第一四二話 「涙は枯れて/其の三」
昭和16年5月5日。
既に所属艦艇の大部が出港した呉軍港より、明石艦は錨を揚げる。
檣楼には色鮮やかな信号旗が数個程連なり、艦尾旗竿に高らかに翻る軍艦旗も久方ぶりの潮風との舞踊に張り切っているのか、風を切るバタバタという音がどこか勇ましい。羅針艦橋にて指揮を執る伊藤特務艦長以下の明石艦幹部達の号令も気合が乗り、甲板を右に左に駆ける乗組員らの動きは緊張感と覇気が混ざって海の男の良き姿となって映える。整備と艦全体の塗粧も終えて新造同様のピカピカの艦体はそれをさらに一層引き立て、江田島沿岸を通る間際にすれ違った漁船の上の人々には僅かに息を飲む者も現れるほどだ。
目指すは後期訓練開始の地と定められた九州西岸の佐伯湾。
瀬戸内海を西進して針路を南に向け、九州と四国の間に有る豊後水道を抜けたすぐそこにあるこの湾は、明石艦が就役した一昨年の頃より度々使っている帝国海軍ご用達の作業地の一つ。就役以来明石艦が一貫して追随している第二艦隊は既にここで集結を始めており、艦隊旗艦の高雄艦も横須賀を発って隷下部隊の集合を待っている状態である。明石艦に先だって第二艦隊随一の大所帯である第二水雷戦隊も呉を出発しており、戦隊旗艦の神通艦も含めて水雷兵装を最新式に一新した事情も有って、五藤司令官以下の第二水雷戦隊所属の人間達は新式装備での初となる訓練に気合を漲らせていた。
もちろん明石艦だって後期訓練への意気込みを改める乗組員は多く、4月の中頃に新たに乗組みを命ぜられていた新兵さん達にとってはそれこそ人生初の艦隊勤務である。まだまだ先輩方や下士官の怒号と慣れた仕事ぶりにおっかなびっくりしながらも、瀬戸内の波頭を蹴散らして進む明石艦の揺れ具合に淡い期待を抱かせて、その若々しい心を前向きにしている様子であった。
ただ、そんな明石艦では出港してまだ間もないというのに、早くも艦内各部では僅かな機器の不調を見つける声が上がっていた。
『なんだぁこりゃ。呉工廠の連中、校正を間違えたのかな? おい、どうだ? 直りそうか?』
『ええ、故障って訳ではない様です。ちょっとお時間もらえれば、なんとか。』
『まずいな。作業地には第一艦隊も居るらしいから、下手したらアチコチの艦から修理や整備の品が入ってくるぞ。なんとか今日中で直さないと。』
『そうですな。・・・あ。一応、工作部長にも報告してきます。』
『おう、頼んだ。あ〜、板金と鋳物工場の方でも動かないつってた機械もあったな。どうなってんだ?』
明石艦の目玉である艦内の工作機械の付近にて、白い作業衣に身を包んだ乗組員数名がそう言った。まだ第二艦隊とも合流していないので全ての工作機械は稼働状態でこそ無かったものの、つい昨日に一ヶ月に及んだ整備補修を終えたばかりという事を鑑みるとなんとも幸先の悪い訓練開始だ。それでも救いが有るとすれば各々の機械の不調は致命的な欠陥や破損とは無関係であった事で、工作部所属の工員さん達は整備補修の際の機械の据えつけ、或いは調整等を勘ぐったりしながら、初日より油まみれとなって工作機械の復旧に精を出す事になった。
無論、それは彼らが知る由の無い所に理由が有る。
彼らにとっては信じる信じないの次元でしかその存在を意識できない艦の命において、その心身の調子が安定していない故に分身たる明石艦に影響が出ているのだ。
『ぉ、おい、愛宕・・・。あ、明石はどうしちゃったんだ・・・?』
『私にも解らないよ・・・。ただ、あんなに落ち込んでるんだ・・・。あまり触れないでやった方が良いんじゃないか・・・?』
そして明石の心の不安定さはその分身が佐伯湾に到着し、ようやく第二艦隊が揃った事で開かれた後期訓練を控えての各戦隊長級の艦魂達による会議が招集されても尚、安寧を迎えてはいなかった。帰らなかった相方への想いは涙の流れそのままに傷となり、泣きはらした事で赤い色が滲んだ目の周りは傍から見ても非常に痛々しい。生来が天真爛漫で無邪気な性格からは想像も出来ぬほどに口数も少なく、愛宕艦長官室の一角にて俯いたまま椅子に腰掛ける彼女に、声を掛ける事の出来る者は全くいなかった。
『おい、利根・・・。明石とは仲良かったろ・・・? ど、どうしたのか聞いてみろよ・・・。』
『あ、いえ、そ、そのぉ・・・。は、話せば長いんですけどね、那智さん・・・。』
明石とは容姿の上での年齢も同じ、分身の出来た頃合いも大体同じ事から同期の様な付き合いをしている利根も、先輩である那智に尋ねられてその返答を鈍くしてしまう。一応は待ち人来たらずという明石の現状を利根は知ってこそいたが、その気の毒な事この上無い明石の風体を目にしては、軽々しく口にするのもなんだか悪いような気がして唇が重かった。
おかげで後期艦隊訓練開始の戦隊長会議は以降も皆が明石に遠慮して終始雰囲気は沈みっぱなしとなり、粗方の訓練の方針や各戦隊の近況を整理し終えると殆どの者達は逃げる様にそそくさとその場を後にする。
『あ、艦隊旗艦。それでは後ほど。』
『あいよ。お疲れさん。』
『さあて、メシでも食うかね。お疲れ様ー。』
そんな声を連ねながら平静を装ってぞろぞろと室内を出ていく中、何事も無かったかのように明石はずっと俯いたままで、その両脇の席にて同じく姿勢を変えずに静寂を保ったままの神通と那珂は、まるで今の明石の沈黙と消沈した様を守っているかの様ですらある。もちろん明石の元気の無さに起因する事を、そしてそれがどれほどのダメージを明石の心に与えたかを、もはや姉妹の様に接してきた二人は極めてよく知っていた。
『おい、明石・・・。』
『明石・・・。会議は終わったよ・・・。さあ、行こう・・・。』
『・・・うん・・・・。』
返事は返してくれるものの、明石の俯いた顔が上げられる事は無い。生来の明るさと元気の良さは完全に奪われており、今にも泣きだしそうな表情とどんよりとした雰囲気にはさしもの神通も声を掛けるのに戸惑いを覚えてしまう程である。いつも尊大で不機嫌そうな感じを湛えているその顔つきに滲んだ困惑の色は隠しきれず、その内不意に出たそっぽを向けるようにプイっと明石とは逆の方に視線を流すのも、普段通りの彼女の癖の一つであるよりも逃げの一心が微かに働いたからだった。
『・・・昼飯だ。霰が用意している。那珂、お前も一緒に来い。』
『ありがとう、神通姉さん。明石、行こう。』
『・・・・・・・。』
明石とは少し離れている20代後半の女性の容姿を持つ神通と那珂にそう語りかけられ、椅子から腰を上げるや前後を挟むような形で誘われていくその姿は、なんだか二人の姉に子供が手を引かれていく様でもある。しかしながらそんな様子から想像されがちな微笑ましさなんかは明石の身体から発せられる悲哀の空気で覆い隠され、真っ白な第二種軍装を3人とも着ている中にあってもただただ暗さだけが周囲にはたちこめている。
それだけ明石には相方が戻らなかった事が辛かった。
こうして昭和16年度後期艦隊訓練を迎えた明石を含めた第二艦隊の艦魂達であったが、彼女たちなりに帝国海軍という非常に巨大で国家的な組織を意識して生きているのであるから、たった一人の仲間の胸中を推し測ってばかりではいられない。
一昨年よりの欧州での騒擾が皮切りとなって同じ東亜の仏印や支那でも戦火の兆しは見え隠れしているのだし、外交的、政治的問題で米国なんかとも関係が急変している時局の最中、帝国海軍は日本に降りかかる火の粉に対する万全の備えを整えておかねばならず、地球規模で戦争が起こっている情勢ではそれは尚更の事である。事有らば迅速に失敗無く、文字通りの実力でもって対応する組織が帝国海軍なのであり、いつ何時でも、何事にも手抜かりが有ってはいけない緊張感は、第二艦隊であっても例外ではないのだ。
故にさっそくその翌日からは各戦隊毎の教練が開始され、実弾の射撃なんかも伴った訓練も殆どの部隊で実施されている。加えて佐伯湾近隣の海域には連合艦隊旗艦の長門艦が直卒する第一艦隊も行動中で、第二艦隊に引けを取らない隻数を擁する本艦隊の訓練支援の為に、なんと明石艦の他に唯一存在する工作艦である朝日艦までも随伴させているくらいだった。
風雲急を告げる国際情勢の下、明らかに帝国海軍はこの後期訓練にその全力を注いでいる。
当然その気風は乗組員は勿論、艦の命達であってもひしひしと感じ取っており、帝国海軍中最強を自負する第二水雷戦隊では誰もがその意気込みを使命と捉えるほどに、人間達も艦魂達も意識していた。
そして5月7日。
第二水雷戦隊はさっそく戦隊単独での訓練の為に所属全艦が佐伯湾から錨を揚げ、豊後水道を抜けて世界一の大洋である太平洋へと軍艦旗を進める。陸地も完全に見えなくなる沖合まで行くとそこは艦の運動も火器の使用も制約が無い見渡す限りの群青の大海原が広がり、思う存分に戦闘艦艇としての能力を発揮できる海域。太平洋独特の荒いうねりと潮風を浴びて各艦の後檣に翻る軍艦旗は颯爽と靡き、艦首にて蹴散らされた波の絶壁は宙で砕かれつつ時折艦橋の真上から覆いかぶさるように降ってくる。
全長が100メートル近く有るとはいえ小型艦と類別される駆逐艦にとっては決して楽な航行とはなっていないが、本格的に訓練初日を迎えた乗組員達も艦の命達もとりたてて本日の海に及び腰にはならず、それぞれがそれぞれの場所でこれから始める各種の教練に向けて準備に勤しんでいた。
『あれ。霞一水、それ、九三式魚雷の教本ですか?』
『ああ、天津風。そうだよ。公試は済ませてるし、陽炎とか不知火が発射してるのも見て来たけど、私が持ったの初めてだからさ。』
『ケっ! ボロの艦に最新式の魚雷なんかいらねーっての。』
『うるさいな! キャンキャン吠えんなら犬小屋に帰れぇ!』
『なにを、猿め!!』
神通艦の後檣の斜桁にてはためく軍艦旗より見下ろした艦尾甲板には、二水戦所属の駆逐艦の命達が集って長たる上司が来るのを待っている姿が有る。既に朝食も終えて自身の分身のちょっとした掃除もこなした彼女達は、皆一様に10代後半の少女の容姿を持っていながらもまさに目前に迫った本日の教練に備え、或る者は準備体操をしていたり、或る者は本を読んだり、はたまた或る物は厳しい訓練を前に最後の寛ぎを得るべく、その場に座り込んで楽な姿勢で波頭の向こうを眺めていたりと、思い思いの時間を過ごしていた。
怖い怖い上司の分身の上での待機は言わずもがな静かにしておく事は鉄則であり、これに反するとどうなるかはその場に居る少女達は皆が一様に深く思い知っている筈なのだが、知っててそれを履行できない愚か者は今日もいつもの如くこの二人。
お互いに140センチ台の小さな身の丈を同じくしつつも、相手の波打ったクセ毛を引っ掻きむしって平手打ちをかます霞と、陽に焼けた様な麻色の肌を鷲掴みにつねって蹴りを入れる雪風である。
他愛も無い一言に堪忍袋を切らして取っ組み合いの大喧嘩となるのは日常茶飯事で、周囲の姉妹や仲間達の視線も気にせずお互いに馬乗りになろうと甲板の上をゴロゴロと転がり回っている。今しがた先輩である霞に声を掛けたばかりの二水戦の新人、天津風ももうこの大喧嘩にはすっかり慣れてしまい、隊最年少のあどけない顔立ちの中に落胆の色を滲ませて溜息をつく。騒動を起こす片方は隊の先任でもう片方は実の姉にあたる中、この後に必ず襲ってくるであろうそれはそれは厳しいお仕置きをぼんやりと脳裏に想像し、大きく肩を落として転がり回る二人から少しだけ後ろに下がって距離を取った。
もちろんそれは巻き添えを食らわない為の自己保身に他ならず、やがて艦尾甲板に波音に混じって響き渡る革靴の音を耳にするや、天津風は僅かに膝を曲げて蹲る格好となりながら両耳に手を当てて塞ぐ。
そして恒例にして本日一発目のカミナリが、その場に轟いた。
『この馬鹿がぁああー!!』
こうして二水戦の後期艦隊訓練は極めて通常通りの始まりを迎える。
ベッチンベッチンと派手に尻を竹刀でぶっ叩かれるものいつも通りで、年長者の朝潮辺りはそんな光景に僅かながらも安心を得てしまう始末。こってり絞られて霞と雪風の元気が早くも失せてしまっても、この後の訓練を心配する気には全く至らなかった。
やがてようやく愚か者2名にお許しが出て整列を命じられ、鋭さが際立つ上司の眼光と雰囲気に皆が姿勢と心を律して隊毎に並ぶや、小さく咳払いしたのを合図に神通は何枚かの書類を片手に訓練内容を説明し始める。
『よし、全員よく聞け。今回の後期訓練も概ね10月までとされてるが、今期はとにかく戦隊での水雷戦術の再構築と練度向上に重点を置く。皆も知っての通り8駆と18駆の朝潮達、それから戦隊旗艦の私に、以前に説明した九三式魚雷が装備されたからな。私も含めて片舷射線は変わらんが、新式魚雷は旧来の物と比べて性能差が著しいし、発射法関連も相当変わるだろうから、今期訓練で必ず全員が習得する事。帝国海軍広しと言えど、戦隊単位で雷装を統一したのは我が隊だけだ。人間達の界隈でも随分と注目しているから、魚雷関連の予習復習は毎日欠かさぬ様にしろ。それから本日の予定は今までのおさらいを兼ねて、各駆逐隊での艦砲射撃、戦隊での襲撃運動。少し間を開けてから夜間襲撃運動の教練を行う。夕方少し前には一度仮眠をとっておけ。夜間演習は少し長いからな。数日の間はまだ魚雷発射は行わないから、まずは全員、休みでなまった勘を取り戻す所から始めるんだ。』
透き通るような青空と太平洋独特の群青が一面に広がる中で語る神通は、持ち前の鋭いひし形の目を書面に這わせつつ、時折部下達の方へ目配りしていく。げんこつで大人しくさせた霞と雪風は勿論、他の者達も神通の方に視線を集中してよく耳を傾けている光景がそこにはあり、よそ見して聞き流しているような輩は一人もいない。まだまだ新兵さんである時津風、天津風なんかも必死に自身の話を聞こうとしている様で、雪風の背後で縦に並ぶ二人は時折身体を僅かに捻って雪風の肩の辺りからヒョコっと顔を覗かせたりもしている。皆真面目に耳を傾けてくれる様子が手に取る様に見て取れ、教える側の神通は思わず綻ぶ口元を手にした書類を掲げて隠し、訓練における諸注意の喚起を続けた。
そして粗方の説明を終えてようやく書類を手にした腕を降ろすと、神通はいよいよ訓練開始の合図として最初の号令を発する。それに続く形で彼女の眼前の少女達は連なる様に声を張り上げ、ここに艦魂達による訓練は開始されていくのだった。
『よし、では各駆逐隊毎に点呼。かかれ。』
『16駆、番号!』
『いち!』
『にーっ!』
『8駆、番号!』
『いーち!』
まだまだあどけない顔立ちの少女達であっても、そこにいるのはれっきとした帝国海軍の駆逐艦の命達。
上司の号令一下、すぐさま各駆逐隊の司令駆逐艦とされている分身を持つ者が先に声を上げ、それに続いて所属の者達が各自振り分けられた番号を高らかにその場で叫んでいく。周りで他の隊の点呼が取られる中でもそれを遮る様に律した声を張り上げ、皆間髪入れずに次々と番号を叫んでいく辺りは乗組みの水兵さん達よりも時には気合が入っているくらいで、きっとその姿が見えたなら人間達も女性という外見から持つ艦魂達への第一印象を少しは変えるであろう。ましてや規律や決まり事には人一倍厳しい神通が手塩にかけて育ててきた二水戦の面々ならそれは尚更で、彼女達が並ぶ神通艦の艦尾甲板には久方ぶりに「統率」という二文字が意識できる雰囲気が漂い始めていくのであった。
『第8駆逐隊! ソーインヨンメージコケツインイジョーナシ!』
『第15駆逐隊! 総員4名! 事故、欠員、異常なし!』
やがて点呼を終えた駆逐隊の長たる者が神通の前に走って来て、敬礼を伴いながら自らの隊の点呼結果を矢継ぎ早に報告し始める。上司の鋭い眼光にちょっとビビりながらも訓練の最初の一歩だけに精いっぱいに声を張り、すぐ近くで明らかに上司の耳には届くと解っていながらも大声で報告するのは、皆一様にそう躾けられたからでもあるし普段の生活の中で見る人間の乗組員でも同じだからでもある。命令連絡の聞き違いや間違えは時にはお船の安危にも関わる事だし、静かな湖畔や森の中ではなく大荒れの波や強風の中を行き来する環境では尚更にそれは起こりやすい。
故に神通は目の前で叫ぶ部下達に憤りを覚えはせず、むしろどの隊が一番早く報告に来るかを独り勝手に脳裏で下馬評を作りながら待っているくらいであった。
予想通り一番早かったのは二水戦の駆逐隊では最年長にして、一昨年の旗艦就役時から従っている駆逐隊でもある第8駆逐隊。構成メンバーも霞や雪風と比べると大人びた20代も迎えた様な容姿を持ち、4人全員揃って最近元気の無い友人、明石とはほぼ同じくらいの年頃。敬礼の動作も報告のしかたも一番に板についた感があり、人間の乗組員に例えると古参の水兵さんと比べても遜色は無い。神通にしても自分を除けば二水戦最年長の者達という事で彼女達には幾分の信頼を与えており、事実、4駆逐隊16名に及ぶ隷下の部下達の中にあって最も尻をぶっ叩く回数が少ないのもまた彼女達、第8駆逐隊であった。
『ふむ。』
短いその一言は報告に頷くのと同時に、また一つ彼女達に頼れる保証を得た喜びも少しだけ混じっている。他の15駆、16駆なんかはようやく今年に入って編制を完了したばかりでまだまだ尻が青い所は否めないから、今期も頼むと胸の中で小さく呟いて神通はやや曲線の効いた眼差しで8駆の面々に視線を投げた。
しかしこの時、人知れず一部の部下に抱く神通なりの優しさを、8駆に続いて上がってきたとある報告が遮る。声を上げたのは雪風なんかと同じくらいの10代後半の容姿を持つ、不知火という部下であった。
『第18駆逐隊! 総員4名、内、欠員1名! 他、事故異常無し!』
『む・・・。』
内容の違いが耳に止まり、神通は8駆から視線を声のする方へと向ける。神通から見て左側に陣取っていた8駆とは逆の方で、例に漏れず不知火が立つのは神通の目と鼻の先くらいのすぐ傍。緊張した面持ちで額に沿えた挙手の敬礼を降ろせず、神通独特の強面を真正面から目にしたとあって、不知火にはちょっとオドオドしたような様子が見て取れる。短く切ったというよりもまだ伸びきっていないだけの黒髪と雪風にも似た小さな背丈は、先程まで見ていた8駆の者達に比べれば頼りなさが随分と際立ったが、それに対して神通は怒る事も無い。なぜならこの時、神通は不知火が今しがた言った他の隊とは違う報告の内容を、自身の記憶の中より検索して既に思考に蘇らせていたからである。
それは佐伯湾からの出港前に既に人間達の会話を立ち聞きして耳にしていた事で、神通はちょうど戦隊全員が集っているこの場で皆が周知できるように、既知にも関わらず敢えて不知火に報告の詳細を語らせてみる事にした。
『よし、不知火。内訳は?』
『は、はい! えと・・・、け、欠員は18駆3番艦の霰艦! 隊内工作任務で、室積沖に派遣中です! い、以上・・・!』
『何が以上だ、馬鹿者が。帰隊予定は? 合流日時も確認しとらんのか?』
ぶっきらぼうで粗野な物言いでの神通のお叱りが、不知火の身体を瞬時に弓なりにして硬直させてしまう。この甲板にきた時もそうだが、普段からげんこつと怒号による一閃でもって躾の初歩とする彼女にしたらこれは非常にやんわりとしたおしかりである。もっともそれを普段から目にしているが為に不知火の恐怖は一挙に倍増していき、額に沿えたままの右手はその内にガタガタと震えだしていく始末。その背後では霞が報告の抜け落ちに気付いて麻色の肌で覆われる顔に思わず手をかざし、『あっちゃ〜・・・。』と後輩のミスに小さく溜息を漏らしているがもう遅い。神通の瞳は鋭さを増して不知火を捉え、欠落していた部分を述べる様にと促す。
おかげで不知火は今にも泣きだしそうな顔となってしまうも、上司の口にした確認事に関しては幸いな事に既に実施済みであった。だから彼女は目をつぶって渾身の力を込め、本日3発目となるげんこつを半ば覚悟しながら必死に声を返した。
『はいぃっ・・・! き、帰隊は本日、ひ、1500の予定! 洋上で少し隊内で打ち合わせを行った後、夜間の訓練前に合流します!』
『よし。戻れ。』
『はいぃ・・・!』
怖い上官の導火線にいつ火が付くか気が気ではなかった不知火。
久しぶりの腹の底からハラハラした一瞬であったが、有難い事に神通は不知火の必死の言を耳にするや特に怒号を発する訳でもなく普通に応じ、続いて挙手して答礼してくれた。これにてようやく不知火の額にかざしっぱなしだった右手は束縛から解放され、当人も含めた少女達全員が一斉に胸をなでおろす。訓練の為に出港した後、のっけから雪風と霞の喧嘩が災いしてしまって機嫌が悪いかも、と皆が憂慮していたから無理も無い。とりあえずはほっと一安心して緊張を緩め、やがて元通り列に戻っていく不知火の周りでは仲間達がひそひそと小さな声を掛けてあげていた。
『このバカ・・・! 合流予定を忘れんなよ・・・!』
『・・・か、霞先輩みたいに上手くいきませんよぉ・・・。』
『ていうか、霞さんや雪風姉さんがまた喧嘩してたから戦隊長の機嫌が悪いんですよぉ・・・。』
『不知火、とばっちりみたいなモンだよねぇ・・・。』
『う、うっさい、こら・・・!』
不知火は仲間や姉妹からそう言われて小突かれている。
上官の前で無駄口を叩くのは言語道断ながら、そこに漂う安堵の雰囲気が少女達の背を押した。もっとも決して騒ぎにするつもりは無い事からその喧噪は責の一部を霞に咎める辺りですぐに収束し、神通も手にした書類に不知火が知らせた報を記す手を止める事は無い。不知火の過失に僅かに吊り上げた眉も既に元通りで、涼しいとも取れる表情を浮かべて一筆入れると片脚に体重を乗せた楽な姿勢を取る。今現在、それほど不機嫌という訳ではない様で、眼前の少女達の微細な喧噪に見向きもせずにその内に書類をポッケにしまうべく畳み始める。
その時、誰よりも神通のおしかりを受けて来た事で、ここ最近はすっかり上司の機嫌の良し悪しが読み取れる様になってしまった雪風は、今初めて耳にした18駆の欠員の事をもう少し詳しく確認しようと思って神通に声を掛けてみた。
『あの、戦隊長。霰、どーしたんスか? 工作任務って、明石さんとかの力借りんなら佐伯湾に居るんじゃねーんスか?』
『ん。ああ、大した事じゃない。18駆で応急とかの訓練で使う木材や鋼索の積込量に間違いがあったそうでな。不足分の積込とちょっとした加工を霰の艦が担当する事になっただけだ。あれで明石も第二艦隊全員の面倒を見なきゃならんから、教練初日から軽い事であれこれと頼む訳にもいかないんだよ。人間達であっても同じだ。明石艦の工作能力の利用はそれなりの事情と影響が予想される時だけだ。』
『あ〜。そーいや明石さん、なんだか調子悪そうだったッスしねえ。アタイらもあんまり無理はできないっスね。』
訓練初日にも関わらず霰が不在である事の理由を雪風に教えてやる神通だが、「工作」の二文字でついつい連想して声に乗せてしまった友人の名に、第二水雷戦隊旗艦の立場としてその場にいる彼女の意識はやや逸脱を始めてしまう。
歳が離れた中にあって互いに親友と認め合う仲な上、雪風を含めて呉鎮所属の多くの艦魂達が目にしているあの落ち込み様は、その発端と真相を知る神通にしたら他人事だと切り捨てる訳にはいかない事だった。自身が信念を持っていま眼前に居並ぶ部下達の教鞭をとってきたのと同じく、明石もまた明石なりに強い意志でもって昨年を頑張ってきたのを間近で見てきたし、未熟な身の上をなんとか克服しようと懸命だったその姿は健気ですらもあると神通は時折感じていた。故に彼女だって明石には友人として接する傍らで色んな事を教えてあげたし、その志がきっと成就するようにと助力もしてきた自負もある。
しかしそれが残念ながら果たせなかった事をつい先日に思い知り、明石は完全に自信喪失、意気消沈の状態となってしまっている。何もかもが無駄だったのだと声無く呟き、押し寄せるショックと悲しみに押しつぶされて号泣した明石を見た時、神通は人知れずいつか自分もこうなるのではと僅かな憂慮と恐怖を覚えていた。
だから、友人とは違い一つの部隊を率いているから、部下を大勢抱えているから、と考えて佐伯湾を出立してきても尚、彼女の胸の中にはわだかまりにも似た物が纏わりついているのだった。
『せ、戦隊長、どーしたんスか? やっぱ明石さん、気になるんスか?』
雪風もどうやらそんな神通の意識を察したらしい。
僅かに視線を落として曇り模様を滲ませた上司の横顔を見上げ、神通とよく似ながらも顔に比して大きい釣り目を見開きながらそう声をかけてくる。しばしの無言とただ腕組みをしていただけの姿からこうも心理を察してくれる辺りは上司としては嬉しい反面、安易に思考を悟られる事は未熟だとも教えられてきた神通だから率直に雪風に対して嬉々の感情を表したりなんかしない。なによりまだまだ青二才の部下達には、他人の心配よりもまず自身の務めとしてとにかく早くその実力を身につけて貰わねばならない責務が有ると思い、彼女はそっぽを向いていつもの如く不機嫌そうな表情を作ると特有の幾分尊大な態度で雪風に応じてみせた。
『ふん。余計な事に気を使わんでいい。お前ももう二年兵だ。同じ隊の天津風や時津風の成績でも気にしておけ。』
『う・・・、は、はぁい。』
部下のいらぬ詮索をこうして抑止し、己のやるべき事を二水戦の範疇に収めてやった神通に、やや口を尖らせた雪風は上司の指示にしぶしぶの了解を返した。
そしてこれを合図にするかの様に神通は一度脳裏から友人への心配を消し去り、帝国海軍艦魂社会指折りの鬼教官としての自分に心と表情を改める。迷いも無く戸惑いも無く、揺るがぬ信念と頑丈な自信で満ちたその強面は甲板の空気を瞬時に張り詰めさせ、少女達は声を掛けられるまもなく一斉にその姿勢を直立不動にする。
次いで神通の唇より力強さが一際増した声色で言葉が連ねられるや、彼女達における昭和16年度後期艦隊訓練が始まるのであった。
『よし。現在、0812。数分後より駆逐隊毎の教練射撃が実施される。各自、腔発事故には十分注意する事。艦に戻ったら無線電話を受信にしてそれぞれの羅針艦橋天蓋上にて待機。別れ。』
『『『 はい! 』』』
『8駆、別れ!』
『18駆別れー!』
こうして二水戦は教練を開始。
そこにいる艦魂、人間達共に帝国海軍最強を自負するだけにその激しさは初日から随所で垣間見え、訓練を行う海域に轟く砲声はまさしく幾重にも折り重なる雷鳴の絶叫の如し。密集隊形を組んで旗艦神通艦を先頭に頂いて行う襲撃運動では、各艦より巻き上がる煤煙が遠目に見るとさながら漆黒の竜巻が海面上に聳えている様にも見え、16隻揃って一糸乱れぬ航跡を海上に描いていく様子は上空から見れば巨大な龍が這う様ですらもある。
同時に艦内でも怒号にも近い声でのやりとりが行われてそんな戦隊の様子と違わぬ雰囲気が作られており、太平洋の大きなうねりも今だけは完全に二水戦の下に平伏してしまっていた。艦に与えられる大きな動揺も、艦首を包むように聳え立つ波しぶきも、引きちぎる様に軍艦旗をはためかせる潮風も、第二水雷戦隊各艦の力強い航行を妨げる一切の障害になれてはいない。鬼神も退くその勇壮な光景は、帝国海軍という大きな組織が持つ最も強力な牙であると誰もが認めるであろう。
多少の老若と在り方に差異を設けようとも、彼等はその誇りをこれまでと同じく今日もまた研ぎ澄ます。訓練の合間の小さな待機時間を得てもその鋭利さは少しも薄れてはおらず、成績の比較や明らかになった懸案への対応検討、果ては不甲斐ない結果へのお叱りなんかが飛び交ったりもして、まだ陽が沈む前にもかかわらず疲労困憊に陥る乗組員が大勢出てくる様相だった。
一方、神通以下の艦魂達も耳が遠くなるくらいに艦砲射撃の轟音を聞き、下着まで濡れる程に波しぶきを被り、喉が痛くなるくらいに大声を放って訓練の時間を過ごしたおかげで、夕方少し前の長めの休憩を迎えた際にはさすがに各々が幾分元気と気合を薄れさせていた。
まだ朱色の空こそ現れてはいないが西の水平線に向かって急降下しつつあるお日様の下、神通艦の艦尾甲板では駆逐艦の艦魂達が訓練開始時と同じように皆で集まって休んでいる。上司の神通も休憩をとる為に艦内へと消えている今、お許しが出た事もあって彼女達は座ったり大の字になったりと非常に楽な姿勢で甲板を占有しており、中には寝っころがってお菓子を口に運んでいる者までいた。
「私立神通学校」などと外部から呼ばれる程に厳しい普段はこんな事は絶対真似できないが、日中から夜間まで通しての長時間の訓練を行う時、希に神通はこうして思い思いの楽な時間を過ごす事を自ら口にして許してくれる場合がある。怖い怖い上司のお膝元だから当然ながら大騒ぎはできず、訓練とは言えまがりなりにも「戦闘配置」の状態を命じられている故に勝手に自分の分身に戻る事もできないものの、げんこつや怒号に怯えずに仲間達でのんびり過ごせる大事な時間は大変に有難い。
今だけは部隊の統率とか規律という言葉をあえて放棄し、甲板に散らばって三三五五の一息を満喫していた。もっとも疲労困憊の中でのそれは、笑顔でのおしゃべりなんていう暖かな場面とはなっていない。
『ぐあ〜・・・。さすがに疲れたぁ・・・。』
『今の内だよ。ちょっと行儀悪いけど、寝っころがって休んでおこう。』
『さすがにアタイも疲れたぁ〜・・・。タバコ吸うのもメンドクセーって思えるくらいだぁ・・・。』
『天津風、時津風、ちょこっとだけどお菓子食べる? 夜の戦闘教練始まったらご飯食べれないから、今の内にお腹に物入れといた方が良いよ。』
『あ、ありがとうございますぅ・・・。』
『霞一水はさすがに慣れてるんですねぇ・・・。後期訓練参加するの初めてですけど、立つのも正直つらいですよぉ・・・。』
『よっこらせ。私も疲れたよ〜。自分の艦に戻るのももう面倒だよ。』
まだまだ尻の青い新米艦魂の彼女達には、初日からの激しい訓練はやはり堪えた。
熱血な性格で戦隊内では一番の元気娘である霞も、茶髪に喫煙までするという超が付くほどの不良娘である雪風も、もはや一緒の場で喧嘩するだけの余力はない様で、彼女達の中では最年長者である朝潮辺りは隔壁に背をもたれて僅かな睡眠をとったりもしている。立っている者は一人もおらず、力無く落した肩に足を伸ばしてのだらしない座り方となっているのは良い方で、雪風なんかは完全に甲板の上に大の字になって寝っころがる状態。
1時間程こうして休憩をした後、夜からは駆逐隊対抗、或いは戦隊旗艦を目標に据えての戦闘教練が続けられる事になっているから、今の内に休んでおこうという意識は全員が同じである。甲板のすぐそこに広がる未だうねりの大きい海面も、時折降り注ぐ波しぶきもさして気には留まらなくなり、朝の段階よりは随分と緩くなった潮風の吹き付け具合のみを休憩に必要な十分な環境だと割り切った彼女達は、今しがた上がった以上の声を放つ事は無かった。
それに伴って神通艦の甲板には四方より包み込んでくる波頭の重なり合う音がただただ響くのみで、一時の間は乗組員も含めた命達の息吹が完全に沈黙してしまう。沖合に出ているから軍港に居る時のようにカモメの上空直掩は無いし、乗組の水兵さん達も夜間戦闘訓練の準備でもしているのか、その姿は甲板にはほとんど見られない。
遥かに続く群青のキャンバスを、鉄の塊が航跡でもって白い線を描いていくだけ。
この時の二水戦は文字通りそんな状態だった。
しかしそんな中、彼女達の休息は、太陽の傾く西方の空をぼーっと眺め続けていた天津風の声をきっかけとして途絶える事になる。
以前にも同じく海をぼーっと眺めて神通より竹刀の一撃を食らった、この天津風という艦魂。
現状では戦隊最年少に属し、まだまだ第二艦隊の仲の他所の戦隊所属である者の名前と顔が上手く一致しない中で頑張っている新兵さんながら、彼女は変わりなく繰り返される波の戯れる様子を愛でるのが好きという、ちょっと年寄りくさいというか仙人じみた嗜好を持った少女である。もっともその嗜好のおかげで航海関連の知識は早くも先輩たちに及ばんとする勢いで、風向風速と海の状態を把握できれば航海中の隊の中での各艦の間隔や船足への影響度合いを、大体ではあるが見当をつけてしまうちょっとした才能を持っている。加えて16隻に及ぶ二水戦の駆逐艦の中で唯一人、正しくは唯一艦、試験的に装備された既存の物よりも高温高圧のボイラーを持っている事も手伝ってか、海上を駆けるという事には人一倍の執着と拘りを幼いながらも持っていた彼女は、この時も僅かに眠気を覚えつつも波頭の向こうをなんとなく眺めては、この後に予定されてる夜間戦闘訓練時の航行はどうなるかな等と考えていた。
そしてそんな天津風の大きな丸い目は、特に焦点を合わせずに向けていた方角の水平線に、ふと空と海以外に別な物がある事を認めたのだった。
『あれ? 煤煙だ。』
遥かに続く水平線の向こうで薄ら靡く煙を偶然目にし、天津風は思わずそうつぶやいた。すると彼女のすぐ隣で座り込んでいた時津風と霞もその声に反応し、すぐに天津風の視線を追って西方の海原に顔を向ける。極めて遠い距離の為に靡く煤煙はまるで糸の様な大きさでしかなったが、海と空がどこまでも続く変化に乏しい水平線を背景としている故に二人はすぐさまそれを見つけ、続いて霞はそんな煤煙の主を早くも察してみせた。
『あ、ホントだ。霞一水、第一艦隊の艦でしょうか?』
『おお。違うよ、あれ霰だ。ほら、朝ここに集合した時に不知火が言ってたでしょ。』
『お。んだよ、猿。あいつ来たのか?』
『どれどれ。あ〜、確かに。ありゃ霰だ。』
お互いに眉の高さに手を掲げて眼差しを向ける中、霞の声に続いてその場に居る少女達が立ち上がって天津風の背後へとぞろぞろと歩み寄ってくる。本日午前中の点呼の際に周知された仲間の一人、霰がようやく自分達の下に現れたからで、何をしてもトロい彼女が遅刻して我らが戦隊長のご機嫌がまたぞろ悪くなってしまう事態を回避できた事に皆が小さく喜ぶ。やがて仮眠から目覚めた朝潮もその輪に加わって朝の教練中よりずっと首からかけていた双眼鏡を手にし、遠方より来る船が妹かどうかを確認してみると、霞達の言はやっぱり正解であった。真正面を向けて進んでくる故にやや見難かったが、双眼鏡越しに見た艦における艦首乾舷の軍艦色の下地に白抜きで描かれた大きな「18」の文字は、第18駆逐隊所属である事を示す物。同時に朝潮自身の分身と寸分違わぬ艦影を持つ事も併せ、間違いなくその艦は霰艦だった。
『おーおー。間違いないね。』
『ったく、相変わらずチンタラ走りやがって。しょーがねーやつだな。』
その場にいる者達の中で最年長者である朝潮も認めた事で、二水戦の駆逐艦がここに来てやっと全部揃った事を皆が認識するや、またぞろ悪態混じりのぶっきらぼうな物言いで雪風が声を放つ。正確には霰は彼女にとっては先輩に当たるのに、持ち前の鼻っ柱の強さとへそ曲がりな性格で屁とも思っていない雪風は、ちょっと唇を尖らせながら淡く白い光をその両手に纏わせてとある物品をその場に出現させた。
真っ黒な塗装の中に鉄のくすんだ光沢で覆われる四角形のそれは、彼女達がお互いに部隊内で連絡をとる時に使う無線電話機であり、複数のダイヤルとメーター型の計器、コードで繋がれたヘッドフォン型の受話器と漏斗に似た形のマイクなんかは、その分身に乗組んでいる人間達が使う無線電話機と全く同じ物。艦の電源回路や空中線にこそ繋いでいないが、そんな状態でも使用できるという艦魂独自の便利なツールで、他の独特の能力と同様に使用に際しては非常に疲れる事から普段の生活では殆ど使わない。交信範囲も人間達が使う物に比べればずっと小さく、もっぱら戦闘や訓練での航行中に付近にいる戦隊内の仲間と連絡をとる時だけにしか手にしない機械である。
もちろんついさっきまで続いていた午前からの教練でも使ったばかりであったが、疲労をおして雪風がそれを出すのは単に一番体力に自信があるからという個人的な身体能力の面での優位にのみ理由が在る訳ではない。年齢も近く悪態をつき、時には『うっせーー!』と怒鳴ったりもする霰を、一番に仲の良い親友だと口には出さずとも雪風は心の中で思っているからである。霞や朝潮といった実の姉達も含めてこの後に神通艦に転移してきた時に顔を合わせ、声を交えれば良いと考える者達が大勢居る中、速く友人の声を耳にしたいと雪風はその潜在意識の奥底で訴えられ、疲労という代償を承知しつつも敢えて行動を実行したのであった。
やがて周りの者達も雪風が無線電話機の前にどっかと胡坐をかき、ダイヤルを右に左に回し始める様子に気づいて顔を向けてくる。
『お。なんだよ、雪風。霰呼び出すの?』
『雪風ねーちゃん。呼び出すって言っても、霰先輩が無線電話機を受信にしてないと意味ないよ?』
『うるせーな。こういう時はお互い受信にしておくって親方に教わっただろ。ジッサイにドンパチやった時の事を想定してさ。あれで霰は親方の指示を忘れる奴じゃねーよ。・・・そらみろ、反応が有った。』
声を掛けてきた仲間から戻した雪風の大きな釣り目は、無線電話機の表面にある計器の針が大きく傾いているのを捉えている。それと同時に雪風はダイヤルを摘まんで右に左にと動かし、ヘッドフォンから聞こえてくる甲高い電波の音を頼りに周波数を合わせていった。一番に仲の良い友人が相手とあってその調整の時間はすぐ終わり、続いて雪風は漏斗状のマイクを拾い上げて口元に近づけるや特有の荒っぽい声で霰を呼び出し始める。
『おい、霰! 何やってんだよ。チンタラしてねーで早く隊列に加われよ。オメーの艦が来る方に18駆がいるの見えてんだろ。』
叱りつける様な物言いでそう言った雪風。
その周囲には仲間達も集まってきて彼女を中心に輪を作り、しばしの間別行動となっていた仲間の帰還を迎えようとする。何某か事故があった訳ではないので心配をする者はいないものの、いつも一緒に行動する駆逐艦の者達は連帯意識や仲間意識が艦魂達の中ではとても強い。二水戦の者達もそれは同じで、マイクを手にした雪風の荒い言葉遣いに霰の健在ぶりを窺い知ろうと皆がそのやりとりを注視し始める。
その最中、雪風はしきりに大きな釣り目をキョロキョロさせてヘッドフォンの向こうから返って来るであろう霰の、あの鼻から息を抜きながらしゃべる様な京訛りのふわふわとした声を待っていたが、雪風が声を放って10秒程が経っても微弱な電波の波打つ音以外は何も聞こえてこなかった。
『・・・あれ? おい、霰。おーい。』
『なんだよ、雪風。出ないの?』
『受信にしたまま忘れてるんじゃないか?』
『あー。霰ならあり得そうだな〜。』
応答が無いのを不審に思って友人の名を呼ぶ雪風の背後では、彼女の様子からどうやら霰が無線電話に出ない事を察した仲間達がその真相を推して笑い合っている。上司の教えを実践しつつも肝心な所を忘れてしまう辺りは霰らしいと言えば霰らしい事態で、まだ顔を合わせていないながらも憎めないその人柄を確認できた事に喜びを覚えた者達は多い。独り気を利かせて連絡をとろうとしてみた雪風だけがその大きな釣り目をやや鋭角にし、空振りになりつつある霰への呼び出しに声の荒さを増す。
『おいコラ! 聞こえてんのか!? 霰ー!』
気の強い雪風は持ち前の度胸にまかせて強く握ったマイクに叫び、今にも喧嘩を始めてしまいそうなその立腹模様は直接のお師匠様にそっくり。ツンと尖らせた唇と角度を増した眉で作る表情も顔立ちが元々似ている為にそれに拍車をかけ、まるで神通が部下の非を責める様な姿がそこには現れる。何名かの仲間達はその様子に良くも悪くもさすがは一番に手を掛けられる教え子と内心で笑ったが、それは長くは続かなかった。
なぜなら突然に雪風は大きく肩をすくませ、ヘッドフォンを耳に押し当てて何やら驚きの声を上げ始めたからである。
『あん!? え!? 霰・・・!?』
『あ、やっぱり霰かぁ。ゴメン。霰、今ちょっとここには居ないんだ。お茶の用意するとか言ってて・・・。』
雪風の耳に届いた電波で紡がれた声は、驚く事に高めの声で特徴的な京訛りを持つ物ではない。女性と間違えようも無い程に低く、響き方もその場に居る仲間達とは全く違うその声は、普段から耳にする人間の乗組員の者達と同じ男性の物で、長い沈黙を守っていた後に前触れなく突如としてヘッドフォンより聞こえて来た事に、さしもの雪風も動揺を隠せない。機器が故障しているのかと一瞬疑うもその思考が進捗するより前に、彼は雪風に霰の不在を伝えてきた。
『戻ったら霰に言っとくよ。あ、ごめんな。人間なのに出ちゃって。』
『はえ・・・? あ、いや、そ、そスか。じゃ、じゃあ頼んまスぅ・・・。』
『あれ? あ、もしかし・・・』
先程までの荒くれぶりも完全に消えてしまった雪風は呆けた様な声色となって返事をした後、驚愕の余韻に背を押される様にして思わず無線電話機のスイッチを切ってしまった。何やら最後に相手方は言いかけていたが、雪風の波打った茶髪に包まれた頭はそんな事よりも霰への無線電話に、もっと正確に言うならば普段から人間には見えず声も交わす事も出来ないという艦の命達が独自に用いる連絡に、あろう事か男が出て来た事への不思議で満ち溢れてしまっている状態だった。
おかげで雪風の大きな釣り目は鋭い角度すっかり失って大きく見開き、瞬きも忘れて泳ぐ視界を設けるばかり。無線電話機に伸ばした腕もスイッチに乗せた指もそのままに、しばしの間四肢を硬直させて脳裏の中に疑問符の大雨を降らせた。
一方、気の強く度胸の良い雪風の奇妙な言動に目を丸くした周囲の仲間達は皆一様に顔を見合わせ、続けて口々に彼女に対して声を掛け始める。
『なに? どうしたの、雪風?』
『雪風姉さん。霰一水、どうかしたの?』
『いきなり敬語なんか使っちゃってさ。アンタ達、そんな仲じゃないだろ?』
聞きたい事、確かめたい事だらけなのは現状は雪風当人だったのだが、なにぶんマイクロフォンより聞こえた声を耳にしていない仲間達は何が起きたのかよく解らない。ましてや上司、上官以外にしゃべり方を変えるなんて雪風には滅多に見られない変化で、発見時より近づいてくる艦が見れば見るほど18駆所属の朝潮型駆逐艦であるのを誰もが疑いないと思っている最中では、その真相には皆目見当が付かなかった。
やがて状況が変わらないのを打破しようと朝潮は雪風のすぐ隣に歩み寄って肩を揺さぶり、呆けるままだった雪風の顔と意識を自分に向けさせて回答を促す。雪風はそこでようやく仲間達に今しがた生起した事象を張りの無い声で述べるのだが、さしもに霰宛の無線電話に人間の男が応じてきたと聞いたら朝潮以下の仲間達もビックリ仰天。全員が驚きの声をまるで戦艦の主砲群における斉射の如く一斉に上げ、甲板に絶えず木霊しっぱなしだった波頭の折り重なる音色もこの瞬間だけは途絶えてしまった。
『ええー!? 男だって!?』
『てーと、私達が見える人間がいるって事か? 霰の艦に?』
『そういう人間が居るっての聞いた事はあるけどぉ。いやあ、珍しいぃ。』
『ああ、アタイもビックリしちまった。去年くらいまでそーゆー人間居たけどよ。今のはいきなりだったからなぁ・・・。』
どよめきを生んだ雪風らはそんな声を放って口々に人間と会話した事への不思議を積もらせ、当初は雪風だけに纏わりついていた疑問符が今やその場に居るすべての者達に伝染している。何故に霰への連絡に件の彼が出たのかは知る由も無く、雪風達は一様に首を捻って遠方より着実に迫りつつある霰艦を眺めるだけだったが、その内に馬の尻尾の様に結ったその黒髪を撫でつつぼそりと呟いた朝潮の言葉に、彼女達はある一つの事実を推察し始める。
それは彼女達の殆どが、艦魂と接する事の出来る人間という存在の前例を見た事があるからだった。
『・・・ほ〜。さてはついに霰もオトコができたか。』
『お。明石さん時みたいにか?』
『ひょえ〜。あの霰がねえ。』
『は〜ん。猿やアタイの知らねえ所でんな事になってたのかぁ。』
なんとも予想外な朝潮の言葉だったが、驚愕と衝撃の間隙を埋めるその考えは彼女達全員の思考の方向性を束ねていく。
普段から何事にもトロくさくて肝心な所を忘却してしまうおっちょこちょいの霰をよく知る故に意外性は激しかったが、人間達と同じとまではいかないまでも一応は時間の経過で心身が成長していくのが艦の命。最年長の朝潮はもう幼いという言葉を見出せない20代を迎えたくらいの容姿を持っているし、霞や雪風なんかは140センチ台と小柄な体躯は相変わらずながらも、散々に上司に引っ叩かれて皮が厚くなったお尻や胸の辺りの勾配はそれなりに円曲線も見て取れるくらいになってきたし、本日の様な厳しい訓練を何回も経て培った精神は各々が二水戦へと配属された時より見れば断然に強くもなった。
憎めない妹分と皆から見られてきた霰もそれは同じで、彼女なりの成長の果てにあるのがさっきの出来事なのかと思うと、雪風達の脳裏に浮かぶ疑問符は段々と消え始めていく。
いつの間にか妹達に二水戦で過ごす為のイロハを教え、大変に気難しい上司への接し方に慣れを覚え、厳しい中にも笑みを浮かべる余裕を知らぬ間に持てていた等、それぞれが程度の差こそあれ意識できるそんな成長の証が霰にも見られた、というだけのお話。
この時、雪風達は皆が一緒にそんな考えを持つに至り、それと同時にしばしの間無言の間を置く。
そしてそれまで輪の中心に座っていた雪風がふと音も無くその場に立ち上がる。右手に淡く白い光を輝かせ、大きな釣り目を細めて笑みを浮かべるその姿には、この人にしては珍しく慈愛の色も見て取れる程だ。
『そっかそっか。へへ、こりゃトモダチとしてはだなぁ・・・。』
笑みを何度も頷かせてそう呟いた雪風。
するとすぐ傍で同じような仕草をとっていた朝潮もまた、同じく霰を祝福してやる様な面持ちで似た様な台詞を口にする。
『いやー、嬉しい事だねぇ。私も一番上の姉としては・・・。』
お互いに霰との関係を意識した物言いで二人は呟き、いつの間にやらそれは他の仲間達へも伝染している。皆一様に同じ水兵さんの服を身に着け、顔立ちも比較的似た者が多い中で、同じ表情、同じ仕草をするとそれはまるで忍者の分身の術の様でもあり、思考の面でもその範疇は誰一人として外れてはいなかった。
皆で霰という仲間の成長と、その末に得てみせた成果を祝ってあげよう。
この時の彼女達にはそんな気が・・・、毛頭無かった。
次の瞬間、それまで神通艦の艦尾甲板にたちこめていたどこか微笑ましい雰囲気は一陣の潮風の来訪を合図として一挙にすっ飛び、15名を数える二水戦の駆逐艦の艦魂達は全員が一斉に眉を吊り上げる。
続いてその輪の中心に位置すしていた雪風と朝潮は突如として憤怒の色で染まった顔を天に向けるや、彼女達の分身が午前中に轟かせていた砲声も真っ青になるくらいの音量で絶叫するのだった。
『テメーばっか良い思いさせてやるとでも思ってんのかぁあーー!! 第二水雷戦隊ナめんじゃねーぞ、コラァアーッ!!』
『幸せも苦労もみんなのモンだあー!! 一番下のクセに生意気にオトコなんかつくってんじゃねえー!!』
まさに雷の声かとばかりどよむの勢いであったその叫びは、僅かな間だけ神通艦に波頭のうねりによる物とは別の動揺を与える。乗組員の男達は何事かと驚いて次々に艦内より甲板へと駆け出してくるも、特に激しい波浪が有った訳でも無ければ、全周に渡って広がる水平線の中では陸地や岩礁に衝突したなんて事も起こり様が無く、正体不明の急な衝撃に艦長から水兵さんまで皆一様に首を傾げてしまう。
もちろん彼等には、艦尾甲板で全員銃剣術の教練で使う木銃を片手にし、羅針艦橋に乗組員の姿も確実に見て取れるくらいまで近づいてきた霰艦に向かって、淡く白い光に身を包んで甲板から続々と消えていくという艦魂達の姿も、その余韻として残る凄絶な声での号令も、全く気付く事はできなかった。
『方位310度、目標! 躍進距離ナナヒャーク!』
『爾後の行動一杯にて我に続け! 突撃ー! 前へー!!』
『『『 ヤァアーーー! 』』』
本日朝より始まっていた艦隊訓練で最も統率の一言が似合う場面が、この瞬間であった。若さと幼さが目立つ女性達で構成されていようとも号令一下、息遣いまでシンクロさせた上での集団での移動は艦魂独自の転移という手段であっても極めて高度に統べられ、15名も数えた彼女達は3秒と経たない内に神通艦の艦尾甲板から姿を消す。
後に残るのは潮風と波しぶきによる重奏の木霊のみで、四六時中海の上にて活動するお船の甲板の上ではもはや静寂と言っても過言では無い状況。この時ちょうど夜間演習を直前にしてこの神通艦の主がようやくその場へと現れるのだが、そこに居る筈の部下達の姿を見つけられない事に気付いた彼女は、その見事なまでの静けさともぬけの殻ぶりを目の当たりにして思考と四肢が完全に停止してしまう。片手に持った軍刀も手より滑り落とす間際である程に指先まで硬直し、鋭い釣り目をパチクリとさせて甲板を見回した刹那、神通は呆けた声を小さく発するばかりであった。
『・・・・・・あれ?』
一方その頃、霰艦の艦内の通路の一角では、湯気も登るやかんを手にして歩みを進めている霰の姿があった。軍帽からはみ出る長めのおかっぱ頭と切れ長の糸目を持ち、おまけに140センチ台と小柄な体躯故に水兵さんの軍装を身に纏った市松人形と見紛う風貌である彼女は、やかんの中身をこぼさぬ様にやや身体を斜めに傾けさせつつゆっくりとした足取りで自身の部屋へと向かっている。緩い動揺が絶えない航行中の分身の中である上、おっちょこちょいな自分を良く知っている為に転倒に十分な注意を払い、カニに似た様な運び方で一歩ずつ足を進めていたが、非常にトロイ思考回路の持つ主である彼女はようやくこの時になってある事に気付いた。
『・・・あ、アカン。無線電話機、つけっぱなしやったわぁ。』
そのおかげで仲間達が一騒動を起こしている事なぞ知る由も無く、霰は急ぎ足で間近に迫りつつあった自身の部屋へと続く扉に向かっていく。決して遠い距離では無く扉は目前に迫っており、ほどなくして霰は無事にやかんをひっくり返すような大転倒をせずに到着。一度その場にやかんを置くとすぐさま水密扉を開くのだが、この時彼女は部屋の中に向かって笑みを向けると同時に声を放つ。
『あ、お茶持ってきたどすぅ。』
未だ二水戦の仲間達とは合流こそしていないものの、室内には霰が語りかける事の出来る相手が居た。転じて霰が運んできたお茶は客人であるその人物をもてなす為の物である事に疑いは無く、霰は再びやかんを大事そうに両手で持ち上げると口を開けた水密扉の向こうに足を踏み入れていくのだが、その背後にて淡く白い光が幾重にも発光点を得て輝き始めているのに彼女は気付かなかった。
しばし独りにしてしまった非礼を詫びつつ客人に続けて声を掛けようとする霰だが、やがてその小さな身体は「背後からの大軍勢による奇襲突撃」というなんとも強力な事この上無い攻撃を受ける事になる。僅かに言葉を紡いだ刹那、霰は突如として後ろから突き倒されるや、それに続いて間髪入れず襲ってくる多くの足にうつ伏せのまま踏まれてしまうのであった。
『どうもお待たせしてしもて、堪忍どす、もりさ・・・。』
『とっつげきぃいーっ!!』
『突っ込めー!!』
『どりゃあー!!』
艦首付近にある小さな倉庫を間借りした霰の部屋はさして広い所ではない。両腕を水平に広げた人間が二人も並べば縦も横も十分に収まるくらいの狭いそこに、大津波の様に大挙して押し寄せてきたのはなんと彼女の仲間達。白を基調とした水兵さんの服も同じなら背丈だってそんなに離れておらず、容姿に見る年齢もその限りではない。唯一の違いは霰以外の全員が銃剣術の教練で使う木銃を手にし、これまでになかったくらいに殺気立って皆が眉を吊り上げている事。部屋があっという間にすし詰め状態になるのもお構いなしと派手に突貫してくるや、彼女らが叫ぶ怒号もまるでいつも従兵として傍に仕えている上司の如き勢いで、突如として自身を襲ったそんな状況が霰には何が何だか訳が解らなかった。
『んなろー! どこ行きやがった!』
『銀バイから幸せまでみんなで分けるのが二水戦のオキテですよー!』
『霰ー! 出てこーい!』
『お、お、重いぃ〜・・・!』
文字通りの足蹴にされてしまっている霰が悲鳴を上げる。
2000トン近い鋼鉄の塊を分身としつつも、か細いその身体に十数名に及ぶ者達の体重に耐えれるだけの頑丈さは勿論無い。圧迫される呼吸と全身に及ぶ苦痛にもがきながら早くも涙目になっている霰だが、彼女の仲間達は全員その足元に意識を向ける事は無かった。
もっとも、それは彼女達が決して霰に対して薄情だったからではない。
当の霰にとっては迷惑千万にして不幸以外の何物でもなかったが、実はこの時、彼女の部屋に銃剣突撃をかけた面々は、全く時を同じくして部屋の一角にある人影を目にしていたのである。
縦に並んだ金のボタンも眩しい真っ白な帝国海軍の士官の軍装。
兵科将校を示す黒地に金刺繍の帯と、中尉を示す二つの白い桜花。
桜と錨をあしらった章が輝く軍帽。
僅かな電灯の灯りにも反応して光沢を浮かび上がらせる黒い革靴。
どれもこれも帝国海軍の士官の服装の特徴ばかりで、彼女達は神通という上司にいつもそれらを見ている筈なのだが、雪風達の丸くなった目から放たれる視線は釘づけの形から戻る事は無かった。軍帽の下に垣間見れる顔の輪郭と服装後に認められる身体つきから彼女達はすぐさまその人物を男性だと認識するも、彼の黒い瞳が正確に自分達に焦点を当てている事も同時に察して非常な驚きを覚える。
『え? こ、この人、私達が見えてる・・・?』
『ほ、ホントだ・・・。じゃ、じゃあ霰一水の無線電話にでたのって、この人・・・?』
二水戦最年少の天津風、時津風姉妹もお互いに顔を見合わせ、お互いに初めて目にした艦魂を五感で認識できるという人間を物珍しそうに目にすると共に、早くもこの騒擾の発端となった人物である事を推量してみせた。
だが哀れな霰を踏みつけつつその瞬間にそんな事を考えたのは、ほぼこの二人だけであった。持ち前の体力と度胸、それなりに培ってきた経験で神通艦の甲板を発った時より隊列先頭を進んでいた雪風と霞、朝潮の3人は、吊り上げた眉の角度を一瞬で変えるや中身が飛び出す程に大きく開けた目と口で本日一番の驚愕の表情を作る。
なぜならそこに居た士官の軍装を身に纏い、一年ぶりに見た懐かしい顔立ちの中に自分達の姿を映す瞳を持った彼こそ、現在の帝国海軍艦魂社会が血眼になって探していた人物だったからだ。
『あ・・・、や、やっぱし・・・。あはは・・・、ひ、久しぶり。』
『『『 あ、あ、あああああーーっ・・・!! 』』』
洋上の霰艦をひっくり返す程の大絶叫が巻き上がり、同時に15名を数える駆逐艦の艦魂達が一斉にピンと伸ばした人差し指を向けた相手は、明石と知己を得ているならほぼ誰もが知る彼女の相方。
昭和16年5月7日、九州南岸沖合の太平洋上。
帝国海軍中尉となって、忠は第二艦隊にその姿を現したのだった。