第一二四話 「再会と憂慮/其の三」
かつては「潮に浮かぶ城郭」とも謳われた敷島艦。
甲板上に天高く真っ直ぐに聳えた2本のマストは望楼の様相を呈し、甲板上に鎮座する2基の巨砲とケースメイトが含まれた舷側より突き出す無数の小さな砲門は、文字通りの鉄壁にして近づく者には容赦無く死を与える城塞の権化。煤煙を立ち昇らせる3本の煙突はさながら狼煙台の如しであり、彼女の為だけに作られたという「敷島艦行進曲」の詩は、その姿を非常に正確に捉え、次いで表現した物である事は論を待たない。
おまけにその威容に違わぬ戦艦としての能力は、誕生した頃にあっては7つの大洋を見渡しても見つける事ができなかった程の優秀ぶりで、真正面から戦って勝てる艦が当時存在しなかった事は決して世辞で終わるお話などではない。十六条に及ぶ日輪の光線が描かれた軍艦旗を高らかに掲げ、走攻守の三拍子を揃えて波頭を蹴散らすこの敷島艦は、生まれた当時にあってはまさに「バケモノ」と形容しても差し支えない、とんでもない戦闘艦艇であった。
しかしこの世の理として絶対が無いのと同様に、敷島艦の立派な艦体はいつしか年月という名の強敵が蝕み始め、かつてのその勇姿を称えた詩も現代にあっては当て嵌まっていなくなっているのが本当の所である。
堅固なる甲鉄艦の体面は錆びや汚れ、変形、欠損もだいぶ目立ち、凱歌揚る旗も今や信号旗や将旗は無く、軍艦旗のただ一旒のみ。艦の美事を成した乗組の丈夫もその数はまばらであり、城塞の要であった大砲速射砲は大小に関わらず全くその艦体には見つける事ができない。長く岸壁に留め置かれて既に懐かしさが滲むのは、かつては上甲板より望めた鳥も帆影も灘の上の光景。大洋を自在に旅する日々を知る者も少なくなり、横須賀港の深緑も今は佐世保の入り江の雪化粧にとって代わられている。
ただただ時代の流れに流されるまま老いた敷島艦であり、一時とは言え世界最強の名を冠した精強さは、もう忘れ去られていくのも時間の問題である。
やがて、運が良ければお船の一生を終えるのには最も穏やかな解体が施行されるのであろうが、自身の帝国海軍艦艇としての嫡流に相当する後輩達の手によって標的艦として葬られる運命も相当に高い可能性で考えられるという結末も予想しつつの、残り少ない余生に浸っている状態と言っても過言ではなかった。
ところがそんな余生を悲しむでもなく、寂しく思う訳でもないのが、この敷島艦の命である敷島であった。
艦齢もだいぶ重ねて老齢な事を理由に佐世保の桟橋に繋留される中にあって、敷島は多趣味な性格を存分に謳歌しての充実した日々を過ごしており、たまに新参の艦魂や同じ鎮守府所属の金剛のような教え子をこれでもかと虐め鍛えるのが、実の所ではブランデーなんかの洋酒に、妹の淹れる紅茶をかっくらうのと同等なくらいの大好物である。作業地を点々とする現役ではどだい味わえないのんびりとした時間は、かつては帝国海軍艦魂社会でも指折りの戦上手であった敷島であっても、なんの苦労もいらない非常に充実した時間として捉えていた。
おまけにそんな中で実の妹と愛弟子でその場を同じくし、昔懐かしいティーの紅色と香りに存分に浸れるのであれば、不機嫌とか退屈といった気持ちは自然と鳴りを潜める物である。そしてそれに代わって巻き上がるのは敷島自身も含めた皆の笑い声ばかりで、非常に質素で地味な見てくれの敷島の部屋には、それを打ち消すような笑みが満ち溢れていた。
『まあ。これ出雲の手紙なの?』
『そうです。出雲姉やんは、あれで筆まめなお艦魂やさかいな。親方んトコには上海から佐世保に来る運送艦の連中に頼む形で、月に2通くらいは来るんですわ。』
『出雲の奴、頑張っている様だな。支那戦線はこの所は内陸の重慶方面、それから海南島や仏印沿岸といった南支方面での活発な動きが目立つそうだが、あれだけ広大な作戦地域を艦隊旗艦として捌ける奴は出雲ぐらいだろう。その証拠に、大きな作戦行動上での混乱も聞こえては来ないからな。』
テーブル代わりの木箱の上にティーカップと一緒になって、やや散らばるようにして置かれた何枚かの紙切れ。横に綴られるタイプ打ちではない字による文面はそれが便箋である事を示し、笑みを向ける3人が口にするのはその手紙を書いた張本人の名前である。
何通にも渡るこの手紙は全て敷島宛に届いた物だが、髪の色や顔立ちの面で日本人離れした3人の内で最もその雰囲気を明るくしていたのは、今日は客人としてその場に訪れている朝日だった。答えは簡単でお手紙の作成者である出雲は、朝日にとってはもう40年以上にも渡って親友の間柄を維持している艦魂だからで、完全に見慣れた文面にただただ微笑むばかりである。冗談好きで非常にひょうきんな友人はその文面もまた明るくて、日本語で書かれているにも関わらず時折混じっている筆記体で書かれた英単語に、自由奔放でいつも陽気なその人柄が満ち満ちているように朝日には感じる事ができた。
加えて文語体とか口語体とかは完全無視のこのお手紙は、のっけから出雲という艦魂の楽しい性格が爆発していてなんとも愉快である。
Dear Sikisima.
出雲ちゃんだお!
『あのバカタレめ、いい加減にトシを考えろ。もう自分の名前にちゃんなぞ付けれた顔じゃないだろう、まったく。』
『ワハハハ! さっすが出雲姉やんや! この調子やさかい、きっとバンド沿いでも人気者ですやろ、叔母御?』
『ふふふ。出雲はいつだって出雲よねぇ。去年まで上海で一緒だったけど、本当に昔と変わってないのよ。』
皆が知る出雲という艦魂はとにかく四六時中周囲に笑いを与えてくれる人物で、大の仲良しである朝日や、出雲を実の姉の様に慕う金剛に次いで、呆れたような感想を述べた敷島すらも口元を緩めている。先程まで話題に挙がっていた常盤と同じく、出雲の分身は敷島艦と同じ佐世保鎮守府籍の艦艇であり、旧知の仲にして熱い友情で結ばれているのは朝日と一緒であった。
それ故に相も変わらずという朝日の言葉を受けるや、敷島の微笑はちょっとだけ不敵な感じも漂う代物となり、円曲線の効いた金色の前髪を掻き揚げながらため息混じりで声を放つ。
『フン。奴だけは逆に元気でいて貰わないとな。手加減無しで殴れる友は残念ながらもう出雲だけなんだ。』
『まあ、それ褒めてるの? ふふふふ。』
『わ、ワシどつくんかて手加減してへんやないか・・・。』
『何か言ったか、金剛?』
『いぇ・・・! な、なんでもあらへんですさかい・・・!』
共に親友として慕う出雲の話に朝日は笑い、その隣ではこれまでの20数年間、この敷島に散々に殴られ、罵倒されて育てられてきた金剛が、積もり積もったであろう僅かな理不尽をついつい口に漏らして敷島より一喝を受けている。もっともそれでも僅かに端が吊り上った唇で表される敷島の笑みは消える事は無く、友と呼んだ出雲が息災である事に喜びを覚えているのが示されていた。
やがて敷島は半分以上も飲み終えたカップをおもむろにテーブルの上に置き、入れ替わりに手近な所にあった手紙の一部を手にとって、その文面に青い瞳を這わせる。ちょうどそれは卓上に並べた何通もの手紙の中で最も日付が新しい物で、いかにも楽しそうな文面で綴られるその内容を読むや、早くもまた別の仲間の名を声に変えるのだった。
『ああ、そうだったな。なんでも去年の艦隊編成で、磐手が第三遣支艦隊の旗艦で派遣されてるらしい。上級艦隊の括りとは言え、姉妹揃って同じ部隊に配属なんて何時以来だ?』
『まあ、磐手が? 呉にしか居なかったから知らなかったわ。・・・あ、でもそう言えば浅間が、新しい練習艦隊専門の艦が出来たからお役御免になったって言ってたわね。』
『なんと珍しいでんな。第三遣支艦隊言うたら、青島を本拠にしとる華北方面担当の部隊や。あの辺は最近は静かな所やけど、沿岸にはどデカイ港もぎょうさん有るさかい、警備が主任務でも結構仕事は多い所や。ご苦労な事やで。』
話題に挙げられる仲間達の名は入れ替わりが激しいが、敷島の言葉に有った様に磐手と出雲は朝日と敷島の関係と同じ実の姉妹であるから、全く無関係な中に突如として名前が挙がったという感覚は3人には無い。長く練習艦隊の任を頂きつつ、姉の出雲と並んで頭脳明晰で知られる磐手は、これまた出雲と並んで現代の帝国海軍艦魂社会でも1、2位を争う程にお弟子さんが多い艦魂であり、後進の育成という観点では大変に功績の大きい人物。徹底したスパルタ教育で名を馳せる敷島、品格と教養の極みを教え込む朝日以上にその先生ぶりは有名であり、第一線にてかつての愛弟子が励んでいる現代では、出雲姉妹の名は必ずセットの形となって語られるのが相場なのだ。
『あの二人、なんだかんだ言ってても仲は良いのよね。ふふふ。』
口元のホクロを隠すように手を添えて朝日が言った言葉もまさにそれで、時代に流されずに昔日と変わらぬ二人の在り方を喜ぶ様でもある。その感覚はやはり敷島と金剛にあっても同じであり、朝日と違うのはそれぞれの物言いに各々のしゃべり方の特徴が混じる箇所だけ。痩せ型で頬骨や眉間の辺りの隆起がやや目立つ顔の中に、細めた青い目と両端を吊り上げた口でもって笑みを作り、敷島と金剛は朝日に続いて明るい声を上げ始めた。
『あ〜、磐手の姉さんは真面目ですさかいな。出雲姉やんの冗談も流してまう事も多かったモンで、たまに空気が重うなって大変でしたわ。ワシがこの国来た時にはもうああなっとった様です。』
『あれは昔からだよ、金剛。だが、いがみ合ってるようでもさすがは姉妹。日本海海戦でも出雲が艦隊旗艦、磐手は二戦隊旗艦で抜群の艦隊運動を行ってた。フン、おかしな奴らだ。』
そんな言葉でお互いに半笑い気味の声色を滲ませながら知人を語り、しばらく会っていない敷島は特に出雲の方に再会の淡い願いを抱く。陽気で活発、次いで頭も良く運動もできた出雲は、かつては敷島と衝突する事も多く、お互いに激昂した挙句に取っ組み合いの蹴り合い殴り合いを繰り広げた事も有った数少ない人物。多分に両者の性格のせいも有るが、朝日や富士の様な者達を相手に殴りつけてもただ罪悪感だけが残って終わるのに反し、互いに怒号の中に腹を割っての言いたい所を織り込み、硬く握った拳に込めて強引に相手に伝えるその手段を用いれる相手は、殊に怒りの度合いがいつも必ず凄まじい物となる敷島にとっては大変に貴重な存在である。
だがきっとそれ故だったのだろう。皆でクスクスと笑う中で、カップに口元を隠した敷島からは不意に寂しげな声が放たれてきた。
『出雲とは一度、二人で酒を飲みたいな。いつ帰ってくるのだろうか、奴は。まあ、支那での戦況が落ち着くどころか、磐手まで引っ張り出すような今の情勢では、しばらくは叶わんのだろうなぁ。』
ともすれば憎まれ口に近い物言いが持ち味の敷島にしては、その独り言は随分と湿っぽさで塗れた代物であった。朝日と金剛はもちろんその感覚を敏感に察し、笑みを潜めて敷島のカップに隠れがちな表情に目をやる。すると伏目がちに薄っすらと覗かせるその青い瞳からはいつの間にか鋭利さも消え、そこに伴われる僅かに鼻をすする様な息遣いはどこか泣いている様でもあり、ひたすらに身体全体から寂しさの感情が放たれるばかりである。帝国海軍艦魂社会でも強健な心と身体では象徴的存在である筈の人柄が、ここに至ってはまるで嘘の様にも思える程だった。
そしてそんな敷島の姿に一番胸の奥を揺さぶられたのが、本日久々の再会を果たし、実の妹として昔日より心底慕い続けていた朝日である。恐らくはもう二度と海を駆ける事の無いであろう分身を持ち、弟子も友人も実の姉妹も全て自らの所に赴いて貰わねば会えない境遇となってしまった現代で、まるで無力にただ待つばかりの姉の姿が、今の朝日にはなんだか可哀想に思えた。
故に朝日はせめてもの救いを与えようと思い、姉のささやかな願望が決して一方通行のような形ではない事を諭してやるのだが、それに応じる敷島の台詞には思いがけない者の名前が含まれていた。
『ふふふふ。敷島姉さん。出雲もきっと、敷島姉さんにだけは絶対に会いたいと思っているわ。だからこうやって敷島姉さんの所に手紙を書いてくるのよ。』
『フン・・・。一応は返信はしてやってるさ。お、そう言えば昨日だ。長門達にお願いしたばかりだったな。』
長門とは、本日話題に挙がる事も多い敷島や朝日と40余年の付き合いをしてきた仲間達ではなく、現連合艦隊旗艦にして朝日自身が取り上げた末に愛弟子とした者の名であるのは周知の事。今現在は艦隊訓練で遠くは沖縄や台湾方面にも足を伸ばしていたりする筈なのだが、まさか佐世保に来ているとは老練な朝日にあっても予想外であり、両目を僅かに見開いた表情で驚きを表してみせる。
『まあ、あの子。昨日来ていたの? この佐世保に?』
『うむ。一応、第一艦隊としての寄港だったが、整備補修なんかとは別件で来た様だったな。ま、それでも長門と陸奥はちゃんと私の所に挨拶しに来てな。金剛も会っただろう?』
どうやら朝日とは入れ違いの形で来ていたらしい、長門が率いる第一艦隊の面々。挨拶に来たのは長門と陸奥の二人だった様で、共に帝国海軍を率いる大戦艦としては敷島や朝日の正当な後輩に当る。まして長門は実の妹の朝日の教え子、陸奥もまた敷島が大変畏敬している富士の教え子と来れば、彼女達の訪問を敷島が喜ばぬ筈も無い。
深々と頭を下げて来る後輩達の姿に頬を緩ませた様であったが、長門達の来訪は改装作業中という事で退屈な時間を過ごしている金剛にあってもまた、喜ばしい事であったらしい。敷島にそれを確かめられるや、金剛は白い歯を覗かせて嬉しそうに声を放った。
『あ〜、せやったですな。なんや、連合艦隊で近々陸さんと共同での作戦を予定してるらいしんですが、その件で佐鎮も一枚噛むさかい、司令部間での打ち合わせやるんやて言うとりました。ま、人間供の話はほんでも、ワシ等にしたら良い休暇みたいなモンですからのう。久しぶりに長門とは晩酌できましたわ。ハッハッハ。』
10歳以上も歳が離れていて、しかもおちゃらけた性格も目立つ長門とは、なんだかソリが合わなそうにも見える金剛。だが意外にもその仲は、まるで後輩の明石と神通を彷彿とさせる程に親しい物となっており、お酒も伴った夕食を共にしたという彼女の言葉にもそれは表れている。実に意外な金剛の交友関係の一端だが、おかげで金剛は度重なる改装を受けねばならない旧式戦艦を分身としながらも、連合艦隊司令部で考えられる最前線での戦策や動向なんかを常に把握する事ができていたりもする。
実に有益な親交で結構な事だが、身体つきから相手の体力や武技の腕前の程度を探る金剛は、そんな昨日の長門との時間でもっとも意識した物もやはりそれだったらしい。
『長門の奴は、会う度にチチが大きゅうなっとるなぁ。あんだけ顔も違うっちゅーに、よおもああまで叔母御に似たモンや。』
『そういう言い方はみっともないって言ってるでしょ、金剛。んもう。』
『だ〜はっはは。怒らんといて下さいや、叔母御。ええ女やて言うとるだけやないですかぁ。』
ご機嫌な金剛の言葉はお師匠様と違って少々下品な傾向があり、その語りに弟子ともども名前を挙げられた朝日は、やや呆れた声を放った末に顔をしかめる。困った事に金剛はそも悪気を持っていない事から反省の色なぞまるで皆無で、倒れ掛かるように椅子に背をもたれた朝日になんとも軽薄な勘弁を願い出ている。
その様子を尖った瞳で眺める敷島も弟子の物言いに品格の欠如を認めているが、それ以上に朝日の困った表情が面白くて面白くて仕方なく、カップを口の前にかざして抑えられぬ笑みの表情を隠す。ただそれでも眼前で繰り広げられる昔からの妹と愛弟子の掛け合いに、彼女達からは見えない敷島の唇からはついに小さな笑い声が漏れてくるのだった。
『叔母御〜。堪忍、堪忍やでえ〜。』
『胸やお尻で決まるほど私達艦魂は安い物じゃないでしょう。どうしてそういう言い方ばっかり・・・。』
『フッフッフ・・・。』
今から十数年前の頃も朝日と金剛はこんな会話を時折する仲で、物腰柔らかでいつも麗しい朝日はその度にこうして頭を抱えていた。時にはお叱りなんかも与えてそれを制止した事もあった物だが、そんな光景が今でも見れる事が敷島には無性に嬉しい。実の妹も愛弟子も何故にこうも昔のままなのかと、人知れず心の中で口走った。
しかしその刹那、敷島はそんな変わらぬ身近な者達の姿を意識したが故に、つい昨日に会ったとある人物の変わり様にふと引っかかりを覚える。
『ム・・・?』
何かに気づいて立ち止まった思考が短い声を放たせ、その青い瞳は天井の一角へと流れて真新しい記憶を掴もうとする。金剛と朝日は相も変わらずじゃれ合いの様相も強い勘弁の問答を続けていたが、敷島の不意な声にようやく双方ともにそれを止め、明らかに何がしかの疑問に意識を傾けている敷島の顔に視線を向ける。
するとやがて敷島は持ち前の尖ったひし形の目を閉じ、突如として朝日に向けて疑問の真相を問い質し始めた。なぜなら敷島が疑問に思ったのは、昨日挨拶に来た朝日の教え子、すなわち長門に関する事だったからだ。
『・・・朝日。長門と最近何か話したのかな?』
『え・・・? 長門?』
思いがけない問い掛けに思わず質問を問い直したのに対し、敷島はゆっくりと頷くと目の辺りに流れ落ちてきた金髪を掻き揚げて、ちょっと溜め息を混ぜた声色を滲ませながら再び口を開いた。
『いや、会うのは久々だったんだが、最近の長門の事は金剛からもよく聞いていてな。相変わらずナヨナヨしているようだから、ちょっと脅かしてやろうなんて思ってたんだよ。そしたら随分と礼儀正しい上に、連合艦隊の動向なんかもよく理解している様だった。あんなに仕事真面目な奴だとは思っていなかったがなあ。』
艦魂とは言え責任ある立場の長門にあって、そのお仕事ぶりの良い面を敢えて不思議と捉えた敷島の言葉だが、彼女は別に長門を馬鹿にしている訳ではない。朝日から見た金剛がそうであるように、長門は敷島から見れば姪にも等しい感覚を抱ける数少ない艦魂で、明るく陽気な人柄は敷島とは少し距離の隔たりを感じさせる中にあっても、これまで海軍艦艇の命としては非常に目をかけて可愛がって来た後輩の一人。敷島にしたら、彼女がまだまだ10代後半の少女の姿であった頃から朝日と共に面倒を見てきた自負も有るし、幼いままに連合艦隊旗艦として励んで挫折を味わっていた頃に慰めてやった記憶も懐かしい。
『ハハハ、そうかそうか。だがな、長門よ。実の姉の私には解るが、朝日も三笠もお前が可愛くて可愛くて仕方ないんだ。朝日はあの通り、自分の事を立派な奴だと自惚れる所が無いし、理由はよく解らんが三笠も日露戦役が終わった直後から随分と後悔する気持ちを持つようになった。二人とも、お前が自分なんかよりももっともっと優秀になって欲しいから、敢えて言葉をきつくするのさ。だからそう泣くな。』
今から20年ほど前の頃、新参の艦魂ながらも最新鋭戦艦として連合艦隊旗艦を拝命し、初めての先輩達との顔合わせの会議で大いに怒鳴られた長門。
生まれつき楽しい事、騒ぐ事が好きだった性格も災いしたのであろうが、それを当時まだ現役の艦隊所属艦艇として励んでいた三笠に咎められ、教えを授けて貰おうとした朝日にもささやかなお叱りを受けてしまった彼女は、艦隊訓練で佐世保に巡航してきた際に文字通りの泣きつく格好となって、当時からそこに居た敷島の所に駆け込んできたのである。帝国海軍艦魂社会でも唯一、朝日や三笠といった日露戦役での栄光も眩しい者達を怒れる人物として頼り、訳を聞く内に幼心の脆さを露呈して泣き出してしまった長門を、その頃の敷島はそう言って慰めてやった物であった。
そして時は流れ、その懐かしい記憶も持つ後輩には、次第にあの飛び抜けて面倒くさがり屋でテキトーぶりが目立つ人柄も残念ながら肉付けされていった訳だが、つい先日挨拶に訪れた彼女の姿にはなんとそれが無かったのである。
『お久しぶりです、敷島さん。お元気そうで何よりです。』
『おお。長門、それに陸奥よ。よく来たな。朝日と富士先輩は息災かな?』
『はい。昨年末に支那方面出向を解かれて朝日さんは戻ってきてますけど、とても元気です。』
その際に長門と交えたそんな会話は、艦魂も人間も無く先輩と後輩の立場の者同士による至って自然な挨拶の姿かもしれない。ただ敷島自身も長年見てきた長門のお気楽で陽気な性格を鑑みると、開口一番で礼儀を重んじた挨拶をしつつもその後に重度の説教癖を持つ朝日の愚痴を言ってこない所は、今更ながらに何か変だと思えたのだ。
次いで敷島の疑問を耳にした金剛もまた、彼女なりに話題への心当たりを何か抱いたらしい。長身の身体つきが際立つ大きな動作で椅子に座ったまま長い脚を組み替え、長いまつ毛に囲まれた碧眼をちょっとだけ鋭くしながら口を開く。
『ああ、そう言うたら長門の奴、えらい用兵やら作戦やらの事を聞いてきよったな。なんや、駆逐艦やら巡洋艦やら戦艦やら全部混ぜた艦隊組んで、太平洋のど真ん中で作戦行動できるんか、とかなんとか・・・。』
『太平洋・・・。』
ずっと座りっぱなしのお茶会で身体が疼くのか、金剛はしきりに腕や首を回し、背中に垂れる真っ直ぐな金髪の大滝が左右にうねり始める。しかし非常に美しい金剛のその姿を目にしても、朝日の表情には一切の明るさも彩られる事は無く、今しがたボソっと呟いた「太平洋」という言葉を無理に飲み込もうと必死になっているようだった。
もちろん彼女は、その単語が示す物が解らなくて声を詰まらせた訳ではない。むしろ今現在この部屋に居る3人の中で、長門が口にしていたという点においてもその意味を最も深く察する事が出来ていたのは、当の朝日である。いつぞや長門と二人きりで膝を詰め、現連合艦隊旗艦と旧連合艦隊旗艦としての身の上を主に据えて話した際の話題が、今しがた金剛が口にした言葉と敷島が告げた教え子の変化に繋がっていると、朝日はこの時直感したのであった。
『確かに酒飲んでずっと仕事の話するんは、長門にしては珍しいでんな。叔母御、何か知っとりまっか?』
『え・・・。う、う〜ん・・・。』
歯切れの悪い応答となるのは、記憶に残る長門との会話の内容が世間話程度の軽い物ではなかったからで、自身が上海に出向していた昨年までの頃にひしひしと感じた、まごう事無き戦の足音の事である。その際に朝日は悩みぬく長門に決して答えを示さず、敢えて問い詰める形でその本音を引き出してみせたが、一緒に憂いだアメリカという名の超大国と戦になる事態に解決策をなんら見つけられてはいない。むしろ子供の様に自身の胸の中で号泣する長門を抱きながら、実際に命のやり取りを経験した事もある朝日は、本能的とも言える程の感覚でその戦の中に自身の命が尽きる事を明確に悟っていた。
しかしその末に長門の様子が少し変わったという姉と後輩の言葉を受け、朝日はその時に明確な回答を師匠として与えられなかった自分に、今更ながらに後悔と自責の気持ちが生じてくる。帝国海軍に収まらない大日本帝国という一つの国家の方針にも関わる事を、あの時はひたすら教え子の責任にも等しい形で問い質していたが、所詮は一隻のお船の命にそれを求めた所で得れる物なぞ何も無い。ただ苦悩を与えたのみだったのではないかと思え始め、同時に朝日は無性に長門の顔が見たくなってくる。
『長門・・・。』
呆けた様な声で名前を呼び、自分と違って明るく楽天家である教え子の顔を脳裏に思い出す朝日。いつの間にか琥珀色の髪の隙間から覗くその青い瞳を足元に向け、自身の美学の体言でもある紅茶の溜飲すらも止まってしまった彼女だが、それに気づいた金剛はやや椅子から腰を浮かせて朝日に対して心配の声をかけてくる。
『どないしたんや、叔母御? 気分でも悪うなりましたかいな?』
直接の師匠である敷島と同等に朝日を奉っている金剛は、その長い四肢の内から右腕をゆっくりと朝日の背に回し、椅子の上でうずくまる様な格好となっている朝日の身体の温もりをそっと確かめる。強く気高き女性の象徴とも言える敷島を良く知る手前もあるし、今でも腕っ節の強さと度胸なら他の誰にも負けない事を自負する金剛から見れば、大人しくて清楚可憐、次いで大変に落ち着きの有る女性像を持つ朝日はどうしてもか弱い感じが漂う人物として見えてしまうから仕方ない。
久々の再会となった本日においてもそれは変わらず、金剛は朝日の背中を擦りながら心配そうに名を呼ぶばかりである。だが声も無く悩みの底に足を運んでいた朝日の胸の内は、彼女の金剛に対する返答を待たずしてその場に示された。
『フン。なるほど・・・。対米戦が現実味を帯びてきたか、朝日・・・。』
『ね、姉さん・・・。』
僅かに背筋を背もたれから起こしながらも組んだ両足を崩さず、口元にかざすカップも下ろしていなかった敷島は、腹部を抱えるようにして身体を萎縮させていた朝日を目にするや、これまでとは違った張り詰めたような感もある声で突如として言った。
ここ数年は目にしていなくとも彼女は実の妹の苦悩する心なぞ一目で看破できたらしく、ようやく湿り気も無くなった短い金髪を指で掻き分けながら向けてきたその瞳は、朝日と似た形で同じ青色を持っていながらも何か不気味に輝く眼光を奥深くに宿らせている。振り返ってそれを認めた金剛が声を一瞬失い、顔をなんとか持ち上げた朝日が30数年前の対馬沖での姉の顔を蘇らせて重ねる中、カップをテーブルの上に置いた敷島はゆっくりとした動作で胸の下に腕を組むと続ける。
その言葉はまさに、朝日が自責の念に駆られた長門との談義の一件における核心に対し、正鵠を得た代物となっていた。