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第一二話 「出動命令下る/其の一」

こんちには、工藤傳一です。


明石艦の初出動を綴るお話を今回から始めますが、これは作者の創作です。


史実では明石艦は12月初めまで呉で待機した後に、第二艦隊全艦と供に大分の佐伯湾にて艦隊訓練に参加しております。

また、初の艦艇修理は記録を見るに宮城県における潜水艦への補修支援のようです。


以上、ここから数話は史実とは違う物語になりますのでご了承ください。

 昭和14年11月22日。

 工作部の訓練が終わった明石艦は静かだった。

 柱島に泊地を変えた明石艦には工廠の機械音は届かず、辺りにはただ静かな波音だけが木霊している。同じく強弱をつけた艦を叩く波音が響く艦内通路、そこには紙袋を持った(ただし)とその後に続く明石(あかし)が部屋へと戻る姿があった。


 部屋の扉を閉めた明石は、さっそく忠が机に置いた紙袋に走り寄る。


『お菓子〜!』


 先に自分の分を取ろうとした忠の手を押しのけ、明石は袋の中身を適当に一握りしてベッドに飛び乗った。楽しい一時を迎えて嬉しそうにはしゃぐ明石だが、忠は少し眉をしかめて彼女に声をかける。


『溢すなよ、明石。こないだは散々だったぞ。』

『大丈夫、大丈夫〜。』


 そう言ってベッドに甘納豆を落としたアンタのおかげで、オレは砲術長から雷を落とされたんじゃい。


 胸の奥で小さくそう叫びながら、少し不機嫌そうに溜め息をして忠は椅子に腰掛ける。

 実は先日の巡検にて、あろう事か忠の布団からは甘納豆が2、3粒出てきてしまったのだ。当然、この報告は艦内幹部へと上がり、直接の上司の砲術長から忠はこっ酷く怒られてしまう。いくら愛嬌(あいきょう)ある青木(あおき)大尉でも、長身の髭面の男に怒鳴られるのはやはり怖い。

 忠は帽子を机に置いて脳裏に蘇る恐怖を消し去るように頭を掻く。頭から叱られた辛さを思い出して口をへの字にして俯く忠だが、明石はそんな彼を気にも留めずにバリバリと音を立てて煎餅(せんべい)を頬張っている。


『あ、ラムネとって〜。』

『はいはい・・・。』


 無邪気な相方の声を受けた忠は、紙袋からラムネの瓶を引き抜いて明石に差し出した。

 毎度毎度、彼女のおかげで火の粉を被る事が忠は多いのだが、不思議と彼女相手に説教する気にも怒る気にもならない。無邪気な明石の笑顔にやれやれと思って苦笑いするのが常だった。

 一方、明石はラムネを受け取りながらも、ラムネと一緒に何かを取り出した忠の手に視線を留める。忠が手にしていたそれは、1通の郵便ハガキだった。

 ただ艦魂である明石は、ハガキという物を使った事がないからその重要性がいまいちピンとこない。煎餅を口に挟んだまま首を傾げる明石だったが、忠がそのハガキを送るであろう相手にだけはふと見当がついた。机の上のお菓子や瓶をスッと端に寄せて鉛筆を走らせ始める忠に、明石は煎餅を飲み込んで口を開く。


『森さんの両親にだすの?』


 明石の言葉に、忠はハガキを眺めたまま鉛筆を休ませずに答えた。


『ああ、出航も決まったからな。一応、知らせておくんだよ。』


 何気ない会話の中で忠が口にした出航という言葉は、明石は今日の昼間の出来事を思い出して微笑む。





 午後の課業時、明石艦の艦内には「総員艦首最上甲板」の号令がかかった。

 体操や各種訓練でも普通は「総員最上甲板」等とは号令はかからないので、乗組員達はその集められる目的を各々が疑問に思ってとりあえずは整列。所々に雲を散らした晴天の下、艦首旗竿に靡く日章旗を前に不思議な面持ちで整列した乗組員達に、日章旗を背負うように正対した宮里(みやざと)特務艦長の声が発せられた。


『本日、連合艦隊司令部より命令が発せられました。まず11月15日付けの編入に際し、若干変更が加えられます。明石艦は正式には連合艦隊司令部直属から、第二艦隊付属として編入される事になりました。』

  

 宮里艦長の声が響くと同時に、その正面に整列する乗組員達からはどよめきが発せられる。


 帝国海軍では連合艦隊司令長官が陸奥(むつ)艦や長門(ながと)艦に代表される第一艦隊を直率するのが慣例であり、実際に前線で暴れまわる事は決戦時以外では想定されていない。そんな第一艦隊に変わって縦横無尽に常に最前線を暴れまわるのが、特務艦長の言葉にあった第二艦隊。明石艦がこれより加わる艦隊なのである。

 司令長官である古賀峯一(こが みねいち)中将の下、11月15日の大規模編成見直しで第二艦隊は第四戦隊(一等巡洋艦 高雄(たかお)艦、愛宕(あたご)艦)、第七戦隊(二等巡洋艦 鈴谷(すずや)艦、熊野(くまの)艦)、第八戦隊(二等巡洋艦 利根(とね)艦、筑摩(ちくま)艦)、第三潜水戦隊(軽巡 五十鈴(いすず)艦、第11潜水隊、第12潜水隊、第20潜水隊)、第二航空戦隊(空母 飛龍(ひりゅう)艦、蒼龍(そうりゅう)艦、第23駆逐隊)、そして神通(じんつう)率いる第二水雷戦隊と供に、神通の妹の那珂(なか)を旗艦として新編された第四水雷戦隊をもって編成されていた。

 言わずもがな、帝国海軍連合艦隊が日露戦役の時代より誇る超エリート艦隊であり、配備されている艦も新鋭艦揃い。特に飛龍艦や筑摩艦は今年になって出来たばかりのバリバリの最新鋭艦である。第二艦隊は艦隊決戦に先立って快速を生かした雷撃戦を主軸として行動し、敵艦隊に対する偵察と夜間強襲を担当するという、帝国海軍の中では最も攻撃的な性格を持つ艦隊である。ちなみにその一番槍を務めるのが、神通の第二水雷戦隊なのだ。



『や、やった! みんなと同じ第二艦隊だ!』


 忠の横では、彼にしか聞こえない声で明石が跳び上がって喜んだ。長門(ながと)以外、顔見知りの艦魂のほとんどが第二艦隊に所属しているのだから無理も無い。嬉しそうに忠の袖を掴んで飛び跳ねる明石に、忠もまた歯を見せてニッコリ笑った。あんな凄い艦隊の一員になれるのか、そう思うと胸が躍る。そして整列した乗組員達の顔にも、驚きと同時に笑みが表われる。栄えある連合艦隊第二艦隊の一員となる事は、軍人冥利(みょうり)に尽きると言う物なのだ。

 やがて宮里艦長は部下達の緩む顔に小さく頷いて、説明を続ける。


『次に我が明石艦は、これより柱島泊地に移動して出航準備。二日後の11月24日0910をもって、青森県の大湊(おおみなと)要港部に向けて出発します。到着の後、先日の波浪で損傷した現地の第一駆逐隊の補修任務を行います。我が艦初の正式な実働任務です。各員、よくそれを心得て、各自の職に全力をつくしてください。以上。』


 その声に全員が身を引き締めながらも、顔に覇気をみなぎらせた。

 編入から僅か一週間。工作艦明石にとっては初の正式な出動命令である。決して当該地には敵性の艦艇がいる訳ではないから、忠がいる砲術科にとっては普段と同じ日常が続くだけである。だがそれでも突然に発せられた命令とその行き先が故郷である事に、忠は驚きを隠せなかった。

 口を小さく開けて呆ける忠の横では、明石が両腕を曲げて力を込めながらも笑顔で身を震わせていた。


『いよ〜〜〜し! 頑張るぞぉお〜!』


 明石にとって、こんなにも早く実動任務を迎える事は嬉しかった。

 敵と撃ち合いをする事は明石艦の目的では無く、損傷した味方艦への修理補修を行う事が明石艦の最大の目的である。そういう意味では明石艦にとって今回の任務は本物の実戦と同義なのであった。

 編入から立て続けに起こる幸せに、明石は有頂天となる。







『なに、ニヤニヤしてるんだ?』


 顔を向けて笑う忠の声に、昼間の記憶を辿っていた明石は我に帰った。でもそんな自分を誤魔化す気等、明石には無い。瞳が潰れる程にニッコリと笑って明石は声を返す。


『第二艦隊所属になって、おまけに初めての任務だよ。私、しばらくは出動なんて無いと思ってたもん。』


 明石はそう言うと羊羹(ようかん)の包みを開けて、その塊を丸かじりした。羊羹を口に含んでほっぺを膨らませながらこれでもかと噛んで飲み込む人等、忠は明石以外に見たことが無い。自分の首の半分程もある羊羹の塊をぺロリと平らげる明石に、彼は微笑んでハガキに視線を戻しながら言った。


『ははは、そうだな。頑張らないとな。』

『ふふ。それに森さんの故郷も見られるし。』


 人間とは不思議である。

 忠は何も無い田舎を嫌って兵学校に進んだ過去があるのだが、それでも生まれ育った土地に他人が興味を持ってくれるというのは何故か嬉しい。自分の事を褒めれたような感覚に、忠は鉛筆を置いて上半身を反らし、両手を天井に向けて伸ばした。


『はは、まあ、大湊からは遠いんだけどね。』

『え、そうなんだ? 残念〜。』


 明石は少し肩を落として右手に持ったラムネの瓶に視線を移し、瓶を左右に小さく振った。炭酸が泡立つ音と、ビー玉が奏でる風鈴のような音が寂しく部屋に響く。コロコロと転がる瓶の中のビー玉を眺めながら、苦笑いする明石は頬杖をついてその残念さを声に乗せる。


『見てみたかったのになぁ。』

『あはは、オレの実家は山の方なんだよ。』


 忠はそう言うと、彼の分のラムネの瓶の蓋に手を当てて軽く机に叩きつけた。内部で蓋をしていたビー玉から開放される炭酸によって、一気に噴出すラムネ。忠はすぐに瓶に口をつけて溢さないように一飲みする。吹き上がる最初の一口は炭酸がよく効いて喉がチクリと痛むが、その飲み心地はとても爽快である。サワサワと瓶から発する炭酸の音を聞きながら、忠は大きく息を吐いた。


『ぷはぁ〜。うまいな。』


 唇に残った甘い後味を舌でペロっと拭き取る忠。明石はそんな彼の行動に笑いながらも、ふとした疑問を持った。


『ねえねえ、森さん。』

『うん?』

『森さん、大湊に着いたら帰休上陸するの?』


 艦隊勤務という物は辛い。

 娯楽が無いばかりか、日常ではいつでも出来る事ができない。風呂も毎日入れないし、屋根状の物が無いから洗濯物だって天気が晴れていなければ乾かす事ができない。軍艦では(かわや)の数は少ないから、朝や夕方はどんなに苦しんでも順番待ちが当たり前。そんな艦隊勤務での楽しみは食事と、寄港地での上陸くらいしかないのだ。

 明石艦の場合は基本的には寄港地に到着してから修理補修任務を行うので、在泊の時間が一般的な帝国海軍艦艇に比べると長い。故に一般的な海軍艦艇よりも長い期間での上陸が貰える。

 だが忠は明石と一緒に暮らしてきた中で、泊りがけで上陸する事などほとんどなかった。たまに風呂や買い物で日帰りの上陸をするぐらいで、そもそも入湯の為だけに下艦をする者はそれほど多くはない。大体は下宿や旅籠に宿をとってゆっくりと娑婆を楽しむのが帝国海軍軍人の日常である。だが忠の場合はいつも部屋で一日中寝てるか、急に思い立ったように大掃除をしだすのが休日の過ごし方であった。


 けれどそんな忠でも故郷に帰りたいと思わない訳が無い。


 そう考えた時、相方が消えるかもしれない数日間が明石には少し怖くなった。もっとも彼女はそんな事を表情には出さない。お菓子を口に詰め込んでその甘さに口元を緩ませて心の内を悟られないよう誤魔化していた。

 複雑な心境の明石だったが、そんな彼女に気づかない忠は甘納豆の包みをゆっくりと開きながら明石の問いに答えた。


『うんにゃ、一応艦内幹部だからな。オレの分も含めてマサに行って貰おうと思ってるよ。』

『うん、そっか。』


 忠の言葉に憂いが晴れた明石は、笑みを隠すように膝を抱いて丸くなった。うずくまって小さく笑う明石に、忠は小さく溜め息をすると再び鉛筆を手に持ってハガキに向かった。


『もし青森港に寄れるなら名物のおでんを買ってきてやるよ。この時期、あそこで売られてるおでんはうまいぞ。』

『やった〜。』


 静かに喜びを口にして明石は、膝を抱えたままベッドに横になる。机に向かって鉛筆を走らせる忠の横顔を、明石はしばらくみつめていた。



『森さん、那珂です。お邪魔してもよろしいですか?』


 金属製の水密扉を叩く重いノック音が響くのと同時に、扉の向こうからは那珂の声が聞こえた。その声に忠は返事をしようとしたが、それよりも早く明石がベッドから飛び起きて扉に駆け寄り、那珂を部屋へと招き入れた。


『那珂〜。いらっしゃい。』

『明石、森さん、こんばんわ。』

『やあ、那珂。こんばんわ。』


 忠が顔を知っている艦魂の中で最も礼儀正しいのが、この那珂という艦魂だった。那珂は柔らかい物腰でふわっとお辞儀をしてから扉を閉めると、綺麗な笑みを浮かべながらベッドに歩み寄って腰掛ける。その隣に机からさらにお菓子を鷲掴みした明石がちょこんと座り、那珂にお菓子を手渡した。その笑みをもっと明石の心遣いに感謝の意を示しながら、那珂は受け取ると座ったまま再度頭を下げて今度は忠に礼を言った。


『森さん、いつもすまないわね。』

『ああ、それより一人かい?』


 忠の質問に、那珂は笑みを浮かべてお菓子の紙包みを開きながら口を開いた。


『一昨日から二水戦は全艦が大分の佐伯湾で訓練してるわ。神通姉さんたら、やっと駆逐隊が揃ったって張り切っちゃって・・・。』

『あははは。』


 那珂の言葉に神通が張り切って部下をシゴく姿を想像し、忠は思わず笑った。那珂もクスクスと笑って、紙包みの中の甘納豆を上品に一粒づつ摘んで口に運ぶ。那珂の隣で明石も笑みを溢した。


『ねえ、那珂も四水戦旗艦になったんだよね?』

『ええ、第6駆逐隊と第7駆逐隊が一応は指揮下よ。どちらもまだ3隻編成だけど。』


 那珂は笑みを崩さずケロっとした顔で応えた。その表情からは、姉と同じ立場になった事に尻込みをしているように見えない。また、明石や霞達と比べてかなり大人な女性の外見である那珂だが、姉とは違い大人しくトゲのない性格の為、決して戦上手な感じにも見えない。そんな事から、少し心配な思いを抱いた忠が声を発した。


『大丈夫そうかい? 新編されたばかりでも、一応は第二艦隊の水雷戦部隊なんだろう?』

『ふふふ、大丈夫よ。』


 そう言ってお菓子を頬張って、ただニコニコと笑う那珂。水雷戦に関しては専門外である忠は小さく笑みを返すものの、それ以上何も言わなかった。そもそも那珂はこれでも艦齢が15年近いベテランで、上海方面への出動経験もある。そんな彼女に新兵同然の忠がおせっかいを焼くのは失礼という物だ。『そうか。』と笑顔で言って忠は那珂から目をそらすと、入れ替わりに今度は明石がおいしそうに甘納豆を口に運んで微笑む那珂に切り出した。


『那珂、私も第二艦隊になったよ! 一緒だよ!』


 明石の言葉に那珂は驚き、甘納豆を口に運んでいた手の動きが止まった。どうやら今日付けの編成替え等の話は、まだ彼女の耳には入ってなかったらしい。


『あら、そうなの? これからは同じ艦隊の同僚ね。』

『しかも、出動がかかったんだよ!』

『まあ。良かったわね、明石。』


 そう言うと那珂は優しく微笑んで、隣にて顔を近づける明石の肩に手を乗せた。


『任地はどこ?』

『大湊要港部だよ。』

『大湊?』


 何気なく帰ってきた明石の声に、那珂は少し眉をひそめて明石へと顔を向ける。僅かに変わった那珂の声色に忠も気づいて、ハガキから那珂に視線を流した。突然、表情を変えた那珂に明石は戸惑いを隠せなず、少し震えた声で彼女は口を開く。


『う、うん・・・。どうしたの・・・?』


 那珂は口に手を当てて歪んだ笑みをしながら、明石の質問に答えた。


『ええ、あそこは北方海域における漁業権益保護の最前線なのよ。』



 那珂の言う事に忠は思い当たる事があった。

 それは彼の祖父が漁師を営んでいた事と関係する。明治の頃より北海道から千島近海にかけた海域ではロシアによる日本の漁船の拿捕、臨検、抑留が頻発しており、当地の漁業民達はいつもそうした危険と隣りあわせで生活を立ててきた。ロシアの艦艇は時には銃撃してくる事もあり、忠が幼い頃にも穴だらけになった漁船や日本人の死体が海岸に流れ着く事が何度かあった。もちろん政府も黙っていた訳ではなく、明治のかなり早い時期から大湊に根拠地となる海軍管轄の基地や部隊を設置して漁業権益の確保に全力を注いできた。今回の明石艦が修理補修を行う第一駆逐隊はこの大湊に大正年間からあって、既に20年近くも漁業権益の保護に努めてきた殊勲の部隊である。

 そしてそんな状況の青森で幼い時から育ってきた忠は、優男の外見に反して超がつく程のロシア人嫌いでもあった。


『ああ、露助(ロスケ)の事か。』


 珍しく怒った様な声でそう呟く忠に、那珂はクスっと笑って口を開いた。


『そうよ。長門さんから聞いたんだけど、夏ごろにまた満蒙(まんもう)で国境紛争があったらしいのよ。だからあの辺をウロついてるソ連の艦艇も気が立ってるかも知れないわ。遭遇したら攻撃してくる可能性も考えられる。』

『ええ!? そうなの!?』


 那珂の言葉に明石は驚く。明石は第一駆逐隊への修理補修の事しか考えておらず、その海域がどんな海域なのかを全く知らなかったからだ。今まで余裕ある瀬戸内の波に揺られて過ごしてきた明石にしたら、砲弾が飛び交う海域に行けと言われる様な物である。明石はこの時初めて、自分の任務が決して楽な物でない事を実感した。

 さすがの明石もお菓子を口に運ぶ手が止まる。だが衝撃を受けて泣きそうな顔になる明石に、那珂はその心を慰めるように優しく笑って明石の頭を撫でた。


『まあ、最近は大人しいみたいだから大丈夫だと思うけどね。』

『う、うん・・・。』


 俯いて肩を落とす明石だったが、そんな明石に机の上で煙草に火をつけた忠が思いも寄らぬ声を掛けた。


『心配するなよ、明石。もし露助が仕掛けてきたらオレが主砲でぶっ飛ばしてやるよ。』


 不敵に笑いながら忠は言った。明石は初めて見る忠の怒りが滲んだ笑みに少し戸惑ったが、また一つ発見した彼の一面と頼もしい言葉に口元が緩んだ。静かな怒りに任せた忠の言葉だが、明石の憂いを吹き飛ばすには充分な言葉だった。


『うん。お願いね。』

『おう。』


 笑いながらも力強い忠の返事に、明石は頬を少し赤くして俯いて笑った。那珂はそんな二人のやり取りを静かに笑って見守っていた。


 この子には森さんがいれば大丈夫ね。


 そう思って那珂は明石の肩から乗せていた手を戻す。


『ふふふ、森さんにも嫌いな物ってあるのね?』


 再びお菓子を口に運びながら、那珂は言った。彼女の声に忠は煙草をひと吹かしして、大きく口を開いて煙を吐く。その煙は綺麗な円の形をなして、部屋の宙をフワフワと流れた。


『あははは、胡瓜(きゅうり)と露助は嫌いなんだよ。』


 子供のような好き嫌いを口にした忠の言葉に、明石も那珂もその可笑しさに声を上げて笑みをこぼす。

 少し静まりかけていた部屋の空気は明るくなり、その夜は遅くまで忠の部屋から笑い声が響いていた。






 昭和14年11月24日、午前9時10分。天気晴れ。

 同じ泊地の長門艦の艦首にて帽子を振る長門と陸奥に見送られ、明石艦は単艦で柱島泊地を出発。瀬戸内を西に向かって豊後水道を目指した。豊後水道を抜けた後は四国と本州に沿って北上し、途中寄航はせずに一気に大湊要港部まで太平洋を突っ走る。6日間におよぶ往路が始まった。


 発令所でいつもの通り、のんびりと椅子に腰掛けて書類仕事をこなす忠。横では張り切る明石が自前の薬箱の中身を整理していた。軍医として誇りを強めた明石は薬箱の蓋の裏に貼り付けた紙をとって、床に並べた箱の中身と紙を見比べながら時折鉛筆で書き込んでいる。どうやら紙には、常に箱の中身の薬やガーゼといった医療道具類の数量を記載しているらしい。明石の薬箱はかなりの大きさで、明石艦の主砲の薬莢がすっぽりと納まりそうな程もある木製の取っ手のついた薬箱であった。木具工場からくすねてきたペンキを使って蓋に描かれた赤十字のマークが目を引く。

 明石曰く、中身の薬や医療装具はいつもの白い光りで出せるそうだが、それはとても体力がいる事らしい。その上で普段から瞬間移動したりと、生活の中で人間以上に消耗の早い艦魂の体力は中々回復がはかどらない。日常の生活で小さい物を一つ一つ出現させてはこうして薬箱に収めておき、いざそれを使う時は治療に集中する物なのだそうである。

 ごく普通の人間である忠にはピンとこないが、真面目な顔で薬瓶を数える明石の顔に彼は小さく笑って仕事に戻った。

 清清(すがすが)しい晴れ空の瀬戸内だが、今日は少し強めの寒い風がヒュウヒュウと発令所を駆け抜けていた。





 午後に入って明石艦は前方から接近する、とある艦隊とすれ違った。四本煙突の珍しい艦に率いられて、一糸乱れぬ単縦陣で航行するその艦隊の隻数は7隻。艦橋から繋がる伝声管から響いてきた声が、発令所で仕事をする明石と忠にその正体を教える。


『右舷前方、第二水雷戦隊です。』

『二水戦か、訓練から帰ったところかな。』


 伝声管から聞こえるその会話に、忠と明石は笑みを合わせると艦橋右舷の最上甲板に位置する一番機銃にでた。艦首前方の海面を見ると、そこには神通艦を先頭に堂々7隻で瀬戸内の海面を突き進む二水戦の姿があった。神通艦の艦橋やマストに掲げられた信号旗がハッキリと見え始める距離になって、明石が大きく手を振って叫ぶ。


『お〜〜〜い、神通〜〜〜〜!』


 明石が見つめる先、神通艦の艦首旗竿の下に、腕を組んで真っ直ぐ針路を眺めて仁王立ちする神通の姿があった。神通は直前まで気づかなかったようで、明石の声が届いたのかこちらに顔を振ると、小さく笑みを浮かべて肩の高さで片手を左右に振って応える。

 艦魂としての神通が自分の艦と一緒にいる姿を、忠はこの時初めて見た。

 明石艦のようにディーゼル機関を持った艦が出始めた昨今にあって、神通艦の一風変わった形はよく目立つ。

 神通が属する川内型二等巡洋艦は、高価な重油の消費を抑える為に安価な石炭を燃料として使う事を従来の巡洋艦よりもさらに推進された艦型であり、特徴的な4本煙突の外観の理由もそこにある。重油等の燃料の産出が皆無である日本の事情をよく反映している艦であり、連合艦隊所属艦艇の中でも最もお財布に優しい艦型とも言える。一本煙突にまとめられた長門艦や扶桑艦等に比べれば古めかしい形だが、艦橋直後にある一段高い煙突から一際高く上がる真っ黒な石炭燃焼による排煙がとても勇壮に忠には見えた。


 後年、この二つの異なる動力機関を持つ形式はハイブリッドという言葉で呼ばれ、人々の生活を大きく助ける事になる。


 通過していく神通に続くのは、隷下の駆逐艦達。その先頭の艦の艦中央に、二人は大きく書かれた『カスミ』の文字が見て取れた。艦上を見渡す明石と忠は、艦尾の砲塔の上で座り込む数人の黒い水兵服姿の少女達をみつける。すぐさま明石は顔の前に手を添えて叫んだ。


(かすみ)〜! お〜い、(あられ)〜!』

『あ! 明石さ〜〜〜ん! 森さ〜〜〜ん!』


 何人かで固まって座り込んでいた少女達の中に、立ち上がって飛び跳ねながら帽子を振って叫ぶ者が一人。いつも元気で快活な元気娘、霞だ。すっかり忠と明石に懐いた霞は、最近は冗談も言うようになった。


『カケオチですか〜〜!?』

『うるさ〜〜〜い!』


 霞の冷やかしに、少し頬を赤くしながらも明石は笑って声を返した。

 二人のやり取りに霞の周りの少女達は黄色い歓声を上げ、座ったまま一斉にこちらを振り返る。その中からまた一人立ち上がった少女がいる。足を揃えて綺麗な笑顔で手を振るその少女は霰だ。忠と明石の予想通り、霞の周りにいる少女達は同じ二水戦の駆逐艦の艦魂達だったのである。

 あれが二水戦の面子かと一人状況を把握して頷く忠に、ご機嫌な霞の冷やかしが飛ばされる。


『森さ〜〜ん、たまには強引にいかないと〜〜!』

『馬鹿野郎〜! さっさと行っちまえ〜!』


 艦橋の乗組員達の目も忘れて思わず返した忠の叫びに、霞とその周りにいる少女達が大笑いした。忠と明石にとっては気を取り乱しそうになる冗談だが、笑い合う少女達はそれでも気さくに手を振ってくれ、二人も手を振って応えた。

 通過した後も見えなくなるまで笑って手を振る霞達に、明石と忠は微笑んだ。


 楽しそうにやってるな、良かった。


 同じ言葉を脳裏に浮かばせた二人は顔を合わせ、小さく笑いあった。


『やれやれ、元気な奴らだ。』

『ふふふ、帰ったら神通に怒ってもらおっかな。』

『はははは。』


 そんな会話をのこして二人は発令所に戻り、そこにはまた波の音だけが響き渡った。





 それからしばらくして明石艦は豊後水道を通過、一路針路を東に向けて太平洋を駆けた。

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