第一一話 「とある日の二水戦」
昭和14年11月19日。
呉海軍工廠では艦隊の末端に及ぶまでの大規模編成見直しに、艦艇からも乗組員達からも騒々しさがまだ消えていなかった。
この数年で連合艦隊の艦艇数が一気に増えた為であるが、これには大きな理由があった。
この当時、友鶴事件、第4艦隊事件に発覚した海軍艦艇の設計的、または強度的な問題の対応をした艦が、改装を終えて続々と第一線に戻ってきていたのだ。艦の復元力、艦体強度そのものの向上、第一次大戦での教訓を生かした防御力向上等の対策をとった各艦は新造時との性能に開きが出てしまい、新たなスペックを基に適性に応じた配属を通達され始めたのである。
それは明石の親友でもある神通率いる第二水雷戦隊でも同様であった。
11月15日、第二水雷戦隊は第25駆逐隊を改めた第8駆逐隊と、霞艦、霰艦、そして次世代型駆逐艦の陽炎艦を加えた第18駆逐隊を正式に編入した。
第8駆逐隊は朝潮艦、大潮艦、満潮艦、荒潮艦の4隻で編成されており、彼女達は霞と霰の実の姉達にあたる。神通の想いを汲むかのように、二水戦には当時の最新鋭駆逐艦が配備されたのである。
と言っても裏を返せば、彼女達は素晴らしい才能を持った雛鳥でしかない。あくまで新兵の領域から外れない部下達に、当然のように教育する立場の神通は身を引き締めてそれに当たった。
神通は普段の礼儀、口の聞き方等を特に熱心に教育する事で艦魂達の間でも少し有名だった。古き良き海軍軍人らしさを重んじる彼女は拳で顔を殴るような事はしなくなったが、その教育姿勢、風紀の厳しさや内容の濃さは連合艦隊の艦魂達に伝え広がり、一部の者達には「私立神通学校」とも呼ばれている。
そして明石との一件以来、文字通り人が変わった神通は元々容姿端麗だった事もあり、水兵に相当する駆逐艦や水雷艇の艦魂達からの人気がうなぎ登りだった。そんな彼女に仕える部下達も、経験豊富な頼れる上司に尊敬の念を持ち始めていた。
兄と弟、父と息子、上司と部下、先輩と後輩等、その上下関係を大切にする日本型組織はそれを生活に徹底させる事が特徴である。それは艦魂であっても変わらない物だった。
これは、そんな中での二水戦でのお話である。
朝、それはこの世に生きる物の全てが一日の始まりを迎える瞬間である。眩い光りを放って東の空に顔を覗かせる太陽は、あらゆる物に反射して眠りにつく者達に目覚めを促す。それは鳥、木々、海、人間、そして艦魂も変わらない。
新兵さんの一日は長い。
舷窓から一直線に差し込む光りが、布団に横たわる霰の顔にあたる。
まるで手を引いて立ち上がらせるかのように優しい光りだが、その光りは瞼越しにでも伝わってくる程に明るい。
『ぅ、う〜ん・・・。ふあぁ・・・。』
眩しい舷窓からの光に、霰は重い瞼をゆっくりと上げた。同時に彼女の口からはあくびがでる。
もう朝かぁ・・・。
そんな言葉を脳裏に浮かばせながらも、霰は横になった上半身を起こした。片手で目を擦りながらも、いつもと変わらぬ自分の部屋を見回す。艦首の倉庫になっている霰の部屋は航行時は凄まじい波音を響かせるが、停泊時はまるで子守唄のように静かな波音が聞こえる部屋だった。
その波音に耳を撫でられて目を擦る霰の手が止まると同時に、彼女は再び上半身を曲げて眠りそうになるが慌てて背筋を伸ばした。いつもは寝巻き姿で寝るのに今日は水兵服のままで寝ていた事に、霰はハッとした。
『そうや、今日はウチが当番やな・・・。』
そう霰が呟くと同時に、いつもと変わらぬラッパの音が鳴り響いた。艦全体に響く5時半ちょうどの起床ラッパに続き、艦のあちこちから乗組員達の物であろう物音が木霊しだす。
そんな中、霰は布団をひょいっと丸め、あちこちにはねた髪の毛を手で撫でて身嗜みを整えた。枕元に置いてあった水兵帽を被り、丸めた布団を淡い光りで包んで消すと、彼女自身も身体に白い光りをまとってその場から姿を消した。
霰はある艦内の予備倉庫と立て札が掛けられた水密扉の前で気をつけした。
別にこの扉が彼女にとって有り難い物な訳ではない。この扉の向こうにいる人を待っているのである。何かの合図で出て来る訳ではないが、その人物は元々時間に正確なので霰は心の準備をして扉を見つめた。
そろそろの筈やな。
霰がそう思うと同時に、彼女の目の前では扉がゆっくりと開いた。
『・・・。』
『戦隊長、おはようございます。』
『ん〜・・・。』
出てきたのは鬼の戦隊長、神通であった。明石との一件以来、暴力を振るう事はなくなった彼女だが厳しいのは相変わらずで、怒鳴ると大の男である忠ですら震え上がってしまう程だ。しかしそんな彼女ですらも、寝起きという物は辛い物らしい。寝巻き姿の神通はいつもはキリッと釣り上がった目をうっすらと開き、解いた髪が所々でピョンと跳ね上がっている。指先で瞼を擦る神通は霰の挨拶に小さく唸って返事をすると、洗面所の方に向かってふらふらと歩いて行った。
それを微笑んで見送る霰だったが、既に彼女の今日のお仕事は始まっている。
すぐさま神通の部屋に入った霰は、まだ暖かさが残るベッドの布団を綺麗に直した。髪の毛や埃を見つけると丁寧に払い、枕や掛け布団を畳んでベッドの端に掛ける。やがて霰はベッドの端にしゃがみこむと、小さな身体に力を入れてベッドを壁に折り畳むために持ち上げようとした。バネ仕掛けの折り畳み機構になっているベッドは、小柄で非力な霰の力では最初の内はビクともしない。
『くぅ〜〜〜・・・!』
しかめっ面でベッドを持ち上げようと力を入れる霰に、ベッドは僅かに浮いたかと思った刹那、バネの力で勢い良く壁に折り畳まれる。そして鈍い音が響いた。
ガン!
『あう・・・!』
毎度の事ながら、勢い良く壁に折り畳まれるベッドにつられた霰はベッドの裏側の鉄製の枠に脛をぶつけた。激痛に歪んだ顔で、霰は再度しゃがみこんで脛を両手で押さえる。
なんでいつも自分は同じ失敗を繰り返してしまうのだろう?
痛みに耐えながらもそう思う霰は、自分のトロい性格に激痛の責任を求めて少し自己嫌悪になる。撫でる度に段々と引いていく痛みに、霰は脚を引きずりながらもなんとか立ち上がる。まだまだ痛みは引かないし自分が恨めしい霰であるが、まだまだ彼女には仕事があるのだ。
霰は部屋の隅に立て掛けられた箒とちりとりを手に取り、時折脛に走る小さい痛みに顔をしかめながらも甲板掃除を始めた。神通は決して物を散らかしたりする性分ではないが、生活の跡はちゃんとある。狭い部屋の半分程も掃くと、箒の端には埃やゴミが溜まってきた。それをちりとりですくった霰は、ベッドの脇に置かれたごみ箱に捨てる。テキパキと掃除をこなす霰だが、彼女の表情はまだ安心できていない。
霰は元の場所に箒とちりとりを戻すが、今度は机の整理を始める。
普段は教える側の神通も、人の目につかない所で苦労している。その証拠たる書類や小難しい名前の本が散乱する机に、霰は手を伸ばしていく。散らばった本を机の端に戻し、書きかけの書類やその上に無造作に投げ出された鉛筆を机と垂直に置いてやる。霰はその時、椅子の上に本が置かれている事に気づいた。手に取った際に見えた本の題名は「上手な人の使い方」。
見なかった事にしてあげよう。
そんな言葉を脳裏で呟いて机の端に本を寄せた霰の顔は、持ち前の優しさが輝かせる明るい笑みだった。
そして霰がちょうど本を戻したところで、神通は洗面から帰ってきた。
少し眠気が覚めたのか、いつものクールな顔になって帰ってきた神通は無言で部屋の扉を閉めると、備え付けのクローゼットの前に歩きながら服を脱ぎ始める。すかさず霰は彼女の後ろに駆け寄って、その着替えを手伝い始めた。
怖くて力も強い神通だが、あらわになった彼女の雪のように白い肌と、女性らしい美しい体のラインに霰は仕事を忘れて見とれた。
『ゎあ〜・・・。あ、すみません・・・!』
『・・・・・?』
思わず声をだした霰を神通はチラっと振り返った。霰は慌てて謝り、神通の寝巻きを手に持つ。部下のその奇妙な行動に神通は不思議そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直して目の前のクローゼットから制服を取り出して着替えを続行した。霰もまた渡された神通の寝巻きを大雑把に畳んで腕に掛け、着替えの手伝いを続ける。もっとも甲冑を着るような訳ではないので、上着を羽織らせるくらいが霰の仕事だ。
上着に袖を通した神通は、クローゼットの扉の裏に掛けられた撚り紐に手を伸ばした。紐は白、赤、黒等と色違いの物が数本掛けてあり、神通はその中から白の撚り紐をとって髪を首の後ろで結ぶ。
那珂に聞いたところによると、神通はその日の気分で紐の色を変えているらしい。
女の子らしい可愛い所もちゃんとあるじゃないか。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ霰は、悟られないように小さく笑った。
やがて着替えと髪を結い終えた神通は振り返って、霰の腕から脱いだ寝巻きを手に取って椅子に歩み寄る。そして霰は寝巻きを手渡すと同時に口を開いた。
『食事用意、かかります。』
『ん。』
短く返事をして椅子に腰掛ける神通を背に、霰は部屋を出て士官用烹炊所へと向かった。
神通艦に限らず、艦には必ず神棚がある物である。大小はあれど、艦魂が見えずとも乗組員達は船に感謝の念を表し、そこに航海の無事や訓練の成功を祈願する物である。日本人らしい独自の文化である。
それに伴って神通艦では昔の艦長に艦魂が見える人がいた事から、艦長専門の割烹が艦用として食事を用意して神棚にお供えするのが伝統になっていた。故に代々の艦長お抱えのコックを務める割烹は既に神棚に朝食を載せた盆を置き、テーブルの上に艦の主に仕える従兵が取りに来るであろう運搬函を用意して洗い物にかかっている。
転じてカチャカチャと食器が水の中でぶつかり合う音を立てて背を向ける割烹を、霰は烹炊所の入り口からひょこっと顔を出して眺めていた。いきなりふわふわと浮いて動き回る運搬函を見たら騒ぎになるから、霰としてはバレないように運び出さなければならない。彼女は忍び足で烹炊所に入った。
実はこの割烹は室内に何者かが入ってきた気配に既に感づいている。彼は既に20年近いキャリアを持つベテラン割烹さんで、コソコソと背後で動き回る霰に背を向けたまま微笑んでいた。しかしそんな彼の心情など露知らない霰は、冷や汗を掻きつつ運搬櫃に神棚の碗や皿を移している。お願いだから気づかないでと胸の中で繰り返しながら霰はせっせと食事を詰め込むが、ありがたい事に運搬函には既に霰の分も入っており、彼女はそれが背を向けた気の良い割烹さんの心遣いだと知らない。
今日はツイてる。
そう思って運搬函の蓋を閉め、霰はテーブルの上に置かれた水の入っているやかんを触れると、白い光りをその身に纏って上司の部屋へと戻った。
艦魂の特徴である白い光りを使った能力は、便利なのだがとにかく疲れる。
神通の部屋に着くや、膝から力が抜けそうになるが唇を緩く噛んで霰は耐えた。彼女達の能力なら食べ物や飲み物も出現させる事ができるが、それはあまり体力の回復にはならない。やはり人間達が食べる物と同じ物を食べるほうが、艦魂であっても体力の回復には効果的なのだ。いつも明石が大量のお菓子を平らげる理由はここにあったりする。
一方、部屋の主である神通は机に向かって椅子に座り、頬杖をついて小難しい名前の本を呼んでいた。その背後にて霰は運搬函とやかんをその場に降ろすと、さっそく神通の分の食事を盆に用意し始める。
今日は味噌汁がこぼれていない。
そんな小さな仕事の成功に、霰は小さく微笑んで碗や皿を盆に並べた。今日の朝食のおかず、旬のサヨリの塩焼きが香ばしい香りを部屋に充満させる。
『ふむ、サヨリか。』
振り返らずともおいしそうな香りから逃れられなかったのか、神通は少し嬉しそうに言った。
『はい、おいしそうどす。』
『ん。』
上司に声を返しながらも、霰は食事用意のシメにかかった。兵の食事よりも2皿多い盆に、やかんの水を汲んだ小さい碗を添えて完成。霰はお盆をそっと持ち上げて、神通が向かう机の脇から歩み寄って声を上げる。
『食事用意、良ろし。』
『ん。』
神通はそう返事すると手に持っていた本を閉じずに逆さまにして机の隅に置き、霰の手から盆を受け取った。立ち上る湯気と匂いに、さしもの神通もその口元がほんの少しだけ緩む。
霰はそれを見届けると、神通の後ろの床に座って自分の食事の準備を始めた。神通よりお皿の数は少ないが、おかずは同じサヨリの塩焼き。皿から大きくはみ出るサヨリに、霰の口の中には唾液が溢れた。
しかしそんなおいしそうな光景にも、霰の笑みはすぐに歪みを伴った苦笑へと変わる。
その表情のまま小さく溜め息をした後、霰はご飯の入った茶碗にサヨリを解して乗せると、さらにその上から味噌汁をかけた。具沢山、汁沢山で重くなった茶碗を一度持ち直すた霰は、箸で手繰り寄せる様にしてそれを一気に口へと流し込む。ジュルジュルと音を立ててがっつく霰の姿は品が悪いが、神通はその部下の姿を横目でチラリと認めて一瞬だけ微笑むと、再び机に顔を戻して読書しながらの食事を続けた。
これには理由があって、そも霰は食事の行儀が悪い訳でも、食い意地が悪い訳でも決して無い。彼女にはゆっくりと食事をする時間の余裕が無いのである。なぜなら食事が終わった後の後片付けも、今日の霰のお仕事だからである。
京都生まれで味覚も薄味派な霰には、濃い口の味噌汁にサヨリの塩が溶けた汁は食べにくい事この上なく、時折呼吸を整えては目をつむって碗の中身を口に運ぶ。また、食事中であっても霰の仕事はある。
コトッ・・・
前触れ無く神通が食事する机から聞こえてきた小さな音に、霰はすぐさま箸と碗をその場に置き、代わりにやかんを持って机へと駆け寄る。彼女の予想通り、神通の水の入っていた小さな茶碗が空になっていた。もぐもぐと口の中で噛みながら水を注ぐ霰だが、神通はその帝国海軍軍人らしからぬ部下の姿に苦笑いして口を開いた。
『・・・馬鹿者、帝国海軍軍人が食いながら歩き回るな。』
その言葉にギクリと身体を硬直させた霰は、申し訳なさそうに俯きながら口の中の物を飲み込んだ。少し咳き込みながら霰はやかんを戻す。
『しゅ、ゴクン・・・、すみません・・・。』
『・・・ふん。』
呆れたように神通はそう言うと、再び水を湛えた碗を口に運んだ。ゆっくりと水を飲みながら、神通はビクビクとして俯く霰に向けて片手を下に振る。その合図に霰はひょこっと頭を下げると元の場所に戻り、再び猫飯となった碗を口に近づけてジュルジュルと音を出し始めた。
例え艦魂であっても新兵さんの生活は万事が万事、こんなにも大変なのである。これに加えて普段の業務では慣れていない事もあって、当然上司にどやされる。何をするにしてもトロくて要領の悪い霰は特に怒られる。上司に粗相の無いように気も使う。一日三回の食事は毎回、後片付けと給仕を掛け持ちしなければならないので、ゆっくりと味わって食べる事もできない。さらには服や下着の洗濯だって受け持たなければならないし、上司と部下達との間を色々な面で繋ぐパイプ役としての立場もあるのだ。
ほっと一息つけるのは夕飯が終ったくらいの7時から9時の消灯時間までの間くらいである。しかしこんな辛い生活の中で身を鍛える事で、新兵は従順にして忠実な、そして逞しい兵隊となっていく。
またそれを影からそっと支えるのは、上司たる者の大切なお仕事だ。部下全員に分け隔てなく思いやりを注ぎ、一人一人の内面的な懸案に常に注意を払う上司のお仕事も、新兵と同じくらい大変なのだ。
時は流れて、夕暮れから夜に変わる時間の神通艦。神通の部屋に入って扉を閉めた霰は、相も変わらず机に向かっている上司に向かって口を開いた。
『後片付け終わりました、戦隊長。』
『ん〜。』
神通は上着を背もたれにかけた椅子に座り、書類に鉛筆を走らせながら霰に返事をした。霰はその返事に自身の長い一日が終わりに近づきつつある事を悟って、少しほっとしながら声を返した。
『戦隊長、後はよろしどすか?』
霰のその言葉に神通は鉛筆を止めつつも、書類から視線を逸らさずに固まった。少しの間沈黙が続いた後、神通は突如として立ち上がる。
『あ〜、身体を解してくれるか?肩が凝った。』
神通はそう言うと肩に手を当てて首を左右にゆっくり曲げながら、壁に折り畳まれたベッドを床に降ろした。その取り扱いに霰は大変に苦労したベッドであるが、170センチを超える大きな身体を持っている神通にはそれは造作も無い。ベッドはいとも簡単に壁から引き降ろされ、バネと金属の衝撃音を辺りに放つ。
『あ、はい・・・!』
霰が返事をした頃には、既にうつ伏せになってベッドに横になっている神通。霰はベッドに駆け寄ると靴を脱いでベッドに上がり、神通の背中や肩に手を伸ばして揉み始めた。長身で力も強い神通だが、触れた彼女の身体は驚くほどに柔らかい。神通の首に見ることの出来る雪のような白い肌、そしてその意外な手の感触に霰は素直に驚いた。
『うわぁ・・・。』
『ん〜、なんだ・・・?』
肩に込められる霰の力に心地良いのか、神通は目を閉じて力の抜けた声で言った。霰はその言葉に慌て、疎かになった手の動きに再び力を入れる。
『す、すみません・・・。なんでもないどす。』
『気になる・・・、あぁ〜・・・、言ってみろ・・・。』
上司の声に気まずくなった霰は俯き、視点を神通の背中と顔にチラチラと行き来させながら答えた。
『せ、戦隊長、き、綺麗な肌どす・・・。』
『んん・・・、そうかぁ?』
馬鹿者が!といつもの怒号が帰ってくると覚悟していた霰は、意外な神通の言葉にきょとんとした顔でその顔を覗きこむ。神通は目を閉じたまま、それはそれは気持ち良さそうに微笑んでいた。
『は、はい。雪みたいどす・・・、あ、あはは・・・。』
『ふん・・・。お前も、綺麗な肌をしてるじゃないか。』
『ウ、ウチはそんな・・・。ウチには良い所なんか─。』
『ある・・・。』
神通は霰の言葉を遮るようにそう言った。
神通の優しくも切り裂くような言葉に、霰は呆けた表情で思わず手を止める。神通はゆっくり瞳を開きながらも、視線は真っ直ぐ壁に向けて浮かべた微笑みを崩していなかった。
『・・・お前は誰よりも他人の気持ちを考える。誰よりも他人の事を考える。それは誰でも出来ることじゃない。』
新入りの姉達やの陽炎に比べて、霰は何をしても上手くできない部下だった。常に先を行く姉や後輩の後ろで、舌を出して残念そうに苦笑いする霰。だが神通はそんな霰が、芯の通った強い意地を持った性格だという事を見抜いていた。いつもおくびにも出さずに笑っている霰だが、その実は自分の不甲斐なさに常に自分を傷つけている。しかしそれを理解したからこそ、神通はそんな霰を二水戦から放り出す気などは毛頭無かった。
『・・・お前はトロいし失敗も多い。でもそれで良い、良いんだ。お前はお前だろう、霞や朝潮の真似なぞせんでいい。』
『は、はい・・・。』
『・・・ただ、泣きたい時はおもいっきり泣け。それと手が止まってるぞ。』
『うっ・・・、は、はい・・・!』
霰は溢れる涙を拭いて笑みを浮かべて、再び神通の身体に触れた手に力を入れた。
必死に涙が神通に落ちないように顔を擦って笑おうとする霰を、この時神通はとても不憫に思った。霞や明石のように、辛い時や悲しい時に大声で泣いて抱きつける事ができるのならどれだけ楽だろう。
だが霰はそののほほんとした性格とは裏腹に、常に自分を苦しませる道を選択しようとする。耐えれるだけの強さもなく、抗うだけの力も無いくせに、きっと迷惑になってしまうと考えて、どんな時でも自分を放って他人を優先的に思いやる霰の長所であり、短所であった。そして、強すぎる意地で自分を苦しませるその性格は、表われ方こそ違えど自分と良く似ていると神通は思ったのだった。
やがてそれとなく横目で見た霰の顔に、神通はある事を決めた。
『・・・お前には従兵として、しばらく私の身体を揉んでもらう。・・・辛いだろうが命令だ。』
『はい・・・!ウチ、頑張るどす・・・!』
神通の言葉に霰は嬉し涙を流して返事をした。この人は私の事を解ってくれる。ひたすら頑張ろう、この人の為にも。想いが篭った霰の手が神通の身体から疲れを取り除いた。
そして霰と同時に神通も決意した。
鬼と呼ばれ、かつては泣いて怯える部下の顔ですら、平気で何度も殴っていた神通の言葉。その言葉にすら霰は決して甘えようとはせず、ただ笑って目前の仕事に励むばかりだった。もちろん霰が悪い訳ではない、彼女の心の内を変えるのは他ならぬ自分の役目だ。
いつか霰が抱きついて大声をあげて泣く事が出来る、そんな背中を持った上司になろう。
上司の立場を頂く神通なりの、大きな決心だった。
今この時も、支那事変はまだ終わっていない。
だが神通と霰のように小さいながらも暖かいドラマが生まれる余裕が、まだこの当時は帝国海軍にはあった。事実、ある程度の戦力を派遣していながらも、実働部隊のほとんどに及ぶ大規模な編成替えを実践できていたのである。
聖戦と呼ばれた支那事変に邁進する日本。だが実は既にこの頃から、国内の疲弊は目立ち始めていた。過去に日露戦争前における臥薪嘗胆の生活があったからか、国民はその国内の状態を憂う事は少なかった。
『お国の為に戦う兵隊さん万歳。銃後の私達もお国の為に尽くしましょう。欲しがりません、勝つまでは。』
そんな言葉を上げて派手な出征見送りが盛んに行われた時代。そして月が進んだ12月に白米禁止令が実施され、家庭の食卓からは白米の碗が一斉に消えた。
何年も戦争状態を維持できる国力は日本には無い。
元来、日本は貧乏な国である事は誰もが知っていた筈だった。だがこの頃から日本はそれを忘れ、背伸びをし始めた。身の程を忘れ、協調主義が薄れていく日本。あたかも余裕があると錯覚してそれが醒めた時、彼らは大日本帝国とそこに有った幸せの全てを失う事となる。
既に始まっている終焉を迎える秒読み。しかし、それに気づく者はまだ誰もいなかった。