第一三八話 「我が家、呉軍港」
昭和16年4月8日。
朝に佐世保軍港を発った明石艦は九州北岸に沿って日本海を航行し、さながら桜前線を追いかける様に太陽が昇る方角へと艦首を進めていた。一路母港の呉を目指す航路に途中寄港の予定は無く、深夜一時には本州と九州の間に横たわる関門海峡を通過。門司の街の僅かな灯りを左舷に眺めて微速で海の細道を通り抜け、瀬戸内に入ると今度は防府、徳山を横目にして闇夜に染まる海上をひた走る。やがて明け方を迎えて艦首の前方に朱色の空が現れてくるとそこには明石艦の誰もが見慣れた広島の海の光景が広がっており、艦の命も艦長さんも、そして兵下士官の一部の者達も甲板に出てきては付近の島影や山々、入り江なんかに目を細くしていた。
そして呉海軍工廠のあちこちにて課業が始まるラッパが鳴り響く頃、今日も多くの軍港雑役船舶が上空のカモメ達にも負けぬ勢いで駆け回る呉軍港に、明石艦はようやく昭和16年度前期訓練を終えて帰ってきた。
『おー、明石おかえりー。』
『あや! 明石さんや! 明石さ〜ん!』
『わ〜! ただいまぁ〜!』
毎年の事ながらこの時期の呉軍港は艦隊訓練を終えて後の整備補修と休養の為、在籍艦艇の大部分が集結してその錨を降ろしており、工廠前の海辺は勿論、陸地側から見ると対岸に当たる江田島までの間の広い海域にも所狭しと軍艦旗を掲げた艦艇が停泊している。駆逐艦や潜水艦も含めたらその数は数十隻にも及び、例え漁船であろうともその海面を直進のみで進むのは至難の業である程だ。
まるでごった返す夜店に遅れてやって来た形の明石艦はおかげで曳船に引かれてヨチヨチと軍港の波間を横切って行き、多くの船渠や船台、幾重もの桟橋、赤レンガの輝きも眩しい呉鎮守府庁舎も見える軍港奥まで進むのにはそれなりに時間がかかる。もっとも接岸準備に追われる乗組員達と同様に艦の命も暇とはなっておらず、行き交う仲間達から代わる代わる送られる挨拶に漏れなく手を振って明石は応えていた。
だがしばらくすると軍港中枢に近づいた事で明石の瞳は至極当然の様に、その海面にて他の海軍艦艇とは一線を画している艦影に焦点を誘われてしまう。
『おおおぉ〜お。あれ、大和? すっごぉ〜い。』
思わず甲板の手摺からやや身を乗り出して大きく見開いた両目を向ける先は、呉軍港正面のほぼど真ん中。そこには昨年の8月より帝国海軍最新鋭の戦艦、大和艦の艦体がポンツーンに両舷を挟まる格好で浮かべられ、明石艦のマスト以上に高さの有る大きな起重機で完成に向けた工事が進められて来た訳だが、いよいよその巨大な艦体の甲板上には多くの上部構造物が備えられ始めていた。
まず目に付くのはなんと言っても艦中央からやや艦首寄りに背負い式に2基、次いで艦尾寄りに1基据えつけられた巨大な砲塔で、その大きさは現帝国海軍中最大の艦砲である長門艦の主砲塔を遥かに上回っている。特に珍しい横並びに並んだ3門の砲身、すなわち3連装形式の砲塔であったが故に横の大きさは極めて顕著で、遠目からの目算でも明石の分身の幅にも匹敵しそうなサイズである事は明白だった。加えてそんな主砲塔に前後を挟まれる様に艦中央には古城の塔を思わせる形をした艦橋が聳え、そのすぐ後ろには真横から見た大津波の形を模したかのような流線で描かれる集合煙突が鎮座。さらにその後方は最近の一等巡洋艦に多い後方に傾斜したマストが天を衝き、艦中央にまとめられた上部構造物の輪郭がほぼ出来上がりつつあった。
後年に至っても長く記憶される大和艦のその艦影が、この頃にはようやく整い始めてきたのである。
最近では工期繰上げの上位指示もあってその工事は昼も夜も問わず携わる工員さん達の多くも残業に次ぐ残業が盛りだくさんの状況であるのだが、そもそもの完成予定は再来年の昭和17年を予定されていたのだから、あくまでこの頃の大和艦はまだまだシルエットが整っただけの体裁でしかない。現代科学技術の結晶として肝心の中身はまだまだ工事中で、未だ広大な甲板のアチコチに数多くの工事資材が置かれて工員の姿も多い事から明石もなんとなくそれを察する。
しかしながら巨大な主砲塔を始めとするその立派で力強い艦影にはやっぱり期待も同居したワクワクとした感じが湧いてきて、完成した暁には世界屈指の戦闘艦艇となる事に今の段階でも確信が持てる明石は、ちょっとはしゃぐような声色を上げながらまじまじと洋上の大和艦に視線を沿わせるのだった。
『ぬぅう〜、大きいなぁ〜。長門さんや伊勢さんなんかよりも2回りは大きいよ。こりゃきっとすんごいお船になるよねぇ。』
一人目を輝かせて大和艦の勇姿に色々と想いを馳せる明石。
一端の戦闘艦艇を分身としていない彼女でもその凄さは目を見張る物が有り、やがて潜水艦桟橋近くの岸壁へと接岸して繋留作業が始まる中にあっても、騒がしい乗組員達を背後に彼女はしばらくの間、期待に満ち満ちた大和艦の将来を勝手に想像してニヤニヤとしているのであった。
おかげでようやく我が家たる呉に帰ってきたばかりにも関わらず10分程も時間を潰してしまった彼女は、やがてその場をやんわりと流れていく潮風と共に舞う桜の花びらにふと視線を誘われて呉軍港の一帯をやっと視界に入れる。
九州最西端にもほど近い佐世保から桜前線を追いかける形となった故に、この頃の呉は散る桜よりもまだ満開模様で潮風に揺られる桜が多いくらいで、なんだか花見を二度楽しめる機会が得られたようで気分が良い。いつもならカモメの鳴き声と編隊飛行で賑やかな軍港上空も今日は燕による戦闘機さながらの急機動が行き交い、辺りの山々から連なって上がる鶯達の賛歌を効果音としてまるで自然の映画でも上映してるかのようである。気温もポカポカと暖かく、ちょうど良い湿り気の潮風も心地良い。静かで居心地の良い我が家、呉軍港の雰囲気が今日も微動だにせずそこには満ち溢れ、軍港一帯の海域に所属艦艇の大多数が浮かんでいるのに反して騒がしい様な空気は微塵も無かった。
そしてそんな呉軍港の家長にして、明石がこの世で最も敬愛する者の艦影を、上陸場付近の桟橋に彼女が見つけるのに時間は掛からない。
ズングリとした幅広の艦体に直立したマストと煙突を備え、海面に潜り込んでいく様なラインの艦首が見るからに古めかしいその艦の名は、朝日艦。先日まで佐世保で一緒の時間を過ごし、多くの教えを授けてもらった敷島艦の姉妹艦であり、その命たる者は要所に似た特徴を宿している朝日。
朝日艦を目にしてその事を瞬時に脳裏に過らせると明石はそれ以上の思考を一切持たずに、満面の笑みを浮かべてその身体に淡く白い光を纏わせる。
当然、眼前に捉えた朝日艦の甲板へと向かったのであった。
口にこそ出さず、人間達の感覚で言えばその在り方はちょっと違うかもしれないが、艦魂である明石にとってはまさに母である朝日。
西洋人女性の外見と倍近く離れた年齢を如実に表す容姿の違いはあってもその想いはブレず、やがて見知った朝日艦の艦内を進んで中甲板艦尾最奥部に位置する朝日の部屋へとやってくる頃には、明石の足の進み具合はもう小走りにも近い状態になっていた。
『朝日さぁん! 明石ですぅ!』
元々は長官公室に当たる朝日の部屋への入り口は、お船には付き物のいかつい鉄の扉なんかではなく木目も美しい木製のドアで、ノックする事で生まれる甲高い木の音が耳をくすぐる。既にそんな伴奏によって明石の手はドアの奥からの返事を聞かぬままに色褪せた金色のドアノブにかけられており、弦楽器を思わせる特徴的な部屋の主の声を耳にしたのはドアを開けてその姿を瞳に映すのとほぼ同時の事であった。
『あら、明石。おかえり。ようやく艦隊訓練が終わったのね?』
肩を覆うくらいに伸びた琥珀色のカールの掛かった髪、長いまつ毛に覆われても澄んだ色合いをくすませぬ碧眼、小さなしわが消えない口元にあるホクロ等、朝日の顔の辺りにある特徴をドアを開けるや一つ一つ認めていく明石に対し、本日も物静かな淑女の風格を失わずにいる朝日は入口近くのソファに腰を下ろしたままで振り向き、優しげな声でそう語りかけてくれる。怒るなんて感情を持ち合わせていないかに思わせるその笑みは40代を迎えた彼女の女性像に更なる落ち着きを与え、はしゃぐ気持ちを隠しきれずに大きな声で挨拶する明石とは雰囲気がだいぶ違う感じとなるも、それはお互いが意識の上で抱く母と娘という間柄を示す良い例でもある。
その雰囲気を存分に浸ろうとする意気込みに押される様に、明石は頭から軍帽を取るや元気の良い声を返した。
『はぁい! ただいま戻りましたぁ!』
『ふふふ。さっそくティーを用意するわ。そこに掛けてなさい。』
明石の若者らしい明るさに青い目を細める朝日。
振り向きざまにゆっくりと唇の両端を吊り上げて笑みを覗かせ、僅かに笑い声を放つとソファから立ち上がって部屋の一角へと歩みを進めていく。ドアを背に立つ明石と方向はやや違うそこには、40年来ずっと大切にしてきたティーセットを乗せた銀色のトレイが置かれており、ケトルとカップに手を伸ばすや朝日は慣れた手つきで明石に振る舞う一杯を用意し始めた。もちろんそれはこの朝日という艦魂を語る際、誰もが必ずその最も優れた腕前に感心する紅茶であり、独特の甘みと鼻孔をくすぐる芳香は余りお茶に見識やこだわりが無い明石であっても再度の溜飲をつい心待ちにしてしまう程の魅力が有る。
意識の上では母であり、事実の上では恩師である朝日の笑みと優しさに久々に触れ、そんなティーを御馳走になれると来れば心が躍るのも無理は無く、明石は朝日に促されるままにスキップを踏むかのような足取りで、先程まで朝日が腰かけていたのとはちょうど向かい合う形になるソファへと近づいて行った。
すると明石はそこに、部屋の主とは違うもう一人の人物を今更ながらに見つける。
『およ?』
驚いた時に思わず出てしまう口癖を放ち、口を小さく開けつつも目を点にして作る驚きの表情の先には、朝日や自分よりも10センチは背が低い長い黒髪の少女が頭を垂れている姿が有る。
暖かくなってきた時期にあってもまだ冬服である濃紺の第一種軍装に身を包み、女性にしては長身な事で一層目立つ痩せ形の体型を持つ明石よりもまだ細身な所が意識できてしまうのは、個人が持つ痩せているという身体的特徴だけではなく幼さもかなりの幅でその理由を占めているからのようだ。しかしながらそんな顔も見ぬままに認めれる特徴によってこそ、明石の脳裏にはすぐに少女の正体が検索されてくる。ましてや考えてみれば、呉の長老にして現代の帝国海軍艦魂社会では重鎮と目される朝日の部屋においそれと来れるのは、自分の様に師弟の間柄を結んだ者かよほどその分身の出自が大層な物でなければ実現できはしない。殿上人とはちょっと違うが、朝日を含んだその世代の戦艦の艦魂達は大きな畏敬と尊崇を同じ帝国海軍の艦魂達の中では万人から集められており、それこそ駆逐艦や潜水艦といった水兵さん格の艦魂達では話をした事すらも無い者が殆どなくらいである。
そんな中で朝日の部屋にて明石に深々と頭を下げてくる若者に、明石はすぐさま彼女の名前を呼んであげ、師に続いての久々の再会に胸を躍らせるのだった。
『ああっ。大和ぉ!?』
『お帰りなされませ、明石さん。お変わりなく何よりで御座います。』
艶も美しい黒髪で包まれた顔を上げ、頬の横を垂れる長い髪をそよ風に揺られるカーテンの様に靡かせながら、独特の些か年寄りくささも感じ取れる丁寧な言葉づかいでもって応える大和。140センチ台と身の丈も小さなその身体は真っ直ぐに伸びる長髪によって細さをより一層顕著にし、長いまつ毛に挟まれる顔に比して大きな切れ長の目も手伝って、どこからどう見ても幼さがばかりが目立つ彼女。
おかげですぐそこの海上で威容を誇り始めている大和艦の命と見るのも、ついつい明石には抵抗が湧いてしまう。いっそ筋肉質な男性だった方がどれだけそれらしいかと一瞬思ったりもしたが、物静かで仕草や言葉使いに丁寧さが満ちた大和の挨拶に一途な自分への敬いが感じ取れる手前もあって、明石はそれ以上にこの大和という若者の在り方に思考を巡らせることは無かった。
まだまだ新米である明石とくらべてもずっと幼い10代半ばの容姿と、朝日や浅間、そして長門の教えを受けてやがては帝国海軍全艦艇中最強の戦闘艦艇として君臨する事になる将来を秘めながら、新米の特務艦艇たる自分にもこうして尊敬の念を抱いて接してくれる大和の心根が、明石には新鮮であるのと同時に無性に嬉しかった。
可愛い可愛い、妹。もしくは姪御。
長門や朝日との関係を知る明石にはそんな間柄をどうしても大和には意識してしまうし、当の大和の方も明石に対して抱く気持ちは似た様な物である。それに横須賀鎮守府籍にして日頃から第一艦隊の艦隊訓練に従事せねばならない長門よりも、同じ呉鎮守府籍である明石の方が顔を合わせる機会は断然多い事情もあり、大和の幼心の中には明石を実の姉の様に慕う心が芽生え始めているのだ。
大和から向けられる敬いの心はさっそくその声へと変わって明石の機嫌を上向かせ、飛び跳ねる様な声色と仕草で明石は大和に声を返す。
『宮古島での潜水艦の救助の報、わたくしも聞いております。艦隊訓練中の突然の要請にも関わらず無事救助されたとの事。さすがは明石さんで御座います。』
『えへへ、ありがと。でも本当はね、私はそんなに上手くやれては無かったんだよ。乗組員の人達が頑張ってくれたし、佐世保から由良さんが手伝いに来てくれなかったら離礁できなかったんだもん。倒れてる潜水艦の艦魂を見つけた時も焦っちゃって。』
『そうだったので御座いますか。でもそのご活躍に朝日さんや長門さんは大変感心しておられました。単身で突発する事態に対処する等、戦艦の身の上ではとても無理な事であると仰られておりましたし、長く経験を積んでこられた朝日さんでも前例は存ぜぬ御様子。わたくしも是非に見習いたく思いました。』
あのお気楽で能天気な女性である長門とは最も縁が深い者ながら、大和は見た目の幼さとはうって変わった落ち着いた口ぶりで明石の声に頷き、薄らと吊り上げた唇で作るその笑みは、歯も覗かせるくらいに開口して微笑む明石の方とは随分と差が有る。さながらそれは先程の朝日と明石の姿の如きで、年齢の上での立場が逆転した人柄の雰囲気は傍から見るとなんだか変だ。
しかしながらそんな大和が明石には可愛くて仕方ない。
ついつい彼女の傍に近づいて和人形の如きその姿を間近で見るや、明石の手は誘惑に勝てずに大和の肩や腕へと伸びてしまい、特に意味や会話でのアクセントのつもりなんか無いにも関わらずペタペタとスキンシップを始めてしまう。
『えへへー! 大和って細いねぇ。あんまりお肉とか食べない感じ?』
『いえ、まだまだ未熟という事で御座いましょう。これからは身体も鍛えねばと思っており、ます。あ、あはは・・・。』
子猫をこれでもかと撫でつけるにも似た明石の手に、華奢な身体をややくねらせながら大和はちょっと困った様な笑みを浮かべた。それは明石の可愛がる動作が幾分度を超えた所が有るからで、両肩に手を乗せて緩く揺さぶられたり、クセの無い真っ直ぐな黒髪が舞い上がる程に頭を撫でられたりするのが大和にちょっと疲れを与えてしまう。
彼女の現時点での知り合いの中でも最も年齢が近く、朝日一家という同門において姉と慕う心は揺らぐ事はないのだが、そもそもこの明石は生来とても無垢で天真爛漫な人柄を持ち、自身の感情に起因する行動を他人への遠慮で抑制したりする事があんまりない人物。特に気心知れた仲になるとその傾向は非常に顕著で、なまじ160センチ半ばと日本人女性にしては中々大柄な身体を備えている手前もあって結構力が強く、背丈の面でも腕力の面でもまだまだ劣る大和には耐えるにはやや難い苦しみを積もらせてしまうのである。
だから決してそこには悪気は存在しないのだが、腹の底では頬を擦り合せたい衝動も生まれつつある明石の笑みを間近にし、長い黒髪で隠れる大和の首筋には段々と冷や汗も浮かび始めていた。
もっともそんな明石の衝動に駆られた行動は、彼女の背後より響いてくる弦楽器の音色の如き声ですぐに抑えられる。
『ふふふ、明石。大和が困っているわ。さあ、ティーも入ったし、そのくらいにしてあげなさい。』
思わず振り向いた明石に対し、声の発信者である朝日は青い目を弓なりにしてただただ優しく微笑む。今しがたのちょっとお叱りもあるかと思われた言葉とはうって変わり、朝日は湯気の立ち上るカップが複数乗せられた銀色のトレイを手に持ち、明石や大和が会話していた所のすぐ傍に在るソファに挟まれたテーブルへと歩みを進めるや、二人に腰を下ろしての楽しい一服の時間を促してくれる。怒るなんて感情が微塵も感じられないその表情、雰囲気に何かを強制する力は無いが、紅茶の香りとそんな朝日の姿こそが奔放な明石の意識を見事に誘う。
明石はすぐに大和に纏わりつかせていた両腕を放すや小走りに近い足取りでソファへと向かうと飛び乗る様に座り、満面の笑みの中に嬉しそうな声を上げて朝日の声に応じた。
『はぁい! いただきまぁす!』
興味の対象がコロコロと変わる明石は嬉しい事続きで、ご機嫌な事この上ない。
朝日の部屋は軍艦らしく大して広いとは言えない面積にも関わらず、明石は叫ぶようにそう言うとテーブル上に進められたテーカップに両手をさっそく伸ばして紅茶にありつく。カップの中にてさざ波を立てる琥珀色の水面に目を輝かせ、止め処なく上る香気に『ん〜・・・。』と唸り声を小さく漏らしながら、久方ぶりの師の淹れた紅茶の味に早くも酔っていった。
一方、明石の手による髪の乱れや服のしわをようやく整え終えた大和にとって、そんな明石の姿は何か台風をも思わせる様な先輩と見えてしまうも、それはただの一瞬だけの事。朝日の笑みと語りかけ、そして紅茶を得るや明石は完全に心が満たされた様で、無垢な好奇心の矛先が失われて落ち着きを取り戻すととっても気の良いお姉さんとして大和の瞳に映り、その内に視線を流して隣に座るように促してくれる所はなんとも馴染み易い人柄が示されていた。
『大和、こっち〜。朝日さんの紅茶はみんなで一緒に飲むのが良いよ。』
ご機嫌な明石はそう言いながら、右手で素早く何度も手招きしてみせる。大きく開いた目を輝かせ、早く早くと急かすような子供っぽい所はちょっと20代にも迫る女性には不釣り合いではあるも、長門や朝日、浅間なんかを始めとする教師陣に比べればやっぱり年齢が近い分だけなつきやすい。深々とお辞儀をして再びやや年寄りじみた言葉づかいで声を上げつつ、大和は明石に誘われるがままその隣へと歩み寄って静かに腰を下ろす。
『有難う御座います、明石さん。それでは、お隣の席にてご一緒させて頂きます。』
幾分顎を引いて伏せ目がちになる事で目立つ長いまつ毛と、ソファに腰かける際に綺麗に揃えた両脚をゆっくりと折り曲げながら座る大和の仕草は、絵に描いた様な大和撫子その物。まだまだ幼さしか見て取れない小さな身体と長門を思わせる長い黒髪も手伝い、ある意味では彼女は朝日以上の女性らしさをふんだんに纏う艦魂でもある。
仕草や立ち振る舞いに関しては言うまでも無く明石以上の淑女ぶりを持ち、当の明石も紅茶の香りに酔う中でその事を意識するも、嫉妬の気持ちは湧かず笑みも崩れはしなかった。
なぜなら大和がソファに腰を下ろすや、二人の正面のソファで腰かけている朝日が持ち前のちょっとしたお説教を可愛い末っ子に与え始め、さすがの大和もちょっとだけ眉をハの字にした笑みを浮かべたからである。
『そうよ、大和。休憩はちゃんととりなさい。熱心なのは良いけど、英語のお勉強では詰め込みは良くないわ。記憶力だけで覚えた語学は、面と向かっての会話になると必ず迷いを生むの。私が日本語を覚えようとした時もそうして失敗したわ。もっともっと相手が何を言いたいか、何を伝えようとしているかを探す気持ちこそが大事。単語ばかりを追いかけてると、えてして意味と意図を取り違えやすい物よ。解るわね、大和?』
『あ、は、はい。失礼いたしました・・・。』
明石には久々となる、尊敬する師における唯一の困った所。説教癖。
言わずもがなそれはこの朝日が真心込めて教えを授けようとする姿勢の片鱗であり、朝日独特の母をも思わせる愛情の優しさとは違った側面でもある。佐世保でつい先日まで目にしていた敷島一家の如く手厳しい教育を実践する場合もある艦魂社会の中、朝日の様な師は得たくても中々得る事ができない希少な存在なのだが、この様に相手に有無を言わせず次々と道理を並べられて頷く以外の選択肢を残さない辺りが、長門、明石、大和を含めて一様に思う朝日先生のちょっぴり苦手な所であった。
それを傍から眺める形となった明石は少しだけ同情の念も湧いて大和の心を慰めようと思うも、朝日が朝日なら明石も明石。ここでもまた生まれたばかりの労りの気持ちに勝ってしまうのは、猫どころか虎をも殺しかねない彼女の大きな好奇心である。
『およ? 大和、なぁにその本? 教科書?』
そう言いながら身体を捻って膝の上に置かれる大和の手へと顔を近づけ、大きく見開いたその瞳に映したのはノートよりも一回り大きい本。師の下にお勉強に励むのが通例である艦魂社会だから、大和が本を所持していること自体に何かおかしなところは無いのだが、どこぞの風景らしき写真をあしらった派手な表紙とノートよりも少なめなページ数、そして大きく綴られたアルファベットの文字により、その本が教材たる書籍の類とは違う物である事を主張している。
ただ、明石をして初めて目にしたと言える程の代物ではない。どうやらたまに分身の中の士官室辺りで見かける雑誌のようで、仲間の艦魂達が面白がって読んでいるのを彼女は何度か見た事が有った。それがうら若く寝ても覚めてもお勉強尽くしである今の大和の手に握られているのがなんだか意外で、おまけによくよく見てみるとその表紙に綴られた文字は全部英語。ここ最近では最も苦労している科目が英語であった明石はその事に気付き、興味津々から驚きへと表情が変わっていく。
『え? ええ!? 大和は英語できるの!?』
『いえいえ、滅相も御座いません。まだ浅間さんや朝日さんより手ほどきして頂いたばかりでして、解る単語を掻い摘んでいる程度で御座います。この雑誌のこの記事に、どうしても興味が湧きまたので。』
ついつい声量とトーンが上がる明石の問いに大和は幾分照れるようにしながらそう言い、おもむろに雑誌を開いてとあるページをめくると胸の前に掲げて明石に見せてやった。どうもお勉強がてらに読んでいるのと同時に初めて耳にする大和の興味がその紙上に詰め込まれているとの事で、英文はまだまだスラスラとは読めないものの、字よりも写真や図の方が面積が多いその雑誌に明石は顔を近づけてみる。
それと同時に、それまで眼前の教え子達の姿を笑みで包むように眺めていた朝日が静かに声を放ち、大和の実に意外な興味の矛先を明石に教えてくれた。
『ふふふふ。どうも大和は宇宙に関する事が好きみたいね。その雑誌はちょっと前に私の分身の士官室に有った物を、捨てられる前に私が暇つぶしで読もうととっておいた物なの。〝National Geographic〟っていう米国発のとても有名な雑誌なのよ。私も上海に居た時から読んでるわ。地理とか科学とか考古学とか色々な記事が書かれてるんだけど、この子、その宇宙の記事を見たらもう夢中になっちゃってるわ。』
『へぇえ〜〜・・・。うちゅう、かぁ。・・・いがい〜。』
朝日に続いて明石から洩れてくるぼんやりとした声。
幼いながらもその言葉遣いに見て取れるお堅い人柄を特徴とする大和が、帝国海軍最新鋭の戦艦である自身の分身と関係の無い事に勉学の食指を伸ばしているのは実に予想外で、ましてや艦の命としては陸地以上に縁の無い宇宙を好きになったという事には小さな衝撃を覚える。加えて一言で宇宙と言われても明石には星空以上の想像は湧かないし、神通を始めとする仲間達の中でもそんな未知の領域の如き世界に興味を持つ者は誰一人としていない手前も有り、明石の目はちょっと変な人を見るのと紙一重の色合いになって記事に笑みを向けている大和の横顔を捉えていた。
その一方、当の大和は鋭意勉強中の自身の身の程を弁えてか朝日の言に深々と頭を下げつつも、紙面に描かれる漆黒の世界へと延びる己の好奇心を抑えられない様である。黒髪を靡かせて垂れた頭を上げるや、幼心より溢れる宇宙への探求心を声へと変え始めた。
『誠に申し訳御座いません、朝日さん。長門さんに次ぐ戦艦としての勉強の中、いつも親身になって懇切丁寧に教えて頂いているにも関わらず、余計な物に興味を抱いてしまい恐縮で御座います。でも、とても神秘的で面白いのです。7つの大洋よりもまだ広いこの宇宙。もちろんわたくし如きが詳しくなれる等とは微塵も思っておりませんが、解らない事ばかりの空間に色んな星が点在する様子を想像するというだけでも、心が躍ってしまいます。きっと叶わないのでしょうが、是非ともこの目で見てみたい物で御座います。』
比較的大人しい人柄の中、いつになく弁をふるう大和。
どうやら朝日が紅茶に人一倍の情熱を捧げるのと同じく、彼女は未知の塊である宇宙に対して本当に尽きぬ関心が有るらしい。科学万能の現代っ子に似合う趣味とも言えなくも無く、英文の翻訳に一苦労しながらもその雑誌を読まずにはいられない様だった。
もっともおかげで英語のお勉強には極めて好都合で、朝日は大和が紅茶のお時間を迎えながらも本を放そうとしないのを咎めるつもりはない。今の様な幼少時代の末に科学知識も含めて色んな方面の教養を豊かにし、外国語も流暢に話し、仕草や外見も流麗の一言に尽きるであろう大和の将来を想像すると、それは他の誰でもない朝日自身が生涯に渡って追い求め、教え子の明石にも是非目指すようにと伝えてきた艦魂としての理想像、すなわち「一流の淑女」たる姿であるだろうと容易に確信できるからだった。
『すごいね、大和。私、宇宙なんて全然解んないや。お月様と太陽ぐらいだもん、想像できるの。』
『ふふ。わたくしも同じで御座います、明石さん。興味を持ったのはこの雑誌に載っていた土星の写真を見た時からなのです。ほら、不思議な形で御座いましょう。』
『おおー! 輪っかがついてるー!?』
そんな朝日の眼前で教え子2名が宇宙の話題に盛り上がる。大和は手にした雑誌の新たなページを開くや再び胸の前で掲げて明石に見せてやり、明石は生まれて初めて目にした土星の写真を見て驚きの声を上げた。なんだかその姿は身体つきも容姿に見る年齢も逆転した姉妹の様で、朝日は正直な所では艦魂たる者の理想像に近いのは年下の大和の方だろうと考え、ちょっとだけ笑みが歪んでしまう。
ただ今この瞬間、艦魂社会における師として眼前にある光景に大きな安らぎを覚えてしまう朝日は、すぐさま香るカップを唇に沿わせて本音が声へと変わるのを防ぐ。まだまだ若い新米艦魂達の姿に青い目を細め、それぞれの将来を想像して一人クスクスと笑いながら、しばしの間、海軍艦艇の命とはちょっと方向が違う会話に花を咲かせる二人の姿を観賞する。
戦とそれに纏わる色んなお話が日常的に備わる海軍艦艇の艦魂。
本当ならそれをちゃんと教え子達に説こうとする腹積もりも僅かに有ったのだが、生来が心優しい彼女にはとうとう母親の如く見守るという選択肢を覆すだけの気持ちが湧いてこない。40余年の生涯で十二分に知っていながら、否、むしろ知っているが故に、彼女は若者達の趣味の話題に盛り上がるというありふれた光景を、そっと邪魔をせぬ様に楽しもうとするのであった。