第一四一話 「涙は枯れて/其の二」
その日は雨だった。
ようやく訪れた春の真っただ中、毎年の事ながら寒さも忘れかけていた命達にとって憂鬱な気分になる灰色の曇天は、雷こそ轟かせてはいなかったがやや霧雨っぽい細かい雨を夜明け前より間断無く辺りにまき散らしている。地面や海面を叩く激しい雨音も殆どなく、海辺に近い所は普段通り波が寄せる音によって包み込まれ、周辺の民家の玄関から今まさに出た所の者はその時初めて本日が雨天であるのを知る有様。玄関の戸を開けっ放しにしたまま慌てて家屋の中に戻り、番傘を片手にしておでかけの第一歩を踏み出す姿が至る所で見受けられる。
転じてそれはお船の命達にとっても、あまり喜ばしい事では無かった。
肌寒い感覚もある湿った空気に満ちた横須賀軍港。
ここも今日は分厚く低い雨雲に全天を覆われて陽の光は弱い。あんなに眩しい太陽もどんよりと灰色の雲に隔たれてお日様の方位は特定できず、昼時は南に来るという大自然の事象のみで大体の時間の目安が得られる程度。今日ほど時計が時を刻んでいるのかどうかが疑わしい日は無く、朝と昼でのお天気模様は微塵の変化も無くこもごもの視界に映る。
それは遠く欧州より渡って40年以上もずっとこの国の空を映してきた、彼女の薄い緑色の目にも同じであった。
『ふぅ・・・。今日の雨は悪い雨ね。体が冷えるばかりだわ・・・。』
やや薄暗い一室の中、白い着物状の傷病衣を纏い、艶も薄れた銀髪、しわに覆われる白い肌等、元気の色合いが随分と薄い印象を持つ女性が小さく呟く。やや枯れた調べの声とその姿には老い、身体の弱さが非常に際立っており、動かぬ両脚の為に車椅子に腰かけているのもその事により拍車をかける。老いに蝕まれてかつての美しい西洋人女性の容姿は今では遠い過去の物となった彼女だが、それは無理も無い。
なぜなら彼女は現代の軍艦旗を掲げる艦艇の中で、もっとも古い艦体を分身とする艦の命だからだ。
そしてその時、海軍艦艇の命というには相当に薄弱な雰囲気を持つ彼女を呼ぶ声が辺りには木霊する。
『富士さ〜ん、お呼びと伺いました。長門です。』
『ああ、長門。入りなさい。』
『はーい。失礼しまーす。』
舷窓の向こうに淡い緑の眼差しを向けたままで応じ、自身とは打って変って弾むような物言いの声の主を富士は自室に招き入れる。
推進器を撤去してもう海を駆ける事も出来ず、ただ浮力に任せて海面に揺られるばかりの分身の持ち主である彼女は、誰も口にこそ出さないが分身と艦魂としての姿がこれ以上無いくらい同調する者でもある。目じりや唇の傍に多くのしわが見て取れ、普段から車椅子生活を送るその細い身体つきと真っ白な白髪には、とにかく老いと弱さが色濃い。かつてあの日本海の波頭を蹴散らしながら幾重もの砲火を身にまとい、決して破られる事の無かった分厚い装甲鈑でかの第一戦隊に名を連ねた分身の命としては、例え人間達が艦魂を見れたとあっても些か目にするのに戸惑いを得てしまうだろう。
ただ、促されるままに部屋へと入ってきた長門は、そんな富士の容姿が持つ弱々しさを殊更に強く感じる事は無かった。
生まれてこの方ずっとこの横須賀軍港に籍を置いてきた中、師匠の朝日ですら平伏する程の富士の人物像を長年見てきたからで、老いた横顔に認めた淡く輝く緑色の瞳に一瞬だけ息を飲んだ。張りも無く垂れさがった瞼の下にあるその眼差しは決して睨むとか凄むなんて素振りは感じられないものの、まるで視線でもって焦点を合わせた物を射抜くような富士の目は、長門の20年にも及ぶ生涯にあっては一度たりとて失われた事が無い独特の雰囲気を持っている。同年代の敷島辺りの様に強直、強面な人柄なればそれは似合うのであろうが、いつも静かに車椅子に腰かけて微笑んでいる好々爺ならぬ好々婆の富士にはちょっと不釣り合いで、師匠も含んだ同年代の艦魂達の中でも一番に歳を重ねた経歴、容姿を持つのだから尚更だった。
『おはようございます、富士さん。』
思わず長門はいつもの様に片方の足に体重を乗せてやや傾けたような感じになる姿勢を正し、頭より軍帽をとった右手を脚に沿わせて緩くお辞儀をした。
自他共に認める所のお気楽さ、だらしなさもこの人の前では易々と出してはならないと、こうして会う度にいつも自発的に胸の奥で唱え、直接の師である朝日よりも常々そう教えられてきた彼女。仲の良い明石らと接する中では全く見られない素振りと意識で、やがて顔を向けて手招きしてくる富士へと歩み寄っていく際の歩き方もまた、何気なく甲板を歩く時とは違い伸ばした背筋を維持した非常に美しい形となっていた。いつぞや明石にも見せてあげた、頭に乗せた本が落下しない様に歩くあの様である。
一方、富士も長門のそんな美しい姿を喜ぶように笑みを作り、ちょうど手近な所にあった椅子に手をかざして着座を勧めた。直接の教え子ではない長門であるが、富士にとっては同年代、それも同じ戦艦の出自である朝日の教え子が彼女であり、関係者がみんな揃って戦艦の類別を受ける分身を持つ事から親近感はどうしても大きい。ましてや長門は現帝国海軍、そして世界の海軍筋の中で見ても指折りの大戦艦であり、艦魂としての彼女の性格からは想像しづらいが、これでも彼女と真正面から戦う事の出来る艦はこの地球上にそれこそ片手で数えるほどにしか存在しない。
次いで7つの大洋を見渡してほぼ無敵を自負できるであろうその経歴は、他の誰でもない富士自身が遠き英国よりこの日本へと渡ってきた頃とどうしても重なってしまう。
西洋人、日本人という在り方で別れた顔立ちも歳の差もまるで違うが、直の教え子たる陸奥と並んで、そんな長門は富士にとってはまさに実子、愛娘にも等しい存在であった。
『雨の中、すまないわね。濡れたでしょう?』
『あ、いえ。走ってきましたから、なんとか。』
長門の持つ腰まである長い黒髪を柔らかく撫でて富士は声を掛ける。対する長門は元気ながらも落ち着きを染み込ませた声で応じてみせ、富士と彼女の部屋が持つ静かな空気を壊さぬ様にして会話を組み立てた。
こうして二人っきりで話すのは共に久々であり、お互いの息災を確認すると同時に近況を浅く報告し合う。特に長門による同年代の仲間達のお話を聞くのが富士は何よりの楽しみで、艦隊訓練の合間によく顔を合わせる常盤、富士と同じ様に呉軍港に繋留されてもう二度と航海する事は無いであろう分身を持つ浅間、佐世保への寄港で久方ぶりに顔を合わせた敷島等の事を耳にすると、富士はしわが消えぬ顔の中に笑みと懐かしさを同居させた表情を浮かべ、何度も深く頷いてかつては共に戦場を駆け抜けた者達へ想いを積もらせていた。
長門もそれを知る故にできるだけ事細かに先輩方の様子を話してやり、最後にはそんな先輩方の中でも最もよく知る師匠の仔細を教えるべく声を張り上げるのだが、彼女が僅かにその名を口にした段階で富士は片手を肩の高さに掲げてそれを止めた。
そして何やらいつも身に纏う傷病衣の胸の辺りに手を入れるや、そこから真っ白な封筒を一つ取り出してこう言うのだった。
『実は朝日から手紙をもらったの。それで呼んだのよ、長門。』
『手紙? おかあさ・・・、と、朝日さんからですか?』
本日朝から帝国海軍最長老、重鎮中の重鎮である富士の下に呼ばれた理由をようやく知った長門は、その発端となったらしい富士の枯れ木の如き手に握られた封筒をまじまじと眺める。
もっともそれは郵便屋さん等という存在が無い艦魂社会にあって手紙が珍しい物とされているから、という理由ではない。
富士や長門らの分身が戦うお船たる体面で生きる組織、すなわち帝国海軍は、北は大湊から南は南洋のパラオ出張所に至るまで色んな類別の基地、或いは施設なんかが有り、当然ながらそこへの交通、連絡、物資輸送なんかで活躍するのは官民どちらをも含んだ多くのお船達である。なまじ帝国海軍の物資輸送の拠点は火器は勿論、糧食、衣服、資材なんかを生産する工廠から始まるのであり、そんな工廠の大家は何と言っても横須賀、舞鶴、呉、佐世保の4大軍港になる。故にこの4大軍港ではほぼ毎日の様に何某かの物資を積んだお船が出入港していて、行先は実に多種多様。その殆どは明石と同じ特務艦の類別を頂く艦艇達で、中には各軍港を日常的に、それこそ定期便の如く往復している艦も少なからずいるのである。加えてその輸送物資には今現在あちこちの軍港で行われている各在籍艦艇への改装に使う部品なんかも含まれているから、艦隊訓練を終えてのんびり翼を休める戦闘艦艇を尻目にせっせせっせと働いているのが、彼女達であった。
翻って戦闘艦の艦魂達は、そんな休みなく働く特務艦の艦魂達の事情に明治の頃より目をつけていた。心霊現象よろしく無人のままに無電する事も叶わないので、あちこちへの連絡をこの特務艦の艦魂達に頼んでいるのである。
富士が手にする手紙もその例に漏れず、呉の朝日がしたためた物が昨日入港した呉発の運送艦の艦魂によって運ばれたのであった。
富士と長門はさっそくその手紙の内容について話しを進め始めるのだが、それぞれにとって旧友、恩師に当たる朝日の文面を読み進めてもその表情に明るさが灯る事は無い。しばらくするとお互いに困った顔となって机上に置いた手紙に視線を落とし、揃って額に手をかざしながら朝日の手紙が与えた大いに悩ましい問題へと思考を巡らせているのである。
それはお互いに知己を得ている、明石という名の若人の事であった。
『そう・・・。森少尉、まだ戻っていないのね。』
『え〜〜、おっかしいなぁ。森クンの普通科学生の期間、もう終わってる筈なんだけどなぁ。』
『きっと明石は彼を待っているのよ。この一年、その為に頑張って来たような物なのだから・・・。』
どうやら相方の帰りを待つ事によってここ最近様子が変になっているらしい、明石。
心優しい朝日は相当心配になったようで、年長とは言え同じ艦の命であるから人間の海軍軍人達の人事を調べるなんて芸当もできない事から、砲術学校、水雷学校が有る横須賀に長年住んでいる富士に相談を持ちかけたのである。帝国海軍でも随一の博識者で通る朝日が頼る程の富士の人物は老いたとは言えさすがであり、加えて朝日は知らないが富士は明石とその相方の関係を極めてよく知り、いつぞやは今も舷窓の向こうで眠りにつく三笠という艦魂の話もしてあげて明石に助言を与えてやった事も有る。だから朝日の訴える事は彼女にとっては他人事には思えず、朝日の綴る文字越しに思い浮かべる明石を可哀想にと思いながら、なにか打開策がないかと頭を捻った。
一方、仲の良い妹にも似た気持ちを抱いて就役から二年近く、ずっと明石を可愛がってきた長門も親身になる心は同じで、持ち前の豊満な胸の前で腕組みをして真剣に明石の相方が戻らぬ理由をおぼろげに考え始める。現連合艦隊旗艦の体面でお仕事に励む際は常に「メンドイ」の一言で逃げ回る彼女であるが、懸案の対象が明石なら例えこうして富士を前にしておらずとも必死に頭を捻っていたであろう。長門にとって明石は同じ朝日一家、数少ない家族なのだから。
もちろん長門も富士も甲板から足を離せない艦魂である故、直接人間に聞いたりとか、砲術学校や水雷学校に足を運んでみるなんて事こそできないものの、お互いに明石よりはずっと長く生きてきた身である為にやがて各々がある程度の手段を思いつき始め、次いで声に変え始める。明石の相方を探す為、自分達にできる精いっぱいの事をしてやろうと、お互いになんとか考え出してみせた一手であった。
『よし。じゃあ、アタシはこれから横須賀発になってる特務艦の子達に頼んで、佐世保や舞鶴、それから旅順や大湊辺りの要港部も含めて森クンのお触れでも出してみますよ。確か兵学校は66期でしたし、姓名も解ってるんなら探すのにはそんなに苦労しない筈です。森クンが何某かで艦艇に関係してればになっちゃいますけどね、アタシ達艦魂が知るんじゃ。あ、それから森クンがもし普通科学生を終えて新しい配転先が決まってるんなら、広報関連の令達辺りに名前が載ってるかもしれません。アタシんとこの連合艦隊司令部にも届けられてますから、この後戻ったら一度手持ちの分を確認してみますよ。』
『ありがとう、長門。連合艦隊旗艦の貴女に手伝ってもらえるとすごく助かるわ。私の方は大きな役目も無いし、もう航行する事もできない身だけれど、知っての通りでお世話をしてくれる駆逐隊や潜水隊の子達に知り合いが多いわ。小型艦のあの子たちは雑役船や漁船の子達とも親しいし、今は所属の隊の殆どが横須賀に戻ってる時だからちょうど良いわね。私も声をかけてみましょう。』
現在の帝国海軍艦魂社会でも朝日や敷島以上の大先輩、最長老と誰もが認めて崇められる富士と、栄えある連合艦隊旗艦として山本中将の中将旗を分身に掲げている長門はこうして朝日の手紙により事態を把握し、可愛い可愛い明石の為に己で出来うる限りでの協力をする事にした。二人とも独特の立場を頂いている故に影響力は強く、特に富士の一声が有った横須賀では小型艦艇の艦魂達がその目論見通り総動員状態となる。春風に温まる富士艦の上甲板を集会所の様にして集まると各々の持ち寄る情報を総合し、最近水雷学校の学生が乗組んだという艦を分身とする者に話を聞きに行ったり、どこぞの艦内で何某かの名簿を手に入れたりすると皆で輪になって穴をあけるほどに念入りに読んでいくなど、森という名の青年士官の影を追いかけてくれたのだ。
長門の方も連合艦隊旗艦という立場があるからその声は各地に赴く運送艦らを経由して瞬く間に伝えられ、国内在地の帝国海軍艦魂社会では俄かに人探しに勤しむ空気が静かに包み始めていった。
ところがそんな艦の命達による懸命の捜索にも関わらず、森忠という名の海軍士官の消息は杳として掴めなかった。
そして既に春の天候と模様もすっかり見慣れた4月の末日。
麗らかな暖かい陽光には春の喜びを感じるのも薄くなり、近隣の山々の萌ゆる緑より木霊するウグイスの鳴き声も習慣化してしまった呉軍港にて、その日も彼女は自身の分身の甲板にて辺りの海面をぼーっと眺めていた。
『・・・・・・。』
起重機が林立する独特の艦影を持つ明石艦の中央やや艦尾寄り。装載艇の格納場であるそこには明石艦所有の内火艇や通船、ランチ等の小艇がいくつも並べられ、物によっては積み上げられていたりなんかもしてどこか船の形をした積み木の様にも見えなくもない。露天での係止による雨露と風雨を凌ぐ為にキャンバス製のカバーで覆われ、のっぺりとした外観に船体の木目模様が見えていると尚更である。
ただ明石艦の艦全体に存在する鋼鉄の持つ堅さ、冷たさと比べると、この装載艇の群れはキャンバス生地と木目による柔らかさが意識できる数少ないスポットでもある。それ故になんとなくこの装載艇の近くに立って談笑や景色を望む人々は乗組員にも多く、艦の命であっても例外ではない。
明石もまた別にもっともな理由は無かったがなんとなくここへ足を運び、舷側に近い位置にて係止された内火ランチの乾舷に背を預けて座っている。膝を抱くような格好でちょっと晴れない表情を浜辺に向けてこそいるが、すぐ傍に置かれた双眼鏡に示される様に今の彼女は何かを探している素振りは無い。ほぼ呉軍港の海の一角をじっと見つめているだけで、付近で作業している乗組員とはどこか時間を別としたような雰囲気を纏わせている。朝日の授業もお休みである本日を本来賑やかな性格の彼女がこうして無為に過ごすのは珍しい事で、その姿を遠目に目にした一部の艦魂達も明石の様子をちょっと変だなと気に留めるくらいであった。
その刹那、呆ける様な顔で黙って海を眺める明石の耳には、聞きなれた親友の声が響いてくる。
『・・・・ここにいたか、明石。』
『お。あ、神通・・・。』
吊り上った目を軍帽が落す影の奥で鈍く光らせ、真っ直ぐ伸びた背筋を細身の長身に宿して綺麗な足運びで明石に近づいてきたのは神通。
やや肌寒い呉の気候に合わせたのか艦隊訓練中とは違って濃紺の第一種軍装を身に纏い、明石の手作りの軍刀が納まる黒塗りの鞘を片手に歩くその姿は凛々しいの一言で、甲板で座り込んでぼーっとする明石とはなんだ印象が正反対である。まるで人間の帝国海軍士官がそのまま性別を変えて現れた様なその風貌によって、傍目から見ても明石と神通の姿はサボる怠け者ときちんとお仕事に励む真面目な者という感じの構図になってしまうのだが、今日の神通はそんな事でいつもの様に持ち前の短過ぎる勘気の導火線に火を灯す事は無い。
彼女における憤怒とは無縁の印であるやや曲線の効いた目で顔を向けてくる明石を捉えつつ、神通は明石の傍まで来ると静かにその隣で腰を下ろした。二人のいる甲板から望める波も小さな呉軍港の海面と、それまでずっと明石が保ち続けてきた傍観より生まれる静寂を崩さぬ様に、神通は少し気を使っている様だった。
『・・・・・・。』
『なに、神通? どうしたの? また霞と雪風が喧嘩して怪我でもしちゃった?』
片方の脚の膝を立てて崩れた胡坐を組む神通は、座り込んでしばしの間声を発さなかった。わざわざ来訪してきて無言になるとはなんだか変だし、腹を割った付き合いのできる親友が相手とくればそれを問わない訳にはいかない明石。ちょっと硬い感じの笑みを作ってみせ、長い前髪と軍帽が作る影の中にある神通の横顔を覗き込みながら明石は声をかけてみる。
対して神通は一度流し目で明石の顔を見るやすぐさま戻して明石がこれまでずっと見ていた海上に視線を向けるのだが、やや眉をしかめて表情を曇らせると同時に彼女は小さく声を発した。次いでその言葉を耳にするや、明石は表情と思考を一瞬の内に固まらせてしまう。
『・・・前にも言ったがな。配転先希望、というのが人間達には有ってだな・・・。』
『え・・・。』
『砲術学校や水雷学校なんかを出た後は、例え水兵であっても配属先の希望をだせるようになってるらしい。もちろん行きたい所、乗組みたい艦船に絶対に乗れるなんて事は無いんだが、良い成績を収めた奴は総じて大型艦や新鋭艦、つまり主力に位置する部署に配属されるモンだ。私の所でも、水雷学校出の上位成績の奴らが水雷科の大半を占めてる。二水戦旗艦の体面が有るからな。』
唐突に語り始める神通の話は、艦魂の彼女達とは無縁の人間の帝国海軍軍人達における話題である。当の神通だって一度たりとも経験した事の無い勤務先への希望なぞ、そも甲板から足を離せない彼女達にしたら生きていく上で全くと言って良い程に関係の無い知識。10数年も軍艦の命として生きてきた故に蛇足の様な側面で神通も覚えたに過ぎない物だったが、その話に込めた言わんとする所は神通は勿論、明石にもすぐに意識する事ができた。
明石のかつての相方にして、呉に戻ってからという物、決して口には出さずに待ち続けていた人。ちょうど今から1年前に九州南岸の有明湾にて別れ、新米海軍士官としての己のステップアップの為に普通科学生への道を進んだ、森忠海軍少尉に関連する話なのだ。
明石はそれを表情が変わらぬままに察し、神通が自身の下へと訪れた事の理由を悟る。言わずもがな神通もまた先の朝日から呼び出しを受けた直後より、普段から仲の良い明石が暇が有ると今日の様に甲板から辺りの海面を眺め続けている事を気に留めており、且つその真相を年長者の朝日以上によく見抜いていた。いつも一緒に過ごしていた明石とその相方を、その目で見てきたからだ。
『・・・ふぅむ・・・。』
やがて神通は悩み事でも抱えているかのようにちょっと困った様な表情を浮かべ、呻き声にも似た声を唇から漏らす。若干の溜息も混じってお世辞にも晴れやかとは言えず自信も感じられないその声は、いつも尊大な彼女の言動からは想像もつかないような雰囲気が有ったが、それは神通をして明石に言うか言うまいか大いに頭を抱えさせる話を喉で詰まらせたからである。何の反応も無く明石から大きな丸い目をずっと横から向けられているのも具合が悪く、持ち前の度胸に任せて視線を交えるのも今の神通には辛かった。
だから彼女は逃げる様に明石とは反対の方に顔をそむけると、昼食時を迎えてもこの場を動いていなかった明石に差し入れ代わりに持ってきていたおにぎりをポケットから取り出す。
『・・・ほれ、食え。』
『う・・・。ありがと・・・。』
少ない言葉と差し出した手でのみ、明石に遅すぎる昼食を促す神通。
視界に相手の顔を捉える事はできなかったがようやく明石は神通の声に反応を示してくれ、大事そうに両手で神通の手からおにぎりを取るとゆっくりと包み紙を解き始める。生来が食いしん坊の明石ならこれもまた大喜びで手早く包み紙を引きちぎり、手渡して数秒と経たずに頬張り始めている筈であり、やはり相方への思考と憂慮が起因して素の自分を表に出せずにいる様子が神通には窺い知れた。
おかげで神通の唇は真一文字に結んだまより一層の堅さを得てしまうのだが、その内に明石がおにぎりを少しずつ頬張り始めるのを横目にして、言うか言うまいか迷っていた先程の話の続きを述べ始める。もちろんそれは明石にとっては正直耳にしたくない、未だ現れぬ相方に繋がる物だった。
『・・・優秀な奴というのはやはりそれなりの立場に行く。私達の様な艦魂では生まれつきの物が、人間達にとっては自分の能力や志望、帝国海軍としての将来性なんかも勘定されて決まるモンなんだ。場合によっては陸での勤務にもなる。別にこの国に限らず、海軍と言えども船に乗らない仕事というのは結構多い。まして奴が私達の間では存在しない男、正真正銘の人間ならば尚更だ。』
次第に俯きながらの発声となっていく神通の言葉は相も変わらずぶっきらぼうで、他人を気遣う事に不慣れな人柄がどうしても滲み出てしまっている。当人もそれを感じてやや恐る恐るといった様子で隣の明石に視線を流して行き、頬をゆっくりと動かしているその横顔を不安そうに眺めた。
本来の神通ならもっと率直に言えたであろう事はどうやら明石も察した様で、お握りを頬張りつつ乾舷からそれほど遠くない海面をじっと見つめるその視線には、神通の声を耳にしてたどたどしいながらも思考を巡らせているのが垣間見られた。
転じて明石もまた、神通とは大の仲良しとして付き合ってきた。
性格も容姿で見る年齢もだいぶ違う仲であっても、わざわざ自分を訪ねてきてこうして自分の知らぬ人間達における帝国海軍軍人の道を教えてくれるのは神通なりによほどの心配や気遣いをしてくれているからだし、その証拠に教えていない筈の摂らなかった昼食を差し入れてくれた所を見ると、どうやら彼女は決して短くは無い時間で自分を見守っていたのだろうと思える。あの怒号とげんこつと短気がトレードマークの友人にしてはなんとも有難い心配りだと一瞬だけ考えつつも、その時、ふと明石にはいつぞやもこうして神通が自分の下を訪れ、おにぎりを差し入れた上で励まそうとしてくれた記憶が脳裏に蘇ってきた。
相方と別れた直後の傷心に刻んだ、あのおにぎりの塩味と、決して嫌いになった訳じゃないんだと神通より語られた相方の心。
落ち込みきった胸の内になんとか芯を抱かせてくれたその記憶を思い出し、神通お手製のおにぎりが持つ独特の塩加減によって思い起こさせるそれらは、当時よりも遥かに現実という名の重さを与えられて明石の心に圧し掛かってくる。そしてその胸中で動揺する彼女の心が無意識の内に呟いた言葉に、これまでの一年間の程の間ずっと保ってきた何かが明石の中では綻び始めていく。
本当はあの時、もう二度と会うまいと彼は心に決めていたのではないだろうか?
本当はもう、彼はこの帝国海軍という組織に身を置いていないのではないだろうか?
厳しいと皆が口を揃える修練の道を進んだ末に、自分なんかよりももっともっと釣り合う相手の下へ行ってしまったのではないだろうか?
本当はもう、彼は自分の事なんか忘れてしまっているのではないだろうか?
刹那、彼女の意識の中ではこれまで保ってきた物が音を立てて崩れ始めていく。氾濫する河川が土手を打ち壊すが如く。大群となった兵が敵城の壁を勢いに任せて押し倒すが如く。発破作業によって見上げるほどの高層建築物が一瞬の内に倒壊するが如く。立派で巨大な戦艦が火薬庫に引火して大爆発し、その力強いの一言に尽きる鋼の艦体を真っ二つにして轟沈するが如く。
今現在の明石艦の甲板から望む景色からは絶対に連想できぬ程の激しさと衝撃に襲われ、次第にその細い身体がガタガタと震え始めていく中、明石の目からは堰を切ったように大粒の涙があふれでた。それと同時に下唇を噛んで必死に堪えていた、抗っていた感情はその抗力についに打ち勝ってしまい、彼女の口からは濁流となった嗚咽が一挙に放たれていった。
『う・・・、ううっ! うああぁあ・・・! ああぁあっ・・・!』
『明石・・・。』
この場にやってきて彼女の隣に腰を下ろした時より、否、本当は昨年の4月に相方と別れる事になった彼女を見た時より、きっとこうなるのではと独り案じていた神通は、雷鳴の様な音量と突発性で号泣し始めた明石に掛ける言葉を失う。友人にして将来ある若人でもある明石には敢えて言うまいと口を噤んできた末に、どうにもならなくなってようやく告げた所で何も救ってやれなかった自分に無念を覚え、険しい表情となって俯いたままボロボロと涙を甲板に垂らす明石にしばし彼女は沈黙するしかなかった。
なんとかその崩れた心をもう一度拾い集め、元通りに積みなおしてやりたいという気持ちは有るももちろん解決策なぞ神通は持っておらず、明石の震える肩に手を乗せて彼女なりに必死に紡いでみた言葉は、当然と言うべきか明石の嗚咽を堰き止めるのに何の効果も発揮し得なかった。
『・・・泣くな・・・。』
ようやく出た言葉はそんな物。
なんと情けない一言だろうとやや自己嫌悪にも似た気持ちを湧かせつつ、神通は明石の肩を擦って懸命にその傷心を癒そうとする。
その最中、明石の手の中で堪えきれなかったその感情によりつぶされたおにぎりと、細いながらもみるみる甲板に流れを描き始めていく明石の涙を瞳に入れて、神通もまた無言のままに胸の中で呟くのであった。
何をしとるんだ、森・・・。
どこに居るというのだ・・・?
春の真っただ中は、花々や草、木々、そして長い長い冬を越した命達が新たな一年の始まりを謳歌する喜びの時期。多少の気候の差や感じ方はさておき、この地球上ではそれが適用される者で満ち満ちる筈であるが、それがたった一人にだけは訪れなかった。
しかし無情にも時は止まらず、ついに月は変わる。
昭和16年5月1日。
せっかちな者が住む民家にはこいのぼりも踊り、迫る昭和16年度後期の艦隊訓練に備えて多くの兵員達が戻ってくる呉軍港。帝国海軍軍人達の活気も勢いをつけ始め、お偉いさん方の中ではさっそく艦隊訓練の準備、次いで久方ぶりの出港の話題なんかも出始めた。
軍港所在艦艇の艦内通路には漏れなく航海予定が掲示され、さあいよいよ始まりだという気概に決意を改める者達で染まっていくこの時期に、忠は帰ってこなかった。