第一三三話 「知らぬままでの演習終了」
神通率いる二水戦の面々と楽しい時間を過ごせた明石は、その日の夜になっても自身の分身へと帰る事は無く、柔道の武技教練見学に続いて神通と夕食を共にする事にした。
非常に機嫌が良い神通は自身の部屋で従兵の霰に夕食を準備させる傍ら、有明湾にて那珂より貰ったという芋焼酎の一升瓶を取り出してくれ、晩酌もかねてのご飯に明石は大いに喜んだ。
『う〜〜ん。結構喉にくるね。でも悪くないかもぉ。』
『年寄りくさい奴だな。私がお前くらいだった時は酒なぞ少しも旨いとは思わんかったがな。』
艦内から失敬してきた木製の小さなテーブルに夕飯の碗とお酒を注いだコップを並べ、士官室予備室より持ってきた椅子にテーブルを挟む形で正対して腰掛けた明石と神通。細身で長身な身体に白い第二種軍装を纏うという格好は同じでも、顔立ちや人柄の印象が正反対な二人は、お互いに遠慮の無い声を上げて箸を進めている。卓に並ぶは一般的な夕食で別にお刺身やステーキといった豪華な食事ではなかったが、お酒と共に友人と語らいながら食べるのは元来が食う事が大好きである明石にとってとても楽しい。その上、今日はお食事に際しての小さな補助が付いており、なんとも新鮮な感覚を抱く夕飯だった。
『霰、水。』
『あ、はい。明石さんも飲みはるどすか?』
『うん。お願〜い。』
神通の部屋のちょうど中央にて食卓を囲む明石と神通。そこからちょっと距離を置いた部屋の隅っこで水差しを片手に待機していた霰が駆け寄り、神通と明石のコップに水を注いで行く。
これは人間の乗組員においても士官室での毎回の食事の際に見られる給仕の役を彼女は仰せつかっているからで、艦魂社会での事とは言え上司の従兵さんとして励む傍ら、いつも霰はこうして食事のお世話役とされている。今日ももちろんその例には漏れず、烹炊所から食事や食器を運んでの準備も全て霰がこなしてくれた。その上で目上の者達の世話となれば、ちょっと意地悪な勤務を押し付けられているような感も覚えるかもしれないが、決してそれを命じた神通には悪気は無い。明石よりもまだ幼い十代後半の容姿に真っ白な水兵の軍装を身に着け、一生懸命に上官の身の回りのお世話に日々邁進しているその姿は、何を隠そう同じくらいの年頃だった頃に神通自身が体験してきた修練の日々と全く同じだからだ。
『ワレ、いつまで食うとんのや! はよ片づけて甲板に来んかい、このたわけが!』
ドスの利いた関西訛りでのそんな言葉と一緒に振り下ろされたげんこつが、今の霰を見ると神通の脳裏を過る。仲間内からは鬼と呼ばれる神通にしても、これ以上の鬼はこの世にいまいと思えた程の荒ぶる師、金剛の下に、散々に怒鳴られ、殴られて己を鍛えていた毎日は、もう10年以上も前のお話である。思い出すだけでも心底おっかなくなるが、本日に至れば今度は立場が逆転しているのだからおもしろい。
お酒も程よく回ってきたか、神通はそんな思い出と霰の姿に薄く微笑み、箸を持たぬ方の手で表情を隠すように顔にかざして前髪を撫でた。明石はすぐにその微笑に気付いてどうしたのかと尋ねるが、霰の前という体面もあって神通が真相を話す事は無い。私的な時間を費やして他人の世話に汗を掻く中、その修行にどのような意味が有るのかなどと悟るのは、自分の様に己の力のみで見つけねばならない事なんだと彼女は考えているからだ。
『なに、笑って? どうかした?』
『ふん。いや別に・・・。』
頬にご飯粒を付けて問う明石に目を流す事無く、神通は短い言葉で応える。対して明石は微笑の源を明かしてくれない友人に僅かに首を捻るも、それ以上はなんとも思わずに宙に浮いていた箸を再び皿へと運ぶ。三度の飯よりと形容される事もある嗜好において、その三度の飯こそが至上の幸福である明石にとっては当然の行動で、いつもおっかなそうな人柄の神通がご機嫌で何よりと思うと、より一層心置きなく箸が進むという物。今晩のおかずである焼き魚の切り身を口にして頬を癒しつつ、片手にしたコップを宙で左右に小さく振って注水を促し、霰により勝手に水差しからお水が注がれるという贅沢に笑みを深くする。
『えへへ〜! みず〜!』
『はい。どうぞぉ。』
いつもは魔法瓶に予め汲んでおいて手酌の要領で注ぐ飲料水だが、椅子から全く腰を上げず、重い魔法瓶を慎重に傾ける事もせずに飲める事は、帝国海軍士官たる者の特権というよりもなんだかどこぞのお姫様にもなった様な感覚を明石に抱かせてくれる。それ故かお酒と食事の合間に口にするただのお水が彼女にとってはとても美味しく、ほろ酔い加減も功を奏して心身共に実に癒される夕飯となっており、眼前の友人が微笑の真相を殆ど語ってくれなかった事もすぐに意識より除外してしまう明石。
その内に汁椀を口に添えて豆腐の味噌汁を流し込んで大きく息を吐くと、すぐにさっきまでのお話とは全く関係の無い話題を思いついて彼女は神通に尋ねる。
『ねえねえ、神通。出港って明日なんでしょ? もう演習の詳しい内容って聞いてるの?』
それは明石達の原隊である第二艦隊では所属全艦が母港へと戻っている中、こうして支那の沿岸の一角で過ごしている自分達の事を、もう少し深く知っておきたいという気持ちが湧かせた話題でもあった。
実の所、そも戦闘艦艇ではない分身を持つ明石は今回の演習参加について知っているのは日時区分程度での予定ぐらいであり、何の目的でどこでどの様な演習行動が行われるのかはよく解っていない。三都澳への航海途上ではずっとお勉強ばかりしてて乗組員らの立ち話なんかを聞いてはいなかったし、有明湾で神通が教えてくれた概要以外は情報がほぼ皆無な状態であったりする。ましてや工作艦たる彼女の分身が、その主砲をもって何隻にも及ぶ輸送船を護衛したりするというのは考えられない。しかし帝国海軍中最強を自負するという二水戦を率いる神通なら知っているだろうと思い、声を発したのだ。
それに対して元々が結構仕事真面目で、そこらの人間の海軍士官顔負けの軍事知識を大変豊富に備えている神通が声を詰まらせる筈はない。むしろあまり好きではない自身の心情を探られる事がこれで止むと思えればその口は極めて軽くなり、芋焼酎の注がれたコップを一口飲むや弓なりになりつつあった鋭い瞳をちょっと尖らせ、いつもの彼女らしい顔つきを作って明石に声を返してきた。
『うむ。出港は明日と言うより、今夜と言った方が正しいかもしれんな。今回は出発から実戦に即した形で行う予定なんだ。乗組みの兵下士官にもまだ知らされてない奴が結構居るくらいでな。お前が三都澳に到着する前に私の艦に乗ってる二水戦司令部の面々と陸さんの指揮官で打ち合わせはしておいてるんだが、まあ一部の幹部連中が承知してるくらいがちょうど良いだろう。実戦的な面でも秘匿行動訓練の面でもな。』
そこまで言うと神通は再び芋焼酎の入ったコップを口へと運び、『へぇ〜。』とこれまで知らなかった演習行動の細部を聞いて僅かな驚きを抱きつつも理解を得ている明石に、さらに語りを続けてくれた。
それによると数時間後の午前零時を期して第二水雷戦隊と陸軍徴傭船舶部隊は三都澳を出発し、航海中に海上での物資移送や接舷なんかの訓練を行いながら、最終的には九州西岸に進出して着上陸演習を実施するとの事である。船舶の往来が激しい上に完全な国外海域である支那沿岸を深夜に、それも大集団を組んで出るとはずいぶんと危険な側面も有るが、神通の言葉通り行動の秘匿にはうってつけにして乗組員の緊張感もより一層増す事の出来る演習環境となる。二水戦が護衛する陸軍の輸送船にも本物の陸軍の歩兵部隊が乗船しており、灯火管制、無電管制なんかも実施したりしながら演習地に向かう訳で、晴天の下に曳航標的目がけて主砲弾をぶっ放すのとはまた違った緊迫感が有るらしい。
加えて現地たる九州西岸では対抗部隊、もしくは演習支援の名目で陸軍の熊本第6師団、海軍では佐世保鎮守府隷下の陸戦隊や航空隊なんかも活動するそうで、先月辺りにはその打ち合わせの為に山本連合艦隊司令長官がわざわざ長門艦で佐世保に足を運んでいたそうで、その大がかりな様相は希に見る代物であった。
『随分と気合入れてるんだね。演習海域に向かうだけでもそんなに大がかりなんだ?』
『まだまだ。航海が終わっても安心はできんぞ。向こうに着いたら上陸支援に海域の巡回、機雷なんかの障害物の掃討。それから錨泊地で実際に停泊しながら、駆逐隊の奴らは泊地警戒にも就いてもらわねばならん。無通達での戦闘行動も計画されてるから、それこそ寝る間も油断はできんくらいになるだろうな。』
一応は第二艦隊に追随しながら艦隊訓練漬けの毎日を2年も過ごしてきたという明石でも驚くほどに、今回の演習は内容が濃い物の様だ。今夜の出発から現地への到着に至っても演習に終わりは無く、神通率いる二水戦だけを見ても話題に上がった演習における実施項目は軽く20を超えているくらいで、大所帯の艦隊を組みつつも行動計画はそれこそ分刻みでの予定が組まれているとの事。それを聞いた明石は目を丸くしてこの度の演習がいかに規模が大きく、そして真剣に行われようとしているかを改めて実感する。
だが、ここで明石の脳裏にはふとした疑問が過る。
『ねえねえ、神通。着上陸の演習、だよね・・・? でも支那でこれまでも何回か本物の上陸はしてるんじゃなかったっけ? 私がまだ艦隊に所属する前だけど、那珂とか五十鈴さんとかが担当してたんでしょ? 人間の人達だってその分経験も積んでるし、なんで今になって演習してるのかな?』
とても真剣にして陸海軍協力の下に行われるという今回の演習は確かに凄いと思うが、明石はそれを今時分にやろうとしている事その物への必要性に引っかかった。
なぜなら彼女の言葉にある通り、着上陸の実践は昭和12年より始まっている支那事変にて既に何度も行われていて、陸海軍共同での上陸作戦は何も初めてという訳ではなかったからだ。もちろんそこに伴う懸案こそ相応に有っただろうが上陸に失敗した事例は聞いた事が無いし、知人である者達にも経験者が居る事を考えると、例えその目で見た事は無くとも別に前代未聞の作戦行動とも思えない。それを何故にわざわざ艦隊訓練の終了を延長してまで行うのか、明石には皆目見当がつかなかった。
だがそんな明石の疑問は、どうやら神通にしても同じだったようだ。
一升瓶を抱えた霰に酒を注がせながら明石の声に耳を澄ましていた神通が、僅かにお酒を口に流した後に言う。
『ほう。お前もそう思うか・・・。』
ほろ酔いの中でもお仕事のお話が出た手前もあり、神通の表情は僅かに堅さを帯びる。新米艦魂の明石と違って経験豊富で、そも戦闘艦艇の命としても大変に頭脳明晰である彼女だから、普段より二水戦にて実施される訓練とか任務なんかには色々と独自の考えを這わせて、新米の部下らを鍛え上げる機会を作ろうと努力してたりするという一面を明石も知っているのだが、むしろそんな彼女が自分と同じ疑問を抱いている事にちょっと驚きを覚える。殊に軍事色が強い戦闘や作戦に関わる行動、知識に明石はこれまでに何度も助けてもらっているし、それほど意識はしていないが朝日を除くとこの神通こそ、普段より帝国海軍における多様な物事を明石に教えてくれる良き先生なのである。
だから明石はすぐに神通に対して意見を述べてくれる様に促し、神通もまたコップを片手にしつつそれに応えるのだった。
『およ、神通も同じ事考えてたの? 練度維持だから当たり前って言うのかと思ってた。』
『ん・・・。まあ確かに、その意味では別に変という訳じゃない。ただ私が気になったのは演習を行う地形なんだ。もともと陸軍では発足した明治の頃から支那の大陸で行動する事を念頭に置いてきてるようだから、それこそ河川域や港湾なんかでの着上陸とかは割と昔からやってるそうなんだが、今回みたいに海岸線に対しての上陸とは私もあまり聞いた事が無い。私以上に支那での作戦行動に参加してた那珂や姉貴からも聞いた事なんか無いが、ふうむ・・・。』
どうやら件の演習の対象地域が海岸線という事に神通の疑問は有るらしい。当然ながら一昨年より帝国海軍艦艇の端くれとなった明石は、今しがた神通が語った帝国陸軍の事なぞ全く解らないし、楽しみにしていた陸軍徴傭船舶の艦魂らとの挨拶も急なる行動予定で叶わない事になっているから、お船の世界における帝国陸軍独自の事情とかも残念ながら把握できていない状況にある。上陸という言葉自体、今の今まで明石は海岸と河川という地形の差異で実施の方法に違いが有るとは知らなかったくらいであった。
『ぬ〜、難しいんだなぁ。』
ついついそんな言葉が彼女の口から出てきてしまうのも無理はなかったが、予備知識が無い故に明石の思考は極めて単純な考察でもって、神通が首を捻る今回の演習地域と結びつきそうな場所をさっそく検索し始める。海岸線という物が含まれるなら当然そこは絶対に海に面している筈で、陸に囲まれた地域に対して行動する事を目的にしているとは誰しも考えない。きっと日本の様に海洋に囲まれた地勢下に行動する事を目的にしているのだろうとおぼろげながら思い、明石はとりあえず脳裏にふと浮かんだとある地域名を声に変えた。
『南洋・・・、じゃないかなぁ? 全然支那と離れてるけど。』
『う〜ん。しかし島嶼への上陸ともまた違うと思うぞ。今回の演習では対抗部隊にあちこちの飛行場から参加する形で航空隊が組み込まれているらしいし、なにより上陸する陸軍の部隊の規模が対島嶼行動にしては大き過ぎる。有明湾でも言ったと思うが、参加する陸軍の輸送船の数は10隻以上にも及ぶんだ。あちらさんはちょうど私達の停泊地点とは三都島を挟んで湾の反対側に今は居るから見えないがな。』
『そうなんだぁ。島とも違うのかあ。』
数少ない知識でもって打ち出した明石の予想は、豊富な知識を持つ神通の考えによってまたしても不正解とされた。ただ神通にしても自身の疑問に対する正解、すなわち今回の演習が実践される場所の特定はできず、お互いに首を捻るばかりの時間がこの後もしばらく続いてしまう。
次いで二人にとってせっかくの会食における唯一の心残りとなるのだが、結局は考えても解らないなと笑い合い、明石と神通は霰の給仕を受けての楽しい夕食を再開。数時間後に三都澳を発つという親友の事も考慮して深酒はしないようにし、夜8時を回る頃になって明石は親友の分身を後にした。
ちなみにこの夜、明石と神通がお互いに知識を絞って探ろうとした演習の実践場所が、支那でも南洋でもなくフィリピンであったという事を知るのは、昭和16年が残りあと一ヶ月を切るという頃であった。
翌、3月29日。
いつもはやや意識を取り戻すも再び睡魔に誘われていくという『総員起こし15分前』の号令で目覚めた明石は寝間着姿のまま布団から身を起こし、自室の舷窓より早朝の三都澳の波間を一望する。するとそこには昨夜まで一緒だった神通の分身を始めとする第二水雷戦隊の姿は無く、朱色がまだ少しだけ混じる空と波が湾の一面に広がるのみとなっており、話題に上がっていた通り就寝中に友人達が出発したであろう事を察する。
有明湾に続いてまたしても置いてけぼりを食った形であるが、別に彼女が今回の演習から仲間外れとされた訳ではない。昨夜聞いた所によるとこれも予定の範疇に入っており、彼女の分身たる明石艦は戦闘行動が終わりを迎える頃合いを見計らって現地へと進出する事が既に決定されているらしい。海軍側の海上部隊として今回の演習計画の細部を知る二水戦司令部の情報を神通が収集していてくれた事に感謝し、明石は極めて平静で湾の広さをやたらと意識するという舷窓の向こうの光景に小さく笑みを浮かべるのであった。
そしてそれから二日後の3月31日になると明石艦はようやく三沙湾から錨を上げ、一路九州西岸を目指して東北に針路を取る。この間来たばかりの道をまた戻る訳だからなんともつまらない旅路であったが、出港してしばらくした頃に明石は羅針艦橋付近の甲板にて、偶然にも数日前に分かれた友人らの現況を乗組員による立ち話という形で耳にした。
『おお。成功ですか、航海長。』
『うん。陸さん共々、今日の午前零時に上陸は成功したそうだ。夜間の着上陸なんて珍しいな。うちの艦はこのまま有明湾だそうだ。』
どうやら今回の演習の主である着上陸作戦は万事順調に事が運んだらしい。夕食を共にした時に神通は結構やる事が有るのだと明石に話していたが、そのどれもが大きな事故も無く無事に終えれた事を察して彼女は安堵し、同時に陸軍徴傭船舶の艦魂達も含めて一度も現地を見る事が出来ずに終わってしまった演習をちょっと残念に思った。
もちろん艦首と艦尾に備え付けた主砲を派手にぶっ放して上陸作戦中の海域を暴れ回ってやろうという気は微塵も無いものの、自分以外の参加船舶が全てその場にいるのだと思うとなんだか自分だけ仲間外れの状態に陥っているような感覚も覚えてしまい、工作艦という類別をされる身の上故に毎度の事でありながらも小さな寂しさを胸に抱く。
さらにおまけが付いて三都澳を軍艦旗の向こうに望んで出発した明石艦が赴く地は、なんとなんと10数日前にも在泊していた有明湾となっている事を彼女はその場で知る事になり、極めて珍しい陸海軍合同の演習参加だと張り切る気持ちも強かった反動でなんともつまらないという思いを強くしてしまうのだった。
ただ、未だ航海の途上にある翌日。
そんな明石の機嫌は朝に目覚めた時より極めて上昇の傾斜を強くしていた。舷窓から差し込む陽光がフラフラと揺れる部屋の中、布団から飛び起きるや彼女は着替えもせずに一目散で部屋の一角へと走り、そこにかけてあった日めくりカレンダーを目にしてその日最初の笑みを浮かべる。
『えへへ〜。3月はこれでおしまいー!』
寝ぼけ眼こそ無いが起きたばかりの明石の格好はだらしなく、丈が短めな着物状の寝間着はよれよれで片方の肩がはだけ、頬にはくっきりと枕カバーの跡が残っている。普段は首の後ろで一本に束ねている髪も今は四方八方に向かって跳ね上がり、師からの教えである「一流の淑女」という言葉がその姿には微塵も備わっていなかった。
しかし本日只今の彼女にとっては、はっきり言ってそんな事はどうでも良い。やけに明るさが伴う表情でおもむろに伸ばしたその指先は、まさに眼前の日めくりカレンダーの在り方そのままに来る日も来る日も今日という日の分をめくるのを楽しみにしてきたからだ。
『それ! うっし、4がーつ!』
やがて勢いよく彼女は昨日の日付のままであった紙面を破り取り、再び1へと戻ったカレンダーを見て大喜びし始める。続いて身だしなみを全く直さない内に破ったカレンダーを手早く折って紙飛行機をこさえ、小さな自室の事なんか考えもせずに思いっきり紙飛行機を頭上に投げてみせるという大はしゃぎぶりを発揮。今日という日の朝、もっと詳しく言えば昭和16年4月1日を今こうして迎えた事に、最近では珍しいとも形容できる程に明石は気分を良くしていた。
もちろん非常に寒がりにして陽光温まる環境をこよなく愛する中、厳しい寒さが際立つ冬に代わって春の代名詞的な月である4月を迎えれた、という事のみではさすがに明石もここまで喜んだりはしない。
両手を頭上に伸ばしてステップを踏み、その内にまだ温もりが残るベッドへと大の字になりながら、緩い角度で降下してくる紙飛行機を目に映す明石。木の葉の様に長く宙を漂って舞い降りたりはしない紙飛行機はものの数秒で明石の視界から消え失せたが、そんなあっという間の紙飛行機の飛行は一年近くこの日を待って過ごしてきた彼女の姿を具現化したような物である。
かつての相方、忠。
人間と艦魂という、常に身近に居ながらもその存在の察知が一方通行な在り方が常とされる中、どういう巡り合わせか出会えた彼が明石の下を去ったのは、ちょうど一年前の4月。その時期と、共に有った桜舞い散る有明湾を明石は今でもハッキリと覚えている。その際に言いたい事も言えずに大喧嘩して別れ、とめどなく舞い散る桜の花びらの影に隠れるようにして泣いた事もだ。
ただ一言、行くなと言えば良かった。
そんな言葉を脳裏でつぶやきながら激しく後悔の荒波に飲まれて、友人らの慰めを得ても立ち直るのに一苦労だった明石。この一年余りの間、お勉強だ修行だと己を奮起させて頑張ってきた日々においても常にその言葉は共に有り、むしろ自身の未熟ぶりを是正する事こそが解決の道なんだとひたすら信じて今日まで来た。
砲術学校とそれに続く水雷学校での一年に及ぶ研鑽の日々を終えて、なりたての新米士官から若手ながらも一端の帝国海軍士官として帰ってくるであろう忠。そしてその隣に居る者として、女性としても艦魂としても相応しい存在になろうと駆け抜けた彼女の一年は、この4月に忠が戻ってくる時期という結末で終焉を迎える予定であるのだった。
しばしその事を考えて黙ってベッドに大の字となっていた明石だが、やがて彼女は瞳を僅かに尖らせて上半身を起こし、迫りくる待ち望んだ再会へと向けた意気込みで気持ちを新たにする。
『・・・あと少し。でも逆に言えばあと少ししか無いんだ。気合入れなきゃ!』
まだ日にちまでは解らないものの、今日より始まるおよそ30日間の日のいずれかが相方の戻ってくる時。その際に見せねばと日々願ってきた自身の姿により一層の磨きをかけんとし、声を高らかに明石は朝から覇気を漲らせる。
全ては一年待ったその日の為。
そんな言葉で示される道のりの最後の駆け足をこの日より彼女は強く意識し、期待感と若干の緊張とが入り混じった心で己の修行、そして今現在帯びている九州西側沿岸を舞台とした陸海軍共同演習の任へと臨むのだった。
明けて4月2日。
今日も気高く九州南部にそびえる雲仙岳を左舷に眺めつつ、明石艦は未だ桜の花も残る有明湾へと再び戻ってきた。第一艦隊、および第二艦隊の各艦は勿論その場にはおらず、艦隊訓練中の数十隻にも及ぶ艦艇群の停泊する様が嘘の様に思えるほどの静寂が湾一帯に漂い、春一番の漁に勤しんでいるのであろう近隣の漁船の姿がなんだかあちこちに目立つ。軍港でこそないものの帝国海軍連合艦隊において最重要作業地たる体面を持つにあっては、なんとものんびりとした風景が広がっていた。
もっとも明石艦はお休みの為にここに回航された訳ではなく、多くの乗組員らが噂していた休暇話はその日の午後には早くもご破算となる。なぜなら今現在は九州北岸の博多湾で行動中の二水戦旗艦より明石艦に無電が打たれてきたからで、それは演習も佳境に入った故に博多湾へと移動せよという内容であった。
『なんだよ。一泊して終わりかよぉ。』
『上陸できると楽しみにしてたんだけどな。命令だからしょうがねえけど。』
『花見行って酒でも飲みたかったな。まだ演習とやらは続くのか?』
『博多湾行きゃ解んじゃねえか? 二水戦の連中もいるみたいだしさ。』
決して上甲板にて大声でそんな会話がされる事は無かったが、一日を終えて居住区へと戻った兵下士官の者達の多くからはやっぱり不満の声が上がる。
今回の演習に限った話ではないが、そも士官と違って兵下士官らは艦隊どころか自身が乗組む艦自体の事でも意外に情報が耳にできない境遇に有り、大海原を乗組んだ艦が進んでいく中にあって一体何の目的でどこへ向かっているのかを知らない者というのは、実はその8割近くにも及んでいたりする。言うまでもなく帝国海軍艦艇の行動計画は一般的には国家の最高軍事機密であり、上は大元帥から下は四等水兵まで居るという組織の人員構成の中、各々の職務を遂行するのに際してその全てが同じ情報を得れる訳がない。それは防諜の面でも要不要の点でも至極当たり前の事で、明石艦乗組員という組織にあっては艦の運行の詳細を把握しているのは、ほぼ特務艦長さんと各科の科長格である数人の士官達のみであるのだ。
おかげで意外に情報弱者である兵下士官らは、艦が赴いた先でその目で見た光景から色々と艦の運行を推察するより他無く、自分の乗組んでいる艦がどこに向かうとか、どこの海域を通っていく等という情報を得るのは、正式な通達がされない場合は往々にして艦内の噂話がその発端であった。本日の有明湾での仮泊もわずか一日で終わると知ったのは明朝出港を通達された夕食後の事で、明日以降の上陸に期待していた彼等の落胆はそこそこ大きい。
明石も同じくのんびり有明湾の桜を愛でる機会が得られなかった事はちょっと残念だったが、翌朝になってわざわざ博多湾よりお迎えが来た事で名残惜しさを瞬時に捨てた。
なんと博多湾在泊中の二水戦より分派された第8駆逐隊が、早朝明石艦の真横へと姿を現していたのである。
『おはようございます、明石さん! 演習行動の一環で護衛を命じられまして、大潮以下、第8駆逐隊が博多湾までご案内させて頂きます!』
第二水雷戦隊では最も年長な者達で構成される8駆は司令駆逐艦の大潮も含めて明石より僅かに年上の者達ばかりで、16名を数える神通の部下の中でも最も経験豊富にして大人の落ち着きを持つ。霞や雪風なんかの様にひがな一日中大騒ぎを起こす所はないし、神通からのお仕置きを彼女達が食らっている場面も明石はほとんど見た事が無い。上司や一部の人間達から響きはいささか悪いものの「ボロハチ」という敬称で呼ばれる事も有る点も含め、彼女達はある意味では最も信頼できる二水戦メンバーでもある。
『護衛かぁ。うん、願いま〜す。』
年上ながらも階級は水兵さんである大潮らの前であるから、さしもに有明湾でゆっくりしたかった等という己の願望を口にする訳にはいかない明石。交える敬礼もキチンと整えて挨拶を行い、8駆の4隻に前方と後方を守られながらの航海を始めた。
その航路は有明湾を出て九州南岸から西岸を通り、北岸へと回り込む形である。気の良い大潮らは護衛の最中、明石の所にやってきては明石の知らないこれまでの演習の経過や二水戦の近況を話してくれ、道中ちょうど通りかかった折にはこの海岸が上陸地点だったとか、あの海域を自分達が警備哨戒してた、といった事なんかも教えてくれた。実際の上陸行動の際の光景こそ目にする事は叶わなかったが、おかげで上陸の模様を詳しく知る事ができた明石は興味津々で、艦魂としての階級の差なんか全く気にせず多くの質問を大潮らに投げかけてより理解を深い物とするのだった。
次いで4月4日。
8駆のエスコートを受けて明石艦は九州北岸の博多湾へとようやく到着した。
ところが博多湾の仮泊場所へと微速で進む中、明石艦の羅針艦橋には再び二水戦司令部よりの無電が飛び込んだ。博多湾の風景に見知った友人の艦影が無い事を不思議に思っていた明石はちょうどそんな時に羅針艦橋の見張所にいて、通信室の伝令から特務艦長へと報告される無電の内容を耳にする事となる。
それによると今回の演習はほぼ全ての工程が終了と相成ったようで、海軍部隊、及び陸軍部隊の殆どは演習の総括をすべく近隣の佐世保鎮守府へと集合となっているらしい。その為に海軍側の指揮官を擁している二水戦本隊は本日既に佐鎮へ移動している事を明石は知るのだが、それに対して残念だとか悲しいとか思う前に、無電で伝えられたもう一つの報せで明石はビックリしてしまう。
『え? 撃沈? うそ、ウチの艦?』
『ああ、演習の最後の段階での任務だ。まあ判定の上での撃沈だけど、乗組んでる艦が撃沈て言われるとは、なんだかゾっとしないねえ。』
『げ、げきち〜ん・・・!』
羅針艦橋に集う特務艦長を始めとしたお偉方がそう会話をする脇で、自身の分身が非常に聞こえが悪い状態とされた事に明石は相応の衝撃を覚えている。誰しも『お前は殺された。』と言われて行動せよと命じられたら良い気分ではいられないし、冗談ではなく大真面目にそんな状態で行動せねばならない事に大きく面食らうのは艦魂も人間も無く当たり前である。
ましてや彼女は人間ではなくお船の命であるから、「撃沈」の二文字に乗組員以上に暗い意識、意味を抱いてしまうのは尚更だ。
『こ、ここまで頑張ってきたのにぃ〜・・・。撃沈判定なんてヒドイ〜・・・。』
ついつい悲しげな声を上げて明石はその場にへたりこんでしまう。
終始一貫して置いてけぼりばっかりを予定され、ようやく実地に着いたと思いきやこの仕打ち。
今にも泣きそうな顔で視線を落としつつ、そんな事を考えると大きな落胆に彼女の心は染まっていく。振り返ってみれば演習中に特に工作艦としての大きな任務を仰せつかった事は無かったし、三都澳で二水戦が合同したという陸軍の徴傭船舶部隊の艦魂らとは未だに顔も合わせぬままである。その末にろくな戦闘教練も実施していないのに突如撃沈を想定されるとなれば、別に自分が今回の演習に参加しようがしまいが実はどうでもよかったのではないかと思えてならない。
悔しいような悲しいような気持ちとやりきれなさがしばしの間彼女を支配し、やがて元気無く明石は立ち上がって羅針艦橋を後にした。そしてそのまま自身の部屋へと戻ってしばらくイジけてしまうのだが、おかげで彼女は自身の分身がこの後すぐに博多湾を出発する事、そして演習最後の行動と銘打たれた回航の地が佐世保である事を、翌日まで耳にする事が出来ないままとなってしまった。
故に翌、4月5日の朝。
上甲板へと上がって佐世保軍港の風景を目にした明石は大変な驚きと、この地に持つ彼女なりの大きな関心によって、前日の撃沈判定による小さな傷心を嘘の様にケロっと忘れてしまう事になる。
なぜならこの佐世保軍港。
これまで幾度となくビビりながらも会ってみたいと彼女が願っていた師の実の姉が居る場所にして、明石のまごうことなき生まれ故郷である佐世保海軍工廠を抱える地であるからだった。