第一〇九話 「形と友情/後編」
第二艦隊の各艦が大小の内火艇やカッターを周囲に群がらせて浮かぶ、陸地の茶色と海の青さが際立つ室積沖の泊地。
近場である呉鎮守府よりやってきた運送艦から補給資材を受け取り、訓練弾頭の魚雷や砲弾といった訓練の為の物資も各艦には揃いつつある。明石艦も出来上がった標的類を左右の乾舷下に幾重にも渡って繋ぎ止め、「両手に花」ならぬ「両舷に的」というその様はなんとも奇妙な光景である。
その場にいる艦魂達の何人かは標的まみれの明石艦を見てクスクスと笑っていたが、その甲板上で汗水流して標的の組立てに勤しんでいる明石艦乗組員一同と、軍刀作りに一念発起した艦の命たる明石にあっては、決しておふざけではない至って大真面目な一日を過ごしていた。
『う〜〜ん、と・・・。ぬあ、これもダメかぁ・・・。』
ねずみ色一色の明石艦艦内にはトンカントンカンと小気味良い木材を打つ音と供に、兵下士官が寝泊りするいくつもの兵員室の一室へと来て、室内に並べられた衣嚢から服の類を出しては引っ込めるを繰り返している明石の呟きが木霊する。兵員一人当たり一つを与えられているこの衣嚢の中身はそれぞれの日用品で、一種二種の違い問わない軍装や軍帽、靴下にタオル、果ては陸戦隊として行動する際に着用する脚絆なんかも入っている。
友への想いを昂ぶらせて工作室を出た明石はまさにそんな衣嚢を漁っているのだが、決して散らかしっぱなしにして後で上級の立場の人に衣嚢の持ち主達が怒られれば良いとか、毎日の御飯の様に銀バイを働こう等と思っている訳でもない。取り出した服を戻すにあたってはちゃんと折り畳み、入っていた順番にも気を使ってあくまでも衣嚢の中を元通りとするように意識して明石は戻しているのだ。
『これはっとぉ・・・。お、ぴったしぃ。』
やがて漁り始めてから数個目である衣嚢の中から取り出した服を身体に合わせ、それが自身の背丈と身体の幅にちょうど良い大きさであった事に明石は嬉しそうに声を上げる。
明石が手にしているのは白い木綿で出来た事業服で、お船に乗っている兵下士官にあっては制服よりもこっちを着ている方が多かったりする服。一般的な呼び名で言う所の作業衣という奴で、艦上での多様な作業に従事する時は勿論、この時期は霜焼けに悩まされる毎朝の甲板掃除なんかでもこの服が着用されている。もっともおかげさまで事業服は帝国海軍内で最も汚れやすい服装の一つとなっており、サイズがちょうど良い事を喜びながら明石が手にする事業服もまた、例に漏れず膝や肘のあたりに黒い汚れが薄っすらと見て取れた。
『う〜〜ん、ま、でもしょうがないよね。』
明石もそんな事業服の汚れを目にしてちょっとだけ残念そうな声を上げるのだが、すぐにさしたる問題は無しと判断して表情を明るくする。次いで彼女はその場にしゃがみ込み、取り出した事業服の上下を両膝の前辺りに並べるようして床に置いた。
『ふう、よしっ・・・。』
何事か気合の込める声を放つ明石は、言い終えると同時に目を閉じて両手をそっと眼前の事業服に重ねる。すると明石の両腕には肩の辺りから淡く白い光が、まるで風に舞い上げられる粉雪の様にふわりと立ち昇り始める。一つ一つの細かな粒子が輝き、ふわふわと短時間の浮遊をした後にやがて光を失っていくその光は、明石を含めた船の命達が一様に持つ独自の能力。輝きはやがて明石の腕を伝ってゆっくりゆっくりと流れを形成し、砂時計の砂の様にサラサラと流動しながら明石が手を置いている事業服へと注ぎ込まれていく。
『くぬぅう・・・!』
その間の明石は眉間にしわを作りながら強く目を閉じて唇を噛み、淡い光が段々とその流れ、輝きの勢いを上げていくのに比例して襲ってくる苦痛に耐えていた。何か重い物を抱えている訳でも激しい運動をしている訳でもないのに、明石の両腕の感覚には何度も殴打され、全ての筋肉がひとりでに膨れ上がってパンパンとなって行くような、痛みよりも苦しみの方が色濃いという奇妙な感覚が圧し掛かってくる。艦魂にとってのこの淡く白い光は仲間達の元への移動だったり、自分達が使おうと意図した物体を人間達に見えないようにする時など、相応の頻度で使用している物でもあるのだが便利さにかこつけて生活の中で何にでも用いようとしないのは、まさに今の様な苦痛が常に伴うからでもある。これらを緩和する方法はどうも無いようで、輝きの度合いがピークに達してきた両腕の苦しみに耐えるだけで明石の身体には疲労がみるみる蓄積していった。
だが同時にドンドン削られていく彼女の体力の代償は、その眼前にて既に形を成して始めている。やがて明石の手から伝わった淡い光は彼女の手が置かれた事業服を覆っていき、事業服の生地の色合いが全く輝きで隠れてしまうようになった頃に、明石は白い光に目を眩ませながらも片目だけを薄っすらと開けて白く輝く事業服をじっと凝視する。そしてその光の中に彼女は自身の企図した光景があるのを確認し、両腕の苦しみに耐える険しい表情の中で口元をちょっとだけ吊り上げた。
『くぅ・・・! よ、よっし・・・!』
そう呟くと明石はそれまでずっと事業服の上に置いていた手に渾身の力を込め、ぎゅっと強く握った両手で事業服を持ち上げるように両腕を上に持ち上げる。すると明石の身体からも事業服からも淡く白いあの光が嘘だったかのようにパッと消え失せ、その瞬間に明石の両腕からはこうして光を使う毎に常に伴う独特の苦痛も瞬時にして吹き飛ぶのだった。
しかし腕を上げた反動とようやく苦痛の支配から解放された拍子に、明石は思わず後ろに仰け反って尻餅をついてしまう。
『うわ、わ・・・! ぐえ・・・!』
ろくに受身も取れぬ中で鋼鉄の床へと打ち付けたお尻は激しい鈍痛に襲われ、明石は笑みから降下一転の涙目でお尻を擦る。加えて淡く白い光を用いた能力を今しがた使い終えたばかりの彼女の身体は、肩でするような息遣いを伴ってはおらずとも多大な疲労感に満たされていて、その感覚はまるで主砲の砲弾が背中に圧し掛かっているかの如く重い。身体の節々に筋肉痛にも似た張りが展開されていて、ちょっと腕を上げるだけでも苦悶の表情を浮かべている明石の顔と声が、その疲労の程を物語っていた。
『ぐへぇえ・・・。ちょっと張り切りすぎたぁ・・・。』
普段、仲間の下へと赴く際の転移でもここまで疲れる事は希な明石。その言葉にもある通り、一連の明石の行動は艦魂としては多大な労力を消費するのが実情で、とかく便利さが魅力となってはいようとも、立つ事すらもままならなくなる程の代償を支払わねばならない大変な行為である。故に明石は今しがた終えたばかりのような能力の使い方を滅多に実施しないのだが、もちろん彼女とてただ疲れを己の身体に蓄積させようと思った訳ではない。
その証拠にしばらくお尻を擦って痛みも和らいでくると、明石は疲労感一杯の中で緩く両端を吊り上げた唇の隙間より白い歯を覗かせて笑みを作ってみせる。そして彼女の細めた瞳の中には、なんとさきほど衣嚢より取り出した事業服とは丈や幅どころか小さな油汚れの位置までも全く同じである、もう一着の事業服が映っているのだった。
『うし・・・。じょ、上手にできたぁ・・・。』
この兵員室へとやってきた時よりずっと彼女が狙っていた代物がコレである。触れている物と全く同じ物体を相当の体力を代償として出現させる事は、明石に限らず船の命達が共通して持っている最大の特徴であり、明石とて新米艦魂であってもそんな自分達の能力の事はよく知っている。拳銃や時計といった複雑な構造の物は出来ず、しかもまた実際に手で触れないと形にできないなど、色々と能力における限界こそ有るが、この能力を使えるが為に艦魂達は、その分身が豪華客船ならば船員さんが着る船会社の服、帝国海軍所属の艦艇であれば帝国海軍の軍服といった具合に、それぞれの分身に乗組んでいる人間達と同じ服装をしているのだ。
おかげで人間の女性と比べるとそのファッションは圧倒的に男装が多い船の命達であるが、多少の不満はあったりしても彼女達は一様にその在り方を至極当然と割り切って生活している。だから明石も自身の艦に乗組んでいる男の内の一人が実際に着たであろうこの事業服を、ちょっと汗臭いとか油汚れが目立つ等という点で嫌悪するような意識は無い。
『ぬぅう〜、とりあえずお洗濯してから使うかぁ。』
頬に掻いていた汗を拭いつつ、自ら複製した事業服のアチコチを見ながら明石はそう呟くのみ。言うまでも無くこの事業服は親友の為の軍刀作りで着る事を予定しているのであり、普段着でもあり立派な制服でもある軍装を工作作業で汚さないようにと企図して彼女は調達したのだ。
『よっし! 後は工作部の資料庫に行って、工作部長さんがしまった参考書を探せば大丈夫だ!』
まだお昼を過ぎて少ししか経っていない時間帯ながら疲労の色も濃い明石であったが、神通へのプレゼントを用意するという大目標とそれに付随する友人の喜ぶ様を見たいが為、彼女は元気を振り絞ってそう言うと後片付けを開始した。
その後は一度自分の部屋へと戻って手に入れたばかりの事業服をしまい、次いで今度は中甲板の一角にある工作部の資料庫へと移動。明石艦工作部における多様な工作関連資料が幾重にも並んだ本棚に納められているという資料庫は、明石艦の中でも1、2位を争うほどに埃っぽい空気が充満するなんとも居心地に難有りなお部屋で、疲労困憊な上に咳で呼吸を圧される中での探し物に明石の体力は一層の消耗を被った。
『うぇへ、げほ・・・。 ういぃ〜、や、やっと見つけたぁ・・・。』
ようやく大量の本棚の中より、西田工作部長が所持していた参考書を発掘し終えた明石。そんな声を上げる頃には既に夕闇も迫った時刻で、だるさと重さで溢れる視界でふと通路の舷窓から望んだ空は、既に朱色を通り越して濃紺の色合いを濃くしていた。その上で帝国海軍として本日の業務終了も近い事が、上甲板にて乗組員達に対して放たれたであろう遠い声によって明石に示される。
『課業止めー。甲板諸掃除ー。』
些か厳つい響きを常に持つ号令だが、今の号令は世間一般で言う所の後片付けを意味する物。昼間はコキ使われまくった新兵さんも明石艦の責任者である特務艦長さんも、本日の業務は一応これにて終了であり、一日の中で残す物と言えば後は入浴と夕飯ぐらいだった。
そして今日の明石は既にもうヘトヘトの状態で、普段から食事調達の為に兵員烹炊所へと赴いている事も、今日だけは面倒だと思えてしまう程に心身供に疲弊している。ほっとけば3人前の御飯をぺろりとたいらげる彼女の食欲を考えれば、これは相当に珍しい事だ。
『つ、疲れたぁ・・・。もう夕飯は缶詰で良いやぁ・・・。』
だらんと両肩を下げて、歩く足取りもちょっとフラフラとする中、明石は疲れた声でそう呟いて自身の部屋へと向かう。特に淡く白い光を使った事業服の調達において、体力の消耗が非常に激しい物となる事は最初から解かっていたが、友人の為と覚悟を決めても疲労という感覚にはやはりどうして中々勝てる物ではない。
だから明石はそのまま部屋へと戻ると、一直線にベッドへと倒れ込みたい衝動を抑えて埃だらけになった服を着替え、その日は風呂に入って部屋に備蓄していた鯨の缶詰を食べて、まだ消灯の号令も掛かっていない時間にも関わらず早々に眠りにつくのであった。
明けて翌日。
室積沖の第二艦隊各艦は、未だ訓練海域で行う戦技訓練の為の準備作業に追われている中であったが、高雄艦にて古賀長官が率いている艦隊司令部よりの連絡で、なんと明後日にはこの室積沖の泊地に、呉で待機中の第一艦隊、そして任地である南洋方面よりわざわざ出張してきた第四艦隊の艦艇達が軍艦旗を並べる予定にある事を知らされる。合同での訓練であるのと同時に、艦隊司令部のお偉方による新年最初の打ち合わせも兼ねているらしいが、もちろんそれは人間の海軍軍人だけでは無く艦魂達にとっても同じである。
第一艦隊には明石が姉と慕う長門がいるし、第四艦隊には観艦式前の宴で知己を得た常盤という大先輩もいるのであり、ここ最近は上昇志向であるご機嫌の良さを彼女は更に上へと向けた。
そのおかげか、疲労困憊から一夜明けた明石はお昼頃になると元の元気も取り戻し、昨日手に入れて本日の午前中を使ってお洗濯も済ませた真っ白な事業服を身に付け、颯爽と昨日軍刀製作が行われた工作室へと現れる。
『へっへ〜ん!』
今日も標的類作りが盛んな明石艦では艦内の狭い工作区画で作業している工員さん達が少なく、工作室は甲板での物音が遠めに聞えてくるだけの至って静かな空気が満ちている。しかし明石の明るい表情と声、そして彼女の身体に身に付けられた真っ白な綿の輝きも眩しい事業服が、そんな幾分寂しい感もあった工作室の空気に明るさを与えていくのに時間はかからない。折り目も正しい長袖長ズボンと、胸座にある両脇の襟を繋ぐ紐が目印の事業服は、濃紺か純白の二種類しかない軍装が唯一の所持している服装である明石にとって、例え人間の乗組員達が汚れても良い服装として着ている代物であってもようやく手に入れた装飾品にも等しい。その上で事業服の着心地は軍装と違って動き易く作られており、明石は思わず体操でもするかのように両腕を上下させながら工作室へと足を踏み入れていく。
加えて多様な工作機械が並ぶ中での安全も考慮して、今日の明石は髪形も変えた。普段は首の後ろで一本に纏めている自慢のクセの無い黒髪も、下手をすると機械に巻き込まれて危ない事態となるので今日は額の辺りからタオルを巻いて後頭部で結び、長い後ろ髪は全て頭に巻いたタオルの中に押し込んで万全の態勢を取る。するとどうだ、髪型を変える事で明石の気分は一転し、昨日の疲れ具合や工作室内にたちこめる鉄臭さなぞ微塵も疎ましく感じてこなくなる。
『よおし! 頑張るぞぉ!』
さっそく昨日の内に確保しておいた軍刀の素材たる白みを帯びた鉄棒を手に取り、白い歯を覗かせた笑みで明石は声を張り上げて軍刀作りを始めるのだった。
しばらくすると機械油と鉄粉の臭いが満ちる工作室には、研削盤の耳を突くような唸り声と供に、研削盤へと向かってあの白さが目立つ鉄材を加工する明石の姿が在る。初めての機械工作にて刀剣を製作するという大兆戦に明石は早くも頬に汗を滲ませており、軍手越しに拭った所には黒ずんだ汚れ一条が薄っすらと走る。工作艦の命である故に幾分は見慣れている筈の研削盤から放たれる大量の火花も、こうして間近にしてみると中々怖いもので、ちょっと腰が引けた格好でチビチビと鉄材を削るその光景は、初心者とは言えどなんとも格好のつかない絵となっていた。
だがしかし、当の明石は緩く噛んだ唇と僅かに見開いた瞳で真面目な表情を作り、時折火花の散り具合にちょっとビックリしながらも鉄材の加工を続けていく。
大事な大事な友の為と心をたぎらせた彼女は本日朝の起床時から今着ている事業服のお洗濯を始め、一月の寒空に干して乾燥させている間に工作部の資料庫から拝借してきた参考書を読み、軍刀作りのイロハにちゃんと目を通してからこの工作室へと足を運んでいるのであり、それだけにちょっと研削盤の迫力に面食らった感があっても決して途中で投げ出そうという気にはならないのだ。それに昨日の伊藤特務艦長と西田工作部長が行った工作模様にも示されていた通り、別に一端の刀匠の如く槌を振り回す所から始まるような軍刀作りでは無い事を明石は知っており、そこも含めて色々と書かれていた参考書を読んだおかげで随分と気は楽になっている。
『へぇええ。軍刀って、海軍だと〝長剣〟って呼ぶんだぁ。』
今から約一時間ほど前。
明石は事業服が乾く間に目を通した参考書についついそう漏らし、同時にかつての相方が常に身に付けていた小振りな刀剣が〝短剣〟と呼ばれている事をふと思い出して、呼称にまで及ぶ詳細な軍刀の知識に勉学の食指を伸ばす事が出来ていた。一口に軍刀と言ってもその材質、精錬の方法は皇軍が発足した明治の頃より実に多岐多様な在り方となっており、明石が目にした人間達による機械を用いた軍刀作りはその中でも既に日露戦役の頃には実用化されていたらしい。素材を研削するだけでとりあえずの機能と体裁を備えれる点は戦の事情に最も良く適合し、調達も含めて全てが簡便な所が長所。欠点としてはグラインダーで刃をつけただけでは特に斬撃に対しての効果が不十分らしく、日露戦役の頃よりその使用に際してはもっぱら刺突専門とされていたとの事であった。
例え海軍艦艇の命とは言え、生来が直接的に戦と関わらない身の上事情を持つ明石にとって、参考書に記されるそんな物騒な知識は随分と意識の上での衝撃が強い側面があったが、友人の為だと言い聞かせて必死に先を読み進む末になんとか内容を一通り頭に入れる。
それぐらい明石は、今は友である神通が狂った鬼として美保関以来の時を過ごす中、ずっと大事にしていたという軍刀をへし折ってしまったかつての自分に罪悪感を覚えていた。だからなんとか今回の軍刀作りを成功させようと目論んでいるのだが、これがどうして上手く行かない。
『あれえ? な、なんか変な形になっちゃったぞぉ。』
明石は努めて真面目な面持ちで工作に励み、親指くらいになる研削盤の幅で一生懸命に軍刀の素材を研磨していたが、素材の一箇所の部分の研磨に集中していたのが災いした。明石がその異変に気付いて研削機から離した鉄材には、まるでのこぎりのようなまだら模様の刃が付いてしまっていたのだ。
『ぬぅう・・・。全体をちゃんと見ながらやんないとダメかぁ・・・。』
最初の工作具合はものの見事に失敗だと悟る明石はそう漏らしながら研削した素材の表面を指先で撫でてみるが、圧さも不均等なデコボコ模様は指一本による触感だけですぐに解かる。一点集中型である明石の人柄を考えれば彼女らしい結果と言えなくも無かったが、機能性は別としても刀剣らしからぬ形となってしまっているのはさすがに「駄目」と判断せざるを得ない。完成した暁には贈呈しようと企図している友人、神通は自分よりももっともっと刀剣には詳しい筈であり、ド素人の自分にすらも解かるような駄作なぞ渡したら喜んで貰える訳が無いからだ。
中々難度も高い軍刀作りはこうしてのっけから躓く事となったが、明石とてこんな程度の失敗で心が折れてしまうことは無い。まだまだ始めたばかりだし、研削盤を上手く使えば刃の部分のデコボコは修正できると考え、小さく溜め息を放って心機一転。ペダル式となっている研削盤のスイッチを踏み込み、さっそく駄作軍刀の修正へと移行する。
しかしここでまたしても、明石による軍刀作りは障害を得てしまうのであった。
それは研削盤の唸りが高らかとなり回転数も上がってきた頃、突如として明石の手元より響いた不気味なほどに綺麗な金属音と、明石の手元より軍刀の素材たる鉄棒の半分ほどが転げ落ちていく光景によって示されており、明石は驚愕の表情となって思わず叫んでしまう。
『あああーー!! お、折れちゃったぁ・・・。』
研削盤に押し当てる明石の力が強すぎたのか、それとも明石の折れない心を研削盤が嘲笑ったのか、なんとなんと明石が工作していた鉄材は突如として真っ二つに折れてしまったのである。しかもまた具合が悪い事に鉄材は中程から泣き別れとなり、そもそもの長さ自体が明石の身長より若干短いくらいである事から、折れた方のどちらかを引き続き工作しても、もはや軍刀としては極端に短さが目立つ代物になってしまう事を声もなく示しているのだった。
『ぅんもぉ・・・。上手くいかないなぁ・・・。』
これまで自分の事を手先が特別不器用だと意識した事は無いが、ものすごく工作や細工に才能が無い事をひしひしと感じてしまう明石。昨日以来の疲労と立ったままでの作業により足の負担が気になりだしていた彼女は、どうにも上手くいかない工作作業に少々の落込みを覚え、ここでちょっと休憩を取る事に決める。
『なんか、ダメだぁ。最近、ボロが出てばっかりぃ・・・。』
工作室に一つだけある舷窓から射し込む陽光に当たって僅かな暖を取りつつ、明石はその場に脚を伸ばして座る。その表情はどうにも上手く進捗しない自身の身の周りを憂いだ為、眉もハの字になり頬の緩みもかなり薄くなっている。
先日の仲間内におけるお勉強会では加賀という先輩からのお褒めの言葉も頂けたが、やっぱりそれでも仲間達に比べて彼女が色々な知識が欠けているのは周知の事で、お師匠様より手ほどきを受けた英語も中々上達しない身の上が明石の意識にふと浮かんでくる始末。落ち込んでしまうのも無理は無かった。
『はぁあ〜・・・、困ったなぁ・・・。』
そんな台詞を吐きながら、どうしようと思って明石は一時の休憩をとる。
だがその時、明石が居る工作室とはドア一枚を挟んだ通路の方から、乗組員達の物であろう会話がふと彼女の耳に聞こえてきた。
『どうだい、これ。研磨の機械とかで出来そうか?』
『おう、いけるぞ。工具の補修なんかでよく使う砥石があるんだ。』
『ん?』
段々近づいてくる彼等のやりとりに気付いた明石は、ひとりでに開いたドアに乗組員達が驚かないように慎重にドアを開け、僅かなドアの隙間より通路で立ち話している下士官2名を認める。明石と同じ薄汚れた事業服を着て腰に手拭いを差してある所を見るに、どうやら二人とも何某かの作業途中で抜け出してその場に居るようであった。次いで明石はその二人の内の片方が片手に包丁を手にしている事から、とりあえず彼は主計科の兵員さんなのだろうと察し、その光景と先程聞えた会話の内容から「主計科の兵が包丁の刃こぼれを直すので、工作部の兵員さんに砥石を貸して欲しいとお願いしている」のだろうと推察する。
すると明石のそんな推理は大当たりで、彼等二人は明石の潜伏する工作室の扉を開けて室内の工具置場より砥石を取り出し、水を流しながらの研ぎ作業となる事から烹炊所の流し場へと足早に向かっていくのだった。
『なるほどぉ。手で研ぐのかぁ。』
再び明石以外の存在が居なくなった工作室の中、明石は先程2人の兵員さん達が砥石を取り出していた工具置場へと足を進め、自らもまた灰色でザラザラとした触り心地が特徴的な砥石を一つ手にとってみる。一日三度の食事に合わせて都度烹炊所へと赴く明石にとって、もちろん包丁を研ぐ砥石というのはこれが初見な訳ではない。黒板にチョークを走らせる音が湿ったような音色を奏でて包丁を研ぐ乗組員達の姿はこれまでも何度か見た事があるし、艦魂社会における軍医として時折医務室へと薬品の調達をしに行った際には、素手で行う包丁研ぎの作業で指を切ってしまった主計科の水兵さんが治療されている光景だって目にした事があった。
そして砥石に関する記憶を脳裏で漁っていた明石はこの時、研削盤のような機械による研ぎ作業に対し、この砥石ならば手の力のみで加減ができるのではと閃く。確かにペダルを踏んで鉄棒を押し当てるだけの研削盤はその分作業は楽でもあるが、大事な大事な素材がさっきのように折れてしまっては何の意味もないし、それが手作業による少々の疲労で回避できるのなら安い物だと彼女には思えたのだ。
『そっかぁ、同じ刃物だもんね。上手く慎重にやれれば大丈夫だよね!』
難儀していた工作作業の懸案が見事に解決された明石はそう呟き、些か大変でも折れたりするのを防げる研ぎ石戦法で軍刀づくりを続行する事に決めた。
それに刀剣類その物をあんまり見た事の無い明石にとって、包丁は同じ刃物として工作の良い実物参考にもなる。片面にしか刃が付いていないのもまた刀と同じであり、明石はさっそく烹炊所へと赴いて使用されていない多くの包丁の中から最も長くて刀剣に形が似た物を持ち出し、併せて真水タンクに収められている清水とは名ばかりの濁った真水をバケツ一杯に汲んで工作室へと運んでいった。
こうして手際よく準備を整えた後、明石は中断していた軍刀製作を再開。お水で濡らした鉄棒はひんやりと冷たく、軍手を脱いで作業する指先の感覚はすぐに薄れ、生来が寒がりな明石は一月真っ只中の寒さが体の芯にまで堪えたが、砥石による刃の造形は僅かづつの進捗ではあっても明石がイメージした形にちゃんと近づいていく様子が目に見える。作業に伴う感覚にあっても素材が折れる気配は全く無く、明石は時折烹炊所より持ち出した包丁を見たりして、どこか楽しそうな表情すらも浮かべて軍刀の形へと近づけていった。
『んしょっ、と・・・。おほ、軍刀っぽくなってきたぞぉ。最後は切っ先の所か、よおし!』
かじかむ手と汗だくの顔の明石による軍刀製作は順調に進捗し、夕飯も迫る時間となるといよいよ最終工程たる剣先部の研ぎ作業にまで辿り着く。
神通が普段から話していたお話と参考書の内容も含めて明石も知ったのだが、刀剣類というのは剣先が重要らしく、その形と波紋の美しさはもちろんの事、ここには刀本来の「物を切る」という機能が最も備わっていなければならないらしい。
『うぬぅう、さすがに難しいなぁ・・・。』
明石も念入りにやってみるも、複雑な剣先の形を研磨という手段で具現化するのは大変だった。余りにそこばかりに集中してやると剣の腹の部分とのバランスが悪くなってしまう上、刃の流線は滑らかに腹の部分と繋がらなくなったりして、いかにも格好の悪い軍刀となってしまうのだ。
『うぃちっ・・・! あう・・・、指が切れたぁ・・・。』
しかも掴みにくい箇所に対して素手を接しているので手も切る。瞬時に走った激痛に思わず軍刀から離した手を見ると、明石の白い指先からは赤い一条の流れが既に滲み出していた。幸いにも傷は深い物では無く冷たいお水にずっと触れていた手前もあり、切った指先をしばらく自分で舐めているとすぐに血は止まって、明石は10分程もするとすぐさま研ぎ作業を再開する。
しかしどうにも工作に才能が無い故か、その後も何度か彼女は指を切っては舐めて止血する事を繰り返す。
おかげで剣先がなんとか彼女が手本とした包丁と瓜二つの姿となったものの、相当に苦労しながらの軍刀づくりになってしまった。
その翌日。
まだ起床ラッパもなる前の朝早い時間に明石は起きて、標的作りで大盛況となっている木工工場区画で余っていた木材を適当に漁り、それを切った張ったして長方形の鞘と軍刀の柄を作る。有難い事に参考書には軍刀の刀身だけではなく付属品の解説と製作方法も記載されており、『できたあ!』と叫んで柄のついた軍刀を鞘に収めてみるや、明石の瞳には感慨と思った以上に出来映えの凛々しい、立派な軍刀が映った。
『えへへ。我ながら良い出来〜!』
両目を輝かせてそう明石は叫び、すぐさまこの感動と友人への想いを伝えるべく、意気揚々と友人の分身たる神通艦へと向かう。波紋を整えたり、切っ先の造形に苦戦したり、指を切ったりと、軍刀作りに費やした2日間の苦労は尋常ではなかったが、まさか自分で作った物がこれ程まで立派な軍刀に化けるなど、明石は夢にも思っていなかった。まさに彼女にとっては会心の出来で、鞘と柄を作っていた事で朝ご飯を食べ逃した事も忘れて神通の下へと向かうのであった。
しかし明石の軽やかな足取りは、神通艦の甲板へと白い光を伴って現れた瞬間に止まる。その理由は明石の瞳に、目的の人物である神通と供に彼女の妹である那珂が、あろう事かなんと本物の軍刀を手にして談笑している光景が映ったからだ。
『あ、あれ・・・?』
『むう。これは海軍製作の長剣にしては業物だな。反りも厚みも十分だ。』
『やっぱりそうなの? 私、刀剣の価値って良く解からないから、神通姉さんに見てもらおうと思って。』
『ふぅむ、柄の皮も鮫皮とは本格的だな。良い物を手に入れたな、那珂。・・・お、なんだお前も来たのか、明石。』
『あ、じ、神通。おはよ・・・。』
『あら。明石、おはよう。』
突如として軍刀を手にしている友人らの姿を目の当たりにして驚愕していた明石に、神通と那珂はすぐに気付いて愛想良く朝の挨拶を投げてくる。明石は咄嗟に手にしていた自作の軍刀を背に隠し、遠めから見ても既に刀剣としての輝きと形の程度が自分の物とは段違いであった那珂の持つ軍刀をチラチラと見ながら近寄っていった。
見れば那珂が神通の前で宙に掲げている軍刀は、波紋の美しさも刀身全体の形もまさにこれぞ日本刀と言えるが如き姿となっており、柄紐で覆われた柄は木を張り合わせただけの明石の軍刀は比べ物にならず、鞘に至っては漆塗りによって放たれる漆黒の光沢がまるで宝石のようですらある。神々しいその姿はいつもの明石なれば『わぁ〜。』等と声を上げて好奇心を働かせる所だが、生憎本日の彼女には昨日以来の自信を粉微塵に打ち砕く物以外の何物でもない。
その為になんとも伏せ目がちに困った表情を浮べて明石はゆっくりと歩み寄っていき、その間際にも聞こえてくる神通と那珂のやりとりが、突如那珂が持ってきた本物の軍刀における仔細を明石へと教えてくれた。
なんでも先日にこの室積沖へと資材補給の為にやって来た運送艦は横鎮籍で、その運送艦の艦魂が横須賀在泊の那珂の師匠から彼女への贈り物として預かってきたのだという。乗組の士官が酔っ払った末に艦内にて失くしたのを海に落としたと勘違いしたらしく、なんと艦底の区画で2年近く放置されて錆だらけだったのを那珂の師匠が偶然見つけ、仲間内に頼んで時間をかけて丁寧に研ぎ直した物らしい。
『ふぅ〜ん。そ、そうなんだぁ。』
相手に合わせた中身の無い返事を返しつつ明石が間近で見る軍刀は、幾分小ぶりな日本刀だが真新しい柄紐と美しい波紋は折り紙つきで、輝き方もやっぱり明石の軍刀とは全然違う。その立派さはこれまた明石の想像以上で、自分が作った物は偽者にすらも列せられないほどの出来である事を彼女は感じずにいられない。そのくらい見てくれの差が歴然としていたのだった。
こ、こんなの見せられないよぉ・・・。
脳裏に響くそんな言葉も合わさり、ここに至って明石は自作の軍刀を贈呈する事は相当の恥を覚悟せねばならず、そも喜んでもらえる程度の品にすらもなっていない事を明確に悟ってしまう。幾分の苦労だって自分なりにしたのだが、残念ながら考えが甘かった。那珂と神通のやりとりに一応の返事を返しながら、明石はそう思って無意識の内に深い溜め息を吐く。
ところがここで明石にとって一つの誤算が働く。それは彼女自身の人柄が大変に表情豊かで己の気持ちがすぐに表情に出てしまう事、そしてそんな彼女の特徴がこの場でなんとも元気の無い表情として顔に浮かんでおり、なおかつ最も親しい友人と慕う神通がすぐに明石の落ち込む様に気付いてしまった事である。
『・・・おい、明石。どうした?』
『えっ・・・。』
『私に用があって来たんだろう? 朝から何をそんな浮かない顔をしている。それとさっきから後ろに持ってる物はなんだ?』
『うひ・・・!』
思わず軍刀を後ろ手に持って隠していた背筋が凍りつく明石の眼前で、神通は僅かに眉をひそめながらゆっくりと明石の方に歩み寄ってきた。同時に姉の声によって明石の様子に気付いた那珂もまた、振りかざしていた立派な刀身を鞘に収めて神通の後ろとなりながら明石の正面へと迫ってくる。二人とも明石が驚かせてやろうと願った対象であるが、那珂が手にする鞘まで美しい軍刀と明石が背中に隠し続けている軍刀〝もどき〟との差が、今や彼女の初期の企図と願いを完全にご破算としていた。それぐらい那珂が手にする本物の軍刀は、作りも姿も雰囲気も立派過ぎる代物であった。
そんな事から既に明石の慌てふためく思考は、背に隠した軍刀をお披露目する事で否応無く予想できる恥辱を如何に回避するかの一点のみしか考えてはいない。一向に纏まりきらない言い訳を必死に考え、神通の何気ない問いかけに対しても明石はまともに言葉を返す事が出来なかった。
『なんだそれは? 見せろ。』
『な、なんでもないよ!』
『ああん? いいから、見せろ。』
仲間内では周知の事である非常に短気な性格の神通は、明石のなんともハッキリせず、自分に対して隠し事をしているような態度が次第に腹立たしくなってくる。すぐに持ち前の釣り上がった目と口調を尖らせ、明石の肩を掴んで後ろに隠している物を眼前に晒すべく、明石の細い身体を反転させようと腕に力を込めてきた。
『わ、わぁあ! は、離してよぉ!』
明石は体の向きを変えられたが最後、そこには大いに恥ずかしい思いをする事態が待ち構えているだけに必死に神通の腕に抗うが、そも腕力においてこの人に抗おう等という彼女の選択肢は大間違いである。40キロもあろうかという重さの物体を片手で難なく持ち上げる神通の身体能力は、明石もまた友人の霞や雪風が怒られる際、まるで親猫の様に二人の襟首を掴んで片手で引き摺る神通の姿によって何度も何度も見てきた物だからだ。
『見せろと言ってるだろうが! お前何を隠してる!?』
『神通姉さん、そんなに怒らなくても・・・。』
『か、隠してなんか・・・! うぎぎ・・・!』
だんだんと神通の声の覇気が篭り出してくると、明石の抗いは逆に神通の腕力によって制されていく。そして時を置かずして神通の腕は明石の背へと回りこみ、彼女が握り締めていた軍刀を半ば強引に手に取る。
『あああ! 返せぇ!』
『黙れ! ・・・ん、なんだこれは? 軍刀か?』
『え? あら、ホント。明石、これどうしたの?』
一応は明石が手にしていた装飾など微塵もなく木製の棒状の物体を、神通と那珂は軍刀だと判断してくれる。もっとも明石は神通の突っ張った片手に頬を圧されながら四肢を振り回し、相変わらず手から離れた軍刀を取り返すべく今にも泣きそうな顔で声を荒げているが、今の今まで武具という物に全く接点を持たない明石が突如として軍刀らしき物を所持していた、事に神通と那珂は明石の意図しないところで驚いていた。
もちろんこうなっては明石の一切の抗いは無駄の一句に尽き、悲鳴にも似た明石の絶叫が放たれる傍で神通は、まるで木刀の如き木肌があらわとなった柄に手を掛けて鞘から引き抜いてみた。
『あああああぁぁ・・・!』
『・・・あ?』
『え? な、なにこの刀身・・・。』
明石の絶叫に全く意識を誘われぬまま神通と那珂が呆けた表情を向ける先、チーク材にも似た白みも強い茶色の鞘より抜かれた刀身が彼女達三人における視線の焦点となる。だがそこに現れたのは日本刀特有の反りが無く真っ直ぐで、刃渡り全域に至る波紋の波打ちも不規則で、剣先までの間に一切の湾曲が無く、刀身のほとんどが直線2辺のみで構成された奇妙な軍刀であった。
ついに隠し通せなかった自作の軍刀がこうして二人の目に触れてしまい、明石はまるで物凄く苦い薬を飲んだかのような険しい表情となりながら神通と那珂に視線をチラチラと送る。すると早くも明石の萎びた心を大いに揺さぶる言葉が、この二人からは放たれてきた。
『なんだこれは? 鯨の解体にでも使う包丁か?』
『ぐえ・・・。』
『刀、なのかなぁ・・・? なんだかこれじゃ、刺身に使う柳刃包丁のオバケみたい・・・。』
『ぐええ・・・。』
至って率直にして全く悪気の無い二人の感想も、明石にしたら辛辣の一言に尽きる批評である。
もっとも一貫して包丁と断じるその批評は別段間違いではない。そもそも明石は刀剣をよく知らない中、参考書片手に軍刀製作を行い、しかもその最中に参考とした物は主計科で使われる包丁だったのであり、刀剣と包丁の違いがいまいち理解できていない彼女は軍刀作りにあってはほぼその包丁を真似ていただけだったのだ。
『うえぇえ・・・、だから嫌だったのにぃ・・・。』
『嫌もクソも・・・。一体コイツをどうするつもりで持ってたんだ、お前・・・?』
ついに明石の丸い目からボロボロと涙が零れ落ち、彼女は親友2名の前で大恥を掻いた事に嗚咽し始める。神通と那珂にとってはいきなり泣かれてしまったような物で、この場に来た時から何やら様子が妙だった事も含めて明石の心境と考えがまるで解からず、怒りも既に静まった神通は明石が持っていた特大の柳葉包丁をジロジロと見ながらその事を問い質し始める。
明石もようやくここに至って観念し、何故に今日こうして包丁の体裁となった軍刀もどきを手にしてこの場に来たのかを、姉とは大違いで心優しい那珂がそっと背に添えてくれた手の温もりに誘われて泣きじゃくりながら説明するのだった。
出会った際に神通が10年近く大事にしていた軍刀をへし折り、それを明石もまたずっと悪いなと思っていた事。
ちょうど自身の分身において軍刀が作れそうな事情があった事。
多くの部下を率いる指揮官の手前を持つ神通へ、その指揮の象徴として是非とも軍刀を贈りたいと思った事。
その為に今日も朝早くから艦内の工作部署を走り回り、アチコチ手を切ったりしながら鞘と柄まで揃えていた事。
そしてその最後に不幸にも那珂が本物の軍刀を手にしていて、その差が歴然であった事。
ヒンヒンと鼻水も垂れた鼻から息を漏らし、那珂の相打ちと静かな返事に任せて、その洗いざらいを明石は声に変えていく。神通はその間一言も発せずに、相変わらずしかめた顔で振りかざした明石手製の軍刀を宙に掲げて刀身の歪な輝きをジロジロと眺め、虫の息となりながら明石が軍刀の仔細を語り終えるや、途端に小さな溜め息を一度放った後に口を開く。
『ふん・・・。前にいらんと言っただろうが、馬鹿者が・・・。』
『ういぃ・・・。』
散々に大恥を掻いた後の明石に返って来たのは、如何にも神通の言葉とも言うべき愛想の無い物。軍刀作りに掛けた自身の想いを耳にした今ならせめて『有難う。』の一言でも欲しかった所ではあるが、赤くなった鼻で鼻水をすする明石は神通を責める気にはならない。まともに礼を要求できる程の結果が、神通が眺めている自作の軍刀には欠片も見出せないからだ。
おまけに長く神通を直視できずに視線を下ろすと、偶然にも自身の脚の傍には那珂が手にしている見事な作りの立派な軍刀が視界に入ってくる。よく見れば那珂が手にする軍刀は金色の金属によって随分と凝った装飾が施されており、柄の部分はもちろん、漆の黒光りが麗しい鞘にあってもどこが手を触れて良い部分なのか解らない程である。
これが本物の軍刀、なのかぁ・・・。
冬空の乾燥具合とはうって変わった湿っぽい顔で唇を噛み、明石は耳にする事も多い軍刀という得物の実態を思い知る。そしてその余りにも歴然とした差が次第に明石には見るのも辛くなり始め、目尻に溜まった涙が頬を伝うのと同時に神通の袖へと咄嗟に両手を伸ばす。
『ちょ、ちょっと明石・・・。』
『もう良いでしょ、神通・・・! もお返してよぉ・・・!』
『ああ? なんだ?』
『こんなの折って海に捨てちゃうよ・・・! 返してよぉ!』
『ふん・・・。』
神通の腕にしがみ付いて大きく揺さぶりながら明石は叫ぶ。比較対象が延々と自身の眼前にあるのが我慢ならず、上下の下の方と明確に格付けできる自作の軍刀を彼女はすぐにでも葬り去りたかった。そうすればとりあえず友人への想いだけが残る訳で、次はもっとちゃんとした代物を贈ると弁明するつもりであった。
ところが先程からずっと明石の軍刀を眺めていた神通には、そんな明石の恥辱にまみれた心と思考が出した選択肢に同調するつもりなど微塵も無い。それは耳元で喚く友人を静める為か、それとも明確に明石の心に応えようとしたのか、僅かに吊り上がった神通の口元より放たれた一喝によって示される。
『返して・・・! ねえ、返し─!』
『黙れぇえ!!』
『ひぅ・・・!』
再び腹の底から怒号を放って明石を黙らせる神通。なんとも出来の悪い軍刀を贈られようとしていた事と再三の懇願が煩わしかったのか、友人の短い怒りの導火線にまたしても火を灯してしまったと明石は慄く。部下だろうが上官だろうがこの一喝で神通が黙らせてきたのを、明石はこれまでの彼女との付き合いで何度も何度も目にしてきたのだ。加えて怒った際の神通のクセも知っている明石は、手にした軍刀を眺める神通の様子が僅かに顎を引いて、上目遣いとなっている事にもすぐに気付いてしまう。それはこれまで何度も目にした友人の、ご立腹の姿その物であった。
しかしそんな明石の友人に対する考察が間違いである事を、この時、那珂だけは神通の僅かに緩んだ唇を目にして悟る。神通は決して、明石の態度や軍刀を捨てると泣き叫ぶ行動に腹を立てた訳ではない。それどころか彼女は事の真相を耳にし、自身の想いが形となった軍刀が余りにも理想と現実から離れ過ぎていた事を詫びようとする明石の姿に、怒りとは間逆の感情を抱いていたのだった。
『・・・ふん、馬鹿者が。また他人の軍刀を勝手に壊す気か、お前は。』
やがて尖った声色を変えずに放ってきた神通の言葉に、鼻水を垂らしたままの明石は小さく驚いて顔を上げる。対して神通は明石と目が合うや、酷い有様である明石の顔を笑うかのように大きく口元を吊り上げ、少しだけ体の向きを変えて誰も居ない甲板の宙に手にした明石の軍刀を片手で勢いよく振り回してみせる。
『じ、じんつぅ・・・。』
『軍刀だろうが何だろうが、刀という物は本質的に人斬り包丁でしかない。そういう意味ではお前が包丁を真似たのは別に間違ってはいないさ。』
一月の乾いた冷気を切り裂く鋭い音が木霊する中、明石に横顔を覗かせてそう言った神通はブンブンと振り回す白刃が陽の光を受けて輝く様を確かめながら、腕だけで振っていた軍刀の舞に次第に力を込め始めていく。そして明石や那珂の下から数える程の歩を進めて離れていくや、突如として身体を大きく捻ったか思うと大声を放って眼前の空気を横に一閃した。
『・・・ずぇやああぁっ!!』
『うっ・・・!』
『ふぁ・・・!』
刹那、まるで神通の渾身の斬撃によって切り倒された風が倒れるかの如く、神通艦の甲板を冷たさと勢いが一際増した潮風が吹きぬけていく。那珂や明石の黒髪を大きく舞い上げ、甲板上空にあるマストに繋がれた空中線が鞭打ち、艦尾旗竿にて萎びていた軍艦旗も千切れるそうに見える程にバタバタと音を立てて翻る。まさに神通の一撃が空気を倒したかのようで、轟々たる風の勢いが治まっても尚、風に撫でられた乾舷下の水面だけはしばらくの間ざわめきを抱えていた。
そしてようやく髪の揺れも静まった明石と那珂が瞳を向ける先にて、居合いのような構えで身構えていた神通は、長い時間をかけて息を吐きながら姿勢を元に戻した後に静かに呟く。次いで那珂が問い掛けた事への返答として返された言葉は、明石が精魂込めて作ったその刀を神通は立派な刀剣として認め、自身の物として受け取ってくれた事を意味していた。
『・・・一度だけ見た事があるが、これは朝鮮刀と似た形をしている。ま、本来の朝鮮刀は片手で使うように短い柄になってるモンだが、艦橋の上で振り回す私達艦魂にはこれで十分だ。』
『ちょ、朝鮮刀・・・?』
『そうだ。だが長さも刀身のバランスも、これが私には調度良い。所詮、軍刀も含めた指揮刀というのは人斬り包丁の出来損ないでしかない。どうせ海の上でなら日本刀の作りをしていようが朝鮮刀の作りをしていようが、錆や塩害といった劣化現象からは逃れられん。その意味では刀剣としての価値よりも使い易さで如何に優れているかが重要だと私は思うが、これはその点では良く要点を抑えた業物と言っても良いだろう。だからこれは私が使う。私はこれが良い。おい明石、文句は無いな?』
鋭い釣り目を白刃と同じ様に輝かせながらも、神通は小さな笑みを明石へと向けてそう言った。那珂以上に刀剣の知識が深い筈の彼女は明石の作った軍刀を大層気に入ったらしく、すぐに明石から笑みを戻すと今度は軍刀の波紋を確かめるようにしてまじまじと眺め始める。もちろんそこにある波打ちの荒々しさ、粗雑さが目立つ波紋に神通は笑みを崩さず、それは挫折しかけていた心を救われた明石が感激の余り再び涙と鼻水で顔を湿らせ、思わず神通の元へと走り寄ってきて袖を掴んできても尚、変わる事はなかった。
『馬鹿者が、何故最初から素直にくれてやると言わんのだ?』
『うえぇえ・・・、だ、だってぇ・・・。』
唯一変わらないのは、短い罵倒の言葉を口癖とする神通の厳しさが滲む物言い。もっともそれすらも今の明石にとっては、一番の仲良しが一切の気を使わずに極めて率直に友情に応えてくれた事の証明のようにも思えてくる。故に明石は神通の袖で鼻水を拭う格好となるのも構わずに友人の腕に顔を埋め、那珂が今また朗らかな笑みを浮べてそっと見守る前で、神通は明石の苦労を労う言葉を掛けてやるのだった。
『ふん。まったく見縊られた物だ。一生懸命作ったからやるとお前が言って、私が不恰好を理由にいらんと放り出すとでも思ってたのか? ああ?』
『ご、ごめん〜・・・。』
こうして明石が多くの苦労と想いを織り交ぜて作った軍刀〝もどき〟は、晴れて神通所有の指揮刀として日の目を見る事になる。翌日より始まった二水戦単独での戦隊教練において早速彼女はこの刀を振り回し、右だ左だと号令を掛けて新年一発目から大いに気合の入った戦隊教練となった事を、明石は神通の部下である霞や霰、雪風らからささやかな愚痴として耳にする事が出来た。
特に従兵役として仕えている霰より聞いた所によると神通は毎夜毎夜寝る前に必ず、以前に軍刀を持っていた時より所持していた手入れ道具を引っ張り出しては、明石の作ってくれた朝鮮刀の手入れを念入りに行っているのだそうである。しかもまた質の悪い事に唯でさえ帝国海軍随一の〝歴女〟っぷりを人柄として彼女は持つ事から、これまで霰が些か困りながらも戦国時代のお話に耳を傾けなければいけなかったのに加えて、ここ最近は刀剣愛好家のお熱も盛んになってきたみたいで、『古来は打刀と言って、日本刀とは明治の頃から生まれた呼び名。』とか、『峰打ちとは芝居の成せる技で、真剣でやったら折れる。』とか、『私が生まれる僅か3ヶ月前の関東大震災で、新撰組局長として有名な近藤勇所有の刀が燃えてしまった。一目見てみたかったなぁ。』等々、相も変わらず濃すぎる趣向と知識が盛り沢山の有難いお話を霰は夜遅くまで聞かされるハメになっているらしい。
細い糸目の下にクマを薄っすらと作った霰が、相次ぐ周防灘で続けられる戦隊教練とそんな従兵事情を教えてくれた際は、さすがに明石も気の毒だと少し思ったが、それだけ神通が自分が作った軍刀を大事に扱っているんだなと思うと素直に嬉しかった。
そして戦隊教練の合間を縫って室積沖に二水戦が戻ってくるや、神通は明石が軍刀を作る際に折ってしまった素材を集めて明石のお手伝いを受けながら研削盤を動かし、脇差や短刀を自分で監修しながら作り始める。
またぞろ『戦国時代の主従は脇差を渡す事で関係を築いた。』等と明石にはよく解からない刀剣のアレコレを語られてちょっと困ってしまうが、以前にも増してお互いによく心を通い合わせた二人によって作られた何本にも及ぶ刀剣類は、ともすれば傷付ける事を即座に連想させるその白刃に、不思議となんとも温かで優しげな輝きを浮かび上がらせて出来上がるのであった。
出張の予定が随分変わってようやく更新となりました。
本来であれば同時に掲載していた110話もついに出来上がらないままとなっておりますが、とにかく急いで次回の更新ができるよう頑張ります。