第一三一話 「秘めた長門」
昭和16年3月22日。
桜乱れ咲く春爛漫の有明湾は帝国海軍という名の団体に占有され、何十隻にも及ぶ艦艇が停泊する様はさながら船達による花見旅行もかくやである。2日前に明石がやってきた時は第二艦隊の仲間達が先に到着していたが、つい昨日には近海で訓練に当たっていたという第一艦隊も姿を見せており、駆逐艦から戦艦まで大小様々な海軍艦艇が有明湾に集結。海岸の桜の木々に負けぬ勢いでそれぞれの軍艦旗を旗竿に掲げ、桜色一色の海岸に紅白の鮮やかさを添えてその彩をさらに豊かにする。
これには長門艦にて中将旗を翻す山本連合艦隊司令長官も日々の疲れを忘れて甲板にてすっかりご満悦で、欧州戦から起こりくる風雲急を告げる緊迫した国際情勢に疲弊気味であろうその心を癒し、独特の高めの声のトーンを普段よりさらに上げて司令部の参謀らと談笑していた。
お天気もここ最近は落ち着いていて晴れか曇りのどちらかばかり。それに伴ってのんびり甲板で花見をするか、空模様が冴えない時はお仕事に取り組むといった感じの気楽な日々を艦魂達は過ごしており、火の出る様な艦隊訓練の合間に思い思いの憩いを得ている。
明石も今日は久しぶりに長門の下を訪れ、歳の離れた気の合う姉と慕うその人柄を存分に楽しもうと、足取りを軽やかに長門艦の艦内通路を歩く。
とにかくメンドーな事を嫌うぐーたらな性格からは一転して、長門艦の艦内は整理整頓が極めて良く行き届いており、無造作に置かれている物とか定位置から逸脱している物品とかがまず無い。隔壁に施される真っ白な塗装も、塗り直しがなされていると言えども生誕から20年を迎えているとは思えない程に綺麗で、さすがは連合艦隊司令長官座乗の栄誉を独占するだけの事はある。通路を歩く明石はたまに乗組の兵員さんとすれ違うが、その歩き方や敬礼といった基本的な動作には整然とした雰囲気も滲んでいるように見え、艦と人間のどちらもが放つ質の高さに思わず感心の吐息を漏らしてしまう。
『う〜ん、さっすが長門さん。やんないだけのやればできる子、なんて言わないでちゃんとやれば良いのに。』
首の真後ろにて縛った背に届くまでの黒髪を左右に振り、目に付く長門艦のアチコチに丸い目を向けて彼女の口から出たのは、この艦の命である長門へのささやかな願いだ。年代はまるっきり違えど同じ師に教えを乞い、妹分として艦隊就役の頃より可愛がって貰っている事には明石も大変感謝しているが、困った性格の姉は実の妹にして良き相棒でもある陸奥や連合艦隊全艦艇を率いるという立場からいつも逃げ回っている。その理由ももはや口癖となっている「メンドイ」の一言以外にあった試しが無く、顔つきも含めて30代目前の女性像を持ちながらも全く人物としての落ち着きが備わっていないのは、まだまだ新米の駆け出しである明石にしても思わず苦言を呈したくなる程の代物。朝日という帝国海軍でも指折りの博識さ、そして淑女としての風格を持つ先生を迎えて一体どうやったらこんな性格になるんだと思うのは、口にこそ出さないが明石にあっても一度や二度ではなかった。
とにかくお気楽でマイペースで、責任という言葉が絡む役目から逃げる選択肢の一点張りであるお姉さん。
文字にしてしまうと何か大変な問題児の様に思えてしまうものの、浮かれる足取りで通路を歩いて行く明石はそんな長門が大好きである。だからやがてもう見慣れた長門が部屋とする艦内一角の倉庫の扉を前にすると、彼女は勢い良く扉を叩きつつ叫ぶように部屋の主を呼ぶのだった。
『なーがっとさーん! 明石でーす!』
『うお!? わ、わああっ・・・!』
ノックというよりも乱打と例えた方が正しいくらいに扉を鳴らす明石であったが、その奥からは聞きなれたお目当ての人物の声が悲鳴となって木霊して来る。次いでその声に続く形で何やら多くの物品が雪崩れ打つ物音が扉の向こうから響き渡り、思わず明石は肩を大きく震わせた後に、十数回目の扉叩きをせんと振り上げていた右腕をそのままに全身を硬直させてしまう。笑みも消えてしばし丸くした瞳を扉へと投げるばかりとなるも、長門の悲鳴を受けて扉の向こうに予想される状況を察した明石はすぐに我へと返り、部屋の主の了解を待たずして急いで扉を開けた。
『な、長門さん!? う、うわ・・・!』
『ててて〜・・・。んもう〜。もちょっと優しくノックできないのぉ、明石ぃ〜・・・?』
元々が倉庫とされるだけに金属製の扉は、開くのに際して重苦しい金属の摩擦音の尾を引く。お世辞にも耳に心地良いとは言えないその音にやや顔をしかめて開けた扉の向こうには、雑然と多くの本や冊子が散らばる酷く汚い部屋があった。どうやらさっきの物音は大量の本が積み上げられていた形から倒壊した事で発せられたらしく、書類らしき文面が綴られた紙がヒラヒラと宙を舞い、ざわめく塵が舷窓からの陽光を受けてキラキラと光っているという部屋の様子が、その激しさを物語っている。そしてそんな整理整頓のせの字も無い部屋の奥にて、大量の本を頭から被った格好となって尻餅をついているのが、明石が目にした長門の姿であった。
『な、長門さん! だ、大丈夫ですか!? それに何ですか、これ!?』
いきなりの衝撃的な長門との再会に慌てる明石。先程から返答はある故に命に関わる状態とまでは思っていないが、長い脚の片方と持ち前の腰まで届く長い黒髪の半分が本に埋まっているという長門を見て、これを異常と判断せぬ者などいよう筈もない。すぐさま駆け寄って本の群れに飲み込まれかけているその身体を救出しようと明石は部屋に足を踏み入れるのだが、なんと長門はそんな明石の行動を見るや両手を小刻みに振りながら静止を促してくる。
『だぁ〜〜! その本全部、下手に動かさないでよ! これ全部まとめておかないと解んなくなっちゃうんだよぉ〜!』
『うっ。とぉ・・・。』
血相変えて止められた明石は二歩目となる足を進める直前で引っ込め、唐突だった為にやや姿勢を崩しながらもその場に留まる。まさに本の洪水でも起こったかのような部屋の様子には乱雑という言葉以外が見つからないものの、どうもその一冊一冊は長門なりに大事にしている品々らしい。明石を静止させて冷や汗を浮かべつつの溜息をつくと、やがて長門は本を踏んだりしないように慎重に四肢を操って立ち上がり、母譲りの日本人離れした肩幅が広い体躯をあらわにする。小顔さと胸の実り具合がとても目立ち、いつもの如くホックをかけるのがメンドイのを理由に袖のみを通して羽織るように着た軍装の上衣を靡かせ、その隙間より覗く触れ幅の大きいラインで成る腰つきは女性としての魅力が極めて明瞭に見て取れる。
もし人間達にその姿を見られたなら、男性諸君からの求愛を一身に集めるであろう容姿を持つ長門。背丈は同じくらいながらも明石とは大違いのその身体のアチコチをはたいてホコリを払いながら、長門は乱れに乱れた本を片付け始めるのと同時に、驚きの表情のまま固まっている明石に苦笑いを浮かべて声をかけてくる。
『や〜、せっかく来てくれたのにごめんね、明石〜。あはは・・・、ちっと片付けるの手伝ってぇ〜。』
『え、あ・・・。は、はぁい・・・。』
異常な室内に異常な状況の中で困った様な笑みでそう言う長門に明石は思考が追いつかなかったが、格好や言動にいつもの彼女らしさを垣間見る事でとりあえず何か怪我とかをした訳ではない事を確認。ましてや久しぶりに会った上でのお願いを受け、それを断る選択肢も浮かんでこない明石はひとまず一緒に室内に散乱した大量の本の片付けを手伝うのだった。
おかげで再会を喜んでお互いの近況を落ち着いて話すのは1時間以上も経ってからとなってしまったが、そもお互いに姉妹の如き親しみを抱いているこの二人だけに、一旦話し始めると来訪時の出来事なぞ忘れてすっかり笑顔での会話を楽しんでいた。
『おおお〜、さっすが明石。潜水艦の救助は帝国海軍でも昔からの悲願みたいな物だったのよぉ。朝日さんも工作艦になる前は、専用装備も施した潜水艦の為の救難艦だったんだもん。座礁と沈没じゃ状況は違うけど、結構スゴイ事やれてるじゃ〜ん。』
『えへへへ。乗組員の人達が頑張ってくれたからですよ。ホント、なんだか見てるだけみたいな格好になっちゃって・・・。』
腰の高さ程にも積んだ本が林立する部屋の中、まるで発掘された遺物の如く本に囲まれたベッドの上で長門と明石は腰を下ろし、互いの近況を笑い合う。随分と珍妙な状況での再会であったが話してみると長門はいつも通りで、独特の圧力なぞ微塵も無い緩い物言いで明石の言葉に応じてくれる。故に部屋の空気に混じる多少の埃っぽさも気にせず、明石は楽しい感情を跳躍させて長門へ次から次へと話題を振っていく。
ほとんど別行動であった第一艦隊の様子、教え子の大和の事等、隠し立てせず色々と教えてくれる長門に明石は好奇心の赴くままに尋ね、たまにからかわれては明るめの苦笑いを浮かべていた。
『あ。そうそう聞いたわよ、明石。なに、英語勉強してるんだってえ? 浅間さんが大笑いして話してたけど?』
『あはは・・・。いぇ、ぃえーす、あいあむ・・・。』
『アハハハ! や〜、こりゃヒドイ! 朝日さんも教え甲斐が有りそうね〜。』
日々お勉強に余念が無い真面目で頑張り屋な明石の苦手科目、英語。話題に上がって大いに長門に笑われてしまうのは恥ずかしかったが、以前に浅間や師匠が思わず笑ってしまった時の様に泣いたりはしない。頼れる姉には自分の至らない部分を悪戯に面白がる気なぞ無く、むしろこれまでと同じように心配を拭いながらの応援を必ずしてくれると知っているからだ。
『な〜に、1年2年じゃ身に付かないって。一つ一つ、それこそ単語の段階で良いからゆっくり覚えていけば良いのよ。正直、アタシも英語は苦手だったよ。まして朝日さんは座学だと手加減してくんないしね〜。あ〜、思い出しただけで我ながらよく発狂しなかったって思うよ。なんだかんだ言ってやっぱ敷島さんの妹なのよねぇ。もー厳っしい厳しい。』
『あははは。』
ちょっとオーバーな感じな身振り手振りを加えて話す長門に、明石は英語への苦手意識を晒しながらも表情を明るいままに保つ事ができる。顔立ちも身体つきも明石の方が断然に幼くておよそ10歳の年齢の差が如実に現れる中、二人は思考の波長が似通っている事もあって互いの間にて渦を巻く楽しいという感情をただひたすらに燃え盛らせ、時に相手の肩を弱く叩いてみたり、時にふざけた物言いや表情を浮かべて、まるでお酒でも飲んだかのような雰囲気でとにかく相手と自分を笑みの渦中に放り込む事のみに専念していた。
そしてその内に明石はふと辺りに林立する本の山を次の話題として弾む声に変えるのだが、ここで長門の笑みには少し、ほんの少しだけだが陰りが滲む。
『長門さん。こんな一杯の本、どこから出したんですか?』
『え・・・? あ、ああ、コレね。え〜と。なんて言うかな〜・・・。』
雪風程ではないにしろ、普段から他人の気持ちや考えに己の言動を遠慮せぬ長門。その奔放でお気楽な所は同じ戦隊に所属する妹にして、艦魂としてのお仕事のパートナーである陸奥の真面目さと頻繁に衝突する根源でありつつも、気心知れた妹分の明石との自由な会話においては普段以上に大きく反映されるべき長門の特徴の筈である。ところが室内を埋める如き本の山を問われた彼女はそんな風にならず、胸を抱える様に背を丸くしつつ顎に手を当てて丸い瞳を部屋のアチコチに向けた。
対して明らかに回答に迷っている長門の様子を目にした明石が隣で首を僅かに捻り、今の今まで続いていた面白く楽しい会話がぷっつりと途絶えた事に疑問を抱く。加えてお勉強やお仕事が大嫌いと出会った当初より公言して止まなかった彼女の人柄を鑑みると、読書とかは一番嫌いそうな行動と思えなくも無いのだが、そんな長門の部屋に何故、それこそ埋もれる程の本が集積されているのかが、今更ながらに明石にとっては不思議で不思議で仕方ない。隣を見れば長門は相変わらず回答とする言葉を編めずに冷や汗を浮かべていて、その内に目が合うと困った様な笑みを返してくるのみだった。
もっともこんな長門の困惑の根源が尋ねた多くの本に有るのだけは察する事ができていた明石は、再び回答を練ろうと明石から視線を外した長門を横目に、ちょうど足元付近にて積み上げられていた本を無造作に手に取ってみる。
「海戦要務令 巻一」
単一色の下地に金色の文字でそう書かれる手に取った本は、士官室によく置かれている週刊誌とか水交社の会報の類とは趣を異にする代物。写真付きで派手な見出しを飾る様子も無く、厳つい漢字が並ぶだけの簡素な表紙は、隅に小さく「軍令部編纂」と記されている点も合わせてみるからに難しい知識を内容としていそうである。あのお気楽で面倒くさがりやな長門が読むと想像するには随分と難の有りそうな本であった。
『うぅ・・・?』
首を傾げるのは早くもこれで二度目となる明石。
帝国海軍の作戦を組み立てる軍令部という組織が編纂に関わっているのなら、多くの帝国海軍独自の戦策、もっと簡単に言えば多様な作戦行動、戦闘方法についてのアレコレが書かれているのだろうと予測はできるものの、生来が特務艦艇の命である明石にはそれは全くと言って良い程に接する機会が少ない知識でもある。一応は連合艦隊旗艦の任を艦魂なりに背負う長門の立場だけを見ればもちろんこの本を持ってても決しておかしくは無いのだが、『難しくて解んな〜い!』等とホザいて受け取る事すらからも逃げ回っていたのが、明石の知る長門の筈。部屋に入った時の対応を思い起こすと彼女なりにこの本は大事にしているようだったから、ますますもって明石の長門に対する疑問が深まるばかりである。
『な、長門さん、こんなの読んでるんですかぁ?』
丸い瞳を小さくしてほのかな驚きの表情としつつ、思わず明石は率直に脳裏に湧いた言葉を呟いてしまう。それと前後して明石は再び手近な本の山から無造作にクリップで留められた紙の束を手に取ってみるが、やはりそこには「新軍備計画論」とまたしても小難しそうな文字が表紙に綴られており、その人柄とは対極にある様な本で長門の部屋が埋め尽くされている事を示していた。
なんとも意外な事で明石はしばし本を眺めながら、何故にこんな物を長門が読んでいたのかと疑問をさらに一つ増やしてしまうが、ちょうど時を同じくして明石の方を見た長門は慌てて彼女の手から本を取り上げる。
『だ〜〜〜! 明石はいいの! 見なくても!』
上ずった声でそう言いながら、長門は強引に明石の手より本を奪う。
先程までの困惑から一転しての強引な行動に明石は驚いてしまい、隠すように本を小脇に挟んで一人冷や汗を拭っている長門を、目をぱちくりとさせながら見つめた。もっとも長門は決して明石が勝手に本を手に取った事に立腹した訳ではないらしく、やがて本のホコリを払って明石とは逆の方向にある本の山に乗せると、ちょっと苦しそうな笑みを浮かべて声をかけてくる。
『これは明石にはちょっと難しい本なんだよ。ほらぁ・・・、なんか題名とかもさ、いかにもメンドそうだったでしょ?』
大事そうにしている割にどうやらあの本に対する意識は明石の印象とそれ程違っていないらしく、サラサラと綺麗な黒髪で包まれるこめかみの辺りを掻きながら長門は言った。本当ならこれが本来の彼女の姿、と言ってしまうと失礼に捉えられるかもしれないが、本日はどうにも疑問が降り積もり過ぎる事もあって明石は思わずこれまで胸にわだかまっていた正直な所を質問として投げかける。すると長門はまたしても小さな困惑模様となるも、やがて思いついたように声のトーンを変えて自身の立場を理由として明石に応じてきた。
『そ、それはそうですけど。なんで長門さんがそんなの読んでるんですかぁ? いっつもメンド〜いって言ってるのに・・・。』
『あ、え〜と・・・。あ、ホラ! アレだよ! アタシ、これでも一応は連合艦隊旗艦だもん。こういうの覚えておかないといけないのよ。陸奥がうるさくてさぁ。』
幾分もっともにして、長門にしては随分と現実味のある理由を述べられ、明石はぼんやりとした返事をしながら小さく首肯してみせる。大変に礼儀正しくて真面目な性格の実妹にお仕事を急かされるのは今に始まった事ではないからで、これまでにもこの長門は明石の下へと訪ねて来る際、陸奥から逃げ回るのを目的としていた事が何度か有った。
きっとやる気の湧かない中で実の姉妹という間柄から遠慮の無い苦言を呈され、「乗り気」なる言葉がかすりもしないような気持ちで持って取り組んだのか。
そう考えると背を丸めて頬杖をしつつ浮かない表情を浮かべている長門に対し、明石には僅かな親しみと同情の念が湧いてくるのだが、いくら陸奥と言えども一挙に部屋を埋め尽くさんとする本を読めと強要するとは思えなかった。
小さな倉庫である長門の部屋は、二人が腰掛けるベッドの上に舷窓が一つだけあるのみで、天井のど真ん中に設置された電灯もまたたった一つ。照らせる範囲が少ないのはそれに伴って部屋自体も極めて狭い為で、4人も人物が居ればギュウギュウのすし詰め状態になるであろう事は、明石にとっても容易に想像できるくらいだ。しかしそんな部屋一杯に、それこそ足の踏み場も困るくらいの本が押し込まれているのは、他人に押し付けられたと言うよりも自ら熱意を持って収集したからこそ実現した光景であり、明石はそれを趣味が高じて戦国時代関連の図書を収集するという神通の姿から垣間見る事ができていた。
従って考えを少し整理すると、彼女の脳裏には長門の述べた理由を別とする部屋の状況の真相がぼんやりと浮かんでくる。
長門さんが集めた・・・? これ全部・・・?
そう頭の中で呟きながら目にする本の連峰には疑問が絶えない。どうも先程手に取った2冊の書籍を見るに帝国海軍の軍備とか作戦とかに言及する内容なのは確かであるが、果たしてそれが長門の口から出た連合艦隊旗艦たる体面で生まれた勉強熱なのか、それとも他に何か別な物が動機として働いているのか。親しさも仲の良さも人一倍に強い長門が相手なだけに、明石はとても気になるのだった。
こうなると自然と明石の表情は曇り模様を帯び始めていき、整った顔立ちの中にある丸い目は左右で大きさを変え、しかめた眉と僅かにへの字にした口で構成される顔には笑みを見つける事ができない。ただただ長門とその部屋の様子に頭を捻るばかりで、隣に座る長門には目もくれずに腕組みをして視線を落とすという姿勢をしばし続けていた。
う〜〜ん・・・。 朝日さんにお説教でも食らったとか・・・?
天真爛漫で明るい人柄に反して、明石は一点集中型の特性を秘めた思考回路の持ち主である。久々に会った長門ともっともっとお話がしたいという欲求は決して忘れてはいないのだが、仲が良いだけに疑問を抱いたままでおしゃべりを続行するのが嫌だ。
故に黙り込んで首の後ろで結った後ろ髪を伴いながら頭を左右に小さく振り、時が進むのにテンポを合わせる様にして考えを巡らす。
しかしそんな中、明石の視界が前触れ無く黒い影でぬっと覆われて彼女がそれに気付くや否や、その両頬は突如として外側より圧迫された。
『ふにゅっ!』
『んも〜〜、余計な事に黙り込んで! アタシだってねえ、色々と難し〜〜〜い事に苦労してるってコトだよ! こんにゃろ、こんにゃろ!』
いつの間にやら部屋を埋める本の事に関して思考中の明石の前に仁王立ちし、やや声を荒げて伸ばした手で圧した明石の頬を激しく揺さぶるのは、今の今まで困惑の渦中に陥っていた長門である。どうにも黙り込んだままの明石に気付いて、せっかくの再会の時間に生じた沈黙を打破するつもりらしい。加えて生来の性格を軸に意外と捉えられた明石の考えもすっかり読み取っていた様で、いつも明るく能天気に振舞うばかりではない自分を弱めの憤怒でもって訴える。
そしてそんな長門のささやかな怒りの矛が、明石の頬を圧して揺さぶるという長門の暴挙であった。
『このこのー!』
『ふにゅにゅにゅにゅ・・・!!』
決して痛いという感覚がないその攻撃は、僅かな怒りで普段から可愛がっている明石に本気で痛撃を与えようと企図した物でない事を明石にも理解させてくれるも、表情と発声と呼吸を抑制され続ける苦しみには耐えられない。絵に描いたタコを彷彿とさせる突き出た口に、横につぶされておかめの如き様相となった顔となりながらも、明石は必死に長門の腕を掴んで抗い始める。遠慮無い長門の腕は一度や二度明石に払われても動きをやめず、しばしの間はこの二人で猫の子供らが行うちょっとした格闘戦を展開したが、やがてイジメ疲れたのか息を切らしつつあった長門はようやく腕を戻し、まだ悲鳴も混じる吐息を吐きながら頬を擦る明石に対して笑いながら言った。
『あははは! どうだ! 参ったかぁ!』
勝ち誇ったような笑顔で顔を近づけてくる長門。対して明石は赤く染まった両頬を両手で揉み、幾分の涙目となりながら突然の長門による攻撃に抗議の意思を示す。姉と慕って普段から敬語を用いて接し、お仕事が大嫌いというそのハチャメチャな人柄に内心溜息を漏らしそうになるのも正直何度か有ったとは言え、自分だって苦労してるなどとよく解らない理由で突然に頬を激しく揺さぶられたのは納得行かない。多少の怒りの感情も混じってその眉は僅かに角度を帯びた物となり、未だ頬に力が入らない中にあっても彼女の声はちょっと荒い口調になった。
『な、なにするんですか! 私、長門さんが変だなって心配してたのにい!』
『なによお! じゃあ勝負だ! ほれ〜、悔しかったらアタシのほっぺにやり返してみせなさいよ! 横に潰したら面白い顔のクセに!』
30代も迫った大人びた顔を明石の前に突き出し、長門は悪びれもせずに挑発的な言葉で明石に応じてくる。表情も怒った相手に言い返すにしては笑みが薄っすらと浮かべられ、腰に宛がった手を振り上げる様子も無い。単に気の合う明石との賑やかなじゃれあいの延長にしか思っていない様で、明石も考えはしなくともそんな姉の心の内は感じ取っている。単なるおふざけに過ぎない悪戯なのだ。
もっとも鬱憤と苦しみの余韻が積もった明石は、感覚的に悟ったそんな事に行動を中止する事は無い。考え事の最中に奇襲してきた上、頬を両横から圧迫した事でつぶれた顔が面白い等と揶揄された明石は、長門が言い返した瞬間、間髪入れずに眼前にあったその顔へと両手を伸ばす。平手打ちの如き叩きつける様な動きこそ自重しながらも、ふっくらかつスベスベとした肌の頬に触れるやすぐさま力いっぱい押し込んだ後、文字通りのお返しとして長門の両頬を手のひらで激しく揺さぶってやった。
『うにうに〜! くらえ〜!』
『うにゅにゅにゅにゅ・・・!!!』
するとついさっきまで彼女自身が浮かべていたタコの口を持つおかめ面が、今度は長門の大人びた顔に対して出来上がった。母親譲りの肩幅の広さも手伝って僅かに離れて見ると小顔さが目立つ長門の顔は、歳の差では明石と10年の違いが明確に現れているものの、圧された頬に押されて口がとんがり、糸目となる目も合わせてさっきまでの明石と大差が無い。無論、明石としてもそうしてやろうと意識的に彼女の顔を横に潰しているのだが、立場が入れ替わると感じる物の点でもこの二人は大差が無かった。
すなわち明石は目と鼻の先で普段は絶対に見る事ができないであろう長門のユニークな顔を見て、そのあまりの不細工ぶりに大いに可笑しさを覚えたのである。
『あはははは! 長門さんおもしれぇ〜!』
『うにゅ〜! こんにょ〜っ・・・!』
大笑いに次ぐ再度の長門の攻撃が明石の癒しきれていない頬を襲い、ここにきて割と顔立ちが整った美人であるこの二人は、双方極めて見るに耐えない格好悪い顔となる。傍目から見れば仲の良い姉妹のじゃれあい以外の何でもなく、その証拠に二人は酷く醜い表情となりながらもお互いの顔への可笑しさからくる笑みを解り難い具合ながら滲ませている。頬が熱いとか満足に会話できないとかは既にどうでもよく、明石も今日の長門の様子や本に塗れた部屋の事なぞ完全に思考から消え去っていた。
『にゃはは! ヘンにゃかおー!!』
『にゃにおー! こにょアカチンめー!』
こうして些かの苦しみを代償として相手の顔に爆笑する時間は、二人にとって掛け値無しに本日一番の楽しい一時となり、明石も長門も久々に腹の底から笑う機会を得る。お互いに息切れを始めてどちらからと言う事も無くこの戯れを止めたのは夕食も迫った時間帯で、笑い疲れた二人はその後、一緒に軽めの夕食を摂るとじゃれあいの舞台となった本に包まれる長門のベッドで共にまどろみ始め、結局翌朝まで一緒に深い眠りに陥ったのであった。
明石の期待した楽しい姉との再会はこうしてその期待通りの結果を残し、翌日の朝を迎えて出港も近い事から自身の分身へと帰る際、彼女はすっかり気分を一新して元気良く長門と別れたのであった。
『じゃ、長門さん! 行って来ます!』
『あいよ、明石。陸軍との合同演習、頑張ってね!』
憂いも無く後悔も無く、ただただ前向きな思考と感情ばかりで支配された意識に浸ったままに別れる。
ただそれだけの事が、明石にとっては長門という人物と関わる上での毎度の事ながら、その実は最も欲する触れ合いでもある。今回も大いに笑い、大いに騒いで癒された心を弾ませ、彼女は出港準備作業で乗組員達の汗が光る明石艦の甲板へと白い光を伴って帰っていった。
そしてその瞬間、長門は大きく安堵の溜息を吐く。
それは明石と同じく、彼女もまた大いに笑い合う事のできた時間で精神面での疲労を癒せたからであるが、実の所、それが成立して無事に今の別れへと繋がった事自体に、長門は大いに喜ぶのと同時に人知れず張っていた憂いを解いている。なぜなら長門は昨日明石が訪ねてきた時より一貫して、同門にして可愛い妹分である彼女に知らせたくないとある秘を胸の奥に隠していたからだった。
『はぁ〜〜〜・・・。まだ陸奥みたいにマジメだった方がよほど救いがあったかなぁ。あんな無邪気なんじゃやっぱ相談なんてできないよぉ・・・。あ〜あ、またしばらく一人で考えないと・・・。』
ふいに甲板に吹いた潮風に腰まで覆うその長い黒髪が舞い上がり、元気無く呟いた長門の横顔を隠す。片手で抑えきれないボリュームの黒髪は彼女の顔の正面でも宙で踊り、桜の花びらと一緒に通り抜けるまでしばしの間、彼女の表情を周囲から一切遮蔽した。
やがて風が去り行くのに伴って髪が戯れを止め、サラサラと艶も美しいままに彼女の背へと戻っていく事で再び長門の表情はあらわとなるが、明石と別れた先程までとは打って変わり、長門は眉間にしわを寄せつつ緩く唇をかんだ難しい表情を浮かべていた。
『ただ勝たねばと念仏の如く唱えて挑むのは、血に飢えた狼の言い分か・・・。お母さ〜ん・・・。』
そしてそんな表情をそのままに、長門は三十路も控えた顔立ちながらまる幼い子供の如き声を小さく放つ。それはすがりたい気持ちを押し殺して明石と接した苦しみからくる悲鳴を僅かに開放したのであり、母の呼称を放って意識の中に求めたのは、艦魂としての自分を取り上げてくれた後、生きる上での全ての術を教えてくれたたった一人の師匠、朝日。少し前に二人っきりで膝を詰める様な格好となって議論を交わした頃より、長門は師の事を誰にも知られぬ所でそう呼ぶようになっていた。
生誕より20年を経て艦魂としては完全な大人になろうとも、それでも道を示して欲しいという正直な気持ち。もちろんそれはこの長門にして、今まさに大きな障害に直面しているからに他ならない。
すると長門はしょぼくれた顔のままで袖だけを通して羽織った上着の内側へ手を伸ばし、明石が訪ねてきたあの時に咄嗟に服の内ポケットへと隠していた数枚の紙切れを取り出して、再び母という存在を求めながら呟く。
なぜなら紙切れに書かれる内容こそ、ここ最近の長門を大いに苦しめ、昨日よりずっと明石に隠し通し、そしてまた明石が考察を巡らしていた長門の部屋を埋める図書の山の真相と繋がる物だったからだ。
『連合艦隊司令長官から海軍大臣宛・・・。お母さん、とんでもない戦になっちゃうかもぉ・・・。』
僅かに潤んだ長門の目に映る紙切れの一角。
その言葉通り、現連合艦隊司令長官より現海軍大臣に宛てて、去る1月7日に手紙の形で出されていた内容がそこには書かれている。原本ではなく長門が当時必死で書き写した物なのだが、紙上には20年来帝国海軍の第一線に立ってきた長門をしてまさに前代未聞である、帝国海軍におけるとある作戦行動の構想が綴られていたのだった。
三、作戦方針――・・・作戦実施ノ要領左ノ如シ
一、敵主力真珠湾港ニ在泊セル場合ニハ 飛行機隊ヲ以ッテ徹底的ニ撃破シ 且同港ヲ閉塞ス――
それは後年に至ってつとに有名な史料となる、山本五十六連合艦隊司令長官著『戦備ニ関スル意見』からの抜粋であった。