第一一八話 「沖縄たより」
既に2月も迎えた昭和16年であるが、2年前より始まった欧州での戦乱に始まる国際情勢は、この日本にも怒涛の波となって押し寄せ始めている。明石が室積沖、次いで小松島へと赴いて頑張っている合間もその動きは止まっておらず、僅か1ヶ月しか経ていない本年にあっても多くの動きがあった。
まず年が明けて間もない1月8日。
現内閣の陸軍大臣である東条陸軍大臣より、帝国陸軍に対してとある通達がなされた。
それは帝国陸軍という大組織の末端にまで独自の組織精神を行き渡らせる為の通達で、明治の頃に天皇陛下より承った「軍人勅諭」の意味をより徹底させるかの如き内容となっているが、別に軍人勅諭の内容に不備があったとか、明治の頃に起草された内容が昭和の帝国陸軍には合わない、等という理由があった訳ではない。事実、明治に次ぐ大正年間、そして昭和と元号が改められて16年も経ったこれまでも含め、長く帝国陸軍は精神の柱としてこの軍人勅諭を唯一の経典としてきたのである。
そんな中で出されたこの通達は、その背景に大きな要因として支那事変を抱えていた。既に支那で中国軍と全面戦争状態となって4年目を迎える中、帝国陸軍が大陸上に展開する兵力は100万にも及ぶ勢いであるが、長年に渡ってしかも尚終わりが見えない情勢は、栄えある帝国と皇軍に大きな疲弊を強いている。
その一端として帝国陸軍内で非常に目立つのが、軍紀風紀の緩みであった。
壮絶な疲労の下に送る実弾飛び交う戦場での時間は兵士達の体力と精神を消耗させていき、一部の兵による現地民への略奪や強盗、強姦行為に、兵士同士の間にあった怨恨に端を発する殺人や傷害等の事件。慣れない戦地での生活に絶望し、現地での演習や行軍の際に手にした手榴弾や小銃を使っての自殺。兵営からの脱走。そして軍事組織において最も在ってはならない事態である命令違反や上官への反抗など、決して内地の一般人には聞こえてこない帝国陸軍の一面が、海を隔てた支那ではあらわとなっていたのである。
そこで再度の軍紀徹底を全軍規模にて立て直すべく、かつて陛下より賜った御勅諭と連動する訓示を帝国陸軍上層部は発布するに至ったのだが、これこそが後年に至って帝国陸軍その物に未曾有の悲劇を誘発する一つの引き金ともなる。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
とりわけその中に有ったこの一文が果たした役割は大きく、前述の軍人勅諭に有る次の文言と目論見どおりにセットとなって、この後の帝国陸軍の軍人が持つ精神の拠り所となっていった。
「只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其操を破りて不覚を取り、汚名を受くるなかれ。」
体面と大儀の尊さを第一とし、命は鴻の羽毛よりも全く軽い物であるとの教え。何故なのかという観点から理論と合理性を全く排除し、人の持つ倫理を日本人という概念で縛る形で与えた末に、彼ら自身がその目で見る結果は、電話線で足を木々に縛り付けての死守法、「砲側墳墓」という言葉に従う戦死法、玉砕という呼称で示された全滅法、そして捕虜という身分への敵味方問わない蔑視等となって、後に具現化する事になる。
世に有名な「戦陣訓」が発布されたのであった。
次いで1月23日。
昨年より日本への経済制裁を始めた米国との関係改善を模索する為、元海軍軍人にして外務大臣の経験も有る野村吉三郎が駐米大使に抜擢され、太平洋の向こうにあるアメリカ合衆国へと渡った。かのワシントン軍縮条約に全権団の一員として参加した事も有る彼は、現在の米国大統領であるローズベルト大統領と過去に親交も持っており、国際政治の場にてなんとか米国の間に良好な関係を築こうとする日本の想いが、その双肩に掛けられていた。
すなわち対米戦争という最悪のシナリオを止めるべく、ここに日米両国政府による外交交渉が始まったのだった。
そして最も大きな出来事であるのが、昨年末より続いている泰と仏印における戦争の推移である。
そもこの両国に対しての大日本帝国の対処は、日本が考える対南方政策に対してどちらの国も立地条件が良かった事から、泰には先年6月に日泰友好和親条約を結び、仏印に対しては北部仏印進駐という方策でもってこれまで対応してきた。しかし逼迫する時局の中、すでに4年目へと突入してしまった支那との抗争も早期に終わらせたい事情も有り、日本は同じ極東アジアで起こるこの紛争に介入して状況打破を試みる事にした。
すなわちこれまでの静観をやめて泰と仏印に対して積極的に調停役を申し出た訳ではあるが、蚊帳の外から傍観の末に外野の声を上げてくる日本と違い、泰と仏印の両国は実際に血を流しての戦の真っ只中にあってその鼻息は荒く、昨年に打診した一回目の調停は両国より拒否されていた。
もちろん両国政府が完全に冷静さを見失っている事のみが理由ではない。仏印は言うまでも無く、長くイギリス領と国境を接してきた泰ですら国内には親英の空気が非常に強かったのであり、支那との大戦争を口実に仏印に武力進駐した日本に対してはあまり好感を持たず、調停役を買って出て仏印と泰国における旨みを確保しておこうというその真意を警戒していたのだ。
ただ、陸海空での戦闘も発生した末の両国間の戦況は、陸上戦闘における緒戦の痛手から立ち直って反撃を開始した仏印側が優勢で、1月17日に生起したシャム湾西部での海戦、すなわちコーチャン島沖海戦では、泰国海軍艦隊がフランス海軍極東艦隊によって完膚なきまでに叩きのめされている。
このまま静観してれば仏印が勝つであろう事は、誰の目にも明らかであった。
しかし、そんな状況を両国に思うとおりの姿勢をとらせる事ができる好機と捉えた日本は、ここに至ってよりムチの側面が強い方策を打ち出した。その骨子は北部仏印に進駐している陸軍部隊の交代に合わせて、交代する側とされる側の部隊を現地にて重複する形で配備させ、北部仏印における陸軍戦力を一時的に倍加させる事。次いで大規模な海軍部隊を仏印の沿岸の海域へと展開させる事であった。
さらにはこれと同時に再び外交ルートを通じて再度調停を仲介し、間近に迫った形の陸海軍の戦力を背にして成功させるのである。
戦を止めさせる為と銘打った自国の意思に理解を求めようと、皮肉にも日本は戦の道具である剣と盾を用いたのだった。
一方その頃、その剣と盾として帝国海軍は内地にて訓練中の一線部隊を派遣し、第一艦隊からは一水戦と七航戦、第二艦隊からは七戦隊と二航戦が抽出された。さらに一昨年に確保した海南島にて、支那方面艦隊隷下の第二遣支艦隊もこれに合流し、これをもって対仏印威力示威戦力を構成。同時にこの作戦はS作戦の呼称を与えられ、1月29日には作戦兵力の全てが海南島の三亜に集結したのであった。
おかげで少し現有の戦力が落ちた第二艦隊だが、気落ちする事もなく周防灘から別府湾、有明湾へと訓練地を変えて猛訓練を続けていた。周防灘では第一艦隊との合同による応用教練、基本演習も既に何度か実施しており、前期訓練の内容は早くも濃い物となっている。
さて、そんな第二艦隊は2月も半ばに迫ると有明湾を発つ。既に第一艦隊とも分かれた第二艦隊は一路その針路を南へと向け、2月であろうとも雪とは無縁で早くも田植え作業が始まっているという南国の地、沖縄県は中城湾へと軍艦旗を進めた。もちろん巡航の最中も航行序列の転換等で訓練は続き、数日に渡る航海を経て中城湾へと錨を下ろした各艦の乗組員には、士官も下士官も含めて皆疲労の色が隠せない。
1400頃に中城湾に到着した第二艦隊各艦は湾内の泊地に指定の隊列で整列し、ようやく錨を下ろして艦首旗を掲げる頃には、入れ替わりに太陽が水平線の下へと降りて行く時間帯となっている。
水平線から来る朱色の光線が波間と甲板を照らし、暖かい沖縄の潮風はその光景をまるで夏の夕暮れのように感じさせる。見れば第二艦隊各艦の甲板から望める湾岸は、季節特有の白銀どころか新緑の彩りがそこかしこに有り、南国らしい赤い花もぽつぽつと目にする事が出来た。
色鮮やかなその光景は夕食前の乗組員達に一息の心の休憩を与えてくれ、各艦の甲板ではタバコを吸いながら陸地をしばし眺め、僅かに疲労を忘れる事が出来た男達の姿が相応にあった。
そしてそれは艦魂にあっても全く同じで、特に航行序列の最外郭の位置を担当する水雷戦隊の者達は、疲労困憊の極みにも達した状況である。
まして戦隊旗艦を努める艦の艦魂が底無しに厳しい事で名を馳せる第二水雷戦隊では、散々に大海原を駆けずり回った事もあって所属の艦魂達がすっかりヘトヘトの状態となっている。さしもの神通も本日は相当に疲れているらしく、部下達を集めて一日の終わりを告げる際には、珍しく疲れたような表情を浮かべていた。
『訓練は明後日から。明日は乗組員の休養と上陸にあたるだろう。予定は午前が教育日課。午後は休養にしといてやるが、こないだ渡した提出物は必ず午前中に出すようにしろ。いいな。それと喫緊の艦隊訓練の予定は、一航戦の航空機の支援を受けての乙種戦技だ。各自、訓練要領の復習をしておくように。では、解散。別れ。』
てっきり航行序列の転換でモタついた本日の訓練内容にお叱りがあると思っていた、神通の部下である二水戦の駆逐艦の艦魂達。しかし、意外にすんなりと解散の儀式が終わった事に、彼女達は声も無く上司のお疲れぶりを察する。
次いでその一人にして、いつもなら上司の夕飯の準備を始めとする身の回りのお世話を、この後もこなさねばならない従兵役の霰もまた、今日は神通の後ろをついて行こうとするや制止の声をかけられた。
『お前も今日は疲れただろう、霰。構わん、今日はこれであがってゆっくり休め。』
日本刀の切っ先を思わせる鋭い目つきに朱色の空の輝きを帯び、140センチメートル台の身の丈を持つ霰からは30センチも見上げる形になる程に背の高い上司は、その独特の短気で怖い性格も手伝って、何もしてなくてもおっかない雰囲気がその体に常に纏われているお人である。実際に目を合わせて声を交えると、今でも霰は怖いという感情が一番最初に意識の中に湧き出てくる有様だが、優しい言葉をかけて自身のお役目を解いてくれた辺りは、彼女なりの部下の疲労を考えての処置であろうと無言のまま理解。
それ故に遠慮なく霰はその言葉に従い、上司の分身の甲板から自身の分身である霰艦へと戻っていった。
それから30分ほどもした頃。
霰艦の艦首付近にある倉庫の扉を、艦の命である彼女は配食器を片手に開けていた。その倉庫は艦内での軽度の工作作業の為に資材を格納してる倉庫であるが、小さな駆逐艦の艦体では満足な工作機械も置けない事から余程の事が無い限り使用される頻度は少なく、人の出入りもそれに伴って少なめな故に霰が自室として使っているお部屋だ。
人間達には見えないが霰が寝る為のお布団と、木箱に板を敷いたちゃぶ台状の机が置かれ、とても質素で殺風景ながらも霰が唯一自分だけの時間を過ごせるれっきとした私室。彼女が趣味として艦内で出た古紙を折って作った折鶴が数羽、糸に連ねられて、たった一つしかない部屋の舷窓の脇にぶらさがっている点が、まだまだ10代後半の少女像を持つ霰という艦魂の寝床である事を示す。
『ひぃ、ひぃ・・・。ふぅ〜、今日はほんまに疲れたわぁ。・・・さ、はよご飯や。』
市松人形の如き僅かに伸びた感じのおかっぱ頭から軍帽を取り、横長で細い目に疲労の色を滲ませる中、霰の口からは持ち前の濃い京訛りのある声が響いてくる。鼻から息が抜けたような強弱の薄さと、二水戦の仲間内でも目立つ程に甲高い彼女の声は、どこか溜息も混じっていまいち元気が欠けている感があるも、当人である霰は久々に出来たての温かい食事をゆっくり食べれるとあって機嫌は良い。
仕草も考察の巡りも非常にトロい彼女は、食事だって人並み以上に時間をかける傾向が本来あるのだが、怖い怖い上司の従兵として仕えるその日常では常に無理をした食べ方をしている。いつも上司の分も含めて食事の準備からこなす上、後片付けをも霰は担当せねばならない為、ノロノロと食べる彼女では上司が箸を置く頃にはまだ半分も食べ終わっていない状況となってしまうのだ。もちろん従兵のお仕事を言い訳に厳しい二水戦の日常に遅れる事はご法度だから、霰はいつも素早く食べれるようにわざと自分の食事を猫飯状態にして口に流し込んでいるのだった。
だが、そのお人形さんのような容姿にそぐわない食べ方は、もちろん当人たる霰としても不本意なのが本音である。
本当ならゆっくりとした時間的余裕の中、雲の流れのようにゆっくりとした自分のペースで食事をしたいと、内心で霰はこれまで何度も願った事があるのだ。
だから疲れきった中にあっても、本日の夕飯は霰が待ちに待った至福の時間その物なのであり、崩した正座で床に置いた配食器から金属製のお椀を取り出していく彼女の表情は極めて明るい。
今晩のディナーはマグロの肉と多くの野菜を使った具沢山のけんちん汁に、どんぶり一杯のご飯と雷干し。点数は少ないがけんちん汁の椀はどんぶりとどっこいの大きさが有り、小柄な体に見合う程しか量を食べない霰にあっては十分なボリュームである。
『たんと食べれるわぁ。ふふ。やて明石さんやったら、これでも少ない言いはるんやろなぁ。』
思わずその量に笑みを浮かべる霰は、殊に食事という言葉で最も連想しやすい知人、明石の事をふと思い出す。霰の上司と同じく痩せ型でスラっとした長身の体躯ながらも、大皿に山盛りにしたステーキを3皿はペロリと平らげてしまう明石の姿は、昨年の観艦式直前の宴で給仕をしていた際に霰も見ている。一体あのスリムなお腹の何処にそんな胃袋があるのか非常に不思議に思った物だが、それはそれは嬉しそうに箸を進める明石の食う様は、小食気味な霰にとってはとても爽快な食事として瞳に移った。
あのぐらい明るく食べれるようになりたい、と若干の羨望も抱けるくらいに霰には清々しい人物像に思えたのだが、きっとそうはなれないなと半ば諦めている彼女の気持ちは、世間一般の常識の観点から言えば別段間違ってはいない。大体が明石の食う量がもはや変人の域に達しているだけなのだ。
やがて全ての椀と皿を机代わりの木箱の上に乗せ終え、霰は準備の最後として薬缶に汲んできたお水を湯呑へと注ぎ始める。楽しい楽しい晩御飯がいよいよ始まる訳で、湯呑の中より響いてくる心地よい水の音は霰の疲れた心を一気に高揚させてくれた。
ところがその小さく透明な滝が湯呑を満たしてしまう直前になって、突如として霰の背後に位置していた金属製の扉が立て続けに音を放ってくる。同時に扉の向こうからは、霰も良く知る仲間の声が聞こえてきた。
『お〜い、霰ぇ〜。アタイ、雪風だよ。』
『あ、雪風。は〜い。開いてはるさかい、入ってもええよ〜。』
『おーッス。』
霰の応答を耳にするや男っぽい挨拶を返して扉を開けてきたのは、霰とは後輩先輩の関係ながらも仲良しとなり、次いで二水戦きっての大問題児と誰もが認めているやんちゃ娘、雪風であった。
軍帽を取って自慢の茶髪を片手で撫でつけ、霰と同じ140センチ台の小柄な身体に大き目のサイズの軍装を着た彼女。もう片方の手は胸元から肩、そして背に至るジョンベラを僅かに整えるとポッケに突っ込み、裾を引き摺りながら歩くその様は、人間の海軍軍人にも希にいる不良水兵さんの姿その物。クセの有る摺り足での足の運びと肩をいからせた歩き方、そして持ち前の大きな釣り目を鋭く足元に流す顔の特徴なんかも、もはやわざとらしいとも捉えれるくらいにそれっぽい。
ただ、別に雪風は霰に喧嘩を売りに来た訳ではなく、食卓についたまま振り返る霰と視線が合うや、八重歯を覗かせた悪戯小僧の如き笑顔をパッと浮かべてくる。
『お、けんちん汁かよ、いいなぁ。アタイんとこはマカロニシチューだったよ。』
『なんや、シチューおいしいやないか。』
『そーだけどさあ。パンってなんか食った気しねーんだよな。』
どうやら夕飯は既に食べ終えたらしい雪風。扉を閉めながら霰と会話を交え、綺麗に卓上に並べられた霰の夕食を彼女は羨ましがった。決して舌に合わない味だった訳ではない様だが、普段から思った事を遠慮なく声に変えてしまう性格の雪風は、いつもの如くふて腐れた表情を浮かべてぶーぶーと不平を口にする。霰はそれに持ち前の糸目でもって作る笑顔で応え、未練がましく『良いなあ。』を連発している雪風を前に食事へ箸をつけ始めた。
汁椀の中でよく味噌味が染みたマグロがやはり一番最初に箸が向かう所で、噛んだだけで口の中に香ばしさが広がるマグロの味に霰は満面の笑みである。その分身が舞鶴生まれの為なのか味覚まで京都人の霰だが、薄味派な彼女にあっても塩気の多いけんちん汁を美味と感じる事が出来るのは、やはり彼女の身体が相当に体力を消耗しているからに他ならない。
『おいしいわぁ。ゆっくり味わって食べれるしぃ。』
『ケッ。食うのもトロいんだな、霰は。もったいつけねーで早く食っちまえ。』
『ふふふ。おいしいわぁ。』
ただただ素直に夕食に舌鼓を打っている霰なのだが、その口から漏れてくる感想が雪風の口をだんだんと尖らせていく。 雪風とて付き合いの長い霰の性格は知っているから、霰のそんな態度が自分に対するあてつけ等とは微塵も思っていないが、良くも悪くも感情が一切の濾過を受けずに顔と声に出てしまうのが、師匠譲りの彼女の性格である。
『ケッ!』っと鼻息を荒くしながら雪風は霰に背を向けると、部屋の奥に一つだけある舷窓の下へと歩みを進めていく。次いでその金具に手を伸ばして僅かに舷窓を開き、部屋の中にはやや肌寒い潮風が文字通りの隙間風となって流れ込んだ。
霰はそれに気づきつつも美味しい一時が優先な事も有り、ゆっくりながらも箸の進みは止めない。けんちん汁もご飯も半分どころかまだ9割は残っている状態で、過剰なほどによく噛んで食べる霰の食べ方の遅さをよく証明している。舷窓から漏れてくるちょっと寒い風も、ホカホカのけんちん汁とご飯を食べる霰には至って気にはならず、霰はしばし雪風を放っておいて夕飯吟味に専念する事にした。
ところがここで椀に向かっていた霰の意識が、ふと耳に聞こえてきた極めて短い摩擦音のような物音によって誘われてしまう。
『うん? あっ・・・!』
余りにも聞き慣れない音だったが為に思わず顔を上げた刹那、霰は驚きの声を上げてしまう。なんとそこには口に白いタバコを咥えて、中々火がつかないマッチを何度も擦っている雪風の姿があったのだ。
やんちゃな不良娘である雪風の人物像は霰もよく知っているが、人間の海軍軍人を見て覚えたのか、未成年の内に喫煙まで始めてしまうとは予想外。箸を宙に浮かべたままで思わず霰が声をかける。
『んもう、雪風ぇ・・・。タバコなんか吸いはって、ほんまにへんねしやなぁ。てんごはほどほどにせなあかんや。』
『・・・るせーなあ、別に死にゃあしねーよ。あ、親方には言うなよ。ま〜たケツぶっ叩かれちまう。』
一応は雪風よりも一年先輩の霰。
少しお姉さんぶった言い方でもって雪風の喫煙を諌めようとするも、生来が鼻っ柱が強く小生意気な性格の雪風は、そんな彼女の言葉など屁とも思っていない。またぞろ悪態をつくような物言いで応じ、その上で自身の喫煙における非を一切無視して、怖い怖いお互いの上司である神通にこの場の状況をバラすなとお願いしてきた。
言うまでも無くそれは未成年の容姿を持つ雪風がタバコを吸う事に対し、神通が間違いなく眉を吊り上げるのが火を見るより明らかだったからである。日露戦役が始まる以前より、彼女達の祖国である大日本帝国では未成年の喫煙は法律によって禁じられており、例え人間達による決め事ではあっても国家としての法令という観点から、艦魂達もそれを範とし、次いでよく遵守して日々を生きるようにしているのだ。
有り体に言えば帝国海軍艦魂社会では法律を守るようにしているというだけの事なのだが、真面目にそれを守って暮らす奴もいれば、抜け道を見つけて上手い具合に自分なりの道を歩む奴もまた、人間にも艦魂にも往々にして存在する物である。だからこそ、この世には刑罰という名の抑止の制度が法律に寄り添う様にして整えられているのであり、自分だけはちょっと規則のタガから外れても良いだろう、という類の甘い考えはまかり通らない仕組みとなっている。
そして雪風や霰達の場合、その仕組みは閻魔大王相手ですら喧嘩を売りかねない性格の上司による、鉄拳制裁の他は無い。二人を含めた二水戦の駆逐艦の艦魂達がこの世で最も恐れるのは、軍帽を被る度に苦痛に耐えねばならなくなるげんこつ、皮がむける程に尻に振り落される竹刀、を代表格とする神通による過激なお仕置き。
ツッパった性格の雪風ですら、一瞬で泣き出してしまう程に恐れ慄くその恐怖は筋金入りであった。
『ふが・・・! けほっ、げほっ! くっそぉ、思い出したらケツが痛くなってきやがった・・・!』
そのやんちゃな性格からつい昨日、竹刀の餌食となったばかりの自身のお尻を擦る雪風。食事中の霰の前という事に一切の遠慮を持たず、未だうっすらと残っている鈍痛に顔をしかめている。対して相変わらずゆっくりと夕飯を食べる霰は、やや雪風の行動を不快に思いながらも止めろとは言わず、むしろ昨日受けた上司からのお仕置きに関して全く反省をしていない友人に苦言を漏らした。
『雪風が髪イジってはるからやろ。こないだもぎょうさんビール使うて、髪の色変えてたやないか。戦隊長から何遍も黒くしろ言われてはるのに。』
『髪の色くらい良いじゃねーかよ、ちっきしょう・・・。』
いつぞやのビールによる脱色で手に入れた茶髪を非常に気に入ってる雪風であるが、髪の色を変える事で大いに神通に怒られた彼女は、これまで何度も上司より色を元に戻すように勧告を受けている。しかしさすがは二水戦随一の鼻っ柱の強さを持つ彼女は、髪の根元に生え変わった黒髪が目立つ頃合になると再び髪を脱色し、『なかなか生え変わらないッスねぇ。』等とのたまってげんこつを貰いながらも誤魔化し続けていた。
とんでもない奴である。
『ほんまにもう。・・・んぐ、んぐ。』
半ば友人に対する呆れも出てきた霰は箸を口に運びながら、そう遠くない内にまた眼前の友が上司のお叱りを受ける事になるだろうなと、声には出さずに予測する。霰とは同じ18駆を組む同僚にして、雪風の実の姉でもある陽炎の注意すら、雪風は嫌な物は嫌だと言い張って一向に聞く耳を持たないへそ曲がりだからだ。
さらにここ最近始めたらしいタバコも、どうやら雪風にあっては止めるつもりが無いらしい。霰の部屋を汚すまいと一応は考えたのか、自前で用意した缶詰の空き缶を灰皿にしている所は感心するが、規律や約束事にどこか積極的に抗うようにすらも見えるその行動と思考の数々は、やはり彼女が仲間内きっての大問題児であるという事の確固たる認識を、霰の中に構築していく。
人間の世界では10代後半の年齢に付き物である、反抗期という物の権化か。とにかく反骨精神旺盛なのが雪風という艦魂であった。
そしてこの時、雪風の反骨精神が生む小生意気な所を仲間内では最も嫌っている者が、毎度の事ながら幸か不幸か同じ場に集ってしまう。呆れ顔で夕飯を食べている霰の背後では、今晩二度目となる扉を叩く音が鳴り始めた。
『おー、霰ー。またリンゴ持ってきたよー。』
『あ、霞姉さんや。開いとるさかい、入ったってぇ。』
『あ?』
扉越しに聞いた声のみで人物を特定できたのは、彼女が霰と同じ18駆を組む仲間であると同時に実の姉でもあったから。同時に雪風もまた、即座に扉の向こうに立つ仲間の正体を声のみで察したが、笑みを一層明るくした霰に反して彼女は僅かに眉間にしわを作り、やがて重苦しく長い金属音を伴って開かれる扉を睨みつけている。
もちろんその理由は、扉を開けて部屋へと入ってきた霰の姉と雪風が、帝国海軍艦魂史上希に見る犬猿の仲であるからに他ならない。
『ケッ! んっだよ、猿まで来やがってよ。』
『うあ、犬臭いと思った。こんな奴放り出せよな、霰。』
部屋に入って視線を合わせたが最後、快く姉を迎え入れようとした霰を無視して二人は早速喧嘩腰の声を投げ合う。
陽に焼けたような小麦色の肌に人懐っこい丸い目を持つ霞だが、性格も考え方も活発な彼女は雪風の喧嘩屋っぽい態度に対して臆する事は無く、そもそもが後輩に当たる身分にも関わらず自分をあだ名で呼んでくるという、礼儀も敬意も備わっていない不届き者の雪風が彼女は大嫌いである。やがてリンゴを持ったままの手で頭から軍帽をとる霞は、首の付け根にも至らないその短い黒髪を覗かせるが、それは霰の部屋にお邪魔したが故に最低限の礼として被り物を脱いだのと同時に、いつでも眼前の山犬と取っ組み合いを演じれるようにと無意識の内に身構えたからでもある。
転じてその姿勢は雪風にも通じて現れており、険悪な空気が一挙に部屋の中に充満。またぞろ大喧嘩しそうな匂いが、双方の身体からはプンプンと匂って来る始末だ。
おかげさまで霰の食事はまたしても微妙な空気の下に食べねばならなくなってしまうが、幸運な事に全身綿の如く疲れている点では霰と彼女達は同じであった。
呉鎮所属の駆逐艦の中でも柔道の実力は1、2位を争う程の霞と雪風は、当然の如く自身の体力自慢ぶりには相応の自負を持っているが、今年、すなわち昭和16年度の艦隊訓練の猛烈さは熾烈を極め、上司の神通ですらも疲れを顔に出していたくらいの激しい物であった。特に戦隊が一丸となって行う水雷戦隊特有の戦隊運動教練は、損傷艦が出なかった事が不思議だとの声もあった程。
そんな艦隊訓練を二水戦は第二艦隊に従いながら、周防灘、有明湾でこなしてきたのであり、一時の休憩として中城湾へとやって来たのはまさに今日のお昼。つい数時間前まで続いていたのである。
故に霞と雪風は鋭い視線で互いを睨みつけながらも、いつものようにどちらからともなく飛び掛っての大喧嘩に発展しそうな言葉は、双方供に感づかない所で意識して控えていたりもする。それぐらい第二艦隊の艦魂達は、ここ最近の日々において疲れているのだ。
『喧嘩はあかんや、二人とも。さ、霞姉さんここ座ってええよ。それに、リンゴおおきに。』
『え。あ、う、うん。ほら。』
そんな事情も功を奏し、霰がなんとか喧嘩とならぬようにと企図して霞を呼び止めると、意外にすんなりと霞は霰の言葉に従ってその場に腰を下ろす。雪風も相変わらず口を尖らせてその大きな釣り目を鋭い物としていたが、『ケッ。』と短い言葉を吐き捨てるや視線を霞達から逸らし、再び舷窓に向かってタバコの煙を昇らせ始めた。
もちろんその姿に、先程の霰と同じように今度は霞が目を丸くする。
『なんだよ、雪風。アンタ、タバコなんか吸ってんの?』
『るせーなぁ、そーだよ。親方には言うなよ、猿。』
『チクるなってんならバレるなよ。とばっちり来たらこっちまで大変なんだかんね。』
『わーったよ、・・・ったく。』
真っ向から雪風の喫煙を責めたりしない霞の声が響くや、またしても雪風はめんどくさそうな表情で悪態混じりの返事を返した。仲の悪さを考えれば霞は怖い怖い上司に後輩の悪行を報告してもおかしくは無いが、今しがたのやりとりで見れるように霞はそのお肌に反して腹黒い選択肢を選びはしない。確かに神通にチクった末に雪風が目の前でベッチンベッチンとお尻を叩かれたなら、霞は腹の底からいい気味だと思って散々に笑ってやろうと思っているのであるが、生憎と天敵の醜態を笑ってやる程の余裕がきっとその場には無いであろう事を霞は知っている。
その大きな要因は当然、短すぎる導火線に火をつけてすっかりカンカンとなった神通のご乱心ぶりである。
『こんの馬鹿がぁあ! うがぁあーっ!』
もう完全に耳と脳裏にこびりついたそんな上司の怒号が響き、さしものやんちゃ娘である雪風も泣いて詫びを入れる事間違いなしの状況。だが同時に雪風の成敗を終えても神通のお怒りが静められる事は無く、目を回してノビてしまった雪風から今度はそれを眺めている霞達へと矛先が向けられてしまうのが、帝国海軍艦魂社会にて恐れられる「私立神通学校」のなんとも困ったしきたりである。
『キサマら、いつまで馬鹿ヅラ揃えてる! さっさと甲板走らんか、おらーっ!』
既に九割方は八つ当たりにも近い感情で放たれるその言葉に、先刻見たばかりのお仕置きを食らいたくない霞達は従うしかない。それも即座にだ。
『50周だ、行かんかぁ! オラオラー!』
『『『 わ、わぁああーっ・・・! 』』』
まるで時代劇の主人公のように竹刀を振り回す神通に追われ、逃げるようにして霞達は甲板上を全力疾走せねばならない。しかも左舷から艦首旗竿を経由して右舷へと回り、艦尾旗竿の下でターンしてまた左舷へと出るという形で行う持久走が、いつもの10周から一挙に50周にまで拡大されてしまうのだから不幸である。
とにかく怒ったら手が付けられない上司、神通。
そこに伴われる恐怖と苦痛の存在が例えとばっちりの形であろうとも予想できるのなら、些か気分は悪いが天敵をしばし泳がせる方がマシだと、ここ最近の霞は考えるようになった。対して雪風もタバコや茶髪の事であんまり派手な大喧嘩をしてしまうと、これまた未だ腫れが残っているお尻を上司より再びぶっ叩かれてしまうと思って、敢えて下手に出ている霞に食って掛かって行くような言動はとらない。
より突っ込んだきっかけが有れば、やはりいつも通りの大喧嘩となるであろうが、この二人にしては中々の進歩である。
『すぅー・・・。ぐひ、けほ、けほっ・・・!』
『咳き込むくらいなら止めれば? タバコ。・・・ほい、霰もリンゴ食べる?』
『ウチ、まだご飯が途中や。後で貰うわぁ。』
『うるせーな。こういうのも社会勉強っつーんだよ。』
そこにあるのは同年代の仲間らしい会話。
ごく有触れたこんな声の交差が霞と雪風にあっては中々成立しない日常なのであるが、奇しくも鬼の上司と今年の火の出るような艦隊訓練による一連のシゴキにより、今日は喧嘩の体裁とはならずに霰の目に映る。お互いに目も合わせずに、片や霞は霰の横で座ってリンゴを切り、片や雪風は僅かに開いた舷窓の真下で相変わらず咳込みながらの喫煙を続けている中、もぐもぐと口を動かしつつ霰が放った言葉にちゃんと二人は各々の声を返して、一つの話題に拳ではなく声を用いてのふれあいとなる。
『ん、ん。むぁ、そうや。雪風、提出物もう書いてもうたん? 有明湾で戦隊教練終わってから、戦隊長が出しはったの。』
『うえぇ、けほ・・・! やっべ、そういや明日じゃねーかよ、提出。乙種戦技んとこまだ書いてねーや。おい猿、オメーやったか?』
『ハッ、のんきだなあ、アンタ。アタシは昨日のウチに半分は書いちゃったよ。』
『なに言うてはるんや。霞姉さんの、ウチの写しただけやん。』
「私立神通学校」の別名を持つ二水戦における艦魂達の生活では、割と頻繁に駆逐艦の艦魂達に出される宿題の存在。人間の世間一般にもよくある家に帰ってからのお勉強であるが、これをめんどくさいと感じて中々手がつかない者が艦魂にもいるのも、これまた人間の世界にも共通する物である。
おまけにまだ殆ど終わっていない雪風も然り、ズルをした霞も然り、宿題の残りが明日提出にも関わらず終わっていない状況は同じで、既になんとか自力で片付けていた霰に答案を見せてくれと頼んでくる始末。犬猿の仲の筈なのにこういう所は何故かこの二人は似ていて、一度意気投合して協力し合うとその行動力は並大抵の物ではない。
霰がようやく半分以上を食べ終えた椀を一度机に置き、頼まれて取り出したノートを見せてやるや、なんと霰が食卓代わりにしていた木箱まで勉強机として取り上げられてしまった。
『あ。う、ウチまだ食べ終わってへんのにぃ・・・。』
『うっせー! こちとら親方にまた怒られちまうかもしんねーんだ!』
『どうせ椀3つしか無いんだから良いじゃん、霰。とりあえず残りやっちゃわないとマズイの。ほらどけ!』
3人揃って喧嘩にならない今宵は、自分のペースでゆっくりと食べれる夕飯と供に、霰が普段心の内で抱く願望が現実となった夜。とてもささやかな願いながらも、それが叶った今夜は霰にとっては笑顔が多い時間となる筈であったが、例に漏れずに霞と雪風の行動によっていつもの通りご破算となる。
おかげで霰はしばしの間、自分の部屋にも関わらず部屋の隅っこにて勉強の邪魔にならぬよう箸を進め、宿題の記入を行う霞と雪風を見守る事となった。
『くっそー。乙種戦技って苦手なんだよなぁ。大体、飛行機になんて弾当たるのかぁ?』
『雪風、対空戦闘苦手やもんなぁ。周防灘の訓練の時も、散々戦隊長に怒られてはったしなぁ。』
『目で追っかけてばっかだから当たんないんだよ。的速的針を把握して未来位置に撃つ分には魚雷と同じじゃん。匂い嗅いで撃つ訳でもなし。』
『ケッ! ああ、そうかよ。猿は器用で良いな。』
『喧嘩はあかんや。んぐ、んぐ・・・。』
一応は疲労のご利益で喧嘩に発展しそうな雰囲気は無いが、どちらかが放つ一言が火種になるのは日常茶飯事。故に霰はご飯を食べながらも二人から目を離す事が出来ず、僅かにハラハラとする胸の内を一向に解消できないままで食べた夕飯の味は、残念ながら後の霰の記憶に殆ど残らないのであった。
まったく困り者の二人であった。