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第一二一話 「呉の我が家も忙中閑あり」

 昭和16年2月25日。

 いよいよ3月も目前に迫り始め、春という季節の足音も聞こえてきそうな時期を日本は迎えるも、今年はやや寒さが尾を引く感じである。さすがに氷点下とまでは至っていないが、気温は5度もあるかどうかの肌寒い値で、日本列島の大部分では海岸から内陸部の方角に望める山並みがまだまだ雪化粧しているのも、別段不思議とは思えない。




 おかげさまでそんな気候の真っ只中に置かれる呉軍港は日の出を迎えつつも、張り詰めた寒気に身の引き締まるような感覚を覚える朝を迎えていた。特にその寒さに朝一番から顔をしかめ、身体を小さく震わせるのは出勤して呉工廠で働く工員さん達で、道を埋め尽くすような密集した行列で工廠の営門を潜る彼等は、高く立てた外套の襟や襟巻きで隠れ気味なその口より白い息を一様に巻き上げている。


『うぅ〜・・・。はようございますー。』

『あ、おざーす。』

『おはよあります〜。・・・うぅ、さみい。』


 挨拶を交える中にも声の端々に寒さに狂わされた旋律を混ぜ、足早に歩いていく途上でそれ以上の声を上げる者は少ない。皆、とにかく口をなるたけ開けず、この寒冷な朝の空気を出来る限り口に含むまいと願っているのだ。


 次いでそれは人間だけの感覚ではないようで、やがて工員達が各々の職場へと赴くべく工廠内を走る鉄道乗り場に列を作り始めるや、その上空をゆっくりと飛んでいく数羽のカモメにあっても今日は口数が少ない。いつもはうるさいと思わず言ってしまいたくなる程に賑やかな彼等は、工廠のアチコチから放たれる多様な機械の音を除けば、間違いなく呉工廠というバンドにてメインボーカルを務める者達である。

 しかし野生の歌い手たる彼等にしても本日の寒さが身に染みているのか、短い飛行の後に工廠内の屋根や電線等の高い所を足場として止まってしまう。寒気の篭った潮風に羽をついばむ仕草も小さく、もはやカモメ達に毎朝のコーラスを催す事は全く期待できそうにはない。

 ただただ張り詰めた冷気に満ちる呉軍港の波間を瞳に移し、まだ若干の朱色も滲んだ水面の揺らぎを黙って見つめるだけであった。



 極めて静かな、とある日の呉軍港の朝である。



 やがて工員達の通勤に用いられる7両編成の列車が乗客をぎっしりと乗せて動き出し、ガタンゴトンとゆっくりとしたリズムで奏でられる鉄の鼓動を、朝もやもかかる工廠の建物群の合間を縫って木霊させて行く。岸壁に打ち寄せる小波はそんな人工の鼓動に調子を合わせようというのか、不意に響いてきた一声の汽笛を合図に僅かにその揺らぎを大きくした。


 もっとも波の揺らぎが大きくなった原因は、決して人智の及ばぬ大自然の意思等ではない。それは大きな揺らぎを持って岸壁へと寄せてくる波を辿る事で、誰もが知る事が出来る。

 大小の船渠や船台が横一列に並ぶ呉工廠東南側の陸地から、僅かに沖合いを眺めた所。ちょうど軍港の中枢海域のど真ん中に当たるそこには、ここ最近になっていよいよその山のような艦影を整え始めてきた大和艦が浮かんでいるのであった。




 そして大和艦の巨体が非常に重い金属音を低く唸らせて生む振動により、巨大な起重機を載せて両舷を挟む浮き桟橋を伝って、ややうねりの大きな波紋が呉工廠の海面へと放たれていく。

 建造工期繰上げを打診された大和艦の艤装工事は夜勤も動員しての急ピッチで進められており、ウン時間の残業なぞここ最近の工員達にとってはほぼ常識になりつつある程である。おまけに浮き桟橋に挟まれる格好で波間に浮いている大和艦であるから、お船は作っても乗る事を生業としない工員さん達には何か陸地から完全に隔離された監獄の様にも思え、日々の勤労意欲を維持する事も結構大変な物。体調を崩す者も既に何名か発生している有様で、いくらこの巨艦が帝国海軍最新鋭戦艦の体面を備えていると言えども、その実は中々に辛い職場環境と化していたりする。ましてや四六時中、非常に音量の大きい機械音に包まれながらのお仕事だから、その疲労の度合いはたった1日の業務であっても極限に瀕する程の代物であった。


 しかし本日の大和艦は、そんな辛い艤装工事の日々にあっては至って静かである。相変わらず工廠の中は廠内通勤用の鉄道が奏でる鉄の律動音が木霊しており、時折汽笛の短くも甲高い息吹が鳴り響く程度。工事用の設備や道具が散在する大和艦の艦内でもそれを耳にする事が出来るくらいで、昼夜兼行の工事を毎日行っているのが嘘の様な静寂が存在している。それどころか、大和艦艦内のほぼ全区画には工員の姿がまるで見当たらなかった。


 するとやがて大和艦の真っ暗な艦内には、さながら大地震に伴われる地鳴りをも思わせる轟音が響き渡る。とても金属音とは思えぬ程に低くて長く、しかもまたその音量はまるで巨砲の発砲を間近で耳にしたかのようである。同時に大和艦の艦内は大きくゆっくりと上下に動揺を始め、仮に何も知らずに艦内に誰かが居たなら、間違いなく天変地異に見舞われたと錯覚してもおかしくない状況であった。

 だがそんな奇妙にして不気味な艦内より最上甲板へと上がれば、大和艦に起こっている状況とあの低い轟音の正体は案外簡単に察する事が出来る。なぜなら大和艦の艦体が持つシルエットには、遠目からでも解る程のとある大きな変化が生じていたからだ。




 その最中、大和艦の舳先に位置し、まだ一度も艦首旗が翻った事の無い旗竿の支柱に寄り添うようにして、背丈が異なりながらも同じ黒い外套を身に纏った二人の女性が、その場から艦尾の方を静かに見つめている。2月も暮れに差し掛かったというのにまだまだ寒い潮風は、早朝の時間帯特有の冷え込みによってよりその鋭利な具合を増しているようで、二人の女性は首に巻いたマフラーにそれぞれの唇を僅かに隠した。


『・・・ふぅ。まだちょっと冷えるわね。』


 すると二人の内、背丈の高い方の女性が、マフラーの奥から白い息と供に声を漏らす。白みも目立つ長い金髪を首の辺りにて撫で、口元や目尻の辺りにうっすらとしわも刻まれたその顔は、若さよりも老いの方が見て取れてしまう40代の女性の物。僅かに色褪せた感じも滲むブラウンの瞳に、高い鼻と奥まった目は完璧に西洋人の顔立ちであるが、彼女の口から漏れた言葉は発音に一切のよどみが無い綺麗な日本語であった。

 一方、そのおかげで彼女の傍らにいた背丈の低い方の女性は、全く自分とは正反対な容姿を持つ隣人に対してすぐに応じる事が出来た。


浅間(あさま)さん、御身体に障りは御座いませんか?』


 まだまだ顔に比して大きな目と低い鼻を持った若い、否、幼い日本人女性の顔立ちに、長いまつ毛を伴った切れ長の大きな目を僅かに細めながら、その少女は外見の割りにやや大人びた感も有る音色の声を放つ。140センチ台の小柄で細い体躯には寒さも堪えるのか、震える感じも濃く滲んだ声色であったが、問いかけられた浅間はそのブラウンの瞳を細く弓なりにして笑みを浮かべてみせた。


『ええ、大丈夫よ。大和(やまと)こそ平気?』

『はい。それに、何よりわたくしの事ですから。』


 浅間の笑みにお礼を述べるかの如く、大和と呼ばれた少女は黒い外套に包んだその身体をゆっくりと折り、深く一礼しながら答える。まさに今、二人が足をつけている甲板を含んだ大和艦の命である彼女は、流麗な分身のシルエットを連想させるように物腰が柔らかで、とても丁寧な言葉遣いを用いる少女。あの長門(ながと)に教えを乞いでいるとは思えない人柄で、明治生まれの年長者故にそんな彼女の師匠を知る浅間は、大きく頷いて大和の言葉を肯定する意思を示し、二人揃って再び視線を前方へと投げる。

 端的に言えば朱色の寒空の下に大和艦を眺めているだけの二人だが、今しがたの大和の言葉は本日の大和艦の外観に生じている変化に関連する物で、二人が顔を向ける方向にはその変化の主となる物体が既に存在していた。


『1基に対して横並びに3門。凄い砲塔ね。』


 眼前の光景に溜息混じりでそう呟く浅間。

 数年ほど前にこの呉付近で座礁し、ただでさえ老骨と化している上に竜骨を損傷するという極めて致命的なダメージを受けた彼女の分身は、この大和艦の右舷に望める上陸場近くの岸壁にて係留されている。老朽化と相次ぐ損傷により恐らくは二度と航行する事は無いであろう艦艇であるが、栄えある帝国海軍艦艇として生きた40余年に及ぶその生涯の中、船の命たる彼女が確かに見てきた物は、紛れも無く時代に沿って生まれてきた多くの仲間達、後輩達の姿である。

 石炭焚きから重油専焼へと切り替わった船が生まれた時、初めて飛行機を積んだ船が生まれた時、初めて海に潜る船が帝国海軍にやってきた時など、海軍艦艇が時代の最先端の科学によって変遷していく様を、彼女はそのブラウンの瞳に実際に映してきた。そして今またここに、浅間はまたしても帝国海軍艦艇としての初の試みを目にする機会に恵まれた。


 親子ほども年齢差がある大和と並んで見守るそれは、明け方より平坦にして広大な甲板のど真ん中に設置が始まった、大和艦の主砲塔である。

 帝国海軍最新鋭の戦艦たる大和艦の主砲はこれまでの戦艦の例に漏れず、その時代が持つ最先端科学力の結晶として生み出された物で、如何なる装甲をもぶち抜く事を企図して作られるという、まさに地球上最強の物理兵器。この脅威より逃れる方法は、その射程圏内より逃げ出すか白旗を掲げる以外に無く、敵艦船を海の藻屑と化すのに際して戦艦こそが最大の駒と誰もが認めるのは、ここに大きな理由が有る。およそ20年前に長門艦が410ミリの主砲を持って建造された時も然り、その更に昔に金剛(こんごう)艦が356ミリの主砲を携えて英国より嫁入りしてきた時も然りで、仮に船舶において食物連鎖という概念が有るとするならば、他を圧倒する威力の大砲をもってその頂点に君臨するのが、戦艦という類別を持つお船なのだ。

 そして言うまでも無く大和艦はその主役とすべく設計されており、浅間のブラウンの瞳に映る横に3門並べられた砲門、すなわち3連装型式の砲塔は、今現在の全世界規模で見たお船の業界において、最も強力な牙その物であった。


 しかしそんな大和艦の命たる者はまだまだあどけない顔つきで、浅間にしても隣に立つ少女が船舶界における百獣の王の如き存在だとは、なかなかすんなりと理解は出来ないのが正直な所だ。

 ここ最近はずっと呉に繋留されている身ゆえに、年寄りの暇つぶしも多少は兼ねてこの大和の教育に当たっている彼女だが、その日常で目にするのは礼儀正しく大人しい教え子の姿ばかり。いっそ旧知の友人である敷島(しきしま)や後輩の金剛の様に、荒々しい性格だった方がその分身にはお似合いだとまで思う程だった。

 一方、浅間の隣に居る当の大和は至って静かな物で、自身の分身に起重機で吊り下げられていく主砲をじっと見つめ、やがて1門の砲が砲塔基部に鎮座するのに併せて艦が動揺する中でも、その美しい姿勢と冷静な表情を微動だにしない。浅間をして初見となる戦艦における3連装砲塔を、他の誰でもない自分が持つという事に対しても、大和はまったくその胸の内に不安や恐れを抱いている節は見られなかった。


『・・・ふふ、大和はいつも静かね。』


 大和の表情を窺いながら、浅間は邪魔にならない様に小さな声で語りかけてみる。すると大和はやはり驚いたりするような素振りは見せず、浅間の方へと僅かに顔を向けると小さく頭を下げ、自分が落ち着いていられる所以を声に変え始めた。


『はい。わたくしの主砲の構造は、先だって朝日(あさひ)さんと一緒に目にしております。3連装型式な上に、扶桑(ふそう)さんや山城(やましろ)さんの主砲と同じ様に弾薬は固定装填方式でして、加えてこれまでの様に揚弾薬(きょう)を用いない弾薬供給構造には、朝日さんも大変驚かれておりました。』


 10代半ばの容姿を持つ大和だが、その言葉には一隻の戦艦としての知識を相応に身につけたらしい部分が随所に含まれている。

 それを受けた浅間はちょっと意地悪かと思いながらもその度合いを確かめてみようと考え、主砲構造に関するちょっと難しい質問を大和へ投げかけてみた。元は装甲巡洋艦という呼称であった分身の持ち主である浅間は、日露戦役の開幕戦とも言える仁川(インチョン)沖海戦を始めとして実際に艦砲による射撃戦を何度も体験しており、現代では病弱そうな初老の女性という人物像を持っていても、培ってきた海軍艦艇としての知識は尻の青い新米艦魂である大和とは月とスッポン。艦砲に関する知識だってそこらの古参の海軍士官に負けない程に持ち合わせており、大和のような生まれたばかりの艦魂では絶対に太刀打ちできそうにない程の叡智の差が存在する。

 浅間もそれを十分に承知しているが故に、自ら質問をしたにも関わらず大和が声を詰まらせるかもしれない事をちょっと心配したのだが、彼女を含めた大先輩からの薫陶をそこそこ受けてきた大和の知識は、しっかりとした理解を土台にしてその頭脳に根付いているようだった。


『そうなの。でも、揚弾薬筐を使わないって事は、換装機も無いのかしら? 装薬も砲弾もどうやって砲塔まで持ち上げるの?』


『はい。正確には装薬だけは揚薬筐で供給し、砲弾は給弾室から砲塔まで一直線に伸びた筒状の揚弾構造にて直接供給致します。これまでの戦艦の様に中甲板付近に有った換装室は無くなっておりますが、揚弾筒を経た主砲弾は砲塔内に縦向きで出てきますので、砲尾に有る装填機の部分に砲弾を横向きに倒す為の換装台が設置されております。』


 主砲の砲身を搭載しているのはまさに今だというのに、まるで大和は完成した砲塔の構造がどんな物か既に見てきたかの如く、浅間に対して声を返してみせた。実際に彼女は数日前、浅間と同年代の艦魂して、呉鎮守府に属する艦魂達にとっては生き字引のような存在である朝日と供に、艤装工事中の自身の分身を見学してきたそうであるが、それにしてもまだまだ砲身も備わっていない未完成の砲塔を一緒に見て来ただけの事である。当たり前ではあるが大和の分身にはまだ一発の砲弾も積み込まれてはいないし、揚弾、揚薬に関わる機械類が稼動している筈も無い。

 にも関わらずここまで自身の分身の事を把握している大和という艦魂は、浅間にとっては末恐ろしいと感じるのと同時に、極めて勉学に精力を注ぐ彼女の素質を垣間見ることができる。本来は大和の師匠筋にあたる艦魂は彼女をその手で取り上げた長門で、連合艦隊旗艦、及び第一艦隊と第一戦隊の旗艦も兼ねている分身の持ち主故に、呉を留守にするのにあたって在泊の最年長者たる浅間と朝日が大和の先生役を引き受けているのだが、その先生の一人として過去に類を見ないほどに頭脳明晰な教え子を持てた事は、浅間にとっては素直に嬉しい事であった。

 紛れも無くこの大和という艦魂は帝国海軍艦魂史上希に見る秀才で、更なる浅間の質問を受けても全く言葉を詰まらせる事は無い。微笑を浮かべた浅間の視線を受けながら、大和は眼前の組立て中の主砲塔のアチコチを時折指差したりして、持ち前のやや年寄りじみた言葉遣いで声を紡いで行く。


『あらあら、大和。それだと給弾室では、あの重い砲弾を縦にしなければ供給は出来ないんじゃない? だって艦底に近い区画から砲塔の有る最上甲板まで繋がった、筒状の構造物が揚弾薬の機械なんでしょ? どう考えても縦の筒に横向きの砲弾は入らないと思うんだけど。』


『はい、浅間さん。砲弾は弾庫での保管状態において、最初から縦置きにしているので御座います。朝日さんはそれをお知りになられ、上海でご覧になられた米国海軍艦艇の物と同じだと仰られておりました。それと一等巡洋艦の皆様の主砲も、最近の物では同方式だと伺っております。人間の方々が防御構造により重点を置いて作って頂けた故の事で御座います。』


 老いた浅間とうら若い大和の姿に反し、まるで今は大和が先生役となっているかの様な光景が現れる中だが、浅間は全くそんな事を気にせずに大和の語りにただただ笑みを頷かせる。

 生まれたばかりでまだ分身が完成していない大和の博識さは、決して持って生まれた才能なんかではない。二人も含めた艦魂とは人間達から見れば極めて奇妙な存在であるが、始めから叡智を備えている訳でもなければ、底無しの体力を持って生まれて来る訳でもない。人間と同じく全ては日々の修練を積み重ねた末に身に着けていく物であり、既に40余年も生きてきた浅間もまた、英国で生まれた後に日本へと嫁入りしてきた頃は、今の大和と同じ様に全てにおいて未熟な若人であった。

 そしてそんな艦魂の誕生した頃の事情を鑑みるに、先程の様に砲塔に関する知識を披露してみせた大和は、長門によって取り上げられた昨年8月よりの僅かな時間で、まさに火の出る様とでも形容できる程の猛烈な勉強を積んできた事は疑いようがない。直接のお師匠様である長門を飛ばしてしまうも、師匠筋の長たる朝日や同門の明石(あかし)が持つ類希な努力家という一面を、彼女がその幼い顔立ちと細く小さな身体の中にしっかりと持っている事の証明でもあった。




 だが浅間が教え子の人柄を愛でている最中に、ふと大和は長いまつ毛を持つ目を眼前の砲塔から浅間へと流し、再び腰を浅く折って軽いお辞儀をしながら口を開く。


『浅間さん。わたくしはもう十分に砲塔は見ましたので、そろそろ浅間さんの所に戻りたいと思います。浅間さんのお身体に障りが有ってはなりませんし・・・。』


 普段からやけに落ち着きを払って物を言う大和だが、その澄んだ感も強い綺麗な声が終わり際に幾分のよどみを持った事に、浅間はすぐに気付く。大きな切れ長の目をやや伏せて浅間の顔色を窺う大和の顔を見るに、どうやら老体ぶりも甚だしい浅間の事をちょっと心配しているようだ。

 もちろん大和には、老齢をタネにして浅間を疎んじたり、小馬鹿にする気なぞ毛頭無い。数年前の座礁事故でもう航行不能、つまりただ浮かぶ事しかできないお船となった浅間艦とその命たる浅間を、無垢で心優しい大和は心の底から労わっているだけなのだ。


 浅間もそれを解っていたから、大和が放った心配の声に対して笑みを横に振って応じてみせる。だが、早朝より始まった自身の分身における主砲塔積載作業の見学を、途中にも関わらず自ら打ち切ろうとした大和の申し出は、どうやら浅間の身体への憂いだけがその理由では無いらしい。

 やがて浅間が言うのに続いて大和が口を開き、それは示される。


『うふふ。良いのよ、大和。腰も背中も今日は朝から何とも無いわ。ましてや砲塔の積載は滅多に見れる物じゃ無いし、新式の砲なら尚更よ。もう少し見ていた方が、お勉強にもなるんじゃなくて?』


『有難いお言葉です、浅間さん。ただ、わたくしはまだまだ砲術の基礎のお勉学が不足しております。この様な立派な主砲をせっかく人間の方々が据え付けて下さるのですから、無駄にせぬ様に今の内に射法関連の知識を身に着けたく思っております。声を返す形で恐れ多いのですが、できましたら本日この後も引き続き、浅間さんの教示にあやかりたいので御座いますが・・・。』


 自分の分身の事だからか新型の主砲の構造には詳しかった大和だが、その身の程は浅間や朝日、そして本来の師匠である長門と比べれば、やはりまだまだ未熟者である。生まれてまだ半年にも至らない大和は秀才の片鱗を十分に覗かせていても、その言葉通り複雑にして多岐に渡る叡智の積み重ねはまだ7合目にすらも及んではいない。大和自身が口にした砲術の知識はもちろんまだまだ初歩の初歩しか身に着けておらず、他にも英語や数学といった一般教養は勿論、手旗、旗旒、無線電信を始めとした信号術、六分儀や気象学を用いての航海術、石炭焚きの頃からの変遷も理解した上での機関に関する知識、乗組員達が日頃より用いている号令のアレコレ等々、殊に戦うお船の命が知らなければならない知識とは結構多い物である。むしろ機関兵、造船士官と言った具合に職域として完全に縦割りになっている人間達の方が幾分は楽にも思えるくらいで、意外に学力が求められるという艦魂社会の実情の一端でもあった。


 言うまでも無く、大和はその点を鑑みて更なるお勉強に精を出そうと考えている。特にその重点科目と捉えたのは眼前にて組立てが進む主砲に関する砲術のお勉強で、周囲にて寒空の下に汗を流す人間達の横顔を目にしてその意気込みは一層強くなっている。元々幼い容姿の中にどこか肝が据わった一面も持つ彼女はその表情も凛々しく、ゆっくりと瞬きしながら浅間の目をじっと見つめて嘆願の意思を伝えてきた。


 転じてこうなっては最早、老いた浅間には断る等という選択肢が浮かんでは来ない。

 とうに一線を退いて、後は解体か標的艦任務を帯びて除籍されるのを待つばかりの余生の中、たまたま師匠筋に当たる者が不在な事から、半ば年寄りの暇潰しにも近い格好で行っている若人への個人教授。その相手が恐らくは世界最強の海軍艦艇となる分身の持ち主にして、そう遠くない未来において帝国海軍の全ての艦艇を統率する旗艦を約束された者と来れば、浅間と同年代の引退した艦魂達には非常に光栄でやりがいも湧くお役目である。だが幸運にも教え子となった大和はその境遇や身の上に加えて、二度と舳先に白波を立てる事の無い分身を持つ浅間であっても、深い労りと慈しみ、そして謙虚さと礼節を満たした態度で相対するという、生まれながらに持った人物としての素晴らしさもまた備わっていたのだ。


 人間の世界であっても、やはり出来の良い子供というのは可愛がられる。

 その意味において浅間が和人形の如き大和の姿に同じ感情を抱いてしまうのも至極当然であり、直接の師匠である長門や朝日を差し置く格好となろうとも、教え子のお願いはなんでも叶えてあげようという気持ちがどんどん強くなってきてしまう。年老いて往年の身体能力を失うのと交換に浅間が身に着けた老練さも、大和の前では過保護に近い親心を誘発するのにより一層の加速を与えるだけであった。


『うふふふ・・・。解ったわ。大和はお利口さんね。それなら今日は、弾道学のおさらいにしましょうね。まだちょっと難しいでしょう?』

『はい、有難う御座います。是非、ご指導願います。』


 浅間が大和の肩に手を触れて再び笑みを頷かせると、大和もまた再びお辞儀をしてお礼を述べる。その眼前で汗を輝かせながら主砲塔の組立作業を慎重にこなしている工員の者達には、そんな二人の姿が誰一人として見えてはいないが、人の外見を持つ浅間と大和の姿はまさに親子の姿その物であった。


 そして時を置かずに大和艦の艦首旗竿の辺りの甲板からは、彼女達が去っていく際に放った白く淡い光が放たれる。誰の目にも触れる事の出来ないその光は、始業の時間を迎えて騒がしくなり始めた呉工廠の喧騒に紛れる様にして消え失せ、粉雪の如き光の粒子が数える程甲板の一角で舞い落ちるのみ。完成もそこそこ近づいてきた大和艦檣楼上にて休憩し、超特大の主砲が据え付けられるのを終始見守っていたカモメ達ですら、二人がその場から消えた事に気付いてはいなかった。




 やがて、そうして人知れず姿を消した二人は、真新しい鉄の輝きも眩いばかりの大和艦から、いくらブラシをかけたり雑巾で拭ったりしても落ちない汚れが目立ち、足元に敷き詰めたチーク材も相当に色褪せて白みがかった、浅間艦の甲板へと転移してくる。

 ほぼ呉海兵団の練習艦代わりとされて岸壁に繋がれる浅間艦は、まだまだほっぺも赤く大和と同じくらいの年頃の者も多い四等水兵の少年達によってこれでも毎朝ちゃんと清掃されているのだが、艦上に視線を流せばそこかしこにくたびれた部分が目に付いてしまうというのも、艦齢40余年では無理も無い。当たり前だが海防艦という後方勤務な艦の上、二度と海を駆ける事の無い浅間艦は、一線勤務たる戦闘艦艇、特務艦艇に比べて整備補修の頻度、優先順位は大きく格下げされており、入渠しての艦底にまで及ぶ本格的な整備なぞは数年に一度の割合でしか行われない。この呉工廠には大和艦を建造した造船専門の船渠以外に、整備補修の為の船渠が第1から第4までと4つも備えられているのだが、そも近代化改装を何度も繰り返す戦艦を代表としてその使用予定はずっと先まで埋まっている有様である。


 おかげさまでやや小汚い感じがどうしても消えない浅間艦なのだが、浅間に肩を抱かれる格好で供にその場へとやってきた大和は、そんな自分の分身とはうって変わった艦容を目の当たりにしても一切意識を誘われる事は無い。むしろくたびれた感が満ち、鉄製の隔壁や構造物、木甲板等のありとあらゆる物が色褪せてしまっているそんな艦上の光景に、大和は柔らかで暖かい浅間の人柄が持つ温もりという物を多分に感じる事ができる。

 それは肩に触れている浅間の手の温もりと全く違いは無く、自然と彼女のあどけない顔は笑みを作ってしまう程だ。


『今日は冷えるわ。私の部屋でお勉強にするけど、その前にティーで一息入れましょうね。』

『はい。お手伝いさせて頂きます。朝日さんの様に上手くはできませんが・・・。』

『うふふふ。朝日のティ−は、私の世代の艦魂(ひと)達でもそうは淹れれた物ではないわ。だからみんな欲しがるのよ、昔から。』


 一緒に甲板を歩きながらお勉強前の段取りをちょっと話す二人。

 早朝からの起床と大和艦での見学でやや疲れも溜まり、紅茶でそれを拭おうという話に至るも、彼女達が紅茶の事を脳裏に描くとそこに必ず一緒に紡ぎだされる存在が有る。


 それはもちろん、呉鎮守府所属にしてその昔はこの大和艦と同じく、3人の姉妹と供に一時とは言え世界最強の戦闘艦艇として洋上に君臨していた、という経歴を持つ朝日艦の艦魂だ。浅間とほぼ同世代の朝日は、外見の上でも同じ40代半ばの白人女性の顔つきを持ち、大和にとって師匠である長門のそのまた師匠に当たる艦魂。「取り上げ」という艦魂独自の誕生の仕方を踏まえれば大和の祖母としても捉える事ができ、帝国海軍艦魂社会に根付く師匠系譜の一派の長とされる人物でもある。

 麗人を極めたその人柄は帝国海軍の艦魂達の間でも大変な人望を集め、教養豊かで若りし頃はあれで柔道なんかの武技も強かったらしい。


 そんな朝日は直接の師匠である長門を除けば、大和にとっては最も信頼できる先生役に当たるのだが、終始今日はその名が話題に上るだけである事からも解るとおり、実はこの呉工廠にその姿は今は無いのである。太く短いすんぐりとした艦体に時代も偲べる衝角艦首を持ち、艦中央に聳えた高く細い煙突とその前後にて天を衝く2本のマストを始めとした、古風にして立派な朝日艦の艦影。大和艦建造中の呉工廠の中にあっても断然に目立つその姿は、付近の江田島や柱島泊地にすらも無い。

 なぜならほんの2日ほど前。

 朝日艦は艦尾に軍艦旗を颯爽と翻すや、教え子の大和を教育する日々を一時中断して、この呉軍港を旅立って行ったからだ。


『朝日さん、どこかの要港の支援なのでしょうか? 急な任務だったようで、わたくしとはあまりお話しする事が出来ないままで御座いました。』


 大和はこれまで長門に代わって教えを授けてくれていた朝日の旅立ちを一応は知っており、その際に十分な声を交えずに一時の別れを迎えねばならなかったのを残念そうに語る。幼いながらどこか肝が据わっている彼女だが、やはりその切れ長の瞳にほんのり浮かび上がっているのは、実の祖母のように慕ってこれた朝日が突然居なくなった事に対する寂しさの気持ち。伏目がちになったその顔はちょっと笑みが薄れており、それに気付いた浅間はすぐに大和が知る事の出来なかった朝日の旅に関する事を教えてやった。


『まあ、そうだったの。昨日、曳船の子達から少し聞いたんだけど、朝日は別に遠くに行った訳ではないのよ。海軍の要地で言ったら呉とは隣くらいの所だし、留守にするのも1週間くらいらしいって話だったわ。それに、朝日にとってもしばらくぶりの再会だから・・・。』

『え? なんで御座いますか、浅間さん?』


 どうやらまた上海といった外地出向になった訳ではないらしい朝日なのだが、浅間の言葉の最後の一言に引っかかりを覚えて大和は思わず声を返す。「しばらくぶりの再会」と浅間は口にしたが、朝日の直接の教え子である長門、そして明石は供に所属の艦隊に伴って艦隊訓練に励んでいる筈であり、常に作業地を移動して回っている故に艦隊随伴していない艦が特定の場所で会合する事は非常に希であるし、そも明石も長門も艦隊訓練に出動して一ヶ月くらいしか経っていないから、久しぶりという言葉を用いて再会を喜ぶのも些か大げさである。

 きっと明治の頃から生きてきた身ゆえに知り合いが多いのであろうと大和は察しつつも、先生としても先輩としても、そして自らの身体に流れる血の源流たる存在としても慕っている、という朝日の事をもっと知りたく思い、彼女が向かったという地名を浅間にさらに問い掛ける。

 対してどこか浅間は懐かしむような感も漂う笑みを浮かべ、甲板から大和艦が浮かぶ工廠の波間に視線を流しながら、彼女に朝日艦が向かった地の名を教えた。


『朝日はね、佐世保工廠に応援で少し行く事になったの。今の佐世保は支那事変の影響で、支那方面艦隊所属の艦艇の整備補修に、軍需物資の生産なんかでとても大変なの。その上で新造艦艇も作ってるから、きっと人手が足りないのね。工作艦である朝日が呼ばれたのはその為なのよ。』



 それは帝国海軍に設けられた四つの鎮守府の内で最も西に位置し、日清、日露の両戦争の時から最前線の鎮守府として機能してきた地である。そしてそこに向かう朝日を待つのは、既にこの世でたった一人しか存在せぬ唯一の血の繋がった姉妹。

 大和はそれをすぐさま理解し、出かける事を彼女に伝えた後に足早に去る際、何時に無く朝日が嬉しそうな顔をしている事の真相を理解するのだった。

最近執筆が進まない・・・

なんか書いても書いても納得できず消す日々です・・・(´;ω;`)

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