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第一二八話 「初陣に惑う」

『ふいぃい〜、終わったぁ。』


 すっかり日も暮れた最上甲板を歩く明石(あかし)は、ノートを片手にしたまま両腕を天に伸ばして肩の疲れを癒す。愛宕(あたご)の訓話を契機に一生懸命になった今日は一日中自身の分身の中を歩き回り、可燃物や爆発物の保安状況を細かに調べた事で全身綿の様に疲れていて、どことなくその足取りは重い。ついさっきまで握りっぱなしだった事によって右手の中指にはくっきりと鉛筆の跡が残り、分厚い台帳を隅から隅まで注視しまくった丸い目はちょっと充血も見られる。

 猛吹雪の小松島以来、明石としても久々の激務であった。


『夕ご飯、の時間は過ぎてるかぁ・・・。しょうがないよね、お夜食ちょっとだけ貰おうっと。』


 確認項目が多くて随分と遅くなってしまったお仕事の時間は、残念ながら明石が夕食を調達する為の時間を奪ってしまっている。乗組員さん達における三度の飯を調理している時に調達するのが普段の事ながら、19時も過ぎた今の時間は烹炊所に行ってもお鍋や椀の洗浄ぐらいしかやっていない。疲労が極まる本日において夕飯を是非とも食べたかった明石にしたらなんとも残念な事であるが、ご飯の機会はまだ完全には失われていない為にその表情もそれほど崩れはしない。

 彼女の呟きにあったように帝国海軍の艦船勤務において、食事の回数は実は4回あるからだ。もちろん朝昼晩と食べるのは一般家庭のそれと全く同じで、いわゆる4回目の食事というのは夕飯と朝食の間に挟む軽い摂食、つまり夜食の事である。

 帝国海軍に限った事ではないがお船は四六時中海洋をひた走る特性が有るが、それを操る人間達において睡眠に始まる休む時間が無いという形で日々を過ごすのは絶対に不可能。乗組員さん達が疲弊しきって3日と経たぬ内にお船の運航に支障をきたすのは間違いない。だから殊に外洋を活動の場とするお船では乗組員を大きく2グループ、もしくは3グループに分けて交代で勤務させており、1日を通しての睡眠と食事、入浴等の時間を両立させた上で船上でのお仕事を行ってもらっている。

 明石が目をつけたお夜食もまたその一端だ。




『今日の献立は・・・。あは、うどんだぁ。』


 艦内通路の一角に張り出されていた週間献立表を前に、中々食卓に並ばない麺類が供されると知って明石は喜ぶ。夕食の様にご飯と味噌汁とおかずがセットになっていない為にちょっと物足りなさこそあるが、しいたけの香りと僅かなお肉が詰め込まれたうどんを早くも想像し、疲れを忘れて明石は自室へと向かう足取りを軽やかにした。

 本当ならこの夜食は兵下士官のみに適用される食事で士官には食べる権利は無いのだが、艦魂である明石は一応は軍医少尉とされているという自身の立場を勘定して遠慮するつもりなぞ微塵も無い。


『腹が減っては戦はでき〜ん!』


 まるで自身の食欲とそれに連なる企図を正当化するかのように声を放ちながら、まだしばらくある夜食までの時間を過ごすべく部屋へと歩いてゆくのだった。




 独り言を伴う底抜けの明るさは明石の持ち味ながら、随分とどこか前向きな心持となっている彼女には理由が有る。

 馬公の波間に身を浮かべてそれ程時間を得ていない明石艦なのだが、来月半ばくらいで前期艦隊訓練は終了迎える予定である。例年の如く最後の終結地は九州南端の有明湾となり、既に3月にも入った頃合を考えればそう遠い話ではない。次いでこの馬公湾にて各戦隊での独自の任務が実施されている手前もあった為、明石艦はあと数日したら単艦でこの馬公を発ち、第二艦隊の仲間達に先駆けて有明湾へと向かう事になっていた。任務は軍港とか要港としての海域ではない有明湾にて、来る艦隊集結の為の桟橋や浮標なんかを整備しておく事である。

 工作艦の明石艦らしい地味なお役目だが、乗組員達同様にその任務は決して安直にして楽な代物ではない事を、明石は以前に学んだ戦時における自身のお役目の事も有って強く意識した。電気も堤防も曳船も無い僻地にて傷だらけの仲間を救わねばならない事が予想されるなら、今回の有明湾への先行はまさにその予行とも捉えれる内容。加えて飛龍(ひりゅう)を始めとする同期の者達への競争心も抱く様になってきたここ最近にあっては、工作艦の艦魂である彼女なりに実力を伸ばし、経験を積む絶好の機会でもある。


 故に明石はこの夜、既に第二艦隊が昼頃にこの馬公の海を離れて台湾の高雄へと出発し、馬公湾にただ一艦残るというなんとも寂しい環境下にある事も全然気にはならない。その内に烹炊所から銀バイしてきたうどんをすすり、もぐもぐと頬を上下させながら声を漏らすというだらしない格好となりつつ、有明湾に到着してからの多様な工作任務に色々と考えを巡らせるのだった。


『んむ〜。桟橋の設営か。ほれならきっと他の所でもやるから、覚えておいてひょんは無いね。後で工作部の計画表とか探してみうかぁ。・・・うどん、うめぇ〜。』






 こうして明石は再び仲間達と別行動となり、特務艦艇特有のたった一人でのお仕事に従事する事になった。出港の準備も終えてしばし羽を伸ばした馬公のさざなみより抜錨したのは翌々日の3月4日で、右舷に台湾、左舷には遥かに続く支那の岸を眺めて台湾海峡を北上して行く。


 幸運にもその途中、明石艦が進む海域にはちょうど付近の海域で警備の任をこなしている四水戦の姿が在り、一足先に内地へと向かう明石艦の前檣には乗組員達によって高々と仲間達への挨拶を示す信号旗が連ねられた。

 どうやら馬公湾で別れた第二艦隊は高雄に向かった後、そこを拠点に再び各戦隊別での戦務を実施しているらしく、四水戦は偶然にも台湾北部の海域で警備を担当していたようだ。


 声を交える事が出来る程に近くは無い為に遠方に艦影を望むだけの静かな挨拶であったが、双眼鏡を用いて仲間達の姿を求めていた明石には嬉しい偶然が有った。


『うおぅ! あはは、目が合ったぁ!』


 見晴らしの良い羅針艦橋天蓋上にて掲げた双眼鏡を経てその向こうに見えたのは、四水戦で最も大きな艦にして旗艦でもある那珂(なか)艦。細長く流麗な艦体に4本煙突と極めて珍しいシルエットは遠方からでも一目瞭然だったが、その艦橋付近をたまたま見るや、そこには双眼鏡をこちらに向けた明石と同じ白い第二種軍装を身に着けた女性が立っていた。肩に掛からないくらいの位置で切り揃えた黒髪を揺らし、明石よりも僅かに大きめな身の丈を持つ姿の彼女は、明石の友人の中でも最も品の有る人物である那珂。

 どうやら向こうも同じく付近を通りかかった明石艦に気付いて双眼鏡を覗き込んだ直後だったらしく、ちょっと驚いた様に一度双眼鏡を眼前より除き、お姉さんとそっくりな釣り目を丸くしてじっと眺めてくる。思わず明石はその顔に双眼鏡を覗き込んだままで笑い声を漏らすのだが、再び双眼鏡越しの望遠を始める那珂もまた明石の口元に気付いたようで、肩の高さで右手を振って無言のままの挨拶を送ってくれた。


『わ〜〜〜! 先に有明湾に行ってるね〜!』


 届きやしないであろう事は承知ながらも、親友の姿を目にした明石は無意識の内に声を放ってしまう。左手を頭上に掲げて大きく左右に振る元気の良いその姿を目にして、遠方にて双眼鏡越しに眺めている那珂は笑みをより一層深くした。


『ふふふ。明石はいつも元気だね。有明湾で会おうね。』


 双眼鏡の丸い視界の向こうに認めた光景に、ついつい那珂もまた呟く。お船としての経歴の上でも、そして艦魂としての容姿の上でも10年は差が有るこの二人だが、普段と同じように本日もまたとても明るく清々しい気持ちでの交歓をして、台湾海峡の海上に別れたのであった。






 翌、3月5日。

 明石艦はようやく台湾海峡を抜け、右舷の水平線に基隆(キールン)市の港を微かに望みながら航海を続けていた。付近一帯の天候は変わらず快晴が続いており、見渡す限りの青い空は遥かに九州までも至っている様である。過ぎ去る潮風は暖かい反面強さはそれ程でもなく、軍艦旗を撫でて行く具合は人の肌にあっても極めて心地が良い。まして艦隊を組まずに独行する明石艦では複雑な航行序列の転換等の訓練が意味を成さない為、最上甲板にて目にする乗組員達は機器の手入れをするだけのなんとも楽な一日を過ごしている。

 明石もお勉強こそ手を抜かないが、南国一歩手前の非常に過ごしやすい気候で気分は楽になり、たまに休憩をとるべく自室から上甲板へと出るや、暖かい潮風に操られる様にして体操を始めたりしていた。


『ういっち。・・・おいしょ、っと。』


 人間の乗組員達の様に毎朝甲板で勢ぞろいしてやる訳ではない彼女の体操は、班長格の下士官の号令も無ければ一緒にやってくれる人もいない。各種作業の邪魔にならぬ様にと艦首の主砲前の甲板上にてたった一人で四肢を振り回すのは傍から見るとちょっと寂しげな光景かもしれないが、艦魂である明石にとってはいつもこんな物である。加えて160センチ半ばと女性としては割りと大柄な体躯を持つ故、長い手足によって大きな動作が連続するというその姿は、個人の体操としては中々に立派な光景であった。




 ところがその時、膝の屈伸の為にちょうどしゃがみ込む様な体勢となっていた明石の背中からは、何やら少しずつトーンを高めていく男達の騒ぎ声が木霊してきた。


『あ、班長。何か分隊長が呼んでおります。』

『え? あれ、さっき金物の整備記録出した時に会ったけどな?』

『いやあ、でも、すぐ来てくれとか言っておりました。なんか他の分隊でも集合かかってるみたいですよ。』

『お、そうか。解った行って来る。みんなここでちょっと待ってろ、いいな。』


 やりとり自体は普段のお仕事の延長にありそうな内容だったが、天候を始めとする変化が少ない環境下にあった明石には、彼等の声はちょっと際立って耳に届く。両膝を曲げたままで明石は振り返り、主砲の付近で去っていく班長と入れ替わりに伝令として来ていた水兵に話を聞き始める乗組員達の姿に視線を投げる。ふとした変化をどうやら彼等も敏感に察したらしく、主砲の手入れ業務を一時中断して伝令の水兵さんの周りに集まりだしていた。


『およ? なんだろ?』


『なんだ? 他の分隊も呼ばれてんのか?』

『ああ。そういや工作部長も血相変えて走ってたな。』

『あん? 工作部長もか? 珍しいな。』


 乗組員達の話し声を聞くに、何やら艦内の責任者格の人々が集合を命ぜられているらしい。その中には基本的に艦の運航とはちょっと距離を置く工作部長も含まれているそうで、航路や航海日程のちょっとした変更等とはまた違う懸案が発生しているのだろうと明石は察する。いつぞやの小松島沖での任務と同じく工作部による工作力支援を必要とする懸案であろうかと明石は考えていたが、有明湾で行うお仕事に関しての予定は乗組員らの間で既に調整済みの筈で、それこそ血相を変えて走っていたという工作部長の様子は有明湾の予定とはそぐわない姿である。

 やがて小松島でのお仕事を思い出す事で、必然的に明石の脳裏には一番印象に残っているあの吹雪の海での死闘が蘇って来るのだが、その記憶が持つ自身も含めて多くの乗組員達を苦しめたという点に明石は刹那、ハッとした。


『も、もしかして、どこかでお船が・・・!?』


 瞬間的に思考したのは、自分以外の帝国海軍艦艇が何らかの原因で損傷を被った事態。大小含めて100隻以上は艦艇が存在する帝国海軍であるからどの艦までかは見当もつかないが、むしろ艦の固有名詞なぞ今の明石にはどうでもいい。帝国海軍の中でも僅かしかいない工作艦の自分を日頃より意識し、その上で新米なりにも艦魂としての軍医さんの自負だって相応に有る彼女にとって、損傷艦がもし存在したとなれば真っ先に駆けつけねばならない事態であると捉えている。

 いても立ってもいられず、明石はすぐさま甲板を蹴って明石艦内の全ての情報が集まる場である羅針艦橋へと走った。




 そして不幸にも明石の瞬間的な予感と憂いは当たっていた。

 ちょっと息を切らし気味で羅針艦橋へと飛び込んできた明石の前で、神妙な面持ちを一様に並べた明石艦幹部連中の声が交錯している。


『電文入りました! 佐鎮からです!』

『沖縄の宮古島か。航海長、すぐに航路算定。頼む。』

『訓練中の座礁だ。怪我人は無し、ただし艦の前後進は不能だと。』

『一応佐世保からも救難の艦は来るらしいが、本艦でも牽引はやると思うから、用具類の準備はしておくんだ。』


 10人以上の男達が各々の職域に関わる声を無造作に放つ為、汗も滲む明石の耳で聞き取れるのは断片的な語句ばかりだ。焦りの色合いも浮かぶ表情と緊張感に満ちた声が緊急の場に対面した時だという事を示し、時折明石が息を整える横を何事かを仰せつかった水兵さんが一目散に走り抜けて行く。次いで段々と荒くなっていた呼吸を静めつつあった明石は艦橋内の隅へと移動し、邪魔にならないようにしながらも何が起こっているのかを彼等の断片的な声から聞き取るべく耳を澄ました。


 文字通りの立ち聞きの格好となる訳だが、それによればどうも沖縄県の宮古島付近で訓練を行っていた伊号潜水艦一隻が、浮上航行の際に針路を誤って同島の浅瀬に近づき過ぎて座礁してしまったらしい。幸いにも柔らかい砂地の海底であった為に浸水は無く、浮上航行であった為に半没したような格好での着底となったとの事である。乗組員にも怪我人は無く、その一部は艦載の装載艇でもって宮古島に上陸した後、同等の役所を通して最も近隣である佐世保鎮守府に連絡をつけたという。


 もっとも艦は砂に艦底の大部分を接して身動きが出来ず、前進も後退も叶わないという状態は現地ではどうにもならない。ましてや艦隊訓練の終盤も近づいて第一艦隊、及び第二艦隊の艦隊訓練は多忙を極めており、佐世保鎮守府のお膝元である佐世保海軍工廠としても新鋭艦の建造やら既存艦の改装やらですぐには対応できない事情が有った。

 それ故に連絡を受けた佐世保鎮守府は、第一艦隊旗艦の長門(ながと)艦に座乗する連合艦隊司令部に通知するのと同時に協力を求め、近隣において相応の救難能力ともしもの時の工作能力を併せ持つ機関が無いか検討。そしてその末に、偶然にも事故現場の近海を行動中であった明石艦とその工作部に白羽の矢が立ったのであった。





『ざ、座礁だけど、沈没はしてないんだね。でも艦底を損傷してるかもしれないし、しかも行動不能なんだ・・・。た、助けないと!』


 突然の報せに突然の危機。

 準備も心構えも何一つしていなかった明石だが、艦魂社会における軍医さんとしての対面と自負を大事にしている彼女である。同じ十六条旭日旗を背負って大洋を駆ける仲間の危機に直面したこの時、明石の表情からも心からも持ち前の明るさは消え失せ、仲間の下へ一刻も早く駆けつけねばという使命感が入れ替わりに満ちてくる。

 まごう事無き彼女にとっての実戦の場であり、以前に高雄(たかお)や愛宕に教えてもらった明石艦の本来の運用に大きく関わる任務となっていたのだった。


 やがて明石艦の最上甲板は左舷にやや傾きつつも、その艦首前方に広がる海原の光景はゆっくりと左から右へと流れ始めていく。

 海図の上では真っ直ぐに進む事が非常に多いお船において、官民問わずにその針路を変えるという事は大きな判断に裏付けされている物で、例えば航行中に舵を切って針路を変更する場合は艦長さん、または船長さんの指示が無い限りその実行を厳しく禁じられている。昼夜を問わずに走り続ける中でやがて艦長さんが就寝し、当直者がその代行を行うのが日常ではあっても、お船の針路を変更するという選択肢は衝突等の緊急回避以外、艦長さんを叩き起こしてでも指示を仰がなければならない程なのだ。


 もちろん大きく右回りに曲がった航跡を曳いて転回を始めた明石艦もその例に漏れない。羅針艦橋では伊藤特務艦長の凛とした声が放たれ、快晴と温暖な潮風の下にある明石艦の全ての甲板へと伝えられた。


『これより本艦は座礁艦救難の為、宮古島に向けて針路を取る。各部、急なる課業以外は延期、及び早期切り上げのうえ、工作部の応援に適宜協力する事。航海直はそのまま。事後、予定は随時通達するので注意。以上。』







 かくして翌日、明石艦は蘇鉄や椰子といった南国らしい木々と色鮮やかな花で彩られる沖縄県宮古島に到着。珊瑚礁の輝きによってエメラルドの様な色合いを持つこの島の沿岸は見ているだけでなんとも安らぎが有り、時間の余裕が有るのなら誰しも水着に着替えて海水浴と洒落込みたい衝動に駆られるであろう場所である。明石艦がやってきた同島沿岸の一角も白い砂浜と波間の淡い緑がなんとも言えないコントラストでもって構成されており、果て無き海のど真ん中でもとても目立つ軍艦旗すらも今は鮮やかさで負けていそうであった。


 だが明石艦の乗組員達はもちろんの事、艦の命である明石にとっても、宮古島の風景なぞ言っては悪いが今は眼中に無い。珊瑚礁より沖に陣取りつつ辺りの浜辺に視線を投げて目に入る物は、数百メートル程も続く白浜に突如としてにょっきと生えた、鯨の背中を思わせるこんもりとした黒い物体のみである。言うまでも無くそれこそが救助対象である座礁した潜水艦であり、明石艦上甲板には艦内より多くの乗組員が出てきてその姿を瞳に写そうとしていた。

 その中には彼女の姿も混じっている。


『ほえぇぇ・・・。お、思ったより損傷はしてないんだね。良かったぁ・・・。』


 明石艦でも一番に見晴らしの良い羅針艦橋天蓋より浜辺を眺める明石は、特に大きく傾く訳でもなく破損の度合いも薄い潜水艦を捉えて少し安堵する。白い砂浜を正面にしてほんの少しだけ艦首を持ち上げて座礁した潜水艦は、灰色とも濃紺とも取れる微妙な暗さ加減の艦体が一際目立ち、言っては申し訳無いがおかげで外見の上での状態確認がし易い。実の所はもっと波浪に襲われて艦体が折れ曲がっているのではないかと心配を重くしていた明石だったが、眼前の潜水艦はマストも真っ直ぐだし鉄の地肌もへこんでいないし、木甲板の上に鎮座して海面上に全体を曝け出している主砲も天を睨んだまま。挙句の果てにその砲口にはカモメが一羽舞い降りて、なんとも暢気に羽を啄ばんでいる。

 すぐ真下の甲板では潜水艦の乗組員達であろう水兵さんが何人も立っており、その内の一名は救援に駆けつけてきた明石艦に向けて手旗信号を送ったりしているのに、図太いこのカモメはビビりもしていない様子。天下の帝国海軍艦艇の危機に応じて来てくれたのか、潜水艦の周囲に寄せた数艘程の漁船に乗る現地の人々も加えれば結構賑わいがある上甲板も意に介さず、どこかカモメはそこに居る人間達を嘲り笑っているかのようである。


 うわ、だっせー。


 そう言いたかったのかどうかは定かではないものの、やがて甲高い一声を放つやカモメは陽光眩しい青空へと飛び立って行った。思う存分に笑ってやったのか、その飛び去る速度は随分と速い代物であったが、その直前に人には見えぬ淡く白い光がすぐ近くにて輝き、続けざまになんとカモメに向かって突進してくる者が現れていたのだから無理も無い。

 潜水艦の艦尾方向の海上に離れて浮かぶ明石艦から眺めていた時より、彼女は仲間の事故を嘲笑するかの如きこのカモメに眉を吊り上げていたのだった。


『こんのー! あっち行けー!』





 この様にプンスカと怒鳴って文字通り人知れずカモメを追い払った後、明石はすぐさま患者が横たわっているであろう潜水艦の中へと入っていく。

 と言っても見慣れた水密扉なんかが潜水艦の上甲板に有る訳ではなく、狭く細長い木甲板と、3メートル有るか無いかの高さの艦橋構造物にある艦内への入り口は、どれも中華鍋を逆さまにして回転ハンドルを着けた様な形をしている蓋状のハッチばかり。蝶番を介して扇状の軌道で縦に開くその機構は、もちろん真横に入る物ではない。


『お。よかった、ちょうど開いてる。』


 そんな声を上げている明石の足下に有るハッチは、跳ね上げられたままで固定されている蓋と共に直径60センチぐらいの穴が口を開き、縦に伸びた穴の側面には梯子が一つだけ設置されている。言うまでも無くこの梯子を降りて艦内へと進む訳で、舷窓など無い事から随分と暗さが漂う空間が広がっているのを認めつつも明石は梯子に取り付く。自身の分身にあるマストのステップすらあんまり登った事の無い明石であるから、梯子を伝っていく足取りは不慣れな事この上無い。危うく昇降筒の中を垂直に落っこちそうになったが、その頃にはもう梯子の終点であり事無きを得た。


 彼女が降りたのは潜水艦中央部のやや艦尾に寄った艦内通路のど真ん中で、狭い潜水艦らしく通路両脇には壁に据え付けられた2段のベッドがいくつも並び、次いで通路の一番奥には真鍮独特の鈍い黄金色をギラリと光らせている2門の魚雷発射管が見える。

 侘しい電灯の下、きっと当直から外れているのであろう乗組みの水兵さんが何人かベッドに横になっており、付近で話をしている者も起こさぬようにと気遣ってか声は非常に小さい。充電、及び発電の為に運転している機関の低い唸りによって掻き消されて内容は明石にも聞き取れなかったが、自らが乗組む艦が行動不能となったにしては混乱も無く、割合落ち着いている様だ。

 おかげで仲間の危機への心配から高鳴りっぱなしであった胸を明石は少しだけ撫で下ろす事ができ、小さく溜息を漏らすや早速艦内のどこかにいるであろう仲間を探すべく歩き始める。


 ところが僅か一歩踏み出しただけで明石の足は布のような物を踏んづけた事で滑ってしまい、思わず明石はバランスを崩して前につんのめる。


『おわ、ととと・・・!』


 上甲板に比べれば圧倒的に光量の足りない潜水艦の艦内に何か見逃したのか、まさか一歩目から躓くとはさすがに予想外であった明石だが、とっさに何かに掴まろうと伸ばした彼女の両腕はすぐ正面にあった幾重にも連なる配管の束を捉えてくれ、狭い潜水艦の艦内故に危うく転倒してしまうのは避けられた。


『ふいぃ・・・、危なかったぁ〜・・・。』


 まだ患者の姿も見てない内からの失態なぞ、そう遠くない内に特設工作艦の艦魂達の上司となる者にとっては許されざる状態。派手にぶっ転んでも宮古島には自分以外の仲間はいないから喧伝されてしまう事は無いが、己の本分と理想の上でもそれが回避できた事に彼女は安堵し、ゆっくりと腕を伸ばして傾いた姿勢を戻す。電灯が所々点いていても薄暗い事に変わりは無いので、今の様になるまいと足元への注意を心の中で改める明石。

 だがそんな改心の最中に視線を落とした自分の足は、なんと見慣れた白い服の裾を踏んづけていた。


『あ、あれ、これ・・・。あ、ああーっ・・・!!』


 見間違いしなかった水兵さん用の第二種軍装の裾を目で辿ると、あろう事かそこには短い黒髪を乱してうつ伏せに倒れる女性の姿が在った。頭部の近くには油汚れも付着した軍帽が転がり、力の抜けきった腕は足の方向にだらんと伸びたままで、受身をとる事も無くその場に倒れた事は一目瞭然。膝から崩れて顔を床に打った形だったのだろうか、乱れた髪の隙間から覗く唇は切れて固まりかけた赤い流れが頬に向かって線を引いていた。


『わー! し、しっかりしてぇー!』


 自身の入渠整備の際の記憶として艦底を陸と接する事により、その艦の命は意図せずに眠ってしまうという事を、今回の座礁した潜水艦にもおぼろげにだが重ねていた明石。きっと死んだりこそしてないものの意識を失っている状態になってるのではと内心考えていたが、思いもかけず流血を瞳に映した事で大きな動揺が生まれ、軍医である事も治療する事も忘れて頭の中が真っ白になってしまった。


『ど、どど、どーしよ! わー、目を開けてー!!』


 狭く薄暗い潜水艦の中、無力に喚くだけの明石。

 意識の無い患者の隣で叫んでも何の効能も無い事は日頃から知っている筈なのに、完全にパニックになった彼女の脳裏にはそんな当たり前の事すらも湧き出でてこない。忙しなく倒れた仲間の周りを右往左往し、顎の辺りに指先を添えた両手は凍りついて、患者の容態を確かめるべく触れるという基本的な事すらも実行できていなかった。


 だがその時、頭上2メートル程にて開けっ放しとなっていた昇降口より、艦の命に遅れてやって来た明石艦乗組員達の物らしき会話が聞こえてくる。最初の内は稼働中である潜水艦の機関の音で上手く耳に捉えきれてなかった明石だが、何をすべきか定まらぬ焦りの中、自分以外の声がするのに伴ってどこかすがる様な気持ちを抱いて声のする頭上へと視線を投げる。



『え? 曳航ですか? うちの艦でですか?』

『そいつは佐世保から来る二等巡にやらせた方が良いんじゃないですか? うちの艦はそんなに馬力無いでしょう。2軸推進だし、一杯でも20ノットも出ない艦なんですよ?』


『アホぬかせ、何の為に工作艦の類別されてる新鋭艦だと思ってんだ。大体、どの艦がやるにしても、曳航の準備は鋼索張って小錨下ろさなきゃなんねーだろうが。それに航海長や特務艦長から天候が荒れるって話も出てるんだ。二等巡が来るまでのんびり待ってる訳にゃ行かないだろ。』


 救難対象の潜水艦の状態を確認に来たらしい男達の声は明石も聞き覚えの有る機関科の士官の者達の物で、間近で見て思った程に損傷していない事を確認しつつ、どうやら早速の救難作業を既に計画しているらしい事が示されている。佐世保より来る救難の艦の事は明石も既に知っているが、その到着を待たずして早くも行動せんとする彼等の胸中には、決して艦の命の明石だけが抱く訳ではない明石艦所属としての意地が在るようだ。


 そしてそんな自らの乗組員達の意地を文字通り姿無く意識の上のみで垣間見た時、明石の脳裏にはふと以前に諭された師匠よりの教えが過ぎる。


 自分だけにしかない、自分の戦。

 自身が戦っている時、他の誰かもまたその人達なりに戦っている。決して自分だけが敵陣に孤立している訳ではないと語り、ただただ笑って軍医としての歩み方を教えてくれた朝日(あさひ)の顔は、いま明石が着ている軍装の左肘の辺りに縫い付けている赤十字の腕章を見ると、いつも必ず思い出せる。次いで記憶を瞬間的に辿った事により、大きく荒れ狂っていた明石の心は段々と平静を取り戻し始めて行く。


『なにやってるんだよ、私・・・。この宮古島に今居るの、私だけじゃない・・・。』


 すると僅かに眉をしかめて唇を噛む表情を浮かべる中、ついさっきまでまるで子供の様に騒ぎ立てていた自分の姿を激しく嫌悪する気持ちが明石の心に満ちてくる。敬愛する彼女の師匠はまさに実戦の場であるこんな事態を前にして、さっきの自分の様に騒ぎ回れとは、誰かが助けに来るのを待てとは一切教えていない。むしろ決して引く事も退く事も許されない戦だと、腕章を自ら明石の袖に縫い付けてくれた時に明言していた。

 それに反してさっきまでの自分の姿は、これまでの師匠の教えどころか、一丁前に抱いた同期への競争心、そして明石自身が必死になって頑張ってきたお勉強の日々すらも、まるで無かった事にするような代物。

 彼女はそんな自分に対し、これまでに無いくらいの自己嫌悪を抱く。


『いつまで新米のつもりなんだよ! ばかぁー!』


 ふつふつと積もる嫌悪感が怒りを生み、小刻みに震える両手の拳を解くや否や、突如として明石は大きな声でそう叫ぶと自分の両頬を左右の手で何度も叩き始める。彼女としても躊躇無く力の限りを出した事でその痛みは激しく、流麗で触れ幅の小さい曲線を描く明石の頬はみるみる内に赤く染まっていく。しかし今の明石にとってその痛みは戒めの為の衝撃以外の何物でもなく、ヒリヒリと余韻が響く顔の中に吊り上げた目を開けると眼前に倒れる潜水艦の艦魂の前に正座の様な格好でしゃがみ込み、軍医としてこれまで身に着けてきた知識を用いての対処を始めるのだった。


『よ、よひ。唇以外の外傷は無し。呼吸も脈も別に変じゃない。やっぱり気絶してるだけだ。』


 強く叩いた頬に自由は足りず、ぶつぶつと漏らす呟きにてやや発音の足枷となる。しかしようやく軍医としての表情、思考、そして最も大事な精神を改めた明石にとって、誰に伝えるでもないそんな己の言葉はどうでも良い。今の彼女の頭に有るのは目の前の仲間に医学の手を差し伸べる事以外に無く、時を置かずして明石は横たわる艦魂の怪我が唇の裂傷だけである事を確認する。


 そして頭上の昇降口の向こうに広がる甲板上で明石艦と潜水艦を結ぶ鋼索が渡される頃になると、ひとまず明石は患者たる仲間を背負って自身の分身へと移動。治療のし易い環境へ運び、未だ目覚めぬ潜水艦の艦魂の唇に止血を施してやるのだった。



 昭和造船史別冊、そして明石艦の一般艤装図(昭和14年12月24日付け・完成図)ゲットーーーー!


 しかしやはりというべきか、予想はしていましたが序盤で登場した発令所は明石艦には有りませんでした。序盤は色々と文章的、構成的にも拙いので(今もあんまり変わってないですが・・・。)これと一緒に折を見て修正させて頂きます。


 しかし変だな、明石艦は士官の定員数が15名なのに、士官室や士官寝室がやたらと多いぞぉ・・・。特務士官、准士官も足した数だろうか? う~~む、謎だ・・・。

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