第一二〇話 「荒れ模様」
昭和16年2月21日。
常夏の沖縄は透き通った青い海と白い砂浜、そして陸地の緑と鮮やかな花々の色に溢れ、猛訓練の合間のささやかな休暇を楽しむ第二艦隊の面々は、豊かな色彩で描かれる景色に心を和ませている。しばらく停泊したままの各艦でたまに行われる訓練は、配置訓練や銃砲等の念入りな手入れ、或いは訓練というよりも競技の形に近い武技教練が殆どであり、颯爽と波を蹴って派手に銃砲をぶっ放す艦隊訓練からは少しだけ距離を置いていた。
おかげでここ数日の第二艦隊各艦では、軍艦旗よりも洗濯物が靡く光景の方が一層目立つ。航海中は海上のうねり具合やお天気によって中々洗濯物を干す事ができないからで、多くの乗組員達の服は勿論、各艦で航海科が頻繁に使う信号旗ですら、今日は虫干しの為に縦に伸びた索に連なって陽光を浴びている始末だ。
そんな第二艦隊の各艦の中、賑やかに工作機械のざわめきを放っているのは明石艦である。
しばらく留守にしていた第二艦隊における要修理部品の山はまだまだ片付いておらず、今日も午前8時に軍艦旗と艦首旗が掲揚されるや、明石艦の甲板上は工作業務で大賑わいの状態となった。過ごしやすい沖縄とは言っても直射日光を一日中浴びた明石艦は、そもそもが鉄の塊である事から艦内温度が高くなってしまうので、朝一番の乗組員達によるお仕事は甲板上の至る所に張り巡らす天幕の展張作業であり、当然これは工作部の人員だけではなく兵科の乗組員達も含んだ大仕事。もちろん一日の終わりにはこの天幕の収納もこなす必要がある為、明石艦では工作部、艦固有の乗組員に区別無く、朝から晩まで文字通り総出での忙しい日常となっていた。
『あれ? これ板金終わってねえぞ。搬出品に混じっちまうから、右舷の甲板に寄せとけよ。』
『おいおいお〜い! まだ起重機上げんなよ! もう一本、索を縛ってからだ!』
『班長、留め金ってこの径で合ってますか? 工作室の連中に訊いたら、種類が一杯有り過ぎてちょっと解んないって言ってるんですけど。』
『ええ? 伝票、コレ誤記なの? いやいや勘弁してくれよぉ。よし、工作部長から愛宕艦に話をつけてもらおう。こんなん明日じゃ終わんないもん。』
各々が上げる声は同じ明石艦としてのお仕事に接しての物であるが、その内容は艦側の向こうに望める沖縄の風景の如く、それぞれが違った色合いを持っている。艦隊における整備補修任務に専念するという極めて明快なお役目を明石艦は与えられている筈だが、その業務形態は工作内容によって細分化され、乗組員達が各々で行うお仕事は総じて多岐に及ぶ物であった。
艦隊訓練の合間の休養を狙うようにこうして忙しいのが、帝国海軍最新鋭工作艦である明石艦の泣き所と言えるかも知れない。
そしてそのご利益で今日も騒音によってお勉強を邪魔されてしまった明石は、ちょっと気分転換でもしようと思って大繁盛の競り市の如き様相を呈している自身の分身を散歩していた。
艦首から艦尾に至るまで段差が無い平甲板型と呼ばれる船体形式を持つ明石艦。その最上甲板は最大20メートルという一等巡洋艦並みの艦幅を持つ事も手伝って割と歩きやすい場所なのだが、あちこちに散らばるようにして置かれた多くの資材、設備、工具、そしてそれに寄り添う乗組員達の姿によって、本日はとても真っ直ぐ歩ける状態には無い。
だから明石はゆっくりと小さな歩幅で障害物を縫うように歩みを進め、同時にそこらで見かける工作作業や修理部品なんかにキョロキョロと視線を配っている。次いで顎の辺りに指を添えながら彼女は何事かを呟き、小松島で見たのとはまた違った物品や作業に興味を示していた。
『へぇえ〜、これは配管かなあ。両端にネジ切ってるもんね。あ、これは鋼索の留め金だ。そういえば艦砲射撃の衝撃でぶっちーんて切れちゃったって、那智さんが昨日辺り言ってたっけ。あは、やっぱり伝票に那智って書いてあるぅ。』
行く先々で楽しそうに声を上げ、時にはその場にしゃがみこんで実際に物品を手にとってみたりする明石。
周囲の乗組員達からは彼女の姿は決して見えてはいないものの、160センチ半ばと女性にしては大柄な身体を持ち、しかも温暖な沖縄へとやってきてから衣替えした真っ白な第二種軍装は、そんな明石の姿を艦体のねずみ色とリノリウムの朱色の上で一際目立たせる。甲板端の手すりから向こうに広がる透き通った青色の波間も、明石の纏う純白の第二種軍装の清らかさとその笑みの明るさを一層引き立てていた。
また、当の明石も海軍軍人の一張羅として国民からの人気が高い第二種軍装を着るのを楽しみにしていた為、お勉強を中断しての散歩中であっても決して不機嫌な心は微塵も無い。
綺麗な沖縄の風景の中を、綺麗に着飾った自分が歩く。
ただそれだけの事ながらも、一応は女性である明石は胸を躍らせているのだった。
しかし明石が乗組員達に囲まれながらご機嫌となっている最中、せっかくの天然のスポットライトたりえた陽の光が何の前触れも無く突如としてその明度を落として行き、明石や周囲の乗組員達が身につける白い服装は影を受けて、やや灰色がかった色合いへと瞬時にして変わりはじめる。
明石はちょうどしゃがみこんで修理部品の伝票にまじまじと視線を這わせていた所で、急に文字が読みにくくなった事に僅かに首を捻っていたが、同時にザワザワと奇妙な風の音が聞こえてきた事でふと顔を上げた。
『およ? な、なにかな・・・?』
見上げたお空はいつの間にやら分厚い雲で覆われた曇天となっており、ついさっきまで背中に受けていたポカポカした陽光も殆ど遮られている。ちょうど明石が居た場所は天幕を張っていない所だったが、近い所にある天幕の下となった甲板は真っ暗な状態となり、そこに居た乗組員達もまた驚いてぞろぞろと這い出してきた。
『なんだあ? なんも見えねーぞ、おい。』
『妙な空模様だな。これ沖縄独特の風か? 気持ち悪いモワっとした潮風だ。』
『いんやあ。去年も同じ時期にここに来たが、こんな天気なんて初めてだぞ。』
明石も感じた異変に彼等も同様に首を傾げ、そんな声を漏らしながらそれぞれが曇天の頭上を仰いだ。別に雲の流れ自体はいつにも増して高速な訳でも無いし、海面の揺らぎも荒いという表現をするには全然物足りない具合でしかない。とにかく突然に明石艦周辺の直上に分厚い雲が出現したという感じであり、甲板上の乗組員達は一斉に業務の手を止めてしまう。羅針艦橋でも窓やあちこちの扉から多くの男達が身を乗り出し、その中には特務艦長や機関長らの顔もあった。
やがて明石艦の周囲では潮風の奇妙な音色がその音量を段々と上げ始め、何処と無くただならぬ雰囲気が艦全体を包み始めていく。乗組員達も明石もその空気を敏感に察し、自分達を取り巻く状況の安危を窺うべく艦の全周に視線を投げる。明石艦の両舷の向こうで停泊している艦の艦上でもちょっとした騒ぎになっており、すぐ近くの巡洋艦では砲塔上にまで乗組員達が登って、キョロキョロと辺りの様子を眺めていた。
その刹那、潮風のざわめきで溢れる明石艦の艦上に、乗組員の誰かの物であろう声が響いた。
『うあ!! な、なんだありゃ!?』
押し黙って周囲の状況を窺っていた者達にとっては、不意に轟く雷鳴のようにも感じたその声。明石も一瞬びっくりして思わず両肩をビクンと大きく震わせるが、声のした方へと目をやるのと同時に周りの乗組員達が皆、大きく見開いた瞳を強張らせた表情に得て、とある方角の波間の辺りに視線を釘付けにしていることに気付く。次いでつられる様に明石も彼等と同じ方角に視界を流すや、そこにあった信じられない光景に明石もまた驚愕の表情を浮かべて絶叫した。
『ひょええーっ! な、なんじゃありゃーっ!?』
先程の男の声にも決して引けをとらない叫びを上げる明石。
彼女が顔を向けた明石艦右舷の遥か沖合いは、方角的には中城湾が大洋に口を広げる部分であり、言わずもがなその先には遥かな太平洋が広がっている。
そこには見渡す限りの水平線が延々と続いている筈なのだが、低く分厚い雲によって上から圧迫された感も強い本日只今、なんとそこには海上から曇天を穿つ様にして縦に生える、細くて白い滝の様な物体が姿を現していた。しかもまた一般的な滝とは違って、なんと下から上に昇るという異形を沖縄の海に映し出しており、泡だった故か白くなった海水がみるみる内に上空へと昇っていく。それも一直線に天に向かって伸びるのではなく、まるで真上から眺めた蛇の如く空中をくねくねと蛇行していくのだから、目にした者達が受ける気味の悪さと衝撃は生半可な物ではない。
辺りの水平線や僅かに海上に頭を出す島々を鑑みるに、その白い流れが発生する場所の目測での距離は大体明石艦からおよそ10キロメートルも向こうだが、それを把握すると同時に滝の巨大さが明石と乗組員達の意識に強く植えつけられる。目に映る限りでは親指くらいの太さであるも、距離を勘定すると滝の直径は優に明石艦の全長をも遥かに凌駕すると確信できる代物。
乗組員達も明石も皆、両目が飛び出るくらいに驚く表情を浮かべるのも無理は無かったが、やがてその光景を何度か見た事があるらしい者達が口々に戦慄の音色も混じった声を上げ始め、彼等の眼前に姿を現した存在の正体を示した。
それは明石も含めて、殆どの乗組員達が生涯で初めて目にした天変地異の一つだった。
『わーー! た、竜巻だー!』
『くっそ! 航海科の見張りは何やってんだ! 積乱雲見逃しやがって!』
『おーい、みんな! 艦の中に入れー! 突風がくるぞー!』
陽光が遮られて辺りの風景が薄暗いのも手伝い、その白さが只ならぬ不気味さを纏って輝く。ふと気付けば彼等の耳には、あのざわざわと鳴っていた風の音色が、いつの間にやらその音階を非常に重厚な物として響き始めており、いよいよ各々の心の中に抗いようの無い恐怖と危機の観念が急速に芽生え始めてくる。刹那、誰という事も無く甲板上の乗組員達は右に左にと駆け出し、唖然とするばかりだった明石も血相を変えて手近な扉へと走って逃げた。
『やべーぞ! 走れー!』
『山口、走れ! 短艇縛るの間に合わねーよ! 急げ!』
『た、たつまき・・・! わああぁあ〜! た、大変だぁ〜!』
船の命である明石にとっても、生まれて初めて目にした竜巻。いきなり眼前に姿を現す自然現象に明石の恐怖は容易く沸点を突破してしまい、乗組員達の後を追うように一目散で甲板を走る。その最中にも、全力疾走しているにも関わらず頬に横殴りの形で生ぬるい潮風が当たるのを明石は認め、逃げるように促した乗組員の声に有った、「突風がくる」との言葉が決して嘘ではないのだと確信した。
もちろんちょっと強い風くらいの代物であれば、明石は軍帽を押さえるくらいで甲板に残ったであろうが、目の前で海水を遥か上空に巻き上げている竜巻の姿を見た手前、明石は襲ってくるらしい突風が生半可な強さでは無い事を瞬時に予測できたのである。
そして明石が飛び込むように中甲板へと続く階段のハッチを駆け下り、多くの乗組員達が右往左往している通路の一角で呼吸を整えるや、明石と彼等が足をつける甲板は突如としてグラグラと揺れ始める。例の竜巻に伴われる突風が襲ってきたのだ。
『う、うお!? こいつが突風か!?』
『結構強いぞ! どあっ・・・! み、みんな何かにつかまれ!』
『わわわ〜! こ、怖いよ〜!』
明石と10数名に及ぶ乗組員達が中腰になって隔壁にしがみつく中、艦内通路に響き渡るのは強烈さのみが誇張された豪風の音色に、激しい波を突如として受けた事で軋む艦体の悲鳴、そして彼等自身の慄くばかりの声だ。艦幅も広く喫水も深く、重さだって1万トンからある明石艦が、前触れ無く激しい動揺に襲われる事は極めて希な事態であり、艦の命も乗組員達もまったく慣れが無い艦の状況に率直な恐怖を抱く。無意識の内に頭を抑え、見える筈も無いのに頭上に目をやって、通り過ぎる突風の旋律と艦体の軋む音に息を呑んだ。
『ひぃうう・・・! お、沖縄の海も怖いぃ〜!』
小松島にてこれでもかというくらいに冬の海の恐怖を叩き込まれた明石は、こうして例え寒さなぞ一切無い南国の海域であっても尚、海という物は牙を覗かせてくる事を思い知る。突風と荒波の轟音に続き、竜巻によって舞い上げられた後に天空から降り注ぐ、大滝の如き海水によって。
『わあー! な、なんだこの土砂降りは!?』
『ハッチや扉は全部閉めろ! 巻き上げられた海水だ!』
『おい、艦長と運用長に連絡して来い! 工作部の搬入出口から手荒く水が入っちまった! 排水装置動かしてもらうんだ!』
それから30分もした頃、中城湾に出現した大竜巻はまるで暴れる楽しみを急に失ったかのように突然その威力を弱め、ハラハラとした面持ちで各艦の乗組員が舷窓越しに見守る中、波紋上に広がる小波とそよ風、そしてソテツの木々のざわめきと今にも止みそうな小雨を残して、湾の沖合いから消えた。気付けば竜巻の消えた空は、あんなに分厚くなって漂っていた雲が散り散りに引き裂かれ、やや朱色も帯びた感じのある陽光が雲の隙間から射している。さながら緑色の混ざっていない木漏れ日のようで、波間の向こうのとある一角には色鮮やかな虹までかかり、その場に居る者達が持つ恐怖と緊張に満ちたさっきまでの記憶から、些か現実感という物を奪い取って行く。
明石も含めて多くの乗組員達も祈るばかりで過ごす時間であったが、波と風の轟音もだいぶ和らいだのを見計らって彼等はやがて甲板へと顔を覗かせ始め、明石もまたおっかなびっくりの引け腰となって、甲板へと通ずる扉より身体を半分だけ出し周囲を窺う。
『うひぃい〜。も、もう大丈夫、なのかなぁ・・・?』
そう呟きながら彼女はキョロキョロと左右を見渡し、まるで海中から浮上したかのように全面水浸しとなっている甲板に憂う物が存在しないか探している。幸いにも甲板上に放置せざるを得なかった要修理物品に関しては飛ばされた物は無いようで、酷く海水を被ってしまった為に念入りな洗浄をせねばならないくらいの被害らしい。その内に明石は靴底に水が滴るような状態の甲板をゆっくりと歩いてみたが、自身の分身において損傷は全く見て取れず、恐怖に圧し掛かられっぱなしの中で無事だった事にひとまず安堵。力なく垂れた肩を上下させつつ、大きく長い溜息を吐くのだった。
その一方、乗組員達による総出での艦体検査も行われていたが、その結果はやはり艦の命である明石がたどり着いた物と同じであり、伊藤特務艦長らも不意の天変地異に遭遇しながら何事も無かった事に胸を撫で下ろす。艦内では多くの工作機械が稼動していたにも関わらず怪我人も皆無で、お仕事として実施している要修理物品に余計な一手間がかかる羽目になってしまったのが、数少ない被害といった所か。
まさに不幸中の幸いであった。
沖縄の第二艦隊はこうして海の脅威に瀕し、古賀長官すらも顔色を変えるほどの大騒ぎとなった訳だが、もともと太平洋に対し口を開けた形である開湾とはこのように海洋独特の気候が生起しやすい側面が有り、だからこそ良港とされる港湾は陸地の半島形状等によって囲まれた海域に設定されている。入出港に多少の手間と時間は掛かるが、年がら年中今回の第二艦隊のように大荒れ模様に翻弄されては、お船にとってはもちろん宜しくない。
栄えある帝国海軍だってお船を運用する分には変わらないからそれは同じで、横須賀や佐世保のような立派な軍港もその例からは漏れてはいないのだ。
そしてそんな静かな海、穏やかな海を軍港としての最大の自慢としているのが、明石や神通の所属鎮守府でもあり、我が家の如き感覚を抱いている呉軍港である。本州の山陽地方を背後にして四国という大きな蓋を持ち、その狭間にある瀬戸内海には大小多くの島々もまた軒を連ね、玄関口たる豊後水道や紀伊水道からでは直線航行する事が絶対に不可能な地形。まさに太平洋から迫る波に対して天然の防波堤となっているのであり、お船の種族の中で最も精強な海軍艦艇に憩いと安らぎの場を与えてやれる素晴らしい場所だった。
おかげさまで呉軍港は本日も昔日とかわらぬ大繁盛の日々を謳歌し、各種船渠や桟橋の眼前にあたる軍港のど真ん中では、昨年8月の進水以来鋭意艤装中の大和艦がその艦影をより完成形へと近づけていた。銀色の雲と所々に残る雪がやや寂寥感を滲ませるも、大和艦は既に煙突やマスト、そして背筋の通った美しい女性の立ち姿の如き艦橋構造物も整え始めており、後年に至って多くの人間達を魅了する事になるその姿をだいぶ備えつつあった。
ただそんな大和艦の艤装事情。ここ最近、実はちょっとした問題にもなっていて、大和艦艦内に響く多様な工作機械の音には、それについてのやり取りの声が混じっていた。
『ハア? 今頃んなって司令部設備の要領出てきたんですか?』
『ホント困るよなぁ。計画繰上げしろっつって早く終わらせたのに、出来上がってからノコノコ見に来て不足だとかね。』
『自分らで繰上げしろって言ったの忘れてるだろ、あいつ等・・・。これ絶対無理だよなぁ。』
声を上げているのは大和艦の艤装に携わる3名の技術士官の者達で、濃紺の第一種軍装を身に纏い、それぞれが携わっている物件の物であろう丸めた図面を小脇に抱えながら、まだまだ整頓なぞちっともされていない大和艦の艦内通路を歩いている。それぞれ30代も半ばを迎えたベテランながらもふくれっ面で愚痴を上げている辺り、どうもそのご機嫌は鋭い角度で傾いているらしい。
理由は彼等の声に有った様に、大和艦の建造計画に関するここ最近の動向に有る。
およそ20年ぶりに建造される帝国海軍最新鋭の戦艦である大和艦は、次代の帝国海軍の輝ける象徴として、そしてまごう事無き世界最強の戦闘艦艇として君臨する事が期待されており、まだ海軍内部ですら軍機に包まれた存在ながらも上層部での期待感は相当の物となっている。ただでさえ帝国海軍の戦艦は大正生まれの旧式艦が多いのだから、海軍軍備の面で言う装備の更新として早く戦列には加わって欲しいし、欧州戦線と支那事変、次いで米国や英国との緊張が増しつつあるここ数年来の事情を鑑みても、大和艦の就役は1秒でも速くなる事が切望されていた。
故に帝国海軍の作戦行動全般を職務として掌る軍令部からは、この大和艦の建造計画の繰上げがこれまで何度か打診され、大和艦では工員達の交代制勤務等も実施して昼夜兼行での艤装工事が展開されている。しかしこれは、実際に建造に携わる呉工廠側にあって大変な労力を注ぐ業務へと繋がり、帝国海軍内での組織としての指示故に従えども率直な所では不本意な業務命令であった。なぜなら呉海軍工廠は新型艦の建造は元より、既存の艦艇の改装、入渠整備、各種新規兵器類の試験等も行っているのであり、いくら帝国海軍最新鋭戦艦と言えどもそれのみに能力を集中させる訳には行かない事情を有していたからである。
規模の大きい工廠であろうとも設備も人員も無限ではない。
各々の業務項目の内容を精査し、完了期日をちゃんと明確にした上で設備と人員を割り振り、停滞も無く能率に優れた物へと昇華させてお仕事は進めていく物である。至極当然の事だが大和艦の完成を急ぐからと言って、改装作業中の艦艇や整備補修の必要な艦艇を放置して良い訳が無いのだ。
そして呉海軍工廠のこうした業務計画を見事にひっくり返して見せたのが、通達として回ってきた大和艦艤装工事における工期繰上げと、実際に艦を現場で使う事になる連合艦隊司令部からの艤装に対する注文であった。
この工事はいつまでに終わらせるから、必要な人員と設備はこれくらい。
今日はこの設備とこの人員に余裕があるから、工事内容はこれを行う。
必要な部材がまだ揃っていないから、今日はこの工事ではなくこっちの工事を行う。
などと言った様に工事の進捗は多くの要因からいつ何時、どこで何をするかが全て計画上で決められていて、工事実施日当日となって意図せぬ停滞が起こらない様に管理されている。呉海軍工廠の艤装工事管理をする部署にても、部屋の一角に大きくこの計画表が張り出され、常に遅れが無いように、そして遅れがあったなら何処で挽回できるかを、常に見定めれるようになっていた。
ところがどっこい、まず実際に大和艦を駒として使う事になる軍令部や連合艦隊司令部から工期繰上げを打診された事で、呉工廠側が思い描いていた計画は全体の幅がグンと狭められてしまった。おかげで当初予定していた部材の調達なんかは、同じ工廠内の製造部署、及び納入する業者に納期の繰上げを打診しなければならないし、設備と人員の使用予定なんかは元々の計画がすっかり解らなくなるくらいの大幅な改定が必要となる。おまけに各工程における時間的な余裕も削られてしまうから、工事終了後の検査の予定だって前に詰めないとダメである。
当然の如く大和艦の艤装工事計画は、呉工廠内を走る朝の通勤電車を思わせる程のギュウギュウ詰めの状態へとなってしまう訳であるが、さらにさらに質の悪い事にここに来て湧いた艤装内容への注文が、大和艦における工事の混乱に拍車をかける。声を上げてきたのは完成した暁には大和艦に将旗を翻し、その立派な性能を現場で独占する事になる連合艦隊司令部の面々で、主に長官室関連の内装に対する要望が殆どであった。
ここで会議するから、ここに本棚が欲しい。
艦隊司令部での機密書類保管の為、ここに新しく鍵付きの倉庫が欲しい。
最近の司令部運用ではこれじゃ机が足りない。だからもっと増やして欲しい。
掻い摘んで挙げるとそんな所であるが、ただでさえ苦しい艤装計画の隙間に強引に割り込んでくる格好となるこのような要望は、当たり前の事ではあるが工事関係者からの相当な反発を生んだ。大体が大和艦の早期就役を切望して来た者達の中には、他の誰でもないこの連合艦隊司令部も含まれているのである。
自分で早くしろと言っておいて、自分で工期を遅らせる内容を注文してくる。
なんと自分勝手な奴等だ!
工廠で日夜工事に汗を流す男達に、そんな認識と蔑視の心を与えてしまうのも無理は無かった。
おかげでこの後しばらくしてから、大和艦艤装工事の時期を巡って工廠側と海軍省側での会議が持たれた際、そこに生じたのは文官による話し合いとは思えぬ程の荒れに荒れた空気であった。
『司令部設備拡充は現行計画どおりで行きます。本来は来年6月の引渡しだったんです。それを繰り上げてる上じゃ、絶対工期の面で遅れます。無理、いや、不可能です。』
『やや、まあまあ。解った。この際、就役時期が若干遅れても良いと、連合艦隊でも軍令部でも言ってる。最後の方に回してくれても構わんから、なんとか出来ないか?』
『ハア? 遅れても構わないのに、繰上げなんて言ってたんですか? こちとら他の艦艇の面倒だって見てるんですし、はっきり言って迷惑ですよ。』
『なにを、貴様! なんだその言い方は!!』
『いや、繰上げの工期でもう艤装計画組んでますし、部材供給も無理言ってお願いしてますから。メンツにかけても繰上げされた時期で、この艦は完成させますよ。ただし今回の司令部設備の件は一切応じれませんので。』
緊張した空気の中、第一種軍装に身を包んだ男達の尖った声が投げ交わされる。ここ最近は忙しい工廠側にあっては幾分感情的に応答する場面も繰り返され、海軍省から出張してきた者達と一触即発の状態になる事もしばしばの会議となってしまった。
全く意図せぬ所での大荒れ模様はこうして沖縄と呉の波間の両方に出現したのであるが、事後の影響の有無という点では沖縄よりも呉の方が具合が悪い。大竜巻に遭遇した第二艦隊は海水を被った機器の整備に少々の労力を割く必要が生じた程度で、別段以降の艦隊訓練の日程が狂うような状態とはならなかったのだが、呉工廠の艤装工事関係者が持つ憤怒が巻き起こした業務に対する大嵐は、この数年後になって連合艦隊が自らの旗艦を設定するのに際し、決して小さくない要因を生んでしまう事になる。
すなわち後年、大和型戦艦が帝国海軍に編入されてその雄姿を海上に現した時、一番艦の大和艦ではなく二番艦の武蔵艦が長く旗艦とされた理由には、現状の最新艦艇である事以外に、連合艦隊司令部を収容する旗艦設備の微細な差が存在した、という点も含まれる事になるのである。なぜなら呉工廠で突っぱねられた今回の艤装工事に関する一件は、工事進捗がより遅い状態にある武蔵艦に反映される事になったからだった。
まさかこんな場所で天変地異なぞ起きないだろう。
中城湾の白浜も呉の白銀も、その光景を目にする者には無意識の内にそんな概念を抱かせてしまうが、それらは全て息を潜めているだけでその場に存在しないという事では決してない。安息の日々が送れる中にあっても常に注意を怠ってはいけない部分は、奇しくも自然もお仕事も同じである。
もっともそんな共通する大荒れ模様を目にする事ができたのは、太古の昔より変わらずに、ただただ寄せては返すを繰り返す海だけであった。