第一四三話 「涙は枯れて/其の四」
辺りを染める漆黒に塗れて、明石は独りその場に立っていた。
右を見ても左を見ても、頭上を眺めても足元に視線を落としても全てが黒色で塗りつぶされた空間の中、相反する様に純白の第二種軍装を身に着けた細い身体を捻って彼女は周囲をゆっくりと見回すも、波音一つ立たない静寂と世界が見せる物は、すぐ傍で見ても見分けれない程に塗りつぶされたのか、はたまた永遠に続いている事で光が届かないのか、そこに広がるのは果て無き暗黒ばかり。曇天の下、真夜中に太平洋のど真ん中を航海する最中にあってももう少しは光量があるであろうと思う明石は、やや不安そうに眉をしかめた面持ちで再び周囲を一瞥していく。
するとその刹那、彼女の瞳はふと、暗黒の中に一際映える自身と同じ真っ白な軍装を身に纏う人物が歩いていくのを捉えた。どこからどう現れたのかは解らなかったがちょうど明石の眼前を横に通り過ぎていくその人物は、背格好を見るに帝国海軍士官の立場の男性の様だ。歩き方や身体全体の輪郭は艦魂にして女性である明石の物とは全然違うし、毎日毎日目にしてきた乗組員達の姿がすっかり見慣れた物となっている明石にとっては、彼が自身と同じ艦魂という存在で無い事がすぐに解る。
もっともそれと同時に明石の脳裏には、眼前の人物に対してとある固有名詞が浮かんでくるのであった。
『も、森さん・・・!』
思わず半歩ほど踏み出し、相手の肩に触れようと手を伸ばして明石は呼び止めるが、その行動はすぐに静止へと移行する。軍帽の下に捉えた彼の顔立ちに見覚えが無かったからだ。
『う。ち、違った・・・。』
明石をして先月から続いてもう何度目になろうかというその状況。朝の甲板に、昼の港内に、夜の波間に相方を探し続けた彼女にとって、眼前を通り過ぎて行く一海軍士官の姿はすっかり見慣れた物である。しかし待ち人とは違う人物であった事に落胆は隠せず、力無く溜息を吐きながら明石は肩を落とす。
だが再び彼女の周囲に戻るかと思われた漆黒の静寂は、今度はさっきとは違う海軍士官がまたその場へと歩いていく事で早くも遮られる。それも一人や二人ではない。
『あ・・・。』
真っ暗闇の中での第二種軍装はとっても目立ってすぐに明石も次なる変化に気付いたが、先程とは違って往来と形容しても差し支えない程の人数が行き交う光景に大いに戸惑う。見た事こそないがまるで銀座の大通りを海軍士官のみで構成したかのようで、すぐ傍で見ているにも関わらず綺麗に明石の鼻先にて流れを作っていて境界がはっきりとしている。人々の流れから外された疎外感が胸の奥を揺さぶり、どうにかその流れに知人を見つけられないかと明石は行き交う多くの海軍士官の軍帽の下に視線を移らせていく。
あの人は違う。この人も違う。
目に留まる範囲で確認できる者達を捉える都度、短く思考の中でそうつぶやいて目まぐるしく視線の先を変えていった。だがそうして一心不乱に相方を探す最中、彼女はふと気付いてしまった。
『・・・あ、あれ。も、森さんてどういう顔してたっけ・・・?』
誰かを探そう。そんな意志を先月からずっと抱いてきた。
もちろんその標的は1年前に有明湾で離ればなれになった忠である事は論を待たないものの、たった一人の待ち人の記憶を辿ろうとした明石の脳裏は、まるで今自分が居る漆黒の渦中とは正反対である真っ白な世界が広がっていた。ずっとずっと帰って来るのを待ち焦がれていた筈なのに、彼女の記憶はあれほど再会を願った忠の顔を浮かび上がらせる事ができないのである。
『も、森さんて、た、タバコ吸ってたっけ・・・? え、好きな食べ物って、なんだったっけ・・・? 何かクセって有ったっけ・・・? お、思い出せない・・・。ど、どうして・・・?』
未だ彼女の眼前では100人を数えるかもしれない程の海軍士官の男達が、右から左からやってきては素通りしていく状態が続いている。純白の夏服、第二種軍装が放つ淡い輝きに照らされて一人一人の顔がハッキリと見えている中、ここ最近続けてきた探し人の顔はおろか、人物としての特徴までいつの間にか欠落していた自身の記憶が明石を大いに焦らせる。口の辺りまで持ち上げた両手で宙を掻く様な仕草を無意識に行い、真っ白な思考のキャンバスにほんの僅かな欠片でも滲んでくれれば良いと必死に思い出そうとするのだが、そこにはいかなる色も滲まなければ輪郭線さえも描かれる事は無かった。
『お、お、思い出せない・・・。なんでぇ・・・。』
この一年間、一遍たりとてその存在を忘れた事はなかったにも関わらず、その特徴が全く脳裏に無かった事に気付いた明石は小さくない衝撃を受け、次いで目の前にある海軍士官の奔流に忠を見つける事は不可能だという事を意識し始める。どんな容姿なのかも、どんな性格なのかも全く思い出せず、唯一口から洩れたのは名前のみ。動揺する心の中で思い起こすと一緒に過ごした一年分の思い出もなんだか靄がかかっている様で、どんな会話をしたのかも明石は覚えてはいなかった。
すると明石の心はたちまち落胆で塗り替えられて行き、呆然と立ち尽くしていた彼女の身体は脱力し始める四肢によって支えを失い、糸の切れた操り人形の如くその場に座り込む形となる。ドスンと尻もちをついて鈍痛も覚えるほどだったが、呆けた明石の表情には苦痛に歪む色合いは浮かんでこない。
そしてぼーっと眺めていた眼前の白い流れから、彼女は俯いてついに目を逸らす。見たくない訳ではない。そこにもしかしたら相方が紛れているかもしれない、という希望を失ったのでもない。
探し人に纏わる記憶を蘇らせれないのでは、ただ単に自分にはもう探せないと思っただけだ。
だがたったそれだけの事が、今の明石にはとても悲しい。あやふやな記憶が頼りにならないのと同時に現実感もなんだか希薄で、本当に一緒に過ごしていた日々が有ったのかどうかも改めて自問してみると確信が湧いてこない。
全て夢だったのでは?
呆然自失の心境の合間に脳裏をそんな一言が過ぎ去る。思い出の全てに現実感の欠如が伴った故にその一言は明石の意識の中で大きな重さを持ち、これまで頑張ってきた自負と苦労の日々と、なんとか相方の帰りを確かめようと必死に探しまくったここ最近の昼夜を隔てぬ苦行の数々に、決して口には出さなかったが受け入れまいと抗い続けた「無駄」の二文字を押し付けてくる。
朝日より教えられた女性像、艦魂像を目標に頑張り、時には歩き方に悪戦苦闘し、神通の竹刀に尻を叩かれ、無知ゆえの大恥を掻き、先輩方に笑われながら英語のお勉強にも必死に取り組んできた、今まで。その全てが水泡に帰す。
それがただただ、明石には悲しかった。
いつの間にか彼女の周囲に広がる漆黒の世界からは、あの海軍軍人達が右から左からと往来する事でできていた純白の奔流が消えている。たった独りその場で座り込んだまま、明石は顔を両手で覆って泣いた。だがその悲しみも涙も、そして嗚咽も、明石の身から発せられる全ては果ての無い黒の世界に吸い込まれて行き、息遣いも鳴き声もせぬ静寂の中に彼女の身体は薄れていくのであった。
『・・・ぅん・・・?』
真っ暗の奥底に誘われていた明石の意識が目覚めたと同時に、彼女の瞼は縦向きとなった水平線を捉える。辺り一帯は不十分な明るさがしか無いが先程まで彼女が居た世界に比べたらずっとマシで、雲が僅かにたなびく夜空とそこから降り注ぐ月光、そしてその月光に照らしだされてざわめく小波の群れが眠気まなこの中にもハッキリと解った。
次いで横になっていた身体を起こして月下の水平線を横に捉えると同時に、明石は自身の視界が随分という言葉では足りない程に海面より高い所にある事と、ひんやりとした鋼鉄の冷たさが手のひらを伝ってくる事で、そこが慣れ親しんだ自身の分身における羅針艦橋直上、測距儀の上だという事を把握する。ここ一ヶ月近く続けている相方探査を今日も漏れなくやってた果てに、二度目として迎えた朱色の空の下でウトウトとしてどうやら眠ってしまったらしい。
やがて潮風が染みたのかちょっとベトベトとした髪に包まれる後頭部を掻き、目を擦りながら明石は周囲に広がる闇夜の海面を一瞥する。満月に近い形の月が放つ灯りは小波を輝かせると同時に、佐伯湾一帯の陸地と湾内各所に停泊する仲間達の分身のシルエットを浮かび上がらせており、各艦の舷門付近や羅針艦橋、無数の舷窓から洩れる小さな灯りは微睡の末に見ていたさっきまでの世界と比べると息遣いも感じれる程の賑やかさが備わっていた。
ただ晴れない心で目にするのでは夜景の綺麗さを堪能する気にもなれず、明石は疲労の溜息をついてぼんやりとした表情で波間の一角を眺めるのみ。夕飯も逃して彼女のお腹が不満の声を奏でても意識は誘われる事無く、立ち上がる事すらも明石はしなかった。
『・・・なんだか、疲れちゃったなぁ・・・。』
かすれた様な声で紡いだその言葉は、今日一日この測距儀の上に鎮座していた事で生まれた事のみに焦点を絞った物ではない。待ち続けながらも艦魂である彼女なりに必死に探してみつつ、一年前の傷心を一層具合の悪い物してしまったここ一ヶ月を振り返ると、無意識の内にぽつりと唇から洩れてきた明石の本音である。もちろん面倒だとか、一人だけ馬鹿を見たなんて思ってはいない。もう戻ってこないのかと脳裏にぼんやりと蘇る忠の後ろ姿に疑問を投げると苦しくなるほどに悲しみが湧いてくるが、ふと波間から月へと視線を上げた彼女の瞳には涙は湧いてこなかった。
『・・・涙が枯れたぁ・・・。』
自分でも泣くだろうと思っていた明石は、落涙の兆しすらも無い自分に気付いて思わずそう呟く。それと同時に枯れたのは涙だけでは無く、自分の胸の中にずっとしまってきた想いもまた元の形を失ったのではないかと思え、緩くその場を流れていく潮風の中に長くゆっくりと再度の溜息を放った。
『なんだ、お前そこに居たのか。部屋に行ってもおらんと思ったら。』
『う・・・?』
凪いだ海の心地良い波音だけが延々と続く最中、明石以外の女性の声が突如として聞こえて来た。ただ女性にしてはなんだか粗野な感じの言葉遣いと聞きなれた声質はすぐにその正体を教えてくれ、明石は四つん這いになって声のした羅針艦橋真下を覗き込んでみる。
するとそこにいたのはやっぱり神通だった。
『酷いツラだ。その日焼け、今日ずっとここに居たのか?』
刃物の如き鋭利な形の目に月光の輝きを僅かに宿らせ、刺々しいぶっきらぼうな物言いで声を放つ神通は、ちょうど明石が覗き込んだ羅針艦橋直下の右舷上甲板に立ってこちらを見上げている。腰に手を当てて片脚に体重をかけた楽な立ち姿をとり、いつも通りのどこか不機嫌そうな表情で明石の顔に認めた日焼けを問うてきた。
当然、明石はそんな自分の顔の状況は解っていない。鏡なんか持ち歩いていないから頬に手を当てて手触りだけでも確認してみると、僅かにカサカサと乾いた感じを肌に覚える。もっとも神通の言は乱暴ながらも的確なのをよく知っている手前も有り、自分の顔を酷いと言われつつも彼女は友人の声を否定する気を起こさなかった。
『神通・・・。』
夜になって訪ねてきてくれた友人の名を呼び、明石は唇を僅かに曲げて笑みを作ってみせる。強面の風貌に怒りんぼの性格を併せ持ちつつも、その実は部下思いで親しい者には彼女なりの優しさを溢れるほどに注いでくれるのは今しがた夜の明石艦をこうして来訪してくれた事にも読み取れるし、ここ数日来の佐伯湾での行動予定では神通率いる二水戦は太平洋沖合にて戦隊単独での教練に励んでいる事を明石は知っている。この人の性格と自分より10年以上も経験を積んだベテラン艦魂である事を考えると、その二水戦の教練だって群を抜く程に厳しく打ち込んでいるだろう事は想像に難くなく、艦魂とは言え戦隊指揮官の立場を頂いているなりに神通も大いに疲れているだろう筈。そんな中で自分の所に顔を見せに来る所辺りは、今更ながらになんと有難い物だと明石は思った。
ただ、彼女の笑みは先刻まで引き摺っていた感情が相当に残っていてどうしても晴れた物とはならず、神通の名を呼んだだけで以降に続く言葉も出てくることは無かった。
対してそんな明石の傷心模様を既に神通も察している。
ここ最近の明石の苦悩っぷりを一番間近で見てきたのはお互いに大親友と認あってきた彼女だし、その発端たる明石と相方の別れもまた神通は一番近くで見ていた。明石艦の海上を見渡せる場所で終日探索の視線を投げている明石が何に悩み、何を探し、何を信じようとしているのかはすべてお見通しで、その果てに否定しようとしつつもどんどん心の中で大きくなってくる結末の予想に心労を重ねているのも既に勘付いている。
佐伯湾に到着してからの戦隊教練で数日ぶりに会ったこの瞬間も、明石に傾ける神通の思考は彼女の胸の奥を極めて正確に読み取っていた。
故に前置きはいらない。
神通は頭上の友人から夜空に輝く月へと顔を向けると、やや間を設けてから短く言った。
『・・・信じられなくなったか?』
主語すらも無い問いかけだったが、神通と同じく明石は容易にその主旨を理解できる。
だって帰ってこないだもん・・・。
すぐにでもそう言い返したいと心の奥では反応が示されたが、同時にそんな心に同居する何かが明石の唇からそう紡がせるのを遮った。散々に待たされて悲しみを深くした末であっても諦めたくはないと、無意識の内に作っていた拳を握りしめる。すがりつくのに似たような感じですらあった。
ただ、いくらそう願っても現実に彼女の前に相方が現れないのが、思いとは裏腹に彼女の胸をとても苦しめる。枯れた涙で表現する事こそないものの今にも泣きだしそうな顔になっているのを、神通も瞬時の流し目で頭上に認めていた。
だがしかし、神通は次の瞬間に小さく微笑を浮かべる。
次いで彼女の投げた問いに色々と心を右往左往させている明石をわき目に、一度顎を軽く引いて微笑を友人から隠した後、神通はやや低い声で語りかけ始めた。
それは友人の気持ちを理解しつつも刺激しない様な感じの、神通にしては随分と優しい口調であった。
『私も涙は枯れた筈だった。あの美保ヶ関の嵐の中と、そのすぐ後に親方に曳航されて戻った舞鶴でな。でもお前と会ったあの時は・・・、ふん。そう言えばあの夜もこんな天気だったな。月明かりの綺麗な。』
いつになく饒舌で語り口も温もりが籠る神通の言葉を受け、明石は葛藤を一時忘れて眼下の友人に再び目を向ける。手摺も無い測距儀の上から四つん這いになって下を覗き込むという格好悪い姿勢ながら、突然に来訪して突然な発言を行う神通の様子を窺ってみると、明石も神通が伏せ目がちにしながらも笑みを作っている事に気が付いた。傷心を理解しようとする様な先程の台詞といい、いよいよ友人の言動に疑問が湧いてき始めた明石だったが、『どうしたの?』という一言を吐く前に神通は明石に顔を向けて口を開く。
『・・・乾きの後に数年経って潤いが戻る。私は10年以上日照りが続いたが、お前は1年で終わったな。明石。』
『え・・・?』
そう言って神通は笑みを深くした。
青白い月明かりに照らされたその顔はこの人にしては随分優しげな表情を如実に浮かび上がらせており、様子を尋ねたい側であった明石もついつい留まってしまう程に美しい。地の性格が乱暴すぎて普段はあんまり意識しない神通の美人ぶりに息を呑んだ明石だが、その一方でそんな友人が自分に対して安堵を与えようとしているのではと思った。
おべっかや世辞なんて屁とも思っておらず、上手く言葉をかけて他人の気持ちを勇躍させたりするなんて芸当は大の苦手な筈の神通。併せて明石が心身ともに疲労を覚えたここ最近の懸念は、二人を含めた艦の命ではどうする事も出来ない人間に関する物で、この点でも解決策を導く事が神通にできるとは明石には考えられない。が、まるで今にも鼻歌を歌いだしそうな感も漂う神通の顔には、注ぎ込んでくるが如きの安堵を与える雰囲気が強く纏われている様だった。
先程の台詞も含め、さも、もう全てに及ぶ明石の苦悩の時は終わったのだと言わんばかりの。
するとその刹那、人が一人も座れば踏み場も無いくらい狭い測距儀の上にも関わらず、明石は背後にて何某かの物音が鳴ったのに気付いた。
『う?』
四つん這いの格好のままで後ろを振り返ると、断続的に続いている音は測距儀天蓋へと続く開閉式の蓋の下から木霊していた。鉄の艦の中らしくガサゴソという感じよりは金属を踏んだり擦り合せたりする事で生まれる金属音の連続で、どうやら日中より明石が陣取っていた測距儀の中にて誰かが何かをしているらしい。
と言っても乗組員の内の何者かが測距儀内に居るという事自体は、別段に変な話では無い。本来は明石艦艦首と艦尾に据えつけられた主砲の為の距離情報を取得する設備であるも、平たく言えばその名の通り測距儀とは対象物との距離を測るのがお仕事。或る時は航路や針路の為の目印となる海岸の地形や施設を観測する事もあるし、或る時は洋上の僚艦との距離や方位を把握して航行序列の最適位置を見つける事にも使用されたりするので、明石艦に備わる多様な設備の中でも平素からその使用率はかなり高い代物である。もちろんそれに連動して測距儀には専門の人員が配置されている訳だから、むしろ明石の足元に位置する所は常日頃から人が居ない方が珍しいくらいの場所だった。
だから明石は物音の正体を乗組員の誰かと察しつつ、彼等の行動と測距儀への出現にも瞬間的にその理由を推察してみせる事が出来た。
慣れた呉とか柱島泊地じゃなくて、佐伯湾の停泊だもんね。
第一艦隊も居るんだし、停泊状態の定時確認か何かかな?
そう考えた明石は測距儀がその後まもなく動き始めるだろう事を鑑みて、測距儀の付け根部分にして羅針艦橋天蓋に当たる砲戦指揮所へと降りようとする。気分は相変わらず晴れないし、来訪してきた友人もなんだか意味不明な台詞を吐いているが、せっかく自分の所へ来てくれたのに上甲板で待たせては悪い。
だが測距儀の壁面に取り付けられたステップへと四つん這いのまま身体を向け、右手をステップへと乗せたその時、明石はすぐ後ろで測距儀のハッチが開く重苦しく長い金属のきしむ音色を耳にした。
円柱の形の測距儀において天蓋の一角を四角に切り取ったハッチは蝶番を通じて上に開き、ちょうど明石はハッチの真後ろに位置している。明石もいつもはそのハッチを通じてこの場所にやってくるので、開く様子や金属音自体はすっかり慣れた物で全く珍しくはないのだが、彼女の瞳はハッチを焦点に合わせた所で瞬間的に凍りついた。
その目に映る開いたハッチのすぐ向こうには、測距儀天蓋へと上半身を覗かせる、神通や明石と同じ真っ白な第二種軍装を身に着けた一人の海軍士官の後ろ姿が有ったのである。深く被った軍帽の下に見られる襟足は短く、肩や首の辺りしか見えないながらも角ばった感の強い身体の輪郭は明らかに女性の物ではない。明石艦に乗組む700余名に及ぶ乗組員の一人の様だったが、明石は何故かその後ろ姿に大きく意識を誘われた。
なぜならその背中が、一年前の有明湾での光景を一瞬の内に明石の記憶に蘇らせたからである。さながら津波の様に押し寄せて来る様で、思考を巡らす猶予を設ける事すらも一気に押し流してしまった。
『あれ・・・?』
『あれ・・・?』
そして短い台詞を明石と眼前の男は同時に放つ。
まだお互いに目も合わせぬ中での偶然に明石は驚きつつ、僅かに耳にした彼の声にもまた記憶を揺さぶる何かが有った。
いつか目にした決してたくましいとは言えない背と、どこかで聞いた男の割に覇気が薄い感の有る声。次いでそれらが瞬時に明石の脳裏で繋がろうとする、一年前の記憶。それらの事象はほんの数秒の間の事ながら始めは明石に混乱を与え、まるで灯っていた火が風で消される様に突如として終息。入れ替わる様に明石の脳裏では、ここ最近必死になって探し続けてきた記憶の断片が一つずつ積み重ねられていく。先程まで見ていた孤独な暗闇の世界の中、探そうと発起した果てに思い出す事すらもできなくなっているのに気付いた、大事な者の特徴。
どんなクセが有って、どんな食べ物が好きで、どんな話し方をして、どんな顔をしていたか。
それらの悉くをこの時、明石は眼前に有る一人の海軍士官が持つ後ろ姿に見出していく。やがて放った彼女のやや上ずった感もある声は、確信も抱かぬ内に相方の名を紡いでいた。
『もり、さん・・・。も、森さん・・・!?』
『・・・あかし? あっ・・・。』
上半身を捩じって背後へと向き直った瞬間、彼もまた今しがたの明石と同じく目を凍りつかせた。
それがずっと追い求めてきた存在だったから。それが懸命になってこの一年間励んできた意志の根源だったから。唯一その人だけに持ちえた特別な感情が有ったから。
ずっと好きだったから。
彼はまごう事なき、かつて明石艦乗組みであった森忠だった。
忠は一年ぶりにようやく、かつての相方の下へと姿を現した。
自分なりに気持ちを整理して馳せ参じる様な気持ちでここまで来たのに、月下の佐伯湾に揺られる艦上で彼女の顔を見た瞬間、忠は声と思考の全てを一瞬失ってしまう。人知れずこんな台詞でとかねてから再会の仕方を決めていたのももはや忘却しており、息遣い以外の音色が彼の唇から洩れてくる事は無い。
ああ、こんな顔だったなあ・・・。
こんな姿だったなあ・・・。
声無くそう胸の奥で呟きながら、忠は黙って明石と見つめ合う。一方の明石も何事かを言いたそうに口を僅かに開けたまま見開いた目に忠の顔を映しているが、濁流の様相を呈する想いの交錯が二人の間にしばしの沈黙を生じさせた。
『あ・・・、あの・・・!』
そして長かったのか刹那の内だったのか解らぬ静寂の中、やがてすぐ近くにて対面しているにも関わらず振り絞る様な声色で先に言葉を発したのは、忠の方だった。黙ったままではいけないと半ば自分の背を自ら押して言おうとするのだが、話をせねばという単純な動機のみで取った行動故にその後に続く言葉が彼の脳裏には浮かんでこない。一度明石から外した視線が左右に泳ぎ、後頭部を掻きながら忠は言葉選びと話題選びに四苦八苦した。
もっとも何から言うべきかと考えたら、明石艦へと戻ってきた事をまず彼女に教えねばと至極当たり前の事に気付いた忠。挨拶という程かしこまるつもりは無くも喧嘩別れの末に一年ぶりに会ったのが今の瞬間であるから、下手な言葉は彼女を怒らせてしまうのではと若干の怯えを隠せない。どんな言葉と態度が返って来るかと思うと再び舌が億劫になったが、忠は拳に力を込めて精一杯の勇気を振り絞る。
『その・・・、あ、か、帰ったよ・・・。明石・・・。』
か細い声で呟く様な声色でそう言った。
もっと明石の相方として相応しい男になるべく一念発起し、砲術学校、水雷学校と学びの道を修めた末の姿としては、我ながらなんと情けないと早くも忠は自己嫌悪に憑りつかれ始める。口を小さく開いたまま見開いた目を向けてくる明石とそれ以上見つめ合う事も出来ず、今度は頬を指先で掻きながら泳ぐ視線で次は何と言おうかと再び思案に陥った。
一方、対する明石も突然の忠の出現と『帰ってきた、』という一言に頭と心が硬直しきっており、奇しくも忠と同じく相手に何と言って語りかければ良いのか解らなくなってしまっている。常々、昨年の有明湾の一件は彼女なりに痛恨の極みで大いに反省もしていたから、いつか会ったらまずその時の事を謝ろうなんて考えていたのだが、真っ白な彼女の思考にはそんな予てからの思惑が浮き上がって来よう筈も無い。
頭の巡りも心の伸縮も、表情の明暗も唇の動きも全てがたどたどしくなってしまっている中、明石が忠との間に交える一年ぶりの声はお互いの壮健を確認したりするものではなく、ここ最近得ていた相方を待つばかりの苦しみにおける真相を尋ねる物となった。
焦点がぼやけた視線と芯の抜けきった声色で、明石は声を放ち始める。
『か、帰った・・・て。な、なんで、今・・・!? 艦隊訓練とっくに始まってる、のに・・・!?』
『あ・・・、ああ。そ、それね。待命だったんだよ。水雷学校が終わってからさ。』
『た、たいめー・・・?』
忠の返答にあった初めて耳にする語句に明石は首を捻った。
言い訳をするつもりは微塵も無いが、明石が艦隊訓練の開始をもって言わんとした忠が帰ってくる事における遅れに関しての事だけに、僅かに自己弁護する意気込みも含め、彼は上擦った感をやや薄めてその場ですぐに意味を彼女に教えてやった。
別に帝国海軍に限った事では無いが待命とは読んで字の如く「命を待つ」という事で、大きな会社を始めとする組織の人事上では比較的よく目にする部署配置決定における準備、もしくは一時留保の様な物である。帝国海軍でもその用法は全く同じで、なまじ陸上の定点に有るのではなく海上を自由自在に移動している艦船がその配属先となれば、いつどこで実際に乗組むかはその時々の情勢によって変化するのも無理の無い事である。
忠の場合はちょうど前期訓練、後期訓練の合間であっただけに新たな配置先へと出向くのに時間的な都合が付かず、ましてや帝国海軍という一大組織において同期、同窓の人々が多い環境からもそれは尚更の事であった。
『・・・兵学校66期は俺を含めても220人もいたんだ。全員って訳じゃないけど、殆どが一斉に部署が変わる時期でさ。一人一人の配転先が通達されるのにちょっと時間がかかってたんだよ。頭の良かった奴らには、それに併せて階級が上がってる奴もいるし。それにほら、新しく空母の艦隊ができたりとかして艦隊編成が随分変わっただろ? それもあって人事の方が随分忙しかったみたいなんだ。結局、通知を待ってたら呉で乗艦できない事になって、徳山の燃料廠から作業地在泊中の第二艦隊行きの艦艇が来る予定に合わせて着任する様に指示されたんだよ。まあ・・・、まさかその中継の艦が霰だとは思わなかったけど。あ、あはは・・・。』
決して自分が故意に遅れた訳では無い事を説明する彼の口ぶりはしどろもどろする感じは無いが、その終わりに悪い癖である愛想笑いが出てしまった事に気付く忠。我ながら情けない限りで、久々の再会に動揺したとは言え男ぶりの変わってない所を恥じ入り明石から僅かに視線を落してしまう。
だが明石は四つん這いのままで忠に顔を少し近づけるや、彼が口にした台詞に含まれていた一言を問い質す。確かめんとする強い意志と、すがりつく様な気持ちが同居した幾分の震える声で、明石は言った。
『ちゃくにん・・・! 着任って事は、ま、また私の所に配属なの・・・!?』
『あ、ああ・・・。うん、そーゆー事・・・。あはは・・・。』
身を乗り出して尋ねてくる明石に、忠はなんだか困った様な笑みを浮かべて相槌を打つ。男のくせにせっかくの再会を何故にこうして受け身に迎えているのだろうと自問しながらも、間近に迫った明石の顔を見ると次第にそんな自分自身へのささやかな怒りと失望は消えていった。
もっと格好良く言おうと決めていながらあえなく失敗してしまったものの、胸を張って帰ったと言える今の己の境遇を、自分なりに一生懸命頑張って時には上官の誘いにも断りを入れながら掴みとった新たな配転先を、こうして明石に伝える事にこれまでの生涯の中でも最高に属する程の歓喜を覚えていたからだ。
忠は綻ぶ口元をそのままに背筋を伸ばし、斜めにした右手を軍帽にかざして敬礼を作ると、格好良く決める最後の機会だと胸の内で言い聞かせてやや大きめに声を放つ。それまでの不甲斐ない自分を断ち切る様に、まるで勝鬨でも上げるが如く張りを持たせ、なおかつ静かな口調で奏でた彼の声は、ようやく明石の思考と心に「安寧」の二文字を与え、渦巻いていた混乱を鎮めるのだった。
『・・・帝国海軍中尉、森忠。昭和16年5月2日をもちまして明石艦乗組みを命ぜられ、本日ただいま着任至しました。願います。』
忠は帰ってきた。
再度の明石艦乗組みを正式な海軍の辞令として貰い、一人の海軍軍人として、男として一回り大きくなって。
昨年より一個増えた襟に輝く二つの桜はそんな彼の成長を雄弁しており、唖然としたままの明石の瞳に映る。そしてやっと相方の帰還が現実なのだと確信できた時、明石には不思議な気持ちが湧いてきた。感動に高揚する訳でも無く、『おかえり!』と応じてあげたい訳でも無く、待ち続ける事で生じた積もりに積もった想いが変化するのは、かつて一緒に過ごしていた時に希に有った、相手を持ち上げるのとは真逆の格好となる物。
せっかくの再会だからという気は何故だか不思議と生まれず、忠の薄らとした微笑とどこか芯が通った様な物言いを前にすると遠慮するなんて考えも失せた。
だから彼女は忠に対し、彼が続けて何事かを言わんとするのも無視して大声を浴びせてやる。
とても久しぶりな感情であるが、この時、明石は最早抑えきれないくらいに、無性に忠を困らせたくなったのだった。
『あ、それでさ、明石。本当に今着いたばっかりなんだ、二水戦と一緒に来たから。だからすぐに当直将校の所に行きたいんだけど・・・。』
『ぐっ、ぐ・・・、軍法会議だぁ!』
『え?』
突如として叫んだ明石に忠は驚き、測距儀の上に出した上半身も僅かに仰け反る。相変わらず測距儀の上で四つん這いのままで明石はズイっと顔を近づけてきて、曲線ながらも吊り上げた眉で忠を睨みつけた。すると明石はこれまた突然に忠の頭の上に両手を重ね合せて、測距儀に押し込めようとするが如く体重を掛けてグイグイと激しく押してくる。
しかもせっかく最後の機会だと張り切って格好良く台詞を吐いたばかりの忠に、何やら刑罰を受けろというニュアンスの言葉をぶつけ始めた。
『私はもうとっくに呉を出港してるの! 固有の乗組員が出港時間に遅れるのは法令違反だぁ! 海軍刑法で処罰するぅ〜!』
『ちょ!? まま、待ってよ! これでちゃんとした辞令なんだって・・・! 遅刻じゃな・・・、あいててっ!』
問答無用と明石が頭上より圧し掛かり、測距儀の上に上半身だけを出している故に身動きが取り辛かった忠は良い様に軍帽越しに頭を押さえつけられる。明石独特の幾分の突飛な言動に懐かしさを覚える暇も無く、やりたい放題、言いたい放題にされてしまう忠だったが、その実、昨年まで過ごしていた日々と変わらぬ環境がそこに在った様な気がしてどこか嬉しかった。情けなく困った笑みをしかませてどつかれる自分にも嫌な気持ちはもう起こらず、効果の無い謝りの文句を放ちながら明石が発散する心の波を受けて揺らされるばかりだ。
『ご、ごめんて! お、オレも決まりさえしたらすぐに来るつもりだったんだよ・・・!』
『ふんが〜! ぐんぽーかいぎだぁ!』
それは長く待たされた彼女の勘気だったのか、それともよくぞ帰ってきてくれたと言わんばかりの歓喜だったのか。
怒鳴りつける様な声色に混じってグイグイと忠を押しやる明石には、ふざけている様な雰囲気は少し有るも許してあげようという素振りは微塵も認められない。
しかしその一方、頭を押さえつけられた格好で忠には見る事は出来なかったが、これでもかと身体全体で忠に圧し掛かる明石の両目の辺りには、薄らと光る微細な飛沫が乱れ飛んでいた。
そしていつの間にか艦橋の根本、セルター甲板の隔壁に背を持たれ、腕組みをして静かに耳を澄ましていた神通は、わーわーとうるさい頭上から夜空に輝く月に目をやって呟く。騒がしい二人が顔を合わせてからお互いにコロコロと表情と交える心根を変える中、彼女だけは終始優しげな笑みを変えてはいなかった。
『・・・ふん。夫婦喧嘩は部屋でせい。』
昭和16年の春もやや暮れ始めた時期のこの夜、明石と忠は再び相方を組む事になったのだった。