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第一一三話 「明石艦乗組員の一戦/其の一」

 小松島港に明石(あかし)艦が到着して翌日の朝。

 深夜に降った雪で銀世界へとなりかけている小松島一帯は降雪こそ止んではいたものの、港内の波間は雲によって濾過された薄暗い陽の光のおかげで黒ずんだ色合いを浮かべ、港の周りとそこから波間を挟んで向い側に突き出た半島状の陸地は白銀の色合いが目立っている。命の息吹が随分と薄れたモノトーンの世界が明石艦の全周に広がり、その場で色彩の豊かさを得ているのは明石艦の甲板に敷かれたリノリウムの朱色と、艦尾旗竿に掲揚された軍艦旗だけであった。


 1月の冷たい潮風も今日はちょっと強めで、やや物寂しい明石艦の甲板上にて白い吐息を漏らしている乗組員達から、通りがけに体温を奪っていく。だが天下の帝国海軍軍人が寒さ程度で活動を鈍らせる事はなく、外套姿の水兵さん達が内火艇を海面へと降ろしていく様子は至って普段のお仕事ぶりである。

 また、頑張っているのは下級の立場の兵下士官だけではなく、明石艦幹部の皆々様も昨日の会議で得た見通しを基にさっそくお仕事を開始。明石艦右舷の海面へと降ろされた内火艇に乗り移る西田(にしだ)工作部長以下、工作部所属の士官達もその例に漏れず、彼らはこれより明石艦右舷向こうに一望できる小松島飛行場へと赴いて、現場の人間達との打ち合わせへと臨むのである。


 昨日に引き続くお勉強に精を出す明石もその様子を目にしており、お昼ご飯を控えた時間になってようやく戻ってきた西田工作部長が、終えてきた打ち合わせの説明を伊藤(いとう)特務艦長へと報告する際にもその場に紛れ、こっそりと聞き耳を立てていた。

 それによると、やはり設備が整った明石艦艦内での活動に留まらず、現地に直接赴いての支援もまた必要であるらしく、工作部の工員さんを何名か内火艇にて毎日送り届ける予定を組まねばならないらしい。伊藤特務艦長はすぐさまこの報告を耳にして幹部を集めた打ち合わせを開くが、幸いにも明石艦保有の装載艇に必要な燃料は十分な量が確保されており、食事に関しても出発時に主計科が特別に作ったお弁当を持たせる事で解決とされる。


 甲板より足を離すことができない艦魂の明石は工作部員の出張に同行する事はできないので、せっかく工作艦としての任務の実情を学ぼうと意欲を燃やしていたのにちょっと残念だと思いながらも、一応は毎日明石艦へと出張組みが帰ってきてから行うという報告には、例え夜になろうともちゃんと接しておこうと心に決めるのだった。




 こうして明石艦による小松島での飛行場造成応援の任が始まり、明石もまたノートと鉛筆片手に日々刻々と進捗していく工作任務に勉強を重ねていたのだが、明石艦の奮闘が始まって1週間もした頃、予想だにしない事件が起こった。







 その日は朝から天気が荒れ模様で、お天道様の恵みは間断無く続く猛吹雪によって一日中遮られていた。

 朝の日課である甲板掃除も今日はソーフ掛けが出来ない程で、甲板上で行うような課業はほとんど艦内で行える内容の物へと変更。僅かに実施されたのは内火艇の降ろし方と雪かきぐらいであり、いつも甲板上で汗びっしょりになるまでコキ使われる水兵さん達にとっては随分と楽な思いが出来る一日であった。


 ただ、猛烈な吹雪に伴われる波間の揺れ具合は酷い物で、なまじ錨を下ろしている現在の明石艦はその動揺がとても大きい。早くも兵員用烹炊所ではぐらぐらと安定しない足元と手先により、誤って手を包丁で切ってしまう水兵さんが出る始末で、船酔いに強い者以外は課業に追い回される事の無い本日を楽しめていないのが実情でもあった。




 さてそんな中、艦の命である明石は幸運にも船酔いに悩まされずに済んでいたが、荒れ狂う雪の嵐という天候は艦の動揺以外にも別な形で、そこにいる命に対して攻勢を強めている。それはもちろん1月の季節に付き物の極寒な気温であり、次いでそれこそが明石にとっては最大の天敵と言っても過言ではない代物でもある。


『うひいぃ・・・。さ、寒いなぁ、もぉ・・・。』


 とにかく寒さに対する耐性が無い明石。

 重ね着した外套にすらりと痩せ型な彼女の体型は覆い隠され、軍手の上に施した防寒手袋は彼女の指の短さと太さをやたらと強調させている。おかげさまで寒さに耐えながらのお勉強において、触感が伝わりにくい明石の手はノートの次のページをめくり難い状況となっていて、本日のお勉強の進捗具合はすこぶる悪い物になっている。その事を明石も解っている上に、一日中全身に伝わってくる寒さという感覚によって、彼女の集中力はもはや散逸状態であった。

 やがて明石は眼前にある机の上にノートと鉛筆を放り投げるようにして置き、腰掛けていた椅子に浅く座りなおしながら両肩と腕の辺りを手で擦り始める。


『さむいぃ・・・。ぅんもぉ、これじゃおちおちお勉強もできないよぉ・・・。』


 先日までいた室積(むろづみ)沖にくらべて寒さが際立つ小松島の空気に、唇を小刻みに震わせながら明石は愚痴を漏らす。せっかく漲っていた勉強意欲も寒さだけには台無しにされ、その事に彼女はほのかな怒りさえ覚える始末。それだけ明石は寒さには弱いのだ。


『ぬぅう・・・。』


 そんな呻き声にも似た声を放って明石は足元に置いてある小さ目の魔法瓶に手を伸ばし、暖房のない自室の中で唯一暖と憩いが得られるお茶を飲もうと蓋を開け始める。緑色の塗装がされた金属製の魔法瓶は、明石が烹炊所(ほうすいじょ)にあった物にお湯とお茶の葉を適量加えた上で持ち出してきた物で、安らぎを与えてくれると共に寒さを幾分忘れさせてくれる一品。手袋越しに触った感じでは鉄の地肌独特の硬さだけしかないが、やがてお椀状の蓋を逆さにおいて魔法瓶を傾けるとそこには湯気も香る若草色の滝が姿を現し、険しいばかりの明石の表情も一瞬だけ和らいだ。


『にひひ。・・・お、あったかい〜。』


 まるで誘われる様な手つきでお椀を唇へと運び、溜飲した温もりに浸りながら挫け気味の心を癒す。辛さばかりの本日における数少ない笑みのお時間をこうして明石は迎え、一時お勉強から離れて休憩を取るのだった。





 だがその刹那。

 ふと明石は、自室の扉の向こうより響いてくるテンポの速い足音に気付く。

 もちろん扉を開けた先には狭い艦内通路があるだけで、時には兵員同士がすれ違う事だってどちらかの譲歩が必要というその場所をわざわざ駆け足で通っていくのだから、明石の耳には余り聞き慣れない珍しい物音として聞こえた。

 同時にそれは船の命たる明石だけがそう感じた訳ではないようで、偶然にも付近にいたのであろう乗組員達による反応もまた、明石の抱いた感覚とは大差が無い物であった。

 

『ありゃ? おい、機関長だぞ。』

『な、なんだ? ・・・あっと、とりあえず、おい、敬礼だぜ。』


『おおー! すまん! どいてくれ!』


 きっと同じように疑問符ばかりの思考で表情を浮かべたであろう乗組員2名のやりとりに続き、明石の耳に流れてきたのはなんともけたたましい機関長の叫び声。どうも艦内の通路を突っ走っているのは彼らしく、扉の向こうより聞こえる荒い息遣いも混ぜた大声は、足音と共に段々と小さくなっていく。


『う? なんだろ? 血相変えて・・・。』


 思わずそう呟いた明石は残りのお茶を一気に飲み干し、お椀をまた逆さにして魔法瓶の蓋とすると、部屋の扉をそーっと静かに開けてみる。扉の隙間より除く縦長の視界には、通路の奥に目をやって呆然と立ち尽くす水兵さんの背中があり、なにやら騒がしく機関長が向かっていったのがその方向であろう事を明石はすぐに察した。

 次いで機関長という立派な明石艦の幹部たる者が血相を変えてその場を駆けていったという事に、明石は何か自分の分身全体に関わる緊急事態が起きたのだろうかと考えを巡らせ、自室を出て機関長の後を追ってみる事にするのだった。






 小さな胸騒ぎも覚えながら明石が機関長を追って着いた先は、明石艦の頭脳であり中枢でもある艦橋。

 夕飯の時間も迫った艦橋は既に外側を夕闇に包まれ、艦内よりも一層際立つ寒い空気で支配されているも、不思議と艦橋の周りの上甲板には人だかりもチラホラと見て取れる。艦内から一度上甲板へと抜け出した明石もその人だかりの後列に位置する所に最初はやって来たが、その場にいる乗組員達の視線が頭上の羅針艦橋に集められていて、なおかつ機関長という幹部がいる場所も大体はそこである事から、人混みの中を押されたりもしながら彼女は羅針艦橋へと向かう事にする。


『ういぃっと、ごめんなさぁ〜い。ちょっと通りますぅ。・・・ぅあいてっ! あ、足踏まないで〜っ・・・!』


 やや神妙な面持ちで羅針艦橋に注目する多くの乗組員は、狭い艦橋周りの甲板に密集している事も手伝ってか、目に見えぬ明石の身体がぶつかったり押したりしても全然意識を向けてくる事は無い。おかげで強引に人混みを縫うようにして明石は羅針艦橋への道を切り開いていくが、声すらも彼らには聞こえていないが為に道を譲ってくれる人間は皆無である。一歩進む毎にその細い身体を圧され、次の一歩を進み出すと唐突に挙げられた乗組員の腕に後頭部をはたかれ、もはや根性だと強引に出したさらなる一歩は、彼女の存在を目や耳を通して知る事の出来ないその場の誰かによって踏まれる始末。首の後ろで一本に束ねた黒髪も通路の隔壁に何度か引っかかったりして、明石は一歩一歩進んで行く度に悲鳴と苦悶の声を漏らす。

 それでも着実に艦橋の下の階から上へ上へと進み、羅針艦橋に近くなった所でようやくおしくらまんじゅう状態から開放された。だが、その開放は混雑具合が羅針艦橋入り口辺りで緩和されての事ではない。羅針艦橋に至る入り口まで乗組員による大混雑は続いており、その中より唐突に尻を蹴飛ばされるような格好で、明石は羅針艦橋内へと弾き出されたのであった。


『うわわっ・・・! ぶべえ!!』


 乗組員達の無数の脚の間よりつんのめりながら出てきた明石は、ろくに受身も取れずに顔から羅針艦橋の床へと倒れ込む。その拍子に思いっきり鼻を打ちつけ、うっすらと涙を目尻に溜めながら片手で鼻を押さえて鈍痛に悶えていた。


『ぐぇえ、いだいぃ・・・。』


 ふんだりけったりの思いをした挙句、物凄く格好悪い姿での目的地到着を迎えて明石は泣く一歩手前まで気持ちが縮み上がってしまう。唯一の救いは自分の姿を見る事ができない者達ばかりが今の彼女の周りに集まっていた事で、歪んだ表情でそれとなく辺りを見回すと、明石の姿に視線の焦点を合わせている者は誰一人としていない。おかげで嘲笑の一斉射を浴びる事態は発生しなかったが、明石は苦労の末に羅針艦橋へと辿り着けた事を忘れて、しばしその場で鼻の鈍痛が引いていくの待つ。

 だがそんな中、明石が追いかけてきた機関長はやはり羅針艦橋の中にちゃんと居り、その周囲には伊藤特務艦長を筆頭に西田工作部長、航海長、砲術長など、明石艦の科長格の人員が全て顔を揃えている。本来は艦の運行に使用する羅針艦橋はおかげですし詰め状態で、明石がぶっ飛ばされた所は入り口近くのちょうど開けていた所。お偉方はそこから数歩ほど歩いた先にある転輪羅針儀の周りにて、何やら強張った表情を浮かべて緊張感が滲む声を交えていた。


『連絡はそれが最後ですか・・・? その後は?』

『いや、無いです。おそらく発動機が停止して発電できなくなったんじゃ・・・。』

『位置もよく解りません。あちらの桟橋を離れる時に無電が放たれてるんで、たぶん本艦と桟橋の間の位置じゃないかとは思ってるんですが・・・。』


 ひどく緊張した面持ちと声で行われるやりとりは、今来たばかりの明石の目から見ても、ただ事ではない状況に直面している故である事がすぐに読み取れる。まだズキズキと痛む鼻を押さえながら明石は羅針艦橋の隅の方へと移動し、しばしの間、伊藤特務艦長らのお話を耳にして状況の把握をしてみる。


 発動機だの桟橋だのと言っている所を鑑みるにどうやらお船に関わるお話らしいが、この小松島港の沖合いには明石の分身たる明石艦以外に軍艦旗を掲げている船舶は一隻もいない筈である。そもそもが第二艦隊と行動を供にする中で、工作艦としてのお仕事の為に分派されたのであるから、神通(じんつう)艦や那珂(なか)艦といった戦闘艦艇が軍港ですらないこの海域にいる理由が無いのだ。


 はて、どうしたのかな?


 思わずそんな言葉を脳裏で呟く明石だったが、お偉方のやりとりに10分程も耳を傾けるや、伊藤特務艦長達と同じように彼女の顔色からも血の気がみるみる失せ始める。


 なんと明石艦より小松島海軍飛行場に毎日応援として出張させていた工作部員達が乗る内火艇が、本日のお仕事を終えて帰艦の為にと桟橋を離れた後、この猛吹雪の中で機関故障を誘発して立ち往生する事態に陥っていたのだ。



『ええええ! ちょ、ちょっとウソでしょ・・・!?』


 大事な自分の乗組員が遭難した事を受けて大声を上げてしまう明石。艦魂であるその声を耳に出来る人間がこの場にいない為、誰も明石の驚愕に対して反応を返してくれる人はいないものの、明石はそんな事に構わずすぐ傍にある羅針艦橋のほぼ全周に渡って広がっている窓の向こうに視界を投げる。


 長方形のガラスと鉄枠が幾重にも並んだ窓はその四方の隅に雪が溜まり、その形に反して窓の向こうに広がる視界は円形で、しかもまた陽の光が完全に無くなった上に斜めに降下していく猛吹雪によって殆ど何も見る事が出来ない。唯一そこから認める事が出来たのは強風によって荒れ狂う黒い波のうねりと、時折そんな波が這い上がっている艦橋真下の甲板のみであった。


『えええ・・・。こ、こんな海で漂流ってぇ・・・。』


 まるで地獄絵図の如き大荒れ模様の海を瞳に入れ、明石は慄きの感情も覚えながら僅かに後退りをする。お船の命としてこれまで生きてきた中で荒れた海面を見た事は何度か有るが、明石の大嫌いな寒さも混じった吹雪という天候の下にある波の渓谷は、彼女とその乗組員達をしても希に見る荒れに荒れた天気であった。

 だがあろう事かそんな海面状況、気象状況の真っ只中で、明石艦の乗組員を乗せた小さな内火艇が漂流しているのである。

 事の重大性は深刻であり、明石が戦慄する横で伊藤特務艦長らは事態の把握と供に対応策の検討も進めていくが、部下の生命にも関わる極限の状態はお偉方にあっても動揺と混乱を与えていた。


『湾状の地形なので、流されたとしても内火艇は湾内の何処かには居る筈です。もともと潮流の影響も少ないですし・・・。』

『いや、そうは言ってもこの波じゃ、内火艇がひっくり返ってもおかしくないぞ。早いとこ救助に行かないと。』


『いやしかし、この海ですよ・・・? 救助で出した兵員にもしもって事が有るのも考えなければ・・・。』

『なにい!? 貴様、見捨てろって言ってんのか!?』


 羅針艦橋の入り口に群がった多くの部下が見守る中、張り詰めた緊張感と生死が懸かった猶予の許されない事態に抗うように、お偉方の一人が突如として怒声を放つ。

 明石もその迫力にびっくりして彼等の方をみると、叫んだ時の表情のままであろう眉の釣り上がった表情を浮かべているのは、西田工作部長。件の内火艇に乗っている者達の多くが工作部の人員で、直接の部下が関わっているこの非常時に際して人一倍の心配と憂いを抱いているようだ。普段は温厚な人ながらも今はやや我を忘れ、同じく部下を心配しての声を上げた運用長に食って掛かっている。

 ただ、さすがに見かねた他の科長達がすぐに二人を宥め、彼らの上司にして明石艦の責任者でもある伊藤特務艦長もまた、一刻の猶予も無いその場の話し合いが喧騒となってしまうのを抑えるべく声を放つ。


『まあまあ、工作部長。内火艇の短艇員は運用科からも出てます。運用長も心配はあるんです。』

『懸案は懸案ですよ。ちゃんと一つ一つ解決しましょうよ。』


『喧嘩するな。落ち着け。』


 さすがに明石艦最年長の特務艦長が短い言葉を放つや、西田工作部長はまだちょっと不満そうな顔をしながらも口を噤む。部下思いから来る心配の念が彼は昂ぶっただけで、冷静な判断を迫られるこの場をただの騒動の渦中に投じるつもりは元より無い。それを皆も知っている為に、詰め寄られた内務長も含めて西田工作部長の言をそれ以上責める事は無かった。


 もっとも一刻を争う事態に変わりはなく、各々の心配も加味した上で伊藤特務艦長は決断を下す。


 それは明石艦全ての乗組員達が抱いていた想いを代弁したかの如き言葉で、明石艦という一隻のお船が、艦外に広がっている超が付く程の悪天候と戦う事を決めた瞬間でもあった。


『・・・艦内哨戒第一配備。特別救難短艇員を集めろ。それから通信機と蓄電池を準備するんだ。助けに行くぞ。』

『『『 はい! 』』』


 僅かに黙ったかと思った後、意を決した声を伊藤特務艦長が放つや、その周りにてそれまで黙っていた科長格のお偉方が背筋を律して一葉に声を返し、羅針艦橋入り口にたむろしていた乗組員達からも小さなどよめきが起こる。しかしすぐさま羅針艦橋より散らばるようにして出て行くお偉方に押されるようにして、乗組員達もまた艦のアチコチへと走り出して行き、未だ羅針艦橋内にて窓の向こうの地獄の海をチラチラと見ていた明石の耳には、そんな彼らの声が幾重にも連なって響いてきた。


『機関科! 機関科は配置に就け! 科員の配置が終わったら、一旦各部指揮官は缶室横の予備倉庫に集合しろ! 全員だ!』

『航海科、艦橋配置は集まれー! 信号灯と見張り増やすぞ! 艦内哨戒第一配備だ!』

『主計科も一回集合しろ! 場所は兵員用烹炊所だ! 戦闘食の用意だ!』

『砲術科も戦闘配置! 甲板は波がすごいぞ、落とされるな! それと掌砲長にオレの所に来るように伝えろ! 急げー!』


 滅多に掛からない「艦内哨戒第一配備」の通達により、明石艦は艦首から艦尾、次いで最上甲板から艦底に至る全ての甲板上で、乗組員達が右へ左へと駆け抜ける状況となる。

 「艦内哨戒第一配備」とは一隻の海軍艦艇としては戦闘状態になった事と同義の指示であり、別に海軍艦艇ではなくとも当たり前である交代勤務の枠が全て取り払われるという事。総員戦闘配置とほぼ同等の内容で、それまで寝ていた者達は全員叩き起こされて各々の持ち場へと急いで就き、勝手にその場を離れる事は固く禁じられるという状態になる。厠もその配置場所において一人一人交代でしか行けなくなるし、いつもは下っ端の水兵さんが烹炊所に取りに行った後、居住区にてみんなで揃って食べるご飯にあっても、持ち場に着いたまま主計科の兵員が配りに来るのを待って食べるという風になる。

 加えて「艦内哨戒配備」自体は日頃頻繁にかかる物であっても、三直の形での交代を示す「第三配備」が精々といった所だから、明石艦に乗組んで日も浅い新兵さんの殆どは、今回初めて耳にしたという者が大半なくらいであった。


 それほどに稀有な上に、各自が所定の配置に就いているという事が重んじられるのが、伊藤特務艦長より発せられた「艦内哨戒第一配備」の通達であり、如何に明石艦として今回の内火艇の遭難という事態を重く受け止めているかの証明でもあった。

 まさに明石艦は戦に突入したのだ。






 明石もここに至って分身の外に広がる猛烈な吹雪に臆する事を止め、大事な大事な自分の乗組員の危機に瀕したこの瞬間を、艦魂である自分なりに協力して行こうと決意を秘める。すぐさま明石はそれまでい羅針艦橋を飛び出し、その直上に設置されている搭状の形をした射撃指揮所へと移動。まだ配置の人員が到着していない隙を見計らって指揮所内から外に通じる扉を開け、瞬時にして室内へと雪崩込んでくる雪混じりの寒気に抗いながら、先程まで居た羅針艦橋の天蓋に足を進めてみる。

 だが重々承知しつつも進み出た羅針艦橋の天蓋上は、一切の遮蔽物が無い風通しの良さが災いして猛烈の吹雪の真っ只中に位置しているような状態であった。


『どひぃい・・・! さ、寒いー・・・!!』


 もともと人並み以下にしか寒さへの耐性を持っていない明石。自分もまた乗組員の危機に立ち向かうんだと激しく燃やした気持ちのみで出た艦のお外は、豪風と荒波がぶつかり合う音が混じった大音響が四方八方より轟き、100メートル先の視界をも遮るほどの大量の雪の壁が真横より殴りかかって来るような有様である。もちろん肌に粘着してくる雪と風は極寒の申し子として明石の体温を奪い、彼女は本日の大荒れの天候を目と耳と肌より味わう事が出来る。

 その中でも特に横殴りの雪は非常に厄介で、外套のフードを被った明石の顔を狙っているかの如く衝突し、しばし明石は目も開けられないくらいであった。


 しかしそんな中にも決して負けぬのが、栄えある帝国海軍軍人。天蓋上に出たものの猛吹雪の攻撃によって測距儀の影に隠れながら耐えていた明石の耳には、彼女に続くようにして艦橋の周囲の甲板に出てきた逞しい男達の声が聞こえてくる。


『おーい! あんまり舷側には近づくなよ! 波にさらわれるぞ!』

『一番機銃員はこのまま右舷を見張るぞ!』

『航海科の水兵3人、だれかついて来い! 今日は双錨泊(そうびょうはく)だ! 艦尾の小錨の確認をしにいくぞ!』


 日々の厳しい海軍生活で鍛えた兵下士官の強さは、こういう極めて危険な天候の時に際立つ物である。

 朝起きて釣り床を収める所から『遅い!』と怒鳴り散らされ、古参格の者から散々にコキ使われ、夜な夜な月下の甲板にて繰り広げる「整列」と呼ばれる闇裁判では僅かな失態を理由に殴られ、声が小さいと言っては殴られ、気合が足りないと言っては殴られる中、それでも歯を食いしばって頑張ってきた二等水兵、一等水兵辺りの男達にとって、天気の荒れ具合なぞ可愛い物にすら思えると言っても過言ではない。明石が慄く豪風と波飛沫の衝突がもたらす轟音を掻き消すように、凄絶な声の返事はやがて明石艦の最上甲板のアチコチから上がり始め、同時にそれが艦の命である明石の挫けそうな気持ちを元気付けて行く。


『おい、高島! 矢野! こっち来てくれ! 機銃の覆いの縛り具合が緩いみたいだ! 縛りなおすぞ!』


『『 はいっ! 』』

『おし! 気をつけろ! 風も波も強えぞ! 足にちゃんと力こめろよ!』


 ちょうど明石がいる羅針艦橋天蓋の右舷真下。艦首側にカッターを吊り下げたダビッドを隣にして、1番機銃と呼ばれる対空用の機銃座がそこにはある。露天に野晒しで設置している為にいつも保護シートを被せ、それをロープで縛ってあるのだが、四つん這いの格好で明石が艦橋の真下を見下ろすと、そこには艦内きっての怖い下士官として知られる半田二等兵曹と、若年の水兵さん2人が協力して作業している光景がある。

 30代半ばの半田二曹は水兵さんから始めて既に帝国海軍軍人歴は十数年。いわゆる叩き上げの軍人さんで、明石艦艦内でも潮気の染み具合が一際色濃いベテラン下士官なのだが、海軍なりのおっかなさも人一倍に身に付いているようで、水兵さん達からの畏怖もこれまた一際色濃く集めている。何を隠そう「整列」の儀式で、最も数多くバットやホーサーを振り回しているのが彼なのだ。

 ところが非常時を迎えると、その猛き人柄が頼り甲斐という言葉の権化として瞳に映る。それは明石と同様にいつもいつもぶっ叩かれてる2名の水兵さん達にあっても例外ではないらしく、舷側のすぐ傍に広がる悪天候が見えていないかのような元気の良い返事を返すや、3人で必死に声を掛け合いながら荒波洗うデッキの上で奮闘していた。


『み、みんな頑張ってるなぁ・・・。わ、私も見張りくらいはやんないとぉ・・・。』


 本当なら今すぐにでも艦内へと駆け込んで暖をとりたい明石であるが、滅多に見れぬそんな下士官兵の姿を薄っすら開けた瞳で認め、例え艦魂であっても自分もまたあのように頑張らねばと今また己に言い聞かせる。明石の眼下にあるのは普段その間に恐怖の感情が存在しようとも、仲間の命の危機に際して一致団結、一生懸命に自分の役目を果たそうとこれまで培ってきた身体と心を駆使している立派な乗組員達の姿。決して明石とは一度も声を交える事が出来ず、この先もまた自分の姿を瞳に映す事は無いであろう人間達であるが、そんな彼等と供にここは頑張らねばと明石は思った。


 やがて明石は艦橋天蓋にその細い二本の脚を突き立てて立ち上がり、外套のフードの襟元をギュッと強く握って、猛吹雪と夕闇と荒波の山谷に遮られがちな海原の向こうに視線を向ける。3秒も目を開けていると雪が入ってくるような状態だが、ただひたすら自分も身体を張らねばと彼女は強い使命感をいつしか胸の内に灯していた。


『うし・・・! な、何か見つけたら、音を立てて艦橋の人に気付いてもらおぅ・・・! さ、寒いぃいっ・・・!』


 直接声をかけて応答が得られぬ中にあっても、それでもなんとか貢献できる自分なりの方法をしかめっ面で呟きながら、明石は四方の荒波の彼方に視線を配っていく。


 時折、大波が甲板に乗り上げてくるのと同時に大きく艦体が傾き、何度かその場にうずくまって動揺に耐えつつの見張り。

 大変だとか苦しいとか通り越し、まさに壮絶という言葉を身を持って思い知る明石は、せめて自分と直接声を交える事が出来る、そして自分を見る事が出来る人物がこの場に居てくれたらと、ちょっぴり別れて久しい相方の事を思い出しながら、吹雪と夕闇の波間に必死にまなざしを向けるのだった。






 そしてこの時、彼女の足元に当たる羅針艦橋の更に下方。先程明石が一部の乗組員達による奮闘ぶりを認めていた一番機銃の辺りでは、今まさに彼女が思い出していたとある人物とは縁のある人間が、決死隊と銘打った列に加わって短艇の準備に勤しんでいた。


『森! おい、森! 無線機、積み込むぞ! 落とすなよ!』

『おうよ! 良いぞ、離しても!』


 明石が想う人物の面影を残した若い顔立ちながらも、上陸先で他の艦の乗組員としょっちゅう喧嘩沙汰を起こす明石艦きっての問題児。兄とは大違いで乱暴な物言いと血の気の多い性格が際立つ彼は、明石がこの場に居てくれと今しがた願った(ただし)の実の弟、森正志(もり まさし)海軍二等水兵である。

 次いで本日発生した明石艦の危機において、これより彼はその先鋒となって戦場に赴くのであった。


『よし、森! 早く来い! 整列だってよ!』

『おう、わーった! 今行く!』


『特別救難短艇員、整列ー!』

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