の手入れ口・・・む? おお、お前か。森。』
短く小声で声を掛けつつ忠は辺りを見回して、その場で作業する乗組員達が自分に視線を向けていないか確認する。久々にして今更な事であるが、この神通や明石を始めとした艦の命である者達はどういう理屈なのか、忠を含めたごく一部以外の人間には姿を見る事も出来なければ声を耳に入れる事も出来ないらしい。会話をするにしても、傍から見ると忠が一人何もない空間に対して一方的に声を放っている様な光景となるのだが、世間一般的にこのような行動をとってると間違いなく精神疾患を疑われる。「妖精さんと会話する男」として周りから指をさされて海軍病院に送られるのは嫌なので、忠はなるべく誰も見ていない時に彼女らと会話しようとしているのである。神通と話すに当たってしっかり顔を向けたり、表情を大きく変えたりせず、声量も極めて小さいのもまたその一端だ。
元々顔立ちが優男な所も手伝って男らしさがなんとも乏しい格好であったが、神通もそんな忠の身の上は解っているから彼の無様っぷりに苦言を呈する事は無い。笑みを浮かべてくれる事こそ無いものの、何気ない世間話でもするかのように無警戒に声を発してくれる辺りには、人間である忠であっても彼女としては友人の枠で意識してくれているのが垣間見れる。
『明石は一緒じゃないのか?』
『ああ、なんか今日は看護術の勉強するって言ってたよ。しばらく手が付いてなかったからって。』
『他人事みたいに言うな。お前がさっさと戻ってこないからだろうが。まったく。』
いつも通りというべきか、神通は物怖じしない突き刺すような台詞で忠に応じた。艦魂としての見た目の年齢は忠よりも少し神通の方が上だが、分身の艦齢を実年齢とすると忠の方が10歳くらい年上。もうちょっと敬う心があって良いじゃないかとも思えるも、尊大なこういう所が彼女らしいと言えば彼女らしい。すぐ隣に立って見てみれば強く吊り上ったその目には確かに優しさという言葉は連想できないが、神通は忠がこれまで見てきた人間の女性達と比べても相当上位に入る美人なお姉さんで、忠よりわずかに高い身の丈とそれに伴う長い手足は、彼女の分身の細長くて流麗なデティールをそのまま表現したかのようである。洋画に見る女優さんの様な身体つきで、この鋭利な物言いさえ無ければ相当にモテるだろうな、と忠をしても一瞬考えてしまう程。
実に女性として惜しい人物だ。
もっとも当人はそんな事を屁とも思っていない。
忠が神通の言葉に困った様な笑みを薄らと浮かべるのを認めるや、またぞろ『ふん。』短い口癖を放って彼からプイっとそっぽを向いてしまう。もし彼女に嫌われてたならもっと手厳しいんだろうな、と考えて彼女とは仲が悪いらしいと明石から聞いた同年代の巡洋艦の艦魂達に少し同情しつつ、忠は小さな声で別れを注げるとその場をそそくさとその場を後にする。今日は所属の砲術科において機銃や高角砲、その弾薬や指揮装置類の点検があって彼はその途中であり、珍しく軍装では無く作業衣を着ているのもそれが理由だった。海軍中尉があんまり油を売っている訳にも行かないので、彼は振り返る事も無く速足で点検作業場へと歩みを進めて行った。
その一方、神通もようやく静かになったのを境に再び眼前の魚雷へと目をやり、片手にしているノートの内容と見比べたりしながら彼女自身のお勉強を再開し始める。戦隊はおろか、帝国海軍全艦艇の中にあって誰よりも先に己がこの新式魚雷を熟知せねばと既に心に決めており、中断していた箇所もすぐに記憶から探し出して知識に刻んでいく姿は実に真面目だ。
しかしその真面目をまたしても彼女を呼ぶ声が遮る。
『あ、戦隊長ー。』
『む? おお、犬。』
せっかくのお勉強時間を2度までも遮断された事で早くも短い導火線に火が灯りかける神通だったが、声がした方に視界を向けるや導火線の火は燻りへと変わる。名前では無く艦魂独自の役職名で彼女を呼び、明石艦の艦首方向の上甲板から小走りで近づいてくるのはなんと雪風だった。
140センチ台の小さな身の丈に、神通とそっくりながらも顔に対する比率がやや大きい釣り目と、軍帽の下からはみ出す長く波打った茶色い髪など、身体的特徴が極めて多いこの少女は良くも悪くも部下達の中でも最も印象に残る。茶色い髪と喧嘩っ早い所には印象どころか憤怒が湧いてくる方が断然多いが、その裏で幼少時の神通と身長以外はよく似た容姿を持ち、なおかつ運動も勉学も中々優秀なこの雪風に神通は結構目を掛けてやっている。毎度毎度やんちゃで鼻っ柱の強い性格をげんこつや竹刀での尻の殴打で抑圧しつつも、裏を返せば雪風のそんな所は旺盛な闘争心と人並み外れた逆境への対抗心を現しているとも言え、口には出さないが幼い頃に美保ヶ関事件で失意と戦慄のどん底に落とされていた神通自身とは、同じ10代後半の少女像を持つ中で比較しても真逆な性格である。
へそ曲りな所はさておき、自分にもこういう所が有ったらあの時も少しは違ったのだろうか?
誰にも言えないそんな考えを脳裏に過らせる時、不思議と神通にとっての雪風は隊の調和を乱す不届き者とも、自身の思惑通りに動かないじゃじゃ馬娘とも思えなかった。むしろ幼い頃に足りなかった物を既に持った上で蘇ったもう一人の自分なのではと感じ、16名を数える部下達の中にあっても親近感みたいな物が一際濃く抱ける。
それはまるで愛娘とも思えるほどにだ。
もっとも神通はそんな心境をすぐに不機嫌そうな表情と強面な雰囲気で覆って、睨みつける様な眼光で傍に来た雪風を捉える。当の雪風も怖い怖い上司の目には早くも慄く気持ちを生じさせてしまい、それがこうして鬼を振る舞わねば部下と正対できない神通独特の弱さから生じているとは全く考えはしなかった。
腕組みの上から見下ろす視線にちょっと腰を引きつつ、雪風は神通と声を交え始める。
『那珂の所で教習中だろ。どうかしたのか?』
『いえ、昼の時間が近いんで、キリが良いトコで休憩に入ったんスよ。それで確か魚雷の調整を明石さんトコでやってた筈だと思って、ちょっと見に来たんス。アタイらなんだかんだ言って、発射管に入ってない裸の魚雷見る機会って結構少ないスからね。』
『ほう、そうか。』
普段からヘソ曲りで短気で規律に反する事も多いやんちゃ娘の雪風だが、こういうちょっとした所への勉強の熱心さが彼女には有る。神通の見ていない所では踵が隠れるくらいの長めのズボンを穿き、軍帽はだらしなく斜めに被り、髪は茶髪でタバコまで吸っているという、呆れを通り越して見事なまでの不良っぷりを見せる反面、雪風は好きな事に休む時間も惜しまず食指を伸ばす傾向が有り、駆逐艦の命としては好都合な事にその嗜好の中では魚雷に関する知識が主な物であった。今日もまた那珂先生の下での昼休みに怖い怖い上司が居るのも承知で明石艦へとやって来たとの事で、神通の隣で魚雷を見ながらさっそく自身のノートを開く辺りにはふざけるような素振りが見えない。
神通はバレないように僅かに視線だけを動かして、雪風の手に握られるノートを覗いてみる。そこには粗末で大きめの如何にも未熟者が書いた様な字が並べられているも、書いてある内容は神通のノートの内容にだいぶ近い物であり、おもわず神通は口元を綻ばせてしまった。
『ふっ・・・。』
『んあ? な、なんスか、戦隊長?』
鬼の仮面を被ってみながらもついつい漏れ出た笑い声を、雪風が疑問符を浮かべて尋ねてくる。戦隊のトップとして魚雷の勉学をいち早く深い物にせんと決意して明石艦に居る中、大問題児にして容姿が自分の幼い頃によく似た部下の一人が真面目にお勉強している点を垣間見れた事に、神通は上司としての嬉しさが顔の筋肉まで滲んだ。
その内に唇も胸の奥より湧く気持ちに抗いきれなくなり、神通は雪風と共に対している並んだ魚雷の一本を指さして声を発し始める。
『犬、それだ。手入れをする為の開口部が見えるか。』
『お、これッスか。中は随分ごちゃごちゃしてんスね。』
『ああ、そうか。お前は前の型の九〇式魚雷をそんなに見た事が無かったんだな。見えてる機械類の殆どは例の第二空気関連の物だ。魚雷全体で見ても半分程は第二空気のタンクだ。燃焼室まで続く管の殆ども構造はずいぶん複雑になってるな。』
『操舵用の空気室も有るッスし、第一空気室ってのも別に有るんスよね。配管系統はポンプを挟んだりもしてて、ここからだと全部は見れないッスね。』
この不良娘へのお仕置きが日常茶飯事と化している中で、今日は二人で共に魚雷をお勉強するという極めて珍しい光景となった。お互いを含めて第二水雷戦隊ではもはや恒例と言っても過言では無いげんこつの気配は無く、時折雪風が魚雷のアレコレを質問したりすると神通は罵倒の句を一遍も述べずに、懇切丁寧に教え子の問いに対する答えを教えてあげたりしている。
明石お手製の軍刀も、雪風達にとっては神通の恐怖の象徴である竹刀も携えず、魚雷のあちこちに指を向けて一つずつ知識を与えていく神通と、そんな彼女の声を受けて或いは質問の手を上げてみたり、或いはノートに鉛筆を走らせていく雪風。
片や170センチ少しの長身で、片や140センチ台と小柄な体格で両者の差が際立つ中、特に顔に比して目の大きさが違う点が有れども顔立ち自体が極めて似ている二人の姿は、そのギャップも相乗して上司と部下、または恩師と教え子という構図を飛び越えて、傍から見るとまさに親子と形容しても差し支えない物になるのであった。
『戦隊長。この並んでるのってなんスかね?』
『それは燃料注入口と安全弁だ。つまりはこの真下が燃料室になるんだ。裏側にはたぶん燃料の排出口も有る筈だ。』
『どれどれ。あ、ホントだ。孔が2個あるッス。』
『ふむ。片方は燃料の、もう片方は分離器の排水口だろう。魚雷の中の構造を理解するのにおいても、こうして外から見れる特徴を把握しておく事は重要だ。滅多にない機会だから今の内によく見ておくんだぞ、犬。物のついでだ。解らない所は私が教えてやる。』
『うッス。』
そしてこの時、明石艦上にそっと咲いた微笑ましい母親と娘のそんな姿を、やや遠くから舷窓越しに瞳に入れる人物がいた。
角ばった檣楼と4本の直立煙突という古めかしいスタイルの艦は神通と同じで、その一角の舷窓に収まる女性の顔もまた髪型以外はほぼ同じ。弓なりにした釣り目を眼下より来る小波の反射によって輝かせ、姉の激しい気性の裏に隠れる優しさを文字通り垣間見た事で笑みを深くしているのは、那珂である。
午食が近い事からさきほどまで続けていた二水戦、四水戦合同での勉強の場を休憩とした後、彼女もまた他の駆逐艦の者達と同じく自室で休憩をとっていた。その際に偶然とはいえ明石艦の艦上に姉の姿を見つけてお茶を飲みながらしばらく観察していたのだが、久しぶりに普段は陰に滲む程度しか出さない姉の優しい所を見れて那珂は嬉しい。むしろ本来の神通の性格はあういう感じなんだ、くらいに妹である那珂は思っている。
鬼と囁かれて仲間内から嫌われるまでにねじ曲がったのは那珂自身もその場に居た美保ヶ関事件が基点で、それ以来の神通の横柄で尊大で粗暴な所はあえてそう彼女が振る舞っているに過ぎない。心に大きな傷を負ったが為に、根がとても不器用だっただけに、そうならなければ他人と接する事が出来なくなってしまった程に弱く繊細な艦魂。
口に出して同情でもしようものなら間違いなく当人に殴られるだろうが、そんな姉への人物評は那珂の胸中では今でも変わっていなかった。
それと同時に、姉に比べて自分はなんだか優しさの安売りをしてはいないかとも那珂には思えてくる。温和で物腰が柔らかく愛想も良いと仲間や諸先輩からよく言われ、彼女自身もそうであるようにと日頃から意識して人との接し方を構築してきた。結果、那珂は艦種の別無く帝国海軍艦魂社会の皆から慕われて、長門を始めとしたお偉方からの信頼も厚く、駆逐艦や潜水艦、掃海艇や哨戒艇、果ては軍港の灰塵処理船や曳船といった小型の船舶の艦魂達からも親しみやすい上官として人気が有るという、大変に交友関係の広い者となった。一方の神通と比べたら明らかな差でこそあるものの、今しがた舷窓の向こうに認めた覆い隠して秘めるを常とする神通の表し方に那珂は不思議な魅力を感じてならない。
いくら容姿が似ていると言っても自分には真似できないそんな所が、那珂には羨ましくも有りちょっとだけ妬ましくもあった。
しかしその刹那、色々と思いを巡らして舷窓に視線を通す那珂の耳には、鉄製の扉を何度か叩く音と共に彼女の部下の声が流れてきた。
『戦隊長、2駆の村雨です。あのー、横須賀からきた特務艦の方より戦隊長宛てのお手紙を預かりましたので、持ってきました。』
『あら? ありがとう、村雨。入って良いわよ。』
『はい。失礼します。』
那珂に促されるままに入ってきたのは霞や雪風といった二水戦の駆逐艦の命達より少し偉い、下士官の軍装に身を包んだ小柄な女性。第二艦隊の水雷戦隊所属の駆逐艦という立場は雪風達と同じであるが、艦齢の上ではおよそ3年くらい先輩に当たる故に経験はそれなりに長く、駆逐艦という分身の種別で見ても大きさは雪風達よりもちょっと小さめながら艦魂社会における立場では少し出世した位置にいる。真っ白な生地に縦に並んだ金ボタンという上衣も水兵さんの着るジョンベラとは一線を画し、士官の物に似た軍帽を被っているのも完全に帝国海軍下士官の服装である。
顔立ちに見る年齢も完全に20代の物で少女という感じはしない。
部屋に入って来るなり村雨が海軍の礼式に則って軍帽を小脇に挟むと綺麗に腰を折って無帽の敬礼をする辺りも、その仕草に不自然さは微塵も無く、潮気を十分に帯びた海軍軍人の片鱗がよく滲み出ていた。日常的な物ながらこういう所はまだまだ雪風達には備わっていない、帝国海軍の艦魂らしさとも言える。
『こちらになります。私が取り次ぎましたが、受領のサインは戦隊長、お願いできますか。特務艦の艦魂、まだ荷卸し中ですからすぐ持っていきますので。』
『ええ、待ってて。・・・はいこれ。お願いね。』
『はい。では失礼します。』
ご丁寧に受領書まで一緒だった手紙。
真っ白な封筒の表には筆で綴られた、「第二艦隊第四水雷戦隊 戦隊旗艦那珂様」なる達筆な宛名が有る。知人同士でのやり取りを行う文書というより、艦魂なりとは言え一定の責任を持つ立場同士での書簡の交換という側面が強いと那珂は感じ、封筒を一旦手元に置いて村雨から同時に手渡された受領書にポッケに忍ばせていた万年筆を走らせた。対して手渡された村雨は再び慣れた素振りでの無帽の敬礼を行うと回れ右をし、本人の弁の通りすぐさま受領書を現在荷卸し中という特務艦の艦魂に渡すべく部屋を後にしていく。
しかしその後ろ姿を閉められた扉が完全に隠した刹那、室内には那珂のちょっと驚いた様な声が木霊するのだった。
「横須賀鎮守府予備艦 長門 出」
『え、長門さん・・・?』
封筒の裏に小さく書かれていた差出人の名は、つい先月辺りまで連合艦隊旗艦に君臨していた長門となっていた。現在彼女は前期訓練を終えた後に一旦艦隊から外され、母港たる横須賀にて改装工事を受けており、同じく横須賀を母港とする那珂も後期訓練開始前の段階までは錨を降ろす場を一緒にしていた。その点で差出人の最初に予備艦と書かれていたのに疑問は無い。ただ母港では頻繁に会っていただけに、わざわざ手紙という手段で意思疎通を図ろうとする事自体が那珂には驚きだった。
10年近くも前になるが共に第一艦隊所属で、その当時に二人は大変仲が良くなってたからそれは尚更だった。
『どうしたのかな?』
僅かに首を捻ってそう呟きつつ、那珂は封筒の口を破って中の手紙を取り出す。折り目のくっきりした便箋3枚程が収められており、整然と並ぶ達筆な文字での文章はまるでタイプライターで打たれたかのように綺麗な物だ。能天気な長門の性格を知る那珂にしても、長門のこの字の上手さはいつ目にしても意外な感じを覚える。姉の神通と同じく、物凄く頭脳明晰で真面目な人柄を実はあえて意図的に正反対の性格で覆っているのではないかとも思え、今更ながらに色々と不思議な先輩だと長門への意識を改めた。
ただ先輩や上司にして友人という側面も結構強いので、那珂は特にかしこまる事も無く流れる様な手つきで手紙を広げて文面に目を通し始める。すると彼女の顔は第一行目を見た瞬間、またも驚きの形相を浮かび上がらせるのだった。
「空母部隊集合運用ノ事態ニ於ケル駆逐隊分派ノ件」