第一一二話 「新たな目的地」
大変遅くなりまして、読者皆様には申し訳ありません。
pcダウンと震災より復帰なりましたので、今日より更新を再開致します。
昭和16年1月17日。
未だ多くの艦艇が連なってその身を浮かべる室積泊地の中、一旒の軍艦旗が鉛色の空の下をゆっくりと泊地より進み出て行く。
まだ水も滴る大きな錨を艦首に据付け、多様な信号旗を次々にマストに翻しながら潮風を切り始めるのは、第二艦隊所属にして大きな起重機が幾重にも甲板上に林立するという独特の艦影を持つ明石艦。その艦橋には伊藤特務艦長以下、明石艦幹部の号令とそれに答える乗組員達の声が木霊している。
『りょーげん、前進原そーく。』
『アチコチに停泊してる艦があるから気をつけろ。取舵10度。』
『はい! とーりかーじ!』
長くこの室積沖合いにて錨を下ろし、工作艦としての能力を存分に発揮して他艦の訓練支援に当たってきた明石艦。久々の航海は乗組員達の声に機関の唸りの如き力強さを与え、どんよりと色合いが悪い空であっても潮風に撫でられる軍艦旗は颯爽とした雰囲気を声も無く醸し出す。
なにせ今日の明石艦は、これまでのように第二艦隊という名の大名行列に混じる形ではなく単艦で泊地を出発しているのだから、明石艦艦尾の軍艦旗の輝かしさは一際目立つ物であった。
『あ。アレは明石だ。お〜い、明石〜!』
『明石〜! 気をつけてね〜!』
『明石さーん! 行ってらっしゃーい!』
『わ〜! 行ってきま〜す!』
明石艦が泊地を出て行くに当たって掛けられるそんな声は、人間達には決して聞こえぬ船の命達の物。もちろん応える側の明石だってその一人で、軍艦旗はためく艦尾旗竿の下で大きく手を振りながら仲間達に別れを告げていた。
もっともこうして寂しさを漂わせず元気一杯に別れの一時を迎えている明石は、これまでがそうであるように今回の旅立ちに対しては並々ならぬやる気を漲らせている。ここ最近は帝国海軍艦魂社会の軍医さんとしてのお勉強に励んでいると供に、自身の役目やお仕事の将来像なども見えてきた明石。まだまだ艦魂としては未熟者であるも、20代も迎えたようなその顔立ちには段々と大人びた面影が色濃くなって来たし、無邪気で天真爛漫な性格はちっとも変わっていないが、仲間内や彼女より若い者達からは信頼と尊敬も次第に集まるようになってきている。
姉の様に慕う長門の教え子である大和なんかはその最たる例で、帝国海軍最新鋭戦艦を分身とする大和はそう遠くない未来において、師匠の後を継いで明石も含めた全ての帝国海軍艦艇の命達を統率するというお役目、いわゆる連合艦隊旗艦を拝命する事が既に約束された身。いずれは年上の明石に対してすら指示を出す立場を頂くのであるが、そんな大和はその事を鼻にも掛けずに明石に対してすこぶる興味と親しみを抱いているという話を、明石はつい先日の夜にひょっこり訪ねて来た長門より聞いたのだ。
これまで幾度と無く自分の未熟さぶりを思い知らされてきた明石だが、なんだかそんな自分が今や追われる身にもなりつつあるという事はとても新鮮な感じがある。加えてこの日の長門はなんとも珍しい事に明石との会話に際してお仕事の話を話題へと上らせ、明石はちょっとビックリしながらもその内容が自身に関わる事だったので耳を澄ました。
すると長門が述べたお話の仔細は、明石のお仕事への意欲に火を灯す事になる嬉しい通達でもあった。
『と、特設艦船・・・?』
『そ。今年から増える事になる民間徴傭の海軍艦艇でさ。結構な数になると思うんだけど、その中には特設工作艦っていう類別の艦も含まれてんのよ。もっちろん名前のとおり、これは明石と同じ工作艦の子達だよ。アタシん所の連合艦隊司令部にちょっと前に海軍省の人間が来て会議しててさ。その時に特設艦船の一覧表が出てたから、ちょっとだけ写してきたのよん。』
『おおお、やった! 工作艦の仲間が増える!』
師匠と自分以外には存在しない帝国海軍の工作艦という艦種。希少性や独自性が殊更目立つ事は、ともすれば「自分にしかできない」といったある種の優越感にも似た気持ちを抱けるのかもしれないが、その反面、船の命たる艦魂達の中においては、お仕事も含めた相談事をする適当な人物が見当たらない現実と背中合わせであったりもする。普段の第二艦隊の中での日常やいつぞやのお勉強会がそうである様に、戦闘艦艇ではない分身を持つ故に明石が何度となく頭を捻った専門性が強い海軍艦艇の事情は、その逆として仲良しの神通や那珂らにも適用されるのである。すなわち旧式の二等巡洋艦を分身として帝国海軍水雷戦隊の中核を長く担ってきた二人には、明石の様な特務艦、しかも帝国海軍に僅か2隻しか存在しない工作艦の事情なぞ殆ど解らないのであり、明石もそれを知っているからこれまでの付き合いで自分からそんな話題を振った事は一度も無かった。
だが長門の口にする工作艦の増強というお話は、例えお船としての出自が違う特設艦艇と言えども、明石の孤独な状況を打破するには十分な内容である。当然の様に表情を明るくした明石はすぐさま長門に詳細を尋ねるが、なんでも特設艦船は本来が工作艦としての能力をその身に宿すように設計、次いで建造された訳ではないから、木工、鉄工を始めとする各種の工作能力では明石艦に匹敵する程までにはならないらしい。さしずめ明石の分身が「重工作艦」なら特設工作艦は「軽工作艦」と言った所で、艦の命である艦魂達の身の上においてもその差は適用されるらしい。長門によると軍医少尉と一応は士官の立場とされる明石と違い、特設工作艦の者達はどうやら看護科の兵下士官とされるとの事であった。
言わずもがな、明石はそんな特設工作艦の者達からは、先任でもある事に加えて上司として捉えられるという事でもある。
『じょ、上司・・・! わ、私が上司ぃ・・・!?』
『あははは。や〜、ゴメンね。高雄に教えてあげてって年末に頼んだと思ってたんだけど、アタシの思い過ごしだったみたいでさぁ。でも大丈夫だよ、明石。今の所、特設工作艦の候補に上がってる子達はだいたい明石と同じくらいの艦齢の子ばっかりだし、金剛みたいな気の荒い艦魂ってそうそういないしさ。まだちょっと先になると思うけど、朝日さんと一緒にここは一つ面倒見てあげてよ。』
まだ少し先だと前置きした上での長門の言葉だったが、明石は嬉しさを遥かに凌ぐ驚きの感情によって応じる声を失ってしまう。仲良しの神通の姿に圧倒的な上司像を何度も見てきたが、若輩な自分がまさかこんなにも早い段階で他人の上に立つ立場になるとは夢にも思っていなかった。まして『艦魂たる者は一流の淑女でなければならない。』というお師匠様の教えをまだまだ体言できていない自分の身の程も勘定すると、身分相応という言葉からは全く正反対のお役目を言い渡されたような物である。
やがて長門が写し書きしてきたという特設艦船の候補となっている船舶の名が記された一覧を、僅かに震える手で持って明石は大きく見開いたまん丸な目で眺め、部下を監督せねばならないという人生初の重圧に早くも口元が軽く引きつり始める。霞や霰、雪風といった階級の低い者達と付き合う中でも、そこにあった相手に対する明石の意識は友達か可愛い後輩といった観点が強く、指示や命令を与えたりした事はこれまで一度も無いのだ。
ただその上で極めてニコニコと朗らかに笑っている長門の語りかけにより、明石は動揺と驚愕をそれ以上激しい具合とする事は無く、自分もまた生まれてすぐに連合艦隊旗艦という大役を任されたという長門の言葉に次第に元気付けられていく。
『アタシも最初は解んない事の方が断然多くてさぁ。こっ恥ずかしい話だけど、あの頃はしょっちゅう怒られたりもしててね。も、何っ回も朝日さんトコに行ってどうすれば良いのか聞いてたんだよ。でもま、なんとかなるモンだよ、明石。そんなに肩に力入れなくたって大丈夫だよ。』
『あははは・・・。う、上手くできるかなぁ・・・。』
『な〜に、最初から楽にできるんならアタシだって苦労しなかったよ。がんばるのなんて当たり前だし、ほらあ、朝日さんもいつも言ってるじゃん。大切なのは恥ずべき失敗でも輝かしい栄光でもなく、そこに来るまでに有った試行錯誤の過程と結果だって。いっぱい悩んでいっぱい頭を捻るのは悪い事じゃないと思うよ、アタシは。もっと楽に構えていつもどおり頑張れば、明石ならできるって。』
お気楽で普段はちょっとだらしの無い人柄ながらも頼りがいのある長門。自身の体験談も交えて明石の不安をすぐさま払拭してみせ、続けて話題の中心である特設艦船のもう少し詳しいお話を教えてくれた。
それによると特設艦船の子らは先程長門が述べた艦船としての能力にての程度と同じように、艦魂における知識の面でもやはり明石や朝日とは甲乙の差が存在するらしく、なんとその教育の面でも朝日と共に明石にも担当となって欲しいとの事であった。
それを聞いた明石はせっかく静まった気持ちが再びざわついたが、特設工作艦の艦魂とは上司と部下の関係となるという話を耳にした時よりもその激しさは極めて薄い。なぜなら専門的な知識に日常から触れていないが為に乏しいという在り方を、明石は年明け前の第二艦隊内における勉強会にて自分の事として経験していたからである。
なまじ海軍艦艇とは「働くお船」ではなく「戦うお船」で、彼女達はそれぞれの国家において海軍という名の唯一無二の集団として運用されるのが常とされる存在。その身に宿した積荷を波頭の彼方まで赴いて届ける古来よりのお船の在り方から見れば異端な存在で、その数もまた一つの国家に属する船舶としては少数でしかない。加えてその時代の最先端の科学技術をふんだんに使って建造された手前、防諜的な観点でも民間船舶とその場を共にする場所は少ない物である。言うまでもなく海軍がその分閉鎖的な雰囲気だと民間から捉えられるのは至極当然であり、海軍独自の知識に例え艦魂であろうともすぐに精通できない事の真相でもある。
民間船舶の命達にとってはまさに、お船事情における畑が違うのだ。
故に特設艦船の艦魂達には海軍艦艇としての教官の存在が必要不可欠で、明石艦と朝日艦のたった2隻しか存在しない工作艦という枠組みの中では明石もまたそれに応じなければならない。いくらお師匠様が知勇兼備で麗人を極めたお方であっても、その負担がただ一人に集中しないようにとの長門の配慮を、この時明石は察する事ができたのだ。
『う〜ん、私も先生になるんだもんね。うっし、頑張らないとお!』
先日の記憶を思い起こす明石は、艦尾の向こうに遠くなっていく仲間に手を振りながら決意を改める。今日より始まる明石艦単独での行動は神通や那珂を含んだ第二艦隊の仲間達とは完全に離れての行動で、戦隊のような部隊に配備されていない事から、当然行く先では明石艦一隻、次いで明石一人の力できり抜けなければならない。例え困った事があっても相談できる相手はいないし、指示を与えてくれる上官もいない。まさに明石艦の全ての実力が試される機会なのだ。
だから明石は逆にこのようなタイミングでの単艦行動を修練の場と捉え、先日に長門より教えてもらったいずれ部下を得るという自分の見極めを行う良い機会だと、その考えを改めている。
工作艦の艦魂として、艦魂社会における軍医さんとして、決して長いとは言えないこれまでの時間で得た己の実力は、正直な所では明石本人にとっても未知数と言った所だが、敬愛する師匠に教えを乞いながらも頑張ってきた自負はそれなりに有る。
加えて舳先が進む先に有るであろう試行錯誤を当然だと諭し、むしろその中での過程と結果こそが最も大事なんだと元気付けてくれた長門の言葉が、明石の胸に宿る挑む気持ちを極めて平穏な形で燃焼させてくれていた。
そうなれば生来が頑張り屋な一面を持つ明石は漲るやる気によって、これより始まる単独での行動に億劫となる事はない。彼女は軍艦旗の向こうに霞み始めていく仲間達の艦影から早々に視線を逸らし、一縷の陽の光が鉛色の雲の隙間より漏れている周防灘の沖合いへと顔を向ける。快晴の青空なればもっと清々しい旅立ちともなったろうが、明石はそんな眼前の海原に自慢の笑みを浮かべてみせ、頬を撫で始めていく冷たい1月の潮風に決意の声を織り交ぜるのであった。
『いよっし! 明石先生の第一歩〜!』
まるで汽笛の様に声を張り上げ、明石は寒い甲板の上から艦内へと戻っていく。自分で自分の名に先生なる敬称を設けてみるや明石のお仕事に対する意欲は更に一層の燃え上がりを見せ、彼女はそのまま自室へと戻ると早速英語と薬学関連のお勉強へと精を出し始めた。
これまでは「一流の淑女」という師匠からのお言葉を胸に、ただひたすら自身の実力を伸ばさんが為に頑張ってきた明石だが、その日から来る特設工作艦が配備される頃も見越した新たな気概でのお勉強が始まったのである。
こうして艦の命に当たる明石の新たな旅立ちと共に、彼女の分身もまた長く錨を下ろしていた周防灘の海を東へと駆けて行く。目指すは瀬戸内を東進し、我が家の如き呉や、名前を貰った明石市をも通り過ぎた先。紀伊水道は四国沿岸の地、小松島市であった。
1月19日。
第二艦隊より分離した明石艦は、徳島県小松島港へと到着。ほぼ隣接する形で北に位置する徳島港よりも水深に余裕が有るというこの小松島は、昨年に明石艦も含めた第二艦隊が寄港した事のある和歌山県和歌ノ浦とは紀伊水道を挟んだほぼ対岸に位置する地。四国と本州を繋ぐ旅客航路の点では徳島港に分が有るが、貨物関連の船舶は比較的大型の為に水深に憂いの薄い本港を使用する事が多く、人の流通に代わって物の流通に重きを置く港湾が明石艦のやってきた小松島港である。加えて大正年間から整備された小松島港は岸壁や灯台、浮標、防波堤といった港湾設備を相応に持っており、明石艦のような1万トンクラスの海軍艦艇が悠々と接岸できる中々に立派な港であった。
ただ明石艦がわざわざ仲間達と別れてこの小松島港に現れた理由は、この港自体に有るという訳ではない。その証拠に明石艦が投錨したのは小松島港の桟橋では無く、港や市街地の喧騒が僅かに聞えるくらいの少し離れた海上であり、甲板上に出てきた乗組員の者達も港を望める左舷ではなく右舷へと集まっていた。
『お。あれだ、あれ。あれが小松島海軍航空隊の飛行場だ。』
『へえ、港の真向かいに半島みたい突き出た所が有るのか。』
『建屋なんかもまだ作ってる途中みたいだな。あそこにゃツルハシ振り回してる奴も居るぞ。』
白い事業服姿の乗組員が甲板上から指を向けたりしてそんな声を上げる。伊藤特務艦長や西田工作部長といった明石艦首脳も艦橋からそれを一望しており、その艦橋のさらに上にある見晴らしの良い測距儀天蓋上では明石が双眼鏡片手に、やはり彼らと同じ方角へと視線を投げている。
それもその筈で明石艦がここに来た最大の理由は、昨年より造成が始まったこの小松島海軍航空隊飛行場に有るのだ。
なんでも今年から開隊となる新たな航空部隊なのだそうで、地理的にもここは帝国海軍の訓練海域として名高い土佐沖に近い事から、艦隊と協同しての訓練に際しては中々の適地でもあるし、戦略的な面で見ても紀伊水道の入り口を守る門番のような役目も期待できる。潜水艦のような隠密性の高い艦艇が仮にこの紀伊水道を通過でもすれば、その先に有るのは大阪や神戸といった国内屈指の大都市に、近畿地方の海岸一帯に広がる工業地帯、次いで帝国海軍の要衝たる呉軍港も含んだ瀬戸内海であり、言わば帝国海上防御点の中でもその重要度は決して低くは無いのである。
それ故かこの小松島飛行場の工事は今年の部隊受け入れを目指してその進捗に一層の加速が必要とされ、その手助けとして帝国海軍屈指の工作能力を誇る明石艦に白羽の矢が立った。つまり海軍工廠にも匹敵する程の工作能力を機動させて運用できる明石艦は、動けぬ陸地の海軍工廠に代わって小松島に進出し、或いは工作部の人員を応援として派遣したり、或いは現地で使用する部品や資材を艦内で加工して引き渡したり等、臨時併設の工場の様な役割を命令として仰せつかったのだ。
これまで経験した事の無い、一つの基地の造成に関わるくらいの規模でのお仕事。まさに工作艦の全ての能力が問われるお役目である。
もちろんこの事を知っている明石が張り切らない訳が無く、久々に艦内工作部の総員を投入するお仕事に、一人測距儀の上で力こぶを作るように両腕を掲げながら乗組員達を鼓舞するかの如き声を張り上げているのだった。
『よおし! みんな頑張ろうね!』
艦魂である明石はそうは言ってみても、とりたてて艦内工作部に対して何かできるという訳ではない。
だが来る特設工作艦という部下を持つ時の事も考え、これから始まるという工作部の会議にこっそり潜入してみる事に決める。明石艦の乗組員はその半分以上が工作部所属で、普通の艦艇に比してもその工作能力の扱いが大きい事から工作部専用の会議室までちゃんと設けている。場所は明石艦艦尾側の中甲板で、ぞろぞろと上甲板を歩いて向っていく乗組員の後を明石もまた追って行った。
それからしばらくして明石は工作部会議室へと乗組員達に紛れて入り、いつも同じ艦の命の仲間内で使う長官公室等とは随分と内装の安っぽさが目立つ会議室の作りにほんの少しだけ肩を落としつつも、時を置かずしてすぐに始まった乗組員達による会議の様子を、部屋の隅っこに座りながらしばし眺める。決して彼等の目に見えぬ彼女の手には、これまたその場に居る者達の目には決して触れること無いノートと鉛筆が握られ、普段から中々お目にはかかれない工作部の会議の実態をちゃんと把握すべく紙面に向って鉛筆を走らせていく。
そしてそんな明石の眼前では、早速伊藤特務艦長と西田工作部長を始めとしたお偉方の意見交換が始まっていた。
『え〜、手元の資料の二枚目。その一覧に書いている項目全部が、来月までに工作する物品です。ざっと見積もっても組立と鉄工、それから上甲板の起重機関連の部署は終日稼動なんで、そこには艦内の電気は常に供給の方向でお願いします。』
『ふぅ〜む。泊地移動の予定は無いが、昼間に電気の余力は有るかな? 毎日とは言わんが、砲術科の訓練もそこそこやっておきたいんだが・・・。おい、砲術長。』
『はい。砲術科としては、測距儀と主砲関連に通電させて貰えれば有難いですかね。それとできるのなら、その時間も今の内に決めときたいです。時間帯が絞れれば訓練内容も絞れると思うので。』
帝国海軍最新鋭の工作艦であっても明石艦は一隻のお船である事に変わりは無く、現場到着に続いて即座に工作作業へと勤しめる訳ではない。多くの科とそれに応じた専門知識を身につけている人員が協力して動かすのがお船であり、工作作業だから工作部所属の人員だけが頑張れば良い等という道理は断じて通用しない。何事もそうであるが多くの仲間達と整合を取った形での準備、次いでその周到性がこの場においても非常に大事なのであり、工作部会議室に木霊する乗組員達のやりとりもまた、明石艦の各部署における工作任務へのこもごもの取り組みについてであった。
艦内での電気はどの様に分配するのか。
搬入搬出に必要な人員は何時、何処に、何名必要なのか。
現地たる小松島飛行場との行き来はどのような方法を用い、どのくらいの頻度で実施するのか。
それらの為にはどれ程の量の燃料が必要で、その補充の目処は何処につけるのか。
挙げれば限が無いそれらの懸案に一つ一つ見通しをつけ、今回の工作任務における詳細な計画を立てるのが本日の会議の趣旨である。何もこれは明石艦に限ったお話ではない。言わばお仕事における初歩の初歩であり、会議室の壁に張り出された大きな紙面には各科の対応とその日程等が少しずつ記されていく。
そしてその様子を、普段からこのように大人数でのお仕事に関わる事が無い明石は、実に興味深く観察していた。持ち前の猫どころか虎をも殺す好奇心を全開にする彼女は、爛々と輝かせた子犬のような目を計画表に向け、工作艦が真価を発揮するに必要な段取りに対して理解を深めていく。
『ほうほう・・・。なるほどぉ。電気だって発電機を動かさないと生まれないし、発電機を回すって事は燃料も使うんだよね。そうなると機関科とも意見を合わせないとダメだし、電気関連は砲術科とか運用科の了解も必要になるもんね。大変なんだなぁ。』
お船の運用としては極めて当たり前の事ながらも、こうして各部署からの様々な要望や意見を勘定してそれを全員が了解した上で統括していく様子に、明石は改めて新鮮さを覚える。早速ノートに眼前の計画表から読み取れる要点を記し始め、後に特設工作艦の部下を得た際に教えてあげる知識の一つにしようと思いながら鉛筆を走らせた。
結局その日の会議は3時間にも及ぶ長丁場となり、椅子に座りっぱなしでも大変に頭を捻る話し合いは、解散となる頃には伊藤特務艦長以下の明石艦幹部の顔に疲労の色を滲ませる。明石も延々とその間筆記に集中していたた為か、ようやく終わったと思った瞬間に鉛筆とずっと擦れ合っていた右手の中指が痛み出す有様だ。
『・・・とぉ、中指が痛いぃ〜。・・・うあ、真っ黒だぁ。』
いつぞやの第二艦隊の仲間達で開いた勉強会に続き、今日もまた自身の教養をより深くする為と張り切った明石だが、疲労感と共に苦労の跡もまた彼女の体には残っている。よく見ると明石の右手の小指の側面から手のひらの側面に至るまでの肌には、鉛筆の芯から少しずつ削れて出たであろう黒色の粉がびっしりと塗りつけられていた。
『ぬぅ〜・・・。手洗ってからお部屋に戻ろっとぉ。』
自慢の首の後ろで束にした黒髪と違い、艶の無い鉛筆の黒色はまるで煙突周りの炭を拭ったような色合いである。余りの汚さに自分の手であるにも関わらず目を背けそうになりながら、明石はノートと鉛筆を小脇に抱えると会議室を出て行く。字を書く際に小指と手のひらの側面をずっと紙面に宛がうのは、明石の字の書き方における癖のよう物で、それが災いした格好となるも、それはまごう事無き苦労の跡。
おかげさまで明石のノートはこの3時間で5ページ近くもビッシリと文字が記されており、洗面所で手を洗った後に自室へと戻った彼女は早速ノートを再読して、本日得る事のできた「工作艦がその能力を発揮する際の段取り」に関する知識を復習し始めるのだった。
『む、そっかぁ。夜に工作区画を動かすなら、工作部だけじゃなくて他の部署の人にも了解とるのかぁ。そうだよね、航海科の見張り員さんとかもいるし、舷灯も点けなきゃならないから電気も通電させないといけないもんね。あ、それに就業の時間と内容が変わると、俸給にも確か関わるんだっけ。じゃあ、主計科とも調整しておかないとダメなんだ。・・・う〜〜ん、あっちこっちと意見合わせるのって大変なんだんなぁ〜。』
いつも見慣れてる筈の自身の乗組員によるお仕事ぶり。ノートに記した文字をきっかけとして記憶を手繰り寄せ、工作艦たる自分の分身が活動する上で、その最初の段階の準備より如何に人間達が大変な過程を積んでいるのかを改めて知る事ができた。
もちろんそれを艦魂である明石が知った所で何かが成せる訳ではないのだが、工作艦というお船の命としてその実情は、艦魂の仲間内では一番精通していなければならない。
どんな過程を積んで、どんな結果に至るのか。
それを日頃からちゃんと理解しておく事により、想定される僚艦が傷ついた事態に際しても明石は自分の状況をより正確に、そして即座に仲間へと伝達する事ができるからだ。
先日の勉強会で学んだ明石艦の本来の姿は、満足な陸上支援も得られぬ中で這々の体で帰って来る味方艦を修理してあげる事。まさに艦魂にあっては命の灯火が消えかける寸前であり、一刻を争う事態である。患者を前に医務に携わる者がまごまごしていてはいけないのだ。
その事を自分の胸に言い聞かせ、なおかつそんな工作艦を右も左も解らぬ中で分身とする事になる民間船舶の艦魂達に教えてやるべく、明石はその日夜遅くまでブツブツと独り言を漏らしながら復習に励むのであった。