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第一一一話 「変化の兆し/後編」

 山本(やまもと)連合艦隊司令長官が乗る長門(ながと)艦は、その乗組員達にとって課業の真っ只中にある時間帯を迎えているにも関わらず、艦首から艦尾に至る全ての甲板が極めて静かだった。それはもちろん山本長官の将旗を掲げるこの艦に今日はその他のお偉方が参集しているからで、特に艦尾側の甲板はその直下に長官室区画が設けられている為に、兵下士官の乗組員には立ち入り制限まで課されている程である。艦内もまた士官が居住する区画とされる艦尾側と同様、兵下士官の居住区画とされる艦首側の上甲板、中甲板は人の往来もそれ程多くは見られなかった。


 そしてそんな静寂に包まれる長門艦艦首中甲板に、艦の命である長門を始めとした艦魂達が詰める天幕倉庫がある。灰色の隔壁によって構成される狭い通路には、発電機と機関の低い唸りが艦の外より聞えてくる波の音に混じりながら木霊するが、そこには人間達には聞く事の出来ない彼女達の声も、僅かにだが天幕倉庫の扉の奥より漏れていたのだった。




『・・・これがアタシのトコに乗ってる連合艦隊司令部が持ってた、人間達による蘭印攻略作戦の図上演習結果。今頃は山本長官も参加して同じ話を長官公室でやってる筈だけど、この通り蘭印の油資源に手を出すと、横腹から米国の攻撃をくらう公算が非常に高いらしいんだ。航路の面でも蘭印からの海上交通路は仏印や台湾、もしくは南洋経由であっても必ず比島(フィリピン)の近海を通過する事になるけど、この比島こそがアジア最大の米国植民地。必ず障害になるから蘭印攻略に付随して制圧しなきゃなんないんだけど、そうなると米国との戦争は不可避な訳だね。』


 海図と供にその上に無造作に置かれている複数の紙切れを指差し、僅かに細くした瞳を海図の左右にいる仲間に送りながら長門は声を放つ。仕事真面目な陸奥(むつ)やちょっと怖い感じの加賀(かが)とは大違いの砕けた口調もいつもの通りで、ほんの少しだけ声色に張り詰めた感じがあるのが今日の変化といった所。

 もっともその一点こそが、普段からお気楽でマイペースな言動を連発する長門にしては極めて珍しい変化であり、高雄(たかお)が若干の怖さを覚えたのもまさにここである。その上で本日長門が朝から語る内容は、帝国海軍をして最も周到に対策を練りつつも、最も恐れる事態とされる対米戦争におけるお話で、高雄は言わば二重の衝撃を覚えながら本日の会議に参加していた。


 その一方、驚きからくる無言をしばらく続ける高雄に反し、その隣にて肩を寄り添うようにして控えている常盤(ときわ)鹿島(かしま)が一歩前へと進み出る。それは長門が今しがた言い終えた言葉へ自分達の意見を披露する為であり、これから行う発言に対して何某かの考えがあるらしい常盤が、幼い上司、鹿島の耳元で何事かを告げている。次いで鹿島が緊張の面持ちで常盤の囁きに数回首肯するや、常盤は鹿島を僅かに下がらせて声を放った。


『じゃ、まだ鹿島は上手く話せないんで、私が艦隊旗艦代理で述べさせてもらいます。』

『はい。お願いします、常盤さん。』


 頼りがいのある先輩像を否応無く見せ付ける言葉を常盤が告げ、長門は快く代理での意見発言というその申し出を許可してやる。対して一応は長門がこの場で最も立場的に偉い艦魂であるので、常盤はいつもの様に日露戦役以来の先輩艦魂としてではなく連合艦隊隷下の艦隊旗艦としての立ち振る舞いを考えて、艦齢と容姿における年齢差がほぼ倍以上であるにも関わらず、長門に対してはちゃんと敬語を用いて話し始める。もちろんそれは艦魂におけるお偉方の前で自分の立場に即した物言いをする実例を鹿島にちゃんと見せてやる為で、同時に長門らが欲する今しがたの話題への意見を、その声へと変えていく常盤はさすがに帝国海軍に嫁いで40余年のベテラン。長門に対してその眼前に迫るように常盤は近づいて行き、その横で皆の前に広がる大きな地図のアチコチに指をさしながら堂々とした口調で述べた。


『では、南洋担当としての見解ですが。長門中将がさっき教えて下さった、山本長官以下の連合艦隊司令部みたいな人間達の考え通り、フィリピンと供にウェーキ、それからグアムも占拠し、南洋の防御線の明確化と、ハワイも含んだ米本土方面への連絡線を遮断するのが良いと思います。上手く在アジア艦隊を撃破し、時間差で米本土からくる本隊を南洋に誘い込めれば、勝機は有る。・・・日露戦役の旅順艦隊と太平洋艦隊に少し似ていますね。それにグアム、ウェーキ、フィリピンを落とせれば、南洋方面の情報は殆ど米国には解らなくなりますし、加えて米海軍による蘭印、及びフィリピン救援の観点から見れば、南洋通過はその一番の近道。だから誘い込みの可能性もあながち低くは無く、帝国海軍はここに総力で網を張って米海軍本隊と一大海上決戦を行う。ま、日露戦役に範を取ったこれまでのやり方ですね。ただし、潜水艦も飛行機も無かった当時とは違う事情を、現代では勘案しなくてはならないのでは?』


 実際に日本海海戦にも参加した常盤の語りには説得力も力強さも十分で、そのすぐそばにいる鹿島や長門らが思わず小さく息を飲む。陸奥や加賀、高雄なんかも含め、今しがた常盤が口にした内容は各々が今ここで初めて耳にした事なんかでは無いのだが、やはり実際に艦砲の撃ち合いを経験したその声には相応の迫力が満ち満ちている。現代の艦魂社会においては決して雲上の如き階級ではない事や、いつも明るくて人並み以上に読書の時間を愛し、それでいて酒豪の側面を持つという常盤の、滅多にお目に掛かれない戦うお船の命としての芯の様な物だった。

 そしてその語った内容もまた正鵠を得ていて、普段はニコニコとして実に親しみ易いながらも戦に対する見識の深さにはある種の老練さをも窺わせる常盤に、長門と一瞬だけ目を合わせて小さく頷いた陸奥が声を返す。


『何を言いたいのかは解ります、常盤さん。実は常盤さんも仰った事に対する図上演習の結果が芳しくないんです。これまでも何回か図上演習は行われて来たようですが特にグアム攻略が相当に苦戦し、連合艦隊司令部の方々が言っていたのを立ち聞きしたのですが、過去には失敗した事例もあるらしいんです。言うまでも無く帝国海軍の作戦行動としては初歩の初歩での躓きでして、こんな状態では仮に艦隊決戦に持ち込んでも、本当に勝てるかどうかは状況次第といった所です。その原因でもあり、そして逆に頼みの綱でもあるのは、潜水艦と不沈空母たる南洋の島々の航空隊なんです。』


 艦隊旗艦クラスの艦魂達による会話に含まれるのは、決して明石(あかし)神通(じんつう)といった下っ端の艦魂達には聞かされる事の無い帝国海軍の実情。ほぼ長門のような連合艦隊旗艦の役目を負う船の命だけが、艦隊司令部を成す人間達の持つ資料によって窺い知れるのみの知識で、艦魂達にとっては各々が使命を帯びて行動する事になる盤上にも等しい物である。

 もっとも陸奥の言葉にも垣間見れるように、それはどこそこに何があるというだけの地図の如き代物ではなく、間違いなく日本でも最高レベルの頭脳によって考えられた多くの思惑と計算、狙い、理論、科学知識等が深く混ざり合って構成されている。そしてそれは常に時代の進捗を追いかけながら、その相手も含んだ様々な事情によって変化が絶える事は無く、帝国海軍に限らず懸案もまた実に多く存在するのであり、陸奥が語ったのは氷山のほんの一角でしかない。

 ただ、ちょうど彼女が放った言葉は、常盤と鹿島にしたら自分達が最も精通している南洋と呼ばれる地域の事情に関連しており、陸奥もそれを知っているが為に敢えて話題に出した。もちろんその理由は、常盤と鹿島の二人が南洋方面担当という第四艦隊に所属しているからに他ならず、その証拠に陸奥の企図はすぐさま常葉の返答という形で示された。


『しかしですよ。私が去年から見てきた所じゃ、南洋の基地化はまだまだ途中過ぎますよ。それこそ昨年から私が出張ったりもして、急速設営訓練なんかをあちこちの島の兵要地誌調査と並行して実施してますけど、滑走路だけで航空隊を運用できるなんて簡単さは皆無です。あの辺の島は環礁に囲まれてるだけなんですから、防波堤も作り、桟橋も作り、道路も作らねばなりません。私は飛行機という物はよく解ってないので、第四艦隊配属の水上機母艦とかの連中にも聞いてみましたが、最近の新型機にはそれに見合った滑走路が必要だって言うじゃないですか。ただ草を刈り取るだけじゃない。地面を平坦にする作業の丁寧さは相応に時間を食うし、その為の人員と設備もまた必要なんだと聞いてます。加えて航空燃料や兵装の倉庫関連も揃えて、やっと飛行機を運用する為の施設として使える筈です。おまけに南洋の海域は台風の発生地帯で、優秀な気象観測の結果を各基地や部隊に展開する部署が必須です。・・・空母があれば適宜進出して作戦行動と行けますが、午前中の話じゃそれも実現できないんですよね?』


 話している最中に地図が敷かれた長机の上に手を着いて、常盤は身を乗り出すような格好となる。次いでその青い瞳を彼女は室内でも唯一の空母と呼ばれる艦を分身とする加賀に向け、最後に言った空母の話題に関する意見を当事者から聞こうと試みる。

 そしてその試みは高雄が明石と別れた直後に呟いた悩みと同じ事柄で、今現在は加賀も含めた空母の艦魂の上司となっている高雄は、常盤の試みに乗じてその詳しい話を聞けないかと考えていた。何しろ余りにもその空母のお話が突拍子の無いお話で、ついこの間第二艦隊のみんなで加賀より学んだばかりの空母の知識を根底から覆す代物にして、しかもまたその発端が今から4年も遡った頃に生まれていた事を、高雄は休憩前の会議前半で耳にしていたのだ。


『海軍大学校で研究されてたっていう、この〝対A国作戦用兵〟・・・。開戦前の段階で敵艦艇、特に航空母艦がハワイの真珠湾に在泊する場合、大型と中型の飛行艇に空母の飛行機を足して、不意に乗じて急襲し、これを以って開戦する・・・。加賀さん、あんたこれ、知ってたんですか・・・?』

『・・・・・・。』


 長机に敷かれた地図の上に無造作に置かれた何枚かの紙切れを僅かに苦い表情で眺めつつ、高雄は常盤への返答を加賀が放つ前に新たな問いかけを放つ。対して高雄や常盤と同様に加賀は険しい表情を浮かべ、上司よりの幾分怒りも混じったかのような問いかけに対して声を詰まらせていた。

 だが決して加賀はその強面な風貌に反して年下の高雄の薄い怒りに臆した訳でもなければ、そも怒りを向けられる後ろめたい事をその心に隠していた訳でもない。ただ単にこの期に及んで彼女独自の間の悪い無口ぶりが現れてしまっただけで、すぐにその隣に居た陸奥、そして高雄が目にしている紙切れを入手してきた張本人である長門が、高雄に対して加賀はこの話題にまだ触れたばかりであるという事を伝える。


『違うわ、高雄。加賀はこの書類を読んだのは今日が最初。本当よ。』

『陸奥の言うとおりだよ、高雄。こいつは見ての通り、(オカ)にある海軍大学校に普通なら眠ってる資料さ。アタシのトコに乗ってる連合艦隊司令部の参謀がたまたま持ってたのを、アタシが一晩掛けて写し書きした物だよ。ま、確かに内容にびっくらこいたのはあるけどね。』


 高雄の疑心を逆撫でしないように柔らかい物言いで言った陸奥と長門の言葉に、高雄はしばし加賀を険しい表情のままじっと見つめた。今は部下でも艦魂としての先輩である加賀が隠し事をしていると決め付けるつもりは無いが、そんな加賀が幼少時から仲が良かったという陸奥や長門による弁護が、世代的には幾分離れている高雄の心に猜疑心を些か生じさせるのだ。


 同世代同士、なにか後輩の自分に隠してるのではないのか? 


 そんな言葉を静まり返る室内にて脳裏に響かせる高雄。

 小難しい障害にあっても常に笑って明るく挑むというお師匠様伝来の独特の接し方が、今日の彼女には明石とのやりとりも含めて随分と希薄であったが、それだけ本日の午前中の会議にても触れられた空母のお話が、高雄にとっては衝撃的だったという事の裏返しでもあった。


『・・・艦隊旗艦。』


 そんな中で特徴的な女性にしては野太く、それでいてボソボソとした歯切れの悪い声を放ったのは、当の加賀である。170センチ台のスラッとした長身の腕を組み、前髪に隠れた切れ長の目を一層鋭くする強面は、変化の著しい本日の高雄や長門に比べるとその独特の人柄を至っていつも通りに維持している。長門や陸奥に比べると些か愛想の良さや柔らかさが欠けた口調もそのままで、むしろそんないつも通りの加賀の言動はその落ち着き具合も相まって、加賀の意図しない所で高雄の抱く警戒と猜疑を取り去っていくのだった。


『・・・私も先日の会議の事もあった手前、この話を聞いた時は相当に驚きました。・・・ただ、先日述べさせて頂いた空母の話とは、随分と違う物となっている考えが、こうして艦隊旗艦の目に触れられて混乱を呼びました事。・・・全て私の無知と不徳による物です。・・・申し訳ありません。』


 極めてゆっくりとしたしゃべり方で詫びの言葉を放ち、容姿の上でも艦齢の上でも10歳近く年下の高雄に加賀は小さく頭を下げる。寡黙で言動が些か読めない人柄ながらも礼儀正しく、一時の感情に流されずに如何なる時も立場の上下を墨守するというその姿には、真摯な加賀の気持ちが良く現れている。ここに至ってようやく高雄も少し自分の感情を尖らせ過ぎたと気付き、一切の必要性が無いながらも自分の責だと頭を下げる先輩に慌てて声を掛けた。


『あ、す、すいません、加賀さん・・・。』

『・・・はっ。・・・一応、艦隊旗艦にはこの件は改めて機会を設け、しっかりとお話させて頂きます。・・・取り急ぎですが私が見た所ですと、なにぶんまだ構想の段階がこれでは強いようでして、・・・この間お話しました小澤(おざわ)少将の考えとも同じ空母の集中運用とは言え、少し違いがあるようです。』


 高雄の慌てたような謝罪の返礼に対して加賀は素直に応じて見せつつ、その声に会議の案件におけるお話をも盛り込んでみせる。一見すれば仕事真面目な加賀の人柄が滲んだようでもあるが、上司に当たる高雄の謝罪がそれ以上続かない様にと彼女は敢えて議題たる話を持ち出していた。

 そんな心優しき加賀をよく知っている陸奥もまた、高雄の幾分失敬だった態度を糾弾する素振りも見せず加賀の言葉に応えて行く。


『加賀、それは空母の艦魂としての意見? 確かにまだ新型の空母は竣工してはいないけど、赤城(あかぎ)や二航戦の子達は乗組みの人間達も含めて相応に経験も積んでるでしょ? 艦の錬度が育ってるのなら、後は艦隊や戦隊といった司令部、つまり頭脳の部分がこの作戦を理解すれば大丈夫だと思うんだけど?』


『・・・それは違います、陸奥さん。・・・そもそも錬度とは、何をするかの目的に向かって向上させる物です。』


 そのやりとりは高雄という後輩の乱れる心を平常にしようとお互いに企図した物だったが、加賀も陸奥も既に30代にも迫る女性の容姿を持つとおり、船の命としては教養豊かな大人の艦魂。お互いにしっかり道理に基づいた言葉を交えており、同門にしてすぐ上の先輩でもある陸奥の楽観に対して加賀は否定に続けて反論の意を示した。


『・・・空母が武器とする飛行機は、実際に艦に相対する為の攻撃方法や対地攻撃の方法、それに攻撃隊として行動する上での方法も無数に有り、・・・標的に対して照準をつける為の訓練だけで事が済むような単純な代物ではありません。・・・その意味でこの様な戦策の実施が検討されているなら、早くその詳細を末端部隊に展開せねばなりません。・・・それを受けて初めて戦隊司令部の人間達も、ようやく日々の訓練を検討できるのですから。』


『ふぅ〜ん。』


 極めて現実的な見地から意見を述べる加賀の声に、それまで静かに長机を前にして座っていた長門が少し間の抜けた声で唸る。持ち前のお気楽な性格がこんな真面目な空気の下にあっても発揮されたのかと、加賀や陸奥、そして黙って二人のやりとりを耳にしていた高雄や常盤、鹿島が視線を長門に向けるが、そこには大らかな性格で常に陽気な彼女の表情は無い。

 腰まで掛かる長く真っ直ぐな黒髪に包まれた長門の顔はその眉間に深いしわを刻み、夜空の星の如く輝きをいつも宿している丸い瞳も、鋭利な刃物を思わせる形となって眼前の大きな地図に投げられていた。加えてその肩幅の広い特徴的な体型と濃紺の第一種軍装も相まって、どこか長門は人間の海軍軍人のようにも仲間達の瞳に映る。本日何度目かのこうした長門の姿は高雄が気にしていた点でもあり、現在の室内では最も年長である常盤ですらも声を掛け難いという雰囲気をその身体全体に纏っていた。

 もちろんこんな姉は陸奥にしても目にするのが随分と稀有で、日常では微塵も感じさせる事の無いある種の威圧感に彼女は摺り足で僅かに後ずさりしてしまう程である。催促せねば一向に真面目にお仕事へと向き合わず、苦言の一つも呈すと『へ〜へ〜。』等となんともやる気の無い返事をする長門が、日々の中で大いに悩まされたにも関わらず陸奥の中では姉としての大きな在り方だった。


『ね、姉さん・・・。あ、いえ。GF旗艦、何か・・・?』


 やがて意味深な声を漏らした長門に陸奥が静かに問い掛けるも、別に拘っている訳でもない長門への呼称を無意識の内にわざわざ言い直したりと、僅かでは無い動揺が言動に滲み出ている。陸奥と親しい加賀にはそれが、連合艦隊旗艦たる者のお言葉を賜ろうというより、何か怖がりながらも姉の様子を窺おうとしているようにすらも見えた。

 そんな中、ふと長門は首を左右に捻りながら口を開いたのだが、その声は陸奥の問い掛けに対する反応では無く、仲の良い陸奥への考察に少し浸っていた当の加賀が対象であった。しかもまた長門の声は鋭さが一段と増し、その上で先程高雄が加賀に表す直前に呟いた中にあったとある国の名を声に変えた事で、加賀は人並み以下に表情の変化が少ない顔の裏で僅かに肝を握られた感覚を覚える。



『じゃあ、なに? 加賀は空母部隊の一員として、この構想に見られる作戦はできないという見解? それはつまり、この資料の中のA国、すなわちアメリカとは戦えないって考えなんだね?』

『・・・い、今は、・・・できないかと・・・。』


 首の後ろで縛った長い黒髪に隠れる加賀の首筋に冷や汗が流れ、長門の口より漏れた国の規模が天と地ほどの差もあるアメリカの名に反応して、鹿島と常盤、そして陸奥らが瞬時に表情を凍りつかせる。長門が尋ねた内容は、彼女達が本日朝より会議の体裁で話し合ってきた議題の結論にも等しい物であり、帝国海軍が最も備える反面、もっとも恐れてきたアメリカという大国家との戦争の可能性であった事はもはや言うまでも無い。

 奇しくも彼女達が居る長門艦艦首の中甲板とは位置的に間逆となる長門艦艦尾の上甲板では、連合艦隊という大組織の頂点に立つ者を筆頭としたお偉方により全く同じ討議が行われており、お互いに知らずとも艦魂と人間達は奇妙な程に同じ場、同じ話を同じ時間の流れの中で実施しているのであった。


 その内に長門より向けられる鋭い視線についに耐えかね、加賀が押し黙ったまま顔を下に向ける。供に腰まで伸ばした長い黒髪はお互いの仲の良さの証であるが、別に加賀の言葉に対して何か長門は強い不快感を示した訳でもないのに、加賀は本日の会議における自身の結論をそれ以上明確に声に変える事が出来なかった。

 この20年近い間、二人の仲の良さをすぐ近くで見てきた陸奥がその様子に声を失い、長門の声と身体より放たれる威圧感に幼心を押し潰された鹿島が常盤の背に次第に隠れる恰好となっていく中、沈黙した加賀に見切りをつけたかのように長門は視線を流すと、今度は高雄をその鋭い瞳に捉えて声を発する。


『じゃあ、高雄。第二艦隊旗艦として、午前中から話してるこの作戦構想はどう考える? 率直に言ってみてよ。』


 手にした何枚かの紙切れを揺らして問い掛けた長門に、高雄は奥歯を緩く噛んで加賀すらも慄く威圧感に耐える。部下の明石に思わず怖いと漏らした感覚が今まさに高雄の身体を縛り始め、寡黙ながらも腹の据わった加賀からその人柄とは別にさらに声を失わせる程の今日の長門の覇気を、高雄は今更ながらに敏感に感じ取った。


 ひえぇえ・・・、怒った時の軍医中将と同じだよぉ〜・・・。


 縮み上がる胸の中で涙声を呟きながら、高雄はその生涯で一度だけ目にした事のある長門の師に当たる艦魂、朝日(あさひ)の姿を思い出す。

 弟子の長門とは大違いで麗しくも高貴な人柄を持つ朝日は、高雄がまだ幼少の頃に師と仰いだ出雲(いずも)と大の仲良しだった。だから教えを乞う日々の中で何度も顔を合わせる機会があり、あの仏様の権化の如き朝日が本気で怒った際の顔を一度だけ拝んだ事があるのだが、まさにその表情が朝日とは似ても似つかない日本人の顔立ちを持つ長門の顔には現れている。

 せめてもの救いは師弟供に怒っても感情に任せた怒鳴り声を上げたりはしないという所で、極めて静かな吐息をしながら細くした目をじっと向けてくるだけの長門に対し、高雄は幾分たじろぎながらも完全に声を失うような事は無い。

 故に短い深呼吸を放った後に高雄は真正面にて座る長門、そしてお互いを遮るようにして置かれた長机の上の地図に続けて視線を長し、長門や陸奥に比べれば10年近く若輩な中でも艦隊旗艦を拝する自身の意見を、長門に催促されたように正直に声へと変えていく。


 もっとも今から話す事に高雄は相当に不安を抱えており、それは休憩中に明石が去った後で溢した『胃が重い。』の一言、次いで先程の加賀の否定的見解と密接に繋がっていた。


『で、では前進部隊としての見解ですが・・・。連合艦隊の艦隊戦力は一昨年辺りよりかなり増強されてはいますが、それでもまだ再編の途中です。あたしの所属する四戦隊なんかをとっても、鳥海(ちょうかい)摩耶(まや)は昨年に合流したばかりで、前進部隊の基幹戦隊としてはまだ錬度は完全ではありません。水雷戦隊も春頃からは旗艦も含めて改装に入る予定がありますし、二水戦も四水戦も所属の駆逐隊がやっと今年で揃った所です。・・・おまけに本日提示してもらった空母の運用が予定されてるなら、前進部隊である第二艦隊では、これまで備えてきた艦隊決戦時の行動要領を空母抜きでこれから見直す必要があります。加賀さんの意見と同じになりますが、当然、錬度の面での満足なんかは先の話になります・・・。』


 加賀と同じく否定的な意見を高雄は述べる。その間の長門はあの人の良いまるい目を相も変わらず細く尖らせ、僅かに顎を引いて高雄の臆する気持ちを多少は浮べた目をじっと見つめてくる。高雄が怖いと感じた本日の長門の一番の特徴がこの視線であるのだが、今もまた怖いと思いつつも彼女は意見の続き述べる事をなんとか続けようと一人心に鞭打つ。20代前半か半ばくらいの女性の容姿を持つ高雄は、人間の社会で言えばまだまだ若輩にして、現にこの会議を催す室内においても重ねてきた年齢は下から二番めである。だがそんな彼女の細い肩には艦隊旗艦の役目と供に、20名以上に及ぶ第二艦隊の部下達の運命が全て掛かっており、いつも陽気で冗談を飛ばしまくる裏で責任感が非常に強い高雄はそんな自身の肩の重さを例え長門を前にしても忘れはしない。

 やがて長門が先程の高雄の意見に応じて声を漏らしてくるが、臆する心をぎゅっと握った両の拳で律して高雄は明確に、そしてこれ以上無いくらいに率直な物言いでもって自身の見解の結果を示すのだった。



『んじゃ、高雄も加賀とは大筋で同じ考えを持ってるって事ね? この資料に示されてる対米国戦争は不可能、って?』

『・・・はい。せっかく資料を写してあたし達に見せてくれた長門さんには悪いんですが、腹を割った所・・・。今の状況では、三分の勝ち目もありません・・・。』


 加賀にも負けぬ明確な高雄の否定を受け、長門は短く応じると大きく溜め息を吐く。落胆とも疲労ともとれるその息遣いは高雄や加賀、そして艦隊旗艦代理として常盤が次々に述べた意見に原因がある事は言うまでも無く、長門以外の者達もその事に気付いてちょっと長門を直視するのはなんだか悪いようにも思えた。副官的な存在で常に傍らで控える陸奥は別としても、3人の部下が3人揃って否の意志を示すのだから無理も無い。

 そして長門が企図している事を同じ一戦隊所属にして、同じく連合艦隊旗艦をかつては頂いた事も有り、なによりも長門とは実の姉妹である陸奥は、姉に返されてきた部下達の声が芳しくなかった事を受けて姉の様子を再び窺うように声を掛ける。先輩の常盤、後輩の高雄、同世代の加賀が揃って否定的な意見を述べるのはそれだけ珍しかったのであり、長門と交代でこの20年近く連合艦隊旗艦を勤めて来た陸奥も今日が初めてであったくらいなのだ。


 だがしかし、心配する陸奥を横にしながらも、長門は別に困ったような顔色を浮べてなどいない。それどころか陸奥の声を受けるや、長門は幾分その瞳と声からそれまで維持してきた尖ったような感じを薄めて口を開くのだった。


『ね、姉さん・・・。』

『・・・まあ、そんな所だろうね。それぐらい米国との戦とは大変な事態だ。そんな顔しないでよ、みんな。前から解かってた事じゃん。』


 感覚的に変化が認めれた長門の言動を受けて加賀や高雄らがふとその顔を見ると、そこには常にお気楽で常に明るい長門のいつもの微笑がある。余裕たっぷりで屈託が無いその表情はすぐさま高雄や加賀の顔から強張りを和らげ、室内の空気を敏感に察して常盤の後ろに隠れていた鹿島もようやく、それまでは半分だけだった覗かせる顔を身体ごと常盤の横へと曝け出した。

 長門はそんな室内の者達を順に見回して一人一人に自身の明るい微笑を振り向け、誰という事も無くホッと胸を撫で下ろしたかのような気持ちが顔に表れているのを確認した後、音も無くその場に立ち上がって皆に語りかけるような口調で続ける。


『大丈夫だ。山本長官も含めて、連合艦隊司令部のオジサン達も大体は同じ認識だよ。もちろん昔からの海軍軍備の面や、あたしらが知らない外交面での建前で、最近は具体策の研究も俄かに盛り上がってるみたいだけど、今日明日で始めましょうなんて気はさらさら無いと思うよ。』


 そこまで言うと長門は手にしていた書類を机に軽く打ち付けて揃え、半ば放り投げるようにして眼前の地図の上に置いた。いつもであれば長門は陸奥から押し付けられたお仕事の書類をこうした後、『難しくて解かんな〜い。』等とホザいて駆け足でその場を逃げ出すのであるが、一瞬その事を思い出す陸奥が咄嗟に姉を視界に捕らえるも、長門は全く逃げる素振りは見せては居ない。今の今まで緊張しきっていた室内の空気を撹拌するかの如く手を乗せた片方の肩を腕ごとグルグルと回し、疲労を乗せた溜め息を再び放ちながら本日の会議のシメとなる言葉を長門は口にする。

 今日の長門は陸奥にしては随分と手の掛からない姉となっており、いつも急かさねば一向に行わないお仕事の発言を今日は自ら部下達に示し、なんとも気が楽で感心する反面、とても奇妙なその姿を、陸奥は巻きグセの強い前髪を撫でながらしばらく黙って見つめているのだった



『それに相手が相手だしね。・・・船が何隻有るから勝てる、なんてドンブリ勘定の道理は通用しない。せめて南洋だけでも陸海空の設備、それから戦力を完璧にしなきゃ、アタシが言ったらマズイかもしれないけど、まともな艦隊決戦もできないと思う。戦艦だろうが飛行機だろうが潜水艦だろうが、陸海空の強力な支援があって初めてその実力を十二分に発揮できるんだ。人間達はそれをアタシら以上によく解ってる筈だから、アタシ達はアタシ達で彼らが考える戦術、戦略を思うとおり実現してやれるよう、今年は各隊の錬度と進捗状況、それから各々の艦隊の業務進捗なんかも細かく見ながら頑張ってこう。』






 その後、高雄が胃を重く感じながら過ごしてきた苦痛の会議は結論が出た事によって閉幕となり、召集した者達には解散の言葉がかけられる。緊張の面持ちと空気に満ちていた彼女達もようやく笑みを覗かせ、まるで会議の内容を忘れるかの如く談笑を交えた後、陽も水平線に既に沈んでいる事を舷窓から確認して帰る事となった。




『加賀。これから晩御飯だけど、姉さんと一緒に3人で食べない? 久しぶりに会ったんだし。』

『・・・ありがたいです。・・・是非に。』


 常盤と鹿島の師弟コンビが既に去った室内に、陸奥と加賀のそんなやりとりが木霊する。

 愛想の良い陸奥は特徴的な強いクセ毛の短い黒髪を左右に揺らし、極めて明るい声と面持ちで声を掛けているのに反し、加賀は相も変わらずどんよりと暗い声でもって陸奥の申し出に首肯している。知らない人であれば本当に嬉しいのかと疑ってしまいそうになる加賀の言動だが、どうにも空気に合わせて変化させるだけの豊かな感情を持っていないのはなんとも加賀らしい。悪い言い方になってしまうが加賀はとにかく「感情貧乏」なお人で、決して同じ師匠に教えを乞いだ同門の友である陸奥のお誘いを迷惑だとは思ってはおらず、その証拠に陸奥が加賀の了承の返事を受けてニッコリと笑うや加賀の口からはなんとも短い彼女の笑い声が漏れてくる。


『・・・ふ。』


 どうやら加賀は喜んでいるようだ。陸奥もそれを長い付き合いで解かっているのかただただ微笑むばかりで何も言わず、会議で提示された資料を少しの間復習として読んでいる事から残っていた高雄にその仲の良さを見せつける。加えて一応は高雄もこの二人に長門を加えた3人は同世代にして本物の姉妹の様に仲の良い先輩方である事を知っている為、自分が残っていてはこの二人がついでに長門を誘うに際して気遣いを与えると考えて、短く挨拶を済ませた後にさっさとその場を後にする事に決めた。


『んでは、戻ります。お疲れ様でした。』

『・・・あ、お疲れ様です。・・・艦隊旗艦。』

『お疲れ様。』


 それまで目を通していた書類を長机の端に揃えつつ声を放った高雄に、加賀と陸奥が即座に挨拶を返してくる。ただ長門は高雄の声に全く気付いていないようで、一人だけ挨拶が返ってこない事から3人がふと長門を見ると、彼女はまだ長机の上に散らばっている何枚かの用紙にその丸い目を釘付けにしている状態だった。しかもその手に握られているのは本日の会議の目玉となった、あの「対A国作戦用兵の研究」という書類とは別な代物で、何やら数字も織り交ざった箇条書きの文面であるのが少しだけだが高雄にも見る事が出来る。


 随分と仕事熱心だな、今日の長門さんは・・・。


 特に眉間にしわを寄せるでもなく、どこか今にも鼻歌を歌いだしそうな長門の顔には会議中の怖さは微塵も無くなっているのだが、お仕事をサボる常習犯たる彼女を知る高雄はそんな言葉を脳裏で呟いて小さく驚く。その内に今日は姉が至って真面目に働く事で上機嫌の陸奥が長門の肩をそっと擦って集中を遮り、高雄の方へと軽く手を差し出しながら部下がこれより帰る事を長門へと伝えた。


『姉さん。高雄が帰るって言ってるわよ。・・・もお、姉さん。』

『おぉっと・・・、あっ。や〜、ゴメンゴメン。高雄、お疲れちゃん。』

『はい、お疲れ様でした。』


 長門は陸奥の手によってちょっと驚くもその拍子に紙面の横より覗いた彼女の顔は、やっぱり会議中に湛えていた鋭い瞳を始めとする怖い表情がどこにも無い。続いて高雄の帰る様子を察して投げてきた挨拶も極めて彼女らしい軽い口調で、いよいよ高雄は本日の長門の変化を勘繰るのをここで止め、浅いお辞儀をした後に通路へと繋がるドアへと手を伸ばした。


『・・・あ! 高雄っち! 待ったぁ〜!』

『おえ?』


 もう既にドアノブに手を掛けてドアを開きかけていた高雄だったが、突如として長門は大きな声を上げて彼女を呼び止め、同時にそれまでずっと腰掛けていた椅子代わりの木箱から腰を上げて高雄の下へと駆け寄ってくる。何事かと思って呼び止められた当人である高雄の他に、陸奥や加賀も僅かに見開いた瞳を長門へと送る中、長門は椅子から立ち上がる前より手にしていた紙を高雄の目の前に突き出して口を開く。


『な、なんですか、長門さん?』

『あのさ、コレ。ここんトコなんだけど、高雄から明石に言ってある?』


『へ? なんですか、コレ。言うも何も、あたしも今初めて知りましたよぉ。そう言えば、明石が休憩中に長門さん訪ねて来てましたけど、もしかしてこのお話ですか?』

『お、そっかぁ。明石、来てたの。じゃ、アタシから明石に言っとくよ。悪いね。』


 短いやりとりの中で話の骨子を確認した長門は高雄の肩をポンと叩き、次いで腰まである長い黒髪に一際映える白い歯を見せた笑みを高雄に送るや、競歩でもするかのような速い足取りで高雄が開けたドアから通路へと出て行く。


『・・・あ、な、長門さん・・・。』

『ちょ、ちょっと姉さん! 夕食は!?』


『や〜、明石にコレ話とかなきゃさ。すぐ戻るよ、陸奥〜!』


 背後より聞えてくる陸奥や加賀の言葉にそんな声で応じるや、長門は高雄に見せた笑みを浮べたまま足早に通路の奥へと消えて行った。容姿の上でも艦齢の上でも10歳以上離れつつ、同じ朝日という大先輩を師匠と仰いだ明石と会うのを、とても長門が楽しみにしている様子は一目瞭然。だがその直前に明石の上司たる高雄に対してまたぞろお仕事の話題を振り、しかもそれが未完了と知るや自身で達成させると口にする長門の言動は、本日朝から時間と場を供にしてきた高雄や陸奥、そして加賀にはやっぱり気に掛かる。大体が超が付くほどの面倒臭がり屋である彼女が、わざわざお仕事の話をする為に夕食までの短い時間を使う事自体、これまで長門と付き合ってきた3人には非常に稀有な事柄であった。


『・・・今日の長門さん、・・・何か気合が入ってますね。』

『そ、そうね、加賀。いつもあれくらいなら助かるんだけど・・・。』

『う〜ん。でもぶっちゃけ、なんか気味が悪いですねぇ・・・。』


 室内に残された3人は時折顔を見合わせながら今日の長門の様子を(いぶか)しみ、長門が足早に飛び出して半開きのままとなっているドアを、苦笑と困惑が入り混じった表情でしばし眺めているのであった。


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