第一二九話 「初めての救難」
宮古島に到着した明石艦では、艦の命も乗組員達も総出での座礁潜水艦救難作業が始まっている。
まだお日様も東寄りに輝く頃合に到着できた事もあって進捗は良く、明石が座礁潜水艦の艦魂を担いで明石艦へと戻った後に治療を施すのと同時に、艦の外では明石艦工作部による救難措置がとられつつある。
もっとも最新鋭の工作艦だからと言って、いきなり座礁現場に赴いて魔法の様に着底した潜水艦を持ち上げる芸当を行う訳ではない。これは明石艦だろうが呉海軍工廠だろうが変わらない事だが、要修理船舶に対して一番最初に行うのはまずその損傷度合いの調査と確認だ。
座礁してるなら浮かせれば良いと言うのは易いが、着底した状態とそれに起因する艦底の具合を確認せずに下手に動かすと、必要以上に艦に負担が掛かってせっかく無事な外鈑や骨組みを傷めてしまう可能性が考えられるし、最悪の場合は艦体が真っ二つに切断されてしまう恐れだって有る。奇しくも人間が怪我を負った際と同じで、まずは下手に動かさないでどの様な方法で対処できるかを考える事から始まるのだ。
そして本日の明石艦のそんな初歩を担当しているのは、乗組みの水兵さんらが甲板で見守る潜水艦の真横でポツンと浮かんでいる、明石艦所属の通船だった。
普段は軽便な物資運びで重宝するこの装載艇は艇尾の櫓で進むちょっと前近代的なお船で、内火艇の如き立派なカノピーを持っている訳でもなければシート掛けの座席が設置されている訳でもない。上空から見ると肋材も含めた木製の構造が丸見えで、白い事業服を着た下士官兵が2、3人乗っていなければ漁船とすらも見分けがつかない程の代物である。
急行してきた明石艦の使わした尖兵として見ると随分とまた貧乏くさく見えてしまうが、この通船上の真ん中にて唸りを上げている小さな発動機こそが、実は明石艦による救難艦の調査と確認に大いに貢献していた。
『お! 班長、あがって来ました!』
『よし。どれどれ。』
やがて通船上にて待機していた下士官兵が、そんな声を放ってすぐ傍の海面に目をやる。親指より一回りくらい大きい管が艇上の発動機から伸びて垂れるその海面では、何か沸騰したかの様にボコボコと泡が海中より湧き上っていて、その内に泡に塗れる格好となって分厚い鉄の服に身を包んだ者が浮かび上がってきた。
『どおっ! 班長ー、こりゃちと運が悪いかも知れませんよー!』
『馬鹿、その鉄の服越しじゃ聞こえねーぞ。』
丸みがあって随分と四肢の太さが目立つ浮かび上がってきた男は、まるで身体中にドラム缶でも被せたかのような姿格好となっているが、決して彼は極度の肥満体型な体つきなのではない。金属の地肌の色合いが宮古島のエメラルド色の波間に鈍く輝く事でも示されるが、彼が身に着けている服は鋼鉄製で球に近い形状に真円のガラスを嵌めて彼の顔が覗ける点も含め、工場で作られた当初からこの不恰好な形で誕生した服なのだ。頭部も含めて全てネジで固定されるという頑丈な構造は水圧に耐え、尚且つ防水性を保つ為で、通船上の発動機を思わせる機械から伸びた管はこの鋼鉄の服の背後に繋げられている。言わずもがなそれはこの機密性の高い服の内部に呼吸の為の空気を供給する為で、せっせとか細いエンジン音を上げているのは実は送気のポンプであった。
そしてこれらの機能をもって潜水作業用とされているのが、座礁潜水艦と通船の間にある波間にプッカリ浮かんできた男の服なのである。もちろん重さは尋常な物では無く、海中で色々と作業してきたであろう男には自力で脱ぐどころか海面を泳ぐ事すら不可能で、通船上に待機していた男達が管と一緒に潜水服へと繋がれているロープを手繰り寄せて彼を艇上に上げてやった。
『どあーっ。・・・参りましたよ。ここ砂浜だと思ったら岩礁が有りました、岩礁。しかもちょうど潜水艦の真下です。』
『なにい、本当か? どうだ、艦に戻って詳しく話せるか?』
『はい、大丈夫です。それと推進器関係も潜舵も異常はありませんでした。』
艇上の者達の手でネジを外され、ようやく開いた頭部を覆う鉄球からは汗びっしょりの男の顔が出てくる。溺れる事こそ無かったが海中での長時間作業で相当に体力を消耗しているらしく、通船の上にて待機していた下士官に応じるその口調には乱れた息遣いが混じっている。潜って見てくるだけという形からは中々想像出来ない彼のお仕事であるが、鍛えに鍛えた帝国海軍軍人にこの程度で音を上げる者なぞいない。
下士官の号令が響くや浮上した男も乗せた通船の櫓が左右に振られ始め、それに伴って通船はまるで酔っ払いの千鳥歩きのような進み方で潜水艦を離れていく。木の軋む音と櫓が波を撫でる音を振りまき、蒼海に映える白い作業着姿の海軍軍人を乗せてえっちらほっちらと白波を立てていくその光景は随分とまた珍妙である。大真面目にお仕事をこなす当人達はそれを意識しなかったが、その頭上を飛んで行く一羽のカモメだけは、眼下に認めたそんなヨタヨタ行進の通船を見て甲高く一声。
うわ、だっせー。
決して人間達には悟られない悪意も込められた透き通ったその鳴き声は、付近の海岸一帯に木霊した。
一方、潜水艦に艦首を向けて錨を下ろす明石艦では、さっそく通船にて戻ってきた者達から調査内容の報告が伝えられる。工作艦としての救難作業では主役を演ずる工作部の最高責任者、工作部長はもちろん、艦後部中甲板に位置する工作部の会議室には伊藤特務艦長も足を運び、座礁した潜水艦の艦長もまたその場を共にしていた。
自分の艦の不始末故か、潜水艦の艦長さんは幾分申し訳なさそうな顔で臨席しているが、伊藤特務艦長を始めとして責める様な気持ちは明石艦の誰もが抱いてはいない。『まあまあ。』と言いながらお茶を勧めて傷心を労わり、死者や怪我人が出ず艦の喪失にもならなかった今回の事故を幸運だったと説いてやる。
佐久間艇長の逸話でも有名な潜水艦の事故は艦の性格上からどうしても沈没という事態に陥りやすく、お船の界隈の中でも飛びぬけて危険と隣り合わせの側面が強い。中には大正13年3月19日に発生した第四十三号潜水艦の如く、沈没した艦内と連絡が取れているにも関わらず救助が叶わなかったという悲惨極まりない事例だって存在するくらいなのだ。
『すいません。ご迷惑をおかけします。この通り、何とかお願いします・・・!』
『いやいやいや、とりあえず怪我人も無く何よりです。我々が必ず救難してみせますので、ささ、まずはどうぞ掛けてください。』
潜水艦の状態の調査報告を受けてようやく救難作業の段取りが形を帯び、各部署の行動計画も煮詰まった頃になるや、潜水艦の艦長は椅子から立ち上がって悲痛な声色で救難をお願いしてくる。特務艦長と工作部長がすぐさま彼の横に立って気にするなと声をかけてやったが、それは明石艦全乗組員の総意でもあった。無論、今回の救難任務に誠心誠意取り組むべくその場に紛れていた、艦の命である彼女も含めてだ。
『絶対に助けないと! 頑張んなきゃ!』
室内の誰にも聞こえぬ中にあって、強く握った両の拳を胸の前に掲げてそう叫ぶ明石。
時を置かずして救難作業の打ち合わせは終了となり、集まっていた多くの者達が帰るのに合わせて彼女も会議室を後にする。決意を改めてとりあえず自室に寝かせている潜水艦の艦魂の容態を観察しようと思いつつ、一度上甲板に出てみると時間も相当に経過していたのか、青や緑の色合いが陸にも海にも輝いているという宮古島の波間は西からの朱色の灯りで染められていた。南国独特の暖かい潮風こそ健在だが波頭の果てに沈まんとする太陽は段々と眩しさを捨てつつあり、砂浜に佇む現地の人々と潜水艦のシルエットが黒く一際目立っている。
そしてこんな環境下での救難作業は、明石の片手に収まる先程までの打ち合わせの内容を記したノートには書かれていない。ましてやもう少し時間が経てば視界の利かない夜を迎えるのだから尚更できる筈は無く、ただ危険が増すのみである。実施は明日の朝からの予定で、幸運にも潜水艦の座礁状態が非常に軽度な物であった事から、明石艦単独での牽引作業が試みられる事になった。局地的な岩礁の真上に潜水艦が着底していた事も、別に艦底に大きく岩がめり込んでいる点は認められなかったし、艦底の損傷も致命的ではないのは潜水艦その物に浸水が発生していない事でも明らかだ。岩の上を引き摺るのに際してちょっと傷をつけるかもしれないが、航行不能となるような心配は無いだろうと判断されたのである。
『う〜ん、標的じゃなくてお船の牽引って初めてやるなぁ。洋上給油とかともちょっと違うし、上手くいくと良いんだけどぉ・・・。』
自室へと通じる艦内通路を歩きつつ、明石はそんな声を呟きながら明日の救難作業に色々と思いを巡らす。その言葉通り彼女の分身である明石艦では他の艦を牽引するのが今回が初めてであって、実のところこれまでの艦隊訓練、個艦訓練なんかでも実施した事は無い。訓練支援の名目で艦砲射撃用の曳航標的を引っ張ったり、艦首から垂らした鋼索によって防雷具を引っ張ったりした経験は有るものの、何千トンもある一隻のお船を引っ張るのとは規模の面でも大きな隔たりがある。一応、特務艦長や工作部長らは長年の海軍勤務で以前に経験を得ているとの事で心強かったが、見た事も聞いた事も無い明石にとってはそう簡単に前途は明るい物だと捉える事はちょっとできなかった。
ただ、やがて自分のお部屋へと戻ってきてベッドの上に横にした潜水艦の艦魂を見ると、彼女の心は人間達の試みよりもやはり艦魂における軍医としての自分の試みの方により比重を置こうという意識になってくる。まだまだ無知で工作関係の知識も皆無に等しい自分が心配した所でどうにもならないし、そも満足に会話もできない間柄では乗組員達の作業のお手伝いすらもできっこないからだ。
『今は私にできる事をやるまでだよね。・・・よし、やっぱり脈も呼吸も変化は無し。唇の出血も止まってるし、ただ気絶してるだけだ。』
そう言うと彼女は横たわる潜水艦の艦魂の傍まで寄り、手首を触ったり胸に手を当ててみたりと患者の容態の確認を始める。人一人通るだけの潜水艦の昇降口から背負って抜け出る頃はよくその容姿が解らなかったが、舷窓より注ぐ朱色の明りによって明石よりも僅かに歳を重ねたような顔つきが今はあらわで、座礁した分身の影響ゆえかまるで眠っているかの如き安らかな表情が明石の瞳に映る。次いでそんな患者の表情から読み取る安堵は身体にあっても同じらしく、布団の隙間から入れて這わせた明石の手には患者の流麗で滑らかな肌の感触以外、なにかおかしいと思う様な感覚が一切無かった。
骨が折れてるとか、局部的な腫れとかが無いという事だ。
『う、待って。でも座礁してからずっと気絶してるって事は、ご飯食べてない筈。このままじゃ脱水症状になっちゃう。』
ようやく軍医さんとして集中力を発揮し始めた明石の頭は、こうして眼前の患者の対する処置の事でフル回転。唇の裂傷を抑えていたガーゼを交換した後、すぐに点滴の準備をして潜水艦の艦魂の安静を万全な物としてやり、就寝する為の寝床も兵員室にある予備の釣り床を持ち出して自身は床に雑魚寝の形で眠る。ベッドに寝かせた患者の為、その夜は硬さが際立つお布団での睡眠をとるのであった。
明けて翌朝は朝の甲板掃除もそこそこに座礁潜水艦の救難作業が開始され、明石艦の上甲板は艦首から艦尾に至るまで多くの物品と乗組員達により賑やかな状況となっている。さながらどこぞの市場の如き光景にも見えなくも無く、あちこちで上がる班長級の下士官らの号令は競りの時に飛び交う声をも思わせる。活気有る盛況の渦は乾舷下に何艘も連なる装載艇にも及んでおり、救難作業を始めるにあって明石艦は元気いっぱいだった。
特務艦長、工作部長らを始めとする明石艦幹部達も指揮を執るにあっては迷いが無く、それは座礁潜水艦の甲板にて作業に当たるあの潜水艦の艦長らも同じである。昨日の打ち合わせで事前整合が済んでいたのも有って、午前9時には明石艦から鋼索や浮標、そしてそれらを用いて潜水艦に処置を施す工作部の者達を満載した30トン運貨船が出動。その他の支援や人員移送の為のカッターや内火ランチもそれに続き、付近の波間は大小の船が入り混じるお船の大往来といった様相を呈した。
さて、こうして順調な滑り出しを迎えた救難作業。その要旨は汽車の如くお船でお船を引っ張るという非常に単純な代物でありつつも、実施するには手間も掛かるしそれなりの準備が必要であり、どこか適当に結んだロープを綱引きよろしく引っ張るだけで済むお話ではない。
なにせ1万トン近い鉄の塊が2千トンの鉄の塊を引っ張ろうというのである。鋼索を結わえる方法だってシャックル等の金具を用いて牽引中に伸びたり切れたりしないようにせねばならないし、設置場所自体も引っ張る力を艦体にも及ぼせるだけの強度の有る構造材をちゃんと選ばなければならない。
加えて引っ張る側の明石艦だって、ただ鋼索を持ってスクリューを回すだけでは実は牽引は不可能である。なぜなら明石艦は浮力という微妙な均衡を保って初めて水面に浮かぶ鉄の巨体なのだから、後進推力を発生させた所で自動車の様に真後ろに真っ直ぐ進んだりはしない。その付近の潮流、風向、風速、そして明石艦の艦体独自が持つ運動特性のクセや鋼索の張り加減なんかで、この1万トンからある巨体は実際はいとも簡単に水面上を並行移動してしまう。投錨しても錨鎖が水面に穿たれた点を基点に朝と夜で艦の向きが間逆になっていたり、軍港などで重さも馬力も天と地ほどの差の有る曳船によって戦艦や空母といった特大の大型艦艇が簡単に向きを変えていたりするのと全く同じ原理で、座礁した潜水艦を引く現在に当たってはこの辺りを明石艦単独で解決せねばならないのだ。
単純に見えて準備に意外な手間がかかる救難作業の一端である。
もっとも最新鋭工作艦配属の男達はそんな事を百も承知で、既に対応策は考えてある。明石艦より運貨船を筆頭に数多くの装載艇が潜水艦へと向かっていく中、それらとは別に明石艦の左右真横の海面にて活動中の2艘の内火ランチがその役目を負っていた。
『ニジュウサン、テン、ヤー!』
『よし。艇長、距離は大丈夫です。水深も許容範囲に収まってます。』
『うん。小錨降ろせー。おーい、錨鎖の降ろしは気をつけろー! スクリューの旋回範囲には間違っても通すなよー!』
内火ランチに乗る白い事業服姿の下士官兵達がそんな声を放つ最中、内火ランチの甲板上からは艦首に付いている主錨と比べるとずっと小さい小型の錨が海面に降ろされていく。小錨に繋がる鎖は彼らの真上に位置する明石艦上甲板より垂らされており、その内にダビッドを用いて少しずつ鎖を降ろしていく水兵達の掛け声がそこから響き始めるが、片舷だけでなく両舷で行われているのだからその賑やかさは随分と際立つ。
『降ろし方待てー!』
『ちょい右だ。少し張り気味で降ろすんだ。・・・おし、いいぞ。』
『よし、降ろせー!』
細心の注意を払って錨鎖巻取機の動作を指示していく彼等。
明石艦真上の上空から見るとまるで明石艦中央より細い2本の手が左右に伸ばされているような姿となっていくのだが、この小錨の左右両舷への設置こそが牽引中の明石艦の姿勢を維持する為の対応策だ。
重い物を先に括り付けた紐を振り回すのと同じで、潜水艦を軸に鋼索を隔てた明石艦が後進を掛けた際、程度の差こそあるが艦が左右に振られる格好となるのを危惧した訳であり、海面上での左右へ滑る様な動きをこの二つの小錨で抑制しようという腹積もりであった。
人間に例えるとしゃがみ込んだ上に両手を地に着けたような物で、おかげで明石艦の洋上での動きは完全に止められ、お船独特の波による甲板の動揺が早くも上甲板からは消え始めていく。
『おー、なんか不思議ー。全然揺れないや。』
ちょうどその作業を甲板で見ていた明石は、いつも必ずある筈だった動揺が消えた事にちょっとした感動を覚えている。どういう縁か船の命として生まれた彼女にしたら、自身の分身が波に揺られるのはある意味では心臓の鼓動と似たような物だと捉えており、時に大時化の海にて気分が優れなくなる事があったにしても、生きる上では常に身近に存在していた息吹にも等しい。それがふと消えた事は彼女にとっては極めて稀有だった上、安定感が増した足元の感覚はとても新鮮であった。
こうして救難作業の準備は着々と進められ、潜水艦と明石艦の間に100メートル以上にも及ぶ長さの鋼索が渡されてようやく完了。牽引状態を見張る為の人員も明石艦と座礁潜水艦、その間に張られた鋼索の付近に装載艇に乗って配置され、いよいよ明石艦の艦橋に伊藤特務艦長による作業開始の命令が飛んだ。
『まずは後進だ。機関の回転に注意。おい、作業の見張りからの信号を見落とすなよ。』
『舵は動かすんじゃないぞ。それ、リョーゲン後進ビソーク。』
『はい、リョーゲン後進ビソーク。』
男達の号令が飛び交う羅針艦橋前面の窓からは、複数のボラードより結ばれて前方へと伸びる明石艦の艦首が望める。左舷側、右舷側のボラードから伸びる鋼索はそれぞれ3本ずつのグループで左右に別れ、合計で6本が艦首真正面の海岸に座礁する潜水艦へと伸ばされている。次いで自重で大きく垂れ下がっていた鋼索は明石艦が後進を掛け始めた事によりみるみる内に弛みが無くなって行き、鋼索自体が持つ強さが試される頃になるとほんの僅かにだがビーンと鉄の張る音が響き始めた。
次いで明石も牽引作業の開始を見守るべく羅針艦橋天蓋へとやってきていた所で、鋼の琴線が奏でる甲高い音と回転を上げ始める機関の伴奏を耳にしながら、緊張の面持ちで鋼索が伸びる前方の潜水艦を注視する。
『いよいよだぁ。上手く行ってねぇ。』
それほど危機迫る程の気持ちのざわめきが有った訳ではないが、彼女自身ではどうする事もできない様子をただ眺めるしかない中にあっては、どこか天にも祈る思いが湧いて来るのも無理は無い。落ち着かない気持ちが無意識の内に明石の両手を擦らせる中、明石の足元に位置する羅針艦橋では機関の回転をさらに上げよとの命令が発せられる。より機関の推力を高めて引っ張る力を得る為であったが、時を置かずして羅針艦橋にはやや上擦った感が滲む男達の声がポツポツと現れた。
『む、動きませんな。一応は微速の回転までは上げてるんですが・・・。』
『作業見張りはどうだ? 潜水艦の方は何とも無いのか?』
『ん〜〜、あっちも問題はないみたいですな。もっと回転を上げてみますか?』
『ぬうう、動かない〜。』
羅針艦橋前面の窓から双眼鏡で覗き込みつつ、伊藤特務艦長らが悩みを得ての渋そうな表情を浮かべる。口々に放つ言葉にも思考が乗せたであろう不旋律が漂う中、同じ具合となっている明石の声もそこには混じっていた。
困った事に明石艦が後進をかけても潜水艦は一向に動いてくれない。
ギリギリと鋼索の締まる音色がひっそりと波音に混じって鳴り続けているのは、この鋼索なりに己が使命を果たさんと一生懸命になっている印のような物で、後部煙突より濛々と上がる煤煙と共に唸りを上げる明石艦の機関も例外ではない。決して海軍艦艇の中でも強力な部類の機関を装備している明石の分身ではないが、駆逐艦4隻分にも匹敵する巨体を日頃操るべく、これでも彼女には「よーい、どん。」の合図で馬1万頭と綱引きをしても五分の勝負に持込めるほどのパワーが備えられており、鋼索を介して潜水艦を引っ張る力は自動車や汽車なんかよりも遥かに強い代物となっている。にも関わらず眼前の潜水艦がビクともしないのは、明石にとっても特務艦長らにとっても大変に意外な事であった。
『う〜〜ん、後進程度じゃダメなのか?』
『いや〜、しかしかといって全速かけて潜水艦が壊れやしませんかね?』
『見張りの連中は何とも言ってこないですね。一回、潜水作業員に見させてみては?』
のっけから救難作業の進捗が止まってしまう事態に、羅針艦橋の中では幹部連中が早くも協議の態勢に移る。明らかに引っ張る力が不足しているのはすぐに全員の首肯を得る所であるが、だからと言って力任せに過ぎる選択肢を選ぶと潜水艦の艦底を損傷しかねない。せっかく助けに来たのにより酷く傷つけてしまうなんて笑い話にもならないし、工作艦としての明石艦の面目も丸つぶれである。
故に話し合いはちょっと長い時間に及んだが、やがて明石艦や潜水艦の付近で作業全般を見張っていた装載艇が一旦帰ってきて、その乗員達より潜水艦の様子を聞く事で判断は下された。
牽引作業中にも妙な異音や艦内への損傷が発生していない事に鑑み、明石艦は現在向けている艦首を浜辺の潜水艦から沖の方へと転換して鋼索を艦尾に繋ぎ直し、後ろ向きで引っ張るのでは無くより機関の力を発揮しやすい前進状態での牽引作業を実施する事に決まったのだ。
朝から何回も装載艇を往復させて張った鋼索、正確に位置を見定めて投錨した両舷の小錨もやり直しとなるも、それが僚艦を助ける為なら面倒だなどとも言っていられない。お昼も目前だったが昼ご飯の時間も幾分延ばして乗組員は精を出し、潜水艦の水兵さん達も参加しての特急作業が開始。10分や20分で終わる筈も無い回頭と位置固定、鋼索の張替えはもうすぐ夕方も迫る頃合となった午後3時くらいに終わり、昨日に引き続きまたしても夜陰で中止となる事態への憂慮が次第にその場にいる者達の脳裏を過ぎる。おかげで伊藤特務艦長以下、明石艦の男達と彼らに見えぬ艦の命は焦りの色合いがその表情に浮かび、機関の高出力によって潜水艦が何とか離礁してくれる様祈る気持ちがだいぶ強くなってきていた。
『ううぅ〜、お願い〜。動いてよぉ〜・・・。』
まだ朱色は滲んでこそいないが明らかに西の空に傾いた太陽が青空に煌く下、上甲板に出て額に水平に片手の手のひらをかざした明石が、ちょっとハの字に歪めつつある眉で心配する表情を作って呟く。一応は潜水艦の艦魂の様子をちょくちょく見ては都度異常が無い事を確認している彼女も、意識が戻っていないと言えど艦の命たる者の身体に目立った変化が無い事から潜水艦の損傷具合はそんなに心配してはいないが、自身の分身が関わる他艦の救難作業が不調に終るのは何とも歯がゆい。最新鋭工作艦と誰もが認める明石艦が救助失敗と来れば帝国海軍内でも落胆は大きい筈だし、何より以前に高雄や愛宕から教えてもらった戦時に想定されている任務への前途には、大きな山谷となりかねない。
やっぱダメじゃん、アイツ。
親友ながらも無愛想で口の悪い神通ですら言わないであろうそんな言葉が囁かれるかもしれない事を考えると、艦魂である明石としても是が非でも艦尾に望む潜水艦の救難は成功させたかった。その気持ちも強かった故か、やがて明石は冷静に考えれば無駄だとすぐに解るのも無視して腕まくりをしながら艦尾に向かい、午前中と同じく艦尾に備えられたボラード等より伸ばされている何本もの鋼索の内の一本を握る。重く完全に展張した鋼索は持ち上げる事すらも適わなかったが、片膝を着いて強く握ると後ろに倒れる様な格好となって力を込め、彼女が持つ限りの全力でもって引っ張ってみた。
『ふんにゅううぅぅ〜・・・! 動けぇ・・・!』
食いしばった歯の隙間よりそんな声を漏らし、顔もやや赤くなる程に力を奮い立たせる。おそらく今までの生涯で最も気張った瞬間であったに違いない彼女であったが、総勢700余名の明石艦の男達が手を焼く程の潜水艦の座礁ぶりは甘くは無い。浜辺にて波に打たれる潜水艦どころかそれに繋がれた鋼索すら、明石の力ではほんの数ミリ程度も動じなかったのである。
やがて明石は止めていた息を開放しつつ鋼索から手を離し、全力を出し切った事でおぼつかない足取りにやや姿勢を崩しかけつつその場に立ってみせるが、疲労した四肢もさる事ながらどうにもできなかった事への心の衝撃もまた大きい。くっきりと鋼索の跡が出来て僅かに血の滲む箇所も見受けられる手のひらに視線を向けながら、助けてやる事が出来ない自分の無力さが悔しく、そして悲しかった。
『ういぃ、痛いぃ・・・。』
指を折り曲げて握ろうとするという簡単な動作も、苦痛により遮られてしまう両手。それは簡単な事すらできない今の自分を体言しているかの様に意識の上で変換され、彼女の胸の中に僅かにあった自信と望みを次第に薄れさせていく。まだまだ青い晴天は保たれる下、久々に得た大きなショックであった。
しかしそんな時、傷心の明石の下には羅針艦橋の見張り所より響く水兵の声にて朗報が届けられた。佐世保鎮守府より急派されたというもう一隻の救難艦が、ようやくこの宮古島へと到着したのである。
『あ! おい、アレだ。佐世保からの増援。由良艦だぞ。』
『はい! 方位310度ー! 由良、見えましたー! 近づきまーす!』
その報せにわだかまっていた色んな思いを一瞬忘れたのは明石艦に居る誰もが同じで、報告の上がった艦橋すぐ横の見張り所には羅針艦橋の偉いさん方が、次いで方位の上で艦首左舷寄りであった事から左舷上甲板には多くの下士官や水兵さん達が出てきて、波頭に向こうにもくもくと盛大な煙を上げている船に目をやる。真っ黒い煙は激しい重油の燃焼を表していて、その艦が相当の速力をもって接近しつつある事が示される。
明石も傷ついた手を宙に掲げたままで急いで艦尾甲板から左舷の方へと回り込み、乗組員達の頭の隙間から注目されている来援艦の姿を眺めた。
その艦の名は見張員の声にもあったとおり由良といい、旧式ながらも帝国海軍二等巡洋艦という体面を持つ立派な軍艦である。大正の終わり頃に何隻も建造されたいわゆる5500トン型と呼ばれる巡洋艦で、最上型や利根型のような集合煙突も持たぬ甲板には、太い直立煙突が3本並んでいる。艦首寄りに箱型の艦橋構造物を備え、そのすぐ背後と艦尾寄りの箇所に設けられた高いマストがエメラルド色の宮古島の海に映える。濛々たる煤煙に塗れてもその存在感は失われず、巡洋艦独特の流麗で細長い艦体は如何にも速そうな印象を持たせる。
そしてそんな由良艦の艦影は、遠目から見ると明石の親友の分身とそっくりであった。
『およぉ。 神通に似てるぅ。』
ほぼ煙突の数が違うだけで主砲を初めとした武装の配置なんかもそっくりな事から、同じ第二艦隊所属にして大の仲良しの分身である神通艦が明石の記憶より検索されるが無理も無い。しばらくして明石艦の真横へと横付けしてきた由良艦はやっぱり見れば見るほど似ていたが、それはこの由良艦が神通艦と同じ設計思想、設計時期を得て作られているからで、艦としてはその直系の先輩格に当たるのだ。
『ういちち・・・。そ、そういう訳なんですぅ。』
『そうかそうか。とにかくまだあの子は無事なワケだ、良かったじゃないか。ただ、無理しちゃって軍医が負傷したら元も子もないよ。出来ない時は一旦止まれる勇気も必要さ、明石。』
時間は既に空が朱色を帯び始める頃、救難の為に来援した由良艦の幹部達が明石艦へとやってきて、潜水艦の艦長さんも交えての再度の打ち合わせを実施。それに合わせて艦の命達もまた救難作業における情報交換を行っており、自室にて手に包帯を巻きつけながら状況を説明する明石に、軍帽からはみ出る長い前髪を掻き分けながら応えてくれる由良の姿があった。
神通や那珂の先輩にして、昨年までは同じ第二艦隊の仲間であった五十鈴の実の妹でもある由良は、身長こそ明石と同じくらいながらも顔つきは30代にも迫るくらいの大人の女性で、左右で長さが違う前髪はなんともおしゃれ。それでいて若さと老いが同居する顔立ちは、なんだか後輩の神通や那珂の方がより歳を食っている様にも見える。もっとも世代的にも分身の類別の上でも友人らと同じである事から、彼女も例に漏れず支那事変や上海事変に参戦した経歴を持つという立派な猛者で、現在は連合艦隊直卒の第六潜水戦隊旗艦として主に各艦隊の訓練支援を行うというベテランの艦魂だ。話を聞くに本籍地の佐鎮で整備を行う際にちょうど今回の潜水艦座礁の報に出くわし、慌てて戦隊司令部の要員を降ろして出動してきたらしい。
おかげで事故の事情に関する情報を殆んど持てていなかった由良であるが、新米軍医の明石がやや気落ち気味な口調で語る経過を聞いてようやくその状況を打開。ベテランらしく落ち着いた声で善後策に関する知識を披露してみせ、奇しくも人間の海軍軍人達が会議室で煮詰めていた救難作業の今後と同じ内容を明石に教え、傷心気味だった彼女を元気付けてやるのだった。
そして翌日。
明石艦と由良艦で協力する救難作業はもちろん朝一番で開始されたが、この両艦が仲良く並んで一緒に鋼索越しに潜水艦を引っ張る訳ではない。艦尾に鋼索を繋ぐのは本日も明石艦ただ一隻で、浜辺にて鎮座する潜水艦を背後に睨んだままである。
ただ、乗組員達の殆んどにあっては明石艦の軍艦旗の向こうを見る者がおらず、羅針艦橋の男達も艦の後ろではなく真逆の前方を注視している。そして彼等が眺める沖合いでは、昨日と同じように濛々と煤煙を上げながら海上を突っ走る由良艦の勇姿が有った。
『おおー、はええ。さすが巡洋艦だな、おい。』
『30ノットからでてるんじゃねーか? おう、そういや小松。お前、何年か前に巡洋艦乗ってたんだろ?』
『ああ、そうだよ。でも格好良く見えて今頃あっちの甲板じゃ、口も開けてられんくらいの風圧が有るんだぜ。』
どうしても特務艦という身の上がある為、全速力をもって波間を駆ける巡洋艦をこうして見る事ができるのは明石艦では珍しく、甲板上で眺める多くの乗組員はその勇壮な姿に感心の声を漏らしている。由良艦上の三本の煙突から逆巻く黒い煙はさながら漆黒の竜巻が横になった様な姿を成し、艦首で切り裂いて高く聳える波飛沫は数メートルもあろうかという巨大さ。5500トンの鉄の塊が時速約60キロメートルでひた走るのに伴い、明石艦がヨタヨタと航海する中では絶対に見る事のできない光景がそこには現れているのだ。
そしてそんな由良艦の艦首にて連峰を作る波こそ、明石艦の羅針艦橋で見守る伊藤特務艦長達が待ち望んでいた物であった。
しばらくすると由良艦が高速航行する事で起きた曳き波が明石艦へと押し寄せ、艦は艦首と艦尾を交互に持ち上げる形で大きくゆっくりと動揺し始める。次いで曳き波は明石艦を揺らし終えるとそのまま通り過ぎて宮古島の岸に向かって突進し、かの座礁した潜水艦に艦尾から覆いかぶさっていく。
その刹那、後進ながらも明石艦があれほど引っ張っても動こうとしなかった潜水艦において、姿勢を捉える上で最も目立つ艦橋部分がなんとグラグラと左右に揺れ始めたのだった。
『おお! 動いた、動いたぞ!』
それと同時に潜水艦のすぐ傍の海面にて、装載艇に乗って作業を見張る役目を負っていた下士官が声を上げ、すぐさまその状況は手旗信号によって明石艦にも連絡される。離礁するまでは行かなかったがこの動揺は潜水艦の着底具合が僅かに崩れた証拠に他ならず、曳き波に呑まれた事で自然と発生した浮力に因る物であった。単純にお風呂にて風呂桶を浮かばせるのと原理は全く同じなのだが、それが2千トンの鉄の塊にもちゃんと適用されるというのだから、自然とは恐ろしい物である。明石艦の持つ1万馬力のパワーなんかよりも、このごく有り触れた自然現象こそがこれ程までに有効なのだ。
『おお! 動いたぁ!』
昨日の救難作業に焦って絆創膏だらけとなった手で双眼鏡を眺める明石が、ようやく進展し始めた救難模様に思わず叫ぶ。見晴らしの良い羅針艦橋天蓋に胡坐を掻き、曳き波でゆっくりと揺れる自身の分身によって時折片手を支えとして伸ばしたりしながらも、双眼鏡の向こうに見えた潜水艦の小さな動きに彼女の表情も多少明るくなる。
『ようし。おい、由良にもう一航過してもらうように伝えてくれ。次の波でこっちの牽引も始めるぞ。』
『はい!』
その真下にて同じく作業の安危に光を得た特務艦長らも声の覇気が増し、機関の回転を上げる準備をするよう命令が飛ぶのに時間は掛からない。ほんの僅かでも潜水艦の艦底が岩礁から離れたなら、後は曳船が普段の日々で自分より何十倍もある大型艦を動かすのと同じ様に、明石艦でめい一杯の力で沖まで牽引してやる腹積もりである。
実際には明石艦と潜水艦との距離が100メートル程有る為、増速を始めるタイミングを合わせるのが難しい側面も存在したが、何艘もの装載艇で潜水艦の周りに配置していた作業見張りの者達の補助が得られれば、まさに鬼に金棒。失敗しない訳がなかった。
『上がりました! 作業見張りの旗が上がりました!』
『よし、一杯!』
『イッパーイ!』
そんな号令が飛ぶとかねてより艦内奥深くで準備していた機関が回転を上げ、後部煙突からは白い煤煙が塊となって一気に巻き上がる。転じて海中では明石艦の2軸のスクリューが突然とも形容できる瞬発ぶりで高速で回り始め、潜水艦を引く為の推力を急激に作り始めた。
するとしばし海上の定点に留まっていた明石艦は、まるで後ろから尻を突かれたかのように前のめりとなりながら急発進。落成した際の公試にて記録したのが19ノットくらいであるから大した速度は出なかったが、唐突に動き出した1万トンの巨体に艦橋にいた幹部達は元より、甲板に居た多くの乗組員達がそれぞれ姿勢を乱してしまう。
艦の命の明石もその直前に瞳に写した光景に笑みを浮かべて立ち上がっていたのだが、急な反動でその場に思いっきり転んでしまった。
『わああっ・・・! ぶべえっ!』
予想できなかった分身の動揺は受身を取らせる余裕なぞ与えてくれず、明石は顔面を派手に甲板に打ち付ける。鼻を筆頭に顔全体に激痛が走りしばらくは顔を上げる事ができなかったが、表情はともかく気持ちの上では明石は転んだ事でめげてなぞいない。
なぜならやがて鼻を押さえながらもゆっくりと立ち上がる彼女の涙目には、明らかに宮古島の砂浜を離れてフラフラと絶えない動揺をしながら波間に浮かんでいる、あの潜水艦の姿が在ったからだった。
『いちち・・・。でへへ、や、やったあ・・・。』
明石艦到着より3日目の朝、宮古島の岸に乗り上げていた潜水艦はようやく離礁した。
そしてこの時、明石は鼻を擦りながら、生涯で初めて救難作業を行ったここ一連の日々をふと思い返す。「救難」という言葉は工作艦として、そして艦魂社会における軍医として自身の役目に非常に深く関わる代物である筈だが、その実情として人間達の試行錯誤を垣間見れた事、患者を前に慌てふためきつつもなんとか学んだ知識を生かして相応の処置をできた事は、後に特設工作艦群の教官、上司となる彼女にとって大きな収穫であった。
〝難〟事に陥る者を〝救〟うべく駆けつけるという実体験を得たのと同時に、〝救〟う事とは如何に〝難〟しいかを身をもって知った明石だった。