第一三二話 「友に見る例」
昭和16年3月24日。
年末より続いてきた艦隊訓練はこの日を持って正式に終了となり、桜舞い散る有明湾にて第一、及び第二艦隊の各艦はそれぞれの本籍地である母港へ向かって帰る事となった。以降は乗組みの海軍軍人にとってもお船の命にとってもしばらくぶりに得る休養にも等しい日程となり、母港へと帰った後は垢落としよろしく念入りな整備補修とお掃除を各艦は実施する事になる。故に一時の仲間との別れを代償とするにしてもお釣りが来るぐらいの感覚を艦魂達は一様に覚えていて、各々が勇む足取りで母港への航海へと赴いていく。
さながら存分に花見を楽しんで解散する団体の如く、極めて明るい雰囲気での別れの光景が辺りには広がっていた。
しかしそんな中、続々と錨を揚げて有明湾の桜色を後にして行く多くの艦に反し、喫水線の付近に波紋すらも発せずに静かに錨を下ろしたままの艦もそこにはいた。
その数は10数隻に登り、大同小異の形を持つ小さめな艦艇が殆どを占めている。全て一様に艦首の両乾舷にそれぞれが属する部隊のナンバーを白抜きで描き、艦中央の横腹にはカタカナで艦の名まで記されているという在り方は、栄えある帝国海軍艦艇の中でも水雷戦力の主力と位置づけられている駆逐艦の物。同じ駆逐隊を組む艦同士で列を成し、舳先も砲塔の繋止位置も揃えて停泊する様子は、「規律」とか「統率」といった言葉を見る者にすぐに連想させてしまう程の見事な物である。陸地にて舞い散る桜の花びらも時折潮風に乗って流れてきて、勇ましい中にも垣間見える鮮やかな姿をより一層飾ってくれる。
そしてそんな駆逐艦らの列に囲まれるようにして、駆逐艦よりもずっと大型の艦艇が二隻そこには居た。大型と言っても全長100メートルの駆逐艦に比べればのお話で、つい先頃までここ有明湾に停泊していた第一艦隊の戦艦にくらべればずっと小さく、海軍艦艇としては巡洋艦が主とされるいわゆる中型艦艇である。もっともその二艦が持つ4本煙突、そして甲板上に林立するいくつもの起重機が作り出すシルエットは戦艦や空母よりもずっと目立ち、なまじ殆ど艦影が変わらない駆逐艦の群れに囲まれている中でなら尚の事であった。
もちろんそれは、帝国海軍中最強の部隊を乗組員、艦の命の双方で自負する第二水雷戦隊の旗艦である神通艦、そして帝国海軍最新鋭工作艦である明石艦の姿だ。
仲間達に残される形で有明湾に未だ錨を下したままだが、各艦の艦上では明日の出港準備に備えて大忙しで、陸軍の部隊と共同での演習という大変に珍しい任務を控えてその準備作業は色々と忙しい。特に陸軍の徴傭船舶部隊を護衛し、その後には上陸行動の支援もせねばならない二水戦の艦艇は多忙を極め、訓練用の弾薬とか信号関連の資材の整理に乗組員達は一様に汗を輝かせている。しかも予定では海上での横付けとか曳航、給油、物資移送の訓練も行うらしく、各艦の艦長さんどころか旗艦座乗の二水戦司令官らも訓練計画の見直しやらなんやらでキリキリ舞の状態。つい昨日まで続いていた花見ばかりの日々が嘘の様な様子となっていた。
次いで翌日の3月25日。
神通艦を筆頭に第二水雷戦隊の駆逐艦群と明石艦はいよいよ有明湾から抜錨。九州西岸を右舷の向こうに望んで西北に針路をとり、陸軍部隊との合流地点である支那沿岸、揚子江河口付近へと航海を始めた。
その一方、明石艦の命である明石は仲良しの多い二水戦の面々と一緒に任務に就ける事に楽しみを覚えていたのだが、特務艦艇でのんびりとした速力しか出せない明石艦と一級の戦闘艦艇たる二水戦の艦艇達との根本的な違いが早くもその楽しみを砕く。
搭載する機関の出力を全力発揮して明石艦は19ノット程度の速力が出せるのだが、神通艦然り隷下の駆逐艦群然り、共に敵弾が乱れ来る海域を軽快に突っ切って魚雷をぶっ放し、その後の離脱もこれまた敵の追撃を振り切る事を念頭に建造された二水戦の艦は、全艦が30ノット以上の超高速で走り回れる能力を秘めた艦艇ばかりである。それ故に例えば日本のお船の業界で用いる原速の速力区分であっても、民間船や明石艦を含めた大型艦艇と同じ12ノットよりもさらに速い速力が水雷戦隊には適用されていて、『両舷前進原速。』の指示のみで一緒に航行すると二水戦を含む水雷戦隊の各艦は次第に他の船を背後にして前へと出て行ってしまうのである。加えて運悪く今回の訓練での行動予定では二水戦のみが先行する形で合流地点に向かう事が既に決められていたので、出港早々に明石はまたしても単独での航海をする事になってしまったのだった。
だが別に合流地点に先に向かう程度で、何もまたしばしの間一人ぼっちで任務に当たる訳ではないし、旅路だって僅かに3日ほどでしかない。3月も暮れに入って九州西南の海は心地良い暖かさをより一層増しているし、少し前に救助潜水艦を護衛しながら通過した際の如き大嵐も気象予報には無い事から、明石は全く寂しさなんか意識せずにのんびりとした航海を悠々と楽しむ事にした。
有明湾の桜色を遥かに艦尾に望む頃。
艦内から持ち出した折り畳みの椅子を晴天の陽光によって暖められた上甲板に広げ、緩い潮風に首の後ろで一本に結った髪を靡かせながら、明石はさっそく英語のノートを開いて上機嫌でのお勉強を始めている。
『りっぷる・・・、りっぷる・・・? あ、さざ波だったよね。・・・お。えへへ〜、当たりぃ。次は、え〜と、ぼるてっくす〜・・・。』
英語のお勉強では基礎中の基礎である単語の読み合わせは、暇が有れば取り組んでいる彼女なりの努力。師匠や長門なんかに指摘された発音は相変わらずの酷さであるが、その前に覚えねばならない事は沢山有る。まずは単語を一つ一つ覚えて行けば良いと先日長門よりアドバイスしてもらった事も手伝い、初歩の初歩を丁寧に学ぼうという姿勢に考えを改めた明石。元来が頑張り屋な所も功を奏し、快晴の穏やかな天気の下で存分にお勉強に打ち込みながらの航海に浸るのだった。
そして3月28日。
明石艦は揚子江河口南部の三沙湾にある三都澳へと到着した。
4分の3程を陸に囲まれた円状の三沙湾は、湾のど真ん中に島がぷっかりと浮かんでいる事もあって波は極めて静かな所で、水深も相応に深い辺りは針生島を抱える佐世保湾と特徴が似ている。そんな湾の中にあってそれなりの規模の港湾とそれに付随する市街地を形成しているのが、湾の中心に浮かぶ島にて海岸線の一角に位置している三都澳であった。排水量1万トンの明石艦でも悠々と錨を降ろせる周囲の海域は絶好の泊地で、桟橋に群がる商船もかなりの数に上る。遥かに続く支那沿岸の大海原に点在するオアシスと言った所か、桟橋とそこから繋がる市街地には商船の船員さんらしき身なりの人々による往来も見て取れた。
もっとも決して物見遊山に来た訳でない明石艦に、桟橋へ接岸する機会は無い。ただでさえ多い羽を伸ばしている商船の邪魔にならぬ様に微速前進でヨタヨタと三沙湾を駆けて行き、三都澳の港湾をやや遠めに眺める事ができる湾の一角へと移動して錨を降ろす。一端の帝国海軍艦艇であるから防諜の観点でも商船がひしめく所においそれとは混じれないからだが、三沙湾の萌ゆる緑に囲まれて明石艦の軍艦旗はただ一旒ではなかった。
そこには先に到着していた第二水雷戦隊の姿が有ったのだ。
『お。いたいたぁ〜。』
『む? おお、明石か。今着いたのか。』
ようやく合流を果たしてすぐさま神通艦の甲板へとやってきた明石は、いつもの様に甲板上で部下に当たる駆逐艦の艦魂達をシゴいている神通を見つけた。
細身で長身な身体の肩に竹刀を乗せ、毛先も不揃いな長い前髪を揺らして振り向いてくるその表情は、これまたいつもの如く鋭利な目つきと緩くしかめた眉のおかげでどこか不機嫌そう。ちょっとでも機嫌を損ねる衝撃があったなら今にも爆発しそうな雰囲気を漂わせていて、その正面にて敷いたマットの上で柔道の武技教練に励む少女達が極めて緊張した面持ちを浮かべているのも理解できる代物である。あの超が付くほどにヘソ曲りな雪風ですら二言返事で従わせる程の圧倒的な格という物が、帝国海軍艦魂社会随一の嫌われ者である神通には今日もまた見て取れた。
だがそんな神通こそが、気心知れる大の仲良しである明石。
とにかく短気で粗暴な性格には困る事もしばしばであるが、かれこれ2年近い友達付き合いによる賜物として、本日の神通の機嫌が実は極めて良い事を会って数秒にも関わらず彼女は察知する。常たる強面に反して高めの音域で奏でられる神通の声には相当に落ち着きが有るし、大体がこの人は機嫌の悪さを押し殺すような人物じゃないのは周知の事。への字気味に結ばれた唇もどこか端は緩む横顔を明石からすぐさま戻す神通に、一体どの様な嬉しさを誘発する事象が訪れているのかと、明石は神通の傍へと歩を進めながら彼女の視線を追ってみる。
するとそこには柔道着を身に着けた多くの部下らがマットを囲んで声援を送り、その渦中にて小さな身体を武器に激闘を繰り広げているいつもの二人の姿が有った。
『ふんが! くぬやろ!』
『てえい! おりゃあ!』
女性ながらも大柄である明石と神通とは大違いの140センチ台の細く小さい身体つきは同じでも、片や大きな釣り目に波打ったくせ毛を乱して相手の袖や襟を強引に引き、片や首も隠れない程の短い黒髪に陽に焼けた様な麻色の肌に汗を散らせて相手の手の動きに応酬しているという二人の少女は、16人を数える中にあって神通が最も目をかけている部下である雪風と霞。まだまだ10代半ばか後半にしか収まらない容姿の上での年齢は艦魂としては若輩者である証だが、両者共にその勉学、運動の実力は相当の物で、記憶に新しい呉鎮守府籍最強の駆逐艦という称号を賭けた柔道大会で優勝したのは、その片方にあたる雪風でもある。
反抗期なる言葉をそのまま人物としたような彼女の性格にはほとほと手を焼いているが、上司たる神通の教えをしっかり授かって戦う姿には一生懸命さと同時に近頃は勇ましさも随分と意識できるようになってきた。加えて顔立ちや幼い頃の自分の性格とよく似た事も手伝って、神通は単なる部下の懸命な姿以上の物を覚えながら眼前の光景としている。
もっとも、神通は決して意識の上での贔屓を雪風には覚えていない。なぜならその相手として戦う霞はあの柔道大会にて他ならぬ上司の為と意を決し、患部が紫色に変色する程の捻挫を我慢して戦ってくれたという、大変に健気な心を自身に対して傾けてくれている部下だからだ。
『お〜〜、霞と雪風ぇ。二人が真面目に試合してるなんて珍しい〜。』
『ふん。こうでなくてはいかん。』
決して言葉には出さないが一番可愛がっているに違いないであろう二人の試合を目にし、明石はそんな印象を声にしながら神通の隠された嬉しさの原因を突き止める。その証拠に横目にチラッと見てみた神通の横顔はほのかに笑みが浮かんでおり、相変わらずの短い口癖と愛想の薄い応答にそぐわない表情は、彼女にしても眼前での二人の試合がこれ以上なく面白いと捉えている事を疑わせなかった。
それに雪風と霞は普段から非常に仲が悪く、これまでも神通の下で励む中、何度か武技教練の延長でこうして試合をする機会は有ったのだが、神通によるそれぞれの呼称も含んで文字通りの犬猿の仲である事から、いつも最後は柔道の試合という形を逸脱した殴る蹴るの大乱闘に発展してしまう。その度に怖い怖い神通のげんこつを叩き落されて没収試合となるのが常であった。
ところが今日は双方共に至って真面目に、そして極めて高い集中力をお互いが発揮して勝負に臨んでおり、この二人が場を同じくすると付き物の互いへの罵倒の言葉は一句たりとも放たれていない。とにかく眼前の敵を倒す事に全精力を注ぎ込んでいるらしく、神通や明石の視線は元より、周囲の仲間や姉妹によって交わされる下馬評なぞちっとも耳には入っていない様だ。
『おおお、良い勝負。でも雪風姉さんが押してるぞ。』
『霞姉さんかてホンマは強いで。もう怪我も治ってはるし、どっちが勝つかはまだ解らなんやないか。なあ、朝潮姉さんもそう思うやろ?』
『ん〜〜。しっかしなあ、霰。あれでも雪風は呉最強なんだろ? 寝技に持ち込んでも強いから、試合としては雪風が一つ上なんじゃないか?』
雪風と霞が戦うマットの周囲では、雪風有利の予想が割合多く出ている。呉における大会優勝という実績の点、次いで柔道の腕前で勘定すると寝技においてアドバンテージを持つ事もあって、霞とは実の姉妹である者達もどうやらその予想を同一としているらしい。無論、そんな雪風の優勝を実際に目にしていた明石も薄々はそう思っているのだが、神通をして雪風と同等なくらいに大変に目をかけている霞は、そんな予想を完全に覆せるほどの実力を秘めている。事実、神通だけはその事に気づいており、極めて希薄な笑みの下に僅かな期待を抱いて試合の様子を窺っていた。
そして神通の脳裏にぼんやりと浮かんでいた霞に対する一縷の期待は、明石がやってきて5分もしない内にその場で具現化する事になる。持ち前の強靭な足腰と胸の前の辺りでの手捌きを生かして雪風が霞を背負った瞬間が、まさにそれだった。
『ふんがーー!』
『ぐお!?』
『あーー! 一本背負い!』
『上手い! 片膝をつけての背負いだ!』
それまで取っ組み合いをするかしないかの攻防を続けていた中、袖をとった拍子にやや強引な形で雪風は霞の身体を背負う形となり、肩の上を通した霞の右腕を両腕で掴んで前に投げ下ろそうとする。声援にあった一本背負いという技を雪風が仕掛けたのである。お互いに小柄な体躯に伴って相手は軽量であるから、パワータイプとも類別できる雪風はいとも簡単に霞の身体を浮き上がらせ、その姿はまるで大きな大根を地中から一気に引っこ抜く様。霞の両足はマットから瞬時に離されてしまい、後は重力と雪風により与えられる慣性によってマットに落ちるだけの様相となった。
ところが猿というあだ名を師匠とこの雪風より日夜用いられている霞は、そんなあだ名に違わぬ持ち前の空中感覚と軽い身のこなしをここで発動。咄嗟に袖から出る右手の手首を返して雪風の袖を掴み返し、雪風と自分に働く慣性において支点となる部分を僅かにずらす。すると霞の身体は先に倒れようとする雪風よりも速く前方へと流れ、その瞬間に左腕を下方へ延ばす事で霞の身体はまるで空中にて逆立ちするような格好となる。1秒にも満たない時間で体勢を変化させるのに誰もが驚きの表情を作る間も無かったものの、普段から砲塔のてっぺんより側宙で飛び降りたり、その場でバク転をしてみせたりする霞にあってはこの僅かな瞬間だけで十分である。迫りくるマットに向かって麻色の肌で埋まる左手を伸ばしてあてがうや、なんと霞は左腕一本をこれまた支えにして身体を捻りながらの側転をかまし、再び両足をマットにつけて見せたのだった。
『とおりゃー!』
『んだとっ・・・!? ぐっへえ!』
全く気付かぬ内に体勢を変えた事に雪風は目を見開いたが、次の瞬間顔を打ち付ける様な姿でマットの上に倒れてしまう。袖の取り合いでは拮抗する中で千載一遇のチャンスと渾身の力で投げ飛ばそうとしたのでその衝撃は大きく、傍から見ると派手な自爆とも言える格好である。加えて落ちた拍子に袖を離してしまい、痛さを堪えながら素早く立ち上がるも、またしても立ち合いでの袖の取り合い状態へと戻ってしまっていた。
『はあ、はあ・・・! ち、ちっくしょー!』
『ぜはあ、ぜはあ・・・! な、なめんなよ・・・!』
人柄の特徴、身体能力の特徴、柔道の特徴。そのどれもが相反するかの如く違う間柄にあって、一歩有利な筈なのに霞相手に中々勝ちを得れない事に悔しさを覚え、喰いしばった歯を覗かせながら声を上げる雪風。対して霞もいつぞやの柔道大会の様に負ける等とは微塵も思っていない様で、雪風の悔しがる表情に不満を混ぜた抗う気持ちを抱いて声を返した。
しかし今しがた見せた両者の攻防、特に霞の極めて軽快にしてダイナミック、アクロバティックな動作によって神通艦の艦尾甲板にはどよめきが起こっており、明石も見開いた目と開いたままの口でもって驚愕の顔を浮かべている。まるで日がな一日中外で運動しているのかと思わせるような麻色の肌に似合い、極めて身軽で運動神経の良い霞の事は知ってこそいたが、柔道の試合にてこのような体操選手の如き動きを瞬時に繰り出すとは予想外。仰天した顔を霞に向けたまま、思わず彼女はすぐ隣に立つ神通の袖を引っ張って霞の凄さを口に出す。
『み、見た!? 神通、今の見た!? か、霞ってあんな事もできるの!?』
『うむ。あいつは跳躍力やバランス感覚が飛び抜けていてな。助走も無しにその場で自分の肩の高さまで飛び上がれるんだぞ、猿は。』
次第に笑みの具合が深くなってきた横顔で、神通は明石が聞こうとする霞の身体能力の凄さを教えてくれた。体操選手顔負けの運動能力を持つ霞は普段からその柔軟にして強力な脚力を駆使した成績を残しているそうで、基礎体力訓練と私立神通学校で位置づけられているマストのステップ登りではいつも一位。風に飛ばされて高所に引っかかった軍帽や紙切れをロープも使わずに三角跳びの要領で回収して来たり、甲板を走ってる最中に不意に作業中の乗組員が棒状の物を進路に横たえても、前転や宙返りでいとも簡単にかわしてみせたり等、まあその猿ぶりは人並み以上の代物らしい。
『犬が強靭な足腰や腕力といったパワーで勝るなら、猿はさしずめ素早さや身のこなしといったスピードと柔軟性で勝負するタイプだ。まさに剛と柔と言った所か。負けん気と粘り強さはどっこいなんだがなぁ。』
後頭部を掻きながら神通はそう言った。
お互いに協力すれば剛と柔を備えた素晴らしい連携を発揮できるであろうと考えたのか、今にも笑い声が聞こえてきそうな緩んだその口元に、明石もつられて微笑を浮かべる。残念ながら極めて仲の悪い二人であるからそれは叶わないお話で、神通もその実現が目の前で見れるとはさすがに考えていない。明石はそれを察して小さく溜息をつきながら眼前の二人にささやかな苦言を漏らした。
『あ〜あ。もうちょっと仲が良ければ良いのにね、二人とも。』
お互いに協力し合えば上司や仲間達をどれほどまでに唸らせる事ができようかと、その声には相応の残念さも込められる。これまでも何度か見てきた霞と雪風の仲の悪さは勿論だが、意外に行動する際は何故か一緒になる事が多いし、整列の号令を受けて並んだりすると大抵この二人は隣同士になり、案外と紙一重の差で犬猿の仲となっているようにも思えた。
ところがその時、いつもの短い口癖に続いて部下の幼稚さ、未熟さをなじるかと明石が思っていた神通からは、なんとも予想外な言葉が放たれてきた。
『・・・時々な、アイツらが羨ましくなる時が有る。』
『え?』
明石は驚いて再び神通の横顔を覗く。幾度となく両者をげんこつと怒号で叱りつけ、皮が剥けるほどに竹刀で尻をぶっ叩いたりしてきた事の張本人である彼女に、霞や雪風に対する憧れが有るとは明石にしても初めて耳にした内容。鬼と呼ばれて平素よりアチコチから恐れられている人柄と気性に火をつけ、烈火の如き憤怒を爆発させる形こそ、明石がこれまで見てきた神通における霞と雪風への接し方では最も多いパターンである。まさかその裏で羨む意識が有るとは夢にも思わず、明石はやや顔を近づけて友人の横顔にその真意を求めた。
対して神通は極めて希少な柔らかい笑みで、未だ続く眼前の試合を静かに見守っている。一進一退の攻防は続いていてマットの周囲に居る他の部下達の声援も益々大きくなってくる中、まるで一人蚊帳の外にいる事を望む様に黙って微笑むばかりだった。
その内に彼女は僅かに視線を明石の方へと流すやすぐに正面へと戻す。無言のままでまじまじと見つめてくる明石を認めて口を結んだのか、少しだけその笑みは浅くなってしまったが、決して明石を邪険に思っている訳ではない神通。しばらくしてからそれまでよりも小さな声で、友人が欲する今しがたの自身の言葉の意味を語り始めた。
『私は・・・、ああやって実力を存分に競い合えるだけの奴を持った事が無い。物心ついた時からへそ曲りだったし、あの事件に遭ってからは親方の下で鍛えられる毎日だ。尊敬する先輩や月日の流れによって後輩は持てても、あんな対抗意識をむき出しにして競える奴を得るだけの考えも余裕も無かった。別に恨んだりしてる訳じゃないんだが、とにかく他人は無視で一丁前の学力と実力を身に着ける事が第一とされたからな、親方の下に居た時は・・・。仲の良い悪いを逸脱した友人とでも言うか。そういうのを考えると、時に犬と猿が羨ましい・・・。』
15年以上に及ぶ生涯は人間ではまだまだ短いものの、お船の命として生きてきた彼女なりの過去を重ねると、神通は何か色々と思う所が出てきた様だ。短気で粗暴な所から帝国海軍艦魂社会でも随一の嫌われ者とされ、人柄の根源として今もその脳裏に深く刻み込まれる美保関事件は神通という艦魂を語る上で欠かす事のできないお話で、そのどちらもを知っている明石には神通の語りがとても重く感じる。表情を殆ど変えない神通は全く誰か、もしくは何かを責める様な気持ちは無いみたいでも、ともすれば普通なら持てている物が持てないままに成長してしまった点を、明石はこの時とても可哀想に思う。
同時にそんな自分に反して、当人達が微塵も意識せぬ中で好敵手の関係を得たという霞と雪風を目前にして、そうなりたかったと人知れず己の願望を重ねているのであろう神通に気付いた彼女は、小さく笑みを浮かべて『そっかあ。』と短い言葉で応じるだけで会話を終えた。神通と事情は違えど好敵手という存在を持てていないのは自分も同じだし、決して妬みや僻みといった感情に任せて神通が言った訳では無い事は百も承知している。言い終えて神通が再び緩やかに笑顔を浮かべつつあるのも、霞と雪風による犬猿の仲に芽生えている良きライバルとしての関係への、ただひたすらな羨望の証に他ならない。後悔も落胆も無く、先輩艦魂として、上司として、そして同じ帝国海軍艦艇における船の命として、一途な微笑ましさを覚えているのみなのであり、それを明石は邪魔したくはなかったのだった。
もっともその刹那、明石と神通の心情を主とする語らいをまるで遮断するかの如く、甲板には本日一番のどよめきと歓声が上がる。ハッとして明石も前方のマットへと目をやると、なんとそこには雪風の踏み出した片足に外側から踵を巻きつけ、やや横に流れつつも後ろへと仰け反る様な形で押し倒そうとする霞の姿が有った。
『ふが!? く、くっそ・・・!』
『どぉおりゃあーー!』
どうやら互角の攻防の中で霞が持ち前の素早さを駆使して攻めかかったらしく、前方への突進力と引っかけた足で繰り出す技は彼女の最も得意とする小外刈。同じ二水戦所属にして天敵と認める雪風も気を付けていた筈だが、攻めあぐねていた事に気の強さを荒げて仕掛けた所、その出足を霞によって捉えられたのだった。しかし既に時遅く雪風がそれに気付いたのは両足がマットを離れてしまってからであり、仰け反る事で仰ぐ晴天を瞳に映しながら声にも出せずに脳裏に浮かべただけである。敵の得意な形勢に自ら足を踏み入れてしまったと悟ったのは、そのお尻が大きな衝撃と共にマットに激しく落下した瞬間であった。
そして続けざまに彼女の耳には、微塵も聞きたいと思った事はない声が響いてくる。
『いっぽーん! 霞一水! それまでえ!』
『よっしゃああー!!』
自身に対する負けの宣告と、憎き天敵による歓喜の絶叫。
ほぼ一緒に倒れると同時に衝撃も同じく味わったにも関わらず、仰向けに倒れる雪風のすぐ隣では霞が素早く立ち上がり、満面の笑みを浮かべて仲間達の歓声に片手を上げて応えていた。支那沿岸の青空に独特の陽に焼けた様な麻色の肌も映え、その場で跳び上がってぶんぶんと腕を振り回しながら勝利の咆哮を何度も行う姿は、誰がどう見ても勝者の姿である。転じて惨めな敗者はもちろん雪風で、その事実を認めたく無いが為に咄嗟に彼女の口からはいわゆる物言いの形となる言葉が出た。
『荒潮さん! 今のはケツが着いただけッスよ! それにちょっと捻りながらだったから、技有りじゃねースか!?』
わーわーと仲間達と輪を作って喜ぶ霞を横目に、雪風は審判役の荒潮に判定への不服と訂正を求める。荒潮は霞の8人居る姉の内の一人で、霞や雪風に比べると艦齢も容姿の上での年齢も少し上の先輩にあたる艦魂だが、極めて負けず嫌いで気の強い後輩の言葉にちょっと困り気味な表情となり、宥める様な口調でその申し出をかわそうとする。
だがその刹那、雪風と荒潮の元にはやや離れた所から見守っていた上司の声が届く。
『ふははは。犬、どう贔屓目に見てもお前の負けだ。武技が有効だった戦国の頃の戦場なら、とっくにお前の首は取られてるぞ。はーははは。』
『ぐひっ・・・! ち、ちっくしょぉおお〜・・・!!』
愉快に笑いながら負けを諭してきた神通を一度見るや、雪風は込み上げてくる気持ちに押されて地団太を踏んで悔しがった。怪我を負っていたとは言え、以前の柔道大会では土をつけてみせた体面も、上司の隣にて明石がニコニコと笑いながら見守っている事も、そして大変に珍しい神通の高笑いも彼女の意識を誘う事はなく、その大きな釣り目でキッと霞を睨んで敗戦に対して激しく憤怒の炎を燃やしている。今にも殴り掛かりそうな勢いも有り、おかげで荒潮や霰は内心冷や冷やとしながらなんとか雪風を宥め、実の姉妹である霞の勝利を心の底から楽しめない状況となってしまった。
『こ、これでおあいこや、雪風。せ、せやさかい、次の試合で勝てるようにしたらええや・・・。』
『うっせええーっ!! んな事ぁ言われなくたって解ってらい! くっそお! ふんがぁー!!』
心優しい友人である霰の慰めと労りも効果は無く、悔しさと怒りに任せて雪風は大声で霰の声を封殺。根が喧嘩っ早くて度胸も据わっているだけに小さな身の丈に反してその叫び声は激烈で、首を隠すぐらいの霰のおかっぱ頭は叫ばれた瞬間に僅かに髪が後方へと靡く程。その後も雪風の機嫌は傾きっぱなしの状態で、同じ駆逐隊を構成する初風らといった彼女の妹達は、終始姉の勘気にビクビクとしながらの一日を過ごす事になってしまった。
ただそんな雪風の姿すらも、今日の神通の機嫌を良いままにさせておくのに十分な材料となる。明石もすぐに気付いたのだが、霞に負けた直後から語気を荒くして周囲の者に当たり散らし、大きな釣り目を一際鋭くしてプンスカと怒りの炎を燃やす様子は、直の師匠である神通の立腹模様と大変によく似ていて、思わず口に手を当てながらも息を吹きだして笑ってしまう程に可笑しい。身体つきも年齢も分身の艦影もまるっきり違う筈なのに、そんな様子と顔立ちとが手伝って明石には雪風がまるで神通の実の娘の様にも見えてくる。口にこそ出さなかったがきっと隣にて笑みを浮かべる友人もまたその事を愛でているのだろうと悟り、彼女はしばらく一緒に眼前の少女達の姿を見守ってやった。
こうして友人達によるなんとも平和にして楽しい時間を過ごせた明石。
笑い合うばかりの中では勉強等は微塵も意識しない物だが、明石はふとそんな中で近い将来に特設工作艦の艦魂達を鍛え、そして率いる事になるという自分の事を脳裏に過らせていた。
これまでは工作艦という同じ類別の仲間がようやく帝国海軍に整うのだと期待する感が殆どだったものの、先達として接するに当たっては時に厳しく、時に柔らかくという風に緩急とメリハリを設けねばならない。別に艦魂に限らず人間の世界であっても甘いばかりでは後進を育てる事に良い影響を与えるとは思えないし、自身をいつも導いてくれる尊敬すべき師もまた、明石に対しては優しいばかりで接してきた事は無い。ダメな事はダメなんだと朝日は指摘してくるし、英語のお勉強を行った時は初めての授業という体面に一遍の慈悲すらも与えず、授業中は日本語は一切禁止という厳格なルールの下に叡智を授けようとしてくれた。
だがそんな教育に対する姿勢にて最も身近だった物は、艦隊訓練の休養期に得る師とのお勉強ではなく、一年の殆どを同じ艦隊で過ごしている親友率いる二水戦である事に明石は気付く。艦魂としてのその責任者は女性とは思えない程に荒ぶる性格で困り者ながら、連日の如き体罰が常套手段と化している厳しい鍛錬と共に、本日の様に微笑ましい光景を作る事が出来ているのは、きっとただの偶然というだけではないだろうと彼女は思った。
短気で粗暴で大変な嫌われ者ながらも、彼女なりに得た苦労と経験と想いを大いに生かして培った、私立神通学校と良くも悪く呼称される艦魂達の日々。
そんな事を神通と並んで笑みを浮かべつつ考えると、なんだか良い模範を見れたように思えた明石だった。