表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
116/171

第一一六話 「明石艦乗組員の一戦/其の四」

 大きくうねる波が海面に落差の激しい渓谷を作り出し、豪風とそれに導かれる猛吹雪が凍てつく空気を尖らせて刃とする。月の灯りも星々の瞬きも一切遮られた空の下、暗闇と戯れるそれは激しさを緩める気配が微塵も無く、海面上を傍若無人に暴れまわっていた。


 そしてそんな地獄の海面の下。冷徹のみを抱いて逆巻く潮の流れが死の舞踏を繰り広げる中、内火艇より海中に落ちたマサはそれに翻弄されてもがき苦しんでいる。


 く、くそ・・・! やべー・・・!


 激しい潮の流れによって海中を転がされ、目を開けようと開けまいと視界が得られぬ状況下では、もはや上下左右の感覚は解らない。落ちた瞬間にすぐさま海面の方向だけでも把握しようとは思っていたが、遊泳や水泳訓練をする静かな海中とは余りにも様相が違い過ぎる。おまけに海中での潮の流れは時折鼻からの浸入を試みてきて、その度にマサは咄嗟に口に溜め込んだ空気を僅かずつ鼻から漏らして海水を押し返すのだが、当然それは水中では非常に貴重となる空気の消費を迫る物である。


 このままだとヤバイ! とにかく海面に浮き上がらねーと・・・!


 大きく息を吸い込んだり等の準備なぞ何一つ無い状態で、一桁台の水温である海中に投じられてしまったマサ。落ちてどれだけの時間が経ったのか解らないが、身体中を襲う耐え難い冷たさと息苦しさからすぐに逃れるべく、とにかく四肢を振り回して浮かび上がろうと考えた。

 だがマサの身体は上手く動かない。既に身体が凍てついて動かなくなってしまったのかと彼は一瞬思うも、それに反して振り回す両腕が額に当たったり、左足の靴が右足のふくらはぎに接触するのを、暗闇の中でも触覚として彼は捉えていた。


 腕も、脚も動いてる・・・!? なんで─、あ・・・!!


 四肢の自由が利かない事に疑問を浮かべた刹那、マサは自身が海中に落ちる直前に見た光景を思い出し、その理由を瞬時に察した。彼の右足の足首には未だ、命綱として救助艇より彼自身の腰へと繋がれたロープが絡まっているのである。

 その事に気付いたマサはすぐさま身体を腰を支点に折り曲げ、同時に振り回していた両腕を右足首へと伸ばす。見えてはいなくても自分の身体の感覚を頼りに操るマサの手は、そう時間をかけずに右足を捉える事ができた。


 ぐうぅ・・・! く、苦しい・・・! も、もう息が・・・!


 心身供に緊張が漲る中での我慢は、思った以上に辛い。マサもまた例外ではなく、呼吸が出来ない苦しさが僅か数秒ばかりの間にどんどん強くなってくる。とにかく身体の自由を得て浮上する事を急ぎたい一心で、マサは右足の足首へと這わせていった手でそこに絡まったロープを解き始めた。

 だがしかし、唯でさえ凍てつく冷たさに文字通り浸かっているマサの指先は、思うとおりに力が込められない上、右足に縛りついたロープは水を吸った為かその固さが尋常ではない。満足な呼吸もできず視界も得られぬ中、触感のみを頼りに操るマサの指は縛りついたロープを解くどころか、足とロープの間に指を割り込ませる事すらも出来なかった。


 く、クソ・・・! し、死ぬ・・・!


 遅々として進まぬロープからの解放に焦り、それに伴って一層の苦しさが増すと脳裏を過ぎる、そんな言葉。どんなに派手な喧嘩をしても今まで一度たりとて思った事の無い「死」の一文字は、今やマサの身体を完全に飲み込もうとしている。抗おうにも自由にならない身体と無呼吸での苦しみの下ではかなわず、締め付けられている右足首と供にロープに伸ばす指先の感覚が薄くなってきた。

 するとやがてマサの意識はとにかく息の苦しさのみが際立ち始め、決してこれまで開くまいとしていた口を途端に大きく開けたいと思えてくる。それは死の淵に際して生じた誘惑にも近く、例え口を開けたら最後、止め処なく注ぎ込んでくる海水によって溺れてしまう事を解っていたとしても、思考ではなく意識の面でそこに一切の苦痛が無い安楽が存在する事を訴えてくるのだった。


 どうせ海面がどこかも解らない・・・。

 瞳を大きく見開いたって、月明かりも無い海中では見る事も出来ない・・・。

 抗おうとしたって苦しさが増すだけ・・・。


 早く・・・、早く楽になりたい・・・。


 真っ暗ながらも段々と視界が狭くなり、漆黒の濃さが四方より増していくのをマサは虚ろな意識の中で認める。不思議とそれに伴って呼吸の苦しさも薄れて行き、水を吸った服によってあんなに重かった身体も、今ではやけに軽くなったような気がしたマサは、同時に自身の心より死という文字が持つ恐怖が消えていくのを感じる。

 ただそんな中、一箇所だけ海中のマサの安楽を邪魔するのは、彼自身の左手より伝わってくる一際目だった冷たさだった。


 なんだよ・・・。人が楽にしてるときに・・・。


 まるで安眠を邪魔されたかのような気持ちとなり、思わずマサは愚痴めいた言葉で左手よりくる冷たさを憎む。


 くそ・・・。っんだよ・・・。

 まるで濡れた手のまま、家の外に出されたみた─。


 もはや目を閉じ呼吸を我慢する事もやめかけていたマサが、真っ暗な意識の中でそう呟いた刹那、彼の額にて一筋の脈が僅かに震え、同時にその身体の節々には耐え難い苦しみが舞い戻り始める。そして脳裏を過ぎった言葉に疑問を投げかけるや、マサは自分の身体の一部が海面を探り当てた事を直感し、失いかけていた自我の意識を完全に取り戻す。


 そうだ・・・。これ、ガキの頃・・・。

 兄貴と一緒に夜中まで遊びまわって、親父に散々怒鳴られて蔵に閉じ込められた時と同じだ・・・。

 あん時、兄貴と一緒に大泣きして、湿った手に冬の蔵の寒さ辛くてまた泣いたあの時と・・・!


 あ! そ、そうか・・・!


 脳裏の内での呟きが叫びへと変わった瞬間、呼吸の苦しみが圧し掛かる中でマサの閉じられた瞳が開く。そしてその瞳を開いた先に、彼はほんの僅かに白い蛇行する帯状の線が走っている事を見逃さなかった。

 同時にマサは両腕を大きく振り回して、そんな帯状の物が見える所へと向かい始める。なぜなら彼にはその帯状の船こそ、海面でぶつかり合う荒波が作った戦の跡、すなわち白波である事を確信したからだ。


『・・・ぅぐはあっ! あふっ・・・! ゼハア、ゼハア・・・! ゲェホ・・・!』


 彼の極限の中での思考は正しかった。しきりに振り回した腕に続き、マサの上半身は豪風雪と波浪による大宴会場、小松島の海面の一角へと浮き出たのである。海中と変わらぬ暗闇はそのままで、未だに頭上より降り注ぐ波飛沫が大きく開けた彼の口へと入り込んで来るも、当に限界を通り越していた呼吸がようやく確保されたマサは、それに構わずにそこにあった極寒の空気を口いっぱいに取り込む。だが、その吸入量が余りにも急過ぎたのか、それともまた口に入った海水で咽たか、マサの回復した呼吸は乱れに乱れ、もはや悲鳴にも似た息遣いと連続する咳込みによって非常に断続的な物であった。

 もっともようやく呼吸を取り戻せた事は大きく、ロープが絡まっている事から未だに右足の自由は利かないながらも、マサは両腕を必死に動かして海面上に顔を覗かせる。それによって彼の視界は吹雪が急降下してくる黒い空のみしか見る事は出来ないが、次第にマサは辺りを埋め尽くす波と風の喧騒の中に、聞きなれた仲間達の声が混じっている事に気付いた。


『マサー!! マサー!!』

『森二水だ!! おい、艇長!! 近寄ってくれ!! 福山二水、救命浮標を投げろ!』

『はい! 微速で進むぞ! 寺井、山下、お前達二人で櫂操(とうそう)しろ! 他の奴らは救助索を引け!』


 解放されたばかりの呼吸は息苦しさに滲み、我慢に我慢を重ねた体内の酸素は未だに薄いのか、マサの思考の全てをぼんやりと輪郭が判別しない代物へと変えている。断片的に『仲間、救助索、短艇。』と言葉を並べつつ、マサは僅かに声のする方へと顔を傾け、つい20分ほど前まで自分が乗っていた短艇が舳先を向けて近寄ってくるのを確認した。






 一方その頃、時を同じくして彼等救助隊の我が家たる明石艦では、艦尾から艦首、最下層から最上まで至る全の甲板にて起きていた救助者収容の準備も一段落しており、内火艇発見の第一報に続く続報を伊藤特務艦長以下、全ての待機人員が待っている状態となっていた。

 もっとも決して乗組員達は暇を潰している訳ではなく、手空きとなった最上甲板配置の者達は猛吹雪の中での見張りへと当てられ、艦内配置の者達は治療所へと続く通路で担架を手にして座り込んだり、烹炊所付近で戦闘応急配食をいつでも開始できるように集まり終えていたり等、各々のやるべき事に即応できる態勢を微塵も崩さずに堅持しているのである。


 もちろんそれは艦魂である明石も例外ではない。

 もはや既に雪がびっしりと表面を覆い、生地の黒色が見えない程に真っ白となった外套を被りながら、彼女は艦橋天蓋に設置されている射撃指揮所の辺りで、双眼鏡越しの視線を全周に渡って流していた。


『ひぎぃい・・・! さ、寒ぅい・・・!』


 しかし超が付く程に寒がりである明石は、二時間以上も猛吹雪の中で耐えていた事でその体力が既に限界近い程度となっている。見えも体面も捨てて途中から拭う事をやめた鼻水も真っ赤に染まった鼻の下で氷柱状となり、横殴りの雪がこびり付いたフードももはや明石の頭部に暖を与えてくれる機能を失いつつある。その証拠にフードに隠されている明石の耳は、フードより露出している鼻や頬と同じように赤くなり、まるで引きちぎられそうな痛みまで伴っていた。


『ひうぅ・・・! 耳が痛いぃ・・・!』


 悲鳴混じりの声でそう言うや、明石はそれまで胸の前で抱えていた双眼鏡から手を離し、首から下げたバンドによって双眼鏡の重みに頭をもたげながらも、フード越しに手を当てて冷気の攻撃に怯む耳を揉み始める。

 人一倍寒さに弱い事をちょっと恨みながらも、人知が及ばぬ自然の猛威には例え艦魂である明石だって抗える訳ではない。どうにもならぬ嫌な物に対してただ耐えるのみであり、もはや流す涙も尽きた。

 しかしそれでも脳裏に浮かぶ艦内へと戻る選択肢だけは、何が何でも明石は取るまいと今は心に決めている。猛吹雪の直撃を受ける現在の場所で見張りを行うのは非常に苦痛であるが、今日の明石艦のアチコチにはそんな明石と同じように頑張っている乗組員達の姿があるからだ。


『おーい! そっち側も一応見とけ! 流されて反対舷からでも来るかも知れねーぞ!』

『くそ、もう雪が・・・! おい、増淵! 雪が積もってると危ないから、これ全部片付けちまおう!』

『は、はい! 解りました!』


 明石と同じように黒い外套に身を包み、まるで蒸気機関車のように白い息を口から巻き上げて、男達は明石艦の最上甲板を駆けている。ある者は明石と同じく双眼鏡を片手に、震える肩を律しながら荒れ模様の波間に視界を投げ、ある者は僅か1時間程もすると甲板上に薄く積もってしまう雪を甲板掃除用具であるブラシでもって除去し、ある者は時折乾舷を這い上がってくる波に足を取られたりしながらも、手にした物品を離さずにその場を走り去っていく。

 各々が各々の役割に沿う形で、寒さにも荒い波にも吹雪にも負けまいと懸命になっていた。


 次いでそれは明石の足の下、すなわち羅針艦橋の中にあっても同じようで、そこに居る伊藤特務艦長以下の男達の一際大きな声が、時折猛吹雪と波浪の衝突音で掻き消されたりしながらも明石の耳へと伝わってくる。


『で、・・・室より! ・・・れ、そう!』

『タテ・・・!? ・・・ん送か!?』

『探照・・・、せの信ご・・・! 救助て・・・奴・・・るぞ! すぐに管制、を・・・!』

『も・・・、しだぞ! 甲板上の、みは・・・、厳にし・・・!』


 崩壊した天候下の中で響いてくるそのやりとりは、なんだか感度の悪い無線電話を聞いているようである。それに明石の耳は目深に被った外套のフードに包まれ、音を拾う方向を極度に制限している状態でもあるから、その後に続くドタドタとした足も勘定すると、何やら羅針艦橋にて新たな事態に直面したらしい事が解る程度の内容でしかない。

 ましてや少し前に厠へと行く為に艦内へと降りた所で偶然耳にしていた、救助艇よりの無線連絡が今しがたの男達のやりとりなのであれば、明石にとっては物理的に協力できる事は皆無である。

 艦の命とは言え彼女がいくら気張った所で、無線の感度が良くなったり、明石の分身に向かって短艇を誘導できる等の、都合の良い奇跡が起こせる訳ではないからだ。


 その事を意識すると艦魂という身の上である自分の無能ぶりが恨めしくもあったが、それでも尚、荒天より生まれる雑音の中で救助艇の単語と無線電信の用語らしき物が聞き取れた事に、明石はほんの僅かにだが安堵を覚える事ができた。


『うぎぃい・・・! で、でも無事なんだ、ね・・・! も、もう少しで、きっと帰ってこれるんだよね・・・!』


 誰に語る訳でもない彼女の言葉だが、ほんの薄く見え始めた希望の光と、寒さという苦痛に必死に抗うその心が、明石の声に弱々しいながらもそれなりの強さを滲ませる。口から漏れるや、横殴りの雪に捕捉されて真横へと流れていく白い自分の吐息。それが猛吹雪の脅威をやたらと強調させるように感じたのも、最早さっきまでの話で、首から垂れた双眼鏡を手にして強く握りながら明石は再び見張りへと精を出す。


 みんな頑張ってるんだ! 私も頑張らないと!


 そう胸の中で何度も繰り返し叫びながら、明石は暗闇と吹雪の向こうに見え隠れする荒い波間を再び注視しはじめた。

 

 しかし双眼鏡を両目に添えて数秒もしない内、明石はすぐに双眼鏡を下ろしてしまう。


『う・・・? あれ・・・?』


 呆けた表情でそう呟き、僅かに首を捻っている明石の様子は、そこにある何かに変化を認めたからに他ならない。だが彼女が変化を認めたのは、ほんの一瞬だけ双眼鏡越しに得た光景では無く、その対象は彼女自身の記憶と思考の中にあるのであった。


『電信・・・? タテ・・・? そう言えばさっき、探照灯って言おうとしてたような・・・。』


 彼女が思い出しているのは、ついさっき足元の羅針艦橋より響いてきた伊藤特務艦長らによるやりとり。野晒しの艦橋天蓋にいる明石には、強風と波浪の轟音によって途切れがちな声ではあったが、なんとなくその中でも聞き取れた単語を列挙してみるや、彼女にはちょっとした心当たりが記憶の中より検索される。


 それはこれまで明石が第二艦隊と一緒に行動してくる中で、艦隊訓練の支援で時折、明石の分身たる明石艦が仮想戦艦や仮想空母として振舞った際の出来事だった。

 今に始まった話ではないが、明石がこれまで行動を供にしてきた第二艦隊は、基本的に快速中型の巡洋艦を主に構成されている艦隊であり、その特徴的な艦隊戦術として夜間での隠密運動や砲雷撃戦の訓練を頻繁に実施してきた。その中で訓練支援に当たる明石艦はもっぱら標的役を務めてきたのだが、その際に明石艦では、他の第二艦隊各艦では滅多に受け取らないとある無電信号を度々艦隊旗艦より受信しており、艦の命である明石は仲間達とは違って自分だけに頻繁に来る事から記憶に強く残っていた。

 そしてその信号こそが、先ほどから思考の中で引っかかっている断片的な単語と接点を設けていたのだった。


『探照灯・・・。タテ・・・。 あああ・・・! そ、そうか! タテ連送だあっ!』


 一度や二度程度の頻度で耳にしたものではなかったその言葉は、時を置かずして明石の思考の中で明確な形となる。それは「タテ」の和文無線符号を繰り返し放つ無電信号であり、救助艇から第一報である「ウ連送」と意味は違えども、信号の意味に関連付けした在り方は同じなのである。

 すなわち対象物の頭文字を連送して対象発見の信号とする物に対し、タテ連送とは「タンショウトウ、テラセ。」の意味であり、明石はそれを第二艦隊における艦隊訓練にて既に知っていたのだ。


『そ、そか! 真っ暗でも吹雪でも、探照灯なら光で居場所を教えれるんだ!』


 ちょうど明石がいる羅針艦橋天蓋にて舳先を正面として捉えたなら、明石艦の探照灯はそこから回れ右をして大きく見上げた所にある。場所にすると艦橋背後に聳えた前部マストの上部辺りで、小さく簡単な足場で作られた台座状の所に直径90センチメートルの探照灯1基が据え付けられていた。


 明石はすぐさま頭上のマストを見上げ、まさに救助隊にとっての命の灯火となるそんな探照灯の様子を窺ってみる。すると、目に入り込んでくる雪を我慢しながら薄っすらと開く彼女の瞳には、予想通り探照灯の稼動の準備の為に探照灯台にて覆いを外す2名の兵員達の姿が映った。

 彼等は明石と同様に猛吹雪と豪風に顔を歪め、しかもまた海上10メートル以上もある小さな足場での作業に悪戦苦闘しているようだったが、やがて探照灯を包んでいた覆いを取り外すや、すぐにマストを降りていく。もっともこれはあまりの作業環境に慄いて逃げ出したのではないし、彼等にしてもこれより探照灯を動かす為だからこそ、その場を離れていたのだった。


 それと同時に明石は、まるで吹雪の中に溶け込むようにして自分の身体を白い光で包み、まだマストのステップを降りている2名の兵員達と入れ替わるように探照灯台へと転移する。もちろん明石は探照灯の動作とそれに伴う兵員さん達の退いていく理由は知っており、探照灯台の手すりから見下ろす兵員達に対して『臆病者ー!!』等と叫ぶつもりは微塵も無い。


 実は明石艦の探照灯は、その操作にあたって機銃や艦砲のようにすぐ傍で人員が就く必要が無い代物で、この探照灯は艦橋構造物内に別に設けられている探照灯管制器にて遠隔操作される物なのである。巡洋艦や戦艦にても同様の操作方式が主流であるが、特務艦艇にあっても珍しく装備されているのは、言うまでも無く明石艦が帝国海軍最新鋭艦艇にして、その運用に各種工作とは別に救難作業に従事する事が予定されているからである。同じ世代の特務艦として樫野(かしの)艦、宗谷(そうや)艦といった艦があろうとも、それらに対して探照灯管制器が装備されていないのはその証明でもあった。


『ひい、ひい・・・! あ、危ないけど、見晴らしが良いもんね・・・! それにこの雪だもん・・・! 探照灯の表面に雪がついちゃったら、私が払ってあげなくちゃ・・・!』


 そして、兵員達が残らない事は危険からの退避だと明石は知りつつ、本日の非常に機嫌が悪いお天気による影響を彼女は考慮し、敢えて疲労を伴う転移を用いてでも探照灯台へと来たのであった。

 次いで明石が小さく深呼吸してやや乱れていた呼吸を取り戻そうとしていると、明石の頭以上に高さもある探照灯から低い唸り声のような駆動音が鳴り始める。同時に直流電源が艦内より供給された為か、探照灯の中から一瞬だけバチバチと火花が散るような音が聞こえてきたが、明石が驚く前にその音は消え、探照灯表面にはゆっくりと輝きが募り出して来た。


『いよっし・・・! う、動いたぁ!』


 探照灯の鏡面を覗き込んで随分と久しぶりの笑みを見せた明石。鏡面の奥で急速に増していく輝きは留まる所を知らず、動き出して20秒も経っていないのに、既に明石は鏡面を直視する事もできないくらいに白く強烈な閃光を得ていた。

 だが明石の視界は探照灯から顔を背けるのと同時に、暗闇と吹雪が織り成す地獄の波間に一条の太い光線が突き刺さっているのを確認。まさに救助艇へと差し伸べられた救いの手のように、光線は真っ直ぐに闇夜の小松島の海へと伸びていた。



 一方、明石艦艦橋構造物の中にある管制器の側でも、闇夜を照らし出す探照灯の輝きを認め、さっそく管制器の望遠鏡を配置の兵員が覗き込んで操作に当たり始める。


 最先端科学技術の結晶たる海軍艦艇の装備品は大した物で、管制器と大層な名称であっても、その外観は俯仰角等の調整に使うハンドルが数個ほど付いて、単装機銃のような台座上に備え付けられた双眼望遠鏡、と要約しても差し支えは無い。専門的な操作術を身に着けなければ動かせないのは勿論だが、有り体に言ってしまえば双眼望遠鏡を越しに認める方向に、離れた位置にある探照灯が管制器からの電気信号によって追従してくれるという優れ物である。最近では機銃座にもこの構造が取り入れられており、たった一人の兵員が双眼鏡越しに目標を捉えるだけで自動的に付随の兵器類が指向してくれるのは、まさに後年の自動化、いわゆるオートメーションの先祖の一つに当たる物でもあった。


 故に操作に当たる兵員は非常に少なく、探照灯操作を指揮する下士官の姿を入れても5名を下回る。至ってこじんまりとした部署だ。

 しかしこの僅かな人数しかいない静かな部署にもまた、下士官からの指示が発せられて少し経った頃に緊張が走る。その発端は管制器の座席について操作に当たっている、水兵さんの言葉であった。


『あ、あれ・・・!? し、指揮官! 探照灯の追従が止まってます・・・!』

『なに!? おい、一度戻してみろ! どうだ!?』


 どうやら予期していた動作とならない事態に陥っているらしく、管制器操作の水兵の背後に居た指揮官は詰め寄り、部下の肩に手を置いて正常な動作の回復を行うよう指示する。だが、水兵が覗く双眼望遠鏡の向こうは全く光量の足りない波間が見えるだけであった。もっとも探照灯の発光自体は正常なのか、高さ1メートル程にも至る波頭の輪郭はぼんやりとだが浮かび上がっており、探照灯自体の旋回機構に何か不具合が発生している事に彼等は気づいた。


『おい、探照灯はどうなってる!? 早く右舷に指向せい!』


 その内に羅針艦橋へと繋がっている伝声管からは幹部の声も響き、下士官はその状況を折り返して羅針艦橋に報告。するとすぐさま砲術科の兵員2名が艦橋から飛び出してきて、探照灯台が浮かぶ前部マストの根元へと駆けつけて来た。



『クソ! さっき覆いを外した時、あらかた氷は除去したんだが・・・!』

『この天気でまた付着したんでしょうか・・・!?』

『ああ、そうに違いねえ! おい! 二回目だが、落ちねえようにしっかり昇るんだぞ!』


 明石も目にしていた探照灯の覆い外しに従事していた彼等は、手袋や外套の裾を引っ張って再びのマスト登頂に意気込みを改める。大荒れの天気と艦の動揺が一際目立つ中、命綱も無しにステップを登るのだから、その緊張と試される度胸の度合いは決して馬鹿にならない。見上げればマスト上の探照灯台からは、直径90センチの一条の光線が艦首やや右舷よりの海面上空へと突き刺さっているが、やはりその光線の指向方位は全く動いていない。

 次いでその原因が、探照灯駆動部に相当の氷が付着してしまっている為だと二人は推定し、一刻も早くこの事態を打開すべく早速ステップへと手足を掛ける。頭上の太い光線は、この暗闇の波間で奮闘する同じ明石艦乗組みの仲間達を探し出すのと同時に、彼等に帰るべき場所の在り処を教えてやれる大事な大事な標識。もしこの探照灯の輝きを救助隊に届けてやれなかったなら、同じ釜の飯を食い、同じ軍艦旗の下で寝食を供にしてきた同僚の命が奪われてしまうのだ。

 

 そんな事から使命感を漲らせ、入れ違いに臆する心を完全に捨てた二人は、ステップに手を掛けるや一瞬の物怖じも無く昇り始める。

 だが意外にもその足取りは、僅か3つか4つのステップを昇った所で止まった。


『うあ・・・!? な、なんか今落ちませんでした!?』

『お、お前も見たか!? 俺も顔になんか当たったんだ!』


 まだ10個ほどのステップも昇っていない内に何か異変を捉え、二人の兵員は昇降の危険を感じて一度甲板へと降りた。すると彼等が足を下ろしたマストの付け根部分には、大きい物では拳くらいにもなる氷の塊が散乱しており、昇っている最中に各々の視界の端を通り過ぎていった物体が、確かに有った事を確認する。


『な、なんだ? 空中線の氷が落ちてるのか?』

『で、でも変ですよ! ここだけ落ちた氷が集まってるなんて・・・、うあっ! まただ・・・!』


 話している最中にも落ちてくる氷塊に驚き、その場に留まると危険である事から、兵員達はマストから僅かに距離をとる。一体何故に氷塊が次々に落ちてくるのか解らず、二人は行く予定だった筈のマスト上の探照灯台を見上げてみた。

 案の定、吹雪で見え隠れするそこには何も無く、艦首方向へと微動だにせず放たれている光線があるだけであるが、彼等の目には探照灯台にて光線から僅かに放射される輝きによって浮かび上がる、もう一つの物体は見えていなかった。

 そしてその物体こそ、彼等の頭上に意図せず氷塊を散らしている者の姿である。



 もちろんそれは先程、彼等と入れ替わりに探照灯台へとやってきていた明石であり、彼女は奇妙な駆動音を発してその基部よりガリガリという摩擦音も聞こえてくる探照灯の前で跪き、ハンマーを握った手を幾度も眼前に振り下ろしていた。


『くぬ・・・! この、このぉ・・・!』


 奇妙な音を発して動きが止まった探照灯は、まったく探照灯の操作や構造に知識が及んでいない明石から見ても、明らかな不調模様。すぐにその原因を旋回基部へと付着した氷にあると彼女は確認し、立っているのも辛く感じる程に体力が消耗しているにも関わらず、艦内工作部へと転移してハンマーを持ち出してきたのだ。


『ういっち・・・! こんのぉ・・・!』


 何度も何度も掛け声を放って振る明石のハンマーは、言うまでも無く探照灯基部に付いた氷へと叩きつけられている。決して力持ちではない明石は乗組員の男達から見ればかなり非力であるも、ハンマーでの殴打をもってすれば氷の粉砕など容易い。ただ、短い時間で3度も転移した故に息も絶え絶えの明石には、再び極寒と猛吹雪の中で耐えながら行わねばならない氷砕きは、疲労を通り越した苦痛に塗れての作業となっていた。

 だがしかし、明石の苦労は決して無駄などではなく、氷砕きを初めて5分程もするや、それまで奇妙な駆動音を上げて止まっていた探照灯が旋回をし始めたのだった。


『う!? おお、やった! 今度こそ動いたぁ・・・!』


 ゆっくりとだが動き出した探照灯をしかめた表情で認め、直径90センチの光線が右方向に闇夜を薙いで行く光景に、嬉々とした声を上げる。

 同時にそんな明石のいる探照灯台の下でもまた、光線が旋回していく様子を確認した2名の兵員が、明石と同じような声を漏らしていた。



『ああ! 動きましたよ、探照灯! ほらあ!』

『おお! ・・・そうか! きっと探照灯が基部の氷で止まってたんだ! たぶん探照灯の旋回力で氷を捻じ切ったんだ!』

『落ちてきた氷はそれですか・・・! あ、取りあえず砲術長に報告してきます!』

『うん、よし行こう!』


 決して探照灯の動作が回復した原因を見た訳ではないが、停止していた探照灯が再び動き出した事だけは、見上げた艦上の光線によって察する事ができる。すぐに二人は艦橋へと戻っていき、探照灯が再び動いた事を上官へと報告。次いで探照灯の管制器にてもようやく探照灯本体が追随し始めた事を確認し、救助艇へ帰る方位を知らせる光の命綱が、文字通り明石による人知れずの頑張りによって機能し始めたのだった。







 そして一時間後、明石艦から照射された探照灯の明かりに導かれ、決死隊となって波間を駆けていた救助艇は、明石艦からも視認できるくらいの距離まで接近する事に成功。見張り員からの報告を受けた伊藤特務艦長らも甲板へと飛び出し、まだ救助艇が乾舷から100メートル程も離れているにも関わらず、端艇揚収の陣頭指揮を執り始めた。


『右舷の一番カッターの所まで誘導しろ! 縄梯子と舷側の1トンダビッドも使うんだ!』

『おい、担架も用意しておけ! カッターごと引き上げるのはこの天候じゃ無理だ! 先に人員を上げるぞ! 急げー!』


 間違いなく今日一番の喧騒が明石艦甲板上に渦を巻き、作業の為にと甲板上のあちこちに設けられる照明器具が、それまで真っ暗であった上甲板を照らし出していく。吹雪と荒波による天候は未だ衰えていないが、待ちに待った救助艇の到着は乗組員達の活気を漲らせるのには十分である。

 見ればヨタヨタと櫂を操って近づいてくる救助艇は、出発時には明石艦右舷から真横に離れていったのが、今は明石艦艦尾方向から接近してくる有様。指揮官たる野津(のづ)航海士も航路計算を必死に頑張って行ったのだが、相当に潮と風で流されいた事は明白であり、探照灯による方位誘導の効果があったればこその帰還であった。


 やがて救助艇は明石艦右舷、艦橋付近の乾舷真下へと横付けし、舷側の手すりより身を乗り出した航海長との間での応答が行われる。



『航海士ー! よくやったぞ! そっちは大丈夫かー!? 』

『ハア、ハア・・・! なんとか! 内火艇は全員救助しました! ただちょっと体調が崩してる奴が・・・!』


 強風、波浪、豪雪の下での指揮は、若手の士官である野津航海士にあっては相当に堪えたのか、航海長に返す彼の声は疲労の色合いがとても濃い。

 その最中、探照灯台よりマストのステップをビクビクしながら降りてきた明石も、周りに居る多くの乗組員と一緒に見下ろしてその様子を目にする。冷たい海水を頭から被って体温を失い、長時間の櫂漕で体力を消耗した救助艇の者達は、顔面蒼白にして口から漏らす白い息も見るからに弱々しかった。

 その上で体調不良者が出たとのやりとりに伴って、一番最初に明石艦甲板上にデリックで吊り上げられた人員の顔に、他の乗組員と同様に明石は仰天してしまう。なぜならその人物は、明石艦で最も元気にしてやんちゃな乗組員と、艦内の誰もが認めていた男だったからだ。


『うあ! こらたまげた、森二水だぞ!』

『おあ、マサー! だ、大丈夫か!?』

『おい、さっさと毛布持って来い! 現場で海に落ちらしい! 身体暖めながら早く治療所につれてけ!』


『わ、わ・・・! マ、マサ君〜・・・!』


 なんとデリックに吊るされた担架で甲板上に運ばれてきたのは、明石もよく知るマサ。未だ続いている航海長と航海士によるやりとりによれば、救助作業中に海中に落ちて溺れる寸前だったらしく、大量に海水を飲んだ上に身体が凍えて意識が朦朧としている状態なのだと言う。常日頃は銀バイの常習犯として甲板上を逃げ回るその姿が印象強い彼だが、今この瞬間はまさに担ぎ込まれる形で甲板上を運ばれていき、喧嘩を日常茶飯事とする元気な所は何処にも見る事ができない。

 明石もその姿にいても立ってもいられず、担架に乗せられて運ばれていくマサの傍まで走り寄って、返されないと解ってはいながらも声を掛ける。


『マサ君・・・! マサ君・・・!』

『うぅう・・・。うう・・・。』


 呻き声を漏らして苦痛に歪んだ表情を浮かべているマサ。

 目の前を通り過ぎていく間際に見たその顔が実の兄弟という事もあって、明石の中ではどうしてもかつての相方の物と重なってしまう。聞けば呉鎮守府籍の水兵さんでは珍しい北国出身者であった手前、救助現場で他の追随を許さぬほどに奮闘した末の海中転落となり、無事に引き上げて貰えども低体温症の症状が見て取れるその容態は、詳しく診断しないと断言できないが決して楽観できる物ではない。それは曲がりなりにも軍医さんとしてお勉強に励んでいる明石だからこそ、すぐに解った。


 そしてマサに続き、明石の眼前を救助艇から引き上げられてきた者達が列となって運ばれていくが、地獄の如き海で波を被りながら奮闘した代償は彼以外にもやはり現れていた。

 自分の足のみで甲板を歩ける人員はほぼ皆無の状態で、高熱を出して足取りがおぼつかない下士官も居れば、マサと同じく櫂を操っていた人員の中には手の一部の皮が破けてしまっている者もおり、果ては救助の指揮に終始当たり、指揮官の対面を重んじて一番最後に救助艇より引き上げられた野津航海士にあっても、出発時の元気な様子は失われていた。


『こ、航海長・・・。と、特務艦長・・・。人員のみの救助、です・・・。う、内火艇は投錨した後、放棄しま、た・・・。ううぅ・・・!!』

『おお! 航海士!! しっかりしろ!』

『野津!? うあ、すごい熱だ・・・! おい、野津も一緒に治療所だ! 早くしろ!』


 甲板に上がるやすぐに上司へと報告をしようとした刹那、若い心に鞭打ってこれまで指揮を執ってきた疲れが津波の様に押し寄せ、野津航海士は甲板上に膝から崩れ落ちた。伊藤特務艦長と航海長は大慌てで彼を抱き起こし、担架を催促して他の者達と一緒に治療所へと運ぶよう指示するのだった。




 おかげで甲板上は一時、傷病者がそこかしこに点在する様相となり、明石の目にはまさに戦場の光景として焼きつく。例え実弾の飛び交わない人命救助の場と言えども、生死という命の究極的な分かれ道がすぐそこにある状態だった。むしろ艦魂社会での軍医さんという立場を頂く明石にとっては、眼前の光景がより戦場としての現実性を増した物であるような感覚さえ覚える。


 命を救うには、命を掛けて戦わねばならない。


 やや呆然としながら甲板上で立ち尽くし、ふと胸の内に湧いたそんな言葉を明石は意識の中で呟くが、その刹那、彼女はずっと以前に尊敬する師匠より掛けて貰った、とある言葉を思い出した。



『艦魂も人間も無く、生きるという事はこの世との戦いなの。私たちは生きる為に人と戦い、海と戦い、時代と戦い、この世という存在から生きる為の糧を奪うしかない。それはふいに水面に浮いている事も無ければ、気まぐれに空から降ってくる事だって無い。戦いに勝って奪う以外、方法は無いのよ。』



 もう既に1年近くも昔。朝日の教えを受けるようになった頃に、お師匠様手製の赤十字の腕章と供に貰った一つの考え方。たおやかで麗しく、非常に高貴な朝日(あさひ)の人柄から見れば、ちょっと肌に合わなそうな戦に絡めたその台詞だが、今しがたまで目にしていた乗組員の男達と、明石自身による本日の奮闘を端的に表しているかの様であった。


 マサや野津航海士を始めとして、壮絶な悪天候下にて荒波を突破してみせた救助艇。

 行動と連絡が不能な中でも、助けが来るまでなんとか耐え忍んだ内火艇の乗員。

 波に足を捕られながらも、明石艦最上甲板での作業に懸命になった乗組員。

 部下の命まで含んだ全ての判断を極限の状態で的確に行った、伊藤特務艦長ら幹部の人々。


 そして大の苦手である寒空の中、鼻水すらも凍る極寒に挫けそうになりながらも、見張りと探照灯の砕氷に自らの手で当たった明石。


 自分も含めてこれらは全て、ただ事の成り行きを座して見守り、偶然に転がり込んだ幸運の上で成り立った姿などではない。明石も全ての乗組員達も皆、各々が各々の戦線で全力で戦ったのである。

 甲板上で明石が見る光景は、搬送されていくマサも含めてその戦跡であり、同時にまごう事無き本日の明石艦の一戦に対する勝敗判定でもあった。無論、人的損害を出さぬように皆が頑張った末に、死者や行方不明者をついに一人も出さなかった本日の一戦は、誰がなんと言おうと明石の、否、明石艦の勝利であった。






 その翌朝。

 強風がようやく無くなった小松島沖合いは、銀色の空より雪が静かに舞い降りるだけのなんとも静かな天気となっていた。おかげで色彩の貧相なモノトーンの海は相変わらずであったが、波は極めて静かで明石艦の動揺も殆ど無い。

 そして明石艦を含め、辺りは非常に静かであった。


 なにせ昨夜の大騒ぎは深夜まで続き、救助艇の引き上げやら救助者の看病やらで艦内はどこもかしこも大忙しだった。特に治療所では軍医長自らも診断に当たり、その合間にすっかりずぶ濡れになった服を取り替えたり、食欲がある者には食事を運んだり、動けない傷病者を特設の寝台へと運んだりと、やる事が非常に多い。その上で伊藤特務艦長らは本日の一件を事後経過も含めて統括せねばならないので、救助が終わったからと言って寝る事ができたのは艦内では誰一人としていなかった。

 故に本日の明石艦は朝から当直士官を立てて、配置に就いている乗組みの兵員も普段から見ると数がとても少ない。もちろん大半は遅くなった睡眠の真っ最中である。


 しかしこれでも幸いな事に、昨夜の内に担ぎ込まれた救助艇の乗員達には、その容態が全て軽度の低体温症であるとの診断が下されており、艦を降りて陸地に有る海軍病院へと搬送する必要を有する者は誰も居なかった。一番最初に担ぎ込まれたマサや、特務艦長らの眼前で倒れた野津航海士を含め、とりあえずはしばらく安静にしてれば回復するという事である。


 不幸中の幸いであったが、しかしそんな容態となったのは何も人間だけではなかった。


『う〜〜ん・・・、う〜ん・・・。く、苦しい〜・・・。』


 明石艦艦内の一角にある部屋より漏れてくるその声は、高熱に悩まされて布団に包まった明石の物。鼻や頬が真っ赤に染まり、虚ろな目で天井へと視界を投げる彼女は、どうやら昨夜の極寒での奮闘で身体の調子を崩したらしい。その口からマストのように生やした体温計は、赤い線が40の目盛りの所まで来ている。


『う〜ん・・・。さ、寒いのは嫌だぁ〜・・・。』


 蒼白となった顔で悶える中、寝言の様にして呻き声を上げる明石。昨夜の頑張りの代償が自分にも適用されたようで、人間と違って丈夫な筈の艦魂の身体が今日は完全に言う事を聞かない。厠に行くのすらも、夢遊病者が徘徊するような歩き方での移動となっていた。


 名誉の戦傷。


 昨夜の明石艦の一戦を勘定するとそう言えるのかも知れないが、如何せん高熱と倦怠感で苦しめられる中での彼女の意識は、そんな言葉を過ぎらせた所で気分を高揚させてなぞくれない。

 明石は一日中そんな状態で布団に横になるしかなく、命を掛けた一戦とは如何に壮絶である物かを身をもって知った。


 さすがにあの日露戦役を、主力艦として戦い抜いたお師匠様の言葉。朝日が言わんとしていた戦とは、実に壮絶にして容赦の無く、そしてまた例え勝利を収めても辛い物であった。


 こうして小松島の一角で生起した明石艦の一戦は、乗組員の人間達にあっても艦魂にあっても、多くの教訓と貴重な経験、そして大きな爪痕を残して終わったのだった。

 生きるという戦は実に厳しい戦いであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ