第一三話 「出動命令下る/其の二」
青森県大間崎沖、雪景色に彩られた白銀の下北半島を左舷に望んで、明石艦は津軽海峡から平舘海峡を目指して南下していた。
早い潮流に吹きすさぶ風、決して自然とは優しい物では無い事を人々に伝えるには充分な光景がそこに広がる。排水量約1万トン、艦幅20メートル、武装が少なくて低重心な上に6メートルと一等巡洋艦並みの喫水を持つ明石艦は、基本的には揺れが穏やかで乗り心地は良い艦である。だがそんな明石艦ですらも川に流れる木の葉のようにフラフラと揺れる程の高い波が、彼等が軍艦旗を進めた海にはうねっていた。
そんな中、明石艦の前方では、信号警笛を鳴らしながら明石艦よりもまだ小型な艦艇が荒波を掻き分けていた。この海域の生き字引、第一駆逐隊の駆逐艦、波風艦である。大正11年生まれで排水量1500トンにも満たない波風艦だが、単艦で津軽海峡入り口に当たる尻屋崎まで出迎えに来るという豪胆な艦だった。『我、誘導ス。』の無電を明石艦に送るや先頭に立って道案内をかってくれたのである。時折、艦首や艦尾が海面から浮き上がる程に波に揺られる波風艦だが、それでもそびえる波の壁を次々に切り裂いて前へ前へと力強く進んでいく。竣工から一貫してこの海域で国民の生活を守ってきた誇りが、その姿からは滲み出ていた。
忠は発令所の舷窓から、波風艦と供に映る久しぶりの故郷の海を眺めていた。銀色の空とどす黒い海という、白黒だけで構成された世界が窓の外には広がっている。
発令所の窓から覗く明石艦の艦首は、舞い上がった水飛沫が流れ落ちる前に凍ってしまう為に、真っ白な氷で覆われている。艦を叩く波音はまるで艦砲の一斉射のような音で、時折乗組員達の会話を遮ってしまう程。そして暖房が装備されていない明石艦に容赦なく襲い掛かる最大の敵、寒さ。
ちっとも自分の帰郷を歓迎しているように見えないその光景だが、忠は小さく笑みを浮かべた。ふいに彼の口から白い息が僅かに吐き出される。
相変わらずだな。
そんな言葉が脳裏に過ぎり、変わらぬ故郷の健在ぶりが忠の心に刻まれる。
『ちょ、ちょっと森さん!なに自分の世界に入ってるのよ!』
『ん?』
背後から響いてきたその声に忠は振り向く。そこには外套をこれでもかと重ね着して、両手で身体を擦りながら震える明石がいた。スラリとした細身の彼女の身体つきを、二枚も重ね着した外套が完全に隠している。余程寒さが堪えたのか、明石は歯をガチガチと鳴らし、頭巾を被った顔の両頬をリンゴの様に真っ赤に染めていた。小刻みに白い息を吐きながら、彼女は発令所の机の脇に座り込んで身を丸めている。
そして明石は今にも泣きそうな顔で、眉をしかめて忠を見ていた。
『こ、こんなに寒いと思わなかった・・・。』
『あははは。』
日本ではずっと南に当たる佐世保で生まれ、温暖で穏やかな瀬戸内海でずっと暮らしてきた明石には無理も無い。雪国の寒さは身を切るようだと人は言う。彼女は今それを、文字通り骨身に染みて感じていた。だがこの世の物とは思えないそんな気候にも平然とする忠に、明石はまるで珍しい生き物を見たかのような目を向けて口を開く。
『さ、寒くないの・・・?』
『いやあ、寒いよ。』
『・・・そ、それだけ?』
『ははは、まあ、何処でも冬は寒いモンじゃないか。』
忠は決して寒くない訳ではない。また、決して寒いのが好きな訳でもない。ただそれを口にした所でどうにもならないという事を、雪国出身者独特の本能で知っているのである。少し肩を上げて寒さを堪えながらも、忠は微笑んでみせた。だがそんな相方の表情に、明石はガクッと首を垂れて俯く。
『も、もうヤだぁ・・・。』
咽び泣く様な明石の声だったが、あまりの寒さに涙もでないらしい。ガチガチと歯を鳴らしてただ縮こまる明石に、忠は苦笑いするしかなかった。
『軍医さんも楽じゃないってこった。ははは。』
『うぅぅ・・・。』
この後、忠が泣く寸前の明石を励ます光景は大湊に到着するまで続いた。
1609、大湊要港部到着。
陸奥湾に入って波は穏やかになったが、風はまだ強い。工作部で製造された物品を陸揚げするつもりだった明石艦は、大湊要港部で最も大きい桟橋に接岸した。だがこの時期は日が暮れるのが早く、既に辺りは薄暗くなり始めている。おまけに天候も悪いので要港部と艦長が折衝し、今日はとりあえず修理補修の打ち合わせまでとしておき、実作業は明日からという事になった。
それでも本州最北端の地まで来てくれた味方の最新鋭艦に感謝する要港部は、運搬食として大量のコロッケを差し入れてくれ、極寒に耐えながらでもその日の夕飯は格別だった。箸で切り開くとホクホクと湯気が上がるコロッケは、乗組員達の凍える身体を僅かにだが温めてくれる。素朴でほんのりと甘いじゃがいもの味と香り、口の中に良い意味で後味を残さないさっぱりとした感じがたまらない。主計長の川島大尉も絶賛する程のコロッケだったが、乗組員全員に均等に分け与えてしまった為に少し余ってしまった。その事から、士官食堂の隅で川島大尉が一人頭を抱えて口を開く。
『困ったなあ、ハンパな量で余っちまった。』
川島大尉の視線の先には小さな紙袋に包まれたコロッケ。これでも士官食堂の中で適当に振り分けてみた結果なのだが、残念ながらそれが災いした。なぜなら全員が満腹になった為、余ったコロッケの行く胃袋が無くなってしまったのだ。しかしせっかくの要港部のご好意を残飯にするのは気が引けてしまうという物。かと言って冷めてしまったコロッケなど美味くはない。特にこういう気候の所ではなおさらである。
そんな懸案に頭を捻る者達が列を成す士官食堂の中で、その内の一人である忠は爪楊枝で歯を掻きながらふと舷窓の外を見た。下の縁に雪を溜めた舷窓の外では、真横に流れる雪と女性の悲鳴のような激しい風の音が発せられている。
『困ったな、酒保で売るか?』
『それも気が引け─。』
青木大尉の声に答える川島大尉の言葉が、突如として詰まった。
どうしたんだ?
それとなく二人のやりとりを耳にしていた忠は、そんな言葉を脳裏で呟いて窓から視線を戻す。すると士官食堂にいる者達の視線が、一斉に忠に注がれていた。彼は事態が飲み込めず、辺りを見回す。
『・・・?』
『おお、森がいたな!』
忠の向かいの席に腰を下ろしていた青木大尉は、そう言いながらパンと手を打って微笑む。その言葉に賛同しだす士官食堂の面々に忠は固まった。そして川島大尉が笑みで口を開く。
『よおし、森! お前、今日は酒保での物品支給は禁止だ!』
『え・・・?』
『代わりコイツをやる!』
その数分後、ほのかなジャガイモの香りを発する紙袋を抱えて食堂から戻った忠は、自分の部屋の扉を開けた。
艦内で一番の酒保のお得意さまである忠は有名だったが、おかげで余りのコロッケは全て忠に渡されたのだ。いつも大量のお菓子や飲み物を買っていく酒保での買い物に代わって押し付けられた紙袋の中身だが、忠はそんなに気にはしていない。考えてみれば、これを部屋に持って帰れば喜ぶ人が彼の下には一人いたのだ。脳裏に浮かぶ相方の笑顔に鼻歌交じりで部屋に入った忠だったが、そこには彼女の姿がなかった。
『あれ?』
そう言いながら後ろ手に扉を閉めて部屋を見回す忠は、何やらベッドで不自然に盛り上がる布団を見つけた。小刻みに震える布団とガチガチと歯を打ち鳴らす音に、忠はその正体を悟って微笑んで声を掛ける。
『明石〜、なにやってんだ。』
『寒いぃ〜・・・。』
そう言って明石は布団から頭半分をひょこっとだしてきた。
『お菓子を出せ〜!』といつもは山賊のように夕食から戻った忠に走り寄る彼女なのだが、今日ばかりは完璧に寒さによって参っているらしい。目から上の部分を布団から出した彼女の頭には外套の頭巾が覆いかぶさっていて、忠からは目だし帽を被っているように見える。それはまるで絵に描いたような山賊のような格好にも関わらず、当の明石は布団から決して出ようとしてこない。
忠は帽子を机に置くと、紙袋を持ってベッドに歩み寄って腰を下ろした。彼の手に抱かれた紙袋に明石は視線を向けるも、それ以上の行動を頑として起そうとしない。すっかり元気が抜けてしまっている彼女に、忠は口元を緩ませて袋に手を入れながら声を掛ける。
『今日は良い収穫があったぞ。ほら。』
忠は紙袋の中からコロッケを一個取って、明石の顔の前に差し出した。いつものお菓子ではなく、今日はちゃんとした食品である。基本的に食いしん坊の明石はスンスンと鼻を鳴らして湯気を放つコロッケの匂いを嗅ぐと、ゆっくり手を出して忠の手からコロッケを受け取った。でも手を出したらやっぱり寒かったのだろうか、明石はコロッケを持った手と一緒に半分だけ出していた頭も布団の中に引っ込める。そしてそれと同時に忠が部屋に入ってから断続的に続いていたガチガチという音が消え、布団の中からはがふがふとコロッケを貪り食う音が響き始めた。
『あ〜あ・・・。ちゃんと後で布団を掃除しろよ?』
呆れながらそう言う忠だが、言い終える前に布団から明石の手だけがひょこっと出てきた。
なんと行儀の悪い奴だ。
そう思いながらも無邪気さが消え失せて縮こまる今の明石が、忠にはたまらなく可愛かった。もうちょっと見ていたいなと思いつつ出てきた彼女の手にコロッケを置いてやると、その手はまたすぐに布団に引っ込んでがふがふと音が聞こえ始める。
『はっはははは!』
少し寒さが和らいだのか、明石は布団から顔をゆっくり出して大笑いする忠を睨む。だがそれを無視するように紙袋をベッドに置いて忠は机の椅子に座り、煙草を口にくわえて火をつけた。ベッドの上では明石が『うぅ・・・。』と唸りながら、紙袋からコロッケを手に取って頬張っている。
やれやれ、困った奴だ。
そう思いながら、忠は食後の一服についた。
刹那、扉を叩く音が部屋の中に響いてきた。こんな寒い中、せっかく体温で暖まり始めた部屋の空気を入れ替えたくないと思う忠は扉を開けようとはせず、上半身を反って声を上げる。
『はいよ〜、誰可?』
『・・・・・・。』
忠の声に対する返事はなかったが、耳を澄ますと扉の前からヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
『や、やっぱり違うんじゃない・・・?』
『でも、女の人の声がしてたって。』
扉の向こうから微かに響いてきたのは、女性の話し声だった。軍艦内に響く女性の声という状況に、忠はその会話の主に見当がついた。そしてその声に対して彼と同じ事を考えた明石も、ようやく布団から出てベッドに腰掛けて扉を眺める。一度明石と顔を見合わせてから、忠は椅子から立ち上がって扉を開いた。
『あ・・・。』
そこには突然開いた扉とそこに立つ忠に、表情も身体も固まる二人の女性がいた。
氷が所々にこびりついた黒い外套を着ている彼女達だが、頭に乗せた帽子は水兵帽だ。背は小さく、見た目の歳は20代半ばで神通や那珂と同じくらいに見える。
艦魂も歳をとるという事を知っている忠には、彼女達の正体がなんとなく解った。
『あ〜、第一駆逐隊の艦魂かな?』
『あ、え、え?』
二人は忠の言葉に戸惑っている。これまた説明するのが面倒くさいと思いながらも、忠は笑みを向けて扉の脇に身体を寄せた。
『オレ、見えるんだよ。まあ、とにかく入って。寒いから。』
『あ、は、はい・・・。』
戸惑う彼女達を部屋に招きいれてやると、忠はゆっくり扉を閉めた。
『息、吸ってみて。』
『すぅぅ〜・・・。』
『どう?痛い?』
『は、はい、少し・・・。』
ベッドに腰掛けた女性の外套の隙間から手を入れて、明石は耳につけた聴診器に耳を澄ました。先程までは寒さに怯える子供のように布団に丸まっていた明石だが、今は真剣な顔でその女性の診療に当たっている。
寒い部屋は相変わらずだが、部屋に入ってすぐに振舞ったコロッケで二人の訪問者も少し身体が暖まったようだ。やがて椅子に座って診療の状態を眺めている忠の横から、付き添ってきた方の女性が声をかけてきた。診療を受けている女性にくらべて彼女は顔色が良く、その声にも元気があった。
『助かりました。お腹減ってて死にそうだったんです。』
そう言って彼女は頭をさげた。彼女の外套の外側についた氷が、パラパラと音を立てて足元に落ちる。彼女が艦の外から来たことは明白だった。
『いや、いいよ。あ、オレは明石艦砲術士の森少尉。よろしく。』
『あ、私は波風艦の艦魂です。よろしくお願いします。』
帽子をとって頭を下げる彼女、横に分けた長い前髪と短い後ろ髪が特徴的だ。彼女の前髪はサラサラと流れるような綺麗な髪だが、毛先がパキっと凍っていてまったく揺れない。紙に穴を開けれるんじゃないかと思うくらいに尖った髪だが、それを気にしている様子も無い彼女には雪国に随分慣れた感じを受ける。
そして忠は彼女の慣れという物からくる勇姿を、昼間に発令所の舷窓からしっかりと見ていた。
『そうか、君が波風かぁ。昼間は案内してくれてありがとな。』
優しく微笑む忠に、波風もつられて表情を緩めた。ハキハキとした活舌の言いしゃべり方で、その雰囲気はどこか霞にも似た元気な女性だった。
『とんでもない。あ、あっちは妹の沼風です。』
診療を受けるもう一人に、波風は顔と手を向けて言った。
沼風は波風の口にした言葉と名前から想像した通りその姉妹らしく、顔つきが波風と良く似ている。顔の輪郭に沿うようなまん丸の短髪で、後ろから見るとおむすびのようだ。だが痛みが酷いのか、険しい表情が彼女の顔からは消えていない。それでも波風の声に気づいた沼風は、弱々しい声ながらも返事をしようとしてくれた。
『あ、ど、どうも・・・。うっ・・・!』
『あ、しゃべらないでね。』
『は、はい・・・・。』
沼風は口を開きながらも苦痛に顔を歪め、さらに明石に止められた事もあって口を閉じた。どうやら腹部か腰に痛みがあるらしく、時折服の中で身体に触れる明石の手に眉をしかめている。
しばらく静かな空気の中で明石は診療していたが、ふいに溜め息交じりで声を発すると手を戻し、その耳に当てていた聴診器を取り外した。外套の上から腰の辺りをゆっくり擦って、沼風は明石の顔を眺める。それに気づいた明石は少し眉をしかめた笑みを向けて、沼風に診療の結果を教えてやった。
『肋骨を繋ぐ軟骨がズレちゃったみたいだね・・・。』
『そ、そうなんですか?あ、痛っ・・・!』
生々しい明石の診療結果だが、それを耳にした忠にとっては、彼女達が艦魂であると考えるととても不自然に思える。そんな事から首を捻る忠だったが、それに気付いた明石は苦笑いしながら声を上げた。
『竜骨まではいってないと思うけど。たぶん、波浪で船体の肋材が曲がったんじゃないかな。』
明石の説明は忠の疑問を見事に解決する。
なるほど、人間で言えば肋骨を痛めたような物か。
そう思いながらも的確な診断と説明をする相方に、忠は深く感心する。先程までは布団から出てこない子供のようだった彼女であるが、患者を前にした瞬間、明石の目の色は変わった。
後に「動く海軍工廠」と呼ばれる事になる明石は、この頃よりその片鱗を見せ始めていたのだった。
一方、忠に発した明石の言葉に、沼風は思い当たる事があったらしい。痛みに耐えながらも小さく何度か頷いて、彼女は呟いた。
『そうか、それで左舷の外板があんなにへこんだんだ・・・。』
『たぶんね。ちょっと痛みの退きが遅いのは、ビタミン不足だと思う。人間の食べ物、しっかり食べた方がいいよ。』
そう言うと明石は沼風の頬に手を当てて優しく微笑んだ。沼風は伏せ目がちにしながらも、明石の暖かい手に顔をもたれる。同時に忠の横でそれを見ていた波風は腰に手を当てて小さく溜め息をすると、沼風に歩み寄って声を掛けた。
『だから、言ったじゃない。ちゃんと食べなさいって。』
『の、乗組員のみんなに悪いよ・・・。今年は不作だって言ってたし・・・、最近はお店での値段も上がったって・・・。』
『いちいちそんなの気にしてたら艦魂なんてやってられないでしょ!』
『で、でも、・・・。この前、大雪で列車が止まったって・・・。食品が手に入らないって、乗組員のみんなが・・・。』
二人の会話に、明石も忠も沼風の病状の原因を突き止めた。
どうやら沼風は艦内で乗組員の会話を聞き、人間と同じ食べ物を摂取する事を遠慮していたらしい。
事実、この時期の雪国では汽車が豪雪で止まってしまう事がよくあった。実際に忠も幼少の頃、立ち往生した汽車を大雪の中から発掘する作業を何度も見た事があったのだ。健気に乗組員の事を思い、自らの身体を壊してしまったいたいけな沼風。
ウチの相方に比べるとなんて立派なんだ。
そんな気遣いなど屁とも思っていない自分の相方と沼風を心の中で比較してしまった忠の目には、うっすらと涙が滲み出る。静かに涙する忠の姿に明石は笑って、沼風と波風に自分の相方自慢をしはじめた。その涙の理由を彼女はちっとも解っていない。
『ふふふ、いい人でしょ?』
艦魂の為に涙する人間を目にし、波風も沼風も優しく笑ってくれた。
アンタはこの子に比べりゃヒドイもんだ。
そう胸の中で呟きながらも、忠は机に置かれた紙包みからコロッケを取り出して沼風に差し出した。
『食べなよ、ほら。』
『でもこれ、お二人の分では・・・?』
『オレ達はもう食ったよ。ほら。』
この期に及んでもまだ遠慮する沼風に、忠は彼女の手を掴んでコロッケを手渡した。やはり腹が減っていたらしく、彼女は礼も言わずに堪えきれなくなった食欲を開放した。忠の言葉を受けてすぐに、両手で持ったコロッケを彼女は勢い良く自らの口へと押し込め始める。沼風の足元には、ボロボロと食べカスが落ちていく。小さな口にリスのようにコロッケを詰め込む彼女の膝に、忠は笑みを崩さぬままコロッケの袋を置いてやった。
『こ、こら、沼風!お礼ぐらい─!』
『いや、いいんだ波風。腹一杯食わせてやってくれ。』
行儀の悪い妹に怒る波風だったが、忠はそれを制した。
沼風は伏せ目がちで大人しそうな外見だが、今は餓鬼のようにコロッケをがっついている。おいしさに表情をゆるませる事も無く、重い物でも持ち上げるかのように目を閉じて力の篭めた顔の沼風。その沼風の表情に、忠は艦魂たる者の存在の仕方を改めて理解する。
例え艦魂であっても、不健康であればそれは艦そのものに影響が出てくる。フレームの歪みで済んだ沼風の損傷も、下手をしたら艦の沈没に繋がっていたかもしれない。今回の沼風艦の損傷は、それだけ大事な自分の健康に注意を払わなかった彼女に問題がある。だが忠も明石も、そして波風もそれを深く追求するつもりなど無い。なぜなら沼風には悪気は無く、ただ乗組員達から笑みを奪いたくなかっただけなのだ。
相方と同じ事を考えていた明石は優しく微笑んで、夢中で食べる沼風の頭を優しくゆっくり撫でた。
『沼風はいい子だね。とりあえず、修理してる内は夕飯が終わってから私の所に来てね。』
『通院、て事ですか?』
『一回の食事じゃ回復しないよ、何日か続けて食べないとね。私の所は、毎日食べ物が手に入るから。』
波風の問いに笑ってそう答えた明石は、言い終えると同時に忠に視線を流す。なんとも綺麗な笑顔でニッコリと笑みを向ける明石に、忠は明日から始まるであろう出費の激しい毎日を想像して溜め息した。
『・・・やっぱり、オレが買うの─。』
『苦しむ水兵を助ける為よ、森さん!』
『・・・苦しむ少尉はどうすれば─。』
『日本帝国軍人の〜、鑑を人に示したる〜。』
『・・・・・。』
やんわり断ろうとする忠に、明石はあてつけがましく「広瀬中佐」を歌う。諦めの溜め息と供に、額に手を当てて俯く忠。
やれやれ、またかよ。
遠慮する二人の姉妹と『いいの、いいの。』と制する明石のやりとりが、彼の正面にて展開される。
なんでウチの相方はこんなにいい子に育たなかったんだ。
そんな事を思った刹那、その日二度目となる忠の涙がその頬に流れていった。