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第一二三話 「再会と憂慮/其の二」

『さあ、叔母御(おばご)。ここや。入ってください。』

『ええ。・・・まあ。久しぶりな雰囲気だわ、このお部屋。』


 へこんだり擦れたりした隔壁に包まれる敷島(しきしま)艦の艦内には、艦内奥深くよりボイラーの駆動音が小さく鳴り響き、それに伴って靴越しにも感じる事が出来る微細な振動が走っている。海兵団の若き新兵さん達による一部の缶のみでの実習運転との事で、その具合は力強い艦の心臓の鼓動というよりも、何か汽車が持つ眠気を誘うあの独特の心地にも近い。希に聞こえてくる若々しい声による号令もまた、相応に歳を重ねた金剛(こんごう)朝日(あさひ)には初々しい事この上ない感じに聞こえ、敷島の部屋へと入るに当たって既にどちらの顔にも笑みが浮かべられている状態だった。


 そして数年ぶりに目にした実の姉の部屋に対し、朝日は部屋の至る所によく知る姉の特徴を次々に見つけてしまい、細く弓なりにした青い目をさらに細くする。敷島は先程甲板で会った後、その煙菅服の下は汗だらけである事から再会の感動に浸る間もそこそこに、一旦お風呂へと行ってしまった為、金剛と朝日は主の居ない部屋で待たせてもらう事にした。

 だがすっかりこの部屋を見慣れた金剛とは違って、朝日は部屋の持つ独特の光景と雰囲気にしばしの間五感を釘付けとする。


『ちっとも変わってないのね、敷島姉さん。ふふふ、この額入れなんか掲げてる場所も同じじゃない。』


 二人が訪れた敷島艦中甲板の艦首側右舷の一角にある小さな一室は、敷島艦がまだ戦艦だった時代に艦で最も活気の有った砲術科における倉庫とされていた所で、舷窓は部屋の中央の舷側側の壁にたった一つあるのみのちょっと暗いお部屋である。ワシントン海軍軍縮条約にて戦線復帰不可能な状態での練習特務艦となる事を決められ、搭載する装甲帯と砲門を全て撤去した時より空いたこのお部屋だが、ねずみ色一色で塗られた隔壁が全周を囲むという殺風景な往時の在り方も、敷島が自室としたその頃より色々と私物を持ち込んだおかげで結構様変わりしている。

 士官室や艦長室の如くマットも敷かれていない、鉄の地肌が剥き出しの部屋にてまず目に飛び込んでくるのは、壁の天井も近い部分に掲げられる書道の額入れ。まるで刀が踊って作り出す斬撃の如きトメやハネが用いられた書体で、「堅忍不抜」なる文字がなんとも堂々とした威容を室内の一角にて放っている。どこぞの書道家の作品にも思えるが、この部屋に入る人間達には決して見えないこの額入れは、もちろん部屋の主である敷島が自ら筆を取って綴った立派な作品。まだ朝日や三笠(みかさ)といった妹達に囲まれて第一線に属していた頃にしたためた一品で、すっかり老いを意識する妙齢となった現代の朝日にはとても懐かしかった。


『堅忍不抜・・・。どんな物事にも堅く抱いて忍び、その抜く事は決して叶わぬ程の不動の意思。敷島姉さんにいつも言われてたわねぇ。』


 細めた青い瞳を額入れに向け、口元の小さなホクロを弾ませながら呟いたのは、今はもう数十年の時を経てしまった朝日の若りし頃の記憶。

 英国ゆかりとも言える紅茶の嗜みを大事にする朝日を始め、彼女の世代の艦魂達はその容姿に似合うように、遠い西洋の文化を大なり小なり己の生活に彩らせているのが常であり、それは言わば故郷への馳せる想いでもある。いずこかの地で生きる命として身を立てていかねばならない事は彼女達自身もよく解っているのだが、人間であっても艦魂であってもそんな中で簡単に捨て去る事ができないのが、いわゆる望郷の念という物だった。

 それ故に朝日も含めて最初日本に来た頃はそれなりの戸惑いなんかも有った物なのだが、そんな姉妹内、或いは仲間内にあって、不思議と敷島だけは東洋の島国に故郷ではお目にかかれない面白い物をたくさん見つけ、郷里への想いなぞは一切抱かない人物であった。



 特に敷島が強く興味を示したのは、この日本や支那における文字の文化で、絵画や造形品ではなく文字だけをもって成す芸術がある事に、彼女は大変に大きな感動を覚えていた。


『考えてもみろ、朝日。私達が生まれたブリテンの地に、文字だけで体現される芸術が有ったかな? ロンドンタイムスも聖書も、そこに綴られる情報にしか価値が無い。文面の美しさを論評した奴なぞ、意味の解釈を二の次とする愚者と捉えられるくらいじゃないか。だがこの漢字なる文字と、それが使われるこの地の感性は素晴らしい。それ単体に意味を持ち、綴る強弱や流れが一つの芸術として認知されている。いやあ、良い所に来れた物だ。』


 往時において、お酒を飲んでは朝日や三笠といった妹達にこう熱弁していた彼女。極東アジアの一角における文字の文化を大層気に入ったらしく、妹達が若干困った表情で相槌を繰り返す中でもその弁舌が勢いを失う事は希であった。おかげで書道なんかは三度の飯よりも好きになった敷島は、ワシントン条約の頃に戦闘艦艇の舞台より引退してからというもの、もう毎日の様に筆を走らせる日々を続けており、漢字を代表格とする東洋的文字文化に飽く事無き探究心をずっと胸に抱いてきた艦魂なのだった。




『ふふふふ・・・。』


 朝日はそんな姉の昔と変わらぬ趣味の特徴を思い出し、無意識の内に唇の隙間から小さな笑い声を漏らす。少し趣味に熱を走らせやすい姉の人柄が変わっていない事に嬉しさが満ち、涙の如くひとりでに湧いてくる可笑しさに胸がいっぱいになった。

 そして朝日の一人クスクスと笑い出す姿に加わる様にして傍に寄り添い、一緒に額入れを見ながら金剛が述べた姉の近況もまた、朝日の笑みをより明るくしてくれた。 


『あ〜、相変わらずでっせ。それにこん〝(しのぶ)〟の字が好きなんも。刀にトメを打ってこそ刃たり。ほんでそれを成す心を書けば忍ぶとなる。威力ひけらかして振り回すんはなまくらの証やて、今でもワシに説教して来るんですわ。』


 ちょっとだけ口をへの字にしながらの笑みを浮かべる金剛。艦魂としては完全に大人、立派に一人立ちした者の筈なのに、どうも敷島の前だけではいつまで経ってもお説教とお叱りばかり、と子供の様な扱いを受けてしまう。もう慣れたとは言え、先刻甲板で頂戴したばかりの一撃で鈍痛が残っているお尻を擦りつつ、年月を得てもちっとも衰えない元気なお師匠様に、若干の目の上のたんこぶと捉える気持ちとほのかな尊敬の念を抱くのだった。


 また、敷島のご健在ぶりを悟らせる物品は額入れだけではない。

 部屋の隅にて一人しか座れぬ程にしか敷かれていない筵と、その筵に正対するように敷かれた1メートル四方のマットは、今しがたの額入れに始まる敷島の書道作品を生む非常に小さなアトリエで、鉄の地肌のなんとも冷めた感も満ちる部屋の床にポツンと置かれたその光景は、凛とした表情と真っ直ぐな背筋を常に崩さない敷島の、人物としての落ち着きが具現化した様でもある。傍らにはビールか何かの空き瓶に活けた何枚かの葉も付く小枝が飾らているが、地味な静寂の中に僅かな緑の彩りを備えるというその在り方もまた、寡黙な中の姿勢や仕草が朝日以上に美しかったりする敷島の特徴を代弁しているかのようだった。


 更には舷窓の真下の辺りに、対局の途中だったのか、駒が定位置通りに並んでいない将棋盤なんかも置かれている。これもまた、「戦とはココでやる物。」という言葉をこめかみに人差し指を突き立てて放つ、という敷島独自の言動と繋がる代物でもある。


 ただ朝日にあってはそんな将棋盤よりも、筵とマットでこじんまりと設けられたアトリエに懐かしさを覚えた様だった。





『布団は畳んでもこの座敷だけはしまわないのよね、敷島姉さんは。硯も筆もそのままなのね。』

『ええ。教えるガキ供も艦隊訓練で出払うとる最近は、酒飲みながら書道三昧の毎日ですわ。ワシには何が面白いんかよう解らんけど。』


 朝日と違いこの部屋を完全に見慣れている金剛は、朝日の様に敷島という人柄が残す余韻を探ろうという意識が元よりなく、東洋独特の芸術である書道とかには全く魅力を感じていなかった。既に部屋への案内も終えて後は怖いお師匠様の風呂上りを待つのみであり、やがて金剛は室内の壁に2、3個立てかけられていた折り畳み椅子を引っ張り出すや、少し退屈そうな表情を浮かべて腰を下ろす。朝日との再会に有頂天だった心も今は静まり、姉の近況を求めて室内を眺めるばかりの朝日を邪魔する訳にもいかないとくれば、再び金剛の苦手なじっとして過ごさねばならない時間がやってくるのだった。

 故に金剛はその長い四肢を椅子の上で伸ばし、込み上げて来る退屈に伴われる眠気に大あくびを放って、まだ部屋のそこかしこに姉の残像を追いかけている朝日の姿を目で追うばかりである。


 逆に言えば敷島の部屋はそれほどまでに質素であり、他には畳まれた布団と机代わりに用いている腰掛くらいの大きさの木箱が一つ有るだけと、この辺もなにか東洋に「清貧」という言葉に表される文化的な理想感、または美学なんかと繋がりそうであると言えなくもない。見た目は完全に西欧における白人女性で、透き通った青い瞳と僅かに黒みが目立つ金色の髪、奥まった目と高い鼻なんかは、東洋という言葉とは一切の繋がりを持たせないのが相場であるが、それに反して非常に東洋的文化に魅了され、精通している敷島。


 質素な部屋の中にもその色濃い影は結構残っていて、やや埃もかぶって壁に立掛けられているのは、まだまだ10代半ばの少女の容姿であった頃に朝日も餌食になり、金剛にとっては汗と血と恐怖に覆われた修行時代の権化ですらもある、たった一本の古ぼけた竹刀。竹の地肌はあちこちでひび割れを生じ、刀身部分を縛る紐に走った横縞模様は全て継ぎ接ぎの跡で、柄の部分に黒く染みで描かれた持ち主の指の形なんかも含めて、その年季と使い込まれた様を物語っている。その証拠に朝日と金剛の記憶に残るこの竹刀は、いつも必ず鬼の如き形相で修練を課してくる敷島の右手の中に在り、これまたこの東洋の島国が持つ独自の概念、「侍」を連想させるのに十分な姿であった。


『とにかく強い・・・。ふふふ。そう、そんな艦魂(ひと)だったわねえ。』

『なんや叔母御、今更になって。はっはっは。そう言うたら、三笠の姐御もたまに同じ事言うてはったなぁ。』


 甲板上では挨拶もそこそこの再会だった手前、朝日は姉の近況や人柄を直接本人から感じ取れてはいない。だからなのか、部屋から読み取る姉の後姿は、どうにも朝日には懐かしさに満ち溢れた物となってしまう。再び椅子の上で伸びをする金剛を背後に、朝日はその思い出深い竹刀に手を触れようとするのだが、その刹那、前触れ鳴く響く金属音と共に部屋の扉が開かれた。

 朝日も待ちに待っていた、敷島のお風呂からのお帰りだった。




『おお。待たせてすまないな、朝日。』


 甲板上で身に着けていた白い煙管服も取り替えたのか、同じ白でも丈の短い運動着の上衣とズボン姿で現れた敷島。朝日より僅かに高い所にある頭をタオルで拭い、湿った金色の髪の束が棘の形となってタオルの狭間より覗く。やや朱色も混じるその金髪は朝日と同じ強めのカールを持つが、その長さは肩を覆う程もある朝日とはうって変わって短めだ。ちょうど顎のラインに至る辺りが最長部なのだが、独特の巻きグセのかかった髪は規律無く跳ね上がって、朝日と比べてもどこか野生的な風貌を伴わせている。顔立ちもよく似てはいるが朝日よりもひし形の度合いが増した彼女の目つきは、弟子達にも通ずる怒ると非常に怖そうなお顔の主役となっており、男のような言葉遣いがその猛々しさに一層の拍車をかけていた。

 もっとも金剛を始め、赤城(あかぎ)神通(じんつう)といった乱暴な艦魂達の系譜に頂点として君臨するのに反し、背筋も伸びて非常に立ち姿も凛々しい敷島の全体的な人物像は、女性らしさが幾分薄い物であってもある種の品格が備わっている様に見る事ができる。怒鳴ったり殴ったりを平気で行うのは同じだが、平素は意外にもその人柄に弟子達の如き荒々しさが無いのだ。


 もちろんおっかない面構えをしていても、今の彼女には実の妹の朝日に対してげんこつや罵声を放つ気は微塵も無く、やがて頭を覆っていたタオルを脱いで素顔を露にするや、敷島は僅かに青い瞳を弓なりにして朝日に向かい両腕を開いてみせた。


『久しぶりだなあ、朝日。ははは。さあ、もっとよく顔を見せてくれ。』


 朝日にとっての敷島は、この世にたった一人だけしか存在しない最愛の姉。逆に敷島にとっても朝日は、今現在では自身を姉さんと呼んでくれるこの世でたった一人の存在に他ならず、弟子の系譜に連なる神通によって彼女が再会を所望していたのは朝日も知る所である。応じる声なぞ無用の物で、朝日は笑みを深くして敷島と熱い抱擁を交わすのだった。


『・・・うむ。相変わらず綺麗だな、朝日は。』

『敷島姉さん・・・、いつ見ても本当に若いわ。ふふふ、私の方が老けてる。』


 お互いに胸と胸を合わせ、交互に相手の頬に口づけする交わりは、日本人には馴染みが薄くても本来が西欧人であるこの二人にあっては至って普通の事である。まるで紅茶の水面を模したかの如き色合いの朝日の髪を撫でながら敷島は妹の美しさを称え、対して朝日が口にしたのは自身よりも年上の筈の姉が持つ異様な若さ。既に艦齢40余年を迎えた朝日は、目尻にも口元にも消え去らないしわが常に控えているというのに、不思議と敷島の顔の中には全くしわは存在せず、その顔立ちは傍から見ると30代半ばの金剛の顔と殆ど同じくらいの年頃にも見えるのだった。

 人間から見れば摩訶不思議な艦魂達の在り方だが、こんな敷島の年齢不相応な若さは艦魂達の中にあっても摩訶不思議な事で、今更ながらに朝日は敷島の持つそんな特徴に大いに感動を覚える。しかし実の所は敷島にとっても朝日にとっても、そして二人の抱擁を少しはにかんだような笑みでもって見守っている金剛にあっても、決して原因不明の謎などではない。

 なぜなら外見の面でもその身体に秘める体力の面でも若さの水準を保つ為、敷島は結構昔から色々と試行錯誤を重ねており、その結果として鬼教官ぶりが様になる人柄に相応しい荒行の数々を自身の修練として毎日課している事を、朝日も金剛も知っていたからだ。


『フン。お前は昔から、身体の鍛錬を少し疎かにしていたからなぁ。しわは顔の脂肪を老化した皮膚が支えられなくなってできる。だから私は今でもああやってスチームを使って削ぎ落としてるのさ。』


 お互いの高い鼻が触れ合うくらいの距離で顔を認め合いながら、微笑を絶やさぬままで敷島が言う。

 言葉の最後の方にも有った通り、朝日が甲板上で出会った煙管服姿の彼女は、まさに若さを保つ為の荒行の真っ最中であった。これは朝日や金剛に限らず、帝国海軍艦魂社会では敷島艦名物として囁かれている物で、その詳細は機関室に程近い密閉した部屋に意図的に蒸気を濛々とたちこめさせ、尋常ではない高温多湿の環境の中でひたすらに運動を続けて大量の汗を流すという代物。一片の脂肪すらも許さない覚悟でもって行う我流の体重操作術とでも言った所で、敷島の痩せ型な体型と若さが目立つ外見の基礎を成す修練でもある。

 しかもその度合いは昔よりも一層激しい物になっているらしい事が、不意に金剛と敷島の間で行われたやりとりによって朝日へと示される。


『ワシもたまにやけどやってるんやで、叔母御。ただ汗掻くだけやからちょい退屈やけど。』

『このバカタレ。お前より10年も歳をとってる私でもシャドーボクシングをやってるんだぞ。篭るばかりではなく、運動をせんか。』

『お、親方・・・! そ、そないな事しとったんですか・・・!?』

『まったく、コレだ。きょうびの若いモンはなっとらん。朝日、お前も今からでもやったらどうだ?』


 相も変わらずの体力練成通ぶりをもって再会の会話をするなぞなんとも敷島らしいと朝日は感じ、ちょっと自分への指摘に近い言葉を放たれた中にあっても機嫌は決して傾かなかい。肩や首筋に触れ合ってお互いの健在ぶりを確認しあうばかりで、ようやく椅子を取り出してゆっくりと積もる話をするのは、それから30分程も経ってからになる。




 ただ、姉妹愛に溢れる抱擁ばかりが時間の経過の理由ではない。久々の再会となった敷島と金剛は、本来は客人である朝日の事を十分に承知しつつも、その代名詞である美味で好評な紅茶を共に所望したのであり、同時に朝日は嫌がる素振りも見せずに二言返事でそんなお願いを承諾したからだった。


『たは〜。叔母御のティーは久しぶりや。親方も嬉しいですやろ?』

『フン、当たり前だ。ここ数年も飲まされ続けて来た、お前の淹れるマズいティーなぞもうウンザリだ。ようやくこれで舌が癒される。』

『うへ・・・。 お、叔母御の前でそれ言わんでもええや無いですかぁ・・・。』


 敷島の質素な部屋の隅っこにて、一度朝日艦に戻って取ってきた紅茶の道具を扱っている朝日の背後では、昔懐かしい厳しいお師匠様とその弟子によるちょっとしたお叱り芸が展開されている。

 現代では完全に第一線から引退し、佐世保という帝国海軍艦艇の家にて留守を預かるような形で在籍している敷島艦にあって、その命たる敷島の身の回りのお世話は一番世話を焼いた弟子である金剛が担っているのだが、何事にも荒々しくて粗暴さが目立つ彼女が気を利かせるそんなお役目を平坦にこなせる訳が無い。椅子に深く腰掛けてまだちょっと湿り気が混じるクセ毛を撫でながら、敷島はそんな弟子の至らぬ部分に嫌味な言い方でもってご指摘を投げる。

 するとこのお師匠様に散々に蹴られ、殴られ、怒鳴られて育った金剛では、持ち前の気性の荒さを前面に出した応対は不可能な話。敷島よりもまだ10センチ以上も大きな身の丈の身体を萎縮させ、おっかなさ満点の敷島の横顔に恐れ慄く色合いが混じった視線を向けるばかりであった。


『ふふふふ。きっと金剛のティーの淹れ方はまだ荒いのね。』


 転じてそんな二人に背中を向けたままの朝日は、久しぶりに耳にしたこんな師弟の様子が面白くてならず、持ち前のお説教屋さんぶりを垣間見せながら笑い声を上げる。それと同時に彼女の手元では、その琥珀色の髪と同じ色合いを持つティーの流れが滝を作り、傾けたケトルより湯気を昇らせながら3つのカップに注がれていた。


『ふむ。久々に聞く佐世保川に劣らないせせらぎだな。良い音色だ。気持ちに無用な波打ちが無い証拠だよ、朝日。』


 やがて柔らかで清楚な物腰をもって紅茶を淹れる朝日の後姿に、髪を掻き揚げながら敷島が溜息混じりの声を放つ。他人の事を滅多に褒めないその人柄を勘定すれば、金剛にとっても朝日にとってもちょっと思いがけない言葉であったが、それだけ敷島が何もかもが久しぶりな今を楽しんでいるかだろうと二人は察する。

 先ほど嫌味を言われたばかりの金剛が早速それを確かめるべく、僅かに上半身を傾けて隣の椅子に腰掛けている師匠の表情を覗き込むと、やはりそこには口元が緩んだ敷島の表情があった。

 朝日と顔つき自体はよく似ているものの、骨格の隆起が朝日に比べてやや顕著な彼女の顔は、ふくよかさが目立つ輪郭を持つ朝日よりも表情の変化が出やすい。それにそも日々の鍛錬で極限まで贅肉を削ぎ落とそうとしている故か、昔から寡黙でおっかない顔をしているのに反して、意外にもその表情の変化を隠す事ができないのが敷島の顔である。


 その内にようやく紅茶が全てのカップに注がれ、それらをトレイに移して踵を返した朝日の瞳には、そんな姉の嬉しそうな顔がやけに輝かしく見える。おかげで数年ぶりにこの3人で催すお茶会は、まだそれぞれが香りすらも楽しんでいない中にあっても、非常に会話の明るさが際立つ代物となった。


『さあ、できたわ。』

『おお。待ちかねたよ、朝日。』

『おほ! 待ってましたでぇ。あ、叔母御。ワシが並べますよってに、ささ、はよ座ってください。』





 まだまだ肌寒い2月下旬。

 ただでさえ採光に携わる舷窓が一つしかない敷島の部屋は薄暗く、人間達の様に暖房としてストーブを用いる事もできない艦魂達の集いであるから、憩いの場である室内はそれ相応の華やかさという物に関してちょっと物足りなさが生じている。地味な色合いの黒髪と濃紺の軍装を纏う、すなわち帝国海軍艦魂社会らしい日本人女性の容姿を持つ艦魂達なれば、言っては悪いが例えこんな環境でのお茶会であってもそれなりに似合うのかもしれないが、金色や琥珀色といった非常に自己主張の激しい色をそれぞれ髪に持ち、目鼻筋が通った上に空色を滲ませる碧眼を顔の特徴とする朝日達では、どうしても何かみすぼらしい様な雰囲気がその姿を包んでいるようだ。

 ただ、実際に憩いのお茶会を催している3人にあってはそんな事はちっとも気にはなっていない様で、持ち上げたカップを指差しながら早くも談笑を始めている。


『なんと懐かしいカップだなぁ。こいつは私や朝日がこの国に渡って来た時に、一緒に持ってきた物だぞ。金剛。』

『ええ、知っとりますがな。ワシのはきっと三笠の姉御のやっちゃな。カップの逆側の縁んトコの模様だけが薄くなっとる。あん人は左利きやったさかいな。』

『うむ。では私のは初瀬(はつせ)のか。朝日は自分のカップを他人に使わせないだろう?』

『ふふふ。正解よ、二人とも。本当は敷島姉さんのカップも有ったんだけど・・・。』


 お互いに白い歯も覗かせて笑い合う最中、朝日が濁るような物言いで声を放つのと同時に、カールのかかった前髪の奥に有る敷島の細い眉が僅かに脈動する。何やら朝日の言いかけた事により敷島の機嫌が少しだけ傾きかけた様で、弟子として過ごした故に誰よりもその斜めぶりに敏感となってしまった金剛は、すぐにお師匠様の瞬間的に疼いた眉に気づいた。

 だが帝国海軍艦魂社会でも一番の鬼と格付けされる敷島のご立腹としては、その程度の具合は明らかに低い物であり、それをよく知る金剛はそれ程までにお師匠様のお怒りをそれほど憂慮する事は無く、笑みを浮かべたままで敢えて今しがた敷島が抱いた思考を尋ねてみる事にする。


『おっとぉ? どないしたんですか、親方? もしかして、こんカップになんか曰くでも有るんですか?』

『ああ、そうだったわね。金剛がまだ来る前のお話だったわね。』

『フン。』


 明治の終わり頃に生まれた金剛とその分身は艦齢30年にも迫り、現代の帝国海軍艦艇としては相当に古参な部類に入る艦の内の一隻なのだが、敷島と朝日が悟ったカップに纏わる一悶着はそれよりも更に時間を遡った頃の記憶らしい。全く世辞抜きにして親のようにこの二人を慕う金剛は、当然の如くその真相を聞かせてくれとねだり、昔懐かしさ混じりの微笑を湛えるばかりの朝日の前で、敷島は愛弟子に憤怒の念篭る昔話をやや語気を荒くして話してやった。


『ロシアとの戦の前の頃、常盤(ときわ)の奴だ。あのバカタレめ、欲しがってた本を太平洋航路に就役してた客船から手に入れた、と有頂天になっててな。その時にちょうど私や初瀬、三笠は朝日がティーを淹れると聞いて集まってたんだが、お前は知らんだろうが常盤は初瀬と仲が良くてな。凄い物を手に入れたとやんややんやし始めたのがケチの付け始めだ。フン。ふざけ合ってる内に常盤の尻が朝日の尻にぶつかって、その拍子に朝日が用意してた私のカップを粉々にぶち壊したのさ。』


『ふふふ。正確にはテーブルから落ちて割れちゃったんだけどね。ふふふ・・・、あはははっ。お、可笑しいわ・・・! あはははっ。』


 カップの中にて揺らぐ柔らかな茶色の水面を眺めながら話す敷島は、大事にしていたであろうカップが第三者の過失で失われた事を快く思っていないようで、持ち前の男性的な口調にはかなりの鋭さが滲んでいた。薄っすらと眉間に寄せたしわも合わさってその表情は不機嫌な事この上なく、年齢相応の落ち着きの中にも割と感情表現が豊かである面が見て取れるが、それ故に朝日は敷島の言葉に昔を思い出して大笑いしてしまう。

 清楚、静寂、丁寧といった言葉が非常に似合う人柄で慕われる朝日が、口に蓋をする様に手を添え、身体全体を伝う可笑しさが生んだ震動に思わずカップを置いて抱腹する、というのは非常に珍しい。自然と金剛も隣にいるお師匠様の不機嫌なご様子を忘れ、つられて笑みを浮かべて笑い声を漏らし始めた。

 その最中にも朝日と敷島の脳裏に蘇って来るのは、まだようやく20代の女性の容姿も迎えた頃の自分達の姿。時の流れに沿って失われていった仲間、姉妹もまだ揃っていて、笑うのも喧嘩するのもその全てにおいて自分達が中心になっていた頃であり、それは朝日や敷島といった船の命達の青春時代と言っても過言ではなかった。


『こんのバカタレー!! キサマ、今すぐイングランドに帰って買って来い!』

『わーー! わ、悪かったって言ってるだろ! あ! ふ、富士(ふじ)先輩タスケテー!』


 こんな大声を上げて甲板上を走り回り、せっかくのお茶会が大騒動へと発展してしまう事も日常茶飯事であったあの頃が、朝日にとってはとても懐かしい。よくまああれだけ騒いでばかりいた物だと今更ながらに思えると同時に、脳裏に描かれる自分達の姿がこれ以上無いくらいの傑作喜劇のように見えた。


『ハッハッハ。常盤の姉さんは足が速かったてよお聞きますわ。さすがの親方も捕まえられへんかったんとちゃいますか?』

『フン。おかげであれから私のカップはいつも借り物だ。忌々しい。』

『あっはははっ。』


 弟子の詮索にも仏頂面のままで、敷島は紅茶の溜飲を静かに続ける。それは沸々と湧くかつての怒りをティーの味わいで拭おうとしているかの様でもあるが、隣でこれ以上無いくらいに抱腹している妹の姿がその怒りを一掃させてくれない。別に自分を嘲り笑うつもりがない事は敷島も承知であるも、弟子同様に中々憤怒の感情が治まらないのもまた、鋭い鷲の如き青い瞳を始めとする彼女の怖いお人柄が持つ大きな特徴だ。


『腹立たしい奴だ。遣米支隊の時にもアメリカで手に入れて来いと言ったんだ、私は。それなのに忘れて本ばかり持ってきおって。』


 首を捻って短い髪を揺らしながらねちねちと常盤をこき下ろす様は、少し敷島に口うるさい老婆の風格を伴わせる。終いには手にしたカップを投げてしまいそうにも思えるほどに不機嫌さを顔に出しているが、金剛も朝日も大してそれを憂う事無く笑い続けていられるのは、敷島と常盤は別段仲が悪い間柄ではない事を知っているからだ。

 常盤の分身は敷島や金剛のそれと同じ佐鎮所属で、数年来支那戦線に派遣されていた呉鎮所属の朝日なんかよりも一緒に居た時間は抜群に長いし、40余年を迎えた艦齢をもって現代を生きる同期の輪の中、最も功名を立てた働き者として敷島は常盤の実力を普段から高く評価している。現に日本へとやってきて敷島を師と仰いだ金剛は、共にあの日本海海戦にて奮闘した仲間であるとお師匠様に紹介してもらった際、出雲(いずも)と並んでこの常盤を文武両道に優れた大先輩として崇める様にと、かつては念押しされたものであった。


 あくまで一時の怒りであり、その攻撃的な物言いに反して仲間に憎いという感情を抱いている訳ではない。それ故にカップを持ったままで腕と脚を組んだ格好の敷島に、笑いがやや収まってきた朝日が他の同期に当たる物達の名を出して話しかけるや、それまで尖りっぱなしであった彼女の目は再び細く弓なりになり、その唇からも愚痴めいたそれまでの物とは異なる、明るい声が漏れてくるのだった。


『あははは。浅間(あさま)も常盤の元気さには今でも半分呆れてるのよ。同じ姉妹でどうしてこんなにも違うのかしらって。』

『おお、浅間か。練習艦隊所属の頃はよく佐世保にも来てたんだが、少し前の座礁事故からは会っていないな。どうだ、元気なのか、あいつは?』


 声を交えるや朝日と敷島はそれぞれのカップを口に添え、奥深い香りと味を緩んだ頬の奥に染み渡らせる。お茶会の最初の話題は金剛も含めた3人が手にするカップの事だったのに、いつの間にか彼女らの話題は同期に等しい仲間達の近況へと移り変わっており、それに伴って談笑の時間はさらに続いていく事が約束される。





 工廠のど真ん中で繋留された敷島艦。

 その艦体を包む寒さも騒々しい機械音も、もはやこの3人の弾む会話を止めさせるどころか、ただの一瞬でも遮る事にすらも用を成さなくなっていたのであった。


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