第一四話 「出動命令下る/其の三」
昭和14年12月3日。
大湊に錨を下ろして3日目の朝を迎える明石艦。その日は師走の大湊には珍しく、朝から澄み渡った青空が広がっていた。もちろん雪化粧の陸地と少し黒っぽい海は変わらないのだが、寒さに研ぎ澄まされたような空気はピンと張り詰めた緊張感のような物があって、辺りの景色をとても荘厳に目に映す。
寒いながらも恵まれた天候の下、明石艦の艦尾最上甲板で雪かきをする乗組員達の中には忠の姿があった。
『ふぅ。』
雪かきダンプを縦に立てて、忠は頬の汗を拭って一呼吸した。朝一でやり始めた最上甲板の雪かきは、零下の気温でも汗が噴出す程の重労働である。艦尾の烹炊室前に立つ忠の周りでは、砲術科科員総出での雪かきが行われている。課業開始から3時間かけての雪かきは、明石艦の右舷の最上甲板をなんとか雪から覗かせるまでになった。そして雪が無くなった甲板では、工作部員達の汗が光っている。彼らの顔は右舷に横付けされた艦に向かっており、電動機特有の低い音を発して旋回する起重機もまた、彼らの顔が向く右舷に向かって次々と物資を運搬していた。
明石艦右舷には、艦左舷中央に真新しい外板と甲板を取り付けつつある被修理艦の沼風艦が浮かぶ。3日前に横付けした時は乾舷の上側の外板が長さ30メートルにも渡ってひん曲がっていた沼風艦だが、要港部と明石艦工作部の努力によって修理は完了に近づきつつあった。リベットやボルトを止める為の機械の音や、溶接によるバチバチと火花を散らす音が艦上を賑わせる。被損傷艦を横付けした初の明石艦による修理補修支援は順調だった。
『おう、森・・・。はぁ、はぁ・・・。』
艦中央に繰り広げられる工作部の活躍を見ていた忠に、後ろから声を掛けたのは砲術長の青木大尉だった。慣れない雪との戦いに汗だくで肩で息をする青木大尉は身体が温まりすぎたのか、吐く息が白い程の気温にも関わらず外套の前を開けて羽織るように袖を通しているだけである。
『どうしました、青木大尉?』
『小休止だ・・・。はぁ、はぁ・・・。』
『解りました。小休止〜!みんな、少し休もう!』
まだ午前の課業だというのに、忠の声に返す砲術科員達の返事は弱々しかった。朝から1mも積もった雪を右舷だけとは言え、艦首から艦尾に至って片付けたのだから無理も無い。青森の雪は水分が多く含まれた重い雪であり、この地の雪かきは慣れた忠でも一汗掻く程。だが砲術科員の内の半分程は雪の少ない西国出身者で占められており、その内の一人である青木大尉は甲板に横にしたダンプの上に腰掛けて呼吸を整えている。彼を横にした忠は自分の肩を手でトントンと叩きながら、青木大尉に声をかけた。
『結構、大変でしょう?』
『よ、よくこんな事、毎日やって暮らせるな・・・。はあ、はあ・・・。』
『はっははは、まあ慣れですよ。』
片目を閉じて顔を歪ませる青木大尉は、帽子をとってパタパタと顔を扇いだ。青木大尉の頭からあがる湯気が彼の疲労の度合いを教えてくれる。そんな上司の姿に笑みを作りながらも、忠はふと艦の左舷に目を移す。
起重機や工作部の物資搬入口の辺りを念入りに雪かきした為、まだ左舷側の雪かきは終わっていない。つまりこの重労働はやっと半分が終わったところなのだ。
先は長いな。
そう思って滴る汗を拭う忠。
『ご苦労さんです。青木大尉、差し入れですよ。』
その時、湯飲みが乗った盆をもった川島大尉が、烹炊所から部下の主計科員を伴って出てきた。その言葉どおり、ささやかな差し入れを配る主計科員達に雪かきで疲れた皆がとびつく。騒がしい光景を背にした川島大尉は忠と青木大尉の下へ歩み寄ると、湯飲みをそれぞれに手渡して笑みを向けてくれる。
『おお、悪いな川島・・・。ぷはぁ〜・・・。』
『とんでもない。森、ほれ。』
数えて27歳の川島大尉は見た目も性格も実に爽やかなお兄さんで、乗組員達からの信望は厚い。いつもは濃い目に入れる彼のお茶なのに、今は味が薄い。だが後味が残らないさっぱりとしたお茶は喉を通りやすく、疲れた身体でグイっと飲むのに向いている。このような器用な心遣いが、彼の艦内での人気を支えているのだ。
『あぁ〜、旨いですよ。』
『ははは、森はさすがに慣れてるな。大して疲れるようには見えないぞ?』
腰に手を当てて優しく笑う川島大尉は歳が近い事もあって、忠は彼を兄のように慕っていた。毎日のように酒保で食い物を買っていく忠は、限度額や注文量の規則で違反を犯す事が多々ある。だが主計長である彼の贔屓で見逃して貰っている事も、忠が彼を慕う一因であった。
すると笑顔で会話する二人の横で、すっかり疲労困憊している青木大尉が力の抜けた声で口を開いた。
『はぁ〜・・・。主計科も手伝ってくれんか、川島・・・?』
『あはは。昼飯抜きでいいなら手伝いますよ?』
『はっははは、勘弁してくださいよ〜。』
寒空の下、滴る汗に疲れを覚えつつも彼らは笑いあった。
砲術科の全力を挙げた除雪によって、明石艦が白い雪化粧からいつもの軍艦色に姿を変えたのは、既に陽が西に傾いた頃だった。そして砲術科のお仕事である除雪が終了すると同時に、明石艦のお仕事である沼風艦の修理修復も完了した。
明石艦工作部と要港部側との共同作業は、艦内部の構造計算までこなしたという。沼風艦左舷への修理補修で変化した重量や重心を適正にする為に修理内容が反対舷への修理補修まで及んだらしく、この規模の修理は本来は入渠しての切った張ったの大修理が必要な物だった。幸い損傷箇所が乾舷の上側に留まっていた事から、明石艦による接舷修理で対応可能だったらしい。また、この構造計算や重量配分に明石艦の青写真室が大いに活躍した事は言うまでも無い。
損傷箇所が運良く最上甲板付近だった事が功を奏したのだが、それでも船体の骨組みから直してしまうという明石艦の能力に要港部の人々は脱帽する。そして最新鋭工作艦の本領を早くも発揮したと、宮里艦長も表情を綻ばせていた。極寒の地での明石艦の修理に、大正生まれの沼風艦はこうして再び荒波を駆るに足る逞しい艦体を取り戻したのである。
その夜、忠の部屋では明石と沼風が忠の帰りを待っていた。
沼風は明石の付きっきりの治療と3日間におよぶ食事療養と工作部の頑張りで、すっかり身体の調子もよくなったらしい。赤みを帯びた顔色と痛みに邪魔される事の無い笑みを浮かべる沼風に、当の明石も微笑んで話をしていた。
『大変なんだねえ、第一駆逐隊って。』
『ふふふ、でもやりがいはありますよ。波風も張り切ってました。』
波風艦は先日、北千島の幌筵島に向かって大湊を出航していった。
荒れ狂う極寒の海が依然として牙を向けている中なのだが、大湊要港部には機関が故障した大型漁船からの救援無電が届いたのである。救助命令には幌筵島にて分派行動中の彼女達の姉である野風艦と妹の神風艦が対応したのだが、修理不能との事から野風艦が青森港まで漁船を曳航する事になった。幌筵島近海の海域は本土から遠い事もあって、事故やソ連艦艇への対応が迅速にできない。その為に日常から当該海域で行動する必要があり、野風艦の代役として波風艦が神風艦の元に向かう事となったのだ。
そして『では、行って来ます!。』と元気に笑って荒れ狂う極限の海へ消えていった波風の顔を、明石は強く脳裏に焼き付けていた。
大湊にくるまで、今まで平然と自分が突き進んで来た海がこれ程恐ろしい物だと明石は思った事が無かった。強い風、激しい波、視界を遮る吹雪、容赦のない寒さ。だがそんな海域で必死に身体を張って国民の生命と財産を守る彼女達に、明石は深く感銘を受けていた。敵と撃ち合う事無く課せられた使命を遂行するその姿が、工作艦である自分と良く似ているからだった。
ちなみに明石と沼風はすっかり仲良しになっているが沼風は年代的には長門と同世代であり、その年齢差は10歳以上と明石よりも遥かに年上である。だが背が小さく童顔の容姿を持つ沼風は、明石にとってはとても話し易い人物だった。
『ねえ、沼風。辛い時ってないの?』
明石の問いに、沼風は膝の上に置いた自分の帽子を撫でて微笑みながら声を返す。
『ありますよ、この時期は特に。』
『でしょう?私、この海は苦手だなぁ。寒いし・・・。』
自分で口にした言葉に明石は寒気を覚え、両手で外套の上から身体を擦った。部屋の中だというのに吐く息が白くなる程の気温の低さ。外套の頭巾を下ろしていた為にあらわになった明石の耳は、りんごの様に真っ赤に染まっていた。
だが沼風は凍える明石のそんな姿を瞳に映し、口に手を当ててクスクスと笑った。
『ふふふ。でもちゃんと良い事もあるんですよ。』
『良い事・・・?』
身を丸めて寒さに震えながら、明石は沼風に視線を移す。明石の声を受けた沼風は少しだけ俯いて、両手を口の前で合わせて息をゆっくり吐きかけながら微笑んで言った。
『明石さん。私達、帝国海軍艦艇の使命ってなんだと思いますか?』
『え・・・?』
突拍子の無い沼風の言葉に、明石は言葉を失った。沼風はそんな明石の様子を笑っているが、その答えはすぐに明石の頭に浮かんできた。明石は驚きを少し表情に残しながらも、沼風の問いに回答する。
『そ、それは、戦う事じゃないの・・・?』
『ふふ・・・。』
沼風は明石の言葉に小さく笑い声を出し、ゆっくり顔を左右に振った。呆ける明石を横に、口から吐き出される白い息がそのまま音になったかの様な声で、沼風はゆっくりと静かに話し始める。
『私達、帝国海軍艦艇の使命は、日章旗が翻る土地とそこに住む国民を守る事。戦う事はその為の手段でしかないんですよ。』
『しゅだん・・・。』
『そうです。私達は海軍の為に、旭日旗の為にある訳ではないんです。私達は日本の為、日章旗の為にのみあるんです。』
明石は沼風のその言葉に、少しだけ心をざわつかせた。せっかく先月に靡いたばかりの自分の軍艦旗を、沼風の放った言葉は否定したように感じたからだった。まして帝国海軍の誇りと伝統を金科玉条として日夜励んでいる仲間達を、明石は呉でずっと見てきた。時に争い、時に笑い合いながら、旭日の旗の下に海原を駆ける仲間達と乗組員。だが沼風はそれを守る事は、帝国海軍艦艇の使命ではないのだと言う。
では、身に纏った魚雷や砲塔は何の為にあるのか?
『で、でも、それじゃぁ─。』
少し身を乗り出して声を上げようとした明石だったが、自分が言い出そうとした言葉にふと彼女は疑問を抱いて動きを止める。
軍艦たれば戦う事は大切な役目。だがそれを工作艦である自分が、長く駆逐艦として生きてきた沼風に言って良い事なのか?
そう胸の中で呟いた明石は眉をしかめて俯いてしまうが、沼風はそんな明石の肩にそっと優しく手を乗せて口を開いた。
『明石さんは良い人ですね・・・。』
『え・・・?』
思わず顔を上げる明石に、沼風は優しく微笑んで続ける。
『反論しようとして、迷ったんですよね?』
『・・・うん。』
明石が返事をするや、沼風は彼女の手をゆっくりと握った。優しく擦る沼風の手に、冷え切った明石の手が段々と温まっていく。
『言いたい事は何となく解ります。でも私はこの海域に配属されて、「ありがとう」って言ってくれる国民の皆様に会える度に実感できるんです。私達、帝国海軍艦艇とは何の為にあるのかを。そしてきっとそれは、呉や横須賀の鎮守府で暮らしてたら味わう事が出来ない、とっても素晴らしい体験だと思うんです。』
『・・・。』
優しく語りかけてくる沼風の声だが、明石の心の内にはまだ釈然としないもやもやとした物があった。今も訓練に必死に励んでいるであろう仲間達だが、誰一人として戦う事が使命ではないと言い切るような者はそこにいないと明石は考えているのだ。
大砲も魚雷も無い艦等、ただの客船と同じではないか。
そう思う明石だったのだが、長くこの地に在って行動してきた沼風の言葉には、友人である神通や那珂とは比べ物にならない程の説得力があるのも事実だった。
明石の手を擦る沼風の手。綺麗な明石の手に比べて、沼風の手は傷だらけでゴツゴツとした見るからに船乗りの手である。だが包み込むように伝わってくる沼風の手の温もりが、明石の心の内をさらに揺らした。彼女には沼風が間違っているとは思えないが、かと言って呉にいる仲間たちが間違っているとも思えないのだった。
しかし声を発せずに俯いて悩む明石の姿を、その苦悩の発端である言葉を放った沼風は至って綺麗な微笑で眺めていた。
部屋にはしばらくその光景が続いたが、やがて部屋の前に近づいてきた足音に気付き、二人はその顔を扉に向けた。
『ただいま〜。』
そう言いながら扉を開けたのは、部屋の主の忠であった。例によって忠の腕には、主計科で買ってきたお菓子の詰まった紙袋が抱かれている。
『あ、おかえり・・・。森さん・・・。』
『ん?』
いつもは部屋を空けると同時に飛び掛ってくる明石だが、今日はちょっと困ったような笑みで静かにそう口にするだけであった。記憶にあるいつもの行動をとらない彼女を目にし、忠は不思議そうな顔をして机に紙袋を置く。するとその時、沼風が小さな声で明石の耳元に口を近づけて囁いた。
『迷う事は悪い事ではないですよ。明石さんならいつか答えを見つける事ができます。』
沼風の声は温もりを与えてくれた手と同様に、明石にとっては震えるその心を撫でてくれるかのような優しい物だった。やがて明石はそんな沼風の声に、少しだけ乱れた心の内を静める。
『う、うん。頑張ってみるよ。』
『なに?なんの話?』
椅子に腰掛けて脚を組んだ忠は、二人の会話に興味深深といった目でお菓子を一足先に頬張りながら声をかける。だが珍しくカヤの外になっている忠に、明石は笑みを浮かべて言葉を返した。
『ふふーん、こっちの話!』
『はいはい、そうですか。』
小さく口を尖らせて苦笑いする忠に、明石と沼風は顔を合わせてクスクスと笑いあう。二人で話した事は難しい事にして、艦魂ならではの悩みでもある。沼風の言う通り、その答えを見つけるには長い時間が必要だろうと明石は理解する。そしてせっかくの楽しい一時を忠も巻き込んでしんみりとさせるのは明石も沼風も嫌であり、そんな思いを二人はお互いの表情から読み取ったのであった。
『ほら。』
一方、ふて腐れながらも忠は自分の分を取った紙袋を明石に手渡し、同時に彼は相方に伝える良いお知らせを記憶から蘇らせ、再び屈託の無い笑みを浮かべて口を開く。
『そうだ、明日からの予定が決まったよ。明日は沼風にした修理の点検と確認だってさ。』
明石は波風と紙袋の中身を分け、さっそく手に取ったあん玉をひょいっと口に投げ込みながら忠の言葉に声を返す。
『ふうん。じゃ、しばらくは停泊するんだ?』
『うんにゃ、明後日には沼風の試験航海も兼ねて青森港にむかって移動するそうだよ。ついでに汽車が止まって、手に入らなかった資材やらの補給もするんだってさ。』
そう言いながらも何時に無く嬉しそうな忠の笑みに、頬を上下させる明石はふと気づいた。普段はゆっくりとお菓子を食べる忠なのだが、今日は甘納豆の袋を口に近づけてザラザラと中身を口に流し込んでいる。襟元に降りかかってしまった砂糖の粒をはらう彼だが、まったくそれを煩わしいとは感じていない様でニコニコと笑顔を湛えているのである。
やがて沼風もその事に気づいて声を発した。
『どうしたんですか、森さん?ふふ、ニヤニヤして。』
『あははは。実はなんと、青森港に着いたら5日間の休養錨泊なんだってさ。』
『おぉ!なら森さん、おでん買って来てね!。』
『げ。覚えてたのかよ〜。』
残念そうに苦笑いする忠に、明石と沼風も声を上げて笑った。
笑いあう3人を、縁に雪を積もらせた舷窓から月がひっそりと見守っている。
晴れた夜でも艦の外は氷点下を下回る気温だったが、話に花を咲かせる3人からは寒さという言葉が少しの間だけ消えていた。
12月5日、1030。
前日の点検にて修理箇所の安全が確認された沼風艦に先導され、明石艦は大湊要港部を出港した。
深々と雪が降る中、要港部の面々が桟橋の端で帽子を振ってくれている。忠と明石、そして明石艦の乗組員達も艦側に立って帽子を振った。到着してから一貫して協力的だった大湊要港部の面々の思い出と、初日に頂いたコロッケの味を全ての乗組員は忘れまいと心に誓う。
出港前、課業開始を発令所で迎えた忠と明石は、艦内放送にて所属の第二艦隊の動向を知る事が出来た。佐伯湾にて艦隊訓練に励んでいた第二艦隊は、12月19日をもって佐伯湾から、九州南部の有明湾に集結地点を変更。さらに艦隊訓練を続行するとの事であった。付属とは言え、明石艦もそろそろ艦隊に合流して、大事な合同訓練に参加しなければならない。だから青森港での補給、休養が済んだら、明石艦はすぐに有明湾に向かって旅立つ事になる。つまり大湊の景色とも、しばらくのお別れになるのである。
寒さにめっぽう弱い明石もその別れに感慨を覚え、震えながらも大きく手を振って大湊の景色と桟橋の基地勤務員達に別れを告げた。
『ありがとう〜。さようなら〜。』
明石の声は忠以外には聞こえていない。だが別れ際にかける言葉とは人間も艦魂も同じであり、まるで明石の声に答えるように桟橋からは別れの声が響いていた。明石艦にとって初めての修理補修任務の地となった大湊。寒さと雪と風との戦いであった3日間は決して楽な日々ではなかったが、明石はどこか名残惜しそうに艦尾に遠くなっていく大湊要港部を見つめていた。その視界を遮るようにふらふらと宙を舞って、やがて波間に消えていく雪。そしてその雪の向こうに霞んでいく雪化粧の大湊は、とても美しく乗組員達の瞳に映るのであった。
『明石、そろそろ艦内に入ろうか。』
『ほ〜い。』
発令所の扉を開けて言った忠の声に、明石は少し寂しげに返事をして艦内に入った。肩や頭巾に少し積もった雪を払いながら部屋に入った明石だが、ふと何やら机に腰掛けてニヤニヤしている忠に気付く。相変わらず吐く息が白くなってしまう発令所の中だが、忠は軽快に手を動かして書類に鉛筆を走らせている。
『どうしたの、森さん?嬉しそうにして?』
『あははは、解った?』
明石の声に笑って答えた忠は鉛筆を置くと、机の引き出しを開けて中から双眼鏡を取り出した。
少尉に任官した祝いに両親から贈られたというその双眼鏡を忠はとても大事にしており、普段の生活で使った所を明石は見た事が無い。綺麗好きな彼は、大事な物を汚してしまう事を極端に嫌っているからだ。だが忠は取り出したその双眼鏡を、これから使う為の準備とでも言わんばかりに布巾で丁寧に磨き始める。その珍しい光景に、明石は忠の隣に歩み寄って口を開いた。
『なあに?それ使うの?』
『見えるかも知れないんだよ、オレの生まれたところが・・・。』
『え?でも、前に大湊からは遠いって・・・。』
『大湊からはね、青森からは割りと近いんだよ。』
優しく微笑んで言った忠の言葉に、明石も明るく笑みを浮かべた。また一つ相方の事が知れるというのが、明石にとっては何よりも嬉しい事だった。寒さを忘れてはしゃぐ明石は、忠の腕をグイグイと引っ張って声をあげる。
『ホント!?今日は見れる!?』
『あはは、どうかなあ、晴れてれば見えると思うけど。まあ、5日間も在泊してれば晴れる日もあるんじゃないかな。』
『そっか〜。晴れないかなぁ・・・。』
荒れた天候が多いこの地の気候を少し憎らしく思って口をへの字に曲げる明石だったが、上機嫌の忠はそんな彼女に気づかずに双眼鏡を磨きながら歌を歌いだした。
静かな発令所の中に、波の音を伴奏に従えた忠の歌声が木霊する。
勇む笛の音、急ぐ人
汽車は着きけり青森に
昔は陸路二十日道
今は鉄道一昼夜
酒を飲んでは歌を歌う事は明石も忠もいつもの事であるが、明石はその歌を今まで聞いた事が無かった。一応は帝国海軍艦魂である彼女は軍歌ならある程度知っているが初めて耳にした歌い易く小気味良いテンポの曲調とその歌詞に、明石は興味を湧かせて忠の肩を擦り始める。
『ねね、今の歌、なんて歌!?』
『そっか、軍歌じゃないから明石は知らないか。』
忠は明石に顔を向けて笑みを浮かべてそう言った。明石は物事に興味を示すと目を大きく見開いて、子供のような目をしてくる。忠はそんな明石の顔がとても好きなのだが、同時に行動まで幼児退行してしまう彼女の性分を察して苦笑いした。忠の予想通り、明石は忠の肩を両手で掴むとグラグラと忠の身体を揺さぶって叫んだ。
『なんて歌〜〜〜!?』
『て、鉄道唱歌だよ。日本各地の鉄道の駅を歌ってる歌だよ。そういえば詞を作った人は軍歌も作ってたな。』
『鉄道唱歌かぁ。ふぅ〜ん。』
歌の正体が解った明石は嬉しそうに笑い、その横ではやっと身体を揺さぶられる事から開放された忠は安堵して小さく溜め息をする。だがそんな忠を無視して、明石はコロッと表情を変えて口に手を当てて何か考え事をし始める。鉄道や駅等といった物に馴染みが薄い明石にはその歌がいまいち理解できなかったが、やがて似た様な歌を思い出してパンと手を叩いて声を発した。
『あ〜、そっか!日本海軍みたいな歌なんだ?』
『あ、そうだな。日本海軍の作詞もした人だよ。』
『へぇぇえ〜。』
新たな発見に綺麗な笑顔で頷く明石に、忠は笑って彼女から双眼鏡に視線を戻した。再び流れる忠の歌声に、明石は身体を小さく左右に振って耳を澄ます。自分の故郷の歌を微笑んで歌う忠を、明石はちょっとだけ羨ましそうな瞳で見つめていた。
津軽の瀬戸を中にして
函館までは二十四里
行き交う船の煙にも
国の栄えは知られけり
音も無く降る雪と忠の歌声に包まれ、明石艦は青森港に向かって波静かな陸奥湾を駆けた。