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第一二五話 「再会と憂慮/其の四」

 それまで柔らかな笑い声ばかりであった敷島(しきしま)の部屋。

 その中へと室内の鉄の隔壁に見合う重厚で重苦しい空気が少しずつ注がれ始め、含んだ憂慮で体勢を小さくする朝日(あさひ)はその圧力に早くも背の辺りへ圧し掛かられるような感覚を覚える。

 僅かに白みが増した顔を腹部の苦しさによって歪め、肩を覆う程の長さを持つ琥珀色の髪によって遮られているのは、首筋に滲む冷たい汗。以前に上海で出雲(いずも)と話した時にこのような状態になった事のある朝日だが、それは40余年の時間で磨いた老練さの中にあってかつてと変わらぬ、心配事に非常に気を巡らせてしまいすぐに身体にまで影響が出るという、精神的にちょっと弱い側面を持つ朝日の特徴の一つである。

 加えて分身の艦齢と同様の歳を重ね、容姿もまたそれに追随している朝日であるから、「病弱」という言葉をつい連想した金剛(こんごう)が傍まで来て、背を擦りながら彼女を案じるのも無理のない事であった。


 だがそんな二人の青き眼はお互いに交わる事は無く、お互いのちょうど正面に位置する椅子にて座ったままの敷島に向けられている。その姿は実の妹の異変を文字通り目の当たりとしても先程までのそれと変わる所はなく、垂直に伸ばした背筋と細く長い四肢が敷島の背の高さをやたらと目立たせる。弟子の金剛よりは10センチ以上も低い身の丈な筈だが、今だけは室内にて最も大きな存在となっていた。


『もう恐らくは自力の航行もしないだろうがな。私とてただ老いを重ねているばかりではないぞ、朝日。海南島や仏印の領土欲しさにあの方面に部隊を展開している訳でもないだろう。私達のように石炭で走る船ばかりだった頃には考えられなかったが、さらにその南方に行った地こそが目的地の筈だ。』


 やや鋭利な雰囲気を伴わせた声で放った敷島の言葉は、愛弟子の長門(ながと)と語り合ってから朝日が憂う米国相手の戦争において、その遠因と予想される事柄を端的に言い当てた物である。飛行機や車両、そして彼女達を指す船舶の殆どが石炭ではなく石油を燃料とするようになった昨今、国家の軍備にまで大きな影響を持つ燃料における両国の政策の違いを、もう何年も佐世保にて隠遁生活を続けていた彼女は極めて正確に見抜いていた。


『米国の自活できる程の原油算出が無いこの国だ。他の国から買うしかない中で、ドイツやイタリアとの親密化、それから長年に及ぶ支那での問題を巡って、最大の輸入先である米国との緊張が随分と高まっている。おまけにその支那での騒動で、陸海の兵力をあれだけ展開しているのに伴って石油の消費は尋常ではない値になってる筈だ。その上で米国との一戦にも望めるほどの石油資源を確保するのなら、他に売ってくれる国を探すか、さもなくば算出する土地に日章旗を掲げるしかない。だがそうなると、必ず米国とは戦う事になるぞ、朝日。』


 そう語り終えた所でそれまで伏目がちであった敷島の青い瞳が、どこか冷たい感じを漂わせながら金剛と朝日の姿を捉える。普段は朝日と全く同じ鮮やかな蒼色を宿しているのに、今の敷島の瞳はまるで凍てつく氷塊を削って作り出した代物の様であり、弟子や妹という関係で彼女の顔を見慣れた金剛と朝日すらもその冷酷な雰囲気には肝を握られたような感覚を抱いていた。




 ただ、朝日と金剛の二人は、敷島のそんな様子を目にするのは決して初めてな訳ではない。

 帝国海軍艦魂史上の中でも極めて現実的、合理的な考え方を持ち、人並み以上の度胸と寡黙さが手伝って非常に戦に対しては冷静に向き合える彼女を、二人はよく知っているからだ。まして朝日は日露戦役の黄海と対馬沖の戦場でそれを直に目にしており、もはや息も絶え絶えとなって助けを求めてきたロシア海軍の艦魂の頭部目掛けて汽笛に劣らぬ程の咆哮を上げながら、武器代わりとして持っていた十能を振り下ろして粉砕したという敷島の凄惨な姿を、今でもその青い瞳の裏に焼き付けている。







『国の防りだ? 菊の紋の戦じゃないだ? このバカタレがぁ! 戦に夢を重ねるのもいい加減にしろ! これが戦だ! 栄えある陛下の御船などという身の上と言葉に酔って、そんなに清らかな処女でも気取りたいか!? 私達、海軍艦艇が成す役目とは、反吐が出る程の理不尽と不条理に塗れた、人も艦魂の区別も無い殺しの集大成だ! 誇れる殺人なぞこの世には絶対に無い! ・・・在ってはならんのだぁーー!!』


 今からおよそ30数年の昔。

 金色の髪が絡まる砕けた頭を前にして返り血に顔の半分を染めた敷島が、その目に余る惨殺ぶりを制止しようとした三笠(みかさ)に対して怒鳴った言葉。富士(ふじ)や朝日、三笠といった現代では名だたる艦魂達も一斉に声を失い、当時その場に居合わせていた駆逐艦や巡洋艦の艦魂達の何人かが目を背け、嘔吐する者までもが周囲に点在する中、狂乱や乱心の度合いを越した鬼の如き表情と叫びを見せた敷島は、ある意味では仲間内で最も戦に精通し、理解を至らせていた艦魂であった。




 不機嫌そうな表情と飾りの一切無い言葉、そしてそこに伴われる冷たそうな雰囲気は、そんな過去の戦争において垣間見せていた敷島の人柄の証の様な物である。

 実の妹に当たる初瀬(はつせ)艦が沈んだ時ですらその態度を変えず、血も涙も無いのでは艦魂として生きる意味も無しとまで揶揄された物だが、一貫して自分達の役目も大いに絡む戦を敷島は一度たりとて肯定した事なぞ無い。むしろこれ以上無いくらいに最低な代物だと見下していたその真意を、すぐ下の妹の朝日は慄きながらも感じ取っていた。

 初瀬艦轟沈の報によって騒がしさがまだ残る月下の甲板上にて、一人酒をかっくらいながら肩を震わせていた姉の背を見た時からである。


『・・・すまない、初瀬・・・。すまない・・・。』


 嗚咽も乱れる息遣いも無く、頬の輪郭の上に月光の輝きを宿す雫を伝わせて微かに呟くだけだった敷島。分身の上でも容姿の上でも、自らとシルエットが姉妹の中で最も近かったという妹の死を受けて月夜の黄海に放ったその短い言葉に、普段から尊大で自信家で、冷酷無比に戦に相対し、げんこつを用いて鬼のように修練に厳しく向き合っていた姉の心の内を、朝日は触れる事ができたようだった。

 硝煙香る海原にて凛々しくも猛々しい顔立ちを常に浮かべるのに反し、腹の底から戦という物を恐れ、平時より常に身近な危機として最も心配を積もらせ、そして実際に対した時にそこにあった悲しみを自分の落ち度として責めつつ独り泣いていたのが、他の誰でもない朝日の姉、敷島であったのだ。





 凍てつく青い眼差しを真正面から見るとそれを感じる事は少ないが、その奥には誰よりも戦の持つ恐ろしさを知る彼女なりの信念が在る。すぐ下の妹としてそれをずっと感じていた朝日は、腹部の倦怠感に塗れる中にあってそれをふと思い出すのと同時に、自身の心の内に秘めていた憂いを眼前の姉は理解してくれるのではないかと思い始める。もちろん精神的な強さがやや欠ける彼女であるから、その心の半分は姉にすがりたい気持ちが占めているのだが、幸いな事に本日数年ぶりの再会を果たした姉の人柄は朝日が記憶していた通りであった。


『・・・フッ。朝日、そう気を重くするな。ずっと昔から危惧されてきた対米戦が予想される時勢だが、私は別にお前を責めるつもりは無いし、金剛や長門といった若い奴等のせいだとも思ってはいない。所詮、私達艦魂ではどうにもならん話だ。ただ海軍艦艇の命の端くれとして、何が起きようとしているのかを知っておきたいだけだよ。』


 断じて最悪のシナリオを責めるつもりはない敷島が、小さく笑みを浮かべてそう言った。女性ながら普段からおっかなさ満点の表情、次いで人柄を持っている故か、敷島のやや不敵な感も漂わせる微笑は不思議と非常に落ち着いていて綺麗な物で、姉妹揃って顔立ちが整う中にあってもその美しさは群を抜く。朝日と同じく透き通るかの如き白い肌に蒼海を思わせる色の瞳を細めて浮かび上がるその笑みは、ざわつく心を一瞬にして魅了してしまう程の美しさを持ち、そのせいか頼りがいもあってとても安心感を与えてくれる代物でもある。

 弟子の系譜ではその粗野で乱暴な性格が引き継がれた末に、神通(じんつう)を始めとする嫌われ者となる艦魂を排出してしまってはいるものの、それでもこの敷島が現代においても慕われるのはこの笑みに大きな理由が有るのだ。


『お互いに老いた現代になって尚、何かを背負う必要なぞ無いだろう。ただ結果を見るままだ。』


 そこまで言うと敷島は小さな溜息を漏らしながら椅子より腰を上げ、正対する朝日との間に置かれたテーブル代わりの木箱へと進み出る。「対米戦」という言葉に敏感に反応して体調を崩してしまう朝日とは対照的に、敷島の様子は場違いな程に至って上機嫌な感じであり、妹へと向けた笑みをそのままにテーブル上のケトルに対してその綺麗な指先を伸ばす。


『たかが船の命一つでこの国がどうなるという事なんかない。もっと楽に生きるんだ、朝日。』


 朝日とそれに寄り添う金剛の前でそう語りながら、敷島は片手でケトルを傾ける。その下に置いた自分のカップにやや荒れた模様の滝でもって半分くらいも注ぐや、彼女はカップを上から鷲掴みするように持って口へと運んだ。


『ふう・・・。フン、同じだけ歳をとってもやはり上手くはいかないな。』


 やや眉をしかめながら、自分でカップに注いだ紅茶を不味いと評する勢いの敷島。ついさっきまで美味いと連呼して味わっていた朝日の紅茶なのに、ケトルからカップに移すだけという僅かな工程を変えただけでもその味わいは崩れており、転じてそれが自身も及ばぬ妹の圧倒的に優れた点である事に彼女は少し悔しさを抱いた様だった。おかげでせっかくの綺麗な敷島の笑みは段々と普段どおりの不機嫌そうな表情へと戻りつつあるのだが、立ち上がって以来のそんな何気ない敷島の言動は朝日の心をほのかに暖かくしてくれる。

 同じだけ老いても上手く行かないとの先程の言葉も含め、それはまるで歳を重ねたのと同時に同じだけの責務をも背負うような今の自分を深く理解し、そして励ましてくれている様で、思う様に物事が進まない事への杞憂に悩むのは同じなんだと姉が語ってくれた様に朝日には思えた。


『敷島姉さん・・・。』


『お前は美味いティーを淹れる事ができる艦魂。たったそれだけで良いじゃないか。年長だ師だと崇められる事にお前は気を張り過ぎなんだ、朝日よ。長門も金剛も、そして私も、何でもかんでもお前になんとかして貰おうとは思っていない。もう私もお前も、口うるさい老いぼれた一隻の船の命なんだ。心配なぞ無用だよ。若い奴等は若い奴等なりに道を見つけるさ。』


 現代の帝国海軍艦魂社会では生き字引、重鎮として捉えられる朝日にあって、こうも指摘を投げた上でさらに諭してみせれる人物は、富士の他はこの敷島ぐらいである。さすがは実姉と言った所で、心の奥深くで意識していた事を明確に言葉へと変換された朝日は、少しだけ目を見開いて驚きの表情を浮かべながら姉の顔を見る。すると再び椅子へと腰掛けるべく背を向けていた敷島は、そんな妹の視線を待っていたかの様に口元を吊り上げ、次いでその青い瞳を細く弓なりとしながら深くゆっくりと頷いた。


 僅かな発言や説明なぞ無くとも自分の全てを解ってくれ、どうすれば良いかを極めて簡潔に諭してくれる人物。


 頼れる朝日の姉はそんな在り方をずっと変えておらず、教え子や後輩を持って責も重い身の上となっても尚、十二分に安心して心身ともに寄り掛かる事のできる者だった。




 そして非常におっかない仮面の裏に見え隠れするその温もりは、しばらくの間朝日を蝕んでいた腹部の倦怠感を完全に取り除く。精神的な弱さから来る身体の不調だったから安堵の心に伴って回復はすぐに始まり、やや青色がまだ微かに残る唇を吊り上げながらも、やっとの事で朝日は微笑を作ってみせた。

 するとそれを傍らに寄添っていた事から間近で見る事のできた金剛も溜息まじりの笑顔を浮かべ、母親同然に深く慕う朝日が元気をちょっとずつ取り戻していく事を喜んで声を放つ。


『おお、叔母御。や〜っとよおなりましたかいな。いや〜、久々に会うたんに、担架でも持ってこなアカンかて心配しましたで。』

『ふふふ・・・。ごめんなさいね、金剛。もう大丈夫・・・。』


 やや弱弱しさがまだ残る声ながらも、朝日が屈めていた上半身を起こして言う。元々が白人女性の外見ゆえに顔面蒼白の様子が比較的分り易い朝日だが、同じく顔色に赤の色合いがほんのりと滲んで回復していく様子もまた分り易い。しばらくの間腹部に重ねていた手を椅子の肘掛に戻し、テーブルへとゆっくり伸ばした右手には再びカップが握られ、既に温もりが失せている冷たい紅茶を朝日は一口に飲み干してみせた。

 もちろんその味は紅茶に関しての知識、心構え、こだわりが人一倍である朝日にとっては最悪の評価であるが、今しがた姉より諭された自らの心配性が原因であると解っている朝日は、ただただ苦笑いで空になったカップを眺めるだけである。


 姉からはお見通しの自分の短所に振り回された挙句、得た物は冷え切った不味いティーのみ。母親のつもりで必死に頭を使ってみても結局は自分が泥を被っただけで、普段から意識している筈の老いなぞ忘れてしゃかりきになっていた自分の姿が、今は何か滑稽に思う事ができた。

 やがてその苦笑を見た敷島もまた再び小さな笑顔を作って語りかけてくれ、その場には再会を果たした際と同様の笑い声が渦巻く。


『別に心配する事を悪いと言ってるんじゃないぞ、朝日。度の問題なのさ。フン。ま、お前の隣にいるバカタレが後輩じゃ、その心配も解らんでもないがなあ。』

『か、堪忍してくだいな、親方〜。わ、ワシかてもう先任格の戦隊長・・・。』


『なにが先任格だ、バカタレが。昨日、陸奥(むつ)と長門が言ってた。お前がギャーギャー吼えるもんで、第一艦隊の駆逐艦の連中が震え上がってると困っておったぞ?』

『長門に陸奥・・・! あ、あんの、ガキ共がぁ〜・・・! いらん事親方にチクりくさってぇ・・・!!』


『ふふふふ。あははっは。』


 時間的にはそうでも無い筈だが、感覚の上では何か随分と久しぶりに感じる眼前の師弟のお叱り劇を受けて朝日は大笑いした。もう30年近く目にしてきたこの師弟は教える方も教えられる方も性格が非常に特殊で、帝国海軍艦魂社会でも今のようなやりとりを長年繰り返しているのはこの二人くらいである。だがだからこそ第三者の記憶に強烈に残るその姿は、間近で見てきた朝日にあっては尚更に強く脳裏に縫い付けられており、実際の光景として瞳に映してしまうとそのおかしさを抑える事ができなかった。




 その内に彼女達3人の居る部屋には、いつの間にやら一つだけ有る舷窓より朱色の陽光がぼんやりと差し込んで来る。昼間に得ていたほんの僅かな空気の暖かさも失せ始め、冬の潮風が持つ張り詰めたような冷たさが段々とその緊張の度合いを増していく。東の空も既に深い紺色の夕闇で染まりかけ、薄っすらと銀色もまばらな佐世保湾は寒さも厳しい夜を迎えつつあった。


 しかし日が暮れても久しぶりに集った3人の、まして実姉の優しさと人物としての格を垣間見て喜ぶ朝日を主に据える艦魂達の懇談は、未だ終わる気配を微塵も見せてはいない。空になったそれぞれのカップにケトルより現れる琥珀色の滝を注ぎ込むや、彼女達は疲れも飽きも一切感じずに声を上げる事ができ、ここ数ヶ月もの間大変に気がかりであった憂慮も軽くなった朝日も、普段の大人しさとはややかけ離れたかの様に豊かな表情を浮かべて会話に参加している。例えその話題の主な物が、敷島の凍てつく感もある声によって語られた対米戦への予想にあってもだ。


『石油資源の方策に国家としての武力権を行使するとなれば、周辺を海に囲まれている南方には相当の規模で私達、帝国海軍の艦艇部隊が展開する事になる。ましてシンガポールの目の前だ。王室海軍の東洋艦隊とて黙ってはいないし、フランスの極東艦隊、オランダの在蘭印艦隊も障害となる。そこへ飛び込むんだ。連合艦隊の主力艦隊の内、二個艦隊は間違いなくあの方面に行かねばならん事になるだろうが、それが問題だな。』

『ええ。仏印の一件なんかもあって、残念だけどオランダやフランスが好意的に接してくれる可能性は皆無よ。支那の租界や海上権益が複雑に絡んでる英国は、もっと望みが少ないわ。だから対米戦も視野に入っているのね、きっと。』


『え? どういう事でっか、親方? なんであの方面の情勢が、そないにアメ公との戦と繋がるんでっか?』


 決して満面の笑みで語れる代物ではない対米戦の序章を、年老いた敷島と朝日はやや他人事の様な感覚で話す。二人としてはお互いの持つ情報と年長者としての意見の交換に重きを置き、客観的という姿勢を堅持して冷静にその真相を探ろうとしているだけなのだが、この二人とは10年以上も歳が離れている金剛はその中でちょっと置いてけぼりを食らっていた。現代の帝国海軍艦魂社会では大親分、主力艦艇部隊の最先任ともなる立場の彼女は、容姿の上でも30代も半ばの白人女性と、明石や弟子の神通なんかに比べるとずっと年上なのだが、金剛が二人の先輩の会話について行けなかったのは何も年齢のせいではない。

 3人の中でもその白とも黄色ともつかない長い金髪で一際美しさが目立つ金剛だが、その反面、敷島と朝日にあっては持ち得て、金剛だけが持っていない物が存在する。話題に置いていかれた真相でもあるそれは、一隻の海軍艦艇として実弾飛び交う戦争を経験したか否かである。厳密に言えば金剛の分身たる金剛艦は誕生して間もない頃、第一次世界大戦という名の地球規模での大戦争に最新鋭主力艦として戦列に加わっていた過去もあるのだが、もっぱら西太平洋方面を遊弋(ゆうよく)するのが大半であった金剛の経験に対し、実の妹を含む多くの仲間を、そして人間を失い、血とはらわたと悲鳴と轟音に囲まれた中で何度も実弾の下を潜り抜けたという敷島と朝日の経験には、やはり明らかな差が有った。

 敷島はその点を諭しつつ愛弟子の疑問に回答を返し、腹部の倦怠感も今は感じなくなった朝日がそれに続いた。


『実際に海戦を経験した事もないお前には、すぐには解らないか。まあ、私や朝日もあのロシアとの戦役でやっと理解できたんだがな。言っただろう、艦艇部隊の展開、と。・・・所要の兵力を要所に配備すると言えば確かにそうなんだが、手で将棋の駒を並べるのとは少し訳が違うぞ。』

『軍艦が任地に赴けば戦ができる訳ではないわ、金剛。配備先での食料、水、燃料の調達と補給の態勢も確立しなきゃいけないし、損傷したりした私達の分身の修理、それに伴って不足する兵力の補強手段も用意しておかなくてはいけないし、怪我や病気に侵された人間達の後送、収容手段だって段取りをつけておかないとダメなの。つまり準備と態勢を抜かりなく、それも事前に設定しておかなくては、満足な作戦行動なんかできない物よ。艦砲での撃ち合いはその末端の一場面にしか過ぎないの。万全な準備と態勢作りはとっても大事な事よ。』


 二人が述べたのは海軍艦艇が行動する舞台裏の話である。

 およそ一ヵ年に渡った日露戦役で朝日と敷島はそれを最前線で目にしており、地味で目立たなくとも決して疎かにはできない戦の裏側にこそ重きを置かねばならないのだという。金剛も師の敷島より授かったかつての勉学の日々で習ってはいるが、実際に体験した敷島や朝日の声としてそれを聞かされるとやっぱり説得力が備わっている様に彼女は感じた。

 加えてそんな戦における準備と態勢作りに関して、敷島と朝日の両名は実はこれ以上無いくらいの最悪の状況を潜り抜けた者でもある。日露戦役におけるいくつもの戦闘の中、一、二位を争う程に戦勝の誉れも高いあの戦いすら、否、むしろあの対馬沖での海戦その物こそ、敷島や朝日が今の話題を最も明確に重ねている体験なのである。


『あの戦で欧州のロシア本国艦隊が来る事は当初から予想されていたんだ。だから奴等が来る前に在満州のロシア陸海軍兵力を殲滅し、憂い無く万全の策でもって戦う腹積もりだったが、・・・向こうも馬鹿ではなかった。特に旅順に立て篭もった連中の健在ぶりは影響が大きくてな。あまりの堅強な様子に、先に本国艦隊が来寇してしまうんじゃないかと気が気ではなかった。ウラジオ艦隊の跳梁も甚だしいから、旅順の海上包囲をしてる頃は出雲率いる第二艦隊とも別行動でな。今考えても鳥肌が立ちそうだ。』


『航路も最後まで解らないままで、修理の所要日数を確保できるのかの見極めがとても厳しかったわね。結果的には陸軍さんの頑張りでなんとか改装もできるくらいに時間は確保できたんだけれど、本当に首の皮一枚で繋がれてた余裕とも言えるわ。日本海海戦を奇跡と呼ぶ人は私達帝国海軍の艦魂にも多いけど、準備の面ではもう綱渡りと言っても過言ではなかったのよ。』


 帝国海軍がこれまでの歴史上で最も誇り、そして輝かしい栄光と自負する日本海海戦の、その裏事情を語る敷島と朝日。今ではすっかり二人とも帝国海軍艦魂社会の長老各となって落ち着いてしまっているが、当時はまだ建造されて4年程しか経っていない頃で、ようやく20代を迎えたぐらいの若々しい容姿を持ちながら得た体験だった。現代の金剛よりもまだ若かった訳であり、しかも相手は当時、掛け値無しに世界最強と目されていた海軍の主力。それを破ったのだから直の教え子として鼻も高い気分を心の奥に抱く金剛だったが、その大勝利が実は紙一重の準備の差を経て成された事に一瞬声を詰まらせる。

 もちろん親のように慕うこの二人が楽をして勝ったとは思っていなかったが、激烈な艦砲の撃ち合いではなく、それ以前の経過にこそ危機があったというのはなんだか意外であった。同時にこれまでの話題の中心にあった対米戦にもそれが当て嵌まる事を彼女はぼんやりと察し、顎に右手の指先を添えながら己の思考に浮かび上がる可能性を言葉にしてみる。

 すると敷島はすぐさま教え子の言葉に頷いてみせ、彼女の考えが正しい事を示してやった。


『兵力の展開、そして準備・・・。はは〜、そういう事かいな。親方と叔母御達ん時は朝鮮海峡と黄海で終わってたモンが、今度は南方全域に部隊を配備するんや。その間に大艦隊がどっか遠くから進撃してきでもしたら、迎え撃つ準備が整わん事態になるいうこってすな?』


『その通りだ、金剛。シンガポールの英軍を始末した所でインド洋には王室海軍のインド洋艦隊がまだいるだろうし、英国の便宜と西洋列強の思惑が重なれば豪州にも背後勢力が出来上がる事になる。南と西にそうやって目を向けてる間、東から大白色艦隊が救援に来るとなれば・・・、王手だ。各戦線から抽出した兵力を揃えるのに半月。暫時整備補修を行い、戦訓からの改装も施し、欠員や物資の補給の為の場所、手段、日時といった段取りを完結するのに2ヶ月はかかるだろう。もちろんその間、他の戦線では我慢に我慢をさせる事になる。ジリ貧になって負けるのは火を見るより明らかだ。』


 唇にてカップを傾けながら敷島が言う。金剛への語りにあった東から攻め寄せる大白色艦隊とは、日露戦争の記憶もまだ生々しい約30年程前に実際に世界周航していたアメリカ海軍の主力艦隊の事であり、敷島と朝日の言う日本海海戦の裏事情と対米戦の繋がりはようやくその形を現した。


 すなわち現在の国家資源において最も需要の高い石油資源を巡って、俄かに騒擾となってる仏印を始めとした東南アジア方面に日本が武力権を行使した場合、該当方面の在分遣艦隊を相手に事を構えるのは当然ながら、それに伴って超特大規模の国力とそれに裏打ちされた海軍力を要するアメリカが介入してくる可能性を、必ず考慮しなければならないのである。もちろん米国が日本の対南方政策に対して武力権をもって応じるかは断定こそできないが、今しがた敷島が言った様に仮にそんな状況となってしまったら、日本は応戦どころか長年培ってきた漸減邀撃作戦における兵力の準備すらも怪しくなってしまうのだ。息の根を止めれる作戦をアメリカが選択肢とするのは至極当たり前の事で、特に太平洋上という世界最大の海洋で戦う事になる帝国海軍にあっては、その当事者として想定したくなくてもせざるを得ない理由が有る。


 以前に長門艦で開かれた事のある対蘭印作戦の図上演習もまたこの事情の為で、艦魂達が知らぬ間に国家としての最悪の危機がひたひたと近づいていた。朝日や敷島が感づいたのはまさにそれで、その上で対米戦には準備と同等に重大な懸案がある。それは世界地図で日本とアメリカを比べてもすぐに解る、国家としての規模の大きさ。領土だけではなく経済力だって地図から受ける印象の如くその差は歴然としており、彼女達を含めた海軍という組織においても大きな隔たりが有る。つまる所、数の上での優位性が米国からみて大幅に劣っているのである。


『金剛。お前、ちょっと前に米国で大きな建艦計画があると言ってたな?』

『へえ。加賀が言うとったの聞いただけやけど。』


『その内容も鑑みるとな、ワシントン軍縮条約の頃の対米7割なんぞの話ではないぞ。もちろん昨日の明日で計画の艦船が全て戦列に加わる事は無いが、今でさえ10対6の戦力比なのに5年くらい先には下手したら10対5にもなりかねん。いや、対南方進出などという大規模作戦となれば、事前の軍備を隠すことなんか不可能だ。そうなればあれだけ金持ちの米国だ。より一層の軍備充実を図って、10対4にすらなるかもしれないな。』


 そこまで言って敷島はカップに残った紅茶を一口に飲み干し、『つあぁ〜・・・。』などと年寄りくさい溜息を漏らしながら椅子から立ち上がる。表情も口調も至って軽そうな感じを滲ませて座っていた彼女が立ち上がるのは金剛や朝日にあっては唐突に思え、凝った肩を荒く揉みながら部屋の中を歩き始める敷島の背を二人は目で追う。だが小さな敷島の部屋であるから、敷島の足は数歩進んだ所で早くも止まった。


『親方、どないしはりました?』

『なに。良い例だ。よっと・・・。』

『な、なんやぁ?』


 立ち上がるのも唐突なら、しゃがみこんだ後に小さく力む声を上げて立ち上がるのも唐突な敷島。なまじ感情の変化が普段は殆ど無く、ただただ不機嫌そうな顔を浮かべているばかり故に、おもむろな彼女の行動はどうしても突発性が高い様に思われてしまうのも無理は無い。愛弟子の金剛と実の妹の朝日ですらもその例外ではなく、一体どうしたのだと敷島の様子に目を見張る。

 すると立ち上がった末に踵を返して朝日や金剛の方へと正対した敷島の両手には、それまで部屋の一角で鮮やかな木目を輝かせていた将棋盤が握られていた。どうやら今しがた口走った話題の良い例とはこの事らしく、顎をしゃくって金剛に卓上のカップを片付けさせると、早速テーブルの上に将棋盤を置いて声を上げ始める。


『ただでさえ10対5。フン、倍以上の駒を持っとる相手と将棋をするような物だ。まして南方での作戦行動中となると飛車角落ちどころか、満足に歩も並べ終わらん内に攻撃を食らう事になる。これでは対局には・・・、いや、戦争にも勝負にもならんなぁ。』


 再び椅子に座るや長い手足を組んでふんぞり返り、敷島は差の激しい状態で駒を並べた盤にやや難しそうな顔を向けている。愛弟子を始め40余年の生涯で多くの対局を行ってきた敷島にさえ、駒の数が倍も違う状態の対局なぞ初めて目にする光景で、帝国海軍艦魂史上随一の戦上手と評された事もあるその明晰な頭脳と経験をもって挽回する方策を考えてみるが、とても戦況をひっくり返すほどの作戦なぞ浮かんではこない。むしろ考える事すらも馬鹿馬鹿しいとさえ思え、戦況云々の前に将棋盤その物をひっくり返してやろうかなどと苛立ちが積もるだけであった。


 おかげで元々が朝日と違っておっかない顔つきをしている手前、頬骨を始めとした輪郭の波打ちも目立つ敷島の表情はみるみる厳しい物へと変わっていき、その青い瞳は早速剣先の如き形と輝きを得始める。次いで師匠が回答を出せぬ程の難局に愛弟子の金剛も一緒に頭を捻ってみるのだが、文武の両面で未だに教わる事も多い敷島が悩む程の問題である。短気で粗暴さが売りの金剛が瞬時に答えを出せる筈も無く、完全なお手上げとなってその大きな身体を投げ出す様に椅子へと腰を下ろしながら、しかめた顔で声を上げる。


『こんなん無理や、ムリぃ。奇襲かけたかて銀の手前で包囲されてボカチンや。絶対勝てへんで、親方。』

『・・・・・・。』


 30代半ばの女性の容姿を持つ金剛は完全な大人の外見なのだが、持ち前の度胸で誰にも遠慮しない性分から思った事をすぐに言動へと出してしまう。にっちもさっちも行かなくなった事態にさじを投げてしまう辺りはまるで子供で、サラサラと音も聞こえてきそうな程に美しい金髪におもむろにかざした指は、下品にも耳をほじくっていた。

 だが金剛にして悔しさと苛立ちの念に押される形で吐いた言葉は、今の将棋盤の上での話が対米戦という危機の様相を示す物だという事を忘れていない朝日にとって、決して他人事の様に聞き流せる物ではない。少し前の時間帯の様に腹部に具合の悪さを覚える事は無かったが、弟子たる長門ですら答えを見つけられず、胸の中で泣かせてやりながら自身の死期を明確に悟った記憶が、朝日のうつろな表情の裏側ではありありと蘇っているからだ。同時にその際、長門との会話の中で出た対米戦への勝敗のみに的を絞った話が今また自分の眼前で繰り返されている事に、彼女は極めて強い現実感を卓上の将棋盤に見出してしまうのだった。


『このバカタレ。勝つ負ける以前に、そんな相手と戦って何を得たい?』


 しかしそんな中、朝日の前では力が篭った頼り甲斐のある姉の声で、なんといつぞやの長門との会話で朝日自身が諭してみせた事が語られ始める。第一声に続いてげんこつを食らうのが日常茶飯事だったが為に金剛が僅かに身体を退かせ、同時にいつの間にか下を向いていた顔を朝日が上げるや、凛とした面持ちを浮かべて敷島は言った。


『戦という物ではな、勝つのも負けるのも手段の一つだ。勝って何を成す、負けて何を拾いあげるという目的が無ければ、それはただの殺戮劇でしかない。それを見出せない内に勝つ方策を考えるなど、無意味にも等しい。湯を沸かす訳でもないのに火と鍋を用意しているような物だ。』


 金剛の勝敗に限った見解にお叱りを与える腹積もりも有ったのか、吐いて捨てるような勢いの口調だった敷島。ひし形の目の形がより一層の鋭さを持ち、流した視線が焦点を合わせた金剛を僅かに震え上がらせる。ただその言は戦うお船、すなわち軍艦としての最も大事な役目である戦という物を一つの過程と捉え、その先にこそ真に見据えねばならない物が有るのだとの内容である。

 いくら実の姉妹とは言え、朝日のそれは40余年に渡る彼女独自の生涯において身に着けたのであり、性格も違えば艦艇としての来歴だって違う敷島との間で、戦に対して同じ認識を持つに至っていた事は大変な驚きを生む。思わず朝日はその驚きからくる衝撃に押されて姉の名を呼んでしまうのだが、当の敷島は朝日に向けて視線を流すと僅かに口元を吊り上げてみせた。まるで今しがたの驚きの感情を無言のままに了解したかの様で、再び朝日の憂いに脆弱な心へ安堵を与えてくれる。


『敷島姉さん・・・。』

『フン。私とて日露戦役にシベリアの紛争、そして一次大戦に特務艦としてだが参加してた身だぞ、朝日。こいつら若いモンに比べれば、戦を良く知っているつもりだよ。それ以上に、お前が考えてる事もな。』


 すっかり朝日の考えを読みきっている敷島が不敵に笑う。どうしたと一言も朝日の様子を探る訳でもないのにその心を看破し、弟子が持とうとした対米戦への見解と妹の憂いを見事に払拭してみせる辺りはさすがは朝日の実姉と言った所で、僅かな間の笑みを消すや早速隣にいた教え子の頭を揺さぶって厳しい教えを授け始めた。


『そこが解らんからお前は半人前なんだ、金剛。戦に負けない為の最善の策はなんだ、ああ? 戦はここでやるモンだ。20年以上も聞いてきてまだ解らんか、この頭は。』

『どわわ! わ、解ってますよってに・・・! い、戦にならん内に物事を有利にせいってこってすやろ・・・!? か、堪忍してくださいやっ・・・! イテテっ!』


 両者共に座っている状態ながら10センチ以上も身長差がある金剛の頭を、敷島は手馴れた手つきで激しく動かしてちょっと低い声でのお叱りを飛ばす。非常に気性の激しい親分肌の金剛も彼女にかかっては形無しで、困った顔で勘弁を願うその脳裏にはこの十数年たっぷりと仕込まれてきた、それはそれは恐ろしいお師匠様の姿がハッキリと描き出されていた。本日は竹刀もげんこつも無い分大いにマシであり、やがて敷島の手から開放されるや乱れた金髪を撫で付けて一安心の溜息を漏らす。続いて金剛はこれ以上のお叱りを受けない様に卓上の将棋盤へと顔を向けて、今しがた受け取ったばかりの教えの再確認をする姿勢を示し、紅茶の香る湯気越しにそれを見る朝日に再び笑顔を作らせてくれた。


『戦にならん内になんとか、か・・・。ふ〜ん、せやかてのう・・・。この差では恫喝も効き目あらへんしなぁ。』

『こんのバカタレ。強要するだけの手段ばかり、力押ししか思いつかんのか、お前は。』

『ふふふ・・・。』


 朝日が見る師弟の姿はやっぱり十数年前とちっとも変わっていない。へそ曲がりも甚だしい金剛は口を開く度に敷島に一喝を受け、悔しさと苛立ちが半分、おっかなさ半分が混じるしかめっ面を浮かべて頭を捻る連続であり、その合間にも飛ぶのは朝日にも劣らぬ敷島のお説教。決して金剛は勉学の成績が悪い艦魂ではない事は朝日も良く知っている所だが、如何せん所持する駒の数が倍も差の有る将棋では一向に良策なぞ出てはこない。

 おかげで金剛の『う〜ん、う〜ん・・・。』と唸り声を漏らしながらの悩む姿は、そもそもが180センチ以上と非常に大柄な体格を持つが故に室内でも一際目立つ物となるのだが、まだ幼少だった頃より見てきた事からそんな悩める金剛がとても可愛く見えてしまう朝日は、微笑を抑える事ができない。そうなるとクスクスと笑いに弾む呼吸で溜飲する紅茶も自身で淹れた事も忘れてしまう程に美味で、一時とは言え重苦しい対米戦への可能性の話をしている事が嘘の様に思う事までできた。

 ただ、比較的頭の回転が速かった金剛は僅かばかり時間を得ると眼前の将棋の攻略法を脳裏に描けたらしく、大きく目を見開いた笑みを咲かせて喜々とした声をあげながら敷島の腕を引っ張り始める。次いで言い放った金剛の言葉にはまたしても敷島のお叱りが轟いてしまうのだが、再び笑みを深くすると思われた朝日の表情は変わる事は無く、カップを握った手もその動きを止めてしまう。


『そや、親方! 南方での駒揃えに時間かかるんなら、先にそれを相手に返したったらええねん。まだろくに対局始めの声もかからん内に駒が並び終わっとらん敵陣に飛車角突っ込ませて、銀も金も根こそぎひっくり返しちゃるんや。ほんで並べ直してる隙に、南方ちゅう他の盤で終局まで打ってまえば・・・。 ワハハ! どや、親方!? どや!?』


『お前は人の話を聞いとるのか! 勝ち負けが目的なんじゃないと言ってるだろ!』

『イテ!』


 金剛としては大変な名案として自信を持って師匠に披露してみたのだが、どうも生来の喧嘩っぱやい性格が災いしてか、その考えはどう喧嘩に勝つかにしか要点を置いていない。教えて貰ったばかりの師匠独自の戦に対する考え方は全然加味されておらず、妙計だと自慢せんばかりの無邪気な笑顔を浮かべてお褒めの言葉を待つ金剛だったが、それに対して師匠より返って来たのは怒鳴り声とげんこつであった。

 もちろんそれを受けた金剛からは笑みなぞ一瞬ですっ飛んでしまい、両手でたんこぶができた頭を抱えながら椅子の上で蹲ってしまう。その横からはやや怒りの度合いが増してしまった敷島が再度のお説教を行い始めるのだが、それを目にしても朝日の意識は往年の師弟像ではなく、金剛が無邪気な声で言った先程の言葉のみに縫い付けられていた。なぜならそれはいつぞやの長門と連合艦隊旗艦経験者同士として話した際、長門が話した対米戦における帝国海軍の作戦概要を彷彿とさせる物だったからであり、朝日が知らない所で長門が艦隊旗艦役職者を参集して行った打ち合わせにおいてもまた、議題として上がっていた内容と酷似しているのだ。


 二つの盤は、すなわち米国の海上戦力の影響力が大きい太平洋と、石油を始めとする資源が豊富な南洋に例える事ができ、両方の盤で同時に対局する事態がこの日本の最悪のシナリオ。それを金剛は優先度を設けて区切った訳であり、頭痛の種であるアメリカ海軍を一時的な行動不能状態に陥れようという物であった。言わずもがな、それが成功したなら日本の対南方行動は多くの制約から解放されて軍事、外交の両面でも高い自由度を獲得できる寸法であるが、当然そうなると対南方行動を発動するのと同時に米国に対してはこちらから戦争を仕掛けねばならなくなる。

 しかし日露戦役終結以来、仮想敵国の上位に位置づけて対抗策を練ってきたというこの日本の国防指針の経緯も、言い換えればそれだけ米国との戦争状態を恐れてきた動かぬ証拠に他ならず、その芯の部分には戦えば必ず負けるという確信的な憂慮と恐怖が有ったからこそである。端的に言えばアメリカは日本が絶対に戦ってはいけない国であった。


 ところが眼前の将棋盤の戦況を打破すべく放った金剛の言葉は、煮詰めていけばその道理はなんとこちら側から打って出るという事と同義なのであり、朝日はその事に瞬時に気づいていたのだった。


 そう・・・。もしそうなったら、やっぱりこちらから・・・。

 この日本から、仕掛けるしかないのね・・・。


 脳裏に過ぎるそんな言葉が、朝日のおぼろげに予想していた対米戦の経緯が極めて現実的である事を示す。ましてやこの佐世保にて十数年も練習艦として繋留されている敷島と違い、支那方面を主に後方支援役としてだが第一線部隊に加わっていた彼女であるからその具合は小さい物とはならず、目の前で未だにお説教劇を繰り広げている師弟を他所に沈黙して紅茶の紅い水面を眺めるばかり。その思考には再び弟子の長門と語り合った際の記憶が蘇っており、今しがた察した「自ら歩み出す形での対米戦」という構図により一層の外郭線を引いていくのだった。


『これ以上の差が付かない内に、こちらから勝負に打って出るというやり方よ。日露戦役がそうであった様に・・・。』


 他の誰でもない朝日自身が語ったその言葉は、ついさっき金剛が僅かに話していた米国海軍における大規模建艦計画と大いに重なる。かつて来航した大白色艦隊でも主力戦艦の大部分を含め、僅か3年で11隻の戦艦の建艦を成立させてみせたアメリカという国であるから、きっと金剛の口にした現代の建艦計画も決して見栄や虚言の類ではないだろうと思うと、まだお説教で騒がしい下での卓上の将棋盤にはほのかな戦慄を覚えずにはいられない。

 もっともせっかくの姉との再会を無駄にしたくなかった故に、やがて朝日は『まあまあ・・・。』と過激な折檻と怒号を繰り返す敷島を宥め、全員のカップにケトルを運んでティーを楽しみながらの談笑を続行させるのだが、その日はずっと笑みの裏に杞憂を隠したままでの時間を過ごした。




 そしてこの数ヵ月後、朝日のおぼろげに抱いた対米戦はまさに的中する事になるのだった。

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