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第一一五話 「明石艦乗組員の一戦/其の三」

 またまた長くなりましたので4部編成になります。

 どうも纏まらないです(;´Д`A ```

 雪を四方に抱えた窓が周囲を囲む、明石(あかし)艦羅針艦橋。

 帝国海軍艦艇としては比較的近代的な箱型の艦橋構造物を持つ明石艦にあって、その羅針艦橋は艦の指揮を執る為の機能と余裕が十分に確保されている。一昔前までは巡洋艦であっても野晒しの露天甲板が標準的だった上、近代化改装で艦橋がぶくぶく太って行く傾向も強い昨今、明石艦の羅針艦橋は羅針儀や海図台といった設備の周りが広々としており、伊藤特務艦長を始めとする艦橋配置の人員にとっては、閉鎖された鉄の塊の中に居る事で得る圧迫感という物が無い。

 それに明石艦は、例え海軍艦艇としては第一線で活躍しない特務艦艇であろうとも、まごう事無き帝国海軍最新鋭艦艇である。これまでの特務艦では装備されていなかった転輪羅針儀(ジャイロコンパス)だって竣工時より設置されているし、艦内通話における艤装なんかでも伝声管より電話の方が設置数は多い。


 そんな最新設備に囲まれて励める明石艦艦橋配置の乗組員は、10数年落ちの旧式艦艇が大半でもある帝国海軍の中にあっては、割と職場環境には恵まれていると言えなくも無い。




 もっとも朝から続く猛吹雪と大時化の海、そして夕方過ぎの時間帯に発生した所属内火艇の遭難事件に対処中の今は、さしもに羅針艦橋内で新品ピカピカの設備に見惚れている者なぞ誰一人いない。


 明石艦最高責任者たる伊藤(いとう)特務艦長も同じで、彼は各々の配下部署に指示を出している各科の科長達を背に、遭難した内火艇を救助すべく明石艦を離れていった救助艇の事を考えていた。

 野津(のづ)航海士を指揮官に特別救助短艇員を主力として編成された彼等は、伊藤特務艦長自ら命令を下し、決死隊と銘打って送り出した精鋭部隊、と言えば聞こえは良い。だが生身の人間である事に変わりは無く、しかもまた立派な中型艦艇である明石艦すらも身動きできない程のこの大荒れの海面を、あろう事か手漕ぎの短艇で突破するというのだから、伊藤特務艦長でなくともそこに生まれる憂いは決して規模の小さな物ではない。

 せめてまだ艦に残っている物の内、ちゃんと内燃機関を搭載した他の装載艇を救助艇として出してやりたいのが彼としても本当の所であったが、色々な事情があってそれは残念ながら適わなかった。




 内火艇は遭難した工作部用の他にも、同じ全長11メートルの物が工作部以外の部署用として装備されているのだが、元来、近代帝国海軍の内火艇とはそれなりの身分を持つ士官や将官の移動を主として使用される物で、物にもよるが立派な乗員用の収容区画や真鍮製の煙突を持っていたりするのは、その乗員も含んだ格式という物を誇示する為に作られているからだ。これは勿論、自国外の海域で外国の船舶へと訪問する事も多い海軍の事情も深く関係しているのだが、とかく小さな船体に立派な見てくれを整えたその構造は、積荷を運ぶというそもそものお船の機能性に余り融通の幅を持たせてくれていない。

 すなわち内火艇は収容できる人員数が少なめな船舶であり、多くの救助に当たる兵員を乗せて、その上でさらに救助者も乗せるだけの収容能力が無い事から、本日の救助隊の乗組む艇としては見送られたのである。


 他に明石艦に装備されている装載艇では、櫂ではなく櫓で進む通船と呼ばれる船舶が有り、こちらは物資や人員の搬送により重きをおいた船舶である。駆逐艦以上の大きさになる艦艇には大体装備されている船舶で、明石艦にあってはこの通船が全長6メートルの物が艦用で1隻、12メートルの物が工作部用に1隻搭載されていた。

 ただ櫓は櫂での操船に比べて高い技量が必要とされる上、軍港内での交通船の曳き波程度でもその取り扱いが不安定になりやすい側面があり、本日のような猛吹雪と大時化の海では到底実施できる物ではない。故にこれも却下である。


 次いで装載艇の中には、内火艇のように内燃機関を搭載しつつ、それでいて通船の如く物資、及び人員運送用に特化した構造を持つ船舶が有り、ちょうど内火艇の足と通船の積載能力を両立したような代物と言える。内火ランチと呼ばれるこの装載艇は、積荷を運ぶ為に舳先から船尾までの間に相当のスペースを持っており、精々操縦席が船尾の端っこにポツンと置かれているだけである。

 特に工作艦たる明石艦では資材の搬入出でこの種の装載艇が多く使用される事から、就役時よりこれらは同じくらいの大きさの海軍艦艇に比べても多めに装備されており、全長12メートルの物が艦用に1隻、工作部用に2隻。更には極めて特殊な例として、明石艦には内火艇や内火ランチよりも一回り以上大型で、30トンの資材の積載が可能な運貨船という船舶まで、一隻だけではあるが装備されていた。

 しかし残念ながら、これら人員運送に最も適した内燃機関搭載の装載艇もまた、本日の救助隊乗組みに適さないと判断されている。なぜなら運送用に特化した船舶は、その船体形状が自然と横幅の広い物になる傾向があり、操船の容易さや大きな波浪なんかへの耐性が極めて低い値となっているからだった。




 明石艦始まって以来の危急の事態に際し、伊藤特務艦長が思い出しているそんな救助艇決定の裏側は、帝国海軍という組織の運用にあっては極めて小さな事案かもしれない。しかしそこに帝国海軍軍人としての己が責務と部下の命が掛かっている以上、思慮に思慮を重ね、十分な計算の下に打ち出した理論的な妥当性がちゃんと積み上げられている。もちろんこの大荒れ模様の天気の中、大事な大事な部下にして、将来有る若人達に決死隊の如き体裁の命令を出し、手漕ぎのカッターで捜索と救助に向かわせる事に不安が全く無い訳ではないが、彼としても大いに熟慮した上で最も見込みがあるのだと結論付けたのが、カッターを救助艇として派遣する事だった。


 頼むぞ・・・。なんとか頼むぞ・・・。


 厳しい表情で羅針艦橋より艦外の光景を眺める伊藤特務艦長の脳裏に、何度目になるかもう解らないそんな言葉が過ぎる。明石艦の最高責任者たる立場ではおくびにも出せないし、指揮官としての体面上は部下に絶対見せていけないと解っていながらも、既に彼には祈るより他に事の成り行きを変化させる方法は無かった。


 だが、そんな伊藤特務艦長の積もりに積もった心配と憂いを一挙に拭い去る事態が、ここに至ってようやく訪れる事になる。


『うん・・・、ぅん!? なに、それは本当か!? 間違い無いか!?』


 それは時間にして、既に救助艇が明石艦を出発してから1時間近くも経過した頃。科長格のお偉方による指示の声が未だ止まぬ羅針艦橋に、艦内電話の受話器を手にした通信長の声が響いた。何やら裏返った声色を途中で漏らし、受話器に向かって何度も確認を取るその様子は、最初の内はその場に居る他の者達による喧騒に埋もれていたものの、途中で通信長が一旦受話器を耳から放して『おい!』と声を上げて注意を引いた事により、艦橋内の視線と意識を瞬時に釘付けにする。伊藤特務艦長も眼前の艦首が望める窓から視線を逸らし、小走りで通信長の近くへと詰め寄る中、受話器を置かぬままに通信長は部下からの報告を声に変えた。


『電信室より! ウ連送受信!』

『よぉし!』


 通信長に続き、伊藤特務艦長が短く叫ぶ。その表情は救助の手応えを確信して力むのと同時に若干の安堵も見られ、彼の周囲に集まっていた羅針艦橋内に居た者達も同じ表情となっていた。もちろんその理由は、電信室より受けた受話器越しの報告を耳にし、即座に放った通信長の言葉以外には無い。


 「ウ連送」


 これは無線電信にて用いる多くの符号の中で、「ウ」の符号のみを連続で発信する事である。

 もっとも電報がそうであるように、単一の符号のみでは文章を形成できる訳は無いのだが、無線電信の中には緊急時においては単一の符号、または複数の符号の組み合わせを何度も発信する事で一定の意味を指す信号とする場合があり、特に遠距離で緊急事態に直面しやすい船舶の業界にあっては、50年以上も前から各種の信号は用いられている。

 明治45年に起きた人類史上最悪の海難事故、「タイタニック号遭難事件」にても有名である、「SOS」もまたその一つだ。

 

 ただ、「SOS」は万国共通で用いる遭難信号であるから、平時より極めて機密性の高い海軍という組織でこれをそのまま用いる事は出来ない。それに符号における和文、欧文の違い等も考慮し、帝国海軍では独自に各種信号を制定して用いている。

 そして帝国海軍で用いる連送系の信号は、大体は語句の頭文字を取って設定されている事から、伊藤特務艦長らは即座に「ウ」の符号が示す物が何であるかを察する事ができた。


『ウ連送・・・。』

『敵発見のテ連送は、テキのテ・・・、敵潜水艦発見のセ連送はセンスイカンのセ・・・。と、特務艦長! じゃ、きっとウは!?』

『ああ、ウチビテイのウ・・・! 救助艇の奴らやりやがった! 内火艇を発見したんだ!』







 その一方、明石艦に羅針艦橋に朗報をもたらした救助艇たる短艇では、未だ短艇員達が頭上より来る雪と波飛沫でずぶ濡れとなり、1月の寒さにかじかむ手に時折息を吹きかけたりしながらも、必死の形相で櫂を操る男達の姿がある。四方より襲い掛かる自然の魔の手は、時に突風という形に変化して頭上をかすめて行く事も多く、顎紐が外れた瞬間を見計らって何人かの水兵達の頭から軍帽を奪い去り、当人が慌てて手を伸ばすも虚しく海へと放り投げてしまう。

 国民の尊い血税によって賄われ、形式上でも恐れ多くも天皇陛下より頂いた被服をこんな形で失くしてしまうのは、末端の水兵さんであっても大変な失態であるが、危急の状況たる今の瞬間を諭し、ようやく捉えた目標に前進するように彼等の意識を操るのも、海軍軍人の中で指揮官という立場を頂く者の重要な役目。

 短艇の後端にて腰掛けに座りつつ指揮を執る若き指揮官、野津航海士はそれをよく実践していた。


『ああっ! ぐ、軍帽が・・・!』

『寺井二水! 構うな! 艦に戻ったら俺が特務艦長にちゃんと話してやる! 紛失で怒られたりなんかしないから、今は櫂漕(とうそう)に専念しろ!』


『あ、はい!』


 部下を励ましつつ野津航海士はその視線を、短艇の舳先の向こうから逸らさない。発見した時は頼りないぼんやりとしたあの灯りが、その方向にはあるからだ。次いで波の渓谷によって見え隠れしていたのも、だいぶ内火艇も前進できた事もあって、今や大荒れの海面上であっても見失う事は全く無い所まで来ている。横から流れる吹雪のカーテンこそ未だ健在であるが、彼等の短艇は着実に内火艇の物らしき灯りへと前進していた。


 するとやがて、短艇の舳先に陣取って櫂は漕がずにその他の作業に従事する役目の福山二水が、懸命に漕ぐ仲間達を幾列も挟んで反対側に位置する艇後端の野津航海士、そしてその隣に居る前島二曹へと何事か叫ぶ。


『指揮官! 艇長! 間違いないです! アレ、工作部の内火艇ですよ!』

『お! 見えたか!?』


 その声に思わず野津航海士と前島二曹が中腰で立ち上がり、櫂を操る10数名の水兵達も一斉に顔を舳先へと向けた。見ればなんと内火艇は距離にして前方約50メートルの距離に在り、艇のアチコチに多くの雪が付着しながらも特徴的なマストやヤードが、そこに掲げられた淡く黄色い灯りによってぼんやりとだが闇夜の海面に浮かび上がっている。

 内火艇の艇首に書かれた所属艦名までは見て取れないが、そもこの小松島(こまつじま)港においては彼等が乗組む艦以外に海軍艦艇は存在しない筈なので、やがてこもごもの視界に全体が見え始めてきた内火艇は、遭難中である明石艦工作部所属の艇である事は疑いようは無かった。




『おぉ・・・。あれか・・・!』


 思わずそう呟いたのは、短艇中央あたりで櫂を握りながらも、上半身を捻って艇の舳先へと視界を投げていたマサ。周りで同じく櫂を手にしている仲間に混じり、四肢のアチコチに溜まり始めた疲労感に緩く唇を噛んで見つめる先には、いつも明石艦の甲板上で見慣れた筈の内火艇がユラユラと波に揉まれていた。


『よし、とりあえず近づいてみよう! 艇長!』

『はい! 防舷物用意!』


 その刹那、マサ達の頭上には前島二曹より新たな号令の声が響く。その声にしばしぼーっとした感の視線を投げていた水兵達は我に返り、艇の舷側が何か硬い物に当たった際にその衝撃を吸収する防舷物の準備を始めた。


 その間、艇は残留する慣性と荒れ狂う波によって上手い具合に内火艇へと接近して行き、内火艇に最も近い艇首に居る福山二水が前島二曹よりの指示で爪竿を手にし始める。

 この爪竿とは櫂よりもやや長い木製の棒の片端に、真鍮で出来た鉤状の爪を複数取り付けた物で、装載艇が海上にて艦の周りを活動する際に使用する短艇用具である。艦や岸壁の至近距離で発着する際、短艇乗組みの人員が艦に押し当てて艦と短艇の距離を調整したり、海面上を浮遊するロープ類に爪を引っ掛けて拾い上げたりするのが用途だ。

 言うまでも無く、福山二水が爪竿を手にしたのもその用途の域を出ない。一向に回復の兆しが見えない大時化の海上であるから、内火艇も短艇もお互いに近づいた後、一定の距離を保って留まる事は不可能であり、下手をしたら波に流された拍子に不意の衝突を引き起こしかねない。衝突に備えての防舷物を準備し、それに続いて福山二水が爪竿を準備したのはこの為であった。


 やがて彼等の乗る短艇は、内火艇の侘しい灯りを見上げる事で目にできるくらいの距離まで接近。一向に足場が定まらない短艇上での視界では不明確だが、距離およそ5メートルといった所か。舳先にて福山二水が伸ばしている爪竿も、あともう少しで内火艇の舷側に接触できそうである。


『うし・・・! もうちょいだ・・・!』

『気をつけろ福山! 身体や腕を伸ばしきると波の衝撃で爪竿落とすぞ! 焦んなよ!』

『はいっ・・・!』


 よく見れば内火艇の舳先に近い乾舷には、ねずみ色の下地に白抜きの文字で「アカシ」と書かれており、操舵室の真上に複数の航海灯とセットになって設けられた艦名標にもまた、黒字に白抜きの「アカシ」の文字がある。眼前の内火艇は間違いなく遭難した明石艦の内火艇であった。

 それに伴いようやく救助対象を目前にした事により、短艇上には一挙に沈黙と緊張が張り詰める。せめてもの救いは、内火艇への接触を試みる福山二水に対して掛けられた、短艇後部に居る前島二曹の怒号の様な叫び声。出発時にいきなりそのお叱りを受ける事になったマサも含め、短艇上の者達は覇気も怖さも相変わらずのそのお声に、無意識の内に安堵する。狭い短艇上はまさに一歩踏み外せば、そこには大自然の脅威も猛々しい光景が広がっているというのに、前島二曹の強面より放たれる言葉は至っていつも通りだったからだ。


『・・・ふぅう・・・。』


 鼻っ柱の強いマサも、一時間以上に渡る極限の海での櫂操作に四肢は疲弊し、褌や靴下まで濡れたその衣服では頬を伝う汗や波飛沫を拭う事も出来ない。出発の際に見せた、吹雪という天候への慣れを誇張してみせた威勢の良さも、正直な所では衰えが見えてきている。だがそんな中での前島二曹の声に、彼は水兵として明石艦で生きる上でいつもそこに在った物の一つを垣間見る事ができ、意図せずに小さな安堵の溜め息を放ったのであった。

 そしてようやく福山二水の持つ爪竿が、まさに内火艇の舷側へと触れようとする時、いつの間にかマサの隣まで進み出ていた野津航海士が彼に話しかけてきた。


『よお、森二水! まだ元気はあるか!?』


 同じ櫂を手にした水兵達と供にずっと舳先ばかりを注視していたマサは、突如として耳元で起こる野津航海士の声に慌てて身を翻す。四つん這いの格好で略帽の顎紐を締めなおしつつ声を放った野津航海士の顔は、ちょうどマサと同じくらいの目線でそこに在った。だが指揮官として必死に対処しようと決心しながらも、これから行う救助作業に予想される多くの憂いを、まだまだマサと同じくらいの年頃のその顔つきに彼は隠し切れておらず、僅かに唇が震えているのをマサは声も無く察する。


 おっかねえんだな・・・、たぶん・・・。

 そうだよな・・・。


 自分自身もきっと心のどこかで抱えているであろう、そんな野津航海士の胸の内を垣間見た後、マサは辺りの波と風のもたらす轟音に負けぬ声で、再び持ち前の威勢の良い言葉を放ってみせる。すると野津航海士は小さく口元を緩め、すぐさま声を返してきた。


『はい! こんな海、津軽海峡じゃ毎度の事ですよ!』

『よし・・・! じゃ、この索を身体に巻き付けろ! 貴様、接舷したら内火艇に乗り移って、まず向こうの状況を探ってきてくれ! さっきから内火艇に人の影が見えないんだが、あのマストの灯りは備え付けの航海灯じゃない! よく見ろ! あれは誰かがマストに括り付けた懐中電灯だ!』

『お・・・!?』


 そう言って野津航海士が内火艇のマストの灯りを指差す。彼の言葉により今更ながら内火艇に人の影が見当たらない事に気づくと同時に、マサは野津航海士が指し示すマストに、確かに懐中電灯が荒い縛り方によって括り付けられている事を認める。


『機関故障だって話だから、たぶん艇の電気が生きてないんだろう。備え付けの尾灯や舷灯が点いてないのも、おそらくそのせいだ。』


 腰の辺りにロープを巻きつけつるマサの横で、野津航海士が呟いた。それはこれから救助せんとしている内火艇の状況を手短に述べた物で、夜間航行の規則にて決められている艇備え付けの光源類が機能していない事の真相である。

 もともと天候の程度に関係なく船舶が夜の航行にて点灯するのは、街灯や道標の無い海原で衝突等の事故を回避する観点から言えば至極当然の事で、言うまでも無く自己の存在を光によって遠くからでも視認して貰おうという狙いが有る。転じて海上で遭難という事態に陥ったならば、自己の位置を示すために進んで舷灯等を点灯するのが船乗りとしては当たり前の選択となる。

 それを考えた時、眼前の内火艇のマスト上に弱々しく光を灯す懐中電灯は、艇の発電が無い中でもなんとかそれを実施すべく、内火艇の乗員が生きる為に必死に行った努力の足跡にも等しい物であった。


『よ、しっ・・・! て、艇長! 指揮官! 爪竿が届きました!』


 その内に福山二水の声が木霊し、文字通りいよいよマサ達が乗る救助艇が内火艇を捉えた事を艇上の全員に知らせる。するとそれまで艇の後ろを定位置としてきた前島二曹、野津航海士が艇前方へと移動し、少し遅れてロープを結び終えたマサもそれに続く。

 その際、艇の中央を這う様にしながら艇首へと進んでいく中で、マサは両舷に並んで未だ櫂を手にしている仲間達の顔を横目で見ていくが、その顔は極寒と疲労に憔悴しかかっている物ばかりであった。特別救助短艇員として猛訓練に次ぐ猛訓練を重ね、明石艦艦内では最も壮健な身体を持つ筈なのに、言わば実戦に当たる本日の出動は皆相当に応えているらしい。

 ただそれでも彼らはやや虚ろにもなっている表情で、隣を這って進んでいくマサに声を掛けてくれる。彼自身の言葉通り、やはり現在の短艇上で一番元気そうな水兵は、誰の目から見ても北国出身者であるマサであり、それ故に命綱として胴回りにロープを括っての任務にこれから当たるという事を、皆知っているからだ。


『おい、森・・・。気をつけろよ・・・。』

『マサよぉ・・・。落ちても焦んじゃねーぜ・・・。索を伝ってくりゃ大丈夫だかんよ・・・。』

『お、おうよ! 任せとけい!』


 生来が鼻っ柱の強いマサは、いつもだったらこんな言葉を仲間に掛けられると悪態が滲んだ一言で返答する所であるが、極限の状況であった事が彼の意識を僅かに変えていた。まるで自分達が出来ない事を託すかのような声を四方より貰い、その芯のある想いに応えようという意識が不思議とマサの中では強くなっていく。だがしみじみとそんな気持ちの変化に思考を巡らせる猶予はもちろん無く、彼は短く叫ぶと福山二水と前島二曹、そして野津航海士が控えている艇首甲板へと向かう。

 次いで野津航海士から確認してくる事項を何点か聞かされた後、彼は内火艇と乗組む短艇が波によって近づいたり離れたりするタイミングを見極めようと目を凝らし始めた。飛び移る機会を窺っているのである。


『おい、森! 内火艇の上は雪があるから滑るぞ! それにカッターと内火艇がいつまでもくっ付いてる訳じゃない! 踏み出す時は気をつけろ!』

『はい! おし・・・、次の波でいきます!』

『よし! 落ちる事は気にせんで良い! 索がちゃんと巻かれてるからな! ・・・おい! テメーらも索と森から目を離すんじゃねーぞ! 解ったな!』


 冷や汗が首筋を伝い、生唾を飲み込んで内火艇が近寄ってくるのを待つマサの背後で、前島二曹が持ち前の援護射撃の如き声を上げる。頼れる上官と仲間を背にして一歩を踏み出す格好となり、マサは自分の肩にここまでやって来た短艇と、その乗組んだ者達の全てが掛かっているのだと感じつつ、荒い波に足場たる短艇が乗り上げた事を示す大きな動揺を覚える。すると短艇はマサが読んだとおり内火艇の方へとグンと押される様に近づき始め、咄嗟に伸ばした手が内火艇の冷たい船体へと触れた。


『しゃあ! 今だ!』


 そう叫ぶや否や、マサは短艇よりも僅かに高い位置にある内火艇の甲板へと這い上がる。グラグラと揺れる短艇の上では中腰でないと立てない事から、内火艇の甲板の高さはおよそ彼の胸の高さぐらいにもなるが、塀を乗り越えるように足を引っ掛けて一息に内火艇の甲板上に転がり込む。幸いにも滑る事が無く、それが転じて海中に落ちる事も無かったが、雪が幾分積もっている内火艇の甲板に身体を横転させた為、一際肌を突き刺す冷たさにマサは思わず顔をしかめた。

 しかし荒っぽい乗組みとなったものの、彼は怪我を負う事はしなかった。恐らくそれを短艇上でも確認していたのであろう。まだ身体を甲板上に横たえているマサに構わず、短艇上から野津航海士の声が聞こえてくる。


『よし! いいぞ、森二水! さっき言った通り、まずはカノピーを見て来い!』

『ずおっ!? は、はい! 索を伸ばしてください!』


 その声に急かされる様にマサは応じ、短艇より胴回りへと伸びているロープの締め具合を一度確認。これから内火艇に対して捜索の足を伸ばすに当たり、胴から短艇へと伸びるロープがある程度の緩さを得ている事を自分で確かめた後、彼は這い上がった内火艇中央の甲板にて、すぐ傍にあった操舵室を瞳に入れる。

 天井と四方を隔壁でしっかり囲みつつも大きな窓を前方左右に備えている操舵室は、文字通り内火艇の操縦を行う所で、人が一人入ればスペース的な余裕は皆無になるという狭い場所である。だがその大きな窓、そして狭い空間しか備えていない事が功を奏し、暗闇の中であってもマサの視界は操舵室の中が無人となっている事を瞬時に認める事が出来た。

 次いですぐさまマサは這うような格好のまま、今度は艇中央より艇後部へと視線を流す。そこには真上から見ると長方形の形を成し、天幕で覆われる形で人の腰の高さまで盛り上がった物体がある。その大きさは内火艇の後ろ半分を占める程もあるが、これは決して荷物などではない。もちろん2年近く明石艦にて勤務してきたマサはそれを知っており、野津航海士より指示された目的の場所だった事もあって、匍匐前進の要領で傍まで近寄っていく。

 つまりこれこそ野津航海士が口にしたカノピーであり、内火艇の上甲板をくり抜くようにして設けられた客室区画である。加えて炎天下や雨天の際には天幕を展開して屋根と隔壁とする為、マサの眼前にこんもりとそびえる天幕の丘陵は、内火艇の外観としては別段妙な光景という訳ではない。それに「内火艇用意」の号令で甲板上を駆け回り、明石艦の上甲板から海面へと降ろしていく作業を日常的に行うのは、当のマサも含めた水兵さん達が行うお仕事である。

 だからマサはカノピーを目にするや迷う事無く、操舵室背後にあるカノピーの入り口へと進み、閉じられている入り口の部分の天幕をめくり挙げた。


『おい! 誰か! 誰かいないか!』

『うお! だ、誰だ!? 重量物の均衡とる為に移動すんなって・・・! あれ・・・?』


 不意に内火艇側面より這い上がってきた波を頭上から被りつつ、天幕をめくり挙げて叫んだマサ。すると入り口より続く短いラッタルのすぐ傍で椅子に腰掛けていた下士官が、マサの方に目をやって何やら怒号を放ってくる。しかしすぐさまその下士官はマサの顔を見て表情より怒りの色を失い、入れ替わりに見開いた目で狐につままれた様な顔を作りながら、マサに声を返してきた。


『お、お前、第一分隊の森、か・・・!? な、なんでここに居んだ!?』


 どうやらこの下士官はマサの事を知っていると同時に、自分達が乗る内火艇に突如として彼が現れた事に驚いているらしい。次いで彼に続く形で照明の無い真っ暗なカノピーの奥より、供に乗組んでいたのであろう者達が顔を覗かせてくる。

 その表情はやはり海上での遭難による絶望、疲労、寒さに蝕まれる苦しみが皆一様に浮かべられており、ここまで大時化の大海原を進んできたマサ達、すなわち救助艇の者達よりも一層色濃い具合となっていた。故に彼等をその呪縛より解き放つべく、すぐにマサは返答してやった。


『オレ達は救助隊です! 艦から出動して今来ました!』

『な、なに!? きゅ、救助隊・・・!?』

『ほ、ほんとかよ!? 救助艇は!?』

『はい、すぐそこに!』


 どれほど待ち望んでいたであろう、「救助」の言葉。それはマサの瞳に映るカノピー内の男達の顔色を、瞬時の内に一変させていく。第一報を指揮官に報告すべく入り口から一旦離れるマサに続き、カノピーからさっきの下士官の他、2名ほどの男達が甲板上へと這い出してくる。そして相も変わらず暗闇と吹雪、強風と波浪が混在する地獄の如き海面上のすぐ近くに、マサの言葉を受けて力強い声を返してくる仲間達の姿を見るのであった。


『指揮官ー! 居ましたー! カノピー内に数名!』

『よし! よくやったぞ、森二水! 次は先任の人を探せ! 艇指揮官(チャージ)はいないか!?』


『おお! こ、航海士!』

『本当に救助隊だ・・・! お、おい、金石!』




 既に時間は救助隊が明石艦を出発してから2時間を越えた頃だが、ようやく遭難した内火艇に辿り着き、なおかつその乗組員と連絡をつけれた事は、本日の荒波と寒さが身に染みているその場に居る者達に、幾分の落ち着きと安堵を与えてくれる。

 それに伴い引き続いて内火艇の状況を、マサと内火艇乗組みの工作部所属の者達が野津航海士に報告するが、その中でだいぶ遭難の状況が明確になって来た。


 野津航海士らが明石艦羅針艦橋で耳にしていた通り、内火艇は小松島飛行場近くの桟橋を離れてしばらくした頃、突然機関が何故か停まってしまったらしく、やはりその時に艇内の発電も止まって電力が回復しなかったらしい。備え付けの軽便無線機は電池によって使用できていたが、運が悪い事にこれもまたしばらく打電を行った頃に電力を失ったとの事である。

 次いで推力を失った事で内火艇は本日の大波による動揺をまともに受けてしまい、艇指揮に当たっていた向井機関兵曹長が操舵室の隔壁に顔面を酷く打ちつけたのを筆頭に、乗組みの者達の何名かが打撲などの怪我を負う事態となってしまっていた。


『も、申し訳ありません・・・。こ、航海士・・・。』

『おお、向井機曹長。いいぞ、無理に話すな。もう大丈夫だ。』


 そんなやり取りが行われているのは、救助隊が乗る短艇の上。カノピーより担がれて出てきた後、最初に横付けした短艇へと数人がかりで移した向井機曹長と、野津航海士の間に交わされた応答であった。包帯も無い中であらわとなっている向井機曹長の顔は、右目が青く腫れあがった瞼によって完全に潰されており、打ちつけた際の原因である波の激しさと、それによる内火艇の動揺具合を如実に物語っている。

 また、カノピーとは操舵室を挟んで反対側に位置する内火艇前方の甲板より、ハッチを開けて出てきた兵下士官の乗員達もまた、向井機曹長程では無いにしろ軽度の打撲や切り傷を負っていた。


 艇後部のカノピーと同じく乗員を収容する区画が実はここにも有って、カノピーは主に士官や准士官といった階級の高い者用。対して艇前部の船倉に等しい区画は、兵下士官といった階級の低い者達が主に乗組む部分である。


 向井機曹長によると内火艇が完全に往き足を止めてしまった後、幾度も大波を被る事によって艇が転覆しそうになる事が何度かあった為に、艇の重量バランスを崩さぬようにカノピー部との行き来をしない様にしていたらしい。


『おーい! 寺井! 一人降ろすぞ! 腕が痛いつってるから、気をつけろよ!』

『おう! ・・・よし! いいぞ、森!』


 未だ内火艇上で腰縄姿で声を張り上げるマサに短艇上の仲間が応え、肩を貸すようにして降ろすのは、そんな内火艇前部に居た水兵、及び軍属の工員達である。工作部よりの出張者という事で内火艇の乗組員は全て機関科、もしくは工作部所属の者ばかりで、艦自体の運用に関わるマサ達とは普段からあまり面識の無い者達ばかりだが、同じ明石艦の軍艦旗の下で日々を過ごす仲間に変わりは無い。マサも含めた救助隊の水兵達は、救助者を乗せて短艇の重量バランスが随分と変化している事に細心の注意をしつつも、内火艇から続々と降りてくる救助者に肩を貸して短艇へと導いていった。

 その一方、そんな救助者と入れ替わりに内火艇へと這い上がっていった一人の機関兵が、救助者もおおよそ短艇へと移乗し終えていた内火艇の甲板へと姿を現す。彼はマサ達と供に、救助隊の一人として短艇に乗ってここまで来た者達の中の一人で、現場にて内火艇の故障した機関を修繕する事を目的に、特別救助短艇員とは別の枠で救助隊に加えられていた男である。

 まだまだ大揺れ状態である内火艇の甲板上でおぼつかない足元に苦戦しながら、その機関兵はマサの横まで来ると短艇上の野津航海士に向かって言った。


『くぉ、お・・・! し、指揮官! 機関の修理は手持ちの工具だと無理です! 艦まで戻らないと! そ、それに燃料に海水が結構かかってます! これも艦に戻って交換しないと使えません!』

『よし、解った! 予想はしてたが仕方が無い! 森二水と一緒に戻れ! この状態じゃ内火艇の曳航も無理だから、カッターだけで戻る!』

『わ、解りましたっ・・・!』


 機関兵は普段から配備が艦内奥深くであるからか、荒波激しい荒天下の甲板にて長時間行動するのに慣れていないらしく、常に甲板上の何かに捕まって焦りの色合いも甚だしい表情を浮かべている。もちろんその隣に居るマサだって怖いのは同じだが、明石艦乾舷に隣接する機銃座を配置とする彼は波に対しての恐怖はそれ程無く、北国の豪雪地帯にて生まれた事から吹雪に対して臆する事も無い上、寒さにも常人よりは遥かに強い。だからマサはやや震える声で吐息を漏らしている機関兵に声をかけ、自身に先んじてその止まった足を短艇まで進める事を促した。


『佐藤! そら、行け! 一緒に行くと索が絡まるからな! 早く行け!』

『わ、解りましたぁ・・・! う、うお・・・!』


 一向に安定しない足場に四苦八苦する中、マサの声を受けた機関兵は声を上げると、内火艇の甲板から僅かに下方にある短艇の上へと思い切って飛び降りる。だが臆した心と疲労に蝕まれる身体が災いしたか、彼の脚は短艇へと着く際に上手く力が入らず、すぐ傍にいた仲間の方へと崩れるようにして倒れてしまう。


『うお! 佐藤二機水! 大丈夫か!?』

『お、おい! 佐藤!』

『い、いって・・・! す、すいません! 大丈夫です!』


 短艇へ着地した時に放たれた音もあってか、機関兵が倒れた音は酷く鈍い感じが滲んだ物で、短艇上の者達は驚いて彼の周囲に駆け寄っていく。幸いにも怪我は無いようで一安心し、それを内火艇上に最後まで残っていたマサも確認。早々に内火艇を去って帰途へと着きたい心理も手伝い、一度手に息を吹きかけて暖を取ると彼もまた内火艇の甲板を蹴って跳び下りた。


『ぬお! ・・・あ!?』


 しかしその刹那、マサの足が甲板から離れた直後に、あろう事か彼の足は何かに掴まれる感覚を覚える。同時に甲板を蹴って生んだ身体を宙に浮かべる力が突然に失われ、マサの身体はつんのめった様に前へと倒れ始めた。



 な、なんだ!?



 瞬時に脳裏でそう叫んだマサ。

 前のめりに倒れていく事で見えた彼の視界に、命綱とする腰から伸びたロープがなんと右足の足首に絡まっているのが見えた。


 そしてその事に気づいたのと同時に、マサの身体は内火艇と短艇の間に生じていた僅かな隙間を通り抜け、漆黒と極寒のみで充満する海中へと投じられるのだった。


『ああっ! 森が落ちたー!!』

『な、なにい!?』

『も、森二水ー!』

『うあ・・・! ま、マサー・・・!』


 豪風、吹雪、暗闇、強烈な波浪、低い気温。それらが寄り集まって出来た大自然という名の悪魔の口が、短艇と内火艇の間にある海面上に小さな水柱となって姿を現す。さながら波に飲み込まれた音はその息遣いか、間近で見ていた男達の耳に不気味に響いた。

 それに続いて盛り上がった黒い水飛沫が飛び散り、再びそこいら中に在る鋭利な波の壁と区別がつかなくなった海面には、マサが被っていた水兵の軍帽と供にそこに巻かれていたペンネントが、「大日本特務艦明石」の金色の文字を僅かに輝かせて浮かんでいるばかりだった。

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