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第一三七話 「絵葉書と教訓」

 明石(あかし)艦が佐世保へとやってきた翌日の、昭和16年4月6日。


 帝国海軍でも最大規模の軍港となっている佐世保は、その組織的な在り方から連想される物騒なイメージとは異なり、桜が舞い落ち始める春の一時を迎えている。付近の岸や岸壁には潮に洗われたピンクの花びらが打ち寄せ、山々に群がる緑は新芽の色合いが手伝って一際鮮やか。工廠からは相も変わらず重機の音が重なり合って木霊するも、耳を澄ますとその間隙には希に鶯の歌声が響き渡る。

 長い長い冬の寒さもようやく超えての春がそこかしこに息吹を目立たせ、軍事施設と呼ぶには不適当とも思われる程の色合いで佐世保湾は満たされていた。


 ましてや艦隊訓練もようやく終わり、正式に陸海軍の合同演習もめでたく終了を迎えた為に、明石艦と二水戦の各艦では艦長さんから水兵さんに至るまでが一様に緊張を解き放ち、全ての甲板において笑顔が咲き乱れている。




『ははは。なんですか、航海長。せっかくのお誘いじゃないですか。思う存分に飲んできてくださいよ。』

『そう言うけどな、お前よぉ。特務艦長は本当に手荒く飲まれるんだ。一緒に飲むのは結構大変なんだよぉ。』


 艦橋真下の甲板でちょうどバッタリ会った明石艦幹部2名も、いつもの凛々しい表情と雰囲気を失ってそんなお話を笑いながらしている始末。明後日の出港で明石艦は母港の呉へと帰る事になっており、いよいよお休みの日々も近づいてきたという感覚にそれそれが子供の様に心を躍らせているのだった。






 それは艦魂達も似た様な物である。

 その証拠に本日も帝国海軍の重鎮として佐世保川近くの桟橋に静かに繋留される敷島(しきしま)艦からは、昨日の様な怖い怖い鬼教官からの怒号が全く響いてはこない。白い体操着姿の少女達とその上司、そして当の鬼教官がその場に居ても尚、本日の敷島艦は麗らかな小春日和という在り方を崩してはいないのである。


『たまの休みや。昼間っから酒飲む訳にはいかんさかいちょっと物足りんかもしれへんけど、まあ、こうして菓子くらい食うてもバチは当たらんやろ。お前らも遠慮せんと食うたらええがな。今日はシバかんよってな。ハッハッハ。』

『いやあ、これは親方。有難う御座います。ただ・・・、さすがにこいつらも堪えたようでして・・・。』

『ハハハ! なあに、ワシも今日は気合やなんやて言うて木刀振り回す気はあらへんねん。あのオバハンの機嫌もええさかいな。ま、のんびりせえや。』


 関西弁の怒号がもはやトレードマークにもなっている金剛(こんごう)も、本日の暖かな日差しと緩い潮風にご満悦である。持ち前のサラサラと音まで聞こえてきそうな長い金髪と南国の海をも思わせる鮮やかな青の瞳は、整った顔立ちと180センチ半ばの非常に大柄な身体に映え、折り畳みの椅子に腰かけている姿は絵本に見る天使の化身とも見まごうほどの美しさを輝かせている。西洋人故の長い手足、奥まった事によって自然にアイシャドウを設けて精悍さを醸し出す目つき、透き通った白い肌等、全身の特徴がとにかく綺麗の一言に尽きる物ばかりで、多少の老若を得ながらも日本人女性の容姿を持つ神通(じんつう)とその教え子達に囲まれては目立ち様は一際激しい物であった。

 もっともその大きな差異こそが教え子の尊崇を集めるのもまた事実。

 強さもおっかなさも博識さも一流で、美しさもまた一流というこの師を目にする都度、口にこそ出さないが神通は常に自身の未熟ぶりを思い知り、己の増長を許さぬ戒めへと変換して捉えているくらいである。教えを受けて既に10数年の月日が流れている中、女性としても艦魂としてもあらゆる面で絶対的な格の差を備えるその姿に、神通は大いに尊敬の念を抱かずにいられなかった。


 だから散々に殴られ、怒鳴られて育てられた末であっても、神通は金剛の事を嫌う気は露ほども湧いてこない。すぐ傍に同じく折り畳みの椅子を用意してもらうや勧められるまでもなく腰掛け、いつもよりは鋭さを失わせた声と目で師匠との何気ない会話をただひたすらに楽しんでいる。首の後ろで小さく結った毛先の不揃いな髪も今日は神通の凛々しさをあんまり感じさせず、傍から見ると本当にどこぞの女学校の先生と生徒の姿その物となっていた。


『ほほう。九三式魚雷がようやっとワレにも装備されるんかい。ほんなら呉に帰ってから改装やな。』

『ええ。できれば片舷の射線も増やせれば良いのですが、まあ、どうなるかはまだ解りません。』

『ふ〜む、ほかあ。しっかしなんやかんや言うて巡洋艦っちゅうんは羨ましいのう。こないにぎょうさん教える奴をいっぺんに持てて、それも同じ部隊で四六時中見てやれるんやからのう。戦艦はこうはいかへん。戦隊も姉妹で組むんが多いよってに、今となってはシバく奴がおらん。まして第一艦隊は新参がな〜んもおらへんからなぁ。』


 もう30代も半ばに入った西洋人女性の顔立ちは若さもやや薄くなりつつある物だが、神通との会話を楽しむ金剛は無邪気な少年の如き笑みを咲かせて声を弾ませる。その最中に暖かな陽光と快晴の青空に誘われる様に両腕を掲げて身体を伸ばしたり、声を放つのに際して西洋人らしく身振り手振りを大きく使ったりする辺りも見るに、どうやら彼女は大変に機嫌が良いらしい。行動だけを見るとむしろ神通の方が年上の落ち着きという物が意識できる程で、いかつい在り方の頂点と誰もが認めながらもその実は結構不思議な師弟仲であるこの二人の姿は、彼女達を知る者達にとっては珍しいと共にとても微笑ましい。


 ところがそんな穏やかな時間を過ごす師弟に反し、二人の前に扇状になって座る少女達には笑顔などなかった。

 皆一様にやつれた感じの頬と目の下にクマを作り、瞳の輝きもどこか虚ろで息遣いの音色も聞こえぬくらいの沈黙を守っている。金剛からもらった多くのお菓子も山分けしてそれぞれの前に置いた後はあまり手も付けられず、一部の者が僅かずつ力無い指で口に運んでいるのみ。幼さと若さに彩られた仲間同士での会話を弾ませる訳でも師匠のご機嫌に安堵する訳でもなく、麗らかなお天気とは場違いな程のどんよりとした雰囲気をその小さく細い身体から立ち上らせている。

 少女達の中でも超弩級と形容しても差し支えない程の問題児、雪風(ゆきかぜ)もまたその例には漏れず、神通とそっくりで特徴的な大きな釣り目も今日は半開きで線の角度も浅い。春風に時折そっと靡く茶髪にも気を良くする余裕は無く、生来のやんちゃぶりは完全に鳴りを潜めていた。

 まさに河童に尻こ玉を抜かれたかのような感じとなっている、二水戦の駆逐艦の艦魂達。普段から不機嫌そうな事この上無い上司、神通のご機嫌は心から何よりだと思うのだが、それに乗じた上機嫌へと移行できないのはそれぞれがその小さなお尻に極めて重い鈍痛を得ているからである。その原因はもちろん、いま眼前で上司とそれはそれは楽しそうに笑い合っている金髪碧眼の鬼、金剛である。


『こんのたわけがぁあーー!!』


 昨日のたった1日で全員が耳垢以上に耳にこびり付いているその怒号と、180センチ以上と見上げるほどの身の丈で放つ教練の一撃は、迫力も威力も今まで食らい続けてきた上司からの愛の鞭とは桁違いだった。ついでに修行の場にて愛用する得物も神通の竹刀に対して金剛はどこから調達したのか木刀を用いており、樫の木の堅さを嫌という程思い知ったのもまたその記憶に一層の恐怖の色を滲ませる。人間の乗組員達の中でも古参の荒れた、海軍風に言えばジャクった水兵さんが夜な夜な上甲板にて行う闇裁判の場でも振り回している精神注入棒と全く同じ物で、理不尽な理由で何度も尻を叩かれる乗組員の事は幼い容姿を持つとは言え艦の命である少女達も何度も目にしてきた。可哀想にと皆一様に思って逃げる様にその場を通り過ぎる事が殆どであったのだが、まさか全員が女性という艦魂社会の中でもその苦痛を味わう事になるとは思いもよらなかった。

 しかもこれでも金剛はある程度手加減していた、というのだから救いがない。声が小さいと言っては殴られ、気合が足らんと怒られては蹴られ、行動が遅いと叫ばれてはげんこつを貰う等、この人に本格的に教えを乞うに当たって伴うその過激な折檻は、以前、呉での柔道大会の前日にその当人である神通によって皆が耳にしている。まだまだそれに及ばぬお仕置きだった事を少女達は声に出さずに悟るのだが、それを忘れさせる程のお尻の痛みに彼女達は完全に参ってしまっていた。

 何せこの苦痛のおかげで全員朝まで寝れなかったのだから無理も無い。


『あぎ・・・! く、くそ、猿、ケツに足当てんなよぉ・・・!』

『あ、 わ、悪いぃ・・・。ぅ〜いてて・・・。』


 例に漏れず今日も不思議と隣同士となっている雪風と(かすみ)も、いつもの様に些細な事で取っ組み合いの大喧嘩をする気力は無かった。僅かな衝撃でお尻に電気が走る感覚を覚え、胡坐をかきながらも二人して両手をそれぞれのお尻に持ち上げる様にして添えて、鈍痛による呻き声も混じった覇気の無い声を上げるばかり。いつも元気な人柄であるのと同時に、その象徴でもある陽に焼けた様な麻色の肌の持つ霞もまた、顔色はどことなく青くて表情は虚ろである。


 怖い上官が揃いも揃ってご機嫌が良いのなら普段であれば眼前のお菓子を遠慮なく食べてみせるのに、少女達はその日一日中、やや恨めしそうな目で極めて愉快に談笑している師匠達の姿を眺め、そして希に放たれてくる有難い上官らのお言葉にただただ疲れ切った声色で返事を返すのみであった。


『ハ〜ハハハ! ま、ワシも加減はしたが手ぇ抜いたつもりは無いさかいな。せやかてチビ共、ワレの親である吉法師はこういう中で育ってきたんや。ワシにしても鍛えに鍛えた教え子やさかい、他の巡洋艦のモンらにゃ負ける気はせえへんで。僻むんも文句言うんも後でいくらでもできるんやさかい、とりあえず今は歯ぁ喰いしばって耐えてみいや。犬辺りならそん事はなんとなく解るやろ。ワレ、もし二水戦以外の部隊やったら呉最強の駆逐艦なんぞになれたと思うか? 何遍も言うとるけど、吉法師の言う事は親の言葉や思てちゃ〜んと聞かなアカンで。』


『こいつには是非とも言ってやってください、親方。目を離すとロクな事をしません。おまけに髪までこの始末で・・・。』

『ハッハッハ! まあ気持ちは解らんでもないよってにな。しっかしあんまりやんちゃしとったら、それこそ吉法師の顔に泥塗るような真似だけは絶対にしたらアカンで。犬。』


 日常茶飯事な自分達の短気ぶりを棚に上げて、金剛と神通は名指しで雪風の悪ガキぶりをネタに笑い合う。

 なんとも困った上司達であった。






 その一方、本来その場に居ればそんな神通と金剛を躊躇なくお説教してみせる事の出来る敷島は、陽光と潮風が心地良い甲板には出ず自身の部屋にその姿を置いていた。孫の様に可愛がる神通の教え子達が一度に集まっている事も考えると、本当なら甲板で一緒になって色んな事を教えてやりたい気持ちは勿論有るのだが、持ち前の鋭い形の碧眼は二水戦の少女達よりもさらに一層親しみを覚えている若者を捉えずにはいられない。

 青い目の周りの小さなしわがまだ生まれておらず、首の根元を埋めるほどの短い金髪がもっと色艶に満ちていた若りし頃、敷島が友と心より尊敬した、帝国海軍須磨(すま)型二等巡洋艦二番艦、明石艦の艦魂。


 瓜二つの容姿を持ったその二代目が、先日より佐世保に来訪しているからである。





『おおおぉ〜、進水式の絵葉書って初めて見ましたぁ。こんなの有るんですねえ。』

『ハハハ。古来より船は人々に祝福されて生まれてくる物さ。海軍艦艇とて同じだよ。佐世保に隠居してからは、ずっとこれを集めるのと書道が私の趣味になってしまった。人間達の言う腹を痛めるという感覚は解らないが、毎度毎度なんだか娘が生まれる様に思えて、嬉しくてな。』


『これは、あ、二等巡洋艦の龍田(たつた)さんだぁ。きれいだなぁ。』


 灰色一色の味気ない質素な部屋の中、それに似つかわしくない弾んだ声を上げる部屋の主、敷島と明石。お互いに容姿の上では年齢差が半分ほども有るのが一目瞭然で、西洋人女性、日本人女性という外観の違いも極めて顕著なこの二人であるが、昨日明石の先代の話題で語り合ってからは一挙に意識的な距離感がお互いに近い物となった。ましてや明石の師匠である朝日(あさひ)の実の姉である敷島は明石にとっては伯母さんに当て嵌まる関係で、真円を描くような強いカールを持つ髪質と西洋人独特の高い鼻、奥まった瞳を持ちさらにその顔立ちが似ているとくれば、それに一層の拍車がかかるという物。対して敷島にとっては37年前に得た友人の往時と酷似した明石の顔が、懐かしさを覚えると同時に再会を果たしたようで喜びの感情も湧いてくる。昨日の明石の不思議な涙の件も手伝って感慨は著しく、今日は朝から明石を部屋へと招いて二人だけで色々な話に声を弾ませている。


 ちょうど今しがたの話題はたまたま明石が敷島の室内の一角にて発見した、メモ帳に挟んでしまわれていた物の事で、その正体は明石の嬉々とした声にもあった海軍艦艇の進水絵葉書の束であった。敷島は快く開いて何枚にも及ぶそれらを明石に見せてあげ、お船の命ながらも意外に中々立ち会う事のない進水の模様を明石に丁寧に説明してやる。すると明石は持ち前の強い好奇心を爆発させて食い入るように絵葉書を眺め、気分が高揚している時に出る間延びした言葉使いで感想を漏らしていた。

 そしてその絵葉書はどれもこれも一工夫が凝らされて強い個性を持ち、敷島が言うお船への祝福はその紙上を彩る鮮やかな色合い、絵柄でよく表現されている。敷島の言によると彼女が所持するのは佐世保海軍工廠にて建造されたお船に限るらしく、本来は進水式に立ち会う人間達の間のみに手渡される物で、進水式の際にお手伝いをする佐世保軍港の交通船や曳船の艦魂達に敷島は頼んで何枚か拝借してきて貰っているのだという。


『殆どは艦の名称を意識した趣向が凝らされているが、この国は山岳や気象なんかの名前が付けられているからか、こうして揃えてみると綺麗な物ばかりだ。私の生まれた英国なんかでは人物の名前を入れたりもするから、こうはいかないよ。女王陛下の尊称と名前が付けられた日には、その艦魂にはきっと荷が重い毎日だろうな。ハッハッハ。』

『へえぇぇえ〜。人間の名前が貰えるんですかぁ。』


『うむ。でも考えてみろ、明石よ。自分の名前が明治大帝とか大正大元帥陛下なんて名前だったら、正直なところはあまり心地良くないだろう。それに腹を割った所では趣が無くていかん。』

『あはは、そうですね。でもみんなすんごいキレイ〜。』


 色とりどりの絵葉書に目を輝かせながら、明石はそこに写る、または描かれる仲間達の姿に感動した。彼女自身の分身も含めて帝国海軍艦艇の全ては基本的にねずみ色一色で、その命にあっても身に着けているのは濃紺か純白の軍装のみ。栄えある陛下と帝国の誇りも香しい大日本帝国の海を守る者達の服と言えば聞こえは良いが、それに反して随分と色鮮やかさが伴わない外見を持つのが正直な所だ。それ故にこうして絵葉書に見る彼女達の姿は、例え昨日教えてもらったばかりの死を運ぶ船という在り方の軍艦であったとしても極めて美しく明石の瞳に映る。まるでクレヨンのセットを全て用いて描いた様な煌びやかな物も有れば、単色ながらも橙色の濃淡でなんとも鮮やかな陰影を浮かび上がらせた物も有るし、中には写真と見紛うばかりの精密な絵を描いた後、さらにその周りに鳳凰や龍といった瑞祥動物をあしらった代物なんかも有って実に多彩。派手だったり素朴だったりと千差万別で、まじまじと眺めていても明石はちっとも飽きなかった。


 ところがその刹那、ふとそれまで明石の様子を椅子に腰かけて微笑の中に見守っていた敷島が、僅かに瞳を見開いて両の手を叩く。


『おお。これはいかん。忘れていた。』


 パチンと乾いた音を放ちつつ、そこに紛れて聞こえてくるのは些か落ち着きが失せた感も有る敷島の声。文句無しに現代の帝国海軍艦魂社会では重鎮と目される人物だけにその僅かな焦り模様はとても目立ち、両手に何枚も絵葉書を持って観賞に夢中だった明石も気付いて思わず振り向く。ちょうど明石の背後に当たる位置にあった敷島は椅子から立って部屋の隅っこにある小さな小物入れへと向かっており、随分と年季が入って木目の輝きも鈍くなった引出を開け、そこから何かを取り出した。


『いかんなあ。物忘れする歳はまだ先だと思っておったが。・・・お、これだこれ。』


 どうにも今の今までその引出にしまっていた何かを忘れていたらしい事に自嘲の言葉を呟きつつも、それに反して敷島の笑みは先程まで明石が背後より向けられていた物よりもさらに一層深い物となっている。手にしているのはこれまた絵葉書の様で、敷島の収集品がまた一つ出て来たのだと明石は瞬時に思った。なまじ敷島の集めた絵葉書の大半はメモ帳に挟まれて保管され、今は明石の前でその美しさを各々が輝かせている手前も有るので、奥の小物入れにてわざわざ別に保管されていた絵葉書はきっと敷島秘蔵の凄い代物なんだろうと考えて目を輝かせる。

 金箔を塗してるくらいの一級品か、などとその期待を大きく膨らませて敷島の手に視線を這わせる明石。


 ところがやがて歩み寄ってきた敷島より手渡された2枚の絵葉書を見るや、そこに金箔なんか無くとも彼女は仰天して思わず大声を上げてしまう。驚愕と一挙に昂った興奮を抑えられぬまでになった明石の手には、なんと「工作艦 明石」と紙面の一角に綴られた絵葉書が握られていたからだった。


『おおおーー!! わ、わたしだぁあー!』

『いやあ、お前が佐世保生まれだった事をついつい忘れていた。横須賀生まれだった先代の印象が強かったのもあるが。』


 なんとなんと敷島が持ち出したのは、明石の分身がこの佐世保で進水した際に発行された記念絵葉書。駆逐艦や敷設艦といった類別の艦艇でも作られている物であるから、よくよく考えれば自分の分も有るとはすぐに察せたであろう明石であるが、そも帝国海軍艦艇の進水の絵葉書を本日初めて目にした彼女はすっかりその実物の観賞に夢中になってしまい、自分の分なぞただの一瞬たりとも考えたりはしていなかった。

 だからここにきて明石の心は有頂天となり、童心そのものとも形容できる程に無垢な面を曝け出す。大きく見開いた両目は北極星の如く輝き、白い歯を覗かせて開く口はご飯を食べる時よりも開き具合は大きい。


 今の今まで堪能していた仲間達の美しい姿が飾られる進水絵葉書において、まさか自分の分も有るとは!


 そんな思いが爆発して感動に染まる明石の目には、絵葉書越しの自分の姿がこれ以上無く美しく綺麗な物に見える。ましてやまず初めに見た一番目の絵葉書には、ただでさえ甲板上に林立する起重機が目立つ明石の分身独特の姿が絵本の様にデフォルメされて描かれ、日章旗と旭日旗で彩ったリボンと桜の花の飾りも伴って仲間達に引けを取らぬ程の個性を放っていた。

 するとついつい自分の事にも関わらず、明石は満面の笑みでこんな声を上げてしまう。


『か、か、カワイイ〜っ!』

『ハハハ。中々に個性的な絵柄だ。そのリボンの端の所にある城郭は、おそらくは明石城だろう。きっと工員辺りの中に明石市の出身者でも居たんじゃないか?』


 傍らに寄り添って一緒に愛でる敷島の言葉も、興奮冷めやらぬ明石の意識を誘う事は無い。両肩を左右にくねらせて湧き出る可愛さに文字通り躍らされてる彼女は、およそ帝国海軍という組織が持つ厳ついイメージにはそぐわない絵葉書の絵柄に既に夢中。絵葉書と言えば横向きの物が多い中で彼女が目にした一枚目は縦向きであり、その愛くるしさも混ざって珍品の程度は相当に高い。次いで絵葉書の左側には縦書きで「昭和一三年六月二九日 工作艦 明石進水記念」と銘打たれ、下側には緑の下地に対して目立たぬ様にさらに濃い緑色で「佐世保海軍工廠」と書かれており、デフォルメされつつも艦影の面で間違いないと踏んでこそいたが、それが間違いなく自身の進水を祝した一品で有る事を示していた。


『キャ〜〜〜! かわい過ぎるぅ〜!』

『うむ。勇ましいものや情緒溢れる絵柄も良いが、明るく愉快なこういうのも私は好きだ。いかにも祝福を受けて生まれてきたという感が有る。』


 絵葉書を胸に押し当てて天を仰ぎながら叫ぶ明石。

 その隣に寄り添って静かに笑っている敷島の姿が一緒になると、顔立ちに人種の差異が有ろうとも完全に母と娘の光景。お互いが身に着ける真っ白な第一種軍装もそんな二人の姿に母子以外の補正を与える事は叶わず、生まれた時の写真を大きくなった娘に見せてやる母、という構図が崩れる事は無い。歩調を合わせる様に敷島は明石の声に頷きながら声を沿わせ、絵葉書の絵柄は進水間近となった頃に工廠や造船所の中で公募されて決められる事、それ故に写真では無く絵を用いる場合は完成時の姿と多少異なる時も有る事等を、明石の興奮を遮らぬ様に静かに声を上げて教えてあげた。

 それに対して明石は大きな感動と興奮で全身についつい力みが生まれる状態となり、頷く仕草も傍から見ると多少オーバーとも取れるほどに大きい。絵葉書を握る両手も手振れが止まず、全く見飽きぬ一枚目の絵葉書とすぐ傍に在る敷島の顔に忙しなく輝く瞳を向けて、進水記念絵葉書に纏わるお話に持ち前の好奇心を止め処なく注ぎ込む有様であった。


『ハハハ。さあ、もう一枚も見てみろ、明石よ。実はそっちの絵葉書には私も色々と想いが積もってな。ついつい別な所にしまっておこうとしてたら、この通りでお前が来ても忘れてる始末だ。それも中々に良い物だぞ。』


 やがて大いに話に花を咲かせた後、敷島はお互いの呼吸の合間を縫うようにしてそんな声を上げ、それまでずっと明石の手に握られたままであった二枚目の絵葉書を見てみるよう彼女に促した。白人らしい白く透き通った色合いの指で明石の手の中に有る二枚目の絵葉書をトントンと軽く叩き、明石も大いに一枚目の愛くるしさを楽しんだ手前もあってその促しに従う。


『はぁい! えへへ、どんなのかなあ?』


 気分が高揚するとついつい出てしまう間延びした様な調べの返事をしつつ、観賞し飽きない一枚目の絵葉書の上に二枚目を重ねる明石。するとすぐさま彼女の表情は驚きへと変わるのだが、そこには先程の様な興奮と歓喜の感情がこもっていない。


『あ・・・、こ、これは・・・!?』


 見開いた彼女の瞳に映るのは一枚目と同じく縦向きに描かれた絵葉書で、紙上の殆どを埋める朱色の丸い模様が一際目を引く。どうやらそれは朝か夕暮れ時の太陽らしく、所々に蛇の様にくねくねとした曲線で描かれる物体は雲を、次いで太陽の朱色を反射しつつも白い斑点が上手く大きさを変えてグラデーションとなる絵葉書の下段部分は、そんな太陽を映す凪いだ波間を表現しているみたいだった。

 そしてそんな絵葉書の下側の波間には、起重機が林立する見慣れた自身の分身のシルエットが真横から見た状態で描かれている。水平線から昇り始める太陽と朝もやの中を、もしくは夕暮れ時の凪いだ海を横切っていく明石艦の姿を模写したような絵柄で、さっきまで見ていた物とは違った落ち着いた雰囲気が随所に滲んでいるのだが、彼女の瞳はそんな黒塗りで描かれる明石艦のシルエットにこそ焦点を合わせていた。なぜなら自身の分身の艦影を下地にして、白抜きで描かれたもう一隻の船の姿がそこには確かに見受けられたからだ。

 同じく真横から眺めた形で描かれたその船のシルエットはまるで明石艦と海上を並走するかのような構図となっており、自身の分身の艦影にすっぽりと収まるどころか半分くらいしかないという船舶としての大きさの違いがやたらと強調されている。おまけに艦影として見た時の甲板上の構造物は明石艦に比べると極めて簡素で、細長い煙突が2本斜めに聳えているのと珍しい単楼、すなわち1本しかないマストによって、これまた両者、もとい両艦の差異が明確に示されていた。


 故にどこからどう見ても明石の分身とは別のお船である事は一目瞭然。

 だがそんな簡素なお船の艦首と艦尾に小さいながらも砲塔が描かれている事、そして師の朝日の分身と同じく古めかしい衝角艦首が描き出されている事に、明石はそのお船が自身と同じ軍艦旗を背負った海軍艦艇である事を瞬時に読み取る。

 その刹那、自身の進水を記念した絵葉書に分身と一緒に描かれたこのお船の名が、明石の脳裏には雷の如き速さと鮮明さでもって過っていった。


『こ、これは、先代・・・!!』

『そうだ。お前の先代。そして私の大切な友人。すなわち、初代明石艦だよ。』


 見るからに古めかしい艦影は、昨日の会話でもその中心となった明石の先代の物であった。ベタ塗りながら黒で描かれた現代の明石艦と白で描かれた昔日の明石艦はその対照が際立ち、艦影だけを見るとなんだか両者の間に帝国海軍艦艇以外の共通点なんて微塵も見受けられないが、艦の命であり当人でもある明石と敷島にあっては昨日の語り合いで得た印象が強い故にどちらも他人事の様には感じていない。敷島は青い瞳を鋭いながらも弓なりにして懐かしさの感情を込めて眺め、まだまだ尻の青い新米艦魂の明石は雲の上のお人を拝むが如く幾分の恐縮と神妙な面持ちで絵葉書に視線を向けていた。

 それに実はこの時、明石は生まれて初めて先代の姿を目にしたのであり、これまで耳にするか想像するしかなかった先達の、文字通りの横顔を見た思いであった。

 そしてそれ故に、明石は一目見た事で抱いた率直な感想を力の籠らぬ唇から漏らす。


『こ、こんなにちっちゃい艦だったんだ・・・。わ、わたしの半分くらいしかない・・・。』

『うむ。一時とは言え類別では三等巡洋艦だったからな。絵葉書の真ん中を見てみろ。もっとその大きさの違いが判るぞ。』


 縦も横もすっぽりと明石の分身に収まっている先代の艦影に強い印象を受けた彼女。師の朝日が尊敬を積もらせ、敷島相手に殴り合いまでやってのけたと聞いていた手前、そのイメージは力強さと大きさを際立たせる感覚も強かったので、自分と比べてなんとその分身の小さな事かと意外な特徴に印象を占められてしまう。次いですぐ隣で敷島が僅かに顎をしゃくりながら示す絵葉書の中心を見てみると、そこには横書きに短い文字が箇条書きされる小さな表が記載されており、その一番上には「要目比較表」と銘打たれていた。

 その内容は艦艇としての要目を数値化して並べた物で、確かに敷島が教えてくれた通り世代の違う2隻の明石艦にはその規模において大きな差が有った事が示されている。


『ぜ、全長が100メートルも無い・・・。駆逐艦の霞や雪風なんかよりもまだ短いんだぁ。基準排水量も2900トン・・・。』

『ハハハ。神通のちょうど半分くらいだ。速力の面では当時は速かったが、今じゃとても巡洋艦で御座いなんて言える規模ではないな。』

『じゅ、19.5ノット!? 特務艦の私と変わらない!?』

『それも機関は石炭燃焼。現代らしいディーゼル機関のお前とでは加速の面でも大きな差があるだろうな。』


 まるで歌の合間に合いの手を入れるが如く、敷島は明石の呟きに対して補足も兼ねた知識を教えてくれ、紙面に綴られた数字の羅列から読み取れるその差により一層の現実感を与えてくれた。古い新しいは当然ながら存在するとしても、明石がとにかく一番に印象に残るのはその小ささであり、縦横の寸法と重さを示す排水量はとても今の明石の分身とは比較にならない。敷島の言も足すと色んな性能においても先代と今の明石では負けている点は無いそうで、唯一速度性能のみが僅かに0.5ノットほど先代の方が勝っているくらいであった。

 しかしそんな先代と自身の分身における優劣が一つ一つ理解できていくのに合わせ、明石は今はもう会えぬ先代への尊敬をふつふつと湧かせていく。なぜならその波切りの悪い艦首で波高しの日本海を駆け、身に帯びた唯一つのマストに敵を見据え、チビチビと石炭を燃やしての心許ない航海をしながらも尚、遠く地中海にまで赴いた、という活躍を明石はこれまで仲間達から何度も聞かされた事があったからだ。


『こんな・・・、こんな小さな身体で欧州まで・・・。せ、先代ってそんなに外国の海って行った事はないですよね!?』


『うむ。言葉も通じない。振り返ればすぐそこに居た軍艦旗を背負う仲間の姿もない。追随する僚艦は今の神通のトコのチビ共と同じくらいで、頼れる指揮官は自分自身。見た事も無い海岸に、浴びた事も無い潮風。地図でしか知らない海域。英国より渡ってきた私らならともかく、この国で生まれてこの国周辺の海でしか戦った事が無い者にとっては、戸惑いと苦労の絶えない環境だっただろう。だがそんな中で明石は、いや、お前の先代は欧州大戦で見事に艦隊旗艦を務めたんだ。他人を統べるのは人間も艦魂も無く天性の有無だと私は思ってるが、お前の先代のそれは三笠(みかさ)出雲(いずも)にも劣らぬ一級品だった。正直、あいつの分身が私と同じ戦艦だったらと何度も思った物だよ。』


 問おうとする明石の心理を即座に読み取った敷島が先んじて先代の足跡を語り、改めて明石はその凄さを再認識して尊敬の念を深くした。まだまだ新人で仲間や友人らよりお勉強が足りない自分の事を日々痛感する彼女だが、先代が成し遂げた欧州派遣時の苦労はそんな自分とは比べ物にならない程に大変だったであろうと素直に思う。鋭意精進中の英語にここ最近は苦悩している彼女だから、それは尚更だった。

 そこに敷島の絶賛も加わった事もあって雲の上と捉える意識が明石の心の中ではより顕著となっていくも、積もりに積もる感心と感動、そして驚きの感情のみに染まらぬ様にするのもまた、傍らに寄り添って静かに声を響かせる大先輩の言葉である。円曲線の効いた前髪を指で僅かに払い上げながら、肩でも組むかのように身体を寄せて敷島は言った。


『明石よ。決して華やかさだけでこの絵葉書を見てやるな。』

『え? そ、それってどういう・・・?』


『ハハハ。お前の勉強ぶりの大体は朝日から聞いてる。自分でもなんて無知なんだと思い知り、時には大恥を掻いた事もあるだろう? お前の先代だって同じだった。テーブルマナーで失敗して富士(ふじ)先輩から睨まれた事もあったし、英語の出来が悪い事をからかわれて泣いてた事もあったし、三笠や私に艦砲射撃の教練成績を責められて落ち込んでた事もあったし、同じ巡洋艦の奴らから航海術の間違いを指摘されて顔を真っ赤にしてた事もあった。でもそこで解らないと投げ出さなかったのが、お前の先代だ。良い意味で諦めが悪く、しょげ込んだりしても己の芯を保ち、解らない時は後輩や部下相手であっても頭を下げる。そうやって日々こつこつ頑張った末に、お前の先代は地中海で英国王室の勲章に値する結果を残した。弛まぬ努力の上では当然の事。誰しも日々頑張れば良い筈だったのに、それが出来たのはお前の先代だけだ。今だから言うが、勲章授与の報を聞いたあの頃は私も富士先輩も、それはもう口惜しくてな。何せ私達が生まれた国の勲章だったんだからなぁ。』


 やや眉をハの字にして浮かべた困った様な敷島の笑みは、自分の過去を僅かに織り交ぜた話をした事によって生まれる照れ笑いらしい。教え子と同じで尊大で不機嫌そうな表情を鉄仮面のように変えぬ所は彼女の人柄の大きな特徴だと思っていたが、角ばったひし形の碧眼と吊り上げた口元にできる小さなしわは表情の豊かさを手伝い、風貌に反する様なはにかんだ笑みが明石にはなんだか可愛らしく見える。実年齢より差が無い容姿の上でも倍以上もの年齢差を明確に表す関係の中、今だけは不思議と明石には敷島が同じ世代の友人の様にも感じる事が出来た。

 だから今しがた話してもらった内容は、明石にとっては大先輩からであるのと同時に、37年前のもう一人の明石という名の艦魂から送ってもらった応援なんだと感じる事ができ、大きく頷いて敷島に元気よく声を返す。昨日に続きまたしても教えを授けてもらい、先代の足跡をヒントに己の道を照らしてくれた事への感謝を込めて、明石は再び満面の笑みを咲かせるのだった。


『は、はぁい! まだまだ半人前ですけど、私、修行は怠りません! 先代になるんじゃなくて、先代をいつか越えられるように頑張ります!』

『うむ、その言葉を聞きたかった。であれば、その絵葉書はお前にやろう。こんな年寄りにいつまでも後生大事にされてるよりも、その方が先代も喜ぶだろうからな。』

『わぁあ! 良いんですか!? あ、有難う御座いまぁす!』





 こうして明石は帝国海軍艦魂社会の重鎮、敷島より先代の足跡も確かな絵葉書を託され、佐世保に来て以来存分に語り合った事で得た自身に繋がる、そしてこれからも伸びていくであろう艦魂としての道を示してもらった事で、より一層の高みを目指すべく気持ちを新たにする。




 そして4月8日。

 春の彩りと暖かな天気はまだまだ始まったばかりの佐世保湾より、明石艦は錨を上げた。佐世保鎮守府で開かれていた陸海軍合同での演習の事後打ち合わせもようやく終わり、晴れて艦隊訓練後の休養と整備補修の為に母港の呉軍港へと帰る事になったのだ。

 桜舞い散る佐世保の波間は工廠の付近を見ると未だ所属艦の整備と改装作業なんかで大忙しの様相を呈しているも、我が家への旅路への第一歩を踏み出すにあっては天候にも恵まれ、周囲の山々や海岸の新緑はどこか明石艦に手を振ってくれている様でもある。次いでそれに混ざるように佐世保軍港の一角には、ちょっとずつ小さくなっていく明石艦の軍艦旗に向けられた、別れの声と宙で円を書きながら舞う2つの軍帽があった。


『お世話になりましたぁー! またいつか来ますぅー!』

『お〜い、明石ー! 朝日の叔母御によろしゅう伝えといてやー!』

『またいつでも来るがいい。またな、明石よ。』


 潮風に乗って行き交う女性の声は、去り行く明石艦とそれを見守る桟橋に繋留された敷島艦から上がっている点も含めて、それが艦の命達の物であろう事を察するに難しくはない。もちろん人間の耳に聞こえていればのお話ではあるのだが、帝国海軍の白い第二種軍装に身を包みながらも最も若年の者が年上の者達に見送られている姿を見ると、なんだか我が家よりの巣立に際した家族の如き雰囲気をも垣間見せる。

 当人達も意識はせずともその心境は同じであり、特にその中でも最年長である敷島は頭上でゆっくりと振る帽に再会への願いをうんと託している。かつての友人の全てを受け継いだ明石が相手だからこそで、その想いの深さは孫娘の様に可愛がる神通に対しての物にも決して劣らない。口元にしわを小さく浮かべて静かな微笑を保ち、遠目から花を愛でる様に明石艦の軍艦旗とその傍で元気に手を振る明石を見守り続ける彼女は、すぐ隣で大柄な身体に見合うような大声を張り上げて軍帽を振り回す金剛とはとても対照的であった。


『フッフッフ・・・。まったく、いやはや。まるで昔に戻った様な時間だったな。』


 わめくような弟子の声を全く意に返さぬような口調で、遥かに水平線へと小さくなっていく明石を眺めながら敷島は呟く。妹の教え子として親しくした以上の感情が溢れているのは明白で、ややハの字に傾けた眉で作られる苦笑は早くも次に彼女が遊びに来るのはいつかと考えると共に、そんな自分の思考に老いという物を強く意識してしまった事で得た自嘲だった。

 それ故に硬派な人柄で通る彼女の口からとするとなんとも軟弱とも思える言葉が出たと金剛は捉え、やや身をかがめて敷島の顔を覗き込みながら遠慮知らずの特徴的な関西訛りで冷やかすような声を投げる。


『おほ。アカンでぇ、親方ぁ。なんぼ明石が先代に似とる言うても、それ餌に自分のトシ誤魔化すんは親方らしゅうないで。』

『このバカタレ。ただあいつが戻ってきた様で嬉しいだけだ。』

『イテっ・・・!』


 冷やかしと既に悟っている為か敷島の声のトーンその物はちっとも変らなかったのだが、その足元では色褪せた敷島の革靴が金剛の脛を的確に突き飛ばしていた。一度足りとて視線を流さず、むしろ本音を漏らすのに伴って瞼をゆっくりと閉じた筈なのに彼女の蹴りは極めて正確で、これが艦砲射撃であれば標的ど真ん中への文句なしの命中判定だっただろう。絶対に鍛える事の出来ない急所への一撃で金剛はいとも簡単にその大きな身体を揺らし、蹴られた脛を抑えながら片足で小刻みに跳びつつ痛撃に表情をゆがめた。この二人にとってはもう20年以上も当たり前になっている手厳しいお叱りであり、薄々感づいていながらもやはり止めておけば良かったと思いつつ金剛は苦悶する。

 もっとも敷島はそんな弟子の姿に気を静める素振りは微塵も無く、その内になにやら腹が立ってきたのか、飛び回る金剛の尻を再び蹴飛ばして眼光を鋭くする。


『なんで教え子のお前は似ないのだ? お前の先代はもっと品という物が有る艦魂(ひと)だったぞ。身体ばかりデカくて頭もからっきし。同じ英国生まれなのにどういう事だ。』

『ぐへ! そ・・・、そないなことワシに言うたかて・・・! うお、いってぇ・・・。』

『こんのバカタレが。キサマ、ちょっと来い。』


 先代という観点で見た際に不幸にも明石と金剛は差が有った様だが、どうもその事が点けてはならぬ導火線に引火してしまったらしい。やや荒い仕草で踵を返した敷島は眉と瞳の輪郭に鋭さを大いに纏わせており、やや速足で大股に歩く所もなんだか怒っているような様子である。おまけにその歩く最中に敷島は流れる様な手捌きで、蹲る事で胸ぐらいの高さに有った金剛の首根っこを鷲掴みにし、自身よりも10センチ以上は大きい彼女を引き摺るようにして甲板上に歩みを進めているのだから、少なくともこの後になにがしかの恐怖のお時間がこの師弟の間に流れるのは疑い様が無い。それを誰よりも早く察したのは当の金剛であったのだが、もはや逃れたくても逃れられない事もまた同時に彼女は悟るのだった。


『ちょ、親方! か、堪忍や・・・! わ、ワシ、まだ吉法師んトコの連中が残っとるさかい、今から面倒見にいかな・・・!』

『黙れ。明石を見てるとお前の先代に申し訳なく思えてくる。少なくとも精神だけはもっと磨け。私が見てやる。』

『な、なんやて!? か、堪忍してぇな! ああ・・・! イヤじゃー!』


 大変な事態になったと戦慄に駆られる金剛は長い四肢を駆使して敷島の腕に抗おうとするも、首を掴んだのとは逆側の腕一本で扇子を振るかの如き動作をすれば弟子の抵抗は全て排除されてしまう。伊達に40余年もの間、海軍艦艇の命として生き延び、現代において精強な若人を相手に柔道でかってしまう程の身体能力を維持している訳ではない敷島。その上で明石という若者を目にした事で弟子を鍛える覚悟を改めてしまった今の彼女にとっては、金剛の暴れるという選択肢なぞ文字通り赤子の手を捻る様な程度にまでなっていた。


『あああー・・・! 助けてくれー!』

『やかましい。』


ゴン!


『いって・・・!』


 その内に金色の長髪に包まれる金剛の頭には敷島のげんこつが落され、空母艦載機の急降下爆撃よろしく70度以上の急角度で描いた拳の軌道は大きな衝撃音を辺りに木霊させる。




 それは既に佐世保海軍工廠からずっと離れ、湾の入り口を目指して転針し始めた明石艦艦上にも遠く聞えるほどで、思わず明石は小さく飛び跳ねる様に驚いてもう軍艦旗の向こうに見え隠れする程になった佐世保軍港へと視線を流す。さきほどまで声を交えていた師弟がそこに修羅場を迎えている事なぞ知る由も無かったが、良き教えを授けてくれたこの佐世保軍港、そしてその主たる大先輩、敷島に深く感謝して、明石は艦尾の方向に身体を向き直して小さくお辞儀をする。


 ありがとう御座いました、敷島さん。

 ありがとう御座いました、先代。


 新米だけに何かをするといつも教訓を得るばかりの明石。

 佐世保でもその例に外れる事は無かったが、これまで以上に自分の道という物を強く意識できた教えに明石は笑みを浮かべて、意気揚々と呉への帰途につくのであった。









 しかし、こうして終えたばかりの敷島からの教えの一節が、後に他の誰でもない敷島当人に対して襲い掛かってくる事を、その場に居た者達は誰一人として気付いてはいなかった。




『戦とは理不尽と不条理しか無かった。その餌食になるのは、恥や外聞に囚われて日々の心構えを忘れた奴だぞ。しかもただ死ぬだけじゃない。そいつは周りの親しい者から順番に失っていくんだ。』




 明石にもやや言葉の選びを変えて述べていたこの事を本人が知るのは数年後。

 その時、敷島は愛した弟子達も、血を分けた姉妹も、同郷にして同世代の友も全て、全てその手から零れ落としてしまっていたのであった。

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