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第一一〇話 「変化の兆し/前編」

 昭和16年1月10日。

 室積(むろづみ)沖と周防灘(すおうなだ)一帯の海域では、第二艦隊隷下における各戦隊や単艦単位での小規模な訓練が実施されていた。それは年始めに相応しく艦艇による準備運動のような内容で、戦闘教練の様な激しい操艦は一切伴わず、左右への回頭や後進前進、各種信号の実技等々、帝国海軍艦艇に限らないお船を運行するにあっての基本部分のおさらいとも言える。

 おかげで室積一帯の海岸には沖合いで立てられた幾重もの曳き波が打ち寄せ、今日も泊地で投錨したまま各種工作任務に励んでいる明石(あかし)艦でも僅かな艦の動揺が絶える事は無い。


 細波の音と時折舞い落ちる雪により、冬という季節なりの賑やかさが一応は有るかのような室積沖。天を覆う銀色の雲と寒い潮風は乗組員や艦魂達にとって元気が出る天候とは言い難かったが、本日の第二艦隊にては水兵さんから古賀(こが)司令長官に至るまでその表情に暗さは無い。

 なぜなら彼らがいる室積泊地には、山本(やまもと)連合艦隊司令長官直卒の第一艦隊、及び南洋方面担当の第四艦隊の一部が来訪したからである。




『凄いなぁ、戦艦部隊が勢揃いだぁ。』


 他の艦隊が寄港する予定を事前に耳にし、今日は朝から艦橋上の測距儀の中より海上を見張っていた明石。山の如き艦橋とマストを目印とする第一艦隊の戦艦部隊が連なって停泊する様はいつ見ても圧巻で、旗艦である長門(ながと)艦のマスト頂上に掲げられた中将旗は、多くの艦艇が集いし室積泊地の中でも一際目を引く。そして長門艦の周りには、早速他の艦艇から司令官や艦隊司令長官クラスのお偉方を乗せた内火艇が群がり始め、山本連合艦隊司令長官への新年最初の挨拶をしようとする人々によって長門艦周囲の波間とその甲板上に行列を作り始めるのだった。


 もっとも新年最初の挨拶とは人間だけでなく艦魂達にとっても重要な行事で、明石が測距儀の中から双眼鏡で覗いた限りでは、長門艦上甲板に人間に混じって高雄(たかお)愛宕(あたご)、それに第四艦隊のお偉方であろう仲間達の姿が見て取れる。どうも第四艦隊は艦隊旗艦として新鋭艦が配属されたらしく、そこに居合わせた高雄にペコペコと頭を下げながら話をしている女性は、明石よりもまだ年下の外見を持つ少女であった。


『確か、鹿島(かしま)とか言ってたっけ。』


 仲間内よりも最近耳にしていたその名。

 なんでもこの鹿島の分身たる鹿島艦とその姉妹艦は、兵学校卒業者による世界各地への練習航海を担当する〝練習巡洋艦〟という練習任務専門の艦艇として誕生しながら、欧州での騒乱や長引く支那事変の影響で練習艦隊の結成自体が実現も難しくなってきた為に、昨年誕生したばかりにも関わらずたった一度の支那方面への練習航海を最後にその用途を見直されてしまったという、随分とまた可哀相な経歴の艦との事であった。そんな鹿島の分身とちょうど艦の大きさが同じくらいの明石や利根(とね)の間では、何気ない日常の会話にて名前が挙がる度に随分と同情の気持ちが湧いた物である。


 だがこの世の因果とは不思議な物で、ちゃんと艦隊司令長官座上の体裁をとって編成される練習艦隊の専門艦というお船としての特徴が功を奏し、客人のもてなしに効果的な豪華な内装の長官室や、大人数での会議なんかにちょうど良い教育用の講堂等を建造当初から艦内に備えている鹿島艦は、大規模な改装をせずとも艦隊旗艦の任に十分に応じる事ができる艦艇として価値を見出されたのである。

 おかげさまで香取型二番艦の鹿島は若さと幼さが同居した10代後半の少女の姿をしており、同様に艦魂としてのお勉強がまだまだ足りない中にあっても、ちゃんと将旗を掲げた第四艦隊の艦隊旗艦としてここ最近は日夜猛勉強に励んでいるらしい。まだ明石は面と向かって話をした事は無いが鹿島の分身たる鹿島艦は明石と同じ呉鎮守府籍で、大きな箱型の艦橋に前後に離れた直立マスト等、どこか自分とも似たその艦影を遠目にだが目にした事が何度か有ったのだ。


 そして鹿島が旗艦として配された第四艦隊にて、彼女は「若輩な者を上司として頂きつつも知らんぷりをしない。」という良き先輩方に幸いにも恵まれる。そも南洋方面での警備や哨戒を担当する第四艦隊では所属艦が概ね旧式な艦艇が多いのであり、お仕事の面においても常に傍らで先輩方よりの補佐と手解きを受けながら励む事ができる環境にあるのだ。


 その証拠に明石の双眼鏡越しの瞳には、高雄の前で緊張した顔を何度も上げ下げする少女に対し、そっとその肩に手を置いて優しげな表情で高雄との間を取り持とうとしている先輩格の艦魂の姿が写る。しかも堀の深く高い鼻筋で示される西洋人の顔つきと、一度だけ間近で目にした事のある特徴的な赤毛を持つその先輩格の艦魂は、明石もまた昨年に知己を得たばかりの知人であった。


『おお、常盤(ときわ)さぁん。そっかぁ、常盤さんが鹿島を教えてるのかぁ。』


 意外な人物が双眼鏡の向こうに見る長門艦の甲板上に現れた事にちょっと驚きつつも、明石はすぐさまその師弟関係の事情を納得する事ができた。

 なんと言っても常盤は明石の師匠である朝日(あさひ)と同年代の者にして、あの日本海海戦にも参加して真正面からロシア艦隊と戦っている大ベテラン。昨年末に呉で明石が英語のお勉強をした際に協力してくれた浅間の実の妹に当たり、現在は敷設艦という類別をされて往時の主砲も前部の一基しか残されていない分身の持ち主である。だが元来の艦としての彼女の出自は鹿島と同じ巡洋艦であり、前大戦の有った大正年間には太平洋の遥か向こうにまで赴いて任務に励んだ経歴を持つ。師匠や浅間と同じ正真正銘のイギリス生まれで英語はもちろん完璧に操れるし、相応に国際色豊かなお仕事をこなしている上に、改装が終わった昨年5月よりずっと南洋方面での活動をしてきた手前もある。故にその経験と知識は、これから南洋にて部隊を束ねる艦隊旗艦として励まねばならない鹿島には最も必要な叡智だった。

 加えて海軍艦艇としては未だに現役で同じ第四艦隊配属であり、教え子たる鹿島とその場を共にする時間、及び機会は明石と朝日の間で持つ物よりも遥かに長く頻度も高い。

 そんな常盤はまさに、鹿島にとってこれ以上無い程に理想的な教育者だと位置づける事が出来るのである。


 見れば常盤は鹿島の傍らに立って高雄と鹿島が話す様子を笑って見守りつつ、時折何事かを鹿島に耳打ちして高雄との会話を保たせている様である。間違いなく会話の最中にも常盤なりの教育を行っているのだろうと明石は予測し、同時に艦隊旗艦として既にこの道10年のキャリアを持つ高雄に対しても、弟子が声を詰まらせる事が無いようにと親身になっている常盤の姿勢に、ついつい彼女は微笑んでしまうのだった。


『えへへへ。良かったねぇ、鹿島。』


 そう囁きながら明石は心の中で新たな仲間にエールを送り、しばしの間、常盤と鹿島の師弟ぶりを双眼鏡越しに眺めていた。






 その後、常盤に付き添われた鹿島、次いで高雄が長門艦の甲板上から艦内へと降りていくのを見届けるや、明石は一度自分の部屋へと戻って2時間ほど英語の自主勉強に精を出した後、その身を淡く白い光で包んで長門艦へと赴く。頼れる姉と慕う長門と会うのは明石の楽しみの一つにもなっており、是非とも新年明けての最初の挨拶をしたいと願って彼女は長門艦の甲板へとやってきたのだ。


『長門さん、どうしてるかなぁ。また陸奥(むつ)さんから逃げようとかしてないかなぁ。』


 とにかく陽気でお気楽な長門の人柄を考えると、今日もまたそんな日常を送っているのかと明石には思えてくる。ついつい軽やかになる口が声を放ち終えるや、彼女は甲板のアチコチを見回して脱走を企てている姉の姿が無いかと確認してしまう程であった。


 ところがこの時、視界を長門艦の広い甲板に投げた事により、明石の瞳はお目当ての長門ではないものの同じ船の命である仲間が一人、長門艦左舷中央付近の甲板上に立っているのを見つける。

 波打った髪を周防灘の潮風に靡かせ、吐息とはまた違った間隔で口から煙を巻き上げているその女性は、先ほど望遠鏡越しにこの長門艦甲板上を眺めた際にも姿を認めていた、現在の明石の上司に当たる高雄であった。


『あ、高雄さん。』

『ん? おお、明石じゃないか。なんだい、長門さんに会いに来たの?』

『はい、そうです。』


 寒い中での喫煙に僅かに顔をしかめていた高雄だが、同じく白い息を上げながら声を掛けて来た明石に対しては、すぐさま笑みを浮かべて応じてくる。第二艦隊でも一番愛想の良い艦魂で、新人の明石にとっては誠に話し易く有難い上官であった。

 しかしながらおかげでこの高雄より、早くも明石は長門艦へとやってきた目的が今は実現できないという事を知らされてしまう。


『あ、そうなんですか。会議やってるんですか、今。』

『そ。艦隊旗艦や一部の戦隊長召集のなかなか重い会議でさぁ。あの調子じゃあ、もちっと掛かりそうかな。』


 どうやら長門艦では現在、艦魂におけるお偉方を招集した会議を実施しているらしく、高雄は第二艦隊旗艦の立場として出席しつつ休憩の為に甲板で一服していた所なのだという。朝早くに望遠鏡越しに何人かの仲間達の姿を長門艦に認めた明石だが、その真相は挨拶回りではなくお偉方での会議だったのかと彼女は納得し、同時にせっかくこうして訪ねて来たにも関わらず今すぐに頼れる姉と会うのは不可能だという事に思わず苦笑いしてしまう。

 自分と違って一応は艦魂社会のお偉いさんを肩書きとしている長門の身の上は、これまでの付き合いで明石もよく知っている。それに一ヶ月ぶりの再会が適わぬ事を少し残念と思いつつも、別に長門が自分と顔を合わせるのを嫌だと思っている等とは到底思えない。自惚れではないがむしろ長門だって自分に会いに来たい筈で、だからこそこれまで何度も「自分の分身から脱走する」といった荒業を発動して、長門は明石の元に現れて来たのだ。


 ふ〜ん。きっと陸奥さんに捕まってるんだな。

 仕方ないよね。邪魔しないでおこう。


 そんな言葉を胸の内で放ちながら、今は精々苦笑いを浮べるだけでその場を過ごそうと明石は決めるのだった。


 だがこの時ふと明石は、眼前の高雄が珍しく僅かに眉間にしわを寄せながら煙草の煙を吐き出している事に気付く。若いながらも第二艦隊でも最も偉い高雄は、その肩書きや役職からは全くイメージが結びつかない程にとにかく陽気でひょうきんな性格が最大の特徴。いつ何時であっても悩み等とは無縁な様に見えるその人柄は、どこか長門とも共通する所でもある。第二艦隊ではそんな高雄に、公私共に常に笑みを貰いながら明石はお世話になってきたのだが、今日の彼女は随分と浮かない表情であった。


 さっき言ってた今日の会議ってそんなに堪えたのかな? そう言えば重いって言ってたなぁ。


 溜め息にも近い息遣いでまた喫煙ののろしを上げる高雄の横顔を目にしつつ、無言のままで明石はそんな言葉を脳裏で呟く。例え艦魂と言えども偉いなら偉いなりの苦労があるのだろうと高雄の心中をちょっと心配するが、ふいに高雄は苦笑を変えずに短くなった煙草を海へと投げ捨てるや、意外な問いかけを明石へと放ってきた。


『・・・そうだ。明石はさぁ、長門さんと仲が良いよね? あのさ、最近長門さんて何かあったのかな?』

『ほえ? い、いえ、先々月に会った時はいつも通りでしたけど・・・?』


 なんと実のお姉さんのように慕う長門の事を高雄は口にし、明石は少し困りながらも自身が知る限りでは特に心当たりが無い事を伝える。その人柄には合わない高雄の元気の無い表情に対し、原因として長門の存在があるのかと瞬時に察した明石は、少し心をざわつかせて咄嗟に高雄が感じた長門の詳細を尋ねた。


『あ、あの、長門さん、どうかしたんですか? どこか具合悪いとか?』

『あ、いや。そんなんじゃないよ。とっても元気だよ、長門さんは。・・・たださぁ─。』


 とりあえず身体に異常がある訳ではない事を否定しつつも、妙な所で声を途切れさせた高雄の声に明石は黙って耳を傾ける。すると高雄は上手く言葉を選べないのか明石の目から僅かに視線を逸らし、片手で後頭部を掻きながら低く唸り声を上げた後に続けた。


『ん〜・・・。その、なんて言うかさぁ・・・。今日の長門さんは、なんか怖いんだよね・・・。』

『こわい、ですかぁ?』

『うん・・・。いや、別に神通(じんつう)中尉みたいに会議で怒鳴り散らしてるとか、そういう訳じゃないんだけどねぇ・・・。』


 どうにも抽象的な表現による高雄の声により、明石は彼女が認めた長門の変化なる物がますます解からなくなる。決して軍医である自分が駆けつけなければならぬほどの異常事態が発生している訳ではないようだが、それに反して冗談と明るい笑みを常に浮べる上司、高雄が苦い表情で困っている様子は明石の心配の心を上手く静めてはくれない。そもそも怒っている訳でもないのに怖い等という高雄の言葉では、明石の記憶に在るあのお気楽でマイペースな長門のイメージが微塵も崩れやしないのだ。


 う〜〜ん・・・。もしかして今日の会議の重い内容とか、その辺も絡んでるのかな?


 考える限りでの原因はそんな所であろうかと明石は思ったが、それを確かめるべく再び高雄に声を掛けようとした刹那、明石よりも先に高雄は声を放って長門艦艦内へと続く通路に向かって歩み始めていた。


『や、なんだか変な話して悪いね。そろそろ会議の後半戦だからもう行くけど、長門さんには明石が会いたがってたって伝えとくよ。』

『あ、は、はいぃ。どうも・・・。』


 幾分の早歩きでスタスタと足を運んで行く高雄にそう言われ、会議の再開が迫っているとの言葉も影響してか、明石は高雄を呼び止める機を逸してしまう。眼前を横切っていく最中に見せた高雄の終始変わらなかった苦笑は気がかりだが、まるで逃げるように背を向けて去っていく高雄に、明石は応じる声を呟きながら小さくお辞儀をするしかない。

 そしてそのまま明石は会議を邪魔するわけにも行かないと考え、間近に聳える長門艦の山の様な艦橋をしばらくの間見上げた後、淡く白い光に身を包んで自分の分身へと帰っていく。




 こうして明石による長門への新年最初の挨拶の機会は残念ながら今は叶わぬ事になり、寒い寒い周防灘の潮風が吹きぬける長門艦甲板上には元の静寂が戻っていった。明石が長門艦の甲板上から消えるのを見届けた後、苦笑から完全に笑みの部分が消えた表情でボソッと呟いた高雄の一言を最後として・・・。


『はぁ・・・。まさか今から4年以上も前に、あんな作戦が考案されてたとはねえ・・・。今日の会議は胃が重いよ、もう・・・。』


 部下に当たる明石の前では職務に関わる事を、曲がりなりにも艦隊旗艦という役職を頂く者として一言も口にしなかった高雄。居なくなってから独り言として愚痴るのは、普段は冗談と陽気な物言いで雰囲気を飾りつつも、その実は結構苦悩している事も多いという彼女の隠された姿でもある。

 もちろんこの瞬間の高雄の苦悩とは、今しがた溢した本日の会議の重さその物だった。


 何を隠そう高雄が長門ら一部のお偉方で行っているその会議とは、同じ長門艦艦内の長官公室にて山本司令長官を始めとした人間のお偉方で行われている物と全く同じ内容で実施されており、昨年に人間達が海軍大学校にて行った対蘭印作戦の図上演習における研究会にして、その結果として対米国戦争に対する詳細計画案が練られ、次いでその詳細計画の原案として太平洋方面におけるアメリカ海軍の本拠地を開戦劈頭に急襲する案などが検討されていたのである。


 まさにそれは艦魂達にとっても人間達にとっても、戦争という代物の重圧が激しく圧し掛かってくる内容であり、高雄という上司の心の内を全く見抜けなかった明石には知る由も無かった。






 

 それから5分もした頃。

 甲板での喫煙と部下とのお話を終えた高雄は、長門艦艦首付近にある天幕を格納する為の倉庫の扉を開けていた。日除けの為に使う艦艇の天幕とは高雄の分身でももちろん用いている物で、大小の差はあれどちゃんと専用の倉庫に保管して使用する大事な備品の一つでもある。だから艦の命である高雄にとっては珍しくもなんとも無い天幕倉庫の存在であるが、扉を開けると同時に室内から漏れ出す緊張した空気によってその心と表情は瞬時にして凍てつき、滅多に見せない真剣な眼差しを浮べた顔が高雄には出来上がる。


『お。煙草は終わった? 高雄。』

『あ、はい。少し遅れましたか?』


 侘しい感もある真珠色も混じった電灯が灯る倉庫の中、高雄は歩みを室内へと進めて後ろ手に扉を閉める。

 その最中に高雄へと声を掛けたのは、室内最奥にて天幕が入った木箱を椅子代わりにし、身体を斜めに傾けて腰を落としている肩幅の目立つ女性。お尻のラインまで達しようかという勢いの長い黒髪を片手で撫で、室内に満ちる緊張した空気を楽しむかのように微笑を浮べていた彼女は、言うまでも無く高雄と同じ帝国海軍艦艇の命の一人にして、今まさに高雄が居る艦の艦魂、すなわち長門である。

 黒髪と振れ幅の大きい身体の線、そして高雄と同じ濃紺の第一種軍装を身につけているにも関わらず、上着のホックは締めずに袖を通して羽織るように着たその格好を相も変わらずトレードマークとし、すっかり大人びた30代にも及ぼうとする年頃の女性の顔は、まさに立場の上でも第二艦隊旗艦たる高雄のさらに上に立つたった一人の者の大きな特徴。加えて極めて気さくな人柄から放たれる高雄への返事は、生来が冗談と陽気さを売りとしてきた性分の高雄にあっては馴染み易い物でもある。


『いんや。陸奥と加賀(かが)、それから常盤さんと鹿島も今戻ってきたばかりだ。ちょうど良かったよ。』

『そうですか、それはなにより。』


 扉を開けた正面で腰を下ろす長門はそう言うと肩の高さまで両手を掲げてみせ、今しがた口にした名の者達が準備万端である事を高雄に示す。

 見れば長門からちょっと距離を置いて部屋の壁を背にする、長門と高雄以外の仲間達の姿がその場には在る。長門の実の姉妹にして、この20年近い間、長門と交代しながら連合艦隊旗艦を頂いてきた陸奥は、姉とは大違いの強いクセがかかった前髪を指で直しつつ、室内中央にて横たわった木箱の上にある大きな地図を眺めている。いつもの様に無人の長官室を使えない本日の会議の場がこの倉庫なら、さしずめ室内中央にあるその木箱は長机の代替品であり、陸奥はそんな仮想長机の上の地図に対し、今現在は高雄の部下に当たる加賀と供に視線を投げていた。

 元々加賀は長く長門や陸奥と第一艦隊を組んできた間柄で、出自の上でも随分とこの二人とは縁がある艦魂。しかも陸奥とは師匠と仰いだ者が同一である事から、持ち前のどんよりと暗い感じの人柄と雰囲気が、極めて愛想の良い人柄の陸奥とは大変に対照的であっても非常に仲は良い。その上で加賀の首の後ろで一本に縛った長い黒髪は長門を深く尊敬する証であったりもするので、久々に長門姉妹と場を供にしている今日はどことなく嬉しそうですらある。



『じゃあ、始めようかね、長門。・・・さあ、鹿島。解からなくてもちゃんと後で教えてあげるから、しっかり今から皆で話す事を聞いておくんだよ。』

『は、は、はいっ。よ、よよ、よろしくお願いしますっ。』


 そして陸奥と加賀とは長門や長机を挟んで反対側に位置する所で、老若の差が明確な声でのやりとりを放つ二人。高雄も長門もその声に反応して視線をそこに投げると、瞳に映るのは容姿の上でも背丈の上でも、そして欧米人と日本人という顔つきの上でも差が顕著なとある師弟の姿。

 それは明石が朝に高雄と供に長門艦甲板上で認めた、常盤と鹿島だった。昨年より連合艦隊に組み込まれた南洋方面担当の第四艦隊に所属で、明石の予想通り常盤は、新米艦魂にして艦隊旗艦としても新米である鹿島の養育係兼補佐役。おむすびのようなまん丸の形をした短い髪で包まれる鹿島の頭に手を乗せ、幼さが目立つ、否、幼さしか認めれない10代半ばの少女の顔を持つ鹿島に声を掛けていた。

 すると放つ言葉の一言一句、その素振りや表情の変化の全てが初々しい鹿島を安心させる為、長門が持ち前の明るい声を放って室内に満ちていた緊張感を一時の間打ち消してみせる。


『はい、よろしく。あはは、そぉんなに緊張しなくても大丈夫だよ、鹿島。アタシも初めて艦隊旗艦になった時はそんな感じだったしさ。アタシなんか最悪だったんだよ? あの頃の第一艦隊旗艦は新人のアタシなのに、第二艦隊旗艦はあの金剛(こんごう)。しかも第三艦隊ではまだ三笠(みかさ)さんが現役で戦隊長やってたんだもん。初めての顔合わせの会議でのっけからドカーンって怒鳴られるわで、もお何回泣かされた事かあ・・・。』


 自分の経験を笑い話として提供する長門に、室内には一挙に笑いの渦が巻き起こる。特に鹿島の傍らで控える常盤は実際にそんな長門の泣きっ面を目にしており、加えて今ではもう会えない三笠という懐かしい名を耳にして笑いを堪える事がどうしても出来ない。日本海海戦時の連合艦隊旗艦としてその名を轟かす三笠は、この長門の師匠である朝日に、帝国海軍艦魂社会の有名人たる金剛の師匠、敷島の実の妹で、対照的な性格のこの二人の良いとこ取りをした人柄だったと現代では思われているが、当時を知る常盤にあってはそれが完全に、後の後輩達による憧れが先行した偶像だという事を知っている。そしてそれ故に、新米艦魂ながらも颯爽と当時の艦隊編成に旗艦として迎えられた長門は泣かされたのだった。

 もちろん長門の実の師匠にして、実の姉にもあたる朝日に三笠が似ていれば、長門が涙を飲む事は無い。日露戦役以来の間に勇名を馳せた後、現代では記念艦としてその分身のみをこの世に残す三笠とは、残念ながら長女の敷島と非常に共通点が多い怖い人柄の持ち主。

 すなわち帝国海軍風に言う所の、ドカタ型の性格だったのである。


『なははは! 私もあん時の艦隊編成はさすがに悪すぎたって今でも思うよ、長門。どこの艦隊の所属艦もみんな私らの後輩に当たる奴らばっかりでね。誰も三笠を怒れる奴がいないモンだから、そりゃこっ酷く説教されてたねえ。朝日さんや敷島(しきしま)さんとは行かなくても、せめてレトウィザ・・・、あ、いや、肥前(ひぜん)あたりが居ればまだ制止できたと思うんだけどね。ホント運が悪かったねえ、なははは!』


 苦労話も二人にかかれば楽しい思い出となり、お互いの口から漏れる笑い声はすぐに陸奥や加賀、次いで高雄へと伝染し、最後にはカチカチに凍てついていた鹿島の胸の内に暖かな風となってそよぎ始める。すると時を置かずして鹿島の幼い顔には笑みが満ち、前途への心配が薄くなった胸の奥からは居並ぶ先輩方と同じような笑い声が放たれてきた。


 高雄をして胃が重いと言わしめた艦魂達の会議における、そんな束の間の一時。誰も彼もが老若の垣根を設けずに笑い合うこの瞬間を見ると、甲板上で明石へと告げた高雄の言葉には符合する所が一つも無い。当人である彼女もまたこの瞬間は、長門と常盤が語った知られざる秘話によって笑い声を高らかに上げているのだ。

 だがしかし、この笑い合う時間は10秒ほども経つと、事のきっかけを提示した張本人である長門によって制される事になる。


『ははは。よし、いっぱい笑ったね。・・・じゃ、そろそろ続きを始めようか。正直、会議が終わるまではもう笑えないと思うから。』


 僅かに尖った感覚も混ぜた声で長門はそう言うと、一度木箱の上から腰を持ち上げるような素振りを見せて、それまでの斜めに身体を流していた座り方を背筋を伸ばした真っ直ぐな姿勢へと変える。あんなに明るく笑っていた顔も既に笑みは消えて、長い髪に包まれる長門の表情はやけに瞳の鋭さが目立つ真剣な物。シルエットだけ見ると肩幅が広い体躯だからか、長門の姿はどこか男性っぽく高雄の目に映る程である。

 有り体に言えば立派で凛々しいそのいでたちに陸奥や加賀、そして常盤と鹿島が釣られるようにして周囲の木箱に腰を下ろし、大きなアジア近辺の地図を広げた仮想長机を囲むような形となりながら高雄も席に着いた。


『よし・・・。じゃ、会議を始めよっか。あ、それと今から検討する事は部外秘。例え姉妹であっても、絶対にこの場に居ない者には話さないようにね。』


 長机を挟んで真向かいに一人陣取る長門から聞えた言葉は、完全にお仕事の為の時間を過ごそうと決心しているその決心を高雄に伝えてくる。高雄自身は既に艦隊旗艦として相応の経験も積んだだけに、こうして気を引き締めた状態の長門を見たのは何も初めてな訳ではない。年がら年中お気楽な長門であってもこれまでに希にこうして大真面目となる事は確かに何度かあったのだが、今日の長門の身体に纏われる雰囲気、或いは覇気の様な物はなんだかやたらと威圧的な具合に高雄は感じた。


 う〜〜〜ん・・・。長門さん、やっぱ変だよな・・・。

 別に怒ってるわけじゃ無さそうなんだけどなぁ・・・。


 明石にも伝えた長門の変化を改めて認め、高雄は小さな驚きと供に慄きもまた覚えながら、再開された本日の会議の内容へと耳を傾けていくのであった。



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