第一一七話 「北洋日誌」
色々と調べるのに半端無く時間が取られてしまいました・・・。
なんたる鬼門だ、この海は!!
昭和16年2月1日。
北海道の更に北に位置する、千島列島得撫島の北西側沖合い。
一般にオホーツク海と呼ばれるこの海は、寒冷な気候とその僕たる荒波が集う極限の海である。一応は函館発でカムチャッカ半島へと向かう定期航路の通る海域ではあるも、冬も夏も一貫して寒さしか存在しないこの海は、大小の貨客船による往来で賑わうような場所ではなかった。
しかしそんな寂しい辺境の波間を、突如として白波を立てた鉄の舳先が切り裂いていく。高々と舳先に蹴散らされた波飛沫は、艦首甲板へと舞い落ちるや滴る前には既に氷結してしまい、その場を駆けるねずみ色の船の表面は氷の白い色が半分程も埋めている。加えて氷の付着は船舶にとっては重心バランスを崩す要因となる厄介な物で、波間を高速で走るねずみ色の艦は激しい動揺を抜きにしても、やや最上甲板が前のめりに傾いている状態であった。
そしてそんなねずみ色の艦からは、傾いた状態の艦体とは裏腹になんとも元気な女性の怒鳴り声が響く。
『待てー、コノヤロー!!』
ウェルデッキより一段高くなっている艦首甲板にてそう言い放ったのは、黒い帝国海軍の外套に身を包んだ小柄な女性。時折艦首から剥げ落ちて顔面の横を通り過ぎていく氷の欠片や、波を蹴散らす事によって生まれる轟音も、彼女にあっては至って気にはなっていないらしい。吊り上げた眉の下、鋭い瞳を艦首やや右舷へと投げ、時を置かずに再びその猛々しい声を荒げる。
『ロスケめー!! 勝手にひとんちの魚獲りやがって!! 返せ、バカヤロー!!』
大変なご立腹で叫ぶ彼女。
そのずっと背後にある艦尾にはバタバタと勇壮に翻る軍艦旗があり、この艦が誉れ高い大日本帝国海軍の艦である事を示している。同時にその艦首右舷の方向にて疾走するロシア語の表記が船尾に書かれた漁船もまた、帝国海軍艦艇による追尾を受けているこの状況により、なにやら領海内で悪さをしたソ連船籍の漁船である事が示されていた。
『この信号旗が見えねーのか、くそったれ!! これでもくらえー!!』
そう叫んで足元に集めてあった石を投げる際、外套のフードが外れて女性の顔がオホーツクの波間にあらわとなる。もちろん帝国海軍艦艇に女性の兵員が存在する筈も無く、20代後半の大人の顔つきを覗かせたのは言うまでも無く艦の命たる者。そしてその顔は、明石が初めての患者さんを得た際に知己を得た友人、波風の物であった。
波風は帝国海軍に存在する数多い駆逐隊の中、この20数年近い間トップナンバーを頂く殊勲の部隊、第一駆逐隊の所属艦である波風艦の艦魂であり、長く北方海域での漁業権益保護に当たってきた大ベテラン。その分身は現有の戦艦と同等に旧式であるが、一族に当たる同型艦の中には帝国海軍最速艦艇として名高い島風艦もいたりして、旧式ながらも決して性能が悪い艦艇ではない。艦艇類別上でも未だに彼女達は一等駆逐艦として在籍しており、強力な武装と快速性を生かした北方海域での活躍は、海軍を問わず民間であっても非常に有名である。
本日もまた自身の老骨ぶりを忘れて海上を邁進し、マスト上に掲げた信号旗による国際信号を無視して逃走している、眼前のソ連船籍の漁船を追尾しているのだ。
世界的にも有数の好漁場である北方海域独特の任務であり、特に国境の殆どを海上で接しているソ連に船籍を置く船とは、今日のように鬼ごっこ状態となるのは日常茶飯事。ほぼ毎日、領海内に入った入らないでモメている有様であった。
ただ、乗組みの人間達も含めて日本側はこれまでのように派手な行動はせず、追い駆けまわして領海外へと放り出す腹積もりである。故に現在の様に停船命令に従わない中であっても発砲するつもりは微塵も無く、波風艦艦上に装備されたいくつかの単装砲塔には覆いも掛けられたままだ。
もっとも先ほどの波風の怒号が証明しているとおり、彼女を含めた帝国海軍艦艇の命である艦魂達にとっては、対領海侵犯船舶に対する姿勢が完全に喧嘩の様相となっていた。なにせいくら警告して追い出しても、しばらくしてから再び領海内へと現れては違法に操業する船舶が昔から後を絶たず、その度にこうして極寒の海を走り回らねばならない事に、艦の命である彼女達はもうウンザリしているのである。いくら国際紛争へと拡大するのを憂慮した対処が求められるとは言え、乗組員の人間達にとっても大半が同じ嫌気がさしているという認識であり、言わば波風の怒りっぷりは乗組員達の素直な心が具現化したような代物であった。
それに加えて生来が血の気の多い性格の波風は、寄港先で漁船の艦魂達に頼んでは網にかかった石や流木なんかを普段から集め、領海侵犯を繰り返す船舶に対して自らの手で行う攻撃の手段として用いている。今日もまた自身の分身がソ連船籍の漁船の真横まで接近するや否や、用意しておいた石を思いっきり漁船めがけて投げつけてやった。
『でえーい!! くたばれ、白熊めー!』
『Пошел на хуй, до обезьяны!』
波風が投げた石が漁船の甲板へと落ちると同時に、漁船からはロシア語による女性の叫び声が上がり、同時に今度は漁船の側からもバケツや鉄材なんかが投げ返されてくる。布製の被り物の下から美しい赤毛を頬に垂らし、波風とは違って高い鼻と奥まった目を持つその女性は、間違いなく波風艦に追われているソ連船籍の漁船の艦魂。相当に肝が据わっているのか、帝国海軍艦艇の証である軍艦旗や、魚雷までも装備した波風艦の立派な駆逐艦としての艦影にも臆する様子は無く、傍から見ても一目瞭然な反抗的な姿勢で波風艦に怒号と物を投げ返していた。
『やったな、コノヤロー! 死ねえー!』
『Уйди, дурак! Ne смерть!』
荒波洗う漁船と波風艦のデッキの上には、轟く怒号と飛び来る多様な投擲物。大人しく帰って頂こうという駆逐艦長らの思いなぞ、波風にとってはもはや糞食らえ。対してソ連船籍の漁船も譲らず、銃砲を用いない艦魂達による射撃戦がその後もしばらくオホーツクの凍てつく波間にて繰り広げられた。
それは北方海域独特の任務である漁業権益保護の、まさに最前線の瞬間。地球上の何処においても存在しつつ、同種の懸案は諍いを孕む側面が多分に在るという厄介な代物である。その理由は諍いの第一の根拠となる領海という名の区分けが、現場たる海上では一切見えず、地図の上でしか目にする事が出来ない物だからかも知れない。
何か雲を掴むかのように現実味が欠ける中でのこうした活動が、波風を含めた帝国海軍第一駆逐隊の励むお役目である。
今日も今日とてその役目を全うし、しばらくした頃には領海侵犯船を領海外へと見事に追い返してみせた波風艦であるが、仲間の待つ幌筵島への帰途に着いたにも関わらず、その表情は本日の天気のように曇り模様。ありったけの石をぶん投げてやった故に疲労も溜まっているのと同時に、その帰る先にてもう一つの憂いが控えている事を彼女は知っているからだ。
『ったくよぉ・・・。本当なら撃沈してやりてートコなんだけど、こっちの漁船連中もやってっからなぁ・・・。あ〜あ。今頃は、野風あたりも困ってるだろうなぁ。よりによって相手があの艦魂だしなぁ・・・。』
先程までソ連船籍の漁船に向けていたご立腹の表情も消えうせ、波風は頭を抱えながらそう呟いて眉をしかめる。やがて大きな溜息を吐いて波風はその場に座り込み、艦首の向こうに広がる自身の心の様に澄み渡らない空模様を、しばしぼんやりと眺め続けるのだった。
そしてそんな波風の視線の果てに、まさに彼女がこれから帰ろうとしている地、幌筵島があった。
千島列島北端部に位置するこの幌筵島は、天気によってはカムチャッカ半島も望める程に国境に近い所にありつつ、周辺の海域では最も大きな島である。面白い事に島の形が日本列島の本土部分に似ていて、すぐ北にある帝国最北端の領土、占守島を北海道と例えれば、まさに超ミニサイズの日本列島にも見えなくもない。しかも南北に伸びた島の中央には縦に走る形で高山が連なっており、島内地形の面でも日本本土にそっくりであった。
そして大きな島の敷地と良好な湾状の海岸が幾つか存在している事が功を奏し、幌筵島はこの方面にて操業する多くの漁船の補給を請け負う港湾が作られ、次いで民間の缶詰工場などが進出したりして、お隣の占守島と共に北方海域の漁業における一大根拠地として明治の頃より栄えてきた土地である。おかげで無線による航路誘導なんかを行う無線電信局が私設の物も合わせると島内に4箇所もあり、蛇足ながら占守島には水産会社経営の貯蔵量1000トンを誇る重油タンクも作られているくらいだ。
また、国境に程近い上に相応の面積の土地を有するこの幌筵島は、漁業だけではなく軍事の面でも包容力を発揮し、島内には全長1000メートル、幅50メートルの滑走路を主とした飛行場がつい3年ほど前に設置されている。これは小型機どころか、渡洋爆撃で名を馳せた九六式陸上攻撃機だって運用できるだけの規模であり、転じて緊急の際には空中輸送にも対応できるという事である。同時に水上部隊が待機する泊地として良好な湾も、島の東南部に乙前湾、南端に武蔵湾、島の西部一帯を占める加熊別湾と、3つも存在するので不足無し。
南洋の多くの島と違って真水の調達も可能な上に、気温の変化も海流の影響からそれほど激しく無く、年間を通すと最高気温こそ15度前後と低いが、冬季の最低温度は零下6度といった所。遥かに南の北海道よりも実は暖かいのである。
官民共に海洋根拠地としては素晴らしい地であった。
もっとも欠点はちゃんと有って、付近の海上を含めてお天気に濃霧が非常に多く、山に遮られない事から威力をそのままに直撃する風雪が長く続き、せっかくの飛行場も6月から10月初旬までの僅かに4ヶ月程しか使用できない所が泣き所である。
故に飛行場が出来てから3年は経つが、北方海域はまだまだ飛行機よりもお船の姿が断然に多い場所だった。
さて、そんな幌筵島の西岸にある、加熊別湾。
2月初日の本日は霧こそ発生していないが例に漏れずの大雪で、湾内に停泊する多くの船舶はすっかり雪化粧となっている。気温は零下3度ほどだが風は非常に弱く、甲板上で作業している漁船の乗組員は白い息を巻き上げながらも至って元気そうである。
『おい、網をしまおう。そっち持ってくれよ。』
『おいしょ、っと。 おし、いいぞ。』
雪もだいぶ残ったとある漁船の甲板の上、鉢巻の下にぶしょう髭を生やした男達が漁に使う網の整理を始める。
漁船と言っても彼等が乗る物はいわゆる遠洋漁業に使われる漁船で、ちゃんと内燃機関も搭載されて立派な煙突も持っているし、荒い外洋の波にも耐えれる相応の高さの乾舷も備わっているという、そこそこに立派なお船である。彼等の四方に広がる湾内の波間にはそんな見てくれの良い漁船が30隻以上も停泊しており、遠方からでもよく目立つマストや煙突の類によってさながら一端の軍港のような光景にも見える。陸地にある小さな集落が工廠だったら、なお現実性が有ったのが残念な点だ。
だがしかし、お船が集うという根本的な状態では軍港と同じで、船の命達においては多くの仲間と顔を合わせる事の出来る社交の場に変わりは無い。特にこの北方海域では漁船が何隻かの集団を組んだ形で漁を行うのが一般的な事もあって、同じ集団に属する漁船の艦魂達の仲の良さは、帝国海軍艦魂社会での同じ部隊に所属する仲と共通する部分でもある。出港を控えてお休みとなっている事に合わせて仲間内で集まり、お酒を飲んだり美味しい物を口にしながら他愛無い話に花を咲かせたり等、その姿は泊地で待機している帝国海軍の艦魂達とまさにそっくりであった。
さてそんな中、加熊別湾内に停泊する多くの漁船に混じり、そこには辺りの銀世界にあっては赤の色合いが一際目立つ軍艦旗を掲げた艦艇が、2隻並んで停泊していた。
双方共に艦首の側面に大きく書かれた白抜きの「1」の文字に、鋼鉄製のカバーが付いた単装砲と大きな魚雷をも抱えた流麗なその細長い艦体は、両艦揃って帝国海軍第一駆逐隊所属の駆逐艦であるという事の証。次いで艦中央部の乾舷に記されたカタカナの艦名表記は、両艦が明石の友人である野風、沼風の分身である事を示していた。
するとそんな中、並んで停泊する2隻の内の野風艦の甲板上に、艦の命である野風の何やら困り果てたような口調での声が響く。
『困りますよお、もっと領海線には気を付けてもらわないとぉ。下手したらロスケに撃たれちゃいますよお?』
真ん中で分けた長い前髪を軍帽の隙間から垂らし、大きく歪めた眉の下で口を僅かに尖らせる野風。大正10年生まれの艦体を分身とする彼女は明石が姉のように慕う長門と同世代の艦魂であり、その容姿は本来ならば30代手前のかなり大人の女性像を持つ筈なのだが、背も小さく大きな丸い目を持つ故かその困った顔には明石と同じくらいの年頃をも思わせる若さが目立つ。
女性にしたら実年齢に比べて容姿が若く見えるのは歓迎すべき事で、明石の知人である整形美人、比叡なんかはそのご利益を大いに謳歌してたりする。
だが、今の野風にあっては少し都合が悪い。
なぜなら彼女の眼前には、その野風の持つ若さをネタにして先程彼女が放った言葉に反論をしてくるという、なんとも困った人物が居たからであった。
『ハハ、お嬢ちゃんさあ。あたしゃもう40年から艦魂やってんだ、解るかい? アンタらがおしめしてる頃から、あたしゃシアトルまでの定期航路で働いてたんだい。領海線どころか、回帰線や日付変更線だって何処にあんのかちゃ〜んと頭に入ってんの。』
悪態混じりでそう言ったのは、もう老いも滲んでいる40代も迎えたような顔つきを持つ女性で、魚油の匂いも染みる薄汚れた作業着を身に着けている。さらに作業着の上に被る様にして着たゴム製の黒い前垂には魚の鱗がこびり付き、外套も含めて濃紺の軍装を着た野風達とは身の上が違うのは一目瞭然。その証拠にこの女性は加熊別湾にてその分身を休めているとある工船の艦魂さんで、奥まった目と高い鼻、次いでやや朱色も目立つ波打った長い髪を鑑みるに、どうやらその生まれは日本を含めたアジア地域ではないようだ。
もっとも外国人の容姿というのはこの日本のお船事情、ついでその命達によって構成される艦魂事情にあっては、決して珍しい事ではない。つい40年程前までは野風達が属する帝国海軍ですら外国生まれの艦艇が主役であったのだし、金剛艦のように現役で第一線の兵力として未だに頑張っている外国生まれの艦艇は非常に多い。民間船舶でも特に長距離航路に就役している大型貨客船にあっては、外国生まれの船がついこの間まで主役であった。
そしてどうやらこの女性の分身もまた、遠く欧州で生まれた後に日本に渡り、その昔は遠くアメリカ西海岸までの定期航路にて活躍していた経歴を持っているらしく、老朽化により今は工船となってこの北方海域に糧を得ているお船であるようだった。
ただ、年寄りだからといってなんでも許されて良い筈が無い。
野風の語りかけにあったように、実はこの女性が分身とする工船にはソ連側の領海へと侵入した疑惑が持ち上がっており、乗組員達が持っていた資料を目にした野風は事の仔細の聴取と注意を促すべく、こうして甲板上で話をしているのである。それに実はこの工船の艦魂、北方海域の艦魂界隈ではちょっとした有名人で、領海侵犯を疑われたのはこれが初めてではない。20年近くこの方面で励んできた野風と沼風にとっても、この女性にこうして注意を促しては悪態をつかれてしまうのは今日で4回目となり、二人とも既にこの工船による領海侵犯に関しては、疑いではなく完全に犯しているだろうと声には出さずとも確信している始末であった。
だから野風と沼風はお互いに困った表情ながらも、なんとかこれ以上の越境行為を行わせないように説こうとしているのだが、眼前の工船の艦魂は全くもって野風の声に取り合おうとしてくれない。しかも具合が悪い事に、その工船の艦魂の背後には彼女の態度を応援してくれる別な命達が控えていて、野風が声をつぐんでしまった刹那を見逃さずに次々と声を上げてくるのだった。
『そ〜だそ〜だ! かーちゃん言ったれ〜!』
『ウチらのかーちゃんは、大西洋だって行った事あるんだぞ〜!』
『ロスケの船だって真夜中に見つけたの知ってるだろ〜! 簡単に捕まるかってんだ〜い!』
わーわーと歓声にも似た声は、眼前の工船の艦魂と集団を組む漁船の艦魂達。彼女等は皆工船の艦魂に比べると年頃はずっと下で、野風達とくらべても断然に若い。150センチを境にばらつく小さな身の丈に反して警告汽笛の如き大きな声を放ち、僅かに老いた女性像を持つ工船の艦魂の背から、連ねるような形で顔を覗かせている。
加えてそんな漁船の艦魂達が「かーちゃん」という呼称を用いる事も手伝い、まるで彼女達は工船の艦魂を長とする一家のように野風達には見えてくるが、あながちその認識は間違っている訳ではない。
それは集団を組んで行う漁船の運用方法に深い関係がある。
そもそも工船とは、獲ったばかりの魚介類を新鮮な内に現地にて缶詰等へと加工してしまう事を専門としたお船であり、自らの甲板から網を海中に投げ入れたりして漁労に参加する事は無い。もっぱら朝から晩まで水産物の加工にのみ専念し、加工資源である魚介類の確保は配下の複数の漁船群に一任しているのである。
加えて工船は食品加工用の設備を持つのに合わせて比較的大型の船体を備える事から、ずっと小型で航洋能力にも居住性にも劣る漁船に対し、食料や燃料を始めとした物資を補給したり、荒天下での牽引や連結しての停泊なんか実施させてやったり、乗組員の休養や治療の為に船内の比較的整った居住区設備を使わせてやったり等、一つの集団に属した漁船群に対するいわゆる母船としての運用が行われているのだ。
まさにそれは、明石の親友である神通や那珂が率いる水雷戦隊の如き在り方。集団内で一際大きなその船体を駆使し、多くの小さな船達にたくさんの恵みと生きる糧を与える様は、戦闘艦と民間船の違いはあれど本当にそっくりなのであった。
その上で野風達と相対するこの工船の艦魂は、外国人女性とは言え相応に年齢を重ねた外見を持ち、しかもまた天下の帝国海軍艦艇の艦魂に対して全く遠慮せずに物を言う態度も手伝って、その姿は人間達の世界でも往々にして見る事の出来る「肝っ玉母さん」その物である。
年下の者では扱いに非常に難儀する事になってしまうのは艦魂社会でも同じで、この道20年のキャリアを誇る野風と沼風も中々声を返す事が出来ない。
しかもまた、二人にとって非常に都合が悪い事情が、実はもう一つ有る。
彼女達が相対するこの僅かに老いた工船の艦魂。なんと今から30数年前に、野風達が持つのと全く同じ十六条旭日旗をその艦尾旗竿に掲げた経歴を有し、しかもまた実際に戦の場へと舳先を進めた上に、そこで帝国海軍どころか国民の間にも語り継がれる程の大殊勲を打ち立てているのだ。
『今時分の若いモンは変に心配性だねえ、ハッハッハ! そんなんじゃロスケどころか、クジラの一頭も捕まえられないよぉ。』
『『『 きゃははははっ! 』』』
『ううう・・・。』
『あ、あはは・・・。お、恐れ入りますぅ・・・。』
工船の艦魂の歯に衣着せぬ物言いは、現役の戦闘艦艇の命である野風達の励む姿勢を揶揄した形での冗談。清々しい程にズバっと切り込んだ言葉は、長く北方海域で頑張って来た野風と沼風にとっては自負とプライドをひっくり返された様な感覚すら与えるが、それでも尚、二人は各々の怒りを沸点まで昇らせて真っ向から反論する事は出来ない。いつも元気で快活な野風はもはや無念の呻き声を上げるのみで、その背後に控えた沼風は冷や汗も浮かび、僅かに引きつる頬で作った困ったような笑みでもって、ひたすら愛想笑いをするばかりであった。
長門と同世代の艦魂であるこの二人がここまで困り果てる相手。その名はかの日露戦役において三笠艦と共に勇名を馳せた船の名であり、野風も沼風もそれを知っているが故に、眼前から来る幾重もの嘲笑にただただ塗れているのみ。
やがて耐え切れなくなった野風がやや涙声となりながら声を発し、その名を呼んで再度の注意喚起を行うと共に、これ以上の恥辱に対する勘弁を申し出た。
『か・・・、勘弁してくださいよぉ、信濃丸さ〜ん。満蒙じゃ陸軍とロスケが国境紛争やらかしてんですよぉ。これで海でもやらかしたら、下手したら戦争になっちゃいますよぉ〜。』
民間船舶の命に対する海軍艦艇の命の接し方としては、非常に格好が悪くなってしまっている野風。30代直前の女性像を持つその心と表情は、傍目から見ても今にも泣き出しそうな勢いであったが、そんな野風の様子が信濃丸と愉快な仲間達にとっては面白くて面白くて仕方ないらしい。本気で心配している野風の声が響くや、彼女達は抱腹して大笑いした後、信濃丸の一声に続いて勝手気ままな冗談を連発していく。
『『『 あはははは! 』』』
『おい、聞いたかチビ供! ロスケと戦だとさ! ハッハッハ!』
『よ〜しっ! じゃ、今度ロスケの船見つけた地点は、二百三地点にしよう!』
『時間は午前4時45分ですね、わかります。』
『わははは! 今から無電の電鍵磨いておかないとね〜!』
歓声のようにして湧き上がる漁船の艦魂達の声は、全て彼女等が母と慕う信濃丸の功績を意識した物。一向に明るさと激しさが色褪せないその音量には野風も沼風も完全に降参で、二人して額に手を当てて大きな落胆の溜息をつく。
すると野風の肩にすっかりご満悦の信濃丸が手を乗せ、全くもって野風の注意喚起が成功しなかった事を示す声をかけてくるのだった。
『ハッハッハ、そういう事だ! そん時はアンタら、横須賀の三笠さんまでしっかり中継してちょうだいよ! ほんじゃ帰るぞー、チビ供! ほい、日の丸船隊歌〜! 歌い方用意〜!』
『こ、これはもうダメだね・・・。あ、あはは・・・。』
『ううう・・・。もう勝手にしてよぉ・・・。』
完全に打つ手を失って目尻に涙を浮かべる野風に、沼風が励ますように手を触れて収拾不能の事態を悟る。
これまでと同じように彼女達、第一駆逐隊の面々による注意喚起と啓発は残念ながら成果が実らず、今日もまた日本側による越境の芽を完全に摘む事は叶わないのであった。
やがて野風艦の甲板上には、信濃丸を先頭にして漁船の艦魂達が一列に並んだ姿が現れ、元気良く放った信濃丸の言葉に続いて一斉に行進しながら歌を歌い始める。
『『『 き〜みとく〜にとにつ〜くすべく〜! し〜ちにつ〜かんとこ〜いねごう〜! 』』』
まるで勝ち鬨を上げるかのように大声で歌い出すや、彼女等は野風と沼風が未だ頭を抱えているその真横を通って、行進しながら各々の身体を淡く白い光で包んで去って行く。
野風も沼風も盛大なる徒労に終わった本日の努力にすっかり心が折れ、怒りに任せて怒鳴り声を上げるには余りにも相手が悪すぎた事を少しだけ呪った。
相手の名は、信濃丸。
かつての日露戦役での最終決戦たる、あの日本海海戦にて、敵艦隊発見の功で名を馳せた信濃丸の艦魂である。
既に帝国海軍艦艇として励んで20年も迫る中、凍てつく千島の潮風にうっすらと涙する野風と沼風の姿は、実に気の毒という他に無かった。
豊富な水産資源と複雑に国権の線が入り組んだ海、北方海域。
若い命も老いた命もいて、翻す国旗も様々な船の集うこの海域は、海軍艦艇であっても苦労に苦労が重なる厄介な所である。
しかし同時にそこに居るそれぞれが色んな経歴を持ち、官民も問わずに全ての船の命が日々を謳歌する場所でもあった。
そして翌日。
雪降る加熊別湾の薄くもやが掛かった波間にはその一員として、信濃丸とそれに従う多くの漁船群が隊伍を組んで出発して行く光景が在るのだった。