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第一三五話 「from 37 years ago/其の二」

長くなりそうなので、前後編編成から三話編成に変更致します。

『そうかそうか、お前が明石か。ハハハ。いやあ、よく来てくれた。』


 明石(あかし)のか細い両肩を抱きかかえる様に手を乗せ、金髪碧眼という日本人とはかけ離れた顔立ちの中に満面の笑みを咲かせて敷島(しきしま)が言う。

 間近で見ると確かにその顔のパーツは朝日によく似た特徴を持ちつつも、40代の女性と意識しなければそこにある小じわに気が付かない辺り、この敷島は師匠に比べて身体に及ぶ老いという物がやや薄いらしい。もっともつい先程、文字通り現役バリバリの戦闘艦艇の命たる弟子達を投げ飛ばしてみせた彼女であるから、いくらか若さが残るその容姿に明石は疑問なぞ微塵も湧かなかった。


 むしろどちらかと言えば、容姿よりも敷島が自分に向けてくれる歓迎の意思と笑みの方が不思議である。未だ罰直の腕立て伏せに励んでいる友人の神通(じんつう)や師匠より常々聞いていた敷島の人物評は、帝国海軍艦魂社会でも鬼とあだ名される者達の総大将、桃太郎ですら尻尾を巻いて逃げ出しかねないとまで噂される程におっかない女性であるとの事であったが、まるで鼻が触れそうな距離でただただ青い瞳を弓なりにしてくれる今の敷島には全く当て嵌まらない様に明石は感じる。

 敵意も憤怒も先輩風を吹かす雰囲気も無い。腹の底から自分の来訪を喜んでいる姿しかなく、素直に注ぐ嬉しい気持ちと燻り続ける戸惑いが明石の胸の中では交錯するのであった。




『に、にひゃくっ・・・!』

『ぐへええ・・・! や、やっと終わった・・・! お、親方ぁ〜、チビ供の前では堪忍してくださいやぁ・・・。』


 その最中、明石から見てちょうど敷島の身体を挟んだ向こう側より、厳しい厳しいお師匠様より授かった有難い罰直を終えた金剛(こんごう)と神通の声が聞こえてきた。おかげで当惑していた明石と後輩の来訪に喜んでいた敷島は、ようやくしばし続いていた二人の時間を終え、一緒のタイミングで声のする甲板の一角へと顔を向けるのだが、明石の惑う思考は完全に止む事は無い。

 いつも尊大で不機嫌そうで、先輩上官との喧嘩も辞さずの勢いを人柄とする神通、そしてそんな神通に負けず劣らずの峻烈な性格の持ち主たる金剛が、汗だくになって柔道着に包んだ身体を甲板上に横たえている光景がそこにはあるからである。


『ぜはっ、ぜはっ・・・。 お、おい・・・。大丈夫か、吉法師・・・?』

『は、はぁ・・・。な、なんとか・・・。』


 片や黒髪と低い鼻を始めとする日本人女性の顔を持ち、片や砂の如き綺麗な金髪と高い鼻を持つという二人の姿。身体つきも瞳の色もまるで違う金剛と神通は掛け値無しに帝国海軍艦魂社会でも喧嘩自慢、度胸自慢で名を通す筋金入りの強面艦魂である故に、こうして疲労と苦痛と心理的な衝撃に打ちのめされている状況を見せるのは極めて珍しい。上司に連れられてその場を共にした二水戦の駆逐艦の艦魂達も、鬼の戦隊長である神通のこんな姿は初めて目にしたし、そんな神通を自分達の日頃と同じくげんこつと怒号で育てたという金剛の姿に至っては、正直理解するのに難が生じるくらいであった。

 そしてそんな若人達の視線が辛かった故か、這いつくばる格好の神通は中々顔を上げずにやや呆然と甲板を眺め続け、そのすぐ隣では金剛が仰向けの大の字となって陽光麗らかな佐世保の青空を力無い瞳に映す。汗が染みて暗さを所々に浮かべる柔道着は今の二人にはきっと重く感じるのだろう。互いに声をかけつつも切らす息を整えて立ち上がる様子は無く、色褪せた敷島艦の甲板に止め処なく顔を伝っていく汗をポタポタと落すばかり。

 (かすみ)雪風(ゆきかぜ)(あられ)を始めとする二水戦の少女達も明石も、その姿に放つ言葉を忘れ、一瞬の静寂が辺りを包んだ。


 しかし一陣の風が敷島艦の艦尾に翻る軍艦旗を靡かせてバサバサと音を立てるや、まるでそれと同期したかのように敷島が明石より手を離して疲れ切った教え子達の傍まで歩き、腰に手を当てて仁王立ちの姿勢となる。絵に描いた様な倒した敵を見下す勝利者の構図その物で、神通も金剛もその存在を察知しつつもまともに敷島の顔を見る事は出来ない。仰向けだった金剛は顔を横に向けて舷側の向こうに広がる佐世保軍港の景色を見る格好となったが、怖い怖い言いつつ20年以上も彼女の面倒見てくれたお師匠様は、あたら弟子の不甲斐なさを責めるつもりはなかったらしい。明石の来訪に喜んだのも影響しているのか、やがてその場に木霊する敷島の声からは柔道の試合の前後に及んで漂っていた独特の鋭さが完全に無くなっていた。


『このバカタレ。恥を知るのは戦で血を見るよりも優しい物だ。お前や神通くらいになってもその意味と重さを知るのは必要なんだという事をこのチビ達に教えるには、こうして傍からしっかり見せる方が良い。私やお前が相手になって無我夢中で汗を流させては、それを知る余裕なんか無いだろう? 現状に満足するのはいかんのだ。かつてお前も見た・・・、いや、お前にも見せてやった筈だぞ、金剛。・・・朝日との柔道の試合で、私が負ける所をな。』


『むぐ・・・。せ、せやかてあれは叔母御が強すぎたんやでぇ・・・。』

『そう、たったそれだけの事だよ。だがあの場が戦場(いくさば)なら私は殺されていた。至極単純明快な道理で、いとも簡単に命を奪われる。それが私がこの目で見た戦場だ。甘えも無い、勘弁も無い、救いも無い、猶予も無い、保証も無い。恥を代償にそれを少しでも知れるなら安い物だ。』


 ドカタ型の性格を持つ艦魂達の頂点に君臨する敷島だが、40余年の年齢の成せる業なのだろうか、教え子達と違って恥や体面における拘りがそれほど無いらしい。例え冗談でもちょっとでも揚げ足を取る様な事を言うとすぐに短過ぎる導火線に火をつけ、容赦なくげんこつを振り回すという神通を良く知る明石にしたらとても意外である。師の名前が出た事に少しドキっとしつつ、さすがにあの妹にしてこの姉在りといった感覚も覚えれる程に教えを授けれる敷島の姿を垣間見て、明石は小さな感動を覚えた。


 鬼は鬼でも、その内心は極めて優しい鬼。


 ずっと怖い艦魂だと聞かされ続けてきた敷島の真の姿は、まさにそんな所であった。


『神通、そしてチビ達よ。よく覚えておくんだ。私達帝国海軍の艦魂の様に戦に赴く事を生業にする者にとって、経験や年齢を重ねてもその精神と心、身体が完成に至る事は無い。あってはならない。私は見たんだ、あの日露戦役の海戦の場でな。戦とは理不尽と不条理しか無かった。その餌食になるのは、恥や外聞に囚われて日々の心構えを忘れた奴だぞ。しかもただ死ぬだけじゃない。そいつは周りの親しい者から順番に失っていくんだ。そうなりたくないのなら、恥辱を受けてでも学んでおく方が良い。今日この時のこの光景を、皆決して忘れるんじゃないぞ。』


 強く円状に巻く短い金髪を春風に揺らし、非常に透き通った声でそう言った敷島。角ばったひし形の目はいつの間にか四方の角を和らげ、青い瞳は凪いだ晴天の海原を思わせる穏やかな色を浮かべて、一瞥する全ての者達よりそれまで抱かせていた恐怖の心を拭い去っていく。それに伴って一挙に敷島艦の甲板上からは立ち込めていた緊張感が引いていき、すべての者達の閉ざしていた唇に緩みを与え始める。

 それはこの敷島をより多く知る者の順番で効果を発揮し、当の敷島はその伝染を一人楽しむかのように笑みで応じていった。


『わ、ワシはまたやられ損かいな、親方ぁ・・・。』

『やられ損ではないさ。可愛い神通の為にもなったんだ。お前としても神通に教える事はまだまだあるだろう? それに私としてもお前が完成に至って貰っては困る。・・・もう私の教え子はお前しか残っていないからな。』


『・・・へ。へへへ、そうでんなぁ。それにワシにしか勤まらんで、20年から親方に従えるんは。』

『フン。口の減らん奴だ。』


 20年以上も昔に関係を得た師弟がまず最初に笑い合う。

 神通が教える雪風が問題児なら、金剛の下に弟子入りした頃の神通だって相当の問題児で、さらに辿ればこの金剛すらも敷島に教鞭を取って貰った頃は超が付く程の悪ガキと、敷島より始まる師弟の家系はとにかく一癖有る生徒が多い事が特徴で、妹や仲間達の様に平穏な教育の日々を過ごした事は敷島にはただの一度も無い。もちろんその原因は金剛という弟子をとった事に他ならないが、彼女が一筋縄で行かなければ行かない程、手間が掛かれば掛かる程に、それに比例する形で並み以上の深い情を注いできた事もまた事実である。

 誰よりも金剛を叱り飛ばして誰よりも殴ってきたのと同時に、それこそ愛娘の如く金剛を愛しているのが敷島。先程の柔道の試合にて足蹴にし、頭ごなしに罵倒してその未熟ぶりを痛烈に叱責しようとも、彼女にはあたら愛弟子に厳しい修行と訓示を与えるだけの気持ちなぞ微塵も無い。いつまでも昔と変わらぬ師弟でお互いが在り続ける事を願い、肉親という在り方や概念も無い艦魂という存在の中で、それこそ親子の様に接し続けようとしているだけなのであった。


 そしてそんな金剛と敷島の間に漂う暖かい空気を読み取ったのか、今度は神通がちょっと恐る恐るといった感じを伴わせた声を両者に向けて放つ。どちらも艦魂としての大先輩、次いで師匠筋に当たる事から大きな尊敬を抱くのに合わせ、自分や周りで見ているその部下らにも向けて教えの言葉を連ねてくれた敷島に礼を述べ様としたのだが、柔道の試合中とは違って優しき鬼は神通に対して静かに笑って応じてくれた。


『あ、いや・・・。あ〜、親方。それに敷島の大親方。大変勉強になりました。この神通、自分の未熟さを今一度知った次第です。本当に有難う御座います。』

『なに、かまわない。私にできる事はもうこれくらいしかないからな。しかし腕を上げたな、神通よ。足を使った柔道はかつては私の専売特許だったが、もうその看板では廃業だな。ま、組合いではまだまだ私にも力は残っているようだ。今日の様に佐世保に来る時が有るのなら、また稽古をつけてやろう。』




 人一倍怖くて厳しくてもなんとも母親の如き物言いと立ち振る舞いを持つ敷島の姿がそこに在る。

 音に聞きしおっかない人柄の中にあるその優しさはまるで自身の師の姿と重なり、明石は思わず頬を緩ませると同時に、いつぞや朝日の下に長門(ながと)大和(やまと)と一緒に集った日の事を思い出した。まるで一つの屋根の下に暮らす家族の如き親しみと温もりに浸ったあの時、明石は母や姉、姪といった肉親を持てた様に思えて嬉しさと楽しさが同居したなんとも言えない心地良さを感じた物だが、師弟の関係を結んで上手く年長と年少の間柄でその場を共にすれば、決してそれは自分だけが得た感覚ではないのだと再認識できる。もちろん厳密な意味で人間達の如き在り方で成り立つ物ではないものの、艦の命である彼女達にも意識の上で、心の上でちゃんと家族という形が存在しうるのだった。




 こうして艦魂達におけるそんな家族模様を垣間見れて明石はより一層緊張の束縛から心身を開放し、表情や物言いにもいつもの彼女らしさが段々と取り戻されていく。

 転じて艦魂における家族の系譜を見れば、明石にとっての敷島は完全に他人とは言い切れない。


 母とまで慕う朝日の実の姉が、この敷島。

 遥かに年上にして完全な西洋人女性の顔立ちを持ってても明石にしたら伯母さんに当たる様な物で、予てより挨拶しておきたいと考えていた理由もそこに有る。

 そして幸いな事に当の敷島も初めて姪が自分を訪ねてきてくれたという事が相当に嬉しいのか、一族の者達に笑みと教訓を施してやった後に明石の下へ再びやって来て、なんと二人でしばしの語らいをしないかと申し出てくれた。


『さあ、明石。待たせてすまなかった。』

『あ、いえ。とんでもないです。さっきのお話、私もお勉強になりましたぁ。』

『ほお。ハハハ、そうかそうか。どうだ、私は少し部屋に戻って休もうと思っているが、明石も来ないか? 二言三言声を交えるだけでは、お互いまだ話し足りないと思うんだが。』


 来訪当初に見た鬼の如き風貌と雰囲気は甲板を流れ行く潮風に吸い取られたかの様に、極めて心地良い笑みを明石に向けて敷島は言った。

 教え子達に受け継がせた刃物の様に鋭い目もだいぶ柔らかく、西洋人特有の澄んだ青色の瞳にも稲妻を思わせる眼光は輝く事は無い。笑うと確かに朝日とは姉妹なんだなと実感できる程に似ていて、穏やかなその表情はまるで凪いだ海その物。ポカポカと暖かいここ最近の陽光に次ぐ心地良さが今の敷島からは溢れ出ており、明石の応答を戸惑わせる障害は一切生じない。

 おかげで元来が他人とのおしゃべりに大きな楽しみを覚える彼女は持ち前の無邪気な笑顔を開花させ、無意識の内に握った両手を胸の前に掲げて敷島のお誘いを快諾する事が出来た。


『は、はい! 是非! いっぱいお話聞きたいです!』

『うむ。決まりだ。ではついてくるが良い。』


 明石の快諾に気を良くした敷島は口元をそれまでよりもさらに吊り上げ、僅かに首を捻って後に続く様に敷島は促した。ここに至って明石も生来の無垢で天真爛漫な性格がいよいよ現れ始め、些か飛び跳ねる様な感じもある足取りで敷島の背中に従おうとする。神通や金剛への挨拶が疎かになっているのも明石は完全に忘れており、師と同じかそれ以上に色んな知識を知っていそうな大先輩との一時を満喫すべく胸を躍らせるばかりである。

 甲板を去ろうとする間際、敷島がその場に残る後輩達に声をかけても尚、明石は他の者達には目もくれずに敷島の背と横顔に子犬の様に目を輝かせていた。


『金剛、せっかくだ。神通がチビ達を鍛える様子を一緒に見てやったらどうだ? 私は少し明石と話しをしたい。』

『へぇ! 確かにいい機会やで。へっへっへ、さぁてマトモな尻はこん中に何人おるんや〜? 吉法師、はよ始めようやないか。』

『はは。お手柔らかに・・・、とは無理な話ですね。おい、お前達。親方の指導を受けられる時はそうそうないぞ。覚悟しておけ。』


 3人のやりとりはまさに敷島一家の中に響く家族の団欒その物であるが、家長の敷島に始まる極めて精強な女性の系譜を本流とするのがこの一族である。今しがたその流れに巻き込まれる事になった少女達のこの後の運命は知れた事で、当人達もさっそくそれを察知して一様に首筋の辺りに冷や汗を滲ませた。


 や、やべぇ〜・・・!


 最年長の朝潮(あさしお)以下が一斉に脳裏に過らせた言葉も、時既に遅し。

 まるで自身の分身のマストの如く凛々しく真っ直ぐに伸ばした背筋を維持して敷島が綺麗に歩き、その後ろをダンスのステップの如き軽やかな足取りで明石が追っていく中、艦内へ続く階段を降り始めた二人の背後からは、敷島一族の日常にはもはや付き物であるそれはそれはおっかない怒号が響いてくるのだった。


『そら整列だ。早くせんか。』

『おいおい、吉法師(きっぽうじ)〜。ワシん下で修行してた頃はもう忘れたんかい。このぐらいの年頃ん時が一番厳しかった筈やで〜、ハッハッハ。・・・オラァア!! いつまでチンタラやっとるんじゃい、ガキ共がぁあー! さっさと並ばんかぁーい!!』


『『『 う、うわああぁっ・・・!! 』』』






 小春日和の静かな佐世保の入り江に、またしても一陣の風が吹き込んでくる。

 その風には朝から鳴り止まぬ工廠の重機音と、忙しなく働く軍港雑役船舶達の息吹、そして今しがた上がったばかりの少女達の悲鳴等の全てが拭い取られて佐世保湾に躍り出るも、やがてさざ波と暖まる陽光に溶かされていくかの様に湾の四方へと消えて行く。

 上空を舞う鳥達や岸から望む人々より見ればなんとも平和で穏やかな日々を思わせるその光景に見合い、敷島艦の艦内はまるで太古の昔から続いているとも思える程の至高の静寂に包まれていた。

 もちろん建造より40余年の月日を得て新品同様の眩い綺麗さはそこには無いが、艦の主に続いて艦内を歩く明石の目には、そこに有る全ての物に使い込まれた事を代償として得た落ち着いた感じを認める事が出来る。緩く歪んだ隔壁や黒ずんだ天井、縁の部分から光沢が失われた水密扉は、そも工作艦という類別をされる分身の持ち主である明石にとっては極めて珍しい代物ばかりで、最新鋭という境遇を差し引いても普段なら乗組んでいる工員さん達の手によってそれはすぐに直されてしまうであろう。逆に言えばそれだけ身近な修理補修の機会からこの敷島艦は相当に距離を置いている、もしくは意図的に置かされているとも解釈でき、長年の奉公の下に得た現況としてはちょっと可哀想な事だなと明石は思った。


 記念艦とは言わないけど、もうちょっと大切にされるべきなんじゃないかなぁ?

 金剛さんと神通が一緒でも勝てないぐらいなんだもん。敷島さん、それだけ努力してきた艦魂(ひと)に違いないのに・・・。


 ちょっと口をへの字にしつつ明石は胸の内でそう呟き、振り返る素振りも見せずに黙々と前を歩いていく敷島の後ろ姿をじっと見つめる。神通と同じくらいの170センチの身の丈は、女性にしては大柄な明石から見ればおでこくらいの差でしか離れておらず、痩せ形でスラリと長身な身体つきも彼女とそれほど違いは無い。西洋人らしい肩幅の広さも改めて観察すると師の朝日よりは随分と印象が薄く、極めて強健な身体能力を持つのをついさっき見たばかりだというのに、明石の瞳にはちょっと病人にも思える程に細さが強調されて映る。

 彼女と同じ年代にして常に真っ白な傷病衣を纏い、両足の自由が利かずに車椅子の揺れ具合で白髪を靡かせるという姿の富士(ふじ)を明石は見た事が有る故、後ろをついていく最中にあってなおさらにその感覚は強かった。




 だが独り色々と敷島の姿に垣間見る弱さを探していた明石に反し、敷島の真っ直ぐに伸びた背筋に始まる凛とした出で立ちは彼女の部屋に着くまで崩れる事は無かった。考え事をしながらだといつの間にか距離を離されそうになる事もあった程に敷島の歩みは速く、部屋へと続く金属製の重そうな扉も暖簾を押すかのように片手で彼女は開けてみせる。その表情もまた弱さなんて言葉がどこにも見つけられず、ただただ後輩を招き入れるに当たって心から歓迎と歓喜を湧かせているのみで、何の戸惑いや躊躇も生じさせずに部屋の中へと足を進める明石の背を押してくれた。


 その後、師とは違って簡素で小さなお部屋に敷島が住んでいる事にちょっぴり明石は驚きつつも、部屋へと招き入れた彼女に早速椅子に座わるよう促されると、もともと他人とのおしゃべりに楽しみを覚えてしまう明石はすぐにそんな事を忘れ、師匠をも超える大先輩との間に交える声を次第に弾ませていく。

 あの金剛や神通の育ての親であるにしては敷島は非常に落ち着いた人柄で、女性らしいとは言えない口調の中にも弟子達の如きやや汚い言葉を混ぜる様子は無く、金髪碧眼という風貌も手伝ってその姿はまるでどこぞの王族の人の様にも明石には見える。ある意味では師匠の朝日より常々与えられる訓示、すなわち「一流の淑女(レディ)」という言葉に自身とは違うアプローチで辿り着いたのかと考えると、より一層の尊敬の念を彼女は眼前の先輩に対して抱くのだった。


『入れ違いだったな。少し前に朝日がここに来ていてな。その時にお前の事は聞いているが、朝日があれだけ他人を褒めるのは珍しい。よく日々の鍛錬に励んでるようだな?』

『あ、そ、そうだんですかぁ。朝日さんにはいつもお世話になってます。まだ全然解らない事の方が多いのが、あの、ちょ、ちょっと恥ずかしいんですけど・・・。』


『ハハハ。気構えに気を張り過ぎなのも朝日譲りの様だな。なに、昨日の明日で朝日の様になろうなんて考えなくてもいいんだ、明石よ。なにせ40年からの経験の差があるんだ。今はまだ背中を追いかけて足跡を辿っていくだけで良い。それに今すぐに追いつかれでもしたら、曲がりなりにも40年以上生きてきた私や朝日の面目が立たん。あれで割と厳しい事を言ったりもするだろうが、朝日だってもう少し弟子としてのお前の姿を見ていたいのさ。』


 床に敷かれたカーペットも無ければ、舷窓を覆うカーテンすらも無い敷島の部屋の中で、明石と敷島は真っ白なカバーで覆われた椅子に腰かけて正対する形となっている。

 一方の明石は揃えた両膝の上に手を置きながらも力の籠った腕は肩をやや張らせて、横から見ると弓なりにも見える程に幾分強引な感じで背筋を伸ばしているのに対し、部屋の主である敷島は長い脚を組んで片方の肘掛けに上半身を預ける様な姿勢で青い瞳を明石に向けている。金剛や神通を文字通りブッ飛ばした後で疲れているのもあるのか、ついさっきまでの歩いている姿からは随分とリラックスした形になっているが、姿勢の変化は有っても表情とそこから読み取れる心には変わりは無い。溢れる歓迎の意は初対面の明石にあっても敏感に察する事ができ、入れ違いにこの佐世保へと来訪していたという師の話に始まる敷島の声に彼女は目を輝かせた。


『ほほう、そうかそうか。いや、私達が見える人間は確かに希に居るな。私が知ってる限りでは三笠(みかさ)の乗組員の中にも居た。もっとも三笠は嫌っていたようだが。』

『あう。そ、そうなんですかぁ・・・。』

『まあ、私達と同じで性格の合う合わないは人間も同じだ。別に死んでしまった訳でもあるまい。近々戻るのなら、離れた事で学んだ事を生かして今度は付き合ってみるんだな。男を好きになるという気持ちは解らないが。』

『はい! 頑張りまぁす!』


 朝日は来訪した際に自分の事を色々と敷島に教えていた様で、かつての相方である(ただし)の事もその耳に入っていたらしい。この話題が出た最初は敷島に怒られるんじゃないかおっかなびっくりしていた明石だったが、艦の命たる者を目にする事が出来る人間を過去に目にしたという敷島は別に驚きもせず、笑みを崩さぬままで彼女なりのエールを明石に対して送ってくれた。

 その際に彼女の一番下の妹の名を出した辺りについての真相は、どうやら自分とそれを教えてくれた富士しか知らぬ事であるらしいと明石は察しつつも、40余年もの間、それこそ実の姉妹にすら秘密にされてきた事を指摘の格好で敷島に語るのは気が引ける。秘密を守り通してきた富士に対しても、覚めぬ眠りの中で待ち続けるという三笠に対してもだ。

 故に明石は敷島の語る三笠の事には一切触れず、送られたエールに笑みを浮かべて応えるだけである。


『私、軍医さんとしてはまだ駆け出しですけど、いつか朝日さん以上の軍医になってみせるつもりです!』

『ああ、なるほど。赤線の入った襟章に、赤十字の腕章。なるほど工作艦だったな、明石は。うむ、それで良い。今言われてもピンとこないかも知れないが、朝日を目指すのは実はとても簡単な事なんだ。だが最新鋭工作艦なればその実力は、40年も前の艦であり、ましてや戦艦から転向した朝日に劣っている様ではいけない。その気持ちをこれからも忘れるんじゃないぞ、明石よ。』


 応援を受けた嬉しい気持ちが明石の声の音量を上げ、真っ直ぐに立てていた背筋をやや曲げて目の前の敷島に顔を近づける様な格好にさせる。いつの間にやら膝の上にあった両手も胸の前に掲げられて強く握られ、今しがた彼女が言ってみせた決意の強さを表す様でもある。次いで敷島が気付いてくれた左腕に付ける赤十字の腕章に一度視線を投げ、初対面ながらも第三者に自分が軍医であると認められた事を胸の内で小さく喜んだ。さすがに自分の襟章を目にする事は上衣を脱ぎでもしない限りできないので、朝日お手製の腕章を緩く撫でて湧き出る喜びを発散する明石。

 もっともそれでも彼女の昂る気持ちが治まる事は無く、金科玉条とする師からの教えに対する敷島の肯定も加わって溢れる感情に歯止めが掛からなくなる。まだまだ未熟で若輩ながらも必ずや将来、帝国海軍にこの者ありと言われるような存在になってみせるという気持ちと決心に乗せられる様に、明石はさらに敷島へと顔を近づけて己の心中を熱弁した。


『はい! 私は工作艦だから神通や金剛さんみたいには戦えないけれど、軍医としてみんなを助ける事に関しては絶対に一流になってみせます! みんなが戦う艦なら、私は救う艦として!』


 もはや叫ぶにも等しい口調で語ったのは、工作艦である彼女なりに心に決めている自身の在り方。数ある帝国海軍艦艇の中にあって戦闘を第一としない特務艦、それも他の艦の修理補修に専念する工作艦という身の上を分身に持つ彼女は、これまでずっと第二艦隊に属して励んできた中で他の者達と同じように、戦闘海域で派手に艦砲や魚雷をぶっ放して華々しく戦うという姿や役割を得た事は無いし、彼女自身そうなりたいと考えた事も無い。甲板上に起重機が林立する見慣れた分身にはそれ相応の役目と目的が有るからで、大先輩の前で高らかに宣言した彼女の決意はまさにそこに源が有る。神通に那珂、霞や雪風、霰に始まる二水戦の駆逐艦の者達、利根(とね)飛龍(ひりゅう)といった同期の仲間も全て一端の戦闘艦艇という境遇は時に寂しくもあり、それこそ戦隊を組む同型艦すらも存在しない自分を恨めしく思った事も有ったが、今は仲間を助けるという自分にしかできない艦魂としての立ち位置に彼女は不満を抱いていない。硝煙香る前線の背後にて繰り広げる工作艦としての戦いに、明石は明石なりに使命感を激しく燃やしているのだ。




 だがしかし、今しがた放った明石のその一言こそ、ここにきて敷島の青い目に鋭い角度を急激に設けさせて行く事になる。


『助ける・・・。そして救う、か・・・。』


 明石の声を受けた後にやや視線を落としてぼそりと呟く様にそう言うと、敷島は表情をみるみる内に硬化させて瞳の澄んだ青色を淀んだ群青へと染めていく。それは笑みを消して真顔へと戻っただけで決して怒った訳ではない様であったが、先程までそこにあった好々爺ならぬ好々婆の如き雰囲気が急激に四散していく事をすぐに明石は感じ取る。何か今の自分の言った言葉に敷島が引っかかったのであろう事は明白で、甲板での初見以来、再度となるビビる気持ちを胸に忍ばせながら、椅子の上で流すように崩していた姿勢を戻す敷島に視線を釘付けにした。

 そして僅かの間押し黙った後、敷島はそれまでよりもずっとトーンを下げた声で、まじまじと見つめてくる明石に語りかけるのであった。


『・・・フン、明石よ。現実から目を逸らすんじゃない。』

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