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第一一四話 「明石艦乗組員の一戦/其の二」

 二部編成の予定でしたが、また長くなってしまいましたので三部編成と致します。

 夕闇と横殴りの降雪が空から群がり、波間からは鋭い角度で跳ね上がってきた荒い波が明石(あかし)艦の甲板へと這い上がってくる。多くの海軍艦艇の中にあって明石艦は割と乾舷が高めの艦であるが、周囲に広がる荒れ狂う小松島の海はそんな明石艦の最上甲板に至るまで手を伸ばし、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっている甲板上の乗組員達の足に、時折まるで意思を持っているかの如く纏わり付いてくる。

 加えて大荒れの天候は艦の動揺の具合に拍車を掛け、艦首の主錨と艦尾の小錨を両方降ろした双錨泊という停泊態勢となっているにも関わらず、明石艦を左右にグラグラと揺さぶっていた。


 おかげさまで明石艦の最上甲板は非常に足場が不安定な事この上無く、甲板上で作業に励んでいる若い下っ端の水兵さんの中には、足をとられて派手に転倒する者も既に何名か出ている。

 そして甲板上で転んだ際、まかり間違って甲板より海面へと戻っていく引き波に捕まったりでもしたら一巻の終わりだ。そのまま舷側へと引き摺られた後、1万トン以上の鉄の塊である明石艦すらも揺さぶる波に、生身で飲み込まれてしまう事になるのだ。




 いつも体操の後、『回れー!』の掛け声で急かされてはヒイコラ言いながら磨く、朝の最上甲板。昼には各種訓練に作業、教育なんかでも使われ、夜にはその一角で「整列」というシゴキの光景が繰り広げられるその場所は、明石艦乗組員達にとっては良くも悪くも最も過ごした時間が長い場所でもある。

 だがそんな最上甲板がこの時、まさに一寸先が死の淵となる修羅場へと早変わりしているのであった。




 明石艦としてもこの海の中では、下手に流されて岸に近づいたり等の不慮の事故に気を使わねばならないのだが、本日只今の状況はこれに加えて、明石艦装備の内火艇がその乗員もろとも海の向こうにて遭難しかかっているという事態も発生している。その対策の為に明石艦乗組員達は艦内を右へ左へと走り回り、艦の命である明石も根性のみで寒さに抗いながら、文字通り人知れず羅針艦橋天蓋にて周囲の荒れ狂う波間を見張っている。


 同時にそんな明石の足元にある羅針艦橋内では、伊藤特務艦長らを始めとしたお偉方が再び参集。これより始める内火艇の捜索、次いで救助の為の作戦を話し合っており、羅針艦橋入り口の辺りにて待機している十数名の水兵さん達も、その様子を固唾を呑んで見守っていた。

 総員が配置に就いた状態である「艦内哨戒第一配備」が発令されている中、このように持ち場を離れた水兵さん達が存在する事は、本来ならば命令無視として厳罰に処される状況である。

 だが彼らは明石艦艦内にて、とある特務の為に以前より選抜されていた特別な人員。加えて特務艦長直々の指示を貰ってその場に集まっている事もあり、羅針艦橋内のお偉方や艦橋勤務の人員より、彼らに対してお叱りの言葉が飛ぶような事は無い。


 彼等こそ、昨年にようやく編成された艦固有の特別救助短艇員(ボートクルー)。いつか発生するであろうと予測される艦外での救助活動に従事する専門の兵員達で、達人と称される程の水泳の腕前を持った者ばかりを集めて構成されている精鋭である。

 普通の水兵さん達と違って定期的に早起きをした後、カッター操法の猛訓練を課され、艦隊や戦隊といった部隊内で定期的に催される短艇競技会に出場するのも、実は全て彼等のような艦固有の特別救助短艇員の者達だ。


 そしてそんな鍛え抜かれた逞しい身体と精悍な顔ぶれの中に、今は横須賀の地で奮闘している(ただし)と顔立ちの似た、マサこと森正志(もり まさし)二水が混じっていた。


『おい、どうだ? なんつってんだ?』

『いや、まだ話し始めたばっかだよ、森。だけど、なんかオレ達だけで行くようじゃないみたいだぜ。』


 明石艦の水兵さんの一人にして、特別救助短艇員の一人でもあるマサ。

 近くにいた仲間とそんな声を交え、年中甲板でコキ使われる事で得たその陽に焼けた顔を羅針艦橋の中へと向けてみる。度重なる喧嘩の勲章として片側の目尻に作った薄い傷跡を擦りつつ、マサが人混みの隙間より覗かせた視界には、先程より若干名多くなったお偉方の話し合う姿がある。次いでその中に伊藤特務艦長や西田工作部長らに比べてずっと若い顔立ちの士官が一名混じっている事に彼は気づき、同時に羅針艦橋内より聞こえてくるお偉方の声に耳を澄ましてみた。


『機関科と通信科からも人員を出す。一人は電池で動かす軽便無線電信機の取り扱い、もう一人は内火艇を見つけた時の機関確認と修繕要員だ。いいな、航海士。』

『この海だ。ボートクルーの連中でも気を抜いたらひとたまりも無い。十分に気をつけて指揮を取ってくれよ。それと使える信号は手旗でも火箭(かせん)でも、なんでも良いからとにかく使え。』

『はい!』


 上司たる伊藤特務艦長や航海長よりの指示に対し、鬼気迫るような表情で大きな返事を返しているのは、航海科所属にして航海長の補佐をお仕事としている野津(のづ)航海士。以前の忠と同じく少尉に任官して早々の若手士官で、22歳になったばかりのマサともそれ程年齢は変わらない人物である。

 だが、明石艦就役以来の緊急事態に直面してその闘志に火が着いた様で、救出の為に出す装載艇の指揮官をどうするかとお偉方が話題に出した刹那、ちょうど艦橋内に居た彼はこの危険な指揮官の懸案に対して自ら志願していた。

 本当ならその任は航海長が自ら行いたいと言い出していたのだが、大荒れの天候で動揺の激しい明石艦その物の保持にも従事せねばならない航海長の申し出は、すぐに伊藤特務艦長によって却下とされてしまった。

 だから航海長は苦渋の決断となりながらも、直属の部下である野津航海士にその任務を託したのである。


『いいか、野津。この天気じゃ天測もできなけりゃ、300メートルも離れたら母艦だって見えたモンじゃない。指揮にあっては艇の位置には必ず目処をつけて進むんだぞ。何も解らん中でしゃにむに動くなよ。』

『はい! ただでさえ波で艇は流されますから、船位には十分に気をつけて行って参ります!』

『うん。頼むぞ。』


 自らが行けない悔しさと部下への心配が混じってか、些か震える感もある航海長の言葉だったが、野津航海士はまるでそんな上司を黙らせるかのような大きな返事で答えた。

 やがて一同に『気をつけろよ。』と方々から掛けられる声に、彼はまた大きな返事をしつつ敬礼でもって応じるや、踵を返して羅針艦橋の入り口付近より自分を見ているマサ達に声を張り上げる。

 これまでのやりとりをずっとその場で聞いていたマサ達、特別救助短艇員もすぐさま返事を返し、今より指揮官となる野津航海長の後に続いて甲板へと降りていった。


『よし、みんな行こう! 助けに行くぞ!』

『『『 はい! 』』』




 こうして明石艦では航海士を指揮官、特別救難短艇員を主力とした決死隊が編成。ほんの僅かにだが風雪の勢いが弱まっていた時間をこれ幸いと捉え、甲板上の所属が多い砲術科の人員によって、彼等が乗組んだ短艇は甲板から海面へと降ろされていく。

 ダビッドより吊り下げられた短艇はいつもより風で揺られ、しかもまた艇の腹をつける海面も相当の荒れ模様。1万トンの鉄の塊である明石艦が左右に揺らされる程の力であるから、僅か9メートルの木製である短艇が食らう衝撃は凄まじい物である。乾舷のすぐ傍を降りていく間にも、時折下から波が盛り上がってきて艇を持ち上げる始末で、まだ海面にすらも到着していないにも関わらず、マサも含めた15名に及ぶ乗組みの者達はほのかな恐怖を覚える程だった。

 

『おい、みんな! しっかり捕まってろ! 戸山、無線機を濡らすなよ!』


 しかしそんな状況にあっても、舳先の辺りにて中腰の姿勢で立っている若き指揮官、野津航海士は、カッターに乗組んでいる部下達に懸命に声を投げている。マサと大して年齢が変わらない彼は、マサ以外の乗員達と比べるとその年の順番は下から数えた方が抜群に早い。加えていつもカッターに乗組んでいる水兵さん達が怖気づく程の状態の中にあっても、それでもこうして下の立場の者達への声を失わないのは、やはりさすがは指揮官の初級教育を行う海軍兵学校の出身者と言った所か。

 航海科所属の士官である野津航海士は、マサも含めた他の科に属する水兵さん達から見れば話すらもした事の無い関係であったりするが、そんな野津航海士は僅か10分程前に聞いたばかりである、20名近い短艇に乗組んだ兵員達の名と顔を既にちゃんと把握しきれているらしい。その証拠に事業服を身に着けて蹲る様な格好となっているマサに対し、その左胸の辺りに書かれた官姓名が見えない中にあっても、彼はマサの名を見事に呼んでみせた。


『おい、森二水! 喧嘩屋の腕の見せ所だ! 波になんか負けんなよ!』

『は、はいっ!』


 上陸しての喧嘩沙汰を繰り返す者を帝国海軍では「芋堀り」と呼ぶが、どうもその点で野津航海士はマサの事を多少ご存知らしい。その問題児っぷりを声に出されるのは気分としては余り良い物では無かったが、決して野津航海士が自分を小馬鹿にすべくそう言った訳ではない事を、マサはその声色と覇気に溢れた同じ年頃の顔つきより瞬時に読み取る。

 出発からして危機的な状況である今だからこそ、野津航海士は荒っぽい気性で成したマサの芋堀っぷりを頼りにしているのである。相手の数が多かろうと少なかろうと、乗組んだ艦の格式が有ろうと無かろうと、いつも鉄拳と怒号のみで大立ち回りを演じているという、マサの乱暴で猛々しい人柄。

 常に問題だと睨まれて抑圧されてしまう事が多いそんな自分の特徴を、野津航海士はその場で認めてくれたのだ。


『へっ! おもしれぇ!』


 優男の兄とは大違いで鼻っ柱の強いマサ。それを察するや無意識の内に片方の口元を吊り上げ、つい先日の喧嘩にて作った頬のアザを覆っている絆創膏を一思いに引っぺがす。同時に彼らの乗った短艇がようやくうねりの激しい海面へと船底を浮かべるや否や、気持ちが勇躍してきたマサは、豪風と波がぶつかり合う轟音に負けぬくらいの大声で突如として叫びだす。


『しゃあ! みんなビビッてんじゃねーぞ! こんな吹雪はなぁ! 八甲田の地吹雪に比べりゃそよ風みてーなモンだい! タマ縮こまらせんじゃねーぞ!』

『バカヤロー、森! テメー、号令掛けるって時に勝手に大声上げんな!』


 今は遠き故郷の冬の厳しさを引き合いに出して威勢の良い言葉を放ったマサだったが、ちょうどそのタイミングで号令を掛ける筈だった艇長の前島三等兵曹がお叱りの怒号をぶちまける。いくら喧嘩騒ぎの常習犯たるマサであっても、その階級は水兵さんでしかないから、いつもなら間違いなくここでビンタか鉄拳での制裁を頂戴してしまう場面だ。

 しかし、そんな前島三曹と供に艇後部の腰掛に座って二人のやりとりを見ていた野津航海士は、一時の緊張と恐怖が薄らいだのか大笑いをし始める。次いでマサと同じく櫂を手にしていた水兵達もまた、怖い怖い前島三曹のご立腹に冷や汗を浮かべながらもやがてクスクスと笑い始め、轟々とした大自然の咆哮が唸る海面には、場違いな感のある男達の笑い声が短く折り重なった。


『はっはっは! この天気も田舎モンにゃそよ風か! そういや貴様、前に居た森砲術士の弟だったな!? てことは、出身は青森か!?』

『はい! 青森の弘前です!』

『よし、艇長! コイツのこの海を怖がらんトコは艇の士気にも良い。だからこの場はこれ以上怒ってやるな。・・・ただし、森二水! 艇長の指示が無い行動は今後すんな! 恐れ知らずでも上官の言う事を聞かないのはダメだ! いいな!?』

『はい!』


 若いながらもさすがに海軍士官。野津航海士の声はマサの飛躍するような気合の漲りを褒めつつも、部下の勝手を叱る前島三曹の顔も立ててやる内容だった。よってマサも前島三曹もその短気な性格に火を灯す事は無く、動揺激しい彼等の短艇がいよいよ出発するに当たって、鉄拳制裁という水兵さん達にとっての修羅場を迎える事態は回避された。


 これぞ海軍兵学校で培った、海軍士官の片鱗。


 カッター内にいる誰もがそう思い、転じてそれは彼等が乗る艇の指揮官となる野津航海士への、上司としての尊敬へと変わって行く。


『おし、ボヤボヤしてないで出発だ! 艇長!』


 やがて外套の襟と略帽の顎紐をキュッと音を立てて締めた野津航海長が、荒れ狂う漆黒の大波を睨みつけて指揮の第一声を放つ。それに続いて前島三曹も中断していた号令を掛け、仲間を救うべく集った明石艦決死隊はついにその母艦の乾舷より離れていくのだった。


『はい! 櫂備えー! 前へー!』






 その一方、尖兵たる救助の短艇を送り出した明石艦艦内では、短艇の男達が繰り広げるのとはまた違った形での戦が艦内のアチコチにて展開されている。遭難した内火艇に辿り着かんとする短艇は、現在の状況下の明石艦を一つの戦線と例えるなら、言わば最前線。そして先遣部隊を送り出した後にあるのはその少し後方に設置された第二線であり、古来より戦という存在の中で決して重要度を失った例が無い、いわゆる後方支援の場でもある。

 暢気に波浪の山谷へと分け入って行く短艇を眺めている乗組員なぞは一人も居らず、在艦の立場なりに本日の猛吹雪、次いで荒波の揺さぶりと戦っているのだ。


『おい、石井(いしい)(あずま)!』

『あ、分隊士!』


『お前等な、医務室行って軍医科の連中を手伝って来い! 機関長からの命令だ! 救助者の為に毛布やら何やら出すんだとよ!』

『はい! 石井二等機関兵! 中甲板医務室に行って参ります!』

『東二等機関兵も行きます!』

『よし! 行け!』


 艦内奥深い下甲板は、発電機やディーゼルエンジン等の堅牢な機械類が居並ぶ区画。艦の外から聞こえる突風と波の音よりも重苦しい機械の唸り声が際立ち、油の匂いが染みる汚れた空気が常に充満しているという、なんとも居心地の悪い所である。

 だがそんな区画内であっても、乗組員達の喧騒が今はそこかしこに存在している。何処からとも無く聞こえたそんな機関科の兵員達の声が響くや、勢い良く開け放たれた水密扉より若年の機関兵2名が飛び出していった。


 事業服や帽子、次いで顔の所々に黒い油汚れを滲ませた彼等だが、清潔な身なりなど今は完全にその意識より消し去られており、乗組んで以来始めて味わう事になった明石艦の緊急事態に、その若さ溢れる心を激しく燃やしている。

 動揺が激しい艦内通路では時折壁に肩や腕をぶつけながら強引に走り抜け、幾重にも渡って通路を遮る敷居状の隔壁は、さながら障害物競走のように跳び越す。すれ違う兵下士官の乗組員には、規定通りだがもはや敬礼すらも省略。通路脇にて照明によりひっそりと照らされているラッタルも、何の躊躇も無く2段飛ばしで駆け上がっていくという状態であり、そんな2人の急ぐ足が通り過ぎて行く合間にも、四方八方より男達の叫びが絶えず放たれていた。




 2人の機関兵が偶然通り過ぎて行った兵員用烹炊所でも、その一端たるやりとりが入り口より漏れている。


『第三戦闘烹炊だぞ! 配食器と配食札を今の内から用意しとけ!』

『おい! その牛缶、全部飯桶に開けちまえ!』

『魔法瓶もありったけ集めろ! 救助隊も救助者も寒い中で戻って来るんだ! 握り飯だけじゃ暖まらんから、せめて茶ぐらい飲ませてやるんだ!』


 どこもかしこも明石艦始まって以来の大騒ぎ状態で、工作部の軍属の工員さんも各科での作業応援へと順次振り分けられ、それらによって特に目立つようになった中甲板から上甲板での人の往来は、まるで帝都における朝の通勤ラッシュの様相を呈している。これほど明石艦には乗組員がいたのかと思わず感じてしまう兵員も決して少なくは無く、いつもこの時間は静かな艦内通路も、ここに至ってはその往来の激しさが一段と際立っていた。




 次いでそれは、未だ猛吹雪と荒波によって殴打されている明石艦の最上甲板とて例外ではない。

艦首から艦尾に至る最上甲板のアチコチでは、多くの索を引っ張り出して甲板上にある物品を固定して回る作業員が目に付くが、艦橋のすぐ後ろにある前部マストには、マスト支柱の表面に連なったコの字状のステップをよじ登っていく兵員2名の姿もある。

 耳をつんざく様な豪風の音と、ステップを一つ一つ握る手に容赦なく吹き付けてくる大粒の雪の攻撃は、海面から20メートル近い高さまで命綱も無い状態で上っていく彼等にとっては、まるで殺意を持って襲い掛かってくる死神の魔の手にすらも思えると言っても過言ではない。


『うわ、クソっ・・・! て、手が滑る・・・!』

『慌てんな、新井三水! ゆっくり登ってこい! 探照灯は逃げたりしねえからな!』

『ハア、ハア・・・! は、はい・・・!』

『よし! がんばれ!』


 そんな声が放たれているのは、高々と垂直に聳え立つ明石艦前部マストの真ん中辺り。

 先を行く形で登っていた下士官が、すぐ下で地獄のステップ登りに悪戦苦闘している部下の水兵さんを励ましている。払っても払っても僅か1秒の猶予も無く雪が付着してくる状況の真っ只中で、部下に当たる水兵さんに限らず先を行く下士官の手袋にも、雪が姿を変えた冷たい水がだいぶ浸透してきている。段々と指先の感覚が薄まり、ステップを握る指の力が知らず知らずの内に弱くなって行くのは二人とも同じであったが、彼等のような下っ端の海軍軍人たる者が日々培ってきたのは、一にも二にも(こら)える事、耐える事、我慢する事である。

 まだまだ新兵と評される身分の新井三水は当然ながら、その先で部下を鼓舞しながら歯を食い縛ってステップを登る下士官もまた、若き頃は水兵としてとにかくぶん殴られ、怒られての日々を送った末に、激浪激風に大いに揉まれる本日のこの瞬間を迎えている。加えて波浪を受けての艦の動揺がより顕著に感じる事が出来る高所に近づいているのだから、彼等は張り付いたマスト支柱共々、右へ左へと大きく揺さぶられているが、それでも尚、根を上げずに上へ上へと登っていく彼等の精神的強さは、辛い辛い海軍生活でこもごもが鍛えた忍耐の一言に尽きる。


 甲板整列の儀式よりはよっぽど楽だ!


 風雪に登る動作を遮られる都度、二人は胸の中で大きく叫びながらマスト支柱を這い上がっていった。




 そんな逞しく力強い乗組員らが奮闘している横の遥か向こうの海面に、決死隊となって遭難した内火艇を救助するべく、明石艦より離れて行く短艇が小さく霞んで見える。

 荒波の飛沫を頭より被りながらの前進で、櫂を握って身体を前後に倒す艇員も、その指揮をとる野津航海士と前島三曹も、既に一様に全身ズブ濡れに近い状態となっていた。

 もちろん夕闇によって支配される1月のこの時間は、冬特有の寒さもまた雪と風と波に乗じて、彼等の進撃を阻止すべく襲い掛かってくる。海に慣れた漁師であっても、間違いなく絶対に引き返そうとする最悪の状態での航海だ。


 だがしかし、今この短艇に乗組んで頑張っている、否、戦っている男達の脳裏には、「後退」の二文字なぞ微塵も浮かんでこない。遭難した内火艇とそれに乗っている明石艦乗組みの仲間達の運命が、他の誰でもない自分達の双肩に掛かっている事を各々が知っているからだ。


『漕ぎながら聞け! まずは艦の右舷から陸地に至るまでを捜索範囲とする! 内火艇がそんなに流されてなければ、交通路からそんなに離れてないはずだ!』

『航海士! 風と波の方向が少し面倒です! 舳先を斜めに向けて進みますから、進行方向に対してジグザグの進み方で前進させます!』


『よし、解った! 波浪が相当に強いから、艇の速度を一定に保つようにしよう! 速度が変わると位置を見失いかねない! いいな!?』

『はい!』


 懸命に櫂を操る短艇員を望める艇の一番後ろの席に腰掛け、艇長の前島三曹と供に艇指揮に当たる野津航海士も、逆巻くような波と豪風雪の天候の中で挫けてなどいない。上司である航海長より預かった小松島の即席海図に目を凝らし、救助に当たる短艇には必ず積み込まれる事になっている短艇羅針儀を片手に、そしてもう片方の手には鉛筆を握りしめて、複雑な計算でもとめた短艇の位置を記している。

 ただでさえ夜となると視界が十分ではないのに、今日は吹雪のカーテンによって僅か100メートル先すらも見る事の出来ない悪条件である。いつもなら海面上に浮かぶ明石艦や陸地の適当な建物を目印として、乗っている短艇の大体の位置は把握できる物だが、既に短艇の四方に広がっているのは荒々しい波の壁と夕闇を背景にした横殴りの雪ばかり。目印になる物など何一つ有りはしなかった。

 故にこの短艇とそれ乗組んだ男達を指揮する野津航海士は、天測すらも不可能な状況の中で羅針儀が示す方位と腕時計の秒針を頼りに、迅速にして失敗の許されない計算を用いて自分達の居場所を知るしかない。唯一の救いと言えば航海士という仕事柄、普段からそんな航路や座標の計算をしている為に幾分の慣れが彼には有った事だが、それを差し引いても理数学に精通した明晰な頭脳を持っていないと決して勤まらない、超絶な難易度の艇指揮となっていた。


『・・でぇい、クソ・・・。艇の動揺で羅針儀が安定しづらい・・・。』


 揃いも揃った悪条件の中での位置の割り出しに、野津航海士の顔にも思わず苦い表情が浮かぶ。もう何度目になるか解らない頭から被る波飛沫も気に留めず、震えも段々と出始めた手を懸命に濡れた紙面上に走らせている。いつになく鉛筆が記す文字が薄い事に少々の苛立ち始め、冷たさと激しい動揺に耐えていたその苦い表情は、やがては焦りの色も色濃くなってくる。


 マサを含めた櫂を振り回す者達もそれを見て取れたが故、艇長の前島三曹の声に従って懸命に身体を前後に倒しながらも、彼らは敢えて荒れ狂う波と波の狭間に覗く渓谷の向こうに視線を走らせていた。せめて集中して短艇の位置割り出しに勤しんで貰い、肝心の遭難している内火艇の捜索は自分達の目でやってやろうと、櫂を漕ぐ水兵達は無言の内に意識を統一していたのだ。


『てい! うりゃ! くそ・・・! おい、寺井! なんか見えっか!?』

『くっ・・・! いや、海水と雪が目に染みやがる! くっそお、目が開けらんねえ!』


 大嵐の中で必死にあげる掛け声の間際に、マサはちょうど隣にて同じく櫂を握っている仲間へと声を掛けてみる。全身びしょ濡れで褌まで水が染みこんでいるのはどうやら皆同じらしく、頬を止め処なく伝う水の流れは、汗なのか海水なのか雪なのか当人にすらも解らない。おまけに豪風に撫でられて生まれる激浪は、気を抜けば彼等の手から櫂を奪おうとするかの如き物凄い力を持っており、明石艦乗組員中では間違いなく一番に鍛えられている筈のボートクルーの面々に、早くも疲労という名の内なる妨害を与え始めていた。


『ハア、ハア・・・! くそったれ、負けてたまっかよ・・・!』


 悪態をつくかのように辺りを睨みつけて奮起するマサだが、いかんせん彼もまた人の子であり生身の人間。相手の人数もお構いなしに喧嘩をふっかけ、例え負けても最低2人は自力で起き上がれないまでにやっつける暴れん坊の彼であっても、人智を超えた自然の猛威に抗うという事は並大抵の苦労ではない。一向に止まぬ豪風雪と波浪の連続により体温も体力も元気も限界に近く、まるで自分に言い聞かせるように乱暴な言葉を吐き散らし、言い終えるその都度、奥歯を強く噛んで櫂を握る両腕に渾身の力を込める。


 大自然の申し子たる波と風に、人力で逆らっての航行。


 要約してしまうとなんとも無謀にも思える彼等の奮闘であるが、決してのその戦ぶりは手も足も出ていない状態ではなかった。

 その証拠にやがて風が強くなって一際大きい波が押し寄せ、彼等の乗る短艇が木の葉の様に波の表面を滑り落ちていく際に、大きく左右にローリングする短艇の上にはとある水兵の叫び声が響き渡る。


『お、おい! アレなんだ!? いま何か光ったぞ!?』

『なに・・・!?』

『本当か、福山二水!? どこだ、どこが光った!?』


 不意に上がった部下達の声を聞き逃さなかった指揮官、野津航海士が声を張り上げる。

 既に午後7時を示した腕時計を身につけた彼は、これまでに無く大きな波に短艇が乗り上げた事で僅かに腰掛から身体を崩れ落としていたが、すぐに腰掛に手を置いて中腰の体勢ながらも二本の足でその場に立ってみせる。続けて短艇の艇首、舳先の辺りにて櫂を握ったままの福山二水が指差す波の山谷の向こうへと、他の艇員達と一緒になって目を凝らした。


『え〜い、くそ・・・! 波が邪魔です! あの向こうなんですが・・・!』

『艇が波に乗って偶然見えたのか!? おし、次に来るあの波に乗った時に見えるかもしれない! みんな捕まって、あの方向を見張るんだ!』


 男達がそんなやりとりをして束の間、一陣の強風がその場を駆け抜け、またしても局所的に盛り上がった海面が短艇を高く持ち上げる。艇長の指示により短艇が波を滑り降りる際に転覆せぬ様、数名の水兵さん達に櫂を漕がせて上手く短艇のバランスを保つ中、立ち上がった野津航海士はその僅かに開いた細い瞳に一縷の灯りを見つける。

 波が連峰状になって交錯する海面の向こう。極めて間近な距離で鋭く波打つ水平線ギリギリの所で、浮き沈みする淡い真珠色の灯りが確かにそこには認められた。


『あ! あれは上空灯じゃないか!?』

『随分と弱々しいが、こんな天気の中、しかもこんな海のど真ん中で灯りなんかある訳ない! 尾灯は確認できないが、きっと内火艇だ! 艇長!』

『はい! 左前へ! ・・・よし、櫂流せ! それ、前へー!』


 眼前にあった灯りは彼等の奮闘の旅の5合目にして、ようやく見つけた救助者達への道標。行けども行けども荒れ狂う波と真っ暗闇の豪風雪ばかりの船旅だったが、途中といえども目的地にちゃんと自分達が近づいていた事が実証され、短艇の男達の疲れ切った顔にもほのかな覇気が舞い戻ってきた。


『おい、もう少しだぞ!』


 その内に櫂を操る水兵さんの誰かがそんな言葉を放ち、短艇の進む勢いと掛け声が比例する形で力強い物へと変わって行く。ここに至って野津航海士も顔や肩、略帽の上などにこびり付いていた雪を軽く手で払い落とし、助けを待っている仲間達への救助作業に取り掛かると同時に、母艦で待っている仲間達にもこの状況を伝えるべく声を上げた。


『そうだ、戸山! 艦に連絡できるか!?』

『はい! とりあえずこちらの状況を伝えます!』

『よし! 頼む!』


 軽便無線機の操作の為に決死隊へと加えられた水兵は野津航海士の指示に従い、それまで懸命に水に濡れないように覆いを被せて守ってきた無線機を取り出す。軽便と名が付いても持ち上げるのに一苦労なくらいに重い代物で、風呂敷から中身を取り出すような軽い動作とは行かないが、蓄電池と接続するや無線機の前面にある目盛りが反応した事に、水兵は安堵の笑みを薄く浮かべた。

 次いですぐさま彼は海水に塗れて金属のように冷たさが際立つその手を擦り合わせ、僅かな温もりを覚えると同時に指先の感覚が少し鮮明にもなったその手で電鍵を握った。





 そして短艇からは、決して耳には聞こえぬ彼等の声が放たれる。

 ただでさえ豪風雪と波浪のみが入り乱れる今宵の海は、大の男が腹の底から力いっぱい叫んだ声でも、100メートル程の距離を飛ぶ間に掻き消してしまう程の凄まじい轟音に支配されているが、現代文明が生み出した電波という名の声は、荒れ狂う本日の波間を稲妻の如く駆け抜けて散らばっていく。行き着く先は散っていく各々の方位によって様々であるが、その中の一つは短艇乗組みの男達が意図したとおり、短艇からずっと離れた海面上で波に揺らされている明石艦の空中線へと辿り着いていた。


『あ、電信だ! きっと救助艇の連中だぞ! 艦隊や他の艦との交信用とは違う電波帯だ!』

『おい! 羅針艦橋へ伝令! 急げ!』

『ん、これは、連送か・・・?』


 明石艦艦尾最上甲板にある隔壁に囲まれた電信室の中、ヘッドフォンを頭から被った兵員達が騒ぎ始める。電信室指揮官の士官が駆けつけ、室内に居た他の兵員達も顔色を変えて集まった所。そこでは、壁一面に広がるような大きな無線機を前にして椅子に腰を下ろし、遠い海面上で奮闘する仲間達の声の受信を担当している一名の水兵さんが、明石艦に届いた電波の声を聞き逃すまいとヘッドフォンを耳に押し当てている。


 やがてそこから察した電波の意味を彼は電信室指揮官に告げ、その内容はすぐさま荒天下の甲板上を突っ走ってきた伝令員により、羅針艦橋内で指揮を執っている伊藤特務艦長らへと伝えられた。

 明石艦の最前線がいよいよ攻略目標を捉えた瞬間であった。

 活動報告にも書きましたが『第一艦隊法令』の現物を古書店でゲト!ヽ(´ー`)ノ


 主に教練の方法や、帝国海軍のいわゆる業務規定が記されております。フォーマット類もちゃんと収蔵されており、横書きの書式の物ではやはり左横書きの用紙がちゃんとありました。昭和4年の11回改訂版ですので、そんな頃から左横書きだったのですね。

 他にも当時書かれたのか、鉛筆にて追記された文のキャプションに「キ関長」なる加筆の跡がありまして、しかも関の字は現代でもよく使われる略式の書き方でした。

 よく戦記作品では「大日本帝〝國〟」といった具合にわざと昔の表記をしたりする物も多い中、当時の現場の人間が書いたであろうこの書き方は物凄く新鮮な発見で御座いました。

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